今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • アラス(Arras)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアラス(Arras)について勝手に語ります。

     

     

    フランスで、かつてのアルトワ地方に属していたアラス(Arras)は、現在はオー=ド=フランス地域圏で、パ=ド=カレー県の県庁所在地となっています。人口は約4万1千人です。古代には、「聖なる木立群」を意味する「ネメトン(Nemeton)」から「ネメタクム(Nemetacum)」「ネメトセンナ(Nemetocenna)」という都市が、現在のアラスの場所にあったといわれています。また古代ローマ人は「アトレバトゥム(Atrebatum)」と改名しました。ローマにとって重要な駐屯地でした。

     

    キリスト教が本格的に浸透したのは、4世紀後半でした。その一方で、住民をキリスト教に改宗させた聖ディオゲネスは、異民族により殺害されました。聖ヴェデストは、教会や修道院共同体を創設し、その後のカロリング朝時代にベネディクト会派の聖ヴァースト修道院になりました。

     

    都市としての発展は、このような修道院を中心とした宗教都市の側面だけでなく、穀物市場という面も大きくありました。そのような中にあって、9世紀にはヴァイキングに襲撃され、大きな被害を受けました。それでも修道院は復興しました。1180年には商業特権を授けられ、貿易とともに銀行業でも栄えました。14世紀からは羊毛産業も発展し、都市は栄え、多くの富を蓄えることに成功しました。特にタペストリーの生産が有名になりました。

     

    経済面とは別に都市の支配者は、中世には、様々な封建領主が転々と支配してきました。フランドル伯、ブルゴーニュ公、スペイン・ハプスブルク家と続き、最終的にフランス王家と続きました。しかし、ブルゴーニュ公シャルル(大胆公)死去後、フランス王ルイ11世の支配になったわけですが、アラスの人々はフランス王よりもブルゴーニュ公への忠義が強く、そのためルイ11世は彼らを都市追放とし、王家に忠実な人々を移住させました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)

     

    さらにルイ11世は都市名をフランシズ(Franchise)と改名しました。しかしこの都市名は一時的なものでした。1482年には、ここでアラスの和約が締結され、ルイ11世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の対立関係が解消され、その後、スペイン・ハプスブルク家のネーデルラント17州の一部となりました。

     

    20世紀の二つの世界大戦では、アラスは軍事的に大きな影響を受けました。まず、第一次世界大戦では、前線近い位置関係から、1917年のアラスの戦いが行われました。これでアラスの市街地は壊滅的な被害を受けました。次の第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツに侵攻され、1940年のアラスの戦いが起きました。これはイギリス軍による反撃でした。それでもアラスはドイツ軍の占領により、ドイツに対するレジスタンス疑惑のある人は大量に処刑されたのでした。

     

     

  • ディジョン(Dijon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はディジョン(Dijon)について勝手に語ります。

     

     

    フランスワインを代表する地域といえばブルゴーニュです。ブルゴーニュのブドウ畑のクリマの一部として世界遺産リストに含まれています。過去に関連する内容を投稿してきましたが、今回はその中でディジョン(Dijon)はご紹介します。かつてブルゴーニュ公国の首都でした。

     

    【関連ページ】
    世界で最も偉大な赤ワイン産地
    ブルゴーニュのクリマ(Climat)
    ヴォーヌ=ロマネ

     

    ディジョンは新石器時代から人が定住していた地域ですが、都市としてはローマによって建設されました。この冬至は「Castrum Divionense」でした。ローマ街道沿線の都市であり、2世紀にはすでに市街地が繁栄していました。しかし、ゲルマン人の大移動などの影響で、様々な民族が侵入するようになりました。キリスト教は、殉教者として知られる守護聖人ベニグナス(Benignus of Dijon)により伝えられました。5世紀になるとラングル司教座が置かれるようになり、、守護聖人ベニグナスを埋葬した修道院が崇敬を受けるようになりました。それほど当時は重要な巡礼地にまでなったのでした。

     

    1031年には、フランス王ロベール2世の息子で、アンリ1世の弟であるロベール1世(Robert I)により、ディジョンはブルゴーニュ公国(Duché de Bourgogne)の首都になりました。その約100年後には、大火が発生し、市内の中心部がと化す事態になりました。そこで、都市再建の際、城壁を従来よりさらに拡大するようにしました。この城壁は18世紀まで市街地を守る役割を担っていました。都市としてもっとも輝いていた時代は、カペー家の分家から始まったヴァロワ家がブルゴーニュ公だった時代といえます。1363年から1477年までの期間ですが、この時代に経済面でだけでなく、芸術や科学なども盛んとなりました。
    そしてブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)がフランス王との争いに敗れました。その結果、ブルゴーニュ公国は併合されることになりました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)
    ブルゴーニュとアキテーヌ公
    ブルゴーニュワイン発祥の修道院
    ブルゴーニュとブルグント王国
    ムロン・ド・ブルゴーニュ

     

    ディジョンの街が変化してきたのは、ブルゴーニュ議会がボーヌから移されてきたことに関係します。この移転により貴族たちがディジョンに邸宅を建てるようになったのでした。その後、新しい教会、礼拝堂、修道院などキリスト教関連施設が続々と建設されました。そして18世紀に再び繁栄期を迎えました。このときはブドウ栽培からワイン生産が活発化し、その経済的な繁栄を迎えたのでした。またブルゴーニュ運河が1832年に開通し、1851年にはパリと結ばれた鉄道も整備されました。このように交通も整備され、ディジョンの経済成長が急速に進みました。

     

     

    19世紀には普仏戦争のときにプロイセン軍に占領されました。このときにディジョンに限らずフランス国内の防衛設備が弱いことを痛感したフランス政府は、防衛設備の見直しを迫られることになりました。ディジョン市内各所に小要塞がつくられ、兵舎や武器庫が新たに造営されました。しかし第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領されてしまい、最終的にフランス・イギリス・アメリカの合同軍によって解放されました。

     

  • ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)について勝手に語ります。

     

     

    フランスを代表するワイン産地のブルゴーニュは、以前にも関連する話題を多く取り上げてきました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュとアキテーヌ公
    ブルゴーニュワイン発祥の修道院
    ブルゴーニュとブルグント王国
    ムロン・ド・ブルゴーニュ
    ブルゴーニュのクリマ(Climat)

     

    今回はブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)をご紹介します。ブルゴーニュ公国は彼の死とともに崩壊したといわれる人物です。
    ライバルともいえるのがヴァロワ朝のルイ11世(Louis XI)で、フランス王国の統一を進めていたルイ11世にまともに対抗できる数少ない人物でした。シャルルはルイ11世に対抗するため、独立した貴族たちまとめ、公益同盟を結成しました。その上でフランス軍と戦っていました。その数は3回でした。フランス王軍を圧倒する勢いで、1473年にはロレーヌ・ピカルディの攻略に成功し、自由通行を勝ち取りましたが。1476年にはフランス軍のスイス傭兵にグランソン、ムルテンで敗退しました。結局、最期はナンシーの戦いでの戦死でした。

     

    当時のブルゴーニュ公国は、現代のフランスのブルゴーニュ地方やロレーヌ地方だけでなく、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクにまで及ぶ広大な支配地域でした。また。北方ルネッサンス文化の中心地でもありました。そのような背景の中、シャルルは拡大路線を目指していたのでした。公爵からの昇格も目指していたようでした。そんな彼の唯一の娘がマリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)で、ブルゴーニュ公国の相続人でした。そのためマリーには、数多くの縁談の申し込みがありました。シャルルは数多い縁談相手からマクシミリアン1世(Maximilian I)に注目しました。彼は神聖ローマ帝国の皇帝、ローマ王、オーストリア大公になった人物でした。

     

    1473年には、神聖ローマ帝国の当時の皇帝だったフリードリヒ3世と組み、フランスへの対抗策やオスマン帝国を議論することにしました。このとき皇帝はまだ14歳だったマクシミリアンを伴い、1000人の従者を引き連れてきました。シャルル側も1万人以上の兵たちを集め、贅を尽くした歓待を皇帝一行に施しました。シャルルは、マクシミリアンを気に入り、娘のマリーとの縁談を進めようとしました。これは自身のローマ王の指名を目論むものでもありました。
    一方、神聖ローマ帝国のフリードリヒ3世は、この縁談によって、フランス王国の反発があり、しかもそれは帝国内の諸侯も同調する恐れがあると考えました。そのためこの縁談には慎重になりました。そこで、皇帝はマクシミリアンや宰相などをその場からこっそりと脱出させたのでした。

     

    これを知ったシャルルは激怒し、ブルゴーニュ戦争で神聖ローマ帝国に報復しました。しかし、この戦いが膠着状態となると、ローマ王指名の要望も諦め、マリーとマクシミリアンの婚約を再度申し込んだのでした。皇帝側も承諾し、ようやくこの縁談はまとまりました。ちなみにこの婚約時にマクシミリアンがダイヤモンドの指輪をマリーに贈り、マリーもマクシミリアンに指輪を贈ったことから、これが婚約指輪の起源とする説となっています。

     

    ブルゴーニュ公シャルルは、綿密に計算された現実路線には見向きもせず、己の情熱と使命感により、赴くままに破滅へと突き進んだ人生でした。「無謀な君主」といわれたのも頷けるし、彼の死が公国そのものの終焉を迎えたのも納得いくことといえます。

     

  • シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)について勝手に語ります。

     

     

    シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)は、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県北部にある都市です。県内では最大の人口がありますが、それでも4万6千人程度です。
    ここの周辺は、ブルゴーニュ・ワインの産地として知られるシャロネーズ地区です。

     

    シャロネーズ地区は、ソーヌ川に面した場所で、以前はワイン商の重要な活動拠点でした。当時は川の港から出荷していました。場所的に北方と地中海を結ぶ交易地で、ローマ時代から重要な港でした。
    しかし、現在は川での交易はなくなり、ワインと直接関係する産業は廃れ、一般的な産業都市へと変貌しています。
    ブドウ栽培は、平野部から丘陵地帯へと続いていますが、平野部のワインは特徴がなく、何の評価もありません。これが西の丘陵地帯のブドウとなると、良質のワインと評価されます。

     

    気候は場所によって変化があり、特に南側へと進むと地中海性気候の影響を受けてきます。土壌や地形にも変化があり、それによってブドウ品種も変わってきます。ピノ・ロワールやシャルドネだけでなく、ガメイとアリゴテのブドウなども栽培されています。そのため完成したワインも多種多様で、変化に富んだワインが楽しめる地域といえます。また、価格も比較的リーズナブルといえます。

     

    この丘陵地帯には、リュリ(Ruly)、メルキュレ(Mercurey)、ジブリ(Gvry)、ビュクシー(Buxy)など、ブルゴーニュ・ワインの有名産地の村々が点在しています。
    また、市内の旧市街地にはサン・ヴァンサン大聖堂(Cathédrale Saint-Vincent)があり、フランス文化省から「芸術・歴史都市」に指定されています。この大聖堂は8世紀に建てられたもので、シャロン司教が置かれていました。1801年には、政教条約によってオータンの司教区に統合されました。一部に8世紀の創建時の部分が残っていますが、現在の姿は19世紀の改築後のものが中心で、ファザードがネオ・クラッシック様式となっています。1903年には歴史記念物に指定されました。
    市庁舎(Hôtel de ville)はサン・ピエール広場(Place Saint-Pierre)にあり、元々は修道院でした。1845年に修道院跡に移転されました。

     

     

  • カール大帝とコルトン・シャルルマーニュ(Corton-Charlemagne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカール大帝とコルトン・シャルルマーニュ(Corton-Charlemagne)について勝手に語ります。

     

     

    世界で最も偉大な赤ワイン産地」とも呼ばれるコート・ド・ニュイの南端にはニュイ・サン・ジョルジュがあります。ここからさらに南下するとコルトンの丘に至ります。ここは標高400m程度の丘陵地で、森林で覆われています。
    このコルトンの丘の斜面にある広大なブドウ畑からコルトン・シャルルマーニュというグラン・クリュ(特級畑)が産み出されています。
    赤ワインではなく、白ワインとして有名なコルトン・シャルルマーニュです。

     

    シャルルマーニュとは、フランス語で「Charlemagne」ですが、歴史の教科書ではフランク王国のカール大帝となります。フランク王国の大帝ですから、ドイツとフランスの始祖ともいわれる人物です。
    なぜカール大帝の名が関係するのかといえば、ここには伝説があるからです。

     

    カール大帝はコルトンの丘にブドウ畑を所有していたといいます。主に赤ワインを生産させていたそうです。
    ある日のこと、カール大帝はここで赤ワインを飲んだところ、白くなった髭がワインで赤く染まってしまいました。威厳が保てない姿になってしまいました。また、一説では、自慢の髭が赤く染まったことで、戦いに明け暮れた若い頃の血を連想させたともいわれ、カール大帝は激怒しました。
    そこでカール大帝は白ワインしか飲まなくなり、コルトンの丘でも白ブドウの栽培しか許さなくなったという伝説です。
    これがコルトン・シャルルマーニュの誕生となりました。

     

    単なる伝説だと思えますが、カール大帝のエピソードのあるワインというだけで貴重な気もします。
    ただし、カール大帝が飲むようになった白ワインと現在のコルトン・シャルルマーニュが同じものとは思えません。なぜなら、このエピソードから1000年経過した時代には、コルトンの丘では赤ワインだけがつくられていたといわれているからです。
    では、現代のコルトン・シャルルマーニュはいつ誕生したのかというと、19世紀末頃だといわれます。ルイ・ラトゥールによるもので、この時代、フィロキセラの影響でコルトンの丘のピノ・ノワールが壊滅的な被害を受けてしまいました。この時に、シャルドネを植樹して、カール大帝に因んでコルトン・シャルルマーニュと名付けたようです。

     

    ブルゴーニュワインを探す

     

    カール大帝は5回結婚し、しかも第二夫人も4人いたといいます。
    子どもも20人以上いたといわれます。しかも、娘たちを結婚させなかったため、娘たちは駆け落ちしたりするケースがあったといいます。
    さらに、カール大帝は娘を寵愛するあまり、娘たちとの近親相姦の関係があったともいわれています。近親相姦は実の妹のギゼラ(ジゼル)ともあり、二人の間にローランが生まれたといいます。
    もちろんこれも伝説で、そもそもローランは「ローランの歌」という文学作品に登場する勇将で、この物語ではカール大帝の甥で、7年間、スペイン遠征に従軍した人物です。
    これだけの伝説を残すカール大帝ですから、コルトン・シャルルマーニュの伝説があっても何ら不思議ではないといえます。

     

  • シトー修道会(Ordo Cisterciensis)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシトー修道会(Ordo Cisterciensis)について勝手に語ります。

     

     

    正月なので、人が集まって乾杯する機会も多くあるかと思います。
    やはりそんなときに飲むワインは、フランスワインの代表であるブルゴーニュワインが華を添えてくれるでしょう。
    フランス中東部に位置するブルゴーニュ地方は、ゲルマン民族大移動の時期(5世紀)に「ブルグンド王国」が由来となっています。(ブルゴーニュとブルグント王国
    この王国が滅亡したのち、この周辺はブルゴーニュと呼ばれるようになったそうです。
    古代ローマ時代からブドウ栽培が盛んな地域で、ブルグント王国の時代には、すでに修道院主体でワイン生産が行われていました。

     

    修道院によるワイン生産といえばベネディクト派の修道院でした。その中でもクリュニー修道会とシトー修道会がワイン造りでは高品質なものを生産していたことで知られます。ベネディクト派では「必要とするものは、自ら生産すべし」という教えがあり、それを実践していたわけです。
    ちなみにベルギーのベネディクト派修道院ではビールが造られています。
    さて、そのシトー会ですが、修道士モレームのロベール(Robert de Molesme)により、1098年に設立されたものです。シトーは地名です。
    シトー修道会の特徴は「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守る点にありました。そのため豪華な典礼を否定し、彫刻や美術を使った教示も禁止していました。教会の装飾も十字架だけで、簡素無比のシトー式の建築が生まれました。
    そのため、同じくベネディクト会修道院のクリュニー会の貴族的なやり方とは真っ向から対立する関係となっていました。
    壮麗な衣類を身にまとい、華美な雰囲気を持つクリュニー会の修道士と違い、シトー会の服装は質素で、染料を使わない白い修道服を着ていました。「白い修道士」とも呼ばれる所以です。

     

    またシトー会は森林の開墾も行い、新しい農法を普及させ、自ら農作業をしながら農民らを指導していきました。
    ただ農民への布教や貧民救済については、クリュニー会でも行っていました。しかし、俗世間の有力者からの支持を受けていたのがクリュニー会だったため、有力者により私有修道院の寄進なども行われていました。この点でも違いは明確でした。

     

    修道士モレームのロベールは、シトー会の原点を創設したものの、厳しすぎる修道生活を嫌った修道士とともにモレーム修道院へ戻ってしまいます。彼はもともとクリュニー会の修道士で、モレーム修道院院長だったのです。
    内部分裂により、ロベールはシトー修道院を設立したといわれています。
    ロベールのあと、シトーのアルベリック(Albéric de Cîteaux)が後任となり、次にステファン・ハーディング(Stephen Harding)が後を継ぎました。この3人がシトー修道会の創立者となっています。

     

    ロベール死去後、西暦1222年にローマ教皇ホノリウス3世により列聖されました。
    ただ、シトー会設立とその方向性を決めた功績はあるものの、わずか1年でモレーム修道院に戻ったことから、どれだけ後世に影響を与えたのか疑問もあります。
    クリュニー会に反する簡素で清貧な要素についても、後世のイメージでしかなく、むしろクリュニー会の伝統を延長したものではないかという話もあります。実際、ロベールの牧杖は金メッキされた豪華なもので、シトー会でイメージされる「簡素」という要素はなかったともいわれています。

     

    ロベールの功績はともかく、シトー会では高品質なワインが作られていたのは事実で、ブルゴーニュワインの品質を保証するものだったわけです。
    新年会でぜひともブルゴーニュのワインをお召し上がりください。

     

  • 世界で最も偉大な赤ワイン産地

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコート・ド・ニュイ(Côtes de Nuits)について勝手に語ります。

     

     

    コート・ド・ニュイは、別名「世界で最も偉大な赤ワイン産地」とも呼ばれる地域です。
    具体的には、マルサネ・ラ・コートからニュイ・サン・ジョルジュまでの約20キロに及ぶ地域です。
    ブドウ畑は横に伸びているわけではなく、幅はわずかに数100メートルから長くても1キロ程度の範囲で、細長く広がっています。
    「世界で最も偉大な赤ワイン産地」と呼ばれるのは、ロマネ・コンティやシャンベルタンなどのブドウが栽培されているからです。

     

    マルサネ・ラ・コートは、人口わずかに5千人ほどしかいません。
    コート・ドール県の県庁所在地がディジョンですが、実はディジョンの中心街から6km程度しか離れていません。
    ブドウの産地という側面とは別に、1960年代にはディジョンのベッドタウンにもなり、人口が急増してきました。
    AOCではマルサネのワイン生産地区になっています。
    ブルゴーニュワインでは唯一の村名AOCとして認証されているロゼがあります。AOCマルサネ・ロゼです。
    また、コート・ドール県内のワイン産地では最北端になっています。
    赤ワインはミディアムボディーです。

     

    ブルゴーニュワインを探す

     

    ニュイ・サン・ジョルジュ(Nuits-Saint-Georges)も、人口は5,600人程度なので、規模は同じようなものですが、ベットタウン化はしていません。

  • ブルゴーニュのクリマ(Climat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブルゴーニュのクリマについて勝手に語ります。

     

     

    2015年の7月4日に「ブルゴーニュのクリマ」はにユネスコの世界遺産に登録されました。
    ディジョン、ボーヌ、マランジュなどのブドウ畑が世界遺産になったのです。ブドウ畑の景観だけでなく、建築物、そして、ブドウ畑を開墾する独自ノウハウまでを文化遺産として認定されました。

     

    登録名の「クリマ」(Climat) とは何かというと、ブルゴーニュのブドウ畑の小さな栽培区画のことになります。
    世界遺産の認定は、1,247カ所のクリマが選ばれ、ボーヌ市街、ディジョンの歴史地区も含まれています。
    クリマという栽培区画ですが、これは単にブドウ畑の区割りという以上に、それぞれの区画のテロワールを意味しています。しかも区画は数世紀をかけて画定されたもので、それぞれの区画に名前があり、歴史があります。
    当然ながら、テロロワールの違いは味の変化にも繋がり、格付けにも関係してきます。
    世界遺産認定のクリマには、世界的に有名なものが多く含まれ、例えば、シャンベルタン、ロマネコンティ、クロ・ド・ヴージョ、モンラッシェ、コルトン、ミュジニーなどもあります。

     

    ブルゴーニュ地方でのブドウ栽培からワイン醸造は、修道院との関係が深いのですが、フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)の影響もあるといえます。
    フィリップ2世は、ヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公で「豪胆公」(le Hardi)と呼ばれます。
    フランス王ジャン2世(善良王)とボンヌ(ボヘミア王ヨハン(盲目王)の王女)の四男です。
    彼は武勇に優れ、権勢拡大をした人物です。
    ブルゴーニュ公領を与えられたのは1363年ですが、それだけでなく、フランドル、アルトワの伯領も領有し、欧州最大規模の裕福な領土を有していました。しかも1390年にはシャロレー伯領も獲得し、この伯位はブルゴーニュ公の相続人に与えられるようにもなりました。

     

    そんなフィリップ2世は、当時ブルゴーニュで栽培されていた赤ワイン用ブドウ品種の中で、最も質の良いピノ・ノワールだけを栽培させることにしました。他の品種の栽培を禁じたのです。
    これは現代でも続いているわけではなく、19世紀にはピノ・ノワールよりガメのほうが多く栽培され、コート・ドールの栽培面積を85%以上を占めたりもしました。しかし、現代では、コート・ドールで使われる赤ワイン品種はピノ・ノワールになっています。

     

    ブルゴーニュワインを探す

     

  • ヴォーヌ=ロマネ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴォーヌ=ロマネについて勝手に語ります。

     

    ロマネ・コンティ(Romanée-conti)といえば、ブルゴーニュワインを代表するというより、フランスを代表するワインとえいます。
    そのロマネ・コンティを始め、単独でAOCを名乗れる特級畑が6つもあるコミューンがヴォーヌ=ロマネ (Vosne-Romanée)です。
    セーヌ川の源泉を擁する場所にあるコート=ドール県(Côte-d’Or)に位置します。

     

    コート=ドール県はフランスでは珍しく、国内で唯一、地理的な名称ではありません。何と、「黄金の丘」という意味のついた県名なのです。
    命名者はブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏の首府であり、コート=ドール県の県庁所在地であるディジョン(Dijon)の議員だったシャルル・アンドレ=レミ・アルノーによります。
    さらに付け加えれば、ブルゴーニュ州から分割されたことで誕生した県になるため、その際に命名されたという逸話があります。

     

    ヴォーヌ=ロマネは人口わずかに500人に満たないほどで、ここから世界ナンバーワンの赤ワインが生産されています。その代表格はロマネ・コンティです。
    ブドウはピノ・ノワールで、当然ながらAOC認定です。
    ロマネ・コンティの生産量は少なく、年間6,000本程度です。ブドウ畑の面積も少ないのですが、収穫したブドウもかなり厳選したものが使われることもあり、希少価値があるのは事実です。

     

    とにかく高価なワインの生産地がヴォーヌ=ロマネで、庶民には縁のないワインです。

     

  • ムロン・ド・ブルゴーニュ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はムロン・ド・ブルゴーニュについて勝手に語ります。

     

     

    ムロン・ド・ブルゴーニュ(Melon de Bourgogne)は、もともとブルゴーニュ地方で栽培されている白ワイン用のブドウ品種でした。
    しかし今では原産地のブルゴーニュよりも、ロワール川河口付近にあるミュスカデ地区で栽培されているのが主になっています。
    この品種はマスクメロンに似た香りを持っていることから「ムロン」という名がついているそうです。

     

    なぜ、ブルゴーニュよりもロワール地方で多く栽培されているかというと、1709年の異常気象が原因でした。その年は異常なほどの厳冬で、ロワール地方ペイ・ナンテ地区はブドウが壊滅的な被害を受けました。そこで、このような凍害があっても強い品種ということで、ムロン・ド・ブルゴーニュを植えることにしたのです。
    それほどまでにムロン・ド・ブルゴーニュは寒さに強い特性があったのです。

     

    ただし、ムロン・ド・ブルゴーニュは寒さに強いというメリットはあるものの、高級な味を醸し出すほどの個性がなく、やや強い酸味と、マスクメロンに似た香りがある程度ではありました。
    しかし、それが逆に極端な個性を主張しないことで、どんな料理とも合わせやすく、気軽に飲むワインとしては悪くありません。
    現在ではロワール地方のミュスカデ(Muscadet)で生産される白ワインは、100%ムロン・ド・ブルゴーニュを使っています。

     

    そのミュスカデは、軽く、さっぱりとした味わいの辛口白ワインとして知られます。
    実はこの地区のワイン生産は歴史が古く、ローマ皇帝プロブスのころからだといいます。それが18世紀になってから凍害により、現在のようになったわけです。

     

1 2 3 4

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ