今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ノルトハイム(Nordheim)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノルトハイム(Nordheim)について勝手に語ります。

     

     

    ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡にあるノルトハイム(Nordheim)は、人口が1万人にも満たない小さな町です。もともと4つの地区に分かれていましたが、現在はノルトハイム地区とノルトハウゼン地区の二つから成っています。また、かつてはヴュルテンベルク(Württemberg)の北の国境(Württembergischer Landgraben)でした。

     

    ヴュルテンベルクは領邦国家で、首都はシュトゥットガルト(Stuttgart)でした。シュトゥットガルト近郊のヴィルテンベルク城の城主が近隣地域へと領土を拡大していった国ですが、1268年にホーエンシュタウフェン王朝のコンラディン死去後に、領地の大部分を受け継いだのがヴュルテンベルク伯でした。それ以来、ヴュルテンベルク伯領を拡大させていったのでした。また、珍しいことに、ヴュルテンベルクでは1457年から二院制の領邦議会でした。1495年に公国となりました。大国に囲まれている地域でしたが、それでも存続していきました。宗教改革の時代には、プロテスタント側の勢力が強くなり、カトリック勢力からの圧迫を受けることになりました。その後、フランスからも侵略を受けるようになりました。これは、フランスのブルボン朝とハプスブルクというライバル関係にある大国が、それぞれ進軍する途中に位置していたことも関係したといえます。

     

    ノルトハイムについては、三十年戦争でも大きな影響を受けました。人類史上最も破壊的な紛争の一つだったことから、ノルトハイムの町は壊滅状態になるほどの被害となりました。
    復興とは別に、1700年になると、ピエモンテから逐われたヴァルドー派の人々が新たな村をつくりました。この新しい村がノルトハウゼンという名で、1975年にノルトハイムと合併しました。

     

    そのような経緯から、ノルトハウゼン地区のプロテスタント教会は、ヴァルドー派の教会組織だったわけですが、19世紀にヴュルテンベルクの地方教会組織に編入されました。現存するプロテスタントの牧師館は、1763年に建てられたもので、ロココ建築でヴォルムス司教区の行政機関として建設されたものでした。一方、聖マリア教会はカトリックで、1990年に建築家フーゴ・クラッハにより建設された新しい建物です。

     

     

    ワイン生産地としての歴史もあり、典型的なワイン製造所が史跡となっていて、附属するブドウ畑などもあります。近代化が進んだ時期でも、この地域のワイン生産は昔ながらの手法で、続いていました。

     

  • ティルス(Tyrus)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はティルス(Tyrus)について勝手に語ります。

     

     

    中東のレバノンでは、古代フェニキア人が広範囲にわたってワインの交易を広く行っていた遺跡として、レバノンでは最古のワイン圧搾機が発掘されました。古代フェニキア人は、ワインの醸造技術を古代の地中海沿岸地域に広め、それとともにたグラスなどと一緒にワイン文化を広めたのでした。そのフェニキア人の都市国家の中で最大級の規模を誇こり、紀元前1000年頃にはフェニキアの首都だったのが、ティルス(Tyrus)です。現在の名はスールで、スールのある位置にかつてティルスがあったということのようです。

     

    ティルスが都市として誕生したのは、紀元前2500年ごろだったのではないかといわれています。この誕生は、ビブロスやベイルートと同じような時期だったかもしれません。ティルスは紀元前1000年頃には、陸地から1キロメートルほど離れた小島に移転しました。この頃までには、フェニキアの首都となり、最盛期は紀元前11世紀から紀元前9世紀頃でした。また、ティルスの植民都市としてカルタゴが建設されました。

     

    これが紀元前9世紀から紀元前8世紀には、アッシリアが強大化してきたことにより、フェニキアの勢力は失われていきました。結局、アッシリアに従属することになりました。しかし、紀元前701年はエジプトと同盟し、アッシリアに反乱を起こしました。アッシリア王センナケリブは、遠征軍がティルスを包囲しました。この状態は5年間続き、ティルスはその間、抵抗し続けました。しかし、最終的にアッシリアに服属することになりました。 紀元前669年にもエジプトとともに反乱を起こしました。このときのアッシリア王はエサルハドンで、やはり遠征軍が攻撃を仕掛けてきました。

     

    紀元前585年には新バビロニアのネブカドネザル2世の遠征軍が包囲しました。これは13年間も続きました。このときも結局、抵抗しきれず、服属することになりました。さらに、 紀元前332年にはマケドニアのアレクサンドロス3世が攻めてきました。このときは、フェニキアの中で唯一激しく抵抗したのがティルスでした。このときも包囲されました。要塞に立てこもりましたが、アレクサンドロス3世の軍は、海上封鎖をすることで、7ヶ月かけて島との間を埋め立てたのでした。これで小島にあったティルスが、突堤を築かれたことで半島になりました。激しい攻防が続き、アレクサンドロス大王軍も苦戦したものの、最終的にティルスは陥落しました。ティルスの死者は8,000人、陥落後はさらに2,000人が殺害されたといいます。さらに奴隷として3万人のティルス市民が囚われたようです。

     

    セレウコス朝シリア、ローマ帝国などと支配者は変わり、12世紀には十字軍がやってきました。イスラム勢力と十字軍との対立構造たなりましたが、ティルスのイスラム化は進んでいきました。それとともにティルスの重要性は失われ、都市も縮小していき、ついには廃墟と化しました。もはや都市の面影は皆無で、遺跡としても残っていません。小さな村が点在するだけとなり、そのティルスの跡地にスールという町ができているだけです。

     

     

  • オシ(Ош)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオシ(Ош)について勝手に語ります。

     

     

    オシ(Ош)はキルギス南部のフェルガナ盆地にある都市で、国内第二の規模を誇ります。そのため「南部の首都」とも形容されていて、しかも歴史的には3,000年前まで遡ることができます。

     

    【参考ページ】
    日本の「隠れた兄弟国」
    ビシュケク(Бишкек)
    イシク・クル(Ысык-Көл)
    ジャララバード(Жалалабат)

     

    現在は人口が約22万人の都市で、多種多様な民族が集まっています。キルギス人、ウズベク人、ロシア人、タジク人などで、それ以外にも少数民族が多くいます。 この多様さは、古代シルクロードの時代にまで遡ることができます。中央アジアでは最古の植民都市で、シルクロードでは、オシの先にアライ山地があり、そこを越えると現在の中国に繋がる場所として重要拠点でした。さらに中世からは、パミール高原経由でタジキスタンのホログへ至るルートも誕生し、こちらもその街道の起点になっていました。それだけ古くから、様々な民族がここで交差していたわけです。

     

    16世紀初頭、このフェルガナ盆地にバーブルが誕生しました。彼の名の「バーブル」はトラを意味し、3度目のサマルカンド奪回に失敗し、その後にインドへと進出し、ムガル帝国を建国しました。軍事力に優れていただけでなく、文人としても優れていたことで知られる人物です。彼はこの地で生まれだだけでなく、名高い君主になることを決意したともいわれる伝説があります。また、若い頃のバーブルは禁欲的な生活をしていましたが、1506年の宴席で初めてワインを飲んだといわれています。これ以降、バーブルはワインを大量に飲むようになったそうです。それほどワインを好んでいましたが、一方でビールは好きではなかったようです。ただ、1527年のラージプートとの戦いに際し、禁酒の誓いを立てました。

     

    シルクロードの重要な都市であり、ムガル帝国のパープルを生んだ地域は、19世紀になると、ヨーロッパ列強の影響を受けることになりました。それがグレート・ゲーム(The Great Game)でした。イギリスとロシアによる敵対関係や戦略的抗争で、アフガニスタン争奪抗争から生まれたものです。両者は一進一退を繰り広げ、その攻防をチェス盤上のゲームに見立てたものでした。この中央アジアでの英露抗争では、イギリス(大英帝国)とロシア帝国(のちにソ連)だけでなく、大日本帝国、アメリカ合衆国、中国なども関係していて、第二次世界大戦以降は米ソの東西冷戦にまで繋がるものでした。中央アジアは帝国主義の空白エリアだったことから、このような舞台になってしまいました。このグレート・ゲームにり、オシは1876年にコーカンド・ハン国からロシア帝国に支配者が変わりました。

     

    ロシア革命が起き、ロシア帝国がソ連となると、1924年にカラ=キルギス自治州、1926年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国 、そしてキルギス・ソビエト社会主義共和国となりました。オシはキルギスに組み込まれました。しかし、本来であれば、キルギスよりウズベクに組み込まれるほうが自然ではありました。それは民族構成や地理的な点から見た場合でした。これには社会主義政権という立場から、遊牧民族にも都市が必要という理由で、キルギス領としたようです。

     

    そしてソ連が崩壊すると、中央アジアの国々は相次いで独立へと向かいました。ただ、オシやその近郊では、キルギス人とウズベク人の間で衝突が起きました。このときの犠牲者は約1000人といわれます。2010年にもオシ暴動はおき、このときは100人以上が犠牲者となり、けが人も1000人以上でした。

     

     

    この暴動はかなり悲惨な状況を招き、警察は秩序を回復することができませんでした。そのため、軍隊が出動し、非常事態宣言が出されたのでした。

     

  • サン・セバスティアン(San Sebastián)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサン・セバスティアン(San Sebastián)について勝手に語ります。

     

     

    サン・セバスティアン(San Sebastián)は、スペインのビスケー湾に面し、フランスとの国境からわずかに約20 kという位置にある都市です。都市の人口は約19万人、都市圏人口は約44万人です。スペインを代表する観光地のひとつです。 ビスケー湾には、ラ・コンチャ海岸という砂浜のビーチがあり、スペインというよりヨーロッパを代表する海水浴場ともいえます。この海岸に沿って遊歩道があり、ここも有名なスポットになっています。また、ビーチの先にはサンタ・クララ島があり、この島も観光名所となっています。

     

    バスク地方ということもあり、スペイン料理とは異なるバスク料理が観光客に人気で、有名なレストランが多くあります。そこで、バスク料理とワインという組み合わせも最高です。また市内には数えきれないほどのバルがあり、それらを巡るのも観光の目玉といえます。

     

    ワインという観点では、サン・セバスティアンの古い文献から、聖セバスティアンの修道院には、サガルド(Sagardo)というバスク地方のシードル(リンゴ酒)をつくるためのリンゴ園があり、ナバラ王国のサレイレ修道院(Monasterio de Leyre)に寄進されたとあります。このレイレ修道院は、サン・サルバドール修道院 ( Monasterio de San Salvador de Leyre)ともいい、ロマネスク様式で、ナバラ王国のサンチョ3世が「国の心臓」だと賛辞を述べたものです。このように、サン・セバスティアンはナバラ王に自治権を与えられていて、それは1181年まで続きました。

     

    しかし、1200年にカスティーリャ王国に征服されてしまいました。自治権は維持できましたが、ナバラ王国はサン・セバスティアンがなくなったことで、大西洋直結ルートがなくなってしまいました。1265年には、カスティーリャ王国とナバラ王国の協定により、サン・セバスティアンが再びナバラ王国に戻りました。都市としては主に貿易が発展し、しかも戦争から逃れたことで、サン・セバスティアンもギプスコア地方の一部として中心的役割まで担うようになっていきました。ただそれも、1489年に大規模な火災が発生し、都市は荒廃することになりました。この反省を活かし、復興は主に石材を使用した新たな街づくりとなりました。

     

    その後、戦争や疾病などの流行もあり、サン・セバスティアンは衰退時期を迎えたりしましたが、1656年にマリア・テレサとルイ14世の婚姻の際、サン・セバスティアンはスペイン王室の司令部となりました。18世紀になってからはフランス軍に包囲されましたが、都市が破壊されることは免れ、新大陸のスペイン領との貿易で繁栄するようになりました。このサン・セバスティアンの繁栄は18世紀末まで続きました。これがスペイン独立戦争となり、ナポレオン1世に占領されることになりました。これはイギリス海とフランス軍の対立をも招き、さらに、サン・セバスティアン市民フランスに対する反発感情が残りました。

     

    本格的なリゾート地になったのは、20世紀からですが、不安定な経済状況や内戦なども経て、現在の姿へと変貌していきました。今では優雅なリゾート地ですが、歴史を紐解くと、かならずしも順調に今の地位を築いたわけではないことが良く分かります。

     

     

  • ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)について勝手に語ります。

     

     

    ワインに氷を入れて飲む人が多いというパラグアイ共和国(República del Paraguay)ですが、その首都はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)、またはアスンシオン(Ciudad de Asunción)です。「聖母の被昇天 (Asunción de María)」に由来する都市で、都市単体では人口が52万人程度ですが、都市圏では200万人を超します。

     

    【関連ページ】
    パラグアイ共和国(República del Paraguay)

     

    スペイン人によってつくられた都市で、もともとは砦でした。1537年、ラプラタ川から現在のボリビアに相当するアルト・ペルーへ抜ける陸路を探す際に、ここに砦をつくったことが都市の始まりでした。しかし、先住民との戦いが続き、この砦にブエノスアイレスからの避難者が集まってきました。このような過程を経て、人口が増加し、軍事的な防衛設備のもとに都市としての機能が加わることになりました。そのためか、南米の中では、比較的歴史の古い都市となりました。

     

    さらに、ここを拠点として、ラプラタ川流域内外という広い地域に次々と都市建設を行うようになりました。そのため、、諸都市の母 (Madre de Ciudades) とも呼ばれるようにもなりました。アスンシオンは、南米大陸の中南部を征服し、植民地を建設するための基地でもあったということになります。このような都市はパラグアイだけでなく、ボリビア、アルゼンチンなどの広範囲に渡りました。アルゼンチンのブエノスアイレス(Buenos Aires)などもその一つです。

     

    1865年には、三国同盟戦争が勃発しました。別名はパラグアイ戦争(Guerra del Paraguay)です。パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル帝国・ウルグアイの三国同盟軍が戦闘したものです。南米戦史の中で最も凄惨な武力衝突といえます。当時、ウルグアイはブラジル・アルゼンチンの緩衝国でしたが、ここでウルグアイの内乱が起こり、そこにパラグアイの独裁者フランシスコ・ソラーノ・ロペス (Francisco Solano López)が介入したことによるものでした。ただ南米だけの局地的な戦争というものではなく、この裏には、南米の植民地支配のヨーロッパ列挙の影響や、新たにイギリスが南米に対する経済的な関心を寄せたことも関係していました。この戦争のとき、アスンシオンはブラジルの軍隊に占領されました。そのため遷都することになり、ルケにしました。しかし、ルケも危険になりピリベブィ (Pirivevyi) へと移転しました。距離は60kmも東へと移動したことになりました。

     

    三国同盟戦争が終結すると、独裁者ロペスの政権により、国外追放された人々などを続々と帰国させました。この戦争で多くの成人男性が死傷し、人口減少対策として、行ったものでした。また、ブラジル軍の占領が続いたため、ブラジルの傀儡政権をたてました。これは1876年まで続きました。

     

     

  • シェンゲン(Schengen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシェンゲン(Schengen)について勝手に語ります。ワイン片手にお読みいただければありがたく思います。

     

     

    ヨーロッパの国家間で国境を越える際に、国境検査なしで自由に往来することを許可しているのがシェンゲン協定ですが、そのシェンゲン(Schengen)は町の名です。1985年にシェンゲン協定が調印された場所こそがシェンゲンなのです。そのため、小さな町ですが、世界的に知られるようになりました。

     

    【参考ページ】
    シェンゲン協定

     

    どこにあるかというと、ルクセンブルク大公国のレミヒ郡に属する町で、人口はわずかに1600人程度です。 ルクセンブルク、ドイツ、フランスとの国境が交わる三国点に位置していて、もともとはブドウ栽培とモーゼルワイン生産を行う地味な町でした。ここは、モーゼル川沿いに北東のザウアー川との合流点にあるヴァサービリヒまでの区間にあり、これがルクセンブルクのワイン街道となっています。ドイツ側のブドウ生産地域から続くもので、モーゼル・ザール・ルーヴァーというワイン生産地域の一部になっています。

     

    今ではワインより、シェンゲン協定記念碑が注目されています。それでも13世紀建造の水辺の城跡や教会などの歴史的遺物も残り、バロック庭園も再建され、「国境のない庭園(Gärten ohne Grenzen)」として、3か国の庭園を巡る観光コースにもなっています。観光だけでなく、もっと現実の生活面では、国境の町らしい風景も見られます。特にガソリンです。ルクセンブルクの燃料に課される税金は、ドイツやフランスより低いため、販売価格が安い傾向になります。そのため、ドイツやフランスからシェンゲンへと、安いガソリンを求めるドライバー (Tanktourist) が集まってきています。

     

     

    ここで調印されたシェンゲン協定のおかげで、ヨーロッパの国家間の移動は極めて楽になりました。日本では想像できない協定ですが、だからこそ、価値があるともいえます。いつの日か、新型コロナ収束後に、この小さな町に行きたいものです。

     

  • ネパールのワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はネパールのワインについて勝手に語ります。

     

     

    以前にネパールを取り上げましたが、よく調べてみると、ネパールでは国産ワインの需要が増加傾向になるのだそうです。それも、ここ数年のことで、輸入ワインより国産ワインのシェアのほうが多くなったともいわれています。価格も安く、手ごろなこともあって、人気が出てきたとのことです。

     

    【参考ページ】
    ネパールとネワール族

     

    日本でもごくごく少量が輸入されているとも聞きますが、周囲でネパールのワインを飲んだことがある人がいないため、何ともコメントできません。ただ、話によると、ネパールのワインとは、ブドウ本来の味を活かすとは限らず、他の果物などの風味をつけたりするそうです。ヨーロッパのワイン文化から見たら、邪道なのかもしれません。

     

    そんなネパールの正式名称は「ネパール連邦民主共和国」でしたが、2020年11月16日付けで国名変更を国際連合へ通達し、承認されたことで、正式名称が「ネパール」へ変更されました。連邦国家らしく、多民族、多言語の国家で、民族だけでなくお隣のインドでお馴染みのカーストまで関係して、それらが複雑に絡み合っています。かつて国教だった宗教はヒンドゥー教ですが、仏教や、キラント教(Kirant Mundhum)、など、複雑な混在が見られます。その中でキラント教は、アニミズム(祖先崇拝)とヒンズー教、それに仏教が習合したものといわれます。。ネパールの人口の3.6%が信者だといいますが、、キラント諸族という、リンブー族、ライ族、スヌワール族、ヤッカ族の70%以上が信仰しているという話まであります。これは、シャーマニズムの要素が多分にあり、自然と祖先の崇拝とうことらしいです。

     

    国家としては新しく、王政が廃止されて、現在の国となったのは2008年からです。それまではネパール王国で、その前はゴルカ王国でした。2008年に、ギャネンドラ前国王が王宮を退去し、初の大統領選挙が行われました。しかい、大統領候補は誰も過半数に達せずに決選投票へともつれ込みました。その結果、初代大統領にラーム・バラン・ヤーダブが選出されました。首相には、毛沢東派のプシュパ・カマル・ダハルが選出されました。この内閣は、毛沢東派と統一共産党、マデシ人権フォーラムなどの連立内閣でした。翌年になると、ネパール共産党毛沢東主義派とネパール共産党統一センター・マサル派がネパール共産党統一毛沢東主義派(統一毛派)となりました。

     

    このように、共産主義を掲げる政党が多いのが特徴で、中国の影響が大きいといえます。その証拠に、中国はチベット政策に対する抗議活動を抑圧するようにネパールに要請しましたが、ネパール警察はまさに中国との良好な関係を維持することを優先させたのでした。その結果、500人以上のチベット人の活動家が逮捕されました。中国という外国からの要請により、ネパールは自国内に居住するチベット人の政治活動や、文化活動などを厳しく制限したわけです。つまり、ネパールのチベット人は、国家により日常的に人権侵害を受けている状態となったのです。しかも、一部のチベット人を中国へ強制送還しているという話もあります。このことはチベット人難民の強制送還を禁じる国際法に違反している状態です。

     

    その一方で、日本との関係も良好といえます。 ネパールの基本的な外交方針は非同盟中立であることも関係しているといえます。それはインドと中国との関係が深すぎ、しかも両国の関係に翻弄される状態であることも影響しているのかもしれません。

     

    そんな複雑なネパールですが、どんなワインが生産されているのか、一度、確かめてみたいとも思っています。

     

  • アララト山(Արարատ)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアララト山(Արարատ)について勝手に語ります。

     

     

    ノアの方舟で知られるアララト山(Արարատ)は実在します。ただし、12世紀以降に命名されたもので、ノアの時代から続いている名称とはいえないようです。 あくまで大洪水の後にノアの箱舟が流れ着いた山だと推測される山です。ノアといえば、旧約聖書の「創世記」でワインが登場します。これがキリスト教では新約聖書で、ワインがキリストの血になります。そういう意味では、ワイン好きな人は、この伝説の山に注目していも良いのではないでしょうか。

     

    【参考ページ】
    ノアとワイン

     

    もともとアララト山は、古来よりアルメニア人居住地域のシンボル的な山でした。アララト山の麓にはアルメニア人が最も多く居住し、他にクルド人やトルコ人などもいました。しかし第一次世界大戦ではオスマン帝国の末期に相当し、このときに強制移住が行われ絵、トルコ領内にはアルメニア人はほとんどいなくなってしまいました。このときにアルメニア人虐殺があったといわれていますが、トルコ政府は否認していて、真実は明らかになっていません。

     

    アララト山はトルコの東端で、アルメニアとの国境近い場所に位置しています。トルコ語ではアール山(Ağrı Dağı)で、トルコ最高峰で、標高は5,137mです。日本の富士山よりはるかに標高の高い山で、しかも富士山と同じように裾野が広がる姿が見事な山です。南東部には「小アララト山(Küçük Ağrı)」もあり、こちらの標高も富士山より高く、3,896mあります。初登頂は1829年でした。ドイツ人とアルメニア人のグループが最初でした。かつては一般登山者の入山は許可されていませんでした。現在は許可証を取得し、ツアーへの参加義務により、登頂することが可能となっています。時期は夏場だけで、6月中旬から9月下旬までです。

     

    第一次世界大戦後の1920年、連合国とオスマン帝国との間に締結されたセーヴル条約(Treaty of Sèvres)が締結され、オスマン帝国は広大な領土の多くを失いました。このアララト山周辺地域については、旧ロシア帝国領地域のアルメニア人が、アララト山の麓まで領土にするという動きがありました。これでアルメニア国家の独立へと向かうつもりでした。しかし、トルコ革命軍により、旧オスマン帝国領地域が奪還され、旧ロシア帝国領も赤軍が侵攻し、ソビエト連邦に組み入れられました。これによって、アララト山はトルコ領となり、その先にソ連解体後に独立したアルメニア共和国の領土となりました。しかし、アルメニアとしては、トルコとソ連による国境を認めてはいません。今でもアララト山はアルメニア人のシンボルとしているのです。

     

    では、このアララト山に方舟は本当に流れ着いたのでしょうか。現在の目で見れば、富士山より標高の高い山頂に船が漂着するとなると、どれほどの洪水だったのかと疑問になります。そこは地質学的に何か説明できるのか分かりませんが、山頂付近に「方舟の遺骸」と思われるような物が次々と発見されているといいます。標高4,000m地点でも、巨大な木造の部屋が見つかったともいわれています。

     

    アルメニア人のシンボルであり、聖書の世界では重要な役割を担うアララト山は、まだまだ神秘に包まれています。ワインでも飲みながら、このロマンを語るもの良いものです。

     

     

  • エル・ドラード(El Dorado)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエル・ドラード(El Dorado)について勝手に語ります。

     

     

    エル・ドラード(El Dorado)といえば、スペイン語で「黄金の人」という意味です。大航海時代にスペイン人たちを中心に、この言葉から伝説が生まれました。それは、アマゾンの奥地に黄金郷があるというものでした。この伝説は、アンデス地方で、現在では失われたチブチャ文化の儀式影響したようです。というのも、この文化圏は金の採掘が盛んで、金の装飾技術が発達した地域であり、儀式では首長が全身に金粉を塗って行っていたからでした。
    このエル・ドラードの名のついたワイン産地がアメリカのカリフォルニア州シェラ・フットヒルズ地方にあります。41万acと広大なエリアですが、カリフォルニアワインとしては、ここのワインは日本への輸出量が少ないといえます。

     

    シェラ・フットヒルズ地方のエル・ドラードのブドウ栽培地は、標高365mから高いところでは1000mを超えた地域に広がっています。かなりの高低差がありますが、南米のブドウ栽培地のような標高の高さまではありません。むしり斜面にブドウが広がり、カリフォルニアの太陽を浴びる光景は、ヨーロッパの地中海周辺のブドウ畑にも似たところがあるかもしれません。日中の気候は温暖ですが、夜で標高が高い地域では、かなり気温が下がります。しかもシェラ・ネバダ山脈から風が降り注いできます。そのため、ブドウが生育する標高によって、味だけでなく風味も変化します。土壌はそれほど良い条件とはいえませんが、それがかえって適度なストレスをブドウに与えているといえます。ただ、水ハケは良いようです。

     

    このカリフォルニアのエル・ドラードも「黄金郷」に関係しています。いわゆる「ゴールドラッシュ(gold rush)」です。こ1948年に、この地で金が取れることが発見されました。同じ年、「ニューヨーク・ヘラルド」紙が、カリフォルニアにゴールドラッシュが起こったことをア最初に新聞報道をしました。しかも当時の大統領だったジェームズ・ポークも議会の演説で金の発見を肯定しました。エル・ドラードに一獲千金を狙う人々が押し寄せたのは1850年代になってからで、まさにカリフォルニアにゴールドラッシュの渦中にありました。

     

    ゴールドラッシュにより、この地に人々が集まると、その人たち向けのビジネスも活発化していきました。その中の一つがワイン産業でもありました。一獲千金を夢見る人々がここでワインを飲んでいたのでした。しかし、やがてゴールドラッシュは終焉を迎え、20世紀には禁酒法によりワイン産業は大打撃を受けました。一時的に衰退したのでした。これが復活したのは、1970年代になってからで、再びワイン産業が蘇ったのでした。

     

     

    エル・ドラードのワインは、フルボディの赤ワインが有名ですが、国際品種は多様に栽培されていて、しかもブドウが生育した土地によって表情が変わります。黄金郷のワインというのも、それだけで夢があります。

     

  • ジャコヴァ(Gjakova)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジャコヴァ(Gjakova)について勝手に語ります。

     

     

    一部のワイン通の人には知られているコソボのワインですが、国や都市については未知な人も多いことでしょう。ここでは、以前に取り上げたことがあります。

     

    【参考ページ】
    コソボ共和国(Republika e Kosovës)のワイン
    プリシュティナ(Prishtina)

     

    今回は首都のプリシュティナ(Prishtina)に続いて、コソボ西部にあり、ジャコヴァ郡の行政中心都市のジャコヴァ(Gjakova)をご紹介します。人口は9万4千人ほどです。居住者はアルバニア人が92%と圧倒的に多く、セルビア人はわずかに1%程度で、21世紀以降にセルビア人が極端に減少しているそうです。

     

    この都市が建設されたのは、14世紀後半といわれています。もともとは修道院から始まり、その修道院の名が都市名の由来のようです。この修道院をつくったのが、セルビア人貴族ヴク・ブランコヴィッチの家臣だったヤコヴといわれています。そのため、ジャコヴィツァはブランコヴィッチが統治する都市でした。
    この状況が一変したのはオスマン帝国にる侵攻と支配でした。この時代には、セルビア人の割合が多く、アルバニア人が少数だったようです。アルバニア人が増加したのは、16世紀になってからで、アルバニア人が大量に移住してきました。

     

    1912年から1913年にかけて、バルカン戦争(Balkan Wars)が勃発しました。バルカン同盟を結成するギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビアが、オスマン帝国と戦争したのでした。戦争は二つに分かれ、第一次バルカン戦争と、その戦後に、ブルガリアと、ギリシャ、セルビアが対立したことで発生した第二次バルカン戦争でした。
    これはアルバニアがオスマン帝国に対して自治要求を行い、マケドニア問題で対立していたセルビアとブルガリアがロシアの仲介により同盟関係となり、さらにブルガリアがギリシャと同盟、セルビアもモンテネグロと同盟を結んだことに始まりました。これが「バルカン同盟」ですが、これは裏にロシアがいたものでした。

     

    ジャコヴァはこのバルカン戦争で大きな被害を受けました。セルビアとモンテネグロの軍が街を破壊しました。特にモンテネグは、キリスト教徒でない住民に対し徹底的な迫害を行ったことで、オスマン帝国支配の都市だったジャコヴァには、大きな被害となったのでした。

     

    もうひとつ、この都市を考えるうえで忘れてならないのはコソボ紛争(Lufta e Kosovës)です。ユーゴスラビア内戦ですが、その中でコソボで2つの大きな武力衝突がありました。この当時、ジャコヴァ市民の約75%は都市から追放されていたといいます。そのように強行的に行ったのはセルビア警察や準軍事組織、ユーゴスラビア軍などでした。ただ単に追放されただけでなく、実際には多くの人々が殺害されていたといわれています。コソボ解放軍も応戦しましたが、ユーゴスラビア軍との激しい戦いにより、都市は大部分が破壊されました。

     

     

    のちに、ジャコヴァでのユーゴスラビア軍の行為は国連で戦争犯罪とされました。大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは告発されました。
    そして、戦後、ほとんどのアルバニア人は追放先からジャコヴァに戻って来ました。徐々に街が復活しましたが、今なお、紛争の傷跡が随所で残っています。

     

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