今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キリストの血入門 39

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第39回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はスコットランド宗教改革の指導者であり、長老派教会の創立者であるジョン・ノックス(John Knox)でした。今回は舞台をスイスに移します。今でこそスイスはヨーロッパでも重要な国の一つになっていますが、12世紀末までは神聖ローマ帝国の辺境地でした。13世紀になって南北を貫通する街道の開通により、交通の要衝として重要な地域になっていきました。そうなると一転して戦略的な価値のある地域として、帝国直属という地位を得ることになりました。それとともに、その後はヨーロッパ有数の軍事力を持つまでに発展し、イタリア戦争では、1513年のノヴァーラの戦いでフランス軍を大敗させるほどにまでなりました。結果的には1515年のマリニャーノの戦いで敗れ、イタリア方面への進出は途絶えましたが、宗教改革前夜ともいうべき時代には、重要な地域であったのは間違いありませんでした。

     

    そんなスイスで、ルターと並ぶ宗教改革の初期の代表的な人物が現れました。ルターと比べると知名度は圧倒的に低いといえますが、フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)です。彼が現在まで残したものは、信仰告白、礼拝、教会などの随所に数多くあります。彼はルターと共通することが多いものの、決定的に異なる部分があり、対立関係にまでなりました。

     

    フルドリッヒ・ツヴィングリは、ウィーン大学とバーゼル大学で宗教学を学びました。1506年の22歳のとき、グラールスの主任司祭となりましたが、フランス軍の徴兵活動に抗議して、グラールスを去りました。1518年にチューリッヒ司教座聖堂の説教師となり、このときから聖書の原典研究に傾倒していきました。いわばキリスト教の原点回帰ですが、当時のカトリック教会の状況は原点とは大きく異なることに疑問を抱くようになりました。そのような中の1519年に、ベルナルディノ・サンソンという説教師を批判したことで、大きくその後の人生を変えました。ベルナルディノ・サンソンはコンスタンツ大司教の許可なく贖宥状の販売をしていたのでした。サンソンはローマ教皇より職を解かれることになったものの、ツヴィングリはカトリック教会への信頼度が大幅に低下していました。さらにキリスト教の信仰は「聖書」によるものだけと考えました。まさにこの点はルターと同じでした。キリスト教そのものを大きく刷新するための運動へと進み、同時にこれは宗教改革という範囲ではなく、社会そのものの変革まで目指すものでした。この運動はチューリッヒで大きな影響を与えることに繋がり、彼はさらにチューリッヒの参事会に、聖書に根拠のない全ての教会制度を破棄することを呼びかけたのでした。

     

    チューリッヒは、二つに分かれました。カトリック教会支持派とツヴィングリ支持派に対立構造です。この対立は数年にわたり、最終的にツヴィングリ派が勝利しました。カトリック教会を支えていた教皇制度が否定され、聖職位階制度というヒエラルキーも廃止されました。さらに教会にあった聖画や聖像という信仰と直結するものですら破壊されました。偶像崇拝に繋がるものを否定したのでした。ただし、ミサについては、カトリックの形式は残しました。これをすぐに全廃すると一般信徒への悪影響があると判断したようです。そのうえで、改革の進行にあわせて、1525年にミサを廃止しました。このミサに代わるものとして、自ら考案した「主の晩餐」の式を行うようにしました。さすがに改革が進んだとはいえ、一般信徒にとっては、この変更の衝撃度は相当だったようでした。ツヴィングリからすれば、ミサの変更にまで至ったことが、チューリッヒでの宗教改革が完成したことを意味したのでした。

     

    チューリッヒで完成した宗教改革について、ツヴィングリは、他の都市にも拡大させようとしました。しかし、ここで大きな問題が生じました。ルター派との対立でした。ルターとツヴィングリは、カトリックを否定し、共通する部分も多くありました。しかし、恩寵や聖餐の解釈の問題では対立関係になってしまったのでした。ルターが神の選びだけがすべてだとしていましたが、ツヴィングリは神の選びとは、恩寵も含め、人間の態度も影響を及ぼすと考えたのでした。さらに決定的にしたのが聖餐論でした。聖餐論とは、聖餐とは聖体のことで、このサクラメント(秘跡・機密・礼典・聖奠)に関する教義上の捉え方に対して神学的に議論するものです。ツヴィングリは聖体を単なる象徴と考えていました。しかし、ルターは共在説を唱えていました。この共在説はルターによって提唱された説で、聖餐でのパンとワインの聖別で、カトリックの教理で定める聖変化(transsubstantiatio)を認める説に対して、パンとワインの実体は変わらず、パンとワインの実体と共にキリストの体と血の実体が共に現存するという説です。この二人の考え方の差は両極端ともいえるもので、決定的な対立関係に至ったわけです。

     

    それでもツヴィングリとルターを和解させようと考えて会談の場を提供した人物がいました。ヘッセン方伯フィリップでした。彼はカール5世を倒すためにプロテスタントによる大同盟を結成しようと考えていたのでした。そのために両巨頭の支持者を団結させることが近道と考えたのでした。そして、1529年10月、ツヴィングリとルターの2人はマールブルクで対談を行ったのでした。結果は決裂で、物別れに終わりました。

     

  • ザラフシャン(Zarafshon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はザラフシャン(Zarafshon)について勝手に語ります。「赤い砂」を意味するキジルクム砂漠(Kyzyl kum)にある都市で、この砂漠には紀元前1世紀頃から5世紀頃にかけて築かれたホレズム王国の城塞跡が点在することでもしられています。また、ザラフシャンは「ウズベキスタンの黄金の都」と称され、最高純度の金の採掘が行われ、ウラン鉱業まで手がけるウズベキスタン最大の企業ナヴォイMMCが拠点にしている都市です。

     

     

    ザラフシャン(Zarafshon)は、ウズベキスタンのナヴォイ州にあり、人口は約6万5千人程です。周囲をキジルクム砂漠(Kyzyl kum)に囲まれ、というより砂漠の中にあり、水は220kmにまで達するパイプラインをアムダリヤ川(Āmū Daryā)から引いています。この川は、中国の文献では媯水や烏滸河となっていて、古代ギリシアの文献では「オクソス(Ὦξος、Oxos)」、ソグド語では「ワフシュ(wxwšw)」、ペルシア語では「アームー」、アラビア語で「ジャイフーン川」となっています。これだけ多くの言語で表記されるほどの、神聖な川という側面もありました。このアムダリヤ川によって流れ込んできた大量の川砂により、キジルクム砂漠が形成されたともいわれ、自然の力を見せつけていることは間違いなく、それが神格化したとも考えられそうです。

     

    数千年の間にアムダリヤ川の流路は何度も変わりました。それがこの地域の歴史を変えることにも繋がりました。川の流れがの変化が激しくなると、人々は川の変化にあわせて城を造り替えていきました。その結果、下流域には多くの都城跡が残されています。10~13世紀にホラズム王国の首都として栄えたウルゲンチ(Urganch)は、17世紀にアムダリヤ川の流路が変わると、繁栄地域が南東150kに移り、ヒヴァが繁栄し、中心地が変わったことで、ヒヴァ・ハン国が誕生したということもありました。

     

    【参考ページ】
    ウルゲンチ(Urganch)

     

    また、アムダリヤ川によって中央アジアが2つに分けられ、北方の遊牧民と南側の地元住民を隔てる国境の役割も果たしてきました。これはイスラム時代でもホラーサーンとマー・ワラー・アンナフルの境界線になり、19世紀にはグレート・ゲームで、ロシア帝国と大英帝国の境界となりました。ソ連時代には共産圏とそれ以外の境界ともなりました。

     

    キジルクム砂漠は、荒涼とした風景になっていますが、砂の砂丘が続いているとは限らず、背丈の低い草も生えていたりします。ただ荒涼として雰囲気が漂うのは、石や岩が転がっているからかもしれません。当然ながら植物に優しい気候ではなく、頭上の太陽は容赦なく照りつけてきて、熱線の量は痛いくらいに激しい地域です。人間の生活圏としては最悪な環境で、ただ立っているだけで命の危険も感じるような場所といえます。こんな荒涼とした砂漠の中に、古代ホレズム王国の都城跡が残っているのは、何とも不思議な感じがします。アムダリア川の流れが変わるたびに、城塞が川の近くで新たに次々よ建築されたことにより、多くの城塞が残っているというのも自然の偉大さを感じさせます。しかも城壁は日干し煉瓦で造られたため、砂漠地帯で降水量が年間100mmもないことから、遺跡として保たれているのもすごいことといえます。

     

    都市としてのザラフシャンは、ホレズム王国の都城跡へ向かうための拠点ではありませんが、周囲のキジルクム砂漠の中で、ここだけが黄金やウランという経済的に繁栄さえる「宝箱」を持った稀有な場所です。実際に行くのは大変なので、自宅で静かにワインでも飲んで、こんな都市を思い浮かべるのが良い気がします。

     

     

  • チャコヴェツ(Čakovec)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチャコヴェツ(Čakovec)について勝手に語ります。以前にクロアチアのワインの飲み方をご紹介したことがあります。「ゲミシュト(gemišt)」、「べヴァンダ(bevanda)」、どちらかの飲み方で、チャコヴェツの街を想像して頂けたらと思います。

     

     

    クロアチアは、首都のザグレブ(Zagreb)を除くと大都市がありません。のどかな地方都市が多いといえます。今回ご案内するチャコヴェツ(Čakovec)も人口が3万人程度の規模で、北部にある都市です。ムール川とドラーヴァ川の間に位置しています。工業だけでなくブドウ栽培も盛んで、良質なワインが生産されています。 GDPではクロアチア国内のベスト10に入っています。

     

    チャコヴェツはかつて沼地が広がる場所だったといわれています。「濡れた町」を意味する「アクアマ(Aquama)」と呼ばれ、軍事関連施設のある場所だったようです。木造の要塞が築かれたのは13世紀になってからで、ディミトリウス・チャーキ伯爵(Dimitrius Csáky)によるものでした。この伯爵の名が由来となって都市名となりました。この要塞の塔がチャーキ塔(Čakov toranj)でした。1350年から1397年の間はラッコヴィッチ家(Lacković)が領有し、1547年以降になってから都市としての発展期になりました。経済面だけでなく、文化的にも繁栄していました。城に装飾された彫刻や、庭園などで華やかな都市になりました。

     

    チャコヴェツが自由都市となったのは1579年5月29日でした。これはデューク・ユライ5世により、チャコヴェツの要塞とその周辺地域での居住を認めたことから始まりました。この5月29日はそれ以降、都市記念日となりました。16世紀から18世紀の間は城主がズリンスキ家で、これが現在のズリンスキ旧市街(Stari grad Zrinskih)となっています。

     

    18世紀から19世紀にかけては、地震や火災などの被害が街を襲いました。それでも復興し、工業は発展し、商業も活発化していきました。19世紀後半らは鉄道も開通し、ブダペストやトリエステなどと結ばれました。

     

    【参考ページ】
    ヴァラジュディン(Varaždin)
    コプリヴニツァ(Koprivnica)
    プーラ(Pula)
    スラヴォニア(Slavonija)
    フヴァル島 (Hvar)
    ペリェシャツ半島(Pelješac)
    ソムリエ試験過去問から(クロアチア編)

     

  • 分離動詞(Trennbare Verben)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は分離動詞(Trennbare Verben)です。なじみのない方が多いでしょうが、ぜひ自宅でワインでも飲みながら、少し頭の体操をして頂きたいと思います。

     

     

    今回は再帰動詞に続いて取り上げるものですが、再帰動詞と違って、知っている範囲では、ドイツ語とオランダ語だけでした。調べてみるとフリース語にもあり、さらにハンガリー語にもあるそうです。再帰動詞ほど一般的でないですが、ぜひ、知って頂きたいと思っています。

     

    【参考ページ】
    再帰動詞(reflexives Verb)
    mein-deutschbuch.de

     

    ドイツ語が分かる人なら、説明不要の分離動詞ですが、英語にはないため、説明するのが面倒くさい印象にもなります。そこでまず、Wikipediaから引用させて頂きます。

     

    分離動詞とは、基本的な動詞語根と付加的な語根から構成される派生動詞で、二つの語根(形態素)が場合により、結合(付加的形態素は接頭辞あるいは「前綴り」となる)されたり、分離(不変化詞)されたりして用いられるものを言う。不変化詞動詞ともいう。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

     

    おそらく、これではドイツ語学習者でも何だかわからないのではないでしょうか。こんな難しいことをドイツ人やオランダ人の子どもは理解しているのか、と疑問に思うかもしれませんが、おそらく理解していないでしょう。慣用的に使っているので、改めて定義すると、このように難解になってしまっただけだと思います。

     

    最も簡単にいうと、分離動詞は文字通り、単語が分離、つまり分かれる動詞のことです。これでもイメージができにくいかもしれませんので、具体的なもので説明します。「Ich fahre morgen sehr früh ab. 」の中で、「fahre」は「ich」という人称に対する変化を外せば「fahren」で、文末にある「ab」と一緒で一つの単語になります。つまり本来の単語は「abfahren」です。この文の日本語訳は「私は明日とても早く出発する」になり、「abfahren」は「出発する」という動詞になります。次は「Sie macht die Tür auf.」で、分離動詞は「macht(machen)」と「auf」で、「aufmachen」、意味は「開ける」です。文章の日本語訳は「彼女はドアを開ける」となります。

     

    このように単語の最初の部分の「ab」や「auf」が文末へと分かれていき、残った「fahren」や「machen」は本来の動詞の位置にきます。なので、普通に動詞が機能している、ごく普通の文章の文末になぜか前置詞だけがポツンと現れるようなイメージです。なので、文法を知らなくても、もっといえば分離動詞という存在を知らなくても、文末に名詞を伴わない前置詞がくることで、動詞の意味が変化することを経験的にマスターできるわけです。もっと具体例を出していきましょう。

     

    Wann kommt dieser Zug in Berlin an?
    分離動詞は「kommt(kommen)」+「an」で「ankommen」。日本語訳は「この電車は何時にベルリンに着きますか?」

     

    Meine Mutter gehet jeden Tag spazieren.
    分離動詞は「gehet(gehen)」+「spazieren」で「spazierengehen」。日本語訳は「私の母は毎日散歩している」

     

    分離動詞でも分離しない場合もあります。

     

    Sie müssen in Hamburg umsteigen.
    分離動詞は「umsteigen」で、ここでは分離しません。日本語訳は「あなたはハンブルクで乗り換えないとならないです」

     

    この「umsteigen」も、本来は「um」+「steigen」と分離しますが、「müssen」という助動詞が動詞の位置に来たため、ドイツ語特有の動詞が文末に移ることから、分離動詞分離した状態と同じ位置に揃ってしまったため、分離しなくなったわけです。

     

    このような使い方をどのように捉えるのが良いでしょうか?
    もともと結合していた単語が、ある条件で分離するようになった、と考えるのが一般的かもしれません。おそらく日本のドイツ語の教科書では、このようなニュアンスで書かれているかもしれません。大学の第二外国語ではそのように教わった記憶があります。しかし、実際にドイツ語を使うようになってみると、この捉え方には違和感しかありません。どちらかというと「fahren」という動詞に「an」という要素が加わり、密接に結びつくことにより、一つの概念としての「abfahren」が生まれ、それを定動詞が2番目に位置するようになったとき(V2語順)、本来の動詞の「fahren」だけが移ったいう印象です。これには少し説明が必要で、もともとドイツ語の動詞は日本語と同じように文末にあり、それが2番目に移りました。英語と同じスタイルになりました。その過程で、このような概念と単語の関係が生じた気がします。逆にこれに慣れると、むしろ英語より理解しやすい気もします。おそらく、もともとが日本語と同じような語順だったことも影響しているのかもしれません。助動詞を使ったときの動詞の位置にも、その名残があり、これも日本人には向いています。

     

    文法で考えると、分離動詞はかなり難しく感じますが、日本人にはドイツ語をそのまま理解しようとしたら、分離動詞は決して難しくなく、むしろ英語より馴染みやすいと思います。もちろん全くの私見です。でも日本のドイツ語教育が難しくしているのは事実の気もします。ワインでも飲んで考えましょう。

     

  • ジロカストラ(Gjirokastër)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジロカストラ(Gjirokastër)について勝手に語ります。

     

     

    アルバニア国内でギリシャ人コミュニティーの中心都市といわれるジロカストラ(Gjirokastër)は、旧市街が世界遺産に登録されています。その街並みはオスマン帝国時代のもので、多くの歴史的に貴重な遺産が残されています。そのためイスラム教とキリスト教が同居していて、十二イマーム派の分派であるベクタシュ教団(Bektashism)では、中心地となっている一方で、アルバニア正教会の教区も置かれています。

     

    ベクタシュ教団はオスマン帝国で発展し、バルカン半島でイスラム教化を推進させましたので、アルバニアのジロカストラが中心地というのも頷けます。しかし、繁栄は第二次世界大戦までで、共産主義政権のもとでは教団への締め付けが厳しくなり、1967年には完全に禁じられた宗教となってしまいました。東西冷戦が終わった1990年には禁教が解禁され、それ以降に再建となりました。そのため、信徒の共同体が現在でもあるわけですが、往年に繁栄から見ると、かなり小規模になりました。

     

    そんなジロカストラですが、傾斜地に街が広がっています。3世紀に築かれた城塞が囲み、街の建物はオスマン帝国時代のものが並んでいます。石のブロックをかなりの高さまで築き、いかにも防御に適した建築物が並んでいます。そのため、ジロカストラが「石の町」といわれるほどです。これはまた、20世紀の近代化計画から保護されることにもなりました。

     

    オスマン時代の古いバザール(bāzār)でも知られています。住宅地から独立し区画で、商店が密集していて、しかも屋根を持つことから、日本ではアーケード商店街となります。ジロカストラのバザールは17世紀に建てられましたが、19世紀に火災で焼失し、再建されたものです。モスクは1757年に建築されたものです。

     

     

    ジロカストラは古い都市ですが、最初に公的な史料に登場したのは1336年でした。このときはギリシャ語表記でアルギロカストロ(Argyrokastro)でした。東ローマ帝国の支配地域でした。それがジロカストラ公国の中心的な都市となり、その後、オスマン帝国に支配されました。バルカン戦争では、ギリシャ軍に占領されましたが、次にアルバニアの領地となりました。これが地元のギリシャ人たちの反発を生み、ゲリラ戦が展開される事態になってしまいました。この結果、北エピルス自治共和国が成立し、ジロカストラが首都となりましたが、これも最終的にアルバニア領となりました。20世紀末のアルバニア暴動の影響も受けました。

     

    アルバニアは日本人に馴染がないため、バルカン半島の複雑な歴史や、オスマン帝国の影響など、あまり詳しくはないと思います。しかし、ここもヨーロッパであり、もう少し注目しても良い地域だと思います。

     

    【参考ページ】
    アルバニア共和国(Republika e Shqipërise)
    ティラナ(Tiranë)
    ドゥラス(Durrës)
    ブトリント(Butrint)
    ポグラデツ(Pogradec)

     

  • ナイアガラ地域(Regional Municipality of Niagara)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナイアガラ地域(Regional Municipality of Niagara)について勝手に語ります。

     

     

    ナイアガラの滝で有名なカナダのオンタリオ州ナイアガラ地域(Regional Municipality of Niagara)は、カナダを代表するワイン産地です。 トロントからは車で約1時間半程度で行くことができます。ここはナイアガラ半島で、丘陵地が広がりますが、傾斜はゆるやかで、ここにブドウ畑があります。オンタリオ湖を臨む景勝地でもあり、豊かな水に囲まれた湖を見下ろすブドウ畑から、上質なワインがつくられています。ナイアガラの滝だけでなく、ここまで足を延ばして、のんびりとワインを楽しむのも良い場所です。

     

    この地域でのワインといえば、アイスワインが最も有名といえます。世界最大のアイスワイン生産量を誇るワイナリーがあります。そのワイナリーはナイアガラ川がオンタリオ湖に流れ込む河口にあるナイアガラ・オン・ザ・レイク(Niagara-on-the-Lake)にあります。川の対岸はアメリカで、ニューヨーク州のヤングスタウンになります。ナイアガラ・オン・ザ・レイクはイギリスの植民地だった頃のアッパー・カナダ(Upper Canada)で、最初に総督官邸が置かれた場所です。この時代は、公式には1791年から1842年までで、アッパー(Upper)は、川の上流という意味が由来だといわれています。そのため、このイギリス植民地時代に建てられた建物はイギリス的な雰囲気がそのまま現代まで残っています。また、演劇の街として知られ、毎年4月から11月の間、演劇祭「ショー・フェスティバル(Shaw Festival)」が開催されます。アイスワイン、ナイアガラの滝と並んで、世界的な観光地となっています。

     

    アイスワインといえば、ドイツのアイスヴァイン(Eiswein)が知られていますが、生産量ではナイアガラ地域がドイツを上回っています。カナダのほうが気候的に冷涼な気温が安定しているため、品質についても本場のドイツを上回るほどの評価を受けています。しかし、昨今の地球温暖化は、アイスワインにとって悲劇を招いているといえます。温暖化による気温上昇で、ブドウが凍結しにくくなる状態が続いています。2019年ヴィンテージでは史上初めて収穫できなませんでした。冷蔵庫を使って人工的にブドウを凍らせる氷結ワインは、地球温暖化の影響を受けませんが、やはり、自然の恵みで味わいたいものです。

     

     

  • コジモ3世・デ・メディチ(Cosimo III de’ Medici)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコジモ3世・デ・メディチ(Cosimo III de’ Medici)について勝手に語ります。

     

     

    メディチ家出身の第6代トスカーナ大公がコジモ3世・デ・メディチ(Cosimo III de’ Medici)です。コジモ3世を語るのに、キリスト教の信仰を外すわけにはいきません。それはキリスト教の異端を取り締まったり、反ユダヤ的な政策などにも関係してきました。ただ政治には興味がなく、メディチ家といえば芸術家のパトロンとしても有名ですが、それもなかったようです。当時としては長寿で、81歳まで生きました。そのため、政治能力がない状態での53年も在位だったことから、メディチ家やトスカーナ大公国は衰退していきました。

     

    そんなコジモ3世ですが、ワインに関して1716年に大公令を発しました。トスカーナで最も優れたワイン生産地域を4つに定めたのでした。その中でカルミニャーノ(Carmignano)は、他の地域のワインに「カルミニャーノ」の名称を使用することを禁ずることにしました。生産地を法的に保護したわけです。このカルミニャーノは、イギリスのアン女王が定期的に出荷要請していたことで知られるワインです。

     

    コジモ3世の妻は、マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス(Margherita Luisa di Borbone-Orléans)で、フランス語名はマルグリット・ルイーズ・ドルレアン(Marguerite Louise d’Orléans)です。1652年にコジマ3世と婚約し、1661年に結婚しました。政略結婚です。彼女はルイ13世の弟であるオルレアン公ガストンと、2度目の妃マルグリット・ド・ロレーヌの娘ということで、華やかな宮廷育ちでした。しかも性格的には奔放なことから、キリスト教への信仰に篤いコジモ3世とでは、結婚生活がうまくいくはずはありませんでした。それでも二人の間に3人の子をもうけ、彼女は1675年に夫と子供たちを置いてフランスに帰国してしまいました。

     

    このコジモ3世とマルゲリータの結婚を画策したのは、ジュール・マザラン(Jules Mazarin)でした。イタリア語名はジュリオ・マッツァリーノ(Giulio Mazarino)です。イタリア人でしたが、1639年にフランスに帰化し、1641年にルイ13世の推挙により枢機卿に就任しました。 そしてリシュリュー、ルイ13世が相次いで死去すると、摂政となりました。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹のアンヌ・ドートリッシュ(Anne d’Autriche)の相談役となり、同時にルイ14世の教育係となりました。実質的な宰相だったといえます。政略結婚では、コジマ3世だけでなく、1660年にルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズ(マリア・テレサ)との結婚も実現していました。

     

  • 汎ヨーロッパ・ピクニック(Paneuropäisches Picknick)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は汎ヨーロッパ・ピクニック(Paneuropäisches Picknick)について勝手に語ります。

     

     

    1980年代初頭、東西冷戦は一触即発に近い状態にまでなりましたが、80年代も後半になると、状況は大きく変わりました。ソ連の衛星国だったポーランドやハンガリーでは民主化への流れが蠢動し、ソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカが今までの方向性を変えていました。その一方、東側世界で最も工業化に成功していた東ドイツでは、周囲の各国とは関係なく、マルクス・レーニン主義を実践するドイツ社会主義統一党書記長のエーリッヒ・ホーネッカーが権力を握っていました。国家保安省(シュタージ)という秘密警察により、国民の監視と締め付けが強い時代でした。東ドイツの場合、西側で経済先進国となった西ドイツへの対抗意識が強く東欧の改革という動きとは一線を画していたのでした。

     

    1989年夏、ハンガリー。
    かつてこの地を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国で、最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクは、デブレツェンの大学に行きました。ここで講義を行い、そのあとに歓迎会が開かれました。その歓迎会の中でメサロシュ・フェレンツが、ある冗談を言いました。デブレツェンには、ハンガリーの民主化を求める民主フォーラムが多くあり、彼はその活動家でした。彼は、ハンガリーが共産主義という名の鉄のカーテンから、解放されたことを祝おうと言ったのでした。歓迎会に参加していた他のメンバーは、その冗談に対して、本当に国境を超えることができるアイデアを出し合うことになりました。

     

    その中の一人のアイデアが、ピクニックだったのでした。オーストリアとハンガリーの国境へピクニックに行き、バーベキューを行い、ハンガリー人とオーストリア人が、国境のフェンスを囲んで食べ物を交換し合うのはどうか、というものでした。これにより東西を分断している国境線という壁が、地理的、歴史的に全く意味のない事実を世界に示すというものでした。確かにオーストリアとハンガリーは世界大戦まで同じ国家であり、ハプスブルク家の支配が影響する地域として同一だったというのは事実です。ただし、あくまでこのアイデアは、歓迎会での冗談でしかありませんでした。

     

    しかし、民主フォーラムに参加していたフィレプ・マリアは、これを冗談ではなく、本当に実行することを提案したのでした。しかもすぐに準備を始めたのでした。これが1989年8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックになったのでした。ここに東ドイツの国民が到着し、国境を越え、661人がオーストリアへ入国することに成功したのでした。その後も8月には、3000人にまで達していました。ホーネッカーは、西ドイツのテレビ中継でこのピクニックを見ていました。すぐにハンガリー特命全権大使に激しく抗議し、東ドイツ市民を強制送還するよう要求したのでした。しかし、ハンガリーはこれには応じなかったのでした。

     

    この歴史的なピクニックがおきた場所がショプロン(Sopron)でした。

     

     

  • ブキッ・ビンタン・ブルース3(Bukit Bintang Blues 3)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は特別編です。ドイツから日本への帰国途中にクアラルンプール(Wilayah Persekutuan Kuala Lumpur)に寄ったときの思い出での3回目です。

     

     

    東西冷戦を象徴するベルリンの壁が壊れ、悲願の東西ドイツ統一を達成したドイツでは、場所によってはお祭り騒ぎのところもありました。逆に冷静に受け止め、厳粛な気持ちで再統一の喜びを感じていた人もいました。そんな再統一を見届け、やがて秋も深ったとき、マレーシアへと立ち寄りました。首都のクアラルンプールについて、全く無知な状態で、街を徘徊し、一人のマレー人主婦と知り合いました。彼女はハンブルクのレーパーバーンで働いていた過去を持っていました。衝撃的な話の内容に、ある種、動揺することにもなりました。

     

    その話を聞く前、スルタン・アブドゥル・サマド・ジャメ・モスク(Masjid Jamek Sultan Abdul Samad)を訪れていました。宿泊地のブキッ・ビンタン(Bukit Bintang)から徒歩で行きました。クアラルンプールで最も古いモスクのひとつであり、キリスト教関連の聖堂や教会、修道院などが日常にある身だったことから、かなり興味深い場所でした。クラン川とゴンパック川の合流地点にあり、二つの川に挟まれたモスクは、独特の存在感を示していました。

     

    このモスクへ行く前にクアラルンプール駅にも立ち寄ったのですが、実はモスクと駅の設計者は同じだということを後で知りました。小さなミナレットと、2つの主要なミナレットのあるモスクは、キリスト教のような荘厳さではなく、日常の信仰の場を見事に表現しています。ミナレットはピンクと白の縞模様になっていて、これは「血と包帯」と呼ばれているそうです。礼拝堂はドームの下にあり、訪問した時多くの信者を目にしました。

     

    マレー人主婦も信仰しているのはイスラム教でした。伺った話の内容とイスラム教との関係が、なんだかとても違和感があるように感じましたが、それはドイツでイスラム教徒と深く向き合っていなかったことに起因しているようです。アラブ系などのイスラム教徒は周囲にたくさんいましたが、彼らと普通に話をする関係であっても、遊び仲間にはなっていなかったことを改めて痛感したのでした。

     

     

    ブキッ・ビンタンに吹く風は湿気とともに喧騒に包まれた空気を運んできます。ドイツの罪深い夜の風とは決定的に異なります。それでも、その日は、周囲に漂う違和感を霧散させる風は、どちらのものでも無理だったと思います。

     

  • クール(Chur)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクール(Chur)について勝手に語ります。

     

     

    イタリアからアルプス山脈を越える峠はいくつかあります。ルクマニア峠(Lukmanier Pass)、シュプリューゲン峠(Splügen Pass)、サン・ベルナルディノ峠(San Bernardino Passなどです。エンガディン地方からであれば、アルブラ峠(Albula Pass)、ユリア峠(Julier Pass)などです。これらの峠道がスイスのクール(Chur)に集まっています。イタリアのワインもこの峠を通って集まります。その峠道が集まるのがクール(Chur)です。

     

    スイスのドイツ語圏に位置し、峠道が集まるだけあってアルプス山脈に囲まれています。ところが、「Chur」を「クール」と表記するのは、日本のドイツ語学習者にはかなり抵抗があります。「ch」の部分はドイツ語の発音では、決して「クー」とはならず、どちらかといえば日本語表記で「フー」になるでしょう。完全にグラウビュンデン地方の方言です。他にイタリア語やロマンシュ語の話者も住民にいます。

     

    アルプス越えの町という側面だけでなく、クールはキリスト教との関係も深い場所です。クール司教の所在地で、教区は、グラウビュンデン州、グラールス州、チューリッヒ州、ウンターヴァルデン州、ウーリ州にまで及んでいます。クール司教の歴史も長く、文献で最初に現れるのは451年ですが、司教としては、それより100年以上前からあったと考えられています。司教区の管轄は最初はミラノで、843年からマインツとなりました。グラウビュンデン三同盟自由国(Freistaat der Drei Bünde )が形成されましたが、司教は神聖ローマ帝国の諸侯のまま継続しました。宗教改革の影響も受けましたが、カトリックのまま人口も多くいました。現在でも教区内のカトリック人口は25万人程度だといわれています。

     

     

    三同盟自由国の時代には、クールはゴッテスハウス同盟(Gotteshausbund)の中心都市でした。これは「神の家の同盟」という意味で、クール司教とハプスブルクに抵抗することが目的でした。灰色同盟、十裁判区同盟と三同盟を形成しました。特にクール司教への対抗策としては、それだけクール周辺の地域がローマ教皇の影響が強く、またキリスト教への改宗が増加していたことも関係しているといえます。フランク王国に征服されたのちも、クールは距離的に遠く、しかも周囲と隔離された場所だったこともあり、事実上の独立状態でした。さらに、クール司教により、政治的権力と宗教的権力が統合されていました。しかし、カール大帝により、聖俗の権力を分離する政策で、それが変化し、新たな火種も生みました。特にクール司教側は、政治的・宗教的権力を再び統合し、拡大する方向でいる状況がありました。だからこそ、これへの対抗策としての役割が強かったわけです。

     

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