今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ウッチ(Łódź)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はウッチ(Łódź)について勝手に語ります。ワインでも飲みながら、ポーランドの知られざる都市のご案内をお楽しみください。

     

     

    ポーランド第3の都市であり、ポーランド最大の工業都市であるウッチ(Łódź)は、人口68万人を誇ります。しかし、18世紀までは小さな農村でしかありませんでした。それ以降で急速に都市化したことになります。その急速な発展は、ドイツ帝国のプロイセン領となってkらでした。1795年の第3回ポーランド分割によるものでした。これにより、ヴウォツワヴェック司教区の所領としての教会財産がプロイセンへと移管され、ドイツ人がここに大勢集まってきました。一気に人口が増加し、都市化が進み、郊外のノヴォソルナ、上ヴィヨンチン、下ヴィヨンチン、アウグストゥフ、オレフフには、農業地域としての集落も形成していきました。

     

    1807年からはワルシャワ公国、1815年からはロシアが統治するポーランド王国と支配者が変わりました。そして1821年になると、ウッチを工業地域とするための開発が検討されたのでした。この結果、織物工業や繊維工業などを中心として工業化が一気に進みました。 当然ながら工業化を進めるためには労働力が必要で、これには現在のポーランド南西部のシロンスク(Śląsk)や、チェコ、モラヴィアなどから安い労働力を集めました。特に織物工場の発展は目を目を見張るものがあり、完成した製品はロシアや中国などへと輸出されました。

     

    1830年には、11月蜂起あるいはカデット・レボリューション(The Cadet Revolution)が起きました。ロシア帝国の支配に対する武装反乱でした。陸軍士官学校の若い下士官たちが、ピョトル・ヴィソツキに率いられて蜂起したのが始まりで、その後、ポーランドの大部分が参加していきました。最終的に、数の上で圧倒的に優位なロシア軍が鎮圧して終わりました。この失敗によって、関税障壁などがおこり、ウッチの輸出業は停滞することになりました。この関税は19世紀後半に撤廃され、ここから再び街は活況を呈していきました。鉄道も新たに開通したことも大きく関係しました。この1870年から1890年の20年間は、経済の成長としては最盛期となりました。

     

    労働者と資本家という構図ができあがると、ストも起こるようになり、工場の生産数が減少していきました。それでも1914年までは発展傾向を維持していき、翌1915年にドイツの支配下に入りました。1918年に終戦となり、都市は解放されました。大戦中の戦死者と、戦後にドイツへ避難したドイツ人もいて、ウッチの住民の約4割が減少しました。経済成長も止まり、次に訪れたのが世界恐慌でした。これで織物貿易は大きなダメージを受けました。輸出相手のロシアにも革命が起き、貿易は完全に停止状態にまでなり、。街は失業者であふれました。

     

    第二次世界大戦でも再びドイツに占領され、都市名もリッツマンシュタット(Litzmannstadt)になりました。ナチスにより30万人以上のポーランド系ユダヤ人が強制的に集められ、ここでも強制収容所や絶滅収容所での犠牲者が出ることになりました。1945年になると、ソ連軍が侵攻し、ドイツ人が追放されました。このときに都市が破壊されていきました。都市の解放は1945年でした。このときに都市名ももとのに戻されました。また、首都のワルシャワのほうが被害が大きかったことから、1948年までの期間は、ウッチが事実上の首都という役割を担いました。ポーランドはソ連の衛星国となり、社会主義体制となりましたが、ウッチは再び工業都市として蘇っていきました。

     

     

    ソ連が崩壊し、ポーランドも新たな国として出発しました。工業都市であるウッチの企業はすべて国営企業でしたから、民営化することになりました。しかし、国営工業時代の設備は自由経済の民間企業と比べると明らかに老朽化していて、そのままでは資本主義社会に対抗できませんでした。東ドイツなど、他の東側国家と同じように、そのまま旧国営企業が生き残ることができませんでした。

     

    ヨーロッパ随一の親日国であるポーランドですが、日本人はその事実も、このウッチという都市なども知らない人が多いと思います。この機会にぜひ、ワインでも飲みながら、ポーランドのことをもっと知って欲しいと思います。

     

  • ユングホルツ(Jungholz)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はユングホルツ(Jungholz)について勝手に語ります。

     

     

    オーストリアのチロルには、飛び地じゃないけど飛び地の珍スポットがあります。ここは以前にご紹介したアメリカの「ポイントロバーツ(Point Roberts)」と同じように、ここから自国であるオーストリアの他の町に出るには、ドイツを通らないと行けないという場所です。しかも山の中なので、ポイントロバーツのように海を船で渡るという方法もありません。

     

    ただし、ここはオーストリアと接する部分があるため、飛び地ではありません。ソルクシュローフェンという山の頂上の部分だけ、オーストリア領として繋がっているのです。ここにはまともな道路はなく、道なき道を登り、岩を乗り越えないと登頂できない場所で、標高は1,636mです。ここだけが唯一、ユングホルツがオーストリアの他の自治体と繋がっている地点で、それ以外の周囲はすべてドイツです。まさに陸の孤島というわけです。

     

    ノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)で有名なドイツのフュッセン(Füssen)からは西に直線距離で15㎞程度の位置にあり、ここだけドイツの中に飛びだしたオーストリアのチロルがあることになっています。人口も300人程度の小さな村で、スキー場がありますが、一般的には平凡な山奥の村でしかありません。通貨はユーロですが、それ以前はオーストリア・シリングではなく、ドイツ・マルクが主力通貨でした。しかもユングホルツの住民の半分近くはドイツ国籍の人だともいわれています。郵便番号はドイツの「87491」とオーストリアの「6691」が並存しているので、どちらも使えるそうです。ただし、ドイツは2006年にこの地域の郵便番号を廃止しようとしましたが、住民が反対したことで、結局併存することになっています。電話回線については、もともとドイツのものでしたが、現在はオーストリアの国番号と市外局番になっています。

     

    何とも不思議な状態になっているわけですが、どうしてこのような珍スポットになったのかというと、それは1342年に遡ることになります。それ以前はバイエルン公国のヴェルタッハに住む人物が保有していました。この年、チロルに住む領主がこの土地を購入しました。それによって、ユングホルツはチロルの一部となりました。しかも1844年には、バイエルン王国とオーストリア帝国との条約により、ユングホルツはチロル領であるということが決定しています。その後、バイエルンはドイツの一部となり、しかも二つの世界大戦で領土が拡大したり縮小したりしましたが、この地域の領有権については、全く無視されました。一方、ドイツに併合され、その後、ドイツとわかれたオーストリアも、ユングホルツへのアプローチとなる道路を作ることをしませんでした。山間部の田舎でしかなく、戦略的にも意味のない地域だったことから、二つの国ともそのまま放置したという印象です。こうして、このような世にも不思議な場所になったというわけです。

     

     

    ちなみに「ユングホルツ」とは「ユング(jung)」と「ホルツ(Holz)」で「若い木」を意味しています。いつまでも若い木であり、そのまま取り残された村という感じになるでしょうか。
    ワインでも飲みながら、こんな摩訶不思議な村を想像するのも良いのではないでしょうか。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 15

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第15回になります。

     

     

    前回の第14回は、ヨーロッパの高速鉄道を取り上げました。気分だけでも旅行の予備知識としようという意図でした。今回はヨーロッパと英語についてです。英語圏では当たり前ですが英語が通じますが、ヨーロッパでは、どの程度英語が通じるのでしょうか?

     

    世界的に展開する語学学校の「EF Education First」では、「世界最大の英語能力指数ランキング 」を出しています。100の国、地域から220万人が参加した、歴代最多のデータ集計に基づいているものです。(参考ページ)ちなみに、ここでの日本の順位ですが、世界100カ国で55位、アジア24カ国で9位でした。レベルは「低い」となっていて、スコアは「487」でした。これくらい低いレベルなので、たとえ日本人が英語圏に行ったとしても、あまり役に立たないので、ヨーロッパで英語が使えるかどうかなど問題外の気もします。それでも、日本人に最も身近な外国語ですので、詳しく見ていきましょう。

     

    では、ヨーロッパの英語能力指数ランキングです。日本のスコアが「487」であることを念頭に置いて見ていきましょう。

     

    1位 オランダ スコア:652
    2位 デンマーク スコア:632
    3位 フィンランド スコア:631
    4位 スウェーデン スコア:625
    5位 ノルウェー スコア:624
    6位 オーストリア スコア:623
    7位 ポルトガル スコア:618
    8位 ドイツ スコア:616
    9位 ベルギー スコア:612
    10位 ルクセンブルク スコア:610
    11位 クロアチア スコア:599
    12位 ハンガリー スコア:598
    13位 セルビア スコア:597
    14位 ポーランド スコア:596
    15位 ルーマニア スコア:589
    16位 スイス スコア:588
    17位 チェコ スコア:580
    18位 ギリシア スコア:578
    19位 スロバキア スコア:577
    20位 リトアニア スコア:570
    21位 フランス スコア:559
    22位 ラトビア スコア:555
    23位 イタリア スコア:547
    24位 スペイン スコア:537
    25位 ベラルーシ スコア:513
    26位 ロシア スコア:512
    27位 アルバニア スコア:511
    28位 ウクライナ スコア:503

     

    これを見ると、上位の北欧で英語がよく通じることがわかりと思います。実際に行ってみると分かりますが、街中で当たり前のように英語が話されています。逆にヨーロッパを代表する観光地であるフランス、イタリア、スペインは21位以下で、あまり英語が通じないことになります。それでも日本のスコアよりはるかに高いのは事実です。

     

    ちなみにですが、アジアのトップはシンガポールでスコアが611ですから、よーろぱあではベルギーやルクセンブルクと同じレベルになります。お隣の韓国は545、中国でも520ですから、日本がいかに低いかが分かります。

     

    さて、これはあくまでEF Education Firstのデータで、同じ国でも地域による差はあります。例えばドイツの場合、大都市別でみると、ベルリンやハンブルクは英語が良く通じますが、ミュンヘンはそこまでではありません。また旧東ドイツの地域は、旧西ドイツと比べると、はるかに英語は使えません。特に地方の小さな村では通じないのが当たり前といえます。ベルリンでもクロイツベルクなどはアラビア語が英語を上回るかもしれません。なので、国ごとだけでは見えないこともあるとえいます。
    英語より、ロシア語やドイツ語のほうが通じるエリアも多くあります。そういう意味で、英語が世界共通の言語であるのは明らかに誤りです。だからといって、日本の英語レベルが低くて良いという理由にはなりません。

     

  • 受胎告知の町(Благовещенск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は受胎告知の町(Благовещенск)について勝手に語ります。

     

     

    イタリアのフィレンツェにあるサン・マルコ広場には、サン・マルコ国立美術館があります。美術館にはなっているものの、ここはもともとは修道院で、現在は、その一部を美術館として公開しています。 ドメニコ会の修道士たちが修行の祈りの場であり、世俗の空気ではなく、聖なる空間ともいえます。ここを訪れたのは21歳の頃ですから、もう35年も前のことになります。聖なる空気に包まれ、静寂の回廊を抜けると、2階へあがる階段になります。ここで、階段の上の壁に大きなフラスコ画を目にすることができます。仄暗い階段から見上げると、その画は、まるで宙に浮かび、淡い光ながら確かな存在感を示す光に包まれているかのようです。そう、それこそフラ・アンジェリコが1440年から1450年頃にかけて制作した「受胎告知」です。これを見るためだけにここを訪れたのでした。

     

    「受胎告知」といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチとアンドレア・デル・ヴェロッキオが1472年から1475年ごろに描いたものも有名で、こちらもフィレンツェにあり、ウフィツィ美術館の所蔵です。しかし、こちらには訪れていません。

     

    そんな「受胎告知」ですが、都市名になっている場所があります。ブラゴヴェシチェンスク(Благовещенск)という、人口約23万人のロシアの都市です。ブラゴヴェシチェーニエ聖堂に由来していて、このブラゴヴェシチェーニエが受胎告知の意味だそうです。つまり「受胎告知の町」というわけです。シベリア南部のアムール州の州都で、中国との国境の都市です。アムール川(黒竜江)を挟み、わずか500m先の対岸は中国の黒河市になっています。そのため、ロシア語名だけでなく、満州語名では「hailan boo」、中国語名では「海蘭泡 (Hailanpao) 」となっています。

     

    この地域は、現在の国境とは関係なく、ダウール族とドゥチェル族の居住地でした。それをロシア人探検家によって、ヨーロッパに知られるようになっていきました。ただし、清露国境紛争の結果、ネルチンスク条約により、ブラゴヴェシチェンスク周辺地域は清朝の領土とされました。これが、1856年には、ロマノフ朝ロシア帝国の要塞都市として建設されるようになったのでした。清がアムール川の北部を領土としていましたが、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約により、この地域の一部が正式にロシアに割譲されました。そこで、アムール・コサック軍の根拠地となりました。そして、金の発見により、都市は急成長したのでした。

     

    1900年には、義和団の乱に関係して、義和団がブラゴヴェシチェンスクを占領ました。これにはロシアの報復があり、当時の清が管轄していた中国人居留地の人を虐殺したのでした。この虐殺の被害者数は分かっていなく、一説には2万人をこえるといわれています。そしてロシア革命となり、1918年には、白軍のアムール・コサック軍がガモフの反乱を起こしました。翌年には、日本軍がロシア白軍を支援し、ブラゴヴェシチェンスクを占領することに成功しました。そのため、極東共和国の一部となりましたが、日本は1922年に撤退しました。その後はソ連の一部となりました。

     

     

    受胎告知の町ということで、興味を持ったブラゴヴェシチェンスクですが、歴史的にはロシアのシベリア征服、清との領土紛争、義和団の乱とその報復、ロシア革命の白軍の反乱と日本軍など、生々しい歴史に彩られています。

     

  • ポー(Pau)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はポー(Pau)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのジュランソン(Jurançon)AOCワインといえば、半甘口から極甘口の白ワインで知られています。半甘口ワインは一般的な製法で醸造されるものだけでなく、ヴァンダンジュ・タルディヴ(Vendange tardives)といい、通常よりも収穫時期を1ヶ月程度遅らせるものがあります。これにより、ブドウが干しブドウ状になり、貴腐ワインと同様な仕上をしています。極甘口のワインでは、プティ・マンサンや、それにグロ・マンサンを配合して作られたもので、かなりの高級ワインになっています。場所はピレネー山脈麓の丘陵地帯で、面積は約1000haあります。

     

    このジュランソンのワインが生産される地域は、ベアルン(Béarn)で、ローマが進出してくる前からの先住民族がベナルニ族(Venarni)でした。地名はこれに由来します。この地域で話される言語はガスコーニュ語(Lo gascon)のバリエーションの1つであるベアルン語です。オック語の変種、つまり方言だとされています。特徴的な点がいくつかあり、例えば人名に冠詞を使ったり、所有形容詞を使わずに再帰代名詞を使うのが一般的だったりします。

     

    このベアルンの代表的な都市がポー(Pau)で、ここで生まれたのがアンリ4世(Henri IV)です。彼はブルボン朝初代のフランス国王であり、何といっても1598年にナントの勅令を発布した人物です。これによりカトリックとユグノーとを融和させるようにし、戦争を終結させることに成功しました。その後、フランスの再建を行ったものの、1610年にカトリック信者によって暗殺されてしまいました。

     

    【参考ページ】
    ナント(Nantes)
    フランス共和国( République française)2
    キリストの血入門 36

     

    このアンリ4世の母親がジャンヌ・ダルブレ(Jeanne d’Albret)で、ナバラ王国の女王でした。スペイン名はフアナ3世(Juana III de Navarra)、フランス名はジャンヌ3世(Jeanne III de Navarre)でした。アンリ4世の洗礼では、ベアルンの古式に則って、唇にニンニクを当て、ジュランソンワインを塗ったと伝わっています。ナバラ王国の場合、フランスと異なり、サリカ法という女性の承継を禁止した法が適用されていなかったことでジャンヌが即位しました。そしてプロテスタントを国教にし、カトリックを迫害しました。

     

    ナバラ王家の人々の居城となったていたのがポー城でした。この城を改築したのは、フォワ伯ガストン3世(Gaston III de Foix-Béarn)でした。しかし、その後のポーは、イギリス人にの保養地として知られるようにもなり、ヨーロッパ大陸初の本格的なゴルフコースやテニスコートも作られた場所でした。ナポレオン戦争で活躍した初代ウェリントン公爵のアーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington)なども、ここの保養地を愛していたといわれます。現在の人口は8万人弱で、日本では山梨県の甲府市と姉妹都市を結んでいます。

     

     

  • ラシャラ(Raschala)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラシャラ(Raschala)を勝手に語ります。

     

     

    ワイン蔵が並ぶ小さな村に「モーツァルトの立ちション石(Mozarts Pinkelstein)」があります。何とも奇妙なもので、史跡と呼んでいいのかどうかも疑問なものです。日本では各地に弘法大師の〇〇というものがあるので、おそらくそのような伝説の類といえるのかもしれません。

     

    その小さなワイン村がラシャラ(Raschala)で、ウィーンからは40㎞程度離れた場所にあります。何でも、モーツァルトがウィーンからプラハに行く途中に、ここで馬車を停め、この石にむ向かって放尿したということだそうです。実際にモーツァルトがこの村を通ったのかどうかは定かではありませんが、1787年にオペラの上演のため、ウィーンからプラハへ向かったのは事実のようです。確かにこの村を通ったとしても不思議ではない位置関係になっています。しかし、文献では一切、この村の記述はなく、あくまで状況証拠にすぎません。

     

    それでも、この村ではこの石に関係するイベントが行われたり、立ちション石祭りまであるといいます。まさに村おこしの道具のようです。そういう意味で、村にはかけがえのない石といえます。真実など、どうでもよいのかもしれません。

     

    ちなみに、モーツァルトが放尿した場所は、丘の切り通しになっている場所で、周囲の視界が遮られている場所だったそうです。用を足すのに最適な立地に石があったということになります。

     

    では、肝心な村はどのようなのかというと、ブドウ畑が広がる丘陵地帯にあり、オーストリアを代表するワインの名産地です。土壌も良く、切り通しの場所に横穴を掘って、ワインセラーにしたりしています。そのため、通常のワイン蔵と雰囲気が異なり、これを目当てに行くだけでも価値ある村です。

     

     

    この石があるのは、アルテ・ポスト通りで、集落の外れです。おそらく、日本人が普通にオーストリアに旅行へ行ったら、絶対に行かない場所でしょう。でも、こんな嘘みたいな石と、おいしいワインを求めて、こんな村を訪れるのは良くないですか。コロナの影響で外出自粛中には、むしろ、こんな場所に憧れます。

     

  • ブキッ・ビンタン・ブルース2(Bukit Bintang Blues 2)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は特別編です。ドイツから日本への帰国途中にクアラルンプール(Wilayah Persekutuan Kuala Lumpur)に寄ったときの思い出での2回目です。

     

     

    ドイツの秋は短く、落ち葉が舞い始めると、すぐに長い冬の到来となります。その快適な気候から赤道近い熱帯のクアラルンプールへ移動してきたことで、とにかく暑さと湿気になれず、ホテルに戻るとエアコンの効いた部屋で休みました。ドイツ再統一前後に慌ただしく動いていたこともあり、何も考えずにいるのも悪くない気がしました。しかし、さすがに夜になると、街を徘徊したくなりました。

     

    昼間に歩いてない地域をブラブラと進み、アロー通り(Jalan Alor)に入っていきました。は全長200m程度の通りですが、何ともアジア的でおもしろい場所です。それほど広くない道の両側に屋台が立ち並んでいて、まるで縁日のようです。ヨーロッパの雰囲気が染みついた自分には、まさにここはアジアだ、と感じる場所でした。中華が多く、そこも親しみやすい気がします。様々な匂いに包まれた空間で、なかには不快な臭いもあれば、食欲をそそるようなものもあり、歩いているだけで楽しくなります。

     

    日本の釜めしのようなものを出す屋台があり、あまりにおいしそうな匂いにつられ、そこで食事をすることにしました。中には程よいやわらかさの肉が入っていました。食べてみると鶏肉のように感じました。味付けは東南アジア的なものというより、和風の味付けに中華の要素が入ったようなものでした。とてもおいしく、料理を堪能できました。ただ、あとで、この屋台の裏にまわったときにカエルをさばいてるの見るまでは、、、。鶏肉ではなくカエルだったようです。

     

    さて、翌日です。
    ブキッ・ビンタンに来てすぐに知り合った女性と会うことになりました。マレー系の主婦で、年齢はおそらく40歳代半ばくらいではないかと思えました。ハンブルクに住んでいたことから、その時に一緒に住んでいた友達のことで相談があるとのことでした。ただ、彼女がハンブルクからマレーシアに帰国してから、すでに8年が経過しているようで、どれほど役に立つかはわかりません。
    今回はホテルのレストランだったので、マレー料理ではなく、どこにでもあるメニューがならんでいました。適当に注文し、ワインを飲むことにしました。この当時、ワインの知識が乏しかったので、これも適当に注文しました。

     

    なぜ、マレー人の女性がハンブルクに行ったのか?
    14年間もの間、ハンブルクで働き、マレーシアへ帰国したのはなぜか?

     

    実は彼女が19歳の頃、ハンブルクのレーパーバーン(Reeperbahn)に売られて行ったというのです。あまりに衝撃的な内容で、その事情については聞けませんでした。また、東南アジアの若い女性が売られていくという話は、それほど珍しくないかもしれませんが、その売られた先ははるか遠いレーパーバーンとは意外でした。

     

    【参考ページ】
    ハンブルク 2(Erinnerungen an Hamburg 2)
    ハンブルク 3(Erinnerungen an Hamburg 3)
    「はた楽サロン」ザンクト・パウリの夜

     

    まさかこのような内容の話だとは、全く想像していなかったので、かなりの衝撃でした。

     

  • ブータン王国のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブータン王国について勝手に語ります。

     

     

    ブータンのアルコール事情というのは、あまり日本では知られてませんが、どうやら、結構酒好きの国のようです。農村部でも、昼間でも飲みながら農作業をしている人もいるそうです。ブータンならではの酒もありますが、国産のアルコール飲料として、日本でもなじみのある酒類も豊富に流通しているようです、なんといってもブータンの国産品は、陸軍福祉プロジェクト(Army Welfare Project: AWP)が製造しているようなのです、これは「福祉」となっているように、退役軍人の福利厚生が目的なようです。詳しくないので、誤っていたらご指摘ください。

     

    ワインについては、赤ワインでは「TAKIN」や カベルネ・ソーヴィニヨンの「RAVEN CABERNET SAUVIGNON」ばどがあり、他にピーチワインの「zumzin」などもあるといいます。

     

    このブータンですが、チベット系の民族で構成される王国で、北は中国、東西南はインドと国境を接しています。首都はティンプー(Thimphu)で、国内最大都市ですが、人口は10万人に満たない程度です。しかし、ここがいつから首都になったのかは定かではありません。1955年以降であるのは事実のようですが、具体的にどの時期に遷都したのか分かりません。世界がこの遷都という事実を知ったのは、大阪府立大学名誉教授の中尾佐助氏が、ここに王宮があり、ここで国王に謁見したからだといわれています。中尾氏は首都といわれていたプナカ(Punakha)も訪れましたが、そこの王宮に人はいなく、単なる荒廃した谷だったようです。

     

    実際にはプナカの王宮は残っていて、国内第2の規模を持っています。最奥部には大講堂があり、ここに大きな仏陀像などが安置されています。それでもこの周辺人口は7千人程度で、都市としての中心部もないような場所です。遷都は国の発展のためにも正しかったのかもしれません。

     

     

    一方、新しく首都となったティンプーですが、地方から多くの人々が集まるようになり、それにともなうで中心部の再開発がおこなわれてきました。さらに都市圏を構成するような、郊外の町も都市化されつつあります。また、それだけ都市化されつつも、景観については、条例により、全ての建築物に規制がかけられています。何と、伝統的なブータン建築でなければ建築許可が下りないそうです。

     

     

    ブータンが国連に加盟したのは1971年と遅く、長い間、鎖国政策をとっていました。これだけでも特殊な国といえなくもないですが、むしろ宗教が独特と言えます。チベット仏教のカギュ派の国なのです。その中で主流派となっているドゥク・カギュ派で、南ドゥク派(ロ・ドゥク派)がブータンの国教になっています。南ドゥク派なので、当然北ドゥク派もあるわけですが、これは1616年に第16代教主の座をめぐる内紛により、南と北に分裂したのでした。この分裂は、座主職を相伝してきたギャ氏に対して、新たにガワン・ナムゲルが立ちあがったものの、政争に敗れ、南方のモン地方へと移りました。そこで新たな政権を樹立したのがブータン国家の起源だからです。

     

    国民総幸福量という功利主義を採用しているブータンですが、われわれ日本人にはわからない部分が数多くある国と言えます。それでもワインは飲まれているので、そこは親近感がわくかもしれません。

     

  • チェルニャホフスク(Черняхо́вск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチェルニャホフスク(Черняхо́вск)を勝手に語ります。

     

     

    ロシアのカリーニングラード州は飛び地になっています。以前に旧都市名のケーニヒスベルク(Königsberg)としてご紹介したこともあるカリーニングラード(Калининград)はこの地域の代表的都市です。今回は、飛び地の中央部分にあるチェルニャホフスク(Черняхо́вск)にご案内しましょう。

     

    【参考ページ】
    ケーニヒスベルク(Königsberg)

     

    この地域はロシア固有の領土ではなく、チェルニャホフスクも13世紀にドイツ騎士団により建設された都市です。プロイセン十字軍が征服した地域につくられたわけです。当然、ドイツ語名もあり、「インステルブルク(Insterburg)」です。これは、インステル川(Inster)に由来した都市名でした。最初はプロイセン十字軍の築いたウンサトラピス(Unsatrapis)という砦がある場所でした。これを、1336年、ドイツ騎士団総長ディートリッヒ・フォン・アルテンブルクによってインスティエルブルク(Instierburg)という城にしました。しかし、リトアニア大公国との戦いで城は破壊され、その後、再建しましたが、今後は1457年にポーランド王国との戦いでも破壊されました。それでも城は再建され、代官の居住地となり、そこを中心とした城下町が築かれました。

     

    1525年、ドイツ騎士団総長のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハにより騎士団国家としてプロシア公領を成立させました。インステルブルクはその領土となりました。1583年には都市の特権を与えられました。そして1701年にプロイセン王国が成立し、その中に組み込まれましたが、この時代、インステルブルク周辺の人口は激減していました。疫病によるものでした。そこで、人口を回復させるため、ドイツの各地から追われていたプロテスタントの人々を誘い、ここへ入植させたのでした。特にザルツブルクで追放された人々が多く集まりました。

     

    しかし、プロイセンの中心部から離れた地域でもあり、七年戦争ではロシア帝国に、ナポレオン戦争ではフランス軍に占領されてしまいました。1818年になって、ようやくインステルブルクは東プロイセン州グンビンネン県に属するようになり、この周辺地域の中心となりました。

     

    19世紀になると、鉄道が開通し、水運と合わせて交通の要衝となりました。工場も繊維関連や冶金関連のものができ、人口も増加していきました。この繁栄が大きく変化したのは第一次世界大戦でした。緒戦でロシア帝国が東プロイセンに侵入してきたのでした。そのため、この地方は大きく荒廃していきました。それでも戦後にすぐ復興し、再び人口も増加しました。

     

    これも第二次世界大戦でまた都市が破壊されてしまいました。特に1944年7月27日の連合国側のイギリス空軍による空襲が壊滅的でした。インステルブルク城と市街地は廃墟となりました。翌年の1月には、ソ連の赤軍により占領されました。これを契機として、東プロイセン北部は第二次世界大戦後はソ連のカリーニングラード州となったのでした。ドイツ人が追放され、ソ連各地からロシア人が移民してきました。都市名も1946年にインステルブルクからチェルニャホフスクと変えられました。この都市名は、ケーニヒスベルクの戦いで戦死した赤軍の大将イワン・チェルニャホフスキーに由来します。

     

    ソ連から崩壊し、バルト三国の独立により、カリーニングラード州はロシアの飛び地となりました。経済的には厳しい状態となりましたが、ドイツがロシアと協力して、第一次世界大戦の戦没者墓地や歴史的建造物などの再建や補修が行われました。これは経済的に貢献し、人口もソ連崩壊前より増加し、その後は徐々に減少していきました。

     

     

  • ハンブルク 8(Hamburg 8 und Rahlstedt)ラールシュテット

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第8回です。

     

     

    前回は、ハンブルク郊外のシュターデ(Stsde)からブレーマーフェルデ(Bremervörde)に向かいました。今回は北側のラールシュテット(Rahlstedt)に舞台を移します。

     

    ブレーマーフェルデ(Bremervörde)に到着したのは夕方近かったものの、また太陽の輝きは強く、気温も快適といえました。オステ川を渡る手前で74号線は71号線に変わり、川の中州を通過して、ノイエ通りとなって街中へと入っていきました。小さな中心部を通り、フッテルベルクを右折して、そのまま道に沿って進みました。小さなバルベックス川を超えると、左側に巨大な駐車場が現れます。ただ日本と違って緑に囲まれているので、そこまで広いとは見えません。その隣がイベント広場です。そこを素通りして、フェルト通りにぶつかり、左折した先に目指す場所がありました。

     

    実はここで会えたのは、確かにフランクフルトで失踪した日本人女性の友達でしたが、彼女も探しているので情報が欲しいというのでした。情報を得るために行ったのに、逆に質問攻めにあってしまいました。ただ、彼女との会話の中で、ハンブルク近郊に関係する地名はひとつだけ出てきました。それがラールシュテット(Rahlstedt)でした。

     

    ラールシュテットはハンブルクの中心部から北東方向にあり、アーレンスブルク(Ahrensburg)の手前に位置します。アーレンスブルクはアンネマリーの出身地です。それはともかく、何でもフランクフルトの音楽学校時代、演奏旅行でハンブルクを訪れた際、滞在したのがラールシュテットだったようです。これだけなら、何の意味もない情報なのですが、失踪した彼女は、ここでピアノ関連の仕事に誘われていたというのです。具体的な話は分からないものの、本人も悪い気はしない印象だったというのです。ラールシュテットは住宅街ですから、ここで誰がどんな仕事を紹介しようとしていたのか、全くの謎です。

     

    わざわざ、そのときのことを調査するのも素人には限界があります。それでも、後日、ラールシュテットだけは訪れてみようと思い、ハンブルクへ帰ることにしたのでした。帰りは、ホレンシュテット(Hollenstedt)からアウトバーンの1号線で帰宅しました。

     

    翌週の日曜日、意味がないとは思いつつ、ラールシュテットへと出かけることにしました。中央駅から近郊電車のRE8、RE80、Re81で1本で行けるので、時には郊外に向か電車に乗ることにしたのでした。ある種の気分転換で、それ以上の意味がないことは承知しています。

     

     

    ラールシュテット駅の周辺は、住宅街の中にありますが、駅前はそれなりに賑やかです。東京の郊外と同じで、駅前に商業施設が集中し、周辺に住宅が広がっています。

     

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