今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ラ・パルマ(La Palma)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラ・パルマ(La Palma)について勝手に語ります。

     

     

    大西洋アフリカ沖にあるカナリア諸島の中で西北端に位置するのがラ・パルマ(La Palma)です。アフリカ沖ですが、スペイン領で、行政上はサンタ・クルス・デ・テネリフェ県に属しています。人口は約85,000人の火山島です。D.O.に認定されていて、ラ・パルマ島全体を包括して生産地としています。地域は「ホヨ・デ・マソ」・「フエンカリエンテ」・「ノルテ・デ・パルマ」の2つに分かれています。

     

    島の形はクサビ形で、その長さは47kmに及びます。火山が2つあり、北側のケンブレビエハ火山は標高2,426mで、火口壁が急になっています。南西側には崩壊した跡が残っています。ノルテ・デ・パルマは島の北部にあり、標高は100~1500mです。火山の影響はあるでしょうが、豊穣な土壌でブドウが生育しています。
    南側には標高1,949mの火山があり、実はこれがカナリア諸島でもっとも活発な火山の1つです。この南東部にあたるホヨ・デ・マソは、標高が200~700mの地域で、火山灰や火山岩性の土壌です。南西部のフエンカリエンテは、標高200~1400mで、急斜面は火山灰に覆われ、そこにブドウ畑が広がっています。

     

    まさに火山とともにある島ですが、この火山体は125,000年前ごろから活動を始めたといわれています。過去に多くの火山活動があり、溶岩流が急な斜面を海に向かって急激に流れ落ちてきました。文字として記録に残る噴火で最古のものは、15世紀でした。噴火と溶岩流により、多くの被害が出たとあります。

     

    ちなみにですが、この火山が噴火し、しかも山体崩壊を起こすような規模だった場合には、巨大な津波が発生すると予想されています。この津波はアフリカとは反対側のアメリカ東海岸にも及び、大西洋岸各地を襲うといわれています。

     

     

    ラ・パルマ島は、カナリア諸島の中で最も緑や水が豊かといわれ、火山による恩恵で肥沃な土壌を持っています。スペイン領とはいえ、アフリカ沖なので、気候は亜熱帯性ですが、比較的穏やかな気候であり、日照時間も十分にあることから、生産されるワインの品質は良質と評判です。

     

  • マリ(Mary)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマリ(Mary)について勝手に語ります。

     

     

    トルクメニスタンで4番目の規模を誇る都市がマリ(Mary)です。シルクロードのオアシス都市で、カラクム砂漠の中に位置します。ワインを飲みながら、知られざる歴史を垣間見るために、今回はこのマリを取り上げることにしました。

     

    実はあまり知られていないのですが、マリのある現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン北部のアムダリヤ川上流部などに、青銅器時代の紀元前2000年前後に栄えた文化がありました。時代的にインダス文明と時期を同じくしていて、この時代としては高度な都市文化であったとされています。そのため、四大古代文明と並ぶことから、「第五の古代文明」とも呼ばれ、これを「オクサス文明」ともすることがあるようです。
    他の文明と比べて発見されたのが遅く、そのためまだまだ研究途上です。ただ、交易が盛んだったようで、メソポタミア文明、エラム文明、インダス文明などの地域や文化との関係が注目されています。

     

    この先史文化の考古学用語としては「バクトリア・マルギアナ複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex)」といい、略称が「BMAC」になります。命名者はソ連の考古学者ヴィクトル・サリアニディで、1976年の発掘調査によるものでした。この時代は東西冷戦が激しかったこともあり、この発見は西側世界ではあまり知られませんでした。状況が変わったのがソ連崩壊後1990年代でした。そのため、どうしても知名度はまだ低いといえます。

     

    この文明は、独立した文明だとする説がある一方で、メソポタミア文明やエラム文明からの移住してきた人々により生まれたものとする説に分かれています。ただ、ガンダーラと関係するものもあったり、遊牧民のアンドロノヴォ文化との接触もあったようです。それほど交易により栄えた文化という可能性があり、その後のシルクロードを予感させる気もします。

     

    そのような古代文明の栄えていた地域から、紀元前6世紀になると、アケメネス朝ペルシャの支配下となり、すでにオアシス都市としての繁栄し始めました。メルブ遺跡がそれで、トルクメニスタン初の世界遺産に登録されました。当時、人口は100万人に達したともいわれていたほどで、仏教もで伝播したようです。

     

    これが近代になると、グレート・ゲーム(The Great Game)に巻き込まれました。これは、イギリスとロシアの中央アジアの覇権を巡る抗争です。中央アジアでの情報戦をチェスになぞらえてつけられたものです。
    1884年になると、ロシア帝国が侵攻したことでパンジェ紛争が起こりました。マルにはロシアからの入植者が入り、ロシアの軍事拠点となっていきました。これに対してイギリスとインドの軍が1918年にマリ周辺でボルシェビキ軍と対峙しました。

     

    古代文明とオアシス都市としての繁栄、ソ連とイギリスに翻弄された時代、様々な歴史の顔を持つマリは、あらためて注目すべき都市といえるでしょう。

     

  • チェリャビンスク(Челябинск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチェリャビンスク(Челябинск)について勝手に語ります。

     

     

    ウラル山脈はヨーロッパとアジアの境界となっていて、かつてはロシアの辺境の地でした。そのため、辺境の地に要塞を建設し、別民族への軍事拠点をつくることで、領土の安定を図っていました。その中の一つがチェリャビンスク(Челябинск)です。ただ、ここにシベリア鉄道を建設したことで、シベリアの開発とともに発展する都市となっていきました。その発展はすさまじく、20世紀初頭では人口がわずかに4万5千人程度でしたが、現在は113万人にまでなっています。

     

    チェリャビンスクの場合、テュルク系民族に対する軍事拠点として誕生しました。また、ピョートル3世を自称した偽皇帝でもあるエメリヤン・イヴァーノヴィチ・プガチョフ(Емелья́н Ива́нович Пугачёв)が、1774年には、ヴォルガ川とウラル山脈にまたがるほぼ全域を掌握し、政府軍との間に激しい戦闘を繰り広げました。チェリャビンスクもその一連の戦闘の舞台のひとつでもありました。

     

    ロシア革命以降は、ソ連による重工業の建設が相次ぎました。トラクター工場、冶金工場など、大工場が建ち並ぶ工業都市となり、それに伴って人口も急増していきました。それでも現在のような百万都市ほどの規模ではなく、そこまでの規模になる契機となったのが独ソ戦でした。ドイツ軍の攻撃により、ロシア西部のヨーロッパ側にあった工場が破壊されていきました。そこで、西部の大工場を疎開させるため、ウラル山脈以東で建設をすることにしたのでした。チェリャビンスクにも当然ながら大きな工場がつくられ、労働者も多数が移転してきました。さらに、強制収容所もあり、鉱山労働、道路や住宅の建設などの従事させていました。

     

    そのような発展を遂げた都市のため、20世紀より前の歴史的建造物はほぼなく、市街地の革命広場にある劇場が1903年に建設されたものとして、今でも残っています。この革命広場の近くには、古い河港もあり、繁華街もこの周辺になります。
    また、シベリア鉄道の関連で言えば、チェリャビンスクまで延伸されたのが、1892年10月25日でした。モスクワからはサマーラ経由で2,101km、ウリヤノフスク経由で1,984kmという距離があります。チェリャビンスク駅のホームは8面70線と巨大なもので、シベリア鉄道の正式な起点駅でもあります。

     

     

    空港は市街地から約18km北方にあり、市内は市電とトロリーバスが走っています。地下鉄は3路線が建設中です。ただ、建設を開始したのはソ連崩壊直後の1992年です。未だに未完成で、2025年以降の開業といわれています。この遅れは、ロシアの財政難が主な原因といわれています。
    個人的にはウラル山脈は思い出が多いといえますが、シベリア鉄道でウラル山脈を越えたときにはチェリャビンスクは知りませんでした。多くの日本人が知らない都市ともいえますが、それでも百万人以上の大都市ですから、少しは目を向けても良い気がします。

     

  • キリストの血入門 29

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第29回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、イスラム教の分派を紹介しました。今回はルネサンス(Renaissance)です。

     

    ルネサンスというと、学校の教科書では「文芸復興」と表記されていたのを思い出しますが、現在ではこの訳語は使われていないようです。確かに「文芸」に限定した「復興」というわけではないので、このほうが正しいといえるでしょう。ただ、古代ギリシアや古代ローマの古典や文化を復興するという「文化運動」であったのは事実で、これはイイタリアから始まり、西欧各国へと拡大していきました。

     

    古代ギリシアなどの古典的な文化は、そのまま知の遺産であり、当時の地中海世界に拡大していきました。ちょうどイスラム教に支配された地域であったことから、8世紀から9世紀にはアラビア語に翻訳されていきました。これが初期イスラム文化に大きな影響を与え、その発展に貢献していきました。有名なものとしては、バグダードの「知恵の館」でした。これはアッバース朝の第7代カリフだったマームーンによって設立されたもので、古代ギリシアの知識の継承を行っていたのでした。
    古代の古典的文献を翻訳するだけでなく、それに対してのイスラム教哲学、あるいは科学に基づく注釈などが加わるようになりました。しかも、それをラテン語へと翻訳したのでした。

     

    ラテン語翻訳されたことにより、古代ギリシアをはじめとする古典的な文献に、イスラム世界の注釈を加えたものが、ヨーロッパに伝わったわけです。当時、イベリア半島はイスラム圏でしたから、スペインからローマへと、さらにフランス、神聖ローマ帝国へと伝播したことになります。
    つまり、ルネサンスの流れには、イスラム世界のフィルターがあったことを意味し、中世のキリスト教支配という絶対的な権威によって破壊された古典を、イスラム世界を仲介することで復活させたものといえるのでした。その一方で、この初期イスラム文化が花開いた要素が、のちに衰退へと向かっていたことから、それをキリスト教世界が引き継いだというのも、興味深いことといえます。

     

    また、1453年のコンスタンティノープルの陥落も大きく影響しました。東ローマ帝国が滅亡したことで、東ローマ帝国からギリシア人が多くイタリアへと逃げていきました。その中に知識層が大勢いて、彼らにより、古代ギリシアや古代ローマの研究がイタリアへと移ったことになりました。

     

    ルネサンスはフィレンツェを中心に展開され、思想では、新プラトン主義がキリスト教や他の宗教、哲学との融合を図っていきました。キリスト教という枠だけで収まらない新しい思想が、これにより誕生する土台となっていきました。
    このように従来のキリスト教という権威に、外部からの刺激が加わり、中世から近世へと時代が移り変わっていくのでした。そのため、キリスト教にとっても、ルネサンスは大きな転換点といえるものだったのです。

     

  • スラヴォニア(Slavonija)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスラヴォニア(Slavonija)について勝手に語ります。

     

     

    クロアチアで最大栽培面積を誇るのが、白ワインのグラシェヴィナです。これはクロアチア最大規模の生産地であるスラヴォニア地方を代表する品種です。クロアチア起源の品種といわれていて、オーストリアではヴェルシュ・リースリングとして栽培されています。この品種のワインは、独特の酸味と優雅な味わいがあります。

     

    スラヴォニア(Slavonija)は、逆Uの字になっているクロアチアの国で、東部に位置しています。国境を接しているのは、ハンガリー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアです。南側はボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアの国境になっていて、そこにサヴァ川が流れています。ハンガリーとの国境は北側のドラヴァ川になっています。周囲は平原地帯になっています。

     

    このスラヴォニアは、中世には、クロアチア、スラヴォニア、ダルマチアを統一したクロアチア王国(Regnum Croatiae)の領土でした。この王国は神聖ローマ帝国と同じように、首都機能を持つ都市がないことでした。つまり、王が変わるたびに王宮の位置が変わっていたわけです。初代国王はトミスラヴで、ハンガリーやブルガリアの侵入との戦いがあり、これに成功しました。しかし、それでも王権が強かったわけではなく、正常不安定な国家でした。実際、その後には内紛もおきていました。
    この時代は、ハンガリーやブルガリアだけでなく、東ローマ帝国、ヴェネツィア共和国などの周辺国家の影響を受けていて、クロアチア王国はどうしても安定する環境になかったといえます。

     

    1202年にはハンガリー王国内の自治領となり、15世紀にはオスマン帝国の領域に組み込まれることになりました。これは1791年まで続きました。20世紀になってーゴスラビア王国に編入され、1941年にクロアチア独立国が成立しました。しかし、これもユーゴスラビア人民共和国成立して、独立国ではなくなってしまいました。
    社会主義体制の崩壊から、1991年にユーゴスラビアから独立し、クロアチア共和国となりますが、クロアチア紛争も経験しています。

     

    スラヴォニア地方はワイン生産地としてクロアチアを代表する地域ですが、それだけでなくワインの樽の産地でもあります。ワイン樽のオークの産地であり、ここで生産された樽はクロアチアだけでなく、イタリアなどにも輸出しています。イタリアでは、長期熟成の赤ワインには、スラヴォニア産の樽が多く使用されています。

     

  • ヤン・ファン・リーベック(Johan Anthoniszoon “Jan” van Riebeeck)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヤン・ファン・リーベック(Johan Anthoniszoon “Jan” van Riebeeck)について勝手に語ります。

     

     

    新世界ワインを代表する南アフリカワインですが、その歴史を紐解くと、ヤン・ファン・リーベック(Johan Anthoniszoon “Jan” van Riebeeck)に繋がります。オランダ商館(オランダ東インド会社)の植民地監督者であり、医師である人物です。南アフリカでアジア貿易の中継点として最適な地としてケープタウンを中心に開拓しました。彼は初代現地法人代表でした。

     

    ヤン・ファン・リーベックは外科医になりましたが、父親のアンソニーは船乗りでした。北海貿易により巨額の富を得ていました。そのような家庭環境の中で、東インド会社には助手として船中医となりました。その後、1638年からは商社マンとなりました。
    実は彼は日本にも来ています。1642年でした。長崎の出島に商業リサーチを目的として来ていたのでした。さらにヴェトナムの絹貿易でも責任者も務めましたが、私貿易と不正蓄財により解任されてしまいました。そこで1645年には帰国しました。

     

    そして南アフリカには1651年に向かいました。東インド会社のケープタウン補給基地建設の指導官に任命されたのでした。その場所がケープタウンでした。ここで東インドとオランダの貿易航路の中継地を作りました。
    ブドウ栽培が始まったのは1655年かrでした。それは、この地域が地中海性気候だったことに起因します。ここで栽培最多ブドウからワインを醸造し、フランスへと輸出することで、この事業は繁栄しました。さらに1680年以降は、フランスのユグノー派の人々により、さらなる発展を促すことになりました。

     

    19世紀になると、オランダ支配からイギリスの植民地政策により、この地域が奪われることになりました。1815年には正式なイギリス領となりましたこれにより、ケープタウン産のワインは、イギリスへの輸出が増加することになりました。ところが、酒税法の改正で、ワインの関税が撤廃されると、イギリスの人々は安くなったフランスワインを求めるようになりました。南アフリカからの輸出ワインについては需要が低くなりました。折しも、南アフリカではフィロキセラによる害虫被害があったこともあり、イギリスへのワイン輸出量が低減しただけでなく、国内でのワイン生産量が減少することになりました。

     

    この状態を打破できたのは、1925年に南アフリカの独自品種が誕生したことでした。「ピノタージュ」です。その後、国際的にも認められるワインとなっていくのでした。

     

    ちなみに、ヤン・ファン・リーベックはバタヴィアで没しました。また、南アフリカで発見された小惑星(9239)の名は、ファン・リーベックにちなんで命名されました。

     

  • ワイン用のブドウとは(Was sind Weintrauben?)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワイン用のブドウについて勝手に語ります。

     

     

    ワインの原料はブドウですが、ワイン醸造のために栽培されているブドウと、フルーツとしてそのまま食べるブドウとは何か違いがあるのでしょうか? 日本酒の原料の米は、食用とは異なる品種ですが、ブドウの場合はどうなのでしょうか?
    改めて疑問に思った人もいるのではないでしょうか。そこで今回は、その違いについて述べてみたいと思います。

     

    まず、ワイン用ブドウとフルーツ用ブドウの栽培量ですが、実はワイン用のほうが多いのはご存じでしょうか。全世界のブドウ栽培量の約8割はワイン用なのです。つまり、ほとんどのブドウが生で食べられることを前提にしていないで栽培されているわけです。このような果物は他にないかもしれません。

     

    では本題です。ワイン用のブドウとフルーツ用のブドウの違いとは何でしょうか。
    基本的にフルーツ用のブドウは、食べやすいものが中心で、ワイン用は関係ないといえます。つまり、食べやすいブドウは、大粒で皮の薄いものが多いといえます。種無しブドウというのもそうです。味だけでなく食べやすさを求める品種改良により、このように分かれてきたともいえます。もちろん、これは大雑把な分け方で、例えばデラウェアなどは、どちらかといえば小粒のブドウです。ただし、皮は厚くないので、食べにくいとはいえないでしょう。

     

    このような分け方だと、かなり曖昧になってしまいますので、ワイン用のブドウから見ていくと、実はワインに必須のタンニンの差がフルーツ用と異なるといえます。ただし、これも赤ワインと白ワインでは同列に扱えないので、結局はこの指標も曖昧になってしまいます。それを承知でいうと、ワインの原料となるブドウには、タンニンの含まれる部分が多いのが望ましいため、種や皮が多いのが良いわけです。これがワインの酸味を増す効果になります。一方、フルーツとしてのブドウの場合、酸味が強いと食べにくく、種も皮も不必要なので、それらが少ないものが向いています。
    タンニンは「渋味」を出すものなので、ワインには欠かせませんが、生で食べるには邪魔なものになるわけです。

     

    では糖度はどうか、というと、実はワイン用のほうが高いのです。フルーツ用ブドウのほうが甘いのでは、と思うかもしれませんが、フルーツ用は酸味が弱いので、そこまで糖度が高い必要がないのです。ワイン用ブドウは酸味も強いですが、糖度も高めで、ようするに成分的には凝縮されているといえます。この糖分こそがアルコールになるわけです。
    では、ワイン用のブドウを食べるとどうなるでしょうか。もちろんブドウですから、そのまま食べても問題ありません。フルーツ用と比較すると、皮が厚いこともあり、フルーツ用ブドウを食べなれていると、何だか食べにくい印象を持つかもしれません。それで味は、というと、味覚には個人差がありますが、おそらく多くの人が「おいしい」と感じるのではないでしょうか。

     

    ワイン用ブドウとは、そのまま食べてもおいしいものですが、醸造するのに最も適したブドウ品種ということになるかと思います。フルーツ用は、それに食べやすさが加わったことで、気軽に食べれれるという付加価値を持ったことで、成分の凝縮度が落ちたといえるかもしれません。

     

  • ソンバトヘイ(Szombathely)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はソンバトヘイ(Szombathely)について勝手に語ります。

     

     

    アルポカヤ(Alpokalja)山脈が小ハンガリー平原に交差する地点にソンバトヘイ(Szombathely)はあります。人口は8万人弱の都市で、ハンガリー西部に位置します。オーストリアとの国境にも近い地域です。毎週土曜日に市場が開かれていたことから、ハンガリー語の土曜日である「szombat」に場所を意味する「hely」がついた地名です。日本でも四日市市などと同じような由来といえます。
    ただし、ドイツ語だとシュタイナマンガー(Steinamanger)になり、これは「Stein am Anger」で、「Stein」は「石」、「am」は「an dem」で前置詞と格支配された定冠詞、「Anger」は「怒り」ではなくて、この場合は「みどり」や「緑地」となり、「みどりの石」「緑地の石」となります。要するに野原の石です。この地名の由来は都市の廃墟跡を意味するとされています。廃墟になった都市は古代ローマ帝国のサヴァリアといわれています。地震により都市が崩壊し、廃墟になった場所に緑で覆われたということのようです。

     

    では、このサヴァリアという都市ですが、クラウディウスのサヴァリア植民市として誕生しました。紀元45年でした。その後にローマ帝国のパンノニアの首都となりました。セプティミウス・セウェルス総督は、ローマ皇帝になったほどでした。
    また、コンスタンティヌス1世は何度か訪問していて、この地域のキリスト教徒の迫害を終わら、サヴァリアをパンノニアの首都としました。しかし、その後、フン族の侵攻、アッティラ軍の占領などがあり、458年には大地震の被害にあってサヴァリアは破壊されてしまいました。

     

    破壊された都市でしたが、ローマ時代の建造物で使われていたい石を再利用して、一部の住民が定住していました。各民族の移民も増え、フランク族が支配するようになり、その後はモラヴィア人、マジャル人などが侵攻してきました。
    都市が再び破壊されたのはモンゴルの侵攻でした。それでも1407年に自由自治都市特権を授与され、都市の再建がされました。オスマン帝国の支配という時代があっても、比較的平穏な状態を維持し、それはハプスブルク支配の時代まで続きました。

     

    実はこのソンバトヘイはユダヤ人共同体が関係しています。
    神聖ローマ皇帝のマクシミリアン2世により、ソンバトヘイの市壁内にはユダヤ人が居住していはいけないようにしました。これは厳密にはユダヤ人というより、市内中心部にはカトリックの人だけが居住できるというものでした。そのためユダヤ人は、ほとんどが町を離れた区画に住むこととなり、そこで共同体を形成していました。
    これが変化したのが1840年の法律で、ようやくユダヤ系ハンガリー人の市壁内居住が可能になりました。しかし、革命の際にユダヤ人は攻撃され、追放へと進んでいったのでした。
    これがアウシュヴィッツ強制収容所への追放にまで繋がりました。

     

     

    ハンガリーの知られざる歴史的都市であるソンバトヘイですが、ここでは優雅にワインを飲みたくなる場所です。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 11

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第11回になります。

     

     

    前回の第10回は、ヨーロッパの路面電車を取り上げました。2021年最初の今回は古代ローマに戻ります。第7回からの続きになります。

     

    王政ローマの最後の王は第7代のタルクィニウス・スペルブスでしたが、紀元前509年に追放され、王政ローマから共和制ローマへと変化しました。帝政になる紀元前27年までの期間です。共和制ローマの時代に、イタリアの単なる都市国家から、地中海世界を支配するまでの巨大国家に成長していきました。

     

    しかし、共和制として新たにスタートしたローマですが、決して順調な滑り出しとはいえませんでした。それは権力が王に集約していたものを執政官(コンスル)により、元老院で決定することになったことで、これに反対する側が再びタルクィニウスを王に戻す動きに出たことでした。しかし、これは失敗に終わり、王政復古は破綻しました。
    しかも、周辺諸国との同盟関係はローマ王によるものだったことから、王が追放されたことで、同盟から対立関係にまでなってしまいました。

     

    紀元前4世紀になるとガリア人の襲撃もありました。ガリア人はケルト人のことで、アルプス山脈を越えて北方から攻めてきたのでした。このときの有名な戦闘と言えばアッリアの戦いです。最終的にローマ将軍マルクス・フリウス・カミルスによって、このケルト人の襲撃問題は解決へと向かいました。
    その一方で、イタリア半島については各都市を征服することに成功し、それとともに街道の整備も進め、ついにイタリア半島を統一することができました。

     

    そして共和制ローマにとって、とても大きな戦争だったのがポエニ戦争(Bella Punica)でした。ポエニとは、ラテン語でフェニキア人のことです。紀元前264年にローマ軍がシチリア島へ上陸したことから、紀元前146年にカルタゴが滅亡するまでの期間続きました。3度にわたる戦争でした。
    第一次ポエニ戦争は、紀元前264年から紀元前241年でした。シチリア島をめぐる戦闘でした。第二次ポエニ戦争は、紀元前219年から紀元前201年で、このときはハンニバルによるローマ侵攻でした。そして第三次ポエニ戦争は、紀元前149年から紀元前146年のた戦争でした。ここでカルタゴが滅亡しました。ローマ軍はカルタゴの住民を皆殺しにする勢いだったといいます。実際には一部を奴隷にしたようです。

     

    このポエニ戦争によるローマの勝利とは、古代地中海を中心とした文明が、世界で初めてヨーロッパに移ったことを意味します。まさに時代の転換点ともいえるものだったのです。
    この連載であるヨーロッパの基礎知識でも、歴史的な意味では、これこそが基礎の基礎というべきものだったのです。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)の思い出は、アンスバッハ(Ansbach)やフォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)との関連が強く、この二つの都市との個人的な結びつきがなければ語れないといえます。
    特にフォイヒトヴァンゲンは常宿があり、行きつけのレストランもある都市でした。ここで知り合ったオランダ人からニュルンベルクのユースホステルは最高だよ、と教えてもらったのでした。もうひとつ、 アンスバッハ出身の女性ともここで知り合い、ニュルンベルクで一緒に遊んだことも思いだされます。

     

    ブレーメン芸術大学でAusbildung(職業訓練)をしていた彼女は、夏季休暇を利用して、国内を旅行しながら故郷のアンスバッハへ戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは隣町ともいえるような距離にある都市ですが、ここで友達と合流したのだとか。話した感じでは彼氏のような印象を持ちましたが、突っ込んだ話はしていないので分かりません。
    彼女との出会いは、ガストホフでのことでした。マスターが日本人の新しい常連客ができた、というようなことを他の常連客に話してくれたことで、何となく注目されるようになりました。マスターは初老の男性で、普段は無口な印象でしたが、そのときは陽気で、地元の人たちに紹介してくれたのでした。確かに田舎町での東洋人は華僑を除けば珍しい存在ともいえるのか、酔った地元の人たちから話しかけられるようになりました。
    実はそのときの客に彼女がいたのでした。翌日に地元のアンスバッハへ帰る予定だったようです。

     

    一方、自分はというと、スイスのバーゼルからハンブルクに戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは初めてドイツを旅したときから気に入っている町で、途中の宿泊地としては、わざわざ迂回してでもここを選択したいほどでした。戦後のドイツ軍の駐屯地にもなったことで、よそ者がいても違和感のない点も気に入っていました。
    実はこのときは、彼女と連絡先を交換した程度で、それも社交辞令の延長のようでした。お互いに美術系の大学にいたことで、酒の肴に共通の話題があっただけで、それ以上のものではなかったといえます。

     

    そんな彼女と再会したのがニュルンベルクでした。ウィーンから戻り、ドイツ再統一をどこで迎えようかと考えている途中で、三度目のニュルンベルクへの立ち寄ったときでした。本当はベルリンに行きたかったのですが、当時ハンブルクからベルリンへ向かうアウトバーンが慢性的に渋滞していて、いつも困っていたことを経験しているせいか、どうしても躊躇われていたのでした。

     

    カイザーブルク城の隣の宿にチェックインし、クルマをコインパーキングに駐車すると、丘を下り、ニュルンベルクの街中へと向かいました。夜のニュルンベルクは決して治安が良いとはいえません。もちろんドイツの都市なので、他の欧州諸国の都市と比べればはるかに安全ですが、都市の規模からすると悪い印象です。ハンブルクのザンクトパウリやフランクフルトの中央駅近くに比べるほどではないですが、特に夜は怪しい人がそれなりに目立つ街であるのは事実です。
    お目当てはニュルンベルクソーセージでした。特に「ブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)」という店は有名です。ドイツのソーセージというと太いものをイメージするでしょうが、ニュルンベルクのはミニサイズで、「ニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト Nürnberger Rostbratwurst」という小指ほどのサイズの焼きソーセージが定番です。これは原産地名称保護制度で認められたものだけが名乗ることができるものです。クルマで回避してきた中央広場(Hauptmarkt)はクリスマスマーケットが開催されることでも有名ですが、ここにある聖ゼバルドス教会の隣に店があります。山小屋風の店舗です。煙突があり、ソーセージを焼いた煙が出ています。

     

    ソーセージと言えばビールですが、ここではワインも飲めます。フランケン地方産のワインです。バイエルン州の北端にある地方で、ブドウ畑の総面積は6.100ヘクタールにも及び、辛口ワインで知られます。

     

     

    喧騒の店内ですが、わずかに空いた席があったので、そこに座りました。ビールとニュルンベルガー・ローストブラートヴルストを堪能していると、懐かしい彼女の姿を見かけたのでした。

     

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