今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • アラス(Arras)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアラス(Arras)について勝手に語ります。

     

     

    フランスで、かつてのアルトワ地方に属していたアラス(Arras)は、現在はオー=ド=フランス地域圏で、パ=ド=カレー県の県庁所在地となっています。人口は約4万1千人です。古代には、「聖なる木立群」を意味する「ネメトン(Nemeton)」から「ネメタクム(Nemetacum)」「ネメトセンナ(Nemetocenna)」という都市が、現在のアラスの場所にあったといわれています。また古代ローマ人は「アトレバトゥム(Atrebatum)」と改名しました。ローマにとって重要な駐屯地でした。

     

    キリスト教が本格的に浸透したのは、4世紀後半でした。その一方で、住民をキリスト教に改宗させた聖ディオゲネスは、異民族により殺害されました。聖ヴェデストは、教会や修道院共同体を創設し、その後のカロリング朝時代にベネディクト会派の聖ヴァースト修道院になりました。

     

    都市としての発展は、このような修道院を中心とした宗教都市の側面だけでなく、穀物市場という面も大きくありました。そのような中にあって、9世紀にはヴァイキングに襲撃され、大きな被害を受けました。それでも修道院は復興しました。1180年には商業特権を授けられ、貿易とともに銀行業でも栄えました。14世紀からは羊毛産業も発展し、都市は栄え、多くの富を蓄えることに成功しました。特にタペストリーの生産が有名になりました。

     

    経済面とは別に都市の支配者は、中世には、様々な封建領主が転々と支配してきました。フランドル伯、ブルゴーニュ公、スペイン・ハプスブルク家と続き、最終的にフランス王家と続きました。しかし、ブルゴーニュ公シャルル(大胆公)死去後、フランス王ルイ11世の支配になったわけですが、アラスの人々はフランス王よりもブルゴーニュ公への忠義が強く、そのためルイ11世は彼らを都市追放とし、王家に忠実な人々を移住させました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)

     

    さらにルイ11世は都市名をフランシズ(Franchise)と改名しました。しかしこの都市名は一時的なものでした。1482年には、ここでアラスの和約が締結され、ルイ11世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の対立関係が解消され、その後、スペイン・ハプスブルク家のネーデルラント17州の一部となりました。

     

    20世紀の二つの世界大戦では、アラスは軍事的に大きな影響を受けました。まず、第一次世界大戦では、前線近い位置関係から、1917年のアラスの戦いが行われました。これでアラスの市街地は壊滅的な被害を受けました。次の第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツに侵攻され、1940年のアラスの戦いが起きました。これはイギリス軍による反撃でした。それでもアラスはドイツ軍の占領により、ドイツに対するレジスタンス疑惑のある人は大量に処刑されたのでした。

     

     

  • ミュルーズ(Mulhouse)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミュルーズ(Mulhouse)について勝手に語ります。

     

     

    アルザス地方の誇る伝統のワインが集まる都市がいくつかありますが、今回はミュルーズ(Mulhouse)をご紹介します。フランスのグラン・テスト地域圏のオー=ラン県南部で、スイスとの国境に近い都市です。アルザス地方ということから、フランスの都市らしくない顔を持ちます。

     

    ミュルーズのランドマークといえば、サン・テティエンヌ聖堂(Temple Saint-Etienne)です。旧市街の中心部レユニオン広場にあります。1866年に建設されたもので、もともとこの場所には、12世紀に建設された教会があった場所でした。しかも、この聖堂はプロテスタントで、この規模の聖堂が街の中心部にあるというのは、フランスではミュルーズだけかもしれません。また、フランス国内にあるプロテスタント建築としては最も高いものになります。

     

    アルザス地方を代表する工業都市で、特に18世紀以降に発展しました。第二次世界大戦が終結するまで、フランスとドイツの間で度々領有権が移り変わったのは、この地方ならではのことです。それも工業都市としての魅力があったことに繋がり、逆に現在まで、あまり観光客が集まる都市にはなっていません。それでも貴重な博物館がここにはあります。その中で、一般公開されているものとしては世界最大の自動車コレクションがあります。国立自動車博物館(Musée national de l’automobile)が所蔵するシュルンプ・コレクション(Collection Schlumpf)です。他にも染色織物博物館、鉄道博物館などがあります。

     

    ミュルーズという都市名が記録に現れるのは、12世紀でした。このときは神聖ローマ帝国の南アルザス郡のスンドゥガウ(Sundgau)の一部でした。 自由都市となり、1354年には十都市同盟(Zehnstädtebund, Décapole)に加盟していました。この同盟は、神聖ローマ皇帝カール4世が条約を批准して創設されたものでした。1378年にカール4世死去にともない、一旦は解消されましたが、翌年に再度創設され、ミュルーズは1515年まで加盟していました。た。新たに同盟した相手はスイスでした。

     

    1648年のヴェストファーレン条約により、スンドゥガウはフランスに併合されました。しかし、この条約ではミュルーズはフランス併合になっていませんでした。独立した都市国家と同じような扱いだったのです、それも、独立したカルヴァン主義を保っている都市というのが特徴だったからともいえました。それでも1798年いは、住民投票の結果、フランスにへと編入することになり、これ以降はアルザス地方の都市となりました。

     

    19世紀の普仏戦争では、フランスがプロイセンに敗北し、その後のドイツ統一により、ミュルーズはドイツ帝国のアルザス・ロレーヌ州に併合されました。20世紀に入り、第一次世界大戦では、フランス軍がミュルーズを占領したものの、すぐにドイツ軍がフランス軍を追い払いました。ただ、第一次世界大戦が終了すると、アルザス・ロレーヌをフランスが占拠することになり、フランスへ併合しました。これもナチス・ドイツがフランス侵攻したことで、ドイツがまた占拠することになりました。現在のフランス領となったのは、1945年5月で、第二次世界大戦の終結とともにでした。

     

     

  • テュルクアイム(Turckheim)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はテュルクアイム(Turckheim)について勝手に語ります。

     

     

    高品質なブドウが採れるワインの町として有名なテュルクアイム(Turckheim)は、フランスのグラン・テスト(Grand Est)地域圏、オー=ラン県(Haut-Rhin)のコミューンです。アルザス・ワイン街道沿線にあり、人口は約3700人の小さな町です。

     

    この町の歴史はゲルマン人の移動に始まります。ゲルマン人がライン川を越え、ローマ帝国の領内へと侵攻してきました。このとき、北海近くにいたゲルマン人のトゥリンギ族がこの地とどまり、定住したようです。そのまま部族名から地名になったといわれています。この地域は、ローマ帝国とゲルマン人の影響を多く受けてきましたが、ローマ帝国が東西分裂となり、西ローマ帝国が滅亡となるとゲルマン人の地域となりました。キリスト教も受け入れ、現在のフランスとドイツが国境を接するアルザスの山中にマンステール修道院ができました。ここは谷で、修道士たちは今でも人気のチーズづくりをしていました。テュルクアイムはこの修道院の領地となっていました。史料で最初に登場したのは743年といわれています。その中でテュルクアイムは「ワイン産地」と記載されているようです。

     

    また中世には神聖ローマ帝国の一部を形成するオーランズベール領主(Hohlandsberg)の場所にもなりました。帝国の自由都市になったのは、1312年でした。このときから城壁が建設されるようになりました。現在、旧市街を囲む城壁は三角形のようになっています。町の入り口となる門は、跳ね橋になっています。3つの門が残っていて、主要門になっているのはフランス門で、南側に位置しています。東にはブラン門、西にはマンステール門があります。

     

    1354年にはアルザス十都市同盟の一員として、市場を開く特権とともに各種特権が授けられました。この時代にが、ワインの輸出が活発となっていて、繁栄期を迎えていました。15世紀に100年戦争が勃発しましたが。テュルクアイムは大きな影響は受けませんでした。これはアルザス地方全体もそうでした。しかし、1618年からの30年戦争では、壊滅的な被害を受けることになりました。しかも、それだけではなく、ペストの流行、飢饉などにより、人口は半減したほどでした。30年戦争については、ヴェストファーレン条約が締結され、フランス王国がアルザスのハプスブルク家領を獲得しました。ところが、テュルクアイムを含めたアルザス十都市同盟は、神聖ローマ帝国への帝国直接性特権により、フランス王国に従うことを拒絶したのでした。言語もドイツ語圏で、特権もあったことから、むしろ当然の流れともいえますが、次に1675年のテュルクハイムの戦いで変化しました。フランス軍が神聖ローマ帝国軍に勝利し、1678年のナイメーヘンの和約により、今度は完全にフランスに併合されたのでした。

     

    再び変化したのは1871年の普仏戦争後でした。テュルクアイムを含むアルザスはドイツ帝国に併合されたのでした。フランスへ戻ったのは1918年でした。このようにテュルクアイムには、アルザスという地方独特のドイツとフランスの歴史が交差しながら、優れたワインを生み出してきたのでした。

     

     

  • ジャージー代官管轄区(Bailiwick of Jersey)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジャージー代官管轄区(Bailiwick of Jersey)について勝手に語ります。

     

     

    日本人ならジャージー代官管轄区(Bailiwick of Jersey)は知らなくても、「ジャージー牛乳」はご存知だと思います。また、誰もが着たことがある「ジャージ」もご存知でしょう。どちらもここが由来となります。でも、どこにあるのか、どんな場所なのか、あえて調べようとしない限り、一生知ることはないかもしれません。今回は、そんなジャージー代官管轄区をご紹介します。ワインでも飲みながら、ヴァーチャルな旅を堪能してください。

     

    ここの君主はイギリス国王とされていますが、連合王国 (United Kingdom) には含まれていません。かといって植民地でもなく、海外の飛び地的な領土というわけでもありません。イギリス王室属領という位置づけなのです。そのせいか、外交や防衛面などはイギリスに依存し、イギリスもその責任を負っていますが、それらを除く内政については、イギリス議会の支配を全く受けません。独自政府による高度な自治権を有しているのです。当然ながらイギリスの法律は適用されません。

     

    イギリス海峡にあるチャンネル諸島に属する島で、面積は東京の山手線内側の面積の1・5倍程度という広さです。位置的にイギリスよりもはるかにフランスに近く、ロンドンからは飛行機で約45分です。フェリーはイギリスだけでなく、フランスからも出ています。

     

    もともとヴァイキングが活動するエリアにあった島ですが、ブルターニュ公国領でした。それが10世紀になって、ノルマンディー公ギヨーム1世(Guillaume I)がチャンネル諸島を奪いました。ギヨーム1世は、ノルマン人でありながらフランク人風の長剣を好んだことから「長剣公」(Longue-Épée)と呼ばれた人物です。父から公位を嗣ぎ、ノルマンディー公になったものの、彼があまりにフランク人化したといわれ、家臣から反乱を起こされたという伝説もある人物です。
    その後、ノルマンディー家第8代のギヨーム2世(征服公)は、1066年にイングランドを征服しました。そこでイングランド王ウィリアム1世として戴冠したおでした。これにより、それ以降はイングランドとノルマンディー1つの王室による支配という体制になりました。ただし、イングランドとノルマンディーでは、言語が異なり、習慣、風習等も異なるため、それぞれの言語、法律、通貨を適用して、別々に統治されるようぬなりました。ではジャージー島はどうだっかというと、ノルマンディー公領の一部という扱いのままでした。従ってノルマンディーの法律や通貨が適用されました。

     

    そして1204年に、フランス王フィリップ2世(Philippe II)がイングランド王でありノルマンディー公でもあるジョン(John・欠地王)を破り、ノルマンディー地方を奪いました。しかし、ノルマンディーに近いジャージー島は、そのままイングランド王領に留まることになりました。このとき以来、ジャージー島は歴代イギリス王室の直轄地として継続しているのです。
    ただ、、第二次世界大戦下の1940年から1945年にかけては、チャンネル諸島がナチス・ドイツによって占領されました。これと関連したことが有名な、1944年6月のノルマンディー上陸作戦があります。

     

     

    フランスに近いにも関わらず、イギリスに忠誠な地域という特殊な島で、言語もジャージー島特有のフランス語なども話されています。フランスワインを飲みながら、世界地図でジャージー代官管轄区の島を探してみてはいかがでしょうか。

     

  • ディジョン(Dijon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はディジョン(Dijon)について勝手に語ります。

     

     

    フランスワインを代表する地域といえばブルゴーニュです。ブルゴーニュのブドウ畑のクリマの一部として世界遺産リストに含まれています。過去に関連する内容を投稿してきましたが、今回はその中でディジョン(Dijon)はご紹介します。かつてブルゴーニュ公国の首都でした。

     

    【関連ページ】
    世界で最も偉大な赤ワイン産地
    ブルゴーニュのクリマ(Climat)
    ヴォーヌ=ロマネ

     

    ディジョンは新石器時代から人が定住していた地域ですが、都市としてはローマによって建設されました。この冬至は「Castrum Divionense」でした。ローマ街道沿線の都市であり、2世紀にはすでに市街地が繁栄していました。しかし、ゲルマン人の大移動などの影響で、様々な民族が侵入するようになりました。キリスト教は、殉教者として知られる守護聖人ベニグナス(Benignus of Dijon)により伝えられました。5世紀になるとラングル司教座が置かれるようになり、、守護聖人ベニグナスを埋葬した修道院が崇敬を受けるようになりました。それほど当時は重要な巡礼地にまでなったのでした。

     

    1031年には、フランス王ロベール2世の息子で、アンリ1世の弟であるロベール1世(Robert I)により、ディジョンはブルゴーニュ公国(Duché de Bourgogne)の首都になりました。その約100年後には、大火が発生し、市内の中心部がと化す事態になりました。そこで、都市再建の際、城壁を従来よりさらに拡大するようにしました。この城壁は18世紀まで市街地を守る役割を担っていました。都市としてもっとも輝いていた時代は、カペー家の分家から始まったヴァロワ家がブルゴーニュ公だった時代といえます。1363年から1477年までの期間ですが、この時代に経済面でだけでなく、芸術や科学なども盛んとなりました。
    そしてブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)がフランス王との争いに敗れました。その結果、ブルゴーニュ公国は併合されることになりました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)
    ブルゴーニュとアキテーヌ公
    ブルゴーニュワイン発祥の修道院
    ブルゴーニュとブルグント王国
    ムロン・ド・ブルゴーニュ

     

    ディジョンの街が変化してきたのは、ブルゴーニュ議会がボーヌから移されてきたことに関係します。この移転により貴族たちがディジョンに邸宅を建てるようになったのでした。その後、新しい教会、礼拝堂、修道院などキリスト教関連施設が続々と建設されました。そして18世紀に再び繁栄期を迎えました。このときはブドウ栽培からワイン生産が活発化し、その経済的な繁栄を迎えたのでした。またブルゴーニュ運河が1832年に開通し、1851年にはパリと結ばれた鉄道も整備されました。このように交通も整備され、ディジョンの経済成長が急速に進みました。

     

     

    19世紀には普仏戦争のときにプロイセン軍に占領されました。このときにディジョンに限らずフランス国内の防衛設備が弱いことを痛感したフランス政府は、防衛設備の見直しを迫られることになりました。ディジョン市内各所に小要塞がつくられ、兵舎や武器庫が新たに造営されました。しかし第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領されてしまい、最終的にフランス・イギリス・アメリカの合同軍によって解放されました。

     

  • シャルトル大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシャルトル大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres)について勝手に語ります。

     

     

    フランスの中部に位置し、ウール=エ=ロワール県の県庁所在地であるシャルトル(Chartres)は、パリから南西に列車で約1時間の距離にあり、人口は約4万人、シャルトル都市圏人口約13万人です。パリ近郊都市という印象ですが、実はこの都市を世界的に知らしめているのは、シャルトル大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres)です。フランス国内で最も美しいゴシック建築のひとつといわれる大聖堂で、ユネスコの世界遺産に登録されています。

     

    この大聖堂の建築は1145年に始まりました。最初はロマネスク様式でしたが、1194年の大火事により、聖堂の西側前方部分を除いた部分が焼き尽くされてしまい、その後に初期ゴシック様式となりました。再建は当時としてはかなり短期間で行われました。

     

    この時代、巡礼者のための大聖堂という位置づけになっていて、聖母マリアの祝祭日には多くの巡礼者が集まりました。いわゆる縁日になっていて、開催場所は聖堂すぐ近く街道や広場に連なっていました。この縁日は4種類あって、「潔めの祝日」、「受胎告知の祭日」、「聖母被昇天祭」、「聖母マリア誕生祭」でした。必然的にシャルトル大聖堂はシャルトルの街の中心となり、単にランドマークなだけでなく、経済の中心になっていました。実はワインについては、地下聖堂で販売されていましたが、それが禁止され、外で販売されるようになりました。

     

    シャルトル大聖堂というと、聖遺物であるサンクタ・カミシアです。フランク王国のシャルル1世(カール大帝)から寄進されたといわれるもので、これを所蔵していることで知られています。これは「聖母マリアの聖衣」といわれるもので、そこから聖母マリアの祝祭日に多くの巡礼者が集まるようになったわけです。火事の際、サンクタ・カミシアが焼失したのではと思われ、多くの人々は絶望しそうです。しかし、火事を経ても宝物庫の中は無地で、サンクタ・カミシアは無傷だったことがわかりました。その後、サンクタ・カミシアは聖櫃に厳重に保管されるようになりました。次に開封されたのはフランス革命の時でした。数百年の時間が経過したことになります。そこで聖櫃から現れたのはベールと大きな布でした。

     

    実はサンクタ・カミシアについて、寄進したのがシャルル1世(カール大帝)といわれているものの、あくまで伝説で、信憑性が低いようです。なぜなら、シャルル1世(カール大帝)は814年没ですが、寄進されたのは876年といわれているのです。従って時代があいません。そのため、息子のシャルル2世(カール2世)ではないかともいわれています。
    では、サンクタ・カミシアが「聖母マリアの聖衣」であるという根拠ですが、科学的に分析が行なわれたそうです。その結果、聖衣は約2000年前にシリアでつくられた布であると判明しました。これは時代も地域もイエス・キリストや聖母マリアと合致します。もちろん、証明はそこまでで、実際に聖母マリアが身に着けていたかどうかは定かではありません。

     

     

    大聖堂のあるシャルトルは、キリスト教伝来以前から、聖地だったといいます。当時はガリア人の居住地で、この地にある泉が聖なるエネルギーを発していたようです。この泉から、自然への憧憬と霊魂への信仰を生んでいたようです。それだけの聖地だったことから、キリスト教も大聖堂建設地にしたのではないかと想像できます。さらに、ここへ巡礼者が集まるようになったのは、聖母マリアのサンクタ・カミシアだったわけです。

     

  • モルスアイム(Molsheim)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はモルスアイム(Molsheim)について勝手に語ります。

     

     

    アルザス・ワイン街道(Route des Vins d’Alsace)といえば、フランスで、ボルドー、ブルゴーニュに並ぶワイン銘醸地を結ぶ街道として知られています。北はマーレンハイム(Marlenheim)から南はタン(Thann)まで続く街道で、ドイツ国境近くのライン川沿いの丘陵地や、ヴォージュ山脈の東斜面にブドウ畑が連なっています。街道沿いの村の数は100を超え、ワイナリーも900くらいはあるといわれます。その街道沿いにモルスアイム(Molsheim)があります。ストラスブール(Strasbourg)の西にあり、距離も約30kmほどです。

     

    【関連ページ】
    ストラスブール病院のワイン(Cave des Hospices Strasbourg)
    フランスとドイツが混濁したアルザス

     

    アルザスワインといえば、白ワインです。ボルドーやブルゴーニュ、シャンパーニュと決定的に異なるのは、個人経営の小さなワイナリーが多い点です。大規模なワイナリーで生産されるわけではないので、街道沿いの村々にあるそれぞれのワイナリーで特徴あるワインがつくられています。それほどまでにワイナリーごとに味の個性があります。

     

    またモルスアイムというと、ブガッティ・オトモビルの本社所在地です。製造工場もあります。1998年にフォルクスワーゲンがブガッティの商標権と製造販売権を獲得したことで、100%子会社のブガッティ・オトモビルをここで創業しました。フォルクスワーゲンはブガッティ・ブランドを守るため、あくまでこの地にこだわったといわれています。
    ちなみにガッティは、1909年にモルスアイム近郊のドリスハイム(Dorlisheim)に設立された会社で、当時はドイツ領でした。レースに参戦し、そのノウハウを活かした高性能スポーツカーを製造していました。

     

    歴史的には、神聖ローマ帝国とストラスブール司教との間で、領有権で争われた地でした。1219年に神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II)が、モルスアイムに課税特権などの特権を与えました。その後、都市の周囲を城壁が囲むようになりました。しかし、モルサイムはストラスブール司教の領地であったことから、貨幣鋳造が行われたのは、1573年に司教によるものでした。
    ちなみにフリードリヒ2世ですが、彼こそが西ヨーロッパの封建社会の事実上最後の皇帝でした。「最初の近代人」とも評され、中世で最も進歩的な皇帝であり、ルネサンスを先取りしていたともいわれていました。そのため、時代が彼に追いついていなかったことから、ローマ教皇庁との対立を招いていました。実際、2回も教皇から破門されていたほどでした。

     

    宗教改革の時代になると、カトリック側がプロテスタントに対抗するための重要な場所になっていきました。イエズス会が1580年に神学校をこの地に建てたのでした。その後、ストラスブール司教が空席となった1592年には、カトリックのモルサイムとプロテスタントのストレスブールの対立が起こり、武力衝突にまで発展しました。

     

     

    現在の人口は1万人に満たないほどの小さな街ですが、これこそがアルザス・ワイン街道にふさわしい規模ともいえます。それでもブガッティもあり、おいしいワインがあります。

     

  • ヴァレンヌ事件(La fuite à Varennes)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァレンヌ事件(La fuite à Varennes)について勝手に語ります。

     

     

    今回は以前に「フランス共和国1~3」を連載しましたが、これに関連した番外編になります。

     

    フランス共和国( République française)1
    フランス共和国( République française)2
    フランス共和国( République française)3

     

    ヴァレンヌ事件(La fuite à Varennes)とは、フランス革命の時に起きた事件で、1791年6月20日にフランス国王ルイ16世一家がパリを脱出し、22日にヴァレンヌで逮捕されたというものです。国王一家の逃亡未遂事件ですが、この事件により、フランス国王の権威は完全に失墜することになりました。王政が否定され、共和派が台頭することになり、国王処刑にも繋がることになったのでした。そのため、この事件はのちに大きな影響を与えることになったのでした。

     

    この逃亡計画は、ルイ16世よりマリー・アントワネット(Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d’Autriche)が積極的でした。彼女はオーストリア女大公マリア・テレジア(Maria Teresia)と神聖ローマ皇帝フランツ1世(Franz I)の娘だったことから、オーストリアへ亡命しようとしていました。フランスでは、亡命そのものを罰する法がなかったこともあり、計画から実行まで問題なく行えると考えていたのかもしれません。彼女としては、亡命し、実家のハプスブルク家の力を借り、諸外国の武力をも含めて、フランス革命を鎮圧しようとしていたようでした。

     

    この計画を実行するための中心人物になったのは、フェルセン(Hans Axel von Fersen)でした。彼はスウェーデンの名門貴族で王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の子でしたが、マリー・アントワネットの愛人と噂された人物でした。従って、フェルセンはルイ16世の臣下ですらなかったため、周囲から懸念されていました。しかしフェルセンは国王一家の逃亡費用を用意し、馬車や旅券も手配しました。ここでマリー・アントワネットのわがままが出ました。馬車は新しいベルリン型大型四輪馬車で、内装は特注、服も新調することにしたのです。さらに国王の馬車には銀食器やワイン樽が8つなど、豪華な荷物を積むことになりました。逃亡するのにワイン樽を8つも積むというものすごいものです。

     

    計画は実行前からほころびは見えていましたが、それでも1791年6月20日深夜、ルイ16世一家はそれぞれ変装し、ばらばらに分かれて宮殿を抜けだし、計画は遂行されました。馬車の御者は変装したフェルセンでした。途中で豪華なベルリン馬車に乗り換え、北へと向かいました。そして翌朝、侍女たちが国王一家の不在に気付き、通報しました。ラファイエットはすぐにパリを厳戒態勢とし、捜索隊が組織されました。

     

    国王一家の馬車は荷物が重く、スピードをだせないまま、ゆっくりと進んでいき、シャロンに午後4時に到着しました。ここで国王一家は宮殿で暮らしていたのと同じように優雅に食事をしました。しかも豪華な馬車や、大量の荷物を人々に見せびらかせたといいます。そのため、シャロンでは、国王一家が訪れたという噂が一気に広まりました。

     

    そのような逃亡だったこともあり、22日にヴァレンヌで逮捕さることになったのでした。そしてパリでは、国王一家を沈黙で迎えたのでした。

     

  • エルモン(Ermont)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエルモン(Ermont)について勝手に語ります。

     

     

    パリの北西約15マイルの地点にエルモン(Ermont)というヴァル=ドワーズ県のコミューンがあります。パリに近いことから、イル=ド=フランス地域圏(Île-de-France) に入っています。この地域圏はフランス総人口約18%に相当しますので、まさにフランスの中心地を構成する地域の一部といえます。そんなエルモンですが、もともとは農業中心の街で、主要生産品がワイン用ブドウでした。

     

    現在のフランスは、帝政ローマ支配下の属州だった時代はガリアといわれ、そこで独自文化が築かれていました。それをガロ・ローマ(Gallo Roma)といいます。この時代にエルモンはエルメドン(Ermedon)という名だったようで、これが都市名の由来となっています。古代から居住者がいたわけですが、実はさらに古く、新石器時代にはすでに居住者がいたようです。

     

    ガリアの時代に、ここにローマ街道がありました。この街道はルテティアからリールボンヌをつなぐユリウス・カエサル車道という街道でした。街道沿いということで、交易には利便性が良かったといえますが、逆に外敵の侵入も容易かったといえます。3世紀後半になるとゲルマン人が侵攻してきたことで、街は破壊されてしまいました。
    それでも4世紀に入って復興を遂げました。そしてフランク王国の時代に入り、最初の王朝がメロヴィング朝(Mérovingiens)になりました。この王朝はゲルマン人のフランク族支族であるサリ族による王朝でした。このフランク王国が拡大していった2代国王のクロタール1世(Clothar I) の頃から、エルモンは再び繁栄するようになりました。

     

    11世紀に起源を持つ宗教騎士団に聖ヨハネ騎士団がありますが、エルモンのセルネ地区には、この騎士団のコマンドリー(Commanderie)がありました。これは騎士団が所有した土地にある共同体です。この聖ヨハネ騎士団は、最初は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒のための巡礼者専用宿泊所を設立したことに始まりましたが、やがて巡礼者を保護することが任務となり、聖地防衛を担う戦力となっていきました。コマンドリーは12世紀に誕生したもので、騎士団の司令官のにより、修道士、騎士などが共同で死活していました。ただし単なる共同体ではなく、ここでは訓練が日課でした。メゾン(maison)やドムス(domus)ともいわれる農場も多く併設するようになりました。そのため、エルモンは騎士団のコマンドリーによって、より発展を遂げるようになりました。このような宗教的共同体は、テンプル騎士団、サン・ヴィクトル・ド・パリ修道院、ルーアンのセレスタン修道会、ボワ・サン・ペール小修道院なども加わりました。

     

    このような宗教都市の様相を呈してきたものの、宗教の共同体を除いた街の人は少なく、まだ農村という程度の規模でした。それでも宗教施設や関係者が集まることから、戦火に巻き込まれるようになっていきました。ついにはフロンドの乱により街は破壊されてしまいました。

     

     

    大きくエルモンが変貌したのは、19世紀以降でした。鉄道が開通し、都市化されていきました。20世紀にはパリ郊外の都市となり、もはや農地があったことさえ、想像できないような場所になっていきました。ただし、急激な都市化は無計画な住宅地を生み、パリの街並みとは比べられないほどの状況になっています。
    パリから近いので、気軽に行ける地域ですが、ここでワイン用のブドウが栽培されていたとは想像できないでしょう。

     

  • ナルボンヌ(Narbonne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナルボンヌ(Narbonne)について勝手に語ります。

     

     

    2006年までヨーロッパ最大のオーガニックワインの展示会「ミレジム・ビオ(Millesime Bio)」が開催されていた都市がナルボンヌ(Narbonne)です。それだけワインの歴史を持つ都市で、場所はフランス南西部に位置しています。スペインとも近く、古代ローマの時代から栄えていた都市です。もともと古代ローマ時代から野生のブドウが自生していたたことで、ワイン生産が盛んになり、それを退役軍人たち行っていたといわれています。

     

    共和制ローマの時代、ここは植民市のコロニア・ナルボ・マルティウス(Colonia Narbo Martius)でした。現在のイベリア半島まで続くローマ街道が建設され、このナルボンヌは、ドミティア街道(Via Domitia)とアクィタニア街道(Via Aquitania)という二つの街道が交差する場所でした。そのため重要な街道の交差路に位置することから、地理的にも政治的、戦略的にも重要な都市となったのでした。

     

    ガリア南部の地区を「ガリア・ナルボネンシス」とするようになると、ナルボンヌはその地区の首都となりました。ローマとの結びつきというより、ローマ管理下による安定した状況は、経済的にも発展していくこととなりました。

     

    中世になっても発展した都市だったナルボンヌでしたが、14世紀に衰退期を迎えることになりました。大きな原因となったのはオード川(Aude)でした。この川はフランス南西部を流れる、ナルボンヌ近郊で地中海に流れ込みますが、この川に変化が生じたのでした。川が氾濫し、川底の泥が邪魔して船が航行することが困難になってしまったのでした。さらに川底の沈殿物が増えたことで、オード川の流れも変わっていきました。地中海の海面もわずかですが上昇し、川の流れが変わったことから、ナルボンヌは海港としての機能が失われていったのでした。街道による地理的な条件に加え、海港による交易拠点にもなっていたことから、このような状態は街を衰退させるのに十分なことでした。

     

    そこで、ナルボンヌの市民たちは、新たなルートをつくることにしました。かなり大規模な工事ですが、まさに都市の復活が関係する重大なことだったのでした。そこでできたのがロビーヌ運河でした。さらにロビーヌ運河はミディ運河、ロイヤル運河へと接続されていきました。これで新たな貿易ルートができました。この運河こそ、ワインの輸出に大きく貢献しました。もちろん19世紀には鉄道網が関係してきましたが、それでもこの運河が街を助けてくれていたのでした。

     

     

    現在のナルボンヌの人口は約4万6千人程度です。それほど大きな都市ではありません。そんな小都市で、ヨーロッパ最大のオーガニックワインの展示会が開催されていたのですから、ワイン好きな人は一度は訪れる価値のある場所といえるのではないでしょうか。

     

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