今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ハンブルク 7(Hamburg 7 und Bremervörde)ブレーマーフェルデ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第7回です。

     

     

    前回は、1990年にフランクフルトで失踪したピアニスト捜索事件と関係する話で、ハンブルク郊外のシュターデ(Stsde)に向かった話でした。今回はその続きで、シュターデからブレーマーフェルデ(Bremervörde)に方向転換です。

     

    ハールフルガー通りはADAC Weser-Ems e. V. Stadeで左に大きく曲がります。そのまま道路に沿って進むと、ハルゼンフェルダー通りとぶつかり、ハールフルガー通りは今度は右に曲がります。この先にSバーンのシュターデ駅が左手にあり、すぐハンゼ橋で運後を渡り、旧市街へと入ります。ここを時計と反対まわりで進み、ハンゼ通りからロータリーを経由してシュターダー・シュネー通りに入りました。この周辺は戸建て住宅の並ぶ地域です。目指す場所もこの近くのはずです。

     

    日本と違って、住所は通りの番地を追っていけば良いので、目指す家も容易に見つけられるはずでしたが、思ったより時間がかかりました。それでも目的地に着き、目の前に路上駐車もできました。しかし、会いたい相手は不在でした。教会の関係する楽団に所属していて、今日はブレーマーフェルデ(Bremervörde)にいると、彼女の母親が答えました。いきなり訪れた日本人でしたが、やはり、フランクフルトで知り合った日本人のことを知っていたようで、それほどの不信感もなく対応してくれました。最初からスンナリと会えると思っていなかったので、むしろ、ブレーマーフェルデ滞在中の詳しい情報を教えてもらえたことに感謝でした。

     

    ブレーマーフェルデは、シュターデから近く、わずかに30㎞程度の距離です。同じニーダーザクセン州に属します。この街は何といってもフェルデ城が有名です。12世紀初め、ロタール3世がまだローマ皇帝になる前、この地に城砦を建設したことに始まる城です。規模もさることながら、エルベ川とヴェーザー川を結ぶ地域であることから、地理的、戦略的に重要な城となりました。実際、その後の歴史でも、多くの戦闘の舞台となりました。最終的には、の城砦はブレーメン大司教の所有となり、大司教領全地域の行政での中心地となりました。まさに、俗界と聖界を代表する場で、しかも大司教は本来いるべきブレーメンより、ブレーマーフェルデでの滞在のほうが多かったようです。

     

     

    シュターデからは、ほぼ74号線だけで行けるので楽そうです。ガソリンが少なくなっているので、途中で給油すれば問題ないでしょう。そう思って、再びクルマに乗り込んだのでした。

     

  • ヴィボルグ(Вы́борг)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴィボルグ(Вы́борг)について勝手に語ります。寛ぎながら、ワイン片手にお読みいただければありがたく思います。

     

     

    フィンランド湾に面するヴィボルグ(Вы́борг)は、かつてのソ連時代に、レニングラードからヘルシンキに向かう夜行列車で通り過ぎた都市です。レニングラードは現在はサンクトペテルブルクで、ここから北西に130kmの位置にあります。フィンランドとの国境には、わずかに、38kmという位置になります。

     

    レニングラード最後の夜では、シベリア鉄道で一緒だった、当時、慶応大学の学生と現地の人と遊び、酔ったままそれぞれの駅へ向かったことが思い出されます。ここで一人旅の醍醐味を味わったことになりますが、何も迷うことなく寝台に入り、そのまま眠りにつきました。ヴィボルグには停車したかどうかも記憶がありません。ただ、あとで思い出すと、ここは興味深い都市だったことに気づきます。

     

    スウェーデンが支配する都市でしたが、1293年の「第三次スウェーデン十字軍」により、ヴィボルグ城が建てられました。この城の建築により、スウェーデンとノヴゴロドの紛争となりました。結局、スウェーデンの一部となったものの、1495年にはロシア・スウェーデン戦争が起こったりもしました。それでもスウェーデン支配地のまま残り、それは1710年の大北方戦争まで続きました。大北方戦争では、ピョートル1世がこの街を占領し、1721年のニスタット条約によりロシア領となりました。1790年には第一次ロシア・スウェーデン戦争がおこり、ヴィボルグ湾の戦いなどもありました。

     

    変化が訪れたんは19世紀になってからで、フィンランドがロシアに割譲され、ヴィボルグを含む周辺一帯をアレクサンドル1世によって、をフィンランド大公国に編入したのでした。そのため、19世紀は、フィンランド東部での中心都市という機能を果たすことになったのでした。特に運輸面での中心的な役割を担うようになりました。

     

    ロシア革命が起こると、フィンランドは独立宣言をし、フィンランド内戦へと繋がりました。このときにはヴィボルグは、フィンランド第2の都市にまで発展していました。赤衛軍と白衛軍が街中へと入り込みました。やがて冬戦争となり、7万人の市民がフィンランド西部へと避難するおうになりました。これで無人と化した都市は、モスクワ講和条約により、ソ連へと割譲されることになりました。1940年にはカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に編入されました。周辺を含め、わずかに残ったフィン人は1万人程度でしたが、ソ連への正式な編入を前に、立ち退いていきました。

     

    その後、フィンランド軍による奪回があり、多くの人々が帰還しましたが、赤軍の反撃が集まり、1944年に再び街は陥落しました。モスクワ休戦条約により、国境線は元に戻り、ヴィボルグという名称にして、完全なソ連の都市となり、ソ連全土からここに移住してきました。

     

    このような隣国とも攻防を経験した都市なので、本来なら立ち寄りたい気もしましたが、当時はソ連でしたので、旅行も制限されていました。今なら、もっと気軽に行けるでしょう。もし機会があれば、立ち寄りたい都市の一つです。

     

  • ハンブルク 6(Hamburg 6 und Stade)シュターデ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第6回です。

     

     

    前回はアンネマリー(Annemarie)が勤務するシュテルンシャンツェ(Sternschanze)へ行ったときの話でした。今回は、その続きではなく、1990年にフランクフルトで失踪したピアニスト捜索事件と関係する話で、ハンブルク郊外のシュターデ(Stsde)に向かいます。時期的には「フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-2」と「フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-3」の間の出来事になります。

     

    【参考ページ】
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-1
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-2
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-3
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-4

     

    フランクフルトでピアニストが居住していたザクセンハウゼンのアパートに行った話を、フライブルク・イム・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)に住む友達に電話したことがありました。その彼が、ハンブルクに連絡してきました。失踪した彼女と親しかった女性が、シュターデ(Stade)にいることが分かったので、話を聞いてみたら、という内容でした。詳しい住所も教えてくれました。ハイデルベルクの語学研修で、自分とは顔見知り程度でしたが、彼とは親しかった女性がいて、そこからの情報だといいます。何でも彼女はザクセンハウゼンのピアニストのアパートに行ったことがあり、そのときに紹介された女性がいて、現在の連絡先も知っていたというのです。なるほど。

     

    シュターデは、ニーダーザクセン州にあり、ハンブルクからは西へ約45kmの距離にあります。ハンブルク大都市圏を構成する町で、エルベ川を海の方向へと遡る位置になりますが、エルベ川からは少しだけ離れています。フライブルクの友達から連絡があるまでは、実はシュターデのことは地名くらいしか知らなかったので、行く前に情報を収集した次第でした。それによると、北ドイツでは最古の都市の一つだといいます。古代から港が整備され、防衛施設を備えていたようです。港は天然港として交易だけでなく戦力上でも重要な場所でした。しかし、994年にヴァイキングに襲撃され、天然の港湾地区に別に港まで建設されるようになりました。

     

    都市権が与えられたのは1259年で、ハンザ同盟の創設直後からメンバーに参加していました。宗教改革ではプロテスタント都市となりました。しかし、その後の三十年戦争で最盛期が終焉してしまいました。1628年にティリー伯による占領、直後にスウェーデンの支配、一時的ですがデンマークの占領とあり、ヴェストファーレン条約により1634年にスウェーデンの支配が確定しました。このスウェーデンの支配は1712年まで続きました。第二次世界大戦後の東西冷戦時代には、シュターデは軍事都市という顔を持っていました。1990年は、前年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わろうとしていた時期でした。この時期は軍事施設が民間企業による活用へと変化していました。

     

    ハンブルクの自宅から向かうため、アルトナを経由してオッテンセンからベーリング通りでアウトバーンの7号線に入り、南下して地下トンネルでエルベ川を渡り、ホステルベクの先で73号線を西に向かいました。このルートはベルリンとは反対方向なので、当時の交通状況からすると比較的スムースといえました。ノイヴルムシャトルフを過ぎると、緑の多い郊外の雰囲気となります。ブクスフーデから先は完全な郊外です。北ドイツは南部と違い、起伏が少なく平坦な場所が多くあります。アウトバーンを疾走するという意味では、この地域はかなり快適です。

     

     

    73号線はアガーテンブルクから中央通りとなり、シュターデのオッテンベック(Ottenbeck)に入りました。73号線から離れ、ハールフルガー通りを進めば目指すシュターデの中心部に近づくきます。交通量はそれほど多くないので、市内に入っても快適さが続いています。まだこの地域は、大都市圏の郊外都市の顔で、歴史あるハンザ同盟都市の旧市街地ではないので、大きな特徴のない雰囲気です。東京でも郊外で生活していた人間には、このような雰囲気は決して悪くありません、むしろ心地よい気もします。

     

  • ハンブルク 5(Erinnerungen an Hamburg 5)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第5回です。

     

     

    前回はJungfernstiegで再会したメラニー(Melanie)との話から、アンネマリー(Annemarie)が勤務するシュテルンシャンツェ(Sternschanze)へ向かうことになった話でした。今回は、そのシャンツェの話です。

     

    JungfernstiegからMönckebergstraßeまで歩き、Uバーンの3号線に乗車しました。LandungsbrückenやSt. Pauliを通って、シュテルンシャンツェ(Sternschanze)駅で下車しました。

     

     

    アルスター湖の南側を大きく回ったことになります。中央駅からSバーンで行くなら、内アルスター湖と外アルスター湖の間を通過していくことになります。ここはアルトナ地区になり、レーパーバーンとは異なる、ハンブルクを代表するエンターテインメントとナイトライフの地区といえます。1930年代から1970年代にかけて、ここは労働者階級の居住区でした。ところが家賃の安い点と利便性から、1970年代以降には多くの若者が集まってきました。学生が多かったですが、家族で移り住んできた人も多くいました。街の雰囲気が徐々に変化し、おしゃれな店舗やバー、クラブなどのエンターテインメント的店舗を増加しました。

     

    1888年にFloraコンサートホールとして建てられました劇場(Rote Flora)もあり、1988年には新しいミュージカル劇場として再建する計画がありました。しかし、1989年に左派グループによって不法占拠されるという事件がありました。その結果、新規劇場再建の計画はホルステンシュトラーセ駅近くに新フローラ「neue Flora」として建設されました。占領された劇場は、は不法占拠したグループが文化イベントに使用されるようになりました。2000年になると、ハンブルク市が施設の変更を禁止した契約をもとに、不動産業社に買収されることになりました。これは住民との争いに発展し、今度は2014年にハンブルク市が建物を再購入することになり、翌年、ボランティアによって改装されました。

     

    21世紀には、完全な新しいハンブルクの顔になり、流行の最先端の街になりました。それでも左派グループによる政治デモは、ここで行われ続けています。特には5月1日のドイツ労働者の日には、警察との衝突にまでなるケースがあります。そして2008年、ハンブルクミッテ、アイムスビュッテル、アルトナという3つの地区に分割されていたシャンツェンフィアテルのエリアが、シュテルンシャンツェの新しい地区として統合されました。ただ、このときは1990年代だったので、ここまでの規模にはなっていませんでした。

     

    アンネマリーが働く店舗はカフェで、ズザンネン通り(Susannenstraße)沿いにありました。ヨーロッパらしく、歩道に席が並んでいます。彼女は店内で働いているわけではなく、チラシや広告などを含めた仕事が中心で、店員という扱いではないようでした。そのため、いきなり訪れても問題なく対応してくれました。メラニーから電話があったようで、訪ねてくることも知っていました。
    久しぶりに再会した彼女は、少し印象が変わりました。日系金融機関の3人組で動いていた時と異なり、自信にあふれた雰囲気を醸し出していました。聞けば、このカフェの経営者が彼氏らしく、経営面で支えていることが自信に繋がったようでした。

     

    店が終わってから、シュテルンシャンツェの夜を案内してもらうことになり、その時に彼氏も紹介してくれることとなりました。レーパーバーンの夜に慣れた身には、この街の雰囲気は似合わない気もしましたが、好意に甘えることにしました。

     

  • ハンブルク 4(Erinnerungen an Hamburg 4)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第4回です。

     

     

    前回は「世界で一番罪深い1マイル」といわれる歓楽街のレーパーバーン(Reeperbahn)をご紹介しました。まだまだ言い足りないことがたくさんありますが、ワインブログの趣旨から大きく外れるので、今回は別の思い出です。

     

    ハンブルク在主のカメラマンたちと、夜に飲み歩くことが多々ありましたが、そんな中、ある3人組の女性たちと親しくなりました。今は名称が異なってしまいましたが、日本の某銀行のハンブルク支店に勤める人たちでした。現地スタッフで、上司が日本人です。ところが、日本語はほとんどできませんでした。それでも日本語を聞きなれているためか、珍しく、すぐに日本人であるこが分かったようです。普段の業務では、顧客対応はドイツ語と英語で、日本語で対応する案件は、日本人が担当していたようです。

     

    その中の一人、アンネマリー(Annemarie)という4つ年上の女性がいました。日系金融機関3人組の中で、もっとも酒に強く、陽気な、頼れる「お姉さん」という印象でした。当時はまだ携帯電話もメールもない時代で、自宅の固定電話の番号しか知らず、しかも一度も電話したことはありませんでした。それもそのはずで、まともにドイツ語で会話できなかったからです。それでも一番気が合ったので、みんなで食事をしたり、飲みに行ったりした際には、身振り手振りを交えて最も多く会話していました。特にそれ以上でもそれ以下でもない関係だったので、ハンブルクを去るときもあっさりとしたものでした。

     

    まさかこのハンブルクに長く滞在することになるとは、夢にも思えなかったものの、ゲーテ・インスティトゥート(Goethe-Institut)の試験を受ける場所を考えていたとき、ふとアンネマリーを思い出したことで、よく考えずにハンブルクへの再訪となったのでした。ハンブルクのゲーテ・インスティトゥートは市の中心部にあり、ホテルだけでなく、ガストホフ、ホストファミリーなどとの提携で、比較的交通至便なエリアを拠点にできるメリットがありました。ここは迷わず思い出のランドゥングブリュッケン(Landungsbrücken)周辺にしました。なんだか地元に戻ってきた感じです。インスティトゥートまでUバーン3号線で1本なので、これも気に入りました。試験に合格したうえで、そのまま次のレベルへと進むことにしたのでした。

     

    ある程度のドイツ語の会話力は身に着けた気になり、アンネマリーに電話してみようと思ったのは、1ヶ月くらい経過してからでした。ところが、電話番号を記入していたノートをなくしたようで、それはできませんでした。何とも情けない話です。
    そんなある日、内アルスター湖南岸のJungfernstiegを歩いていたときのことです。あ、そうそう、この「Jungfernstieg」ですが、「Jungfern」と「stieg」の二つの語句から成り立っています。「Jungfern」は「乙女たち」という意味です。この通りの由来は、18世紀頃に、乙女たち(未婚の女性たち)が男性を探すために散歩した通りだといわれています。本当かどうか知りませんが、現在では高級ブティックなどが立ち並ぶ、少しハイソな雰囲気のある場所です。自分にとっては場違いな場所ですが、内アルスター湖周辺は東京で言えば銀座のような場所でもあり、散策するには最適です。そこで偶然、メラニー(Melanie)と会いました。3人組のリーダー格の女性で、当時は30歳を過ぎていたと思います。

     

     

    自分がハンブルクを離れている間に、彼女は結婚し、ハンブルク近郊のエルムスホルン(Elmshorn)に住んでいるとのことでした。今でも日系金融機関に勤めているとのことでした。話はアンネマリーの近況になり、彼女は銀行を辞め、シャンツェン通り(Schanzenstraße)沿いの店舗で働いているとのことでした。会いにいってあげたら、喜ぶよ、という言葉を受けて、あまり縁のない街のシャンツェンに行ってみることにしました。

     

    シャンツェンといえば、ハンブルクで一番おしゃれに生まれ変わった街といえます。旧市街からは北西に位置し、最寄り駅はSバーン、Uバーンのシュテルンシャンツェ(Sternschanze)駅になります。かつて、この周辺は利便性が良い割に家賃が安かったことから、若い世代の人々やアーティストが多く住むようになりました。それは独自の発展を生み、旅行者にも人気のサブカルチャーの発信地となりました。店舗も多く、しかも大手資本のチェーン店はほとんどなく、個人運営の個性的なショップやカフェなどが点在する街になりました。
    そのまま向かうことにしました。

     

  • ハンブルク 3(Erinnerungen an Hamburg 3)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第3回です。

     

     

    ハンブルクの歓楽街は「世界で一番罪深い1マイル」といわれるレーパーバーン(Reeperbahn)です。「レーパー(Reeper)」は、低地ドイツ語の「ロープ」由来で、港湾都市ハンブルクで、かつては船用のロープを製造する地域だったといわれています。ビートルズがまだ無名だった時代に、このレーパーバーンが活動の中心地だったことでも知られています。そんなレーパーバーンですが、新宿の歌舞伎町に行く気分で、初めてこの街に足を踏み入れました。やはりここは特殊な衝撃を与えてくれる街でした。

     

    ハンザ同盟都市のハンブルクはドイツを代表する港湾都市で、世界中からここの港に船が入港してきました。長い航海を経て港へ帰還した船員は、ハンブルクに無事に上陸すると、ひとときの快楽を求めて歓楽街へと駆け込みました。そのため、飲食店だけでなく、あらゆる種類の風俗産業が発展していきました。ヨーロッパだけでなく、新大陸、アフリカ、中東など、世界中を旅した船員たちのために、合法的なものに限らず、非合法な店舗まで軒を連なるようになりました。さらに民族の積壺のように人々が集まってきたことで、レーパーバーンは人種や民族、宗教などの垣根が低く、誰でも受け入れてきたのです。ここは異邦人のいない街なのです。

     

    そのような意味で、あらゆるものを許容する文化があり、それがドイツ的でもあり、逆にもっともドイツ文化から遠い場所ともいえます。20世紀のヒトラー政権にとっては、ドイツ民族の純化を唱えていましたから、当然ながらこの街は目の敵にされました。異民族による家族的な街だったレーパーバーンに、ナチスは移民に対する取り締まりを強化しました。風俗産業も厳しく締め付けを行いました。第二次世界大戦が終わるとレーパーバーンは、街を立て直すことになりました。自由を取り戻すことになり、風俗産業も蘇りました。

     

    さて、樹木に囲まれたビスマルク記念碑から、ネオンの輝く方向へと進みましたが、この位置関係からすると、日本では歌舞伎町と新宿御苑のような感じかもしれません。ブダペスター通りに出てすぐ左手はミラートンプラッツ、ここで左に入るとレーパーバーンです。
    すぐキャッツの劇団を目にしました。向かい側はカジノです。歌舞伎町と決定的に異なるのは、レーパーバーンがそれなりの規模の道路なので、あまりゴミゴミとした印象がない点です。しかし、路地を入っていくとそこは完全な異世界になります。

     

    街頭に立つ若い娼婦も増えてきました。よく声をかけてきますが、ドイツ語とは限らず英語の場合もあります。ドイツ人だけでなく、トルコ人などのアラブ系やアジア系、中には黒人もいました。また、今ではドイツの主要都市では珍しくないエロスセンターもあります。これはレーパーバーンが最初の施設でした。これにも歴史があって、1960年代後半にハンブルク市議会の承認によって誕生したものです。
    市民の税金で建物を用意し、管理も市が行うというのが他に例のないことでした。その誕生理由は、売春行為を必要悪として捉えることにあり、根絶する事が不可能である以上、娼婦の安全と福祉という観点から行政で管理できる施設をつくったというものだったのです。これでは行政による管理売春ではないか、と思われるかもしれません。しかし実際には行政は場を提供するだけで、個々の部屋の賃貸や営業行為については娼婦の責任で行うということになっているのです。一方客側は、入場料も部屋代も不要になっています。

     

    もうひとつ、ハンブルクで忘れてならないのは「飾り窓」です。
    小さな通りにあり、この小さな通りに入り口には警官が常駐しています。ここで、18歳未満の人と女性が立ち入らないようにチェックしているのです。ここまで管理されているのがハンブルクで、オランダのアムステルダムの「飾り窓」のように性別年齢を問わず自由に通行できるのとは大きく異なります。

     

     

    ここでも様々な思い出があります。自称カメラマン氏や友人のオーストラリア人などは、連日、ここで遊んでいました。さすがにそこまで付き合えない身としては、外でビールを飲みながら、様々な人種の人と歓談していました。

     

  • ハンブルク 2(Erinnerungen an Hamburg 2)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ハンブルク中央駅に降り立つと、とりあえず今日の宿に行くことにしました。チェックインには早い時間ですが、荷物は預かってくれるので、珍しく午前中から宿泊地へと向かうことになりました。ハンブルク在住の自称カメラマンがお勧めするユースホステルです。親切にも連れて行ってくれるとのことで、好意に甘えることにしました。ハンブルクの地下鉄で移動することになりましたが、ハンブルク中央駅の場合は、地下鉄の駅は中央駅の北口駅と南口駅があります。乗車するのはUバーン3号線なので、南口の駅になります。

     

    南口駅から5駅でランドゥングブリュッケン(Landungsbrücken)駅へ移動しました。ここはノイシュタット(Neustadt)地域で港にも近い場所です。埠頭だけでなくレストランやカフェもあります。ここから丘を登った先にユースホステルはあります。ユーゲントヘアベルゲ・ハンブルク・アウフ・デム・シュティントファンというホステルで、港を一望できます。港としては巨大なのがよくわかりますが、海ではなくエルベ川の港というのが驚きでした。日本では河川の巨大な港というのは想像できないものだったので、かなり感動しました。思えば、ここで見た光景こそがハンブルクに魅入られる契機だったかもしれません。

     

     

    ホステルはやはりチェックインできる時間には早かったため、荷物を預かってもらい、早速周辺の散策に出ました。カメラマンと一緒に食事をしてから別れ、一人で埠頭の周辺を歩きました。潮風のない港は穏やかでした。ただこのときはホステルの裏側には行かず、ただ緑が広がっているのを確認しただけでした。
    この樹木に囲まれた地域に足を踏み入れたのは夜になってからでした。木々が生い茂る場所は、外灯の光も届かず、森の中を歩いている気分でした。少し開けた場所に行くと、何者かの像があるのに気づきます。暗いのでよくわかりませんが、あとで調べるとビスマルクでした。彼はドイツ統一の中心人物で、「鉄血宰相(Eiserne Kanzler)」の異名を持っています。正式にはオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen)といい、彼がいなければ現在のドイツはなかったともいえます。

     

    このビスマルク記念碑を抜けると、「世界で一番罪深い1マイル」といわれるレーパーバーンに至りました。

     

     

  • ハンブルク 1(Erinnerungen an Hamburg 1)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第1回です。

     

     

    ドイツでのホームグラウンドといえば、何といってもハンブルク(Hamburg)です。
    初めて訪れたのは、ハンブルク在住のカメラマン、ソ連で知り合ったオーストラリア人と一緒でした。この3人でコペンハーゲンから夜行列車でハンブルク中央駅に降り立ちました。一人で見知らぬ都市に行くのが当たり前の状態でしたが、珍しくコペンハーゲンで意気投合して、一緒にハンブルクへ向かうことになったのでした。これだけでも他のドイツの都市とは異質なことです。

     

    ハンブルクの正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg)」で、市単独で連邦州を構成しています。ドイツでは同じようなパターンでは首都のベルリンが特別市で、やはり単独で州となっています。 人口は約184万人で、ドイツではベルリンに次ぐ第二の規模です。しかし、当時はハンブルクについての詳細なデータはなく、単なるドイツの入り口でしかありませんでした。それが、その後の人生に大きな影響を与える都市になるとは思ってもいませんでした。

     

    特急列車がハンブルク市内に入って最初に停車した駅はハールブルク駅(Bahnhof Hamburg-Harburg)で、長距離列車だけでなく地下にはSバーンのS3号線、S31号線も乗り入れています。市内の中心部とはエルベ川を挟んだ対岸に位置し、どちらかといえば郊外の地区ともいえます。そのため、自然と融合した街並みといえます。ハンブルク工科大学や考古学博物館などもあるエリアです。街から外れれば果樹園もあります。

     

    ようやく眼も覚めてきたときに停車し、再び動きだすとすぐにエルベ川を渡りました。複数の運河を超え、運河に沿って左に大きく曲がると次は中央駅です。アルトナ行きなので、終点の手前の中央駅で下車します。

     

     

    ヨーロッパらしい駅とはいえないのがハンブルク中央駅です。でも逆に日本人には馴染みやすいといえるかもしれません。終着駅ではないので、日本の一般的な駅と同じようにスイッチバックをしないからです。また、一日の平均利用者数は約55万人を誇り、ドイツでは最大の乗降客数です。新宿や池袋に慣れている身としては、この数を見ても親しみが持てます。ただ駅舎の外観は日本と異なり、ヨーロッパらしい雰囲気があります。第二次世界大戦で激しい損傷を受け、戦後に復興されたものです。

     

    ハンブルクは思い出が多く、最初に滞在した場所、生活していた住居、格安でとめていた駐車場、そして何より人間関係と夜の遊び。久しぶりに思い出をこれから紐解いてみようかと思います。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)3

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第3回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)のブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)で見かけた彼女は、フォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)で知り合ったときより、かなり地味な印象でした。たまたまビールのお代わりを頼もうと、店員の姿を確認していたときに、その姿が視界に入りました。思わず声をかけました。しかし、その一瞬後には後悔しました。一人で来ているとは限らす、むしろ誰かと来店している可能性が高いといえます。もしデート中だったら、とんでもない邪魔だと思ったわけです。

     

    彼女が視線をあわせ、一瞬だけ訝しい表情をしたあと、すぐに笑顔になりました。思い出すのに少し時間を要したようです。わざわざ席を立ち、こちらへと近づいてくれました。久しぶり、というありきたりな挨拶をしたものの、彼女はこちらの名前までは思い出せないようでした。日本人の名前など、なじみがないのが当然なので、別段、ショックではありませんでした。覚えていてくれただけでうれしいものです。
    聞けば、同僚と食事をしているようでした。一度、そのテーブルに戻り、二言三言声をかけたあと、ビールのジョッキを持って、こちらのテーブルに移ってきてくれました。

     

    3年近く前、しかも一度しか会っていない人ですが、お互いに強烈なイメージだったのか、純粋に再会を喜ぶことができました。ドイツの再統一直前に再び会えたことになりますが、お互いのフォイヒトヴァンゲン以降の話に花が咲きました。
    彼女はブレーメン芸術大学を出た後、ニュルンベルク美術館(Kunsthalle Nürnberg)に関連する職場で働いているとのことでした。この美術館は1967年に、市内中心部に設立された市立美術館です。行ったことはありませんが、芸術大学出身者が働くことは容易に想像できます。ここに通勤するなら、彼女の出身地のアンスバッハ(Ansbach)からでも無理のない距離といえます。しかし、彼女はニュルンベルクの隣町のフュルト(Fürth)で一人暮らしをしているとのことでした。フュルトはカイザーブルク城の北北西の位置にあり、ニュルンベルクと同一都市圏を形成しています。環状線の「4R」からフュルト通りの8号線に出れば、クルマでも数十分です。確か記憶によればモスクもある街だったはずです。後で調べてみると正しくて、1977年以降にできたモスクで、市内のシュヴァーバッハー通りにあります。トルコ協会による運営されているので、トルコ人の多いドイツならではといえます。

     

     

    今思い出しても、この日の再会は楽しいものでした。
    利害関係の全くなく、お互いの人脈も交差しない相手なので、異国の地で単純に楽しめる会話と、大好きなニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト(Nürnberger Rostbratwurst)にビールです。

     

    この何でもない再会の場所がニュルンベルクだったことで、この街の思い出は、カイザーブルク城などの観光要素より強いものになりました。
    よくよく考えると、バイエルン生まれの彼女でしたが、訛りがあまりなく、特に「s」+「母音」の発音も濁っていました。これが心地よいドイツ語に聞こえたことで、より好印象を持ったかもしれません。日本語のように自由に使いこなせるレベルのドイツ語であれば、また違っていたかもしれませんが、その当時は、この地方でそのようなドイツ語を聞くだけでうれしかったきもします。何とも単純なものです。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)の思い出は、アンスバッハ(Ansbach)やフォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)との関連が強く、この二つの都市との個人的な結びつきがなければ語れないといえます。
    特にフォイヒトヴァンゲンは常宿があり、行きつけのレストランもある都市でした。ここで知り合ったオランダ人からニュルンベルクのユースホステルは最高だよ、と教えてもらったのでした。もうひとつ、 アンスバッハ出身の女性ともここで知り合い、ニュルンベルクで一緒に遊んだことも思いだされます。

     

    ブレーメン芸術大学でAusbildung(職業訓練)をしていた彼女は、夏季休暇を利用して、国内を旅行しながら故郷のアンスバッハへ戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは隣町ともいえるような距離にある都市ですが、ここで友達と合流したのだとか。話した感じでは彼氏のような印象を持ちましたが、突っ込んだ話はしていないので分かりません。
    彼女との出会いは、ガストホフでのことでした。マスターが日本人の新しい常連客ができた、というようなことを他の常連客に話してくれたことで、何となく注目されるようになりました。マスターは初老の男性で、普段は無口な印象でしたが、そのときは陽気で、地元の人たちに紹介してくれたのでした。確かに田舎町での東洋人は華僑を除けば珍しい存在ともいえるのか、酔った地元の人たちから話しかけられるようになりました。
    実はそのときの客に彼女がいたのでした。翌日に地元のアンスバッハへ帰る予定だったようです。

     

    一方、自分はというと、スイスのバーゼルからハンブルクに戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは初めてドイツを旅したときから気に入っている町で、途中の宿泊地としては、わざわざ迂回してでもここを選択したいほどでした。戦後のドイツ軍の駐屯地にもなったことで、よそ者がいても違和感のない点も気に入っていました。
    実はこのときは、彼女と連絡先を交換した程度で、それも社交辞令の延長のようでした。お互いに美術系の大学にいたことで、酒の肴に共通の話題があっただけで、それ以上のものではなかったといえます。

     

    そんな彼女と再会したのがニュルンベルクでした。ウィーンから戻り、ドイツ再統一をどこで迎えようかと考えている途中で、三度目のニュルンベルクへの立ち寄ったときでした。本当はベルリンに行きたかったのですが、当時ハンブルクからベルリンへ向かうアウトバーンが慢性的に渋滞していて、いつも困っていたことを経験しているせいか、どうしても躊躇われていたのでした。

     

    カイザーブルク城の隣の宿にチェックインし、クルマをコインパーキングに駐車すると、丘を下り、ニュルンベルクの街中へと向かいました。夜のニュルンベルクは決して治安が良いとはいえません。もちろんドイツの都市なので、他の欧州諸国の都市と比べればはるかに安全ですが、都市の規模からすると悪い印象です。ハンブルクのザンクトパウリやフランクフルトの中央駅近くに比べるほどではないですが、特に夜は怪しい人がそれなりに目立つ街であるのは事実です。
    お目当てはニュルンベルクソーセージでした。特に「ブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)」という店は有名です。ドイツのソーセージというと太いものをイメージするでしょうが、ニュルンベルクのはミニサイズで、「ニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト Nürnberger Rostbratwurst」という小指ほどのサイズの焼きソーセージが定番です。これは原産地名称保護制度で認められたものだけが名乗ることができるものです。クルマで回避してきた中央広場(Hauptmarkt)はクリスマスマーケットが開催されることでも有名ですが、ここにある聖ゼバルドス教会の隣に店があります。山小屋風の店舗です。煙突があり、ソーセージを焼いた煙が出ています。

     

    ソーセージと言えばビールですが、ここではワインも飲めます。フランケン地方産のワインです。バイエルン州の北端にある地方で、ブドウ畑の総面積は6.100ヘクタールにも及び、辛口ワインで知られます。

     

     

    喧騒の店内ですが、わずかに空いた席があったので、そこに座りました。ビールとニュルンベルガー・ローストブラートヴルストを堪能していると、懐かしい彼女の姿を見かけたのでした。

     

1 2 3 4 5 6

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ