今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ソミュール(Saumur)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はソミュール (Saumur)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのメーヌ=エ=ロワール県の都市であるソミュール(Saumur)は、ロワール河岸にあり、ロワールワインの産地です。 石を採掘するために掘られたトンネルがり、それを利用して、地元のブドウ園がワインの保管場所としています。
    採掘される石というのは、美しいが壊れやすいといわれるテュフォストーンというもので、これはチョーク質石灰岩です。ソミュールの民家の多くも、この石灰岩で建設されています。

     

    この都市には新石器時代の巨石墳墓群があります。「ドルメン・デ・バニュー」というもので、このことから数千年前よりこの地に居住した人がいたことを意味します。それだけ太古より居住地に向いていたわけですが、この街が大きく変貌したのはノルマン人(Normanean)の侵入かもしれません。
    ノルマン人はスカンディナヴィアやバルト海沿岸にいた北方系ゲルマン人のことです。8世紀後半から活発化し、9世紀になるとヨーロッパ各地を侵略していました。
    ソミュールは845年に略奪され、10世紀になるとノルマン人防衛を目的とするため、ブロワ伯ティボー1世によってソミュール城(Château de Saumur)が建設されました。トゥエ川とロワール川の合流点を見渡せる位置にあります。1067年には破壊されてしまいましたが、12世紀後半にイングランド王ヘンリー2世によって再建されました。最終的にはシャトー(château)になりました。

     

    宗教改革の時代にはカルヴァン主義(Calvinism)の影響を受け、ソミュール大学でプロテスタント神学者のMoses Amyrautによる「Amyraldism 」あるいは「School of Saumur 」という学派が誕生しました。
    フランス革命期に発生したカトリック王党派の反乱であるヴァンデの反乱(Rébellion Vendéenne)では、戦場となりました。王党派の白軍と共和国側を青軍が激しく戦闘し、白軍はロワール川の北に追い詰められました。1794年のル・マン、サヴネの戦いにより、組織的抵抗は壊滅しましたが、以後はゲリラ戦へと続いた反乱でした。

     

    第二次世界大戦でもソミュールの戦いがありました。1940年6月18~20日でした。
    ソミュールの人々は、愛国心を見せ、必死の抵抗をしました。このことから、クロア・デ・ゲール勲章を授与されることにもなりました。
    現在はロワールワインの産地として、人口わずかに2万7千人の平和な都市になっています。

     

     

  • ヴァイマール(Weimar)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァイマール(Weimar)について勝手に語ります。

     

     

    日本では「ヴァイマール(Weimar)」というより、ワイマールという言い方のほうが馴染があるかもしれません。「フォルクス・ヴァ-ゲン」ではなく「フォルクス・ワーゲン」、「ヴァンダーフォーゲル」ではなく「ワンダーフォーゲル」というように、「W」を英語的に発音しながら、「V」を英語的でなくドイツ語的に発音する独特の読み方をする日本ならではの表現です。
    それはさておき、ヴァイマールというと「ワイマール憲法」を思い浮かべる人も多いかもしれません。ドイツではこの憲法によるヴァイマール共和国(Weimarer Republik)という時代もありました。第一次世界大戦の敗戦から、ナチス台頭によるヒトラー政権までのわずかな期間です。国名から考えて首都がヴァイマールではないかとも思えてしまうでしょうが、首都はあくまでベルリン(Berlin)でした。

     

    では、なぜ憲法や国にヴァイマールの地名がついたのかというと、第一次世界大戦後の1919年に憲法制定会議が行われた場所だからです。具体的にはヴァイマル国民劇場でした。
    ドイツ帝国が崩壊したことで、新しくドイツで制定された憲法で、1918年の「ドイツ革命」ともいうべきものでした。国民主権、男女平等の普通選挙、議会制民主主義体制、大統領制などの基本的な国家の根幹に加え、基本的人権の「社会権」が初めて規定されたものでした。当時、世界でもっとも民主的な憲法だといわれていました。
    それにも関わらずナチスの独裁を生んだのは、憲法第48条の「大統領大権」の存在でした。国家が危急の事態に瀕した場合には、緊急令を発令して必要な措置を講ずることができるというものです。日本は新型コロナウイルスの蔓延による緊急事態宣言がありましたが、ヴァイマール憲法では、緊急令の成立には国会の審議が必要ありませんでした。しかも「危急の事態」の明確な定義がないため、大統領の裁量次第ではなんでもできるものだったのです。
    そこでヒトラー政権はヒンデンブルグの大統領大権を利用したのでした。合法的にて、ヴァイマール憲法が定める人身の自由や、言論・集会・結社の自由といった基本的人権を停止することができたのです。

     

    ヒトラー政権については、別の話題になってしまうので、都市としてのヴァイマールについてです。東西分断時代は東ドイツにあり、エアフルト(Erfurt)のすぐ近く(東へ20㎞程度)の位置です。

     

    【参考】
    テューリンゲン紀行4(Erfurt)

     

    神聖ローマ帝国の時代には、ザクセン・ヴァイマル公国、その後はザクセン・ヴァイマル・アイゼナハ大公国の首都として栄えていました。特に有名なのは、J.S.バッハやゲーテが仕えていた国だったことでしょう。
    現在の人口は6万5千人程度の小さな都市ですが、歴史的にはとても重要な場所です。

     

  • キリストの血入門 21

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第21回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は十字軍についてでした。今回は正教会を単独で取り上げます。

     

    中世の東西教会分裂後の東ローマ帝国では、新たな修道精神の勃興が起きていました。東ローマ帝国の静寂主義が起こり、修道熱も高まりました。
    その前に、正教会について改めてまとめておきます。

     

    まず、名称ですが、「正教会」は一般的には「ギリシャ正教」や「東方正教会」ともいい、西ローマ帝国のカトリックと並ぶ伝統的なキリスト教の教派です。正教会の場合、国名や地域名を冠したローカルなキリスト教組織を形成しています。ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会などです。日本にも日本正教会があります。また古代総主教庁も地名を冠して、コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁などのようになっています。
    地名を冠しているだけで、それぞれが別の教派ではなく、あくまでローカルな組織の名にすぎません。従ってロシア正教からグルジア正教に「改宗」するというのはありえないわけです。

     

    東ローマ帝国の国教であり、地中海の沿岸の東側地域を中心に広がったことから、西ローマから見て「東方」ということになっていますが、現在では必ずしも東方だけの教会とはいえません。確かにギリシャを中心にして、東欧各国で多数の信徒を誇っていますが、移民などにより世界中に信徒が分布しています。
    あまり知られていませんが、今ではイスラム勢力の強い中東においても、初代教会から継承されるものがあります。
    また、東欧はソビエト連邦の影響下であった時期があるため、その時期は正教会は大きな被害を受けました。共産主義にとって宗教は麻薬であるとのことで、弾圧による被害がありました。しかしソ連崩壊後から再び正教会が復興しています。

     

    東欧各国が正教会の国となったのは、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルから、スラヴ地域へ宣教していったという歴史があるからです。
    まず最初に、9世紀に宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟により、スラヴ語のための文字を考案したのでした。なぜならスラヴの言語は話し言葉ではあっても文字がなかったからです。これをもとに聖書をスラヴ語に翻訳し、この翻訳が教会スラヴ語として現在でも礼拝で使われています。
    この文字がのちにキリル文字になり、スラヴ文化の新たな形成と発展に繋がっていきました。

     

    ブルガリアはトルコ系の遊牧民族のブルガール人の移住地でしたが、ブルガリア帝国でも870年に正教会が建立されました。言語は異なっていましたが、スラヴ語典礼が行われ、ブルガール人はスラヴ人と同化していきました。
    ルーマニアはそのブルガリアの支配地だったため、初期から正教会があり、しかもラテン語からスラヴ語典礼へと変えていきました。

     

    そして冒頭の新たな修道精神の勃興についてです。
    14世紀に、アトス山の修道院で「静寂主義」といわれるヘシュカスムが体系化されました。グレゴリオス・パラマス(日本ハリストス正教会ではグレゴリイ・パラマ)によるものです。正教会はカトリックより神秘思想的な傾向が強く、それを決定的にしたといえるものでした。
    カラブリアのバルラアムが唱えた「恩寵は神によって作られた」とする説に反論し、恩寵の非被造性を説いたのでした。非被造の恩寵が人間を照らし、神の働きを知ることへと導くとしました。さらに霊的な指導を徹底したのでした。
    このヘシュカスムとは、「祈らずして祈る」者だけが、神の作られざる恩寵の光に与り、恩寵によって神の性質と等しいものになるとし、この過程における絶対的な静寂(ヘシュキア)を体験するというものです。神秘的要素が多く、バルラアムはこの論争に敗れることになり、東ローマ帝国を追放されてしまいました。何と、彼を迎え入れたのはカトリック教会で、司教となりました。

     

  • 果実酒とフルーツワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は果実酒とフルーツワインについて勝手に語ります。

     

     

    果実酒というと、ワインのことを指すような気がしますが、必ずしもそうではありません。確かに狭義では、果汁から作られた醸造酒のことですから、まさにブドウから醸造したものはワインとなります。
    しかし、一般に果実酒となるとより広いものを指すことになり、果実を中性スピリッツのような酒に浸漬した混成酒も含まれたりします。欧米でも、これらを含めてフルーツワインとなります。ただし、歴史的に固有の酒として古くから認知されている種類、例えば、リンゴ酒のシードル、洋ナシを使ったベリー、ハチミツ酒のミードなどは、フルーツワインとはいわない場合があります。

     

    日本の場合、酒税法第3条により、果実酒の分類は、果実を原料として発酵させたものとなっています。従って、発酵後に中性スピリッツなどを添加しても果実酒となるわけです。ただし、シードルは発泡性酒類に分類され、「その他の発泡性酒類」になっています。
    またフルーツワインの場合、ブドウ原料のワインと区別するために、ワインの前に原料名をつけています。プラムワイン、エルダーベリーワインなどのようにです。この背景には、欧州連合 (EU)で「ワイン」は法的に定義していることも関係します。ワインと単独で表現できるのは、ブドウ果汁を発酵させたものだけに限定しているからです。

     

    果実を発酵させることによりできるものが果実酒ということは、発酵可能な果実であれば、どの植物でもつくることが可能ということを意味します。しかし、ブドウを除くと、飲用できるものとして、最低限必要な糖分や酸、あるいはタンニンなど、バランスよくなっているとは限りません。そこで、果実酒では発酵時にいくつかの栄養素を入れることでバランスを調整することが多くあります。
    その栄養素の役目には、風味をよくするためや、アルコール度数を上げることを目的として添加するものがあります。特に砂糖などは、発酵中にアルコールになるため、かなり多くの果実酒で使われています。

     

    では具体的な果実酒、フルーツワインとは何か、というと、日本で代表的なのは梅酒でしょう。青梅を焼酎に漬けて作るもので、日本だけでなく韓国や中国でも飲まれています。
    酒精強化ワインやリキュールを作るために使用されることもあるチェリーワインも代表的なものでしょう。サクランボから作られるもので、デンマークのフレドリクスダル・チェリーワインなどが有名です。
    他にもオレンジワインやパイナップルワインなどもあります。ヨーロッパではなじみがないですが、アメリカではタンポポワインもあります。タンポポの花弁と砂糖にレモン果汁を組み合わせたものです。アルコール度数も手ごろな範囲にあるので、気軽に飲めるフルーツワインです。

     

  • ケファロニア島(Κεφαλονιά)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケファロニア島(Κεφαλονιά)について勝手に語ります。

     

     

    ギリシャでアドリア海に浮かぶイオニア諸島には、小さな島々が7つあります。その中でケファロニア島(Κεφαλονιά)は最大の面積をもち、なおかつワインの原産地呼称に認定された産地があります。歴史の古いギリシャには古代からワインが伝わっていますので、ケファロニア島のワインにも注目です。

     

    古代ギリシア語ではケパレニア島(Κεφαλληνία)と呼ばれていました。
    島で最大の都市はアルゴストリ(Αργοστόλι)で、人口は1万3,000人弱です。 18世紀にはギリシャで最も活気のある港町にまでなっていました。
    島としては山が多く、平地は少なく、全体の15%程度しかありません。

     

    東地中海貿易による海洋国家として「アドリア海の女王」と呼ばれたのが、ヴェネツィア共和国ですが、この島も統治されていました。この国は正式には「晴朗きわまる共和国ヴェネツィア(Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)」です。信教の自由や法の支配が徹底された国家でした。
    ヴェネツィア商人の交易が活発で、交易品の中にはワインだけでなく、故障、絹、オリーブオイル、羊毛皮などに加え、奴隷も含まれていました。特に交易では東ローマ帝国での特権が大きく大きな利益をあげていました。

     

    西地中海への交易は、イベリア半島のレコンキスタの影響で進出していきました。ジブラルタル海峡が安定したことで、東地中海だけでなく、ロンドンにまで及んでいきました。これは地中海と北ヨーロッパを結ぶものとして、陸路ではなく海路が活発化することなりました。

     

     

  • スヒンドル(Сухиндол)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスヒンドル(Сухиндол)について勝手に語ります。

     

     

    ブルガリア北東部のにあるスヒンドル(Сухиндол)はヴェリコ・タルノヴォ州に属しています。ドナウ平原の中央部分は、ワイン生産に適した土地ということもあり、
    世界的に知られるワインと蒸留酒の産地になっています。ワイン生産共同組合”Gamza”は、町の名前を冠しています。スヒンドルのワインは、地元の品種のディミャト(Димят / Dimyat)だけでなく、にカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローも生産しています。

     

    スヒンドルのあるヴェリコ・タルノヴォ州の州都は、第二次ブルガリア帝国の首都だった時期があります。12世紀後半から14世紀末まで存在した国家でした。
    第一次ブルガリア帝国の滅亡後、東ローマ帝国領となりましたが、ブルガリア貴族や高位聖職者の特権は保証されました。ところが、その後の皇帝によりブルガリアへの圧政が始まりました。それは、財政改革によりブルガリアの農民にも及びました。
    そこでペタル・デリャンの蜂起がおこり、デリャンはブルガリア帝国の再建を掲げました。結局、この蜂起は鎮圧されましたが、これが第二次ブルガリア帝国への序章となりました。
    さらに十字軍の影響もあり、神聖ローマ帝国との同盟などから、東ローマ帝国からの脱却を図り、第二次ブルガリア帝国が成立しました。

     

    スヒンドルはヴェリコ・タルノヴォから北北西の位置にあり、近くには、ロシツァ川(Росица / Rositsa)にかかるダム湖があります。周囲は丘陵地帯になっていて、緑にあふれています。バルカン山脈のふもとにゆるやかな丘陵が広がり、ブドウの栽培からワイン醸造まで行われているわけです。

     

  • ノヴォ・メスト(Novo Mesto)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノヴォ・メスト(Novo Mesto)について勝手に語ります。

     

     

    スロベニア南東部ドレンスカ地方を流れるクルカ川(Krka)は、サヴァ川の支流ですが、スロベニア領内のみを完全に流れる河川では2番目の長さを誇ります。このクルカ川流域はワインの名産地として知られるようになりました。日本人にはなじみがないでしょうが、ヨーロッパの愛好者たちは、ワインを求めてクルカ川流域のドレンスカ地方へと訪れています。Cviček は地元産の何種類かのワインをブレンドし生成しています。

     

    そのクルカ川のしゅう曲した部分に位置する都市がノヴォ・メスト(Novo Mesto)です。この「Novo Mesto」はドイツ語では「Neustadtl」となり、要するに「新しい町」という意味になります。ドイツ語名があるのは、ハプスブルク家との関係が深いことに由来します。ただ、歴史的、というようり考古学的には、かなり古くから人が居住していたようで、先史時代の遺跡が残っています。

     

    グラーベン・フォン・シュタイン家により都市化されたようですが、史料の上ではハプスブルク家の大公ルドルフ4世により、ルドルフスヴェルト(Ruodolphswert,Rudolfovo)として成立させました。1365年でした。そのため市の紋章はルドルフ4世が描かれています。このようにハプスブルク家の関係により、都市は発展していきました。
    そのため、第一次世界大戦後はハプスブルクのオーストリア=ハンガリー帝国が解体したことで、ユーゴスラビア王国に組み入れられました。このときに都市名がノヴォ・メストとなりました。

     

    第二次世界大戦では、ナチス・ドイツとイタリアの同盟国の間で、支配地のやり取りが行われました。最終的にはドイツの支配地となりました。
    そして、大戦終了後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の誕生により、その中に戻りました。スロベニアの首都リュブリャナとクロアチアのザグレブなどが結ばれた道路に、ノヴォ・メストも入りました。この道路こそ、その後の高速道路のルートとなり、現在はA2ハイウェーとなっています。欧州自動車道路では70号線(E70)の一部です。

     

    良質なワインを生産し、人口わずか36,000人程度のスロベニアの小都市は、観光客も多く、落ち着いた雰囲気が人気です。

     

     

  • ノイシュヴァンシュタイン城

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)について勝手に語ります。

     

     

    以前に城としてはホーエンツォレルン城を取り上げたことがありますが、今回はドイツで最も有名な城であるノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)の思い出を語ります。
    カリフォルニアにあるオリジナルのディズニーランドも香港ディズニーランドも、眠れる森の美女の城のモデルになっています。おとぎ話に登場する城そのものです。ちなみにディズニーランド・パリでは、ノイシュヴァンシュタイン城はモデルになっていません。

     

    この城はバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方オストアルゴイ郡シュヴァンガウ町ホーエンシュヴァンガウ地区という場所にありますが、ここへ向かうための拠点となる町はフュッセン(Füssen)になります。実はこの地域、バイエルン州の最南西部で、話されている言語はシュヴァーベン語です。アレマン語系言語で、標準ドイツ語とは異なります。そのため、 アレマン語系のノイシュヴァンシュタイン城の表記では「Schloss Nuischwanschtui」、フュッセンも「Füssen」ではなく「Fiesse」になります。
    それでも日本人観光客にも人気のロマンティック街道の終点を担っているため、標準ドイツ語は通じます。地元の人の会話が全く聞き取れないだけです。

     

    城の歴史はそれほど古いわけではなく、建築されたのは19世紀です。
    バイエルン王ルートヴィヒ2世によるもので、近隣にはホーエンシュヴァンガウ城もあります。こちらはルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごした城です。
    ルートヴィヒ2世は、中世への憧れがあり、それを具現化するための城を欲していました。そのため、城のデザインは建築家ではなく、宮廷劇場の舞台舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクでした。いわば見た目こそが重要ということもあり、見た目は伝統的建築方式ですが、実際は鉄骨組みのコンクリートとモルタル製でつくられました。
    従ってドイツの伝統的な城館に必需であるものも省略されました。例えば小聖堂などは必ずありますが、ノイシュヴァンシュタイン城にはありません。
    ホーエンツォレルン城の重厚さを目にしたあとで、この城を訪れると、やはりディズニーランド的と感じるのは、そのような見た目重視の印象が強く出ているからかもしれません。

     

    この城へはクルマを運転して行きました。
    フュッセンからパーク通りで郊外に出て、そのまま行き着いたので、カーナビのない時代でも容易でした。通行量の少ない寂しい山道を通らなければたどり着かなかったホーエンツォレルン城とは大違いです。
    しかも駐車場の係員が案内して、停車する場所まで決められてしまいました。日本の観光地と変わりません。駐車料金もここのほうが高かったです。
    城の内部は十数人のグループに入れられ、ガイドが案内してまわるようになっていました。団体旅行であれば、そのまま団体にガイドがつくようでした。一人で気ままに城を散策したかったのですが、それは無理だと知り、仕方なくドイツ語ガイドの列に並びました。ところが、係員がやってきて、英語ガイドに連れていかれ、何が何だか分からないまま城の内部へと入りました。
    英語ガイドなので、何を説明しているか分からず、かなり退屈してしまい、実は城の内部の記憶はあまり残っていません。ホーエンツォレルン城は大学生のドイツ語ガイドで、かなり記憶に残っているので、何とも残念でした。

     

     

  • トリエステ(Trieste)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はトリエステ(Trieste)について勝手に語ります。

     

     

    イタリアらしくない都市、あるいは海のあるオーストリアという印象を持つのがトリエステ(Trieste)です。イタリアの北東部に位置し、アドリア海に面していますが、スロベニアに大きく囲まれています。
    歴史的に遡れは、共和制ローマ、西ローマ帝国、東ローマ帝国、フランク王国など、当時の覇権国の支配を受けつつ、ヴェネツィアの脅威にさらされながらの自治都市となりました。
    その後、神聖ローマ帝国内の自由港だったり、ナポレオン戦争ではフランスの占領などもありました。ただそれからはオーストリアの一部として長く続きました。オーストリア領リヴィエラ(Österreichische Riviera)の一部となったのでした。言語はヴェネツィア方言のひとつであるトリエステ方言に集約され、イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語とも共存していました。特にドイツ語はオーストリア官僚政治の言語という扱いで、スロヴェニア語はトリエステ中心部ではなく、周辺地域の言語として機能していました。
    このようなことから、現在はイタリアに属しますが、ウィーン風の建築物が街の中心にあり、ウィーン風のコーヒーを飲む習慣も残っています。

     

    第二次大戦後は、地理的な問題で、トリエステと周辺地域がイタリアとユーゴスラビアのどちらに帰属するかの紛争が起こりました。結局、1947年に、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置くこととなりました。「モーガン・ライン」で分割され、北部は連合国側が、南部はユーゴスラビアが分割占領することになりました。トリエステは連合国側になりました。
    このことからユーゴスラビアのチトーは、トリエステをアメリカ、イギリスから奪おうとして何度か衝突が起こったりしました。

     

    イタリアなのに数多くのウィーン風のカフェのある都市は、文豪の集まる「カフェの街」でもありました。その文豪の中には、ドイツのリルケ、アイルランドのジェームズ・ジョイスなどもいました。
    アドリア海に面した都市なので、ウィーン風ではあっても、内陸部のオーストリアとは異なる空気が漂い、治安も悪くないようです。
    さすがに現在は「Wienerisch・ヴィーナリッシュ(ウィーン方言のドイツ語)」がどこでも通じるわけではありませんんが、海のあるオーストリアはは魅力的です。
    ここでワインを飲みたいものです。

     

     

  • ロングビーチ(Long Beach)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はロングビーチ(Long Beach)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    アメリカのカリフォルニアには多くのワイン産地があります。ナパバレー、テメキュラバレー、サンディエゴなどなど、それぞれの産地で生産されたワインは、カリフォルニアの大都市に多く流通しています。ロサンゼルス大都市圏では、それらの良質なワインを飲める場所が多くあります。
    以前にロサンゼルスを訪れた際、ロングビーチまで足を延ばし、昼からワインだけでなく様々な酒類を飲んだ記憶があります。

     

    なぜロングビーチに行ったのか、その理由は極めて単純で、1990年に完成したライトレールのブルーラインで終点なのがロングビーチだったからです。鉄道より車中心のロサンゼルスにあって、新しく開通した鉄道に意味なく乗車して終点まで行っただけだったのです。
    ヨーロッパと日本の生活が中心な人間にとって、都市交通の中心は鉄道が当たり前でしたが、当時のロサンゼルスは鉄道網が貧弱なので、全く異質な都市という印象でした。そこで登場したライトレールだったので、少し興味を持ったわけです。
    この路線はダウンタウンの市庁舎付近から乗車できるので、かなり利便性はあります。その一方でワッツやコンプトンなどのスラム街を通ります。普通に考えれば治安を気にするのが良いのでしょうが、全く関係なく乗車していました。

     

    ロングビーチはロサンゼルスに隣接していて、サンペドロ湾にのぞむ都市です。ロサンゼルス南側で約30kmに位置しています。工業地帯でもあり、観光や海浜保養地としても知られています。
    カリフォルニア州の都市としては5番目に大きな都市で、全米では34番目になります。しかし日本人観光客からすれば、ロサンゼルス近郊都市というよりは、ロサンゼルスそのもののイメージになるかもしれません。

     

    もともとはネイティブ・アメリカンのトンヴァ族の居住する場所だったようです。そこへアメリカ東部から入植者が次々とやってきました。そのため、19世紀半ばまでにはトンヴァ族の村は消滅してしまいました。
    正式な市となったのは1888年で、その際の市名が今でも続く「ロングビーチ」となったのでした。
    海岸線の都市という利点を生かし、初期からリゾート地となり、大きく成長していきました。一時期は「海岸のアイオワ」と呼ばれたこともありました。アイオワ州からの移民が多かったからです。
    その後、リゾート地だけでなく、軍事的に重要となり、港湾都市としても発展していきました。

     

    せっかくロングビーチに来たのだからということで、この市を代表する観光地にも行ってみました。「クイーン・メリー」です。これはかつてのイギリスを代表する豪華客船で、ロングビーチに係留していて、ホテルになっています。
    ダウンタウンには多くの人々が集まり、昼から飲める店もありました。カリフォルニアワインを堪能したのが思い出されます。

     

     

1 2 3 4 5 6 83

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ