今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • トースハウン(Tórshavn)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はトースハウン(Tórshavn)について勝手に語ります。

     

     

    フェロー諸島(Færøerne)は北大西洋にある諸島で、スコットランドのシェトランド諸島とノルウェー西海岸、アイスランドの間にあります。デンマークの自治領ですが、「フェロー諸島共和国」として、デンマークから独立する動きもあるそうです。その中心都市は、ストレイモイ島のトースハウン(Tórshavn)です。人口は約1万9,000人です。 「トールの港」という意味で、「トール」は、北欧神話の雷鳴と稲妻の神のことです。

     

    ここの歴史はノルウェー王国(Kongeriket Norge/Noreg)から始まります。ノルウェーは10世紀初めに統一王国が成立した国ですが、ノルウェー最初の統一王とされるハーラル1世(Haraldr hinn hárfagri)が、強権的な圧制だったことから、そこから逃げ出して島への入植がはじまったといわれています。しかし、ハーラル1世は必ずしも略奪的なヴァイキングではなく、交易に関与して、沿岸航路の安全をはかる必要のあった豪族たちと協働した統一だったという説もありますので、実際には、この入植についての真実は分かりません。 ともかく、825年にティンガネスに独自の議会が設立され、ここの半島がトースハウン港を2つに分けています。議会は中立の立場ということで、このときは誰も住んでいない無人地域にありました。

     

    やがてヴァイキングの時代が終焉し、交易を中心としたフェロー諸島の港として成長していきました。1271年にはノルウェー王室の貿易専売所が置かれることにもなりました。この時からフェロー諸島全体の中心都市という役割になりました。ヨーロッパ本土と離れている島ではありますが、16世紀には宗教改革の影響も受けました。その一方で、海賊の略奪行為も問題となりました。そのため、要塞も築かれるようになりました。

     

    17世紀になると、デンマーク王のフレデリク3世(Frederik III)が現れました。彼はスウェーデンとの戦争で苦戦を強いられ、領土の割譲をせざるをえない状態になりましたが、内政では国民の人気が高く、デンマークに絶対主義をもたらした王でした。そのフレデリク3世が、クリストファー・ゲーベルにフェロー諸島を下賜しました。ゲーベルは島を統治し、島民を抑圧していきました。しかも貿易による莫大な利益はゲーベルが独占したのでした。島へ入ってくる品々の価格も上昇させました。これに反発した島民は、ついに1673年に蜂起し、ゲーベル家の支配する施設を焼き討ちしたのでした。

     

    その結果、貿易については、王室の管理に戻されることになりました。これで安定を回復することになりました。さらにデンマークのコペンハーゲンからの船が往来するようになり、生活品もフェロー諸島にいきわたるようになりました。しかし、都市部からの船の往来の増加は、トースハウンに天然痘まで運んでくるようになり、、住民のほぼ全員が死亡するという大惨事に発展しました。再建に向かったのは、18世紀後半まで待たなければなりませんでした。貿易面では水産品が中心でしたが、実は英仏戦争の際にはイギリスへの密輸が大きな利益を得たのでした。こうして、1856年からはフェロー諸島が自由貿易を活発化させたのでした。

     

    20世紀の第二次世界大戦では、ナチス・ドイツのノルウェー・デンマークへの侵攻があり、対抗するためにイギリスが「ヴァレンタイン作戦」にでフェロー諸島に進攻してきました。そのため、英国の占領下に置かれる時代となりました。戦後はイギリス軍も撤退し、現在では周囲の町と合併し、トースハウンは新たな成長を迎えました。

     

     

  • サン・セバスティアン(San Sebastián)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサン・セバスティアン(San Sebastián)について勝手に語ります。

     

     

    サン・セバスティアン(San Sebastián)は、スペインのビスケー湾に面し、フランスとの国境からわずかに約20 kという位置にある都市です。都市の人口は約19万人、都市圏人口は約44万人です。スペインを代表する観光地のひとつです。 ビスケー湾には、ラ・コンチャ海岸という砂浜のビーチがあり、スペインというよりヨーロッパを代表する海水浴場ともいえます。この海岸に沿って遊歩道があり、ここも有名なスポットになっています。また、ビーチの先にはサンタ・クララ島があり、この島も観光名所となっています。

     

    バスク地方ということもあり、スペイン料理とは異なるバスク料理が観光客に人気で、有名なレストランが多くあります。そこで、バスク料理とワインという組み合わせも最高です。また市内には数えきれないほどのバルがあり、それらを巡るのも観光の目玉といえます。

     

    ワインという観点では、サン・セバスティアンの古い文献から、聖セバスティアンの修道院には、サガルド(Sagardo)というバスク地方のシードル(リンゴ酒)をつくるためのリンゴ園があり、ナバラ王国のサレイレ修道院(Monasterio de Leyre)に寄進されたとあります。このレイレ修道院は、サン・サルバドール修道院 ( Monasterio de San Salvador de Leyre)ともいい、ロマネスク様式で、ナバラ王国のサンチョ3世が「国の心臓」だと賛辞を述べたものです。このように、サン・セバスティアンはナバラ王に自治権を与えられていて、それは1181年まで続きました。

     

    しかし、1200年にカスティーリャ王国に征服されてしまいました。自治権は維持できましたが、ナバラ王国はサン・セバスティアンがなくなったことで、大西洋直結ルートがなくなってしまいました。1265年には、カスティーリャ王国とナバラ王国の協定により、サン・セバスティアンが再びナバラ王国に戻りました。都市としては主に貿易が発展し、しかも戦争から逃れたことで、サン・セバスティアンもギプスコア地方の一部として中心的役割まで担うようになっていきました。ただそれも、1489年に大規模な火災が発生し、都市は荒廃することになりました。この反省を活かし、復興は主に石材を使用した新たな街づくりとなりました。

     

    その後、戦争や疾病などの流行もあり、サン・セバスティアンは衰退時期を迎えたりしましたが、1656年にマリア・テレサとルイ14世の婚姻の際、サン・セバスティアンはスペイン王室の司令部となりました。18世紀になってからはフランス軍に包囲されましたが、都市が破壊されることは免れ、新大陸のスペイン領との貿易で繁栄するようになりました。このサン・セバスティアンの繁栄は18世紀末まで続きました。これがスペイン独立戦争となり、ナポレオン1世に占領されることになりました。これはイギリス海とフランス軍の対立をも招き、さらに、サン・セバスティアン市民フランスに対する反発感情が残りました。

     

    本格的なリゾート地になったのは、20世紀からですが、不安定な経済状況や内戦なども経て、現在の姿へと変貌していきました。今では優雅なリゾート地ですが、歴史を紐解くと、かならずしも順調に今の地位を築いたわけではないことが良く分かります。

     

     

  • ボツワナ共和国(Lefatshe la Botswana)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はボツワナ共和国(Lefatshe la Botswana)について勝手に語ります。

     

     

    アフリカのワインといえば、南アフリカ共和国がもっともワイン生産が盛んなイメージがあります。その隣の国であるボツワナ共和国(Lefatshe la Botswana)はどうかというと、ブドウを栽培している情報はなさそうです。それでも周縁を高地で囲まれ、標高も1000メートル前後あるため、年平均気温は20~23度で、アフリカのイメージとは程遠く、温帯の地域と同じような感じです。しかし、ヨーロッパや日本と違い、気温の変動幅が大きい地域です。夏は酷暑、冬は氷点下というくらいの変動があります。また、夏は雨季、冬は乾季となっています。海から離れた内陸国で、平原の広がる盆地になっています。おもしろいのはザンビアとの国境で、その距離はわずか約150mで、世界で一番短い国境線になっています。ワイン生産の盛んな南アフリカ共和国を構成する民族がツワナ系の人々ですが、ボツワナにも多く居住しています。

     

    そのツワナ系の人々ですが、18世紀前半に南アフリカ共和国のトランスバール地方からこの地域に移住してきました。そこでバクウェナ首長国やバタワナ首長国などのツワナ系の首長国が成立しましたが、1885年にイギリスにより保護領の一部となり、1885年にはイギリスの保護領化が宣言されました。19世紀後半から、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、トランスヴァール共和国と、南ナミビアを保護領化したドイツ帝国の間にツワナ系首長国が挟まれました。この状態に対して、1885年にイギリスは遠征隊を派遣しました。トランスヴァール共和国から西へと進むてボーア人を追放し、ドイツ保護領のすぐ近くまで領域まで近づきました。そこで、1890年にドイツと協定を結びました。これが現在のボツワナ共和国の前身となる領域になりました。

     

    20世紀には、南アフリカ連邦が発足し、第二次世界大戦後に合同諮問評議会が設立され、1960年に憲法が制定されました。そして1966年9月30日にボツワナ共和国として独立しました。独立当初は、ボツワナは世界的に最貧国のひとつでした。インフラも整備されていなく、隣の南アフリカはアパルトヘイト政策で、ナミビアはその南アフリカが占領しているという状態でした。それが大きな変革となったのが、世界最大規模のダイヤモンド鉱山であるオラパ鉱山の発見でした。これによって、教育、医療、インフラ整備が一気に進みました。ボツワナ経済も最貧国からの脱却へと進んでいきました。

     

     

    また、ボツワナと北朝鮮の関係も有名です。まだ冷戦中の1974年に、ボツワナと北朝鮮は外交関係が樹立されましたが、2013年にボツワナ政府は北朝鮮における人権侵害の状況を憂慮し、北朝鮮との二国間における協力関係を停止しました。2014年には、北朝鮮代表団が、国際連合のボツワナ常駐代表だったチャールズ・トヘンバニ・ントワーハエに対し、人種差別的な薄汚い言葉を投げかけたということが報道されました。その内容は、ントワーハエに対して、、「that black bastard」と言ったというのです。翌年、韓国を訪問していたボツワナのイアン・カーマ大統領は聯合ニュースのインタビューで、北朝鮮と断交した理由として、人権蹂躙と近隣諸国に対する威嚇の二点を挙げました。猛烈な批判をしたことで知られています。

     

    なじみのなく国でしょうが、コロナ禍の今、外出自粛で自宅で過ごす中、世界の知られざる国について情報を得るのも良いのではないでしょうか。ワインでも傾けながら。

     

  • ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)について勝手に語ります。

     

     

    ワインに氷を入れて飲む人が多いというパラグアイ共和国(República del Paraguay)ですが、その首都はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン(Nuestra Señora de la Asunción)、またはアスンシオン(Ciudad de Asunción)です。「聖母の被昇天 (Asunción de María)」に由来する都市で、都市単体では人口が52万人程度ですが、都市圏では200万人を超します。

     

    【関連ページ】
    パラグアイ共和国(República del Paraguay)

     

    スペイン人によってつくられた都市で、もともとは砦でした。1537年、ラプラタ川から現在のボリビアに相当するアルト・ペルーへ抜ける陸路を探す際に、ここに砦をつくったことが都市の始まりでした。しかし、先住民との戦いが続き、この砦にブエノスアイレスからの避難者が集まってきました。このような過程を経て、人口が増加し、軍事的な防衛設備のもとに都市としての機能が加わることになりました。そのためか、南米の中では、比較的歴史の古い都市となりました。

     

    さらに、ここを拠点として、ラプラタ川流域内外という広い地域に次々と都市建設を行うようになりました。そのため、、諸都市の母 (Madre de Ciudades) とも呼ばれるようにもなりました。アスンシオンは、南米大陸の中南部を征服し、植民地を建設するための基地でもあったということになります。このような都市はパラグアイだけでなく、ボリビア、アルゼンチンなどの広範囲に渡りました。アルゼンチンのブエノスアイレス(Buenos Aires)などもその一つです。

     

    1865年には、三国同盟戦争が勃発しました。別名はパラグアイ戦争(Guerra del Paraguay)です。パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル帝国・ウルグアイの三国同盟軍が戦闘したものです。南米戦史の中で最も凄惨な武力衝突といえます。当時、ウルグアイはブラジル・アルゼンチンの緩衝国でしたが、ここでウルグアイの内乱が起こり、そこにパラグアイの独裁者フランシスコ・ソラーノ・ロペス (Francisco Solano López)が介入したことによるものでした。ただ南米だけの局地的な戦争というものではなく、この裏には、南米の植民地支配のヨーロッパ列挙の影響や、新たにイギリスが南米に対する経済的な関心を寄せたことも関係していました。この戦争のとき、アスンシオンはブラジルの軍隊に占領されました。そのため遷都することになり、ルケにしました。しかし、ルケも危険になりピリベブィ (Pirivevyi) へと移転しました。距離は60kmも東へと移動したことになりました。

     

    三国同盟戦争が終結すると、独裁者ロペスの政権により、国外追放された人々などを続々と帰国させました。この戦争で多くの成人男性が死傷し、人口減少対策として、行ったものでした。また、ブラジル軍の占領が続いたため、ブラジルの傀儡政権をたてました。これは1876年まで続きました。

     

     

  • ヴィボルグ(Вы́борг)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴィボルグ(Вы́борг)について勝手に語ります。寛ぎながら、ワイン片手にお読みいただければありがたく思います。

     

     

    フィンランド湾に面するヴィボルグ(Вы́борг)は、かつてのソ連時代に、レニングラードからヘルシンキに向かう夜行列車で通り過ぎた都市です。レニングラードは現在はサンクトペテルブルクで、ここから北西に130kmの位置にあります。フィンランドとの国境には、わずかに、38kmという位置になります。

     

    レニングラード最後の夜では、シベリア鉄道で一緒だった、当時、慶応大学の学生と現地の人と遊び、酔ったままそれぞれの駅へ向かったことが思い出されます。ここで一人旅の醍醐味を味わったことになりますが、何も迷うことなく寝台に入り、そのまま眠りにつきました。ヴィボルグには停車したかどうかも記憶がありません。ただ、あとで思い出すと、ここは興味深い都市だったことに気づきます。

     

    スウェーデンが支配する都市でしたが、1293年の「第三次スウェーデン十字軍」により、ヴィボルグ城が建てられました。この城の建築により、スウェーデンとノヴゴロドの紛争となりました。結局、スウェーデンの一部となったものの、1495年にはロシア・スウェーデン戦争が起こったりもしました。それでもスウェーデン支配地のまま残り、それは1710年の大北方戦争まで続きました。大北方戦争では、ピョートル1世がこの街を占領し、1721年のニスタット条約によりロシア領となりました。1790年には第一次ロシア・スウェーデン戦争がおこり、ヴィボルグ湾の戦いなどもありました。

     

    変化が訪れたんは19世紀になってからで、フィンランドがロシアに割譲され、ヴィボルグを含む周辺一帯をアレクサンドル1世によって、をフィンランド大公国に編入したのでした。そのため、19世紀は、フィンランド東部での中心都市という機能を果たすことになったのでした。特に運輸面での中心的な役割を担うようになりました。

     

    ロシア革命が起こると、フィンランドは独立宣言をし、フィンランド内戦へと繋がりました。このときにはヴィボルグは、フィンランド第2の都市にまで発展していました。赤衛軍と白衛軍が街中へと入り込みました。やがて冬戦争となり、7万人の市民がフィンランド西部へと避難するおうになりました。これで無人と化した都市は、モスクワ講和条約により、ソ連へと割譲されることになりました。1940年にはカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に編入されました。周辺を含め、わずかに残ったフィン人は1万人程度でしたが、ソ連への正式な編入を前に、立ち退いていきました。

     

    その後、フィンランド軍による奪回があり、多くの人々が帰還しましたが、赤軍の反撃が集まり、1944年に再び街は陥落しました。モスクワ休戦条約により、国境線は元に戻り、ヴィボルグという名称にして、完全なソ連の都市となり、ソ連全土からここに移住してきました。

     

    このような隣国とも攻防を経験した都市なので、本来なら立ち寄りたい気もしましたが、当時はソ連でしたので、旅行も制限されていました。今なら、もっと気軽に行けるでしょう。もし機会があれば、立ち寄りたい都市の一つです。

     

  • シェンゲン(Schengen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシェンゲン(Schengen)について勝手に語ります。ワイン片手にお読みいただければありがたく思います。

     

     

    ヨーロッパの国家間で国境を越える際に、国境検査なしで自由に往来することを許可しているのがシェンゲン協定ですが、そのシェンゲン(Schengen)は町の名です。1985年にシェンゲン協定が調印された場所こそがシェンゲンなのです。そのため、小さな町ですが、世界的に知られるようになりました。

     

    【参考ページ】
    シェンゲン協定

     

    どこにあるかというと、ルクセンブルク大公国のレミヒ郡に属する町で、人口はわずかに1600人程度です。 ルクセンブルク、ドイツ、フランスとの国境が交わる三国点に位置していて、もともとはブドウ栽培とモーゼルワイン生産を行う地味な町でした。ここは、モーゼル川沿いに北東のザウアー川との合流点にあるヴァサービリヒまでの区間にあり、これがルクセンブルクのワイン街道となっています。ドイツ側のブドウ生産地域から続くもので、モーゼル・ザール・ルーヴァーというワイン生産地域の一部になっています。

     

    今ではワインより、シェンゲン協定記念碑が注目されています。それでも13世紀建造の水辺の城跡や教会などの歴史的遺物も残り、バロック庭園も再建され、「国境のない庭園(Gärten ohne Grenzen)」として、3か国の庭園を巡る観光コースにもなっています。観光だけでなく、もっと現実の生活面では、国境の町らしい風景も見られます。特にガソリンです。ルクセンブルクの燃料に課される税金は、ドイツやフランスより低いため、販売価格が安い傾向になります。そのため、ドイツやフランスからシェンゲンへと、安いガソリンを求めるドライバー (Tanktourist) が集まってきています。

     

     

    ここで調印されたシェンゲン協定のおかげで、ヨーロッパの国家間の移動は極めて楽になりました。日本では想像できない協定ですが、だからこそ、価値があるともいえます。いつの日か、新型コロナ収束後に、この小さな町に行きたいものです。

     

  • ネパールのワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はネパールのワインについて勝手に語ります。

     

     

    以前にネパールを取り上げましたが、よく調べてみると、ネパールでは国産ワインの需要が増加傾向になるのだそうです。それも、ここ数年のことで、輸入ワインより国産ワインのシェアのほうが多くなったともいわれています。価格も安く、手ごろなこともあって、人気が出てきたとのことです。

     

    【参考ページ】
    ネパールとネワール族

     

    日本でもごくごく少量が輸入されているとも聞きますが、周囲でネパールのワインを飲んだことがある人がいないため、何ともコメントできません。ただ、話によると、ネパールのワインとは、ブドウ本来の味を活かすとは限らず、他の果物などの風味をつけたりするそうです。ヨーロッパのワイン文化から見たら、邪道なのかもしれません。

     

    そんなネパールの正式名称は「ネパール連邦民主共和国」でしたが、2020年11月16日付けで国名変更を国際連合へ通達し、承認されたことで、正式名称が「ネパール」へ変更されました。連邦国家らしく、多民族、多言語の国家で、民族だけでなくお隣のインドでお馴染みのカーストまで関係して、それらが複雑に絡み合っています。かつて国教だった宗教はヒンドゥー教ですが、仏教や、キラント教(Kirant Mundhum)、など、複雑な混在が見られます。その中でキラント教は、アニミズム(祖先崇拝)とヒンズー教、それに仏教が習合したものといわれます。。ネパールの人口の3.6%が信者だといいますが、、キラント諸族という、リンブー族、ライ族、スヌワール族、ヤッカ族の70%以上が信仰しているという話まであります。これは、シャーマニズムの要素が多分にあり、自然と祖先の崇拝とうことらしいです。

     

    国家としては新しく、王政が廃止されて、現在の国となったのは2008年からです。それまではネパール王国で、その前はゴルカ王国でした。2008年に、ギャネンドラ前国王が王宮を退去し、初の大統領選挙が行われました。しかい、大統領候補は誰も過半数に達せずに決選投票へともつれ込みました。その結果、初代大統領にラーム・バラン・ヤーダブが選出されました。首相には、毛沢東派のプシュパ・カマル・ダハルが選出されました。この内閣は、毛沢東派と統一共産党、マデシ人権フォーラムなどの連立内閣でした。翌年になると、ネパール共産党毛沢東主義派とネパール共産党統一センター・マサル派がネパール共産党統一毛沢東主義派(統一毛派)となりました。

     

    このように、共産主義を掲げる政党が多いのが特徴で、中国の影響が大きいといえます。その証拠に、中国はチベット政策に対する抗議活動を抑圧するようにネパールに要請しましたが、ネパール警察はまさに中国との良好な関係を維持することを優先させたのでした。その結果、500人以上のチベット人の活動家が逮捕されました。中国という外国からの要請により、ネパールは自国内に居住するチベット人の政治活動や、文化活動などを厳しく制限したわけです。つまり、ネパールのチベット人は、国家により日常的に人権侵害を受けている状態となったのです。しかも、一部のチベット人を中国へ強制送還しているという話もあります。このことはチベット人難民の強制送還を禁じる国際法に違反している状態です。

     

    その一方で、日本との関係も良好といえます。 ネパールの基本的な外交方針は非同盟中立であることも関係しているといえます。それはインドと中国との関係が深すぎ、しかも両国の関係に翻弄される状態であることも影響しているのかもしれません。

     

    そんな複雑なネパールですが、どんなワインが生産されているのか、一度、確かめてみたいとも思っています。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 14

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第14回になります。

     

     

    前回の第13回は、ヨーロッパの閉鎖都市(closed city)についてでした。今回は新型コロナの影響で海外旅行に気軽に行けない状態を考えて、ヨーロッパの高速鉄道を取り上げ、気分だけでも旅行の予備知識としようと思います。

     

    ヨーロッパの高速鉄道といえば、ユーレイルパスを利用するイメージがあります。ユーレイル(Eurail)は、オランダのユトレヒトを本拠地とし、ルクセンブルクに登記されている企業 Eurail Group G.I.E. のことです。このユーレイルパス(ユーレイルグローバルパス)があれば、ヨーロッパ各国の鉄道が自由に乗り降りできます。ただし、座席の予約は別途で行いますが、日本のように、その都度、乗車券と特急券を購入しなくても良いので、何とも便利です。こんなパスを使って、代表的な高速鉄道を紹介していきましょう。

     

    まず、ユーロスター (Eurostar) です。
    イギリスとヨーロッパ大陸を結ぶ高速鉄道で、何といっても英仏海峡(ドーバー海峡)トンネルを経由することで知られます。ロンドンから、パリ、ブリュッセル、アムステルダムなどを結んでいます。最高速度300km/hです。イギリスの始発駅はロンドンのセント・パンクラス駅です。1994年から運行が開始され、航空機からのシェアを徐々に獲得してきました。新型コロナ以前では、ロンドン・パリ間で約71%、ロンドン・ブリュッセル間で約65%のシェアまでいきました。

     

    フランスではTGVです。フランス国鉄(SNCF)が運行する高速鉄道で、「TGV」とは、フランス語の「Train à Grande Vitesse」の略です。日本の新幹線のような全線が専用路線を走行するわけではなく、都市部では既存の線路を走行しつつ、郊外で線形の良い場所で高速走行するというパターンが一般的です。そのためターミナル駅は在来線と共用していることが多いといえます。最高速度は路線により異なり、300から320km/hになっています。パリを起点として、ボルドー (Bordeaux)、リヨン (Lyon)、マルセイユ (Marseille) などのフランスを代表する都市を結んでいたりしますが、国際路線もあます。フランスからベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、イタリア、スペインなどに直通できます。TGVリリア(Lyria) の運行では、フランスとスイスを結ぶ路線もあります。

     

    レ・フレッチェ (Le Frecce)は、旧名称がユーロスター・イタリア (Eurostar Italia)で、イタリア国内の諸都市を結ぶ高速鉄道網です。イタリアを代表するローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ヴェローナ、ナポリなどに快適に移動できます。レ・フレッチェは3種類あり、フレッチャロッサ (Frecciarossa) (FR)、フレッチャルジェント (Frecciargento) (FA)、フレッチャビアンカ (Frecciabianco) (FB) があります。フレッチャロッサは「赤い矢」を意味し、基本的にローマ・テルミニ駅とミラノ中央駅を最高速度300km/hで結びます。フレッチャルジェントは「銀の矢」を意味し、最高速度250km/hです。フレッチャビアンカは「白い矢」を意味し、フレッチャロッサとフレッチャルジェントの下部に位置します。

     

    そしてICE(InterCity Express)です。ドイツのすべての主要都市を結んでいます。最高速度 300km/hで、ベルリンからハンブルクやケルンなどの主要都市への移動では、最も利便性が高く、最速といえるものです。国際路線もあり、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランス、スイス、オーストリアへも直通しています。TGVとは異なる点は、客車を連接構造とはしていません。 特徴的なのは、ダイヤがパターン化されていて、毎時〇分発というようになっています。これは日本でもよくあるパターンですが、ドイツらしいともいえます。主要区間では複数の系統が合わさっていて、ターミナルでICEの乗り換えが容易だったり、乗り換え時間を短縮するような工夫もされています。また、朝夕のビジネス利用需要に対応したものもあり、停車駅の少ないものや、表定速度の遅いものもあります。

     

    他にも、チェコではスーパーシティ (SuperCity)や、スペインではアルタリア (Altaria) やアルビア (Alvia) 、AVEなどもあります。どれも日本の新幹線とは異なる魅力がありますので、鉄道好きでない人も、一度は乗車して欲しい高速鉄道です。

     

  • アラス(Arras)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアラス(Arras)について勝手に語ります。

     

     

    フランスで、かつてのアルトワ地方に属していたアラス(Arras)は、現在はオー=ド=フランス地域圏で、パ=ド=カレー県の県庁所在地となっています。人口は約4万1千人です。古代には、「聖なる木立群」を意味する「ネメトン(Nemeton)」から「ネメタクム(Nemetacum)」「ネメトセンナ(Nemetocenna)」という都市が、現在のアラスの場所にあったといわれています。また古代ローマ人は「アトレバトゥム(Atrebatum)」と改名しました。ローマにとって重要な駐屯地でした。

     

    キリスト教が本格的に浸透したのは、4世紀後半でした。その一方で、住民をキリスト教に改宗させた聖ディオゲネスは、異民族により殺害されました。聖ヴェデストは、教会や修道院共同体を創設し、その後のカロリング朝時代にベネディクト会派の聖ヴァースト修道院になりました。

     

    都市としての発展は、このような修道院を中心とした宗教都市の側面だけでなく、穀物市場という面も大きくありました。そのような中にあって、9世紀にはヴァイキングに襲撃され、大きな被害を受けました。それでも修道院は復興しました。1180年には商業特権を授けられ、貿易とともに銀行業でも栄えました。14世紀からは羊毛産業も発展し、都市は栄え、多くの富を蓄えることに成功しました。特にタペストリーの生産が有名になりました。

     

    経済面とは別に都市の支配者は、中世には、様々な封建領主が転々と支配してきました。フランドル伯、ブルゴーニュ公、スペイン・ハプスブルク家と続き、最終的にフランス王家と続きました。しかし、ブルゴーニュ公シャルル(大胆公)死去後、フランス王ルイ11世の支配になったわけですが、アラスの人々はフランス王よりもブルゴーニュ公への忠義が強く、そのためルイ11世は彼らを都市追放とし、王家に忠実な人々を移住させました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)

     

    さらにルイ11世は都市名をフランシズ(Franchise)と改名しました。しかしこの都市名は一時的なものでした。1482年には、ここでアラスの和約が締結され、ルイ11世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の対立関係が解消され、その後、スペイン・ハプスブルク家のネーデルラント17州の一部となりました。

     

    20世紀の二つの世界大戦では、アラスは軍事的に大きな影響を受けました。まず、第一次世界大戦では、前線近い位置関係から、1917年のアラスの戦いが行われました。これでアラスの市街地は壊滅的な被害を受けました。次の第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツに侵攻され、1940年のアラスの戦いが起きました。これはイギリス軍による反撃でした。それでもアラスはドイツ軍の占領により、ドイツに対するレジスタンス疑惑のある人は大量に処刑されたのでした。

     

     

  • アオスタ(Aosta)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアオスタ(Aosta)について勝手に語ります。

     

     

    アオスタ(Aosta)はイタリアの北西部の都市で、イタリアのトリノから約80km、ミラノの西北西約149km、スイスではジュネーブから104km、フランスのリヨンからは約194kmに位置しています。 歴史のある都市で、紀元前25年にローマ帝国により征服され、アウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(Augusta Praetoria Salassorum)という都市が建設されました。ここへ3000人もの退役兵士を移住させたのでした。これが現在のアオスタの起源です。ここは、グラン・サン・ベルナール峠とプチ・サン・ベルナール峠という、アルプス越えの2つの交通路の起点だった地点ということで、戦略的に重要な地域だたのです。そのため、ローマは都市構造もローマの兵営と同じ構造としました。その後、数世紀にわたってローマ帝国が支配する都市でした。

     

    しかし、ローマ帝国の東西分裂、西ローマ帝国の滅亡を経ると、ここにはさまざまな民族が侵入してきました。軍事的に重要な地域ならではのことでした。まず、ブルグント族、東ゴート族などが支配し、東ローマ帝国もここまで支配を伸ばしてきました。その後はランゴバルド人、続いてカロリング朝のフランク王国がランゴバルド王国を倒し、ここをフランク王国に組み込みました。カール大帝(シャルルマーニュ)の時代になると、アーヘンとローマを結ぶフランク街道(Via Francigena) の中継地となり、軍事面だけでなく、交易面でも重要な都市となりました。

     

    カール大帝が没すると、にフランク王国は分割されました。ヴェルダン条約により、中部フランク王国の一部となりました。888年以降はイタリア王のイヴレーア辺境伯アルドゥインとベレンガーリオ1世が支配するようになりました。10世紀はブルグント王国の支配となり、11世紀にブルグント王家の断絶により、神聖ローマ帝国の領土となりました。神聖ローマ皇帝のコンラート2世は、サヴォイア伯ウンベルト1世にアオスタ伯の称号を与えるとともに、このアオスタ周辺を封土として与えました。このことにより、サヴォイア家は次第に勢力を伸ばし、サヴォイア伯国を形成するようになりました。これが15世紀にサヴォイア公国、18世紀にサルデーニャ王国と名称を改めていきました。

     

    19世紀になってイタリア統一の動きとなり、イタリア王国に組み込まれました。このイタリア統一までの期間、アオスタ公爵領はサヴォイア家の領土であり続けたのでした。

     

     

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