今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ノルトハイム(Nordheim)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノルトハイム(Nordheim)について勝手に語ります。

     

     

    ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡にあるノルトハイム(Nordheim)は、人口が1万人にも満たない小さな町です。もともと4つの地区に分かれていましたが、現在はノルトハイム地区とノルトハウゼン地区の二つから成っています。また、かつてはヴュルテンベルク(Württemberg)の北の国境(Württembergischer Landgraben)でした。

     

    ヴュルテンベルクは領邦国家で、首都はシュトゥットガルト(Stuttgart)でした。シュトゥットガルト近郊のヴィルテンベルク城の城主が近隣地域へと領土を拡大していった国ですが、1268年にホーエンシュタウフェン王朝のコンラディン死去後に、領地の大部分を受け継いだのがヴュルテンベルク伯でした。それ以来、ヴュルテンベルク伯領を拡大させていったのでした。また、珍しいことに、ヴュルテンベルクでは1457年から二院制の領邦議会でした。1495年に公国となりました。大国に囲まれている地域でしたが、それでも存続していきました。宗教改革の時代には、プロテスタント側の勢力が強くなり、カトリック勢力からの圧迫を受けることになりました。その後、フランスからも侵略を受けるようになりました。これは、フランスのブルボン朝とハプスブルクというライバル関係にある大国が、それぞれ進軍する途中に位置していたことも関係したといえます。

     

    ノルトハイムについては、三十年戦争でも大きな影響を受けました。人類史上最も破壊的な紛争の一つだったことから、ノルトハイムの町は壊滅状態になるほどの被害となりました。
    復興とは別に、1700年になると、ピエモンテから逐われたヴァルドー派の人々が新たな村をつくりました。この新しい村がノルトハウゼンという名で、1975年にノルトハイムと合併しました。

     

    そのような経緯から、ノルトハウゼン地区のプロテスタント教会は、ヴァルドー派の教会組織だったわけですが、19世紀にヴュルテンベルクの地方教会組織に編入されました。現存するプロテスタントの牧師館は、1763年に建てられたもので、ロココ建築でヴォルムス司教区の行政機関として建設されたものでした。一方、聖マリア教会はカトリックで、1990年に建築家フーゴ・クラッハにより建設された新しい建物です。

     

     

    ワイン生産地としての歴史もあり、典型的なワイン製造所が史跡となっていて、附属するブドウ畑などもあります。近代化が進んだ時期でも、この地域のワイン生産は昔ながらの手法で、続いていました。

     

  • ティルス(Tyrus)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はティルス(Tyrus)について勝手に語ります。

     

     

    中東のレバノンでは、古代フェニキア人が広範囲にわたってワインの交易を広く行っていた遺跡として、レバノンでは最古のワイン圧搾機が発掘されました。古代フェニキア人は、ワインの醸造技術を古代の地中海沿岸地域に広め、それとともにたグラスなどと一緒にワイン文化を広めたのでした。そのフェニキア人の都市国家の中で最大級の規模を誇こり、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都だったのが、ティルス(Tyrus)です。現在の名はスールで、スールのある位置にかつてティルスがあったということのようです。

     

    ティルスが都市として誕生したのは、紀元前2500年ごろだったのではないかといわれています。この誕生は、ビブロスやベイルートと同じような時期だったかもしれません。ティルスは紀元前1000年頃には、陸地から1キロメートルほど離れた小島に移転しました。この頃までには、フェニキアの首都となり、最盛期は紀元前11世紀から紀元前9世紀頃でした。また、ティルスの植民都市としてカルタゴが建設されました。

     

    これが紀元前9世紀から紀元前8世紀には、アッシリアが強大化してきたことにより、フェニキアの勢力は失われていきました。結局、アッシリアに従属することになりました。しかし、紀元前701年はエジプトと同盟し、アッシリアに反乱を起こしました。アッシリア王センナケリブは、遠征軍がティルスを包囲しました。この状態は5年間続き、ティルスはその間、抵抗し続けました。しかし、最終的にアッシリアに服属することになりました。 紀元前669年にもエジプトとともに反乱を起こしました。このときのアッシリア王はエサルハドンで、やはり遠征軍が攻撃を仕掛けてきました。

     

    紀元前585年には新バビロニアのネブカドネザル2世の遠征軍が包囲しました。これは13年間も続きました。このときも結局、抵抗しきれず、服属することになりました。さらに、 紀元前332年にはマケドニアのアレクサンドロス3世が攻めてきました。このときは、フェニキアの中で唯一激しく抵抗したのがティルスでした。このときも包囲されました。要塞に立てこもりましたが、アレクサンドロス3世の軍は、海上封鎖をすることで、7ヶ月かけて島との間を埋め立てたのでした。これで小島にあったティルスが、突堤を築かれたことで半島になりました。激しい攻防が続き、アレクサンドロス大王軍も苦戦したものの、最終的にティルスは陥落しました。ティルスの死者は8,000人、陥落後はさらに2,000人が殺害されたといいます。さらに奴隷として3万人のティルス市民が囚われたようです。

     

    セレウコス朝シリア、ローマ帝国などと支配者は変わり、12世紀には十字軍がやってきました。イスラム勢力と十字軍との対立構造たなりましたが、ティルスのイスラム化は進んでいきました。それとともにティルスの重要性は失われ、都市も縮小していき、ついには廃墟と化しました。もはや都市の面影は皆無で、遺跡としても残っていません。小さな村が点在するだけとなり、そのティルスの跡地にスールという町ができているだけです。

     

     

  • キリストの血入門 36

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第36回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はジャン・カルヴァン(Jean Calvin<)を取り上げました。今回はフランスのユグノー(Huguenot)です。

     

    前回のカルヴァンに関係して、フランスでの改革派教会をカルヴァン主義やカルヴァン派といいますが、これをユグノー(Huguenot)といいます。民間伝承の「ユゴン王」という幽霊や妖怪に結びつけた呼び名だとか、スイスでサヴォワ公に反対した「連合派(Eidgenossen)」に由来するともいわれています。他にもいろいろな説があります。ただ、もともとは蔑称だったようです。イギリスのピューリタンも同様だったようです。

     

    カルヴァンの思想の根幹にあるのは予定説でした。現世において、勤勉であることこそが神の意志に沿ったことだというものです。そのため、勤勉に生きた結果で得られた富というものは、自分の稼いだ利益ではなく、神から与えられたものだ、となります。この考え方は商工業者にとって、「稼ぐ」ことを正当化することになり、カルヴァン派にとっては、商工業の盛んな都市部を中心に広がるようになりました。また、これは有力貴族の中にも賛同者が増えました。カトリックの多い貴族層の中で、カルヴァン主義のユグノー派が台頭し、両者の対立関係ができました。

     

    このカトリックとユグノーの対立が深刻化していき、これがユグノー戦争に発展しました。まず、アンボワーズの陰謀(Conjuration d’Amboise)がありました。1560年でした。カルヴァン派の貴族だったジャン・デュ・バリーたちが、アンボワーズ城でフランス国王フランソワ2世を誘拐し、カトリック強硬派のギーズ家を排除しようと画策した陰謀事件でした。しかし陰謀は未然に露見し未遂で終わりました。このとき、容疑者数百名以上が処刑されたといわれます。この背景には、フランソワ2世はまだ15歳で、しかも病弱であり、政治的能力にも乏しかったことから、フランソワの妃であるスコットランド女王メアリーの母方の親族であるギーズ家が実権を握っていたことにあります。ギース家はフランスのカトリック教会の首長がいたり、熱狂的なカトリック信者だったことから、アンボワーズの陰謀を画策したカルヴァン派は不満を募らせていたのでした。

     

    そのフランソワ2世は、その9か月後に死去し、弟のシャルル9世が即位しました。王太后のカトリーヌ・ド・メディシスが事実上の政治権力を濁りました。彼女は敬虔なカトリック信者でしたが、圧倒的な影響力を誇るギーズ家に対抗するために、ブルボン家を優遇することにしました。ブルボン家こそはユグノーの盟主でした。翌年、カトリーヌはオルレアン寛容勅令を出したことで、ギーズ公フランソワがあからさまな反動政策をとるようになりました。アンヌ・ド・モンモランシー、ジャック・ド・サンタンドレとの三頭政治を結成したのでした。ポワシー会談という宗教会談が開かれ、カトリック側とユグノー側での会談が実現しました。しかし、最終会談でカトリックとユグノーの思想の溝は、もはや修復不能の状態であることが分かっただけでした。

     

    1562年には、サン・ジェルマン勅令(1月勅令)を発せらました。反乱を回避することを目的とするもので、ユグノーに譲歩するものでした。しかし、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の家臣たちが、プロテスタント教会での礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃するという事件が起きました。しかも虐殺してしまったのでした。ヴァシーの虐殺という事件でした。サン・ジェルマン勅令に従っで礼拝を行っていたユグノーへの虐殺事件だったようです。

     

    このヴァシーの虐殺は、カトリックとユグノーの宗派抗争を引き起こすことになりました。ユグノー側のブルボン家のコンデ公ルイはプロテスタント教会を組織化し、ロワール川沿いの町々を占拠していきまいた。軍隊を占領地に配備していきました。さらに、イングランドの女王エリザベス1世との間にハンプトン・コート条約を結びました。援助を求めたわけですが、その見返りにル・アーヴル、ディエップ、ルーアンを引き渡すことにしたのでした。これにより、イングランド軍も上陸してきたのでした。戦争は激化し、1562年はルーアン包囲戦が起こり、国王軍が町を奪回したものの、ナバラ王アントワーヌが戦死しました。同年のドルーの戦いではコンデ公ルイがギーズ家の捕虜になり、一方で司令官のアンヌ・ド・モンモランシーが捕らえられたりしました。翌年ののオルレアン包囲戦では、ついにギーズ公フランソワが銃撃され、死亡しました。さらに暴動が激しくなり、オルレアンも陥落しないため、カトリーヌにより和平調停を行うことになりました。これでンボワーズ勅令が発せられました。

     

  • ブラショヴ(Brașov)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブラショヴ(Brașov)について勝手に語ります。

     

     

    ルーマニアのほぼ中央に位置し、首都のブカレストから約140㎞離れた地にブラショヴ(Brașov)があります。トランシルヴァニア地方の中心的都市の一つで、12世紀にハンガリー王ゲーザ2世に招かれたトランシルヴァニア・ザクセン人たちにより、本格的な都市が築かれました。そのため、ザクセン人が中心となって居住する都市で、都市名も「クローンシュタット(Kronstadt)」というドイツ名でした。ザクセン人以前は、ブルガリア人の居住地だったところだったようで、ハンガリー王国が支配するようになってから、イシュトヴァーン1世によって城塞が築かれ、それをエンドレ2世によってドイツ騎士団に与えました。ドイツ騎士団が1225年に立ち退かせられるまで続きました。

     

    クローンシュタットはドイツの植民地だったということで、ルーマニア人は市民という扱いから外れていました。しかも、ルーマニア人の信仰するキリスト正教会は異端扱いされ、トランシルヴァニアで認められていないものでした。その結果、虐げられたルーマニア人が生きていくためには、郊外での羊飼いか、あるいは密輸をするしかありませんでした。居住が許された場所も、当然ながら都市の中心部ではなく、町はずれの場所でした。それでも、彼らは市民としての権利を求める運動をしていました。それが実ったのは、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の時代でした。わずかに10年間だけでしたが、ルーマニア人がクローンシュタット市民として認められたのでした。

     

    20世紀には2つの世界大戦がありました。1918年にトランシルバニアがルーマニアに併合されました。それでも、ザクセン人はルーマニアに併合されても、そのままの地位を保っていました。しかも、2つの大戦に挟まれた時代には、ブラショヴは経済的な発展をとげ、文化面でも輝いていました。これが大きく変わったのが、第二次世界大戦後でした。ナチス・ドイツの敗北と、ソ連の台頭により、ザクセン人というドイツ系市民は、ソ連によって追放されたのでした。多くのザクセン人は、ルーマニアから旧西ドイツへと移っていきました。ユダヤ人もイスラエルへと移住していきました。

     

    東西冷戦時代となり、ソ連の衛星国となったルーマニアで、ブラショヴは工業化へと進んでいきました。都市名もソ連のヨシフ・スターリンにちなみ、スターリン市(Orașul Stalin)と呼ばれる時期がありました。そして、1989年にルーマニア革命がおき、ブラショヴでは84人の死者、236人の負傷者が出ました。

     

     

  • ハンブルク 7(Hamburg 7 und Bremervörde)ブレーマーフェルデ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第7回です。

     

     

    前回は、1990年にフランクフルトで失踪したピアニスト捜索事件と関係する話で、ハンブルク郊外のシュターデ(Stsde)に向かった話でした。今回はその続きで、シュターデからブレーマーフェルデ(Bremervörde)に方向転換です。

     

    ハールフルガー通りはADAC Weser-Ems e. V. Stadeで左に大きく曲がります。そのまま道路に沿って進むと、ハルゼンフェルダー通りとぶつかり、ハールフルガー通りは今度は右に曲がります。この先にSバーンのシュターデ駅が左手にあり、すぐハンゼ橋で運後を渡り、旧市街へと入ります。ここを時計と反対まわりで進み、ハンゼ通りからロータリーを経由してシュターダー・シュネー通りに入りました。この周辺は戸建て住宅の並ぶ地域です。目指す場所もこの近くのはずです。

     

    日本と違って、住所は通りの番地を追っていけば良いので、目指す家も容易に見つけられるはずでしたが、思ったより時間がかかりました。それでも目的地に着き、目の前に路上駐車もできました。しかし、会いたい相手は不在でした。教会の関係する楽団に所属していて、今日はブレーマーフェルデ(Bremervörde)にいると、彼女の母親が答えました。いきなり訪れた日本人でしたが、やはり、フランクフルトで知り合った日本人のことを知っていたようで、それほどの不信感もなく対応してくれました。最初からスンナリと会えると思っていなかったので、むしろ、ブレーマーフェルデ滞在中の詳しい情報を教えてもらえたことに感謝でした。

     

    ブレーマーフェルデは、シュターデから近く、わずかに30㎞程度の距離です。同じニーダーザクセン州に属します。この街は何といってもフェルデ城が有名です。12世紀初め、ロタール3世がまだローマ皇帝になる前、この地に城砦を建設したことに始まる城です。規模もさることながら、エルベ川とヴェーザー川を結ぶ地域であることから、地理的、戦略的に重要な城となりました。実際、その後の歴史でも、多くの戦闘の舞台となりました。最終的には、の城砦はブレーメン大司教の所有となり、大司教領全地域の行政での中心地となりました。まさに、俗界と聖界を代表する場で、しかも大司教は本来いるべきブレーメンより、ブレーマーフェルデでの滞在のほうが多かったようです。

     

     

    シュターデからは、ほぼ74号線だけで行けるので楽そうです。ガソリンが少なくなっているので、途中で給油すれば問題ないでしょう。そう思って、再びクルマに乗り込んだのでした。

     

  • オシ(Ош)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオシ(Ош)について勝手に語ります。

     

     

    オシ(Ош)はキルギス南部のフェルガナ盆地にある都市で、国内第二の規模を誇ります。そのため「南部の首都」とも形容されていて、しかも歴史的には3,000年前まで遡ることができます。

     

    【参考ページ】
    日本の「隠れた兄弟国」
    ビシュケク(Бишкек)
    イシク・クル(Ысык-Көл)
    ジャララバード(Жалалабат)

     

    現在は人口が約22万人の都市で、多種多様な民族が集まっています。キルギス人、ウズベク人、ロシア人、タジク人などで、それ以外にも少数民族が多くいます。 この多様さは、古代シルクロードの時代にまで遡ることができます。中央アジアでは最古の植民都市で、シルクロードでは、オシの先にアライ山地があり、そこを越えると現在の中国に繋がる場所として重要拠点でした。さらに中世からは、パミール高原経由でタジキスタンのホログへ至るルートも誕生し、こちらもその街道の起点になっていました。それだけ古くから、様々な民族がここで交差していたわけです。

     

    16世紀初頭、このフェルガナ盆地にバーブルが誕生しました。彼の名の「バーブル」はトラを意味し、3度目のサマルカンド奪回に失敗し、その後にインドへと進出し、ムガル帝国を建国しました。軍事力に優れていただけでなく、文人としても優れていたことで知られる人物です。彼はこの地で生まれだだけでなく、名高い君主になることを決意したともいわれる伝説があります。また、若い頃のバーブルは禁欲的な生活をしていましたが、1506年の宴席で初めてワインを飲んだといわれています。これ以降、バーブルはワインを大量に飲むようになったそうです。それほどワインを好んでいましたが、一方でビールは好きではなかったようです。ただ、1527年のラージプートとの戦いに際し、禁酒の誓いを立てました。

     

    シルクロードの重要な都市であり、ムガル帝国のパープルを生んだ地域は、19世紀になると、ヨーロッパ列強の影響を受けることになりました。それがグレート・ゲーム(The Great Game)でした。イギリスとロシアによる敵対関係や戦略的抗争で、アフガニスタン争奪抗争から生まれたものです。両者は一進一退を繰り広げ、その攻防をチェス盤上のゲームに見立てたものでした。この中央アジアでの英露抗争では、イギリス(大英帝国)とロシア帝国(のちにソ連)だけでなく、大日本帝国、アメリカ合衆国、中国なども関係していて、第二次世界大戦以降は米ソの東西冷戦にまで繋がるものでした。中央アジアは帝国主義の空白エリアだったことから、このような舞台になってしまいました。このグレート・ゲームにり、オシは1876年にコーカンド・ハン国からロシア帝国に支配者が変わりました。

     

    ロシア革命が起き、ロシア帝国がソ連となると、1924年にカラ=キルギス自治州、1926年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国 、そしてキルギス・ソビエト社会主義共和国となりました。オシはキルギスに組み込まれました。しかし、本来であれば、キルギスよりウズベクに組み込まれるほうが自然ではありました。それは民族構成や地理的な点から見た場合でした。これには社会主義政権という立場から、遊牧民族にも都市が必要という理由で、キルギス領としたようです。

     

    そしてソ連が崩壊すると、中央アジアの国々は相次いで独立へと向かいました。ただ、オシやその近郊では、キルギス人とウズベク人の間で衝突が起きました。このときの犠牲者は約1000人といわれます。2010年にもオシ暴動はおき、このときは100人以上が犠牲者となり、けが人も1000人以上でした。

     

     

    この暴動はかなり悲惨な状況を招き、警察は秩序を回復することができませんでした。そのため、軍隊が出動し、非常事態宣言が出されたのでした。

     

  • トースハウン(Tórshavn)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はトースハウン(Tórshavn)について勝手に語ります。

     

     

    フェロー諸島(Færøerne)は北大西洋にある諸島で、スコットランドのシェトランド諸島とノルウェー西海岸、アイスランドの間にあります。デンマークの自治領ですが、「フェロー諸島共和国」として、デンマークから独立する動きもあるそうです。その中心都市は、ストレイモイ島のトースハウン(Tórshavn)です。人口は約1万9,000人です。 「トールの港」という意味で、「トール」は、北欧神話の雷鳴と稲妻の神のことです。

     

    ここの歴史はノルウェー王国(Kongeriket Norge/Noreg)から始まります。ノルウェーは10世紀初めに統一王国が成立した国ですが、ノルウェー最初の統一王とされるハーラル1世(Haraldr hinn hárfagri)が、強権的な圧制だったことから、そこから逃げ出して島への入植がはじまったといわれています。しかし、ハーラル1世は必ずしも略奪的なヴァイキングではなく、交易に関与して、沿岸航路の安全をはかる必要のあった豪族たちと協働した統一だったという説もありますので、実際には、この入植についての真実は分かりません。 ともかく、825年にティンガネスに独自の議会が設立され、ここの半島がトースハウン港を2つに分けています。議会は中立の立場ということで、このときは誰も住んでいない無人地域にありました。

     

    やがてヴァイキングの時代が終焉し、交易を中心としたフェロー諸島の港として成長していきました。1271年にはノルウェー王室の貿易専売所が置かれることにもなりました。この時からフェロー諸島全体の中心都市という役割になりました。ヨーロッパ本土と離れている島ではありますが、16世紀には宗教改革の影響も受けました。その一方で、海賊の略奪行為も問題となりました。そのため、要塞も築かれるようになりました。

     

    17世紀になると、デンマーク王のフレデリク3世(Frederik III)が現れました。彼はスウェーデンとの戦争で苦戦を強いられ、領土の割譲をせざるをえない状態になりましたが、内政では国民の人気が高く、デンマークに絶対主義をもたらした王でした。そのフレデリク3世が、クリストファー・ゲーベルにフェロー諸島を下賜しました。ゲーベルは島を統治し、島民を抑圧していきました。しかも貿易による莫大な利益はゲーベルが独占したのでした。島へ入ってくる品々の価格も上昇させました。これに反発した島民は、ついに1673年に蜂起し、ゲーベル家の支配する施設を焼き討ちしたのでした。

     

    その結果、貿易については、王室の管理に戻されることになりました。これで安定を回復することになりました。さらにデンマークのコペンハーゲンからの船が往来するようになり、生活品もフェロー諸島にいきわたるようになりました。しかし、都市部からの船の往来の増加は、トースハウンに天然痘まで運んでくるようになり、、住民のほぼ全員が死亡するという大惨事に発展しました。再建に向かったのは、18世紀後半まで待たなければなりませんでした。貿易面では水産品が中心でしたが、実は英仏戦争の際にはイギリスへの密輸が大きな利益を得たのでした。こうして、1856年からはフェロー諸島が自由貿易を活発化させたのでした。

     

    20世紀の第二次世界大戦では、ナチス・ドイツのノルウェー・デンマークへの侵攻があり、対抗するためにイギリスが「ヴァレンタイン作戦」にでフェロー諸島に進攻してきました。そのため、英国の占領下に置かれる時代となりました。戦後はイギリス軍も撤退し、現在では周囲の町と合併し、トースハウンは新たな成長を迎えました。

     

     

  • サン・セバスティアン(San Sebastián)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサン・セバスティアン(San Sebastián)について勝手に語ります。

     

     

    サン・セバスティアン(San Sebastián)は、スペインのビスケー湾に面し、フランスとの国境からわずかに約20 kという位置にある都市です。都市の人口は約19万人、都市圏人口は約44万人です。スペインを代表する観光地のひとつです。 ビスケー湾には、ラ・コンチャ海岸という砂浜のビーチがあり、スペインというよりヨーロッパを代表する海水浴場ともいえます。この海岸に沿って遊歩道があり、ここも有名なスポットになっています。また、ビーチの先にはサンタ・クララ島があり、この島も観光名所となっています。

     

    バスク地方ということもあり、スペイン料理とは異なるバスク料理が観光客に人気で、有名なレストランが多くあります。そこで、バスク料理とワインという組み合わせも最高です。また市内には数えきれないほどのバルがあり、それらを巡るのも観光の目玉といえます。

     

    ワインという観点では、サン・セバスティアンの古い文献から、聖セバスティアンの修道院には、サガルド(Sagardo)というバスク地方のシードル(リンゴ酒)をつくるためのリンゴ園があり、ナバラ王国のサレイレ修道院(Monasterio de Leyre)に寄進されたとあります。このレイレ修道院は、サン・サルバドール修道院 ( Monasterio de San Salvador de Leyre)ともいい、ロマネスク様式で、ナバラ王国のサンチョ3世が「国の心臓」だと賛辞を述べたものです。このように、サン・セバスティアンはナバラ王に自治権を与えられていて、それは1181年まで続きました。

     

    しかし、1200年にカスティーリャ王国に征服されてしまいました。自治権は維持できましたが、ナバラ王国はサン・セバスティアンがなくなったことで、大西洋直結ルートがなくなってしまいました。1265年には、カスティーリャ王国とナバラ王国の協定により、サン・セバスティアンが再びナバラ王国に戻りました。都市としては主に貿易が発展し、しかも戦争から逃れたことで、サン・セバスティアンもギプスコア地方の一部として中心的役割まで担うようになっていきました。ただそれも、1489年に大規模な火災が発生し、都市は荒廃することになりました。この反省を活かし、復興は主に石材を使用した新たな街づくりとなりました。

     

    その後、戦争や疾病などの流行もあり、サン・セバスティアンは衰退時期を迎えたりしましたが、1656年にマリア・テレサとルイ14世の婚姻の際、サン・セバスティアンはスペイン王室の司令部となりました。18世紀になってからはフランス軍に包囲されましたが、都市が破壊されることは免れ、新大陸のスペイン領との貿易で繁栄するようになりました。このサン・セバスティアンの繁栄は18世紀末まで続きました。これがスペイン独立戦争となり、ナポレオン1世に占領されることになりました。これはイギリス海とフランス軍の対立をも招き、さらに、サン・セバスティアン市民フランスに対する反発感情が残りました。

     

    本格的なリゾート地になったのは、20世紀からですが、不安定な経済状況や内戦なども経て、現在の姿へと変貌していきました。今では優雅なリゾート地ですが、歴史を紐解くと、かならずしも順調に今の地位を築いたわけではないことが良く分かります。

     

     

  • ボツワナ共和国(Lefatshe la Botswana)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はボツワナ共和国(Lefatshe la Botswana)について勝手に語ります。

     

     

    アフリカのワインといえば、南アフリカ共和国がもっともワイン生産が盛んなイメージがあります。その隣の国であるボツワナ共和国(Lefatshe la Botswana)はどうかというと、ブドウを栽培している情報はなさそうです。それでも周縁を高地で囲まれ、標高も1000メートル前後あるため、年平均気温は20~23度で、アフリカのイメージとは程遠く、温帯の地域と同じような感じです。しかし、ヨーロッパや日本と違い、気温の変動幅が大きい地域です。夏は酷暑、冬は氷点下というくらいの変動があります。また、夏は雨季、冬は乾季となっています。海から離れた内陸国で、平原の広がる盆地になっています。おもしろいのはザンビアとの国境で、その距離はわずか約150mで、世界で一番短い国境線になっています。ワイン生産の盛んな南アフリカ共和国を構成する民族がツワナ系の人々ですが、ボツワナにも多く居住しています。

     

    そのツワナ系の人々ですが、18世紀前半に南アフリカ共和国のトランスバール地方からこの地域に移住してきました。そこでバクウェナ首長国やバタワナ首長国などのツワナ系の首長国が成立しましたが、1885年にイギリスにより保護領の一部となり、1885年にはイギリスの保護領化が宣言されました。19世紀後半から、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、トランスヴァール共和国と、南ナミビアを保護領化したドイツ帝国の間にツワナ系首長国が挟まれました。この状態に対して、1885年にイギリスは遠征隊を派遣しました。トランスヴァール共和国から西へと進むてボーア人を追放し、ドイツ保護領のすぐ近くまで領域まで近づきました。そこで、1890年にドイツと協定を結びました。これが現在のボツワナ共和国の前身となる領域になりました。

     

    20世紀には、南アフリカ連邦が発足し、第二次世界大戦後に合同諮問評議会が設立され、1960年に憲法が制定されました。そして1966年9月30日にボツワナ共和国として独立しました。独立当初は、ボツワナは世界的に最貧国のひとつでした。インフラも整備されていなく、隣の南アフリカはアパルトヘイト政策で、ナミビアはその南アフリカが占領しているという状態でした。それが大きな変革となったのが、世界最大規模のダイヤモンド鉱山であるオラパ鉱山の発見でした。これによって、教育、医療、インフラ整備が一気に進みました。ボツワナ経済も最貧国からの脱却へと進んでいきました。

     

     

    また、ボツワナと北朝鮮の関係も有名です。まだ冷戦中の1974年に、ボツワナと北朝鮮は外交関係が樹立されましたが、2013年にボツワナ政府は北朝鮮における人権侵害の状況を憂慮し、北朝鮮との二国間における協力関係を停止しました。2014年には、北朝鮮代表団が、国際連合のボツワナ常駐代表だったチャールズ・トヘンバニ・ントワーハエに対し、人種差別的な薄汚い言葉を投げかけたということが報道されました。その内容は、ントワーハエに対して、、「that black bastard」と言ったというのです。翌年、韓国を訪問していたボツワナのイアン・カーマ大統領は聯合ニュースのインタビューで、北朝鮮と断交した理由として、人権蹂躙と近隣諸国に対する威嚇の二点を挙げました。猛烈な批判をしたことで知られています。

     

    なじみのなく国でしょうが、コロナ禍の今、外出自粛で自宅で過ごす中、世界の知られざる国について情報を得るのも良いのではないでしょうか。ワインでも傾けながら。

     

  • ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)について勝手に語ります。

     

     

    ワインに氷を入れて飲む人が多いというパラグアイ共和国(República del Paraguay)ですが、その首都はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)、またはアスンシオン(Ciudad de Asunción)です。「聖母の被昇天 (Asunción de María)」に由来する都市で、都市単体では人口が52万人程度ですが、都市圏では200万人を超します。

     

    【関連ページ】
    パラグアイ共和国(República del Paraguay)

     

    スペイン人によってつくられた都市で、もともとは砦でした。1537年、ラプラタ川から現在のボリビアに相当するアルト・ペルーへ抜ける陸路を探す際に、ここに砦をつくったことが都市の始まりでした。しかし、先住民との戦いが続き、この砦にブエノスアイレスからの避難者が集まってきました。このような過程を経て、人口が増加し、軍事的な防衛設備のもとに都市としての機能が加わることになりました。そのためか、南米の中では、比較的歴史の古い都市となりました。

     

    さらに、ここを拠点として、ラプラタ川流域内外という広い地域に次々と都市建設を行うようになりました。そのため、、諸都市の母 (Madre de Ciudades) とも呼ばれるようにもなりました。アスンシオンは、南米大陸の中南部を征服し、植民地を建設するための基地でもあったということになります。このような都市はパラグアイだけでなく、ボリビア、アルゼンチンなどの広範囲に渡りました。アルゼンチンのブエノスアイレス(Buenos Aires)などもその一つです。

     

    1865年には、三国同盟戦争が勃発しました。別名はパラグアイ戦争(Guerra del Paraguay)です。パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル帝国・ウルグアイの三国同盟軍が戦闘したものです。南米戦史の中で最も凄惨な武力衝突といえます。当時、ウルグアイはブラジル・アルゼンチンの緩衝国でしたが、ここでウルグアイの内乱が起こり、そこにパラグアイの独裁者フランシスコ・ソラーノ・ロペス (Francisco Solano López)が介入したことによるものでした。ただ南米だけの局地的な戦争というものではなく、この裏には、南米の植民地支配のヨーロッパ列挙の影響や、新たにイギリスが南米に対する経済的な関心を寄せたことも関係していました。この戦争のとき、アスンシオンはブラジルの軍隊に占領されました。そのため遷都することになり、ルケにしました。しかし、ルケも危険になりピリベブィ (Pirivevyi) へと移転しました。距離は60kmも東へと移動したことになりました。

     

    三国同盟戦争が終結すると、独裁者ロペスの政権により、国外追放された人々などを続々と帰国させました。この戦争で多くの成人男性が死傷し、人口減少対策として、行ったものでした。また、ブラジル軍の占領が続いたため、ブラジルの傀儡政権をたてました。これは1876年まで続きました。

     

     

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