今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キリストの血入門 6

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第6回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、初期キリスト教で誕生した異端に関連した話でした。
    今回はユダヤ教からキリスト教の初期段階に入り、司教制度などが確立し、ローマ教皇の誕生について触れていきます。

     

    初代ローマ教皇とされるのが、イエスの最初の弟子であるペテロです。以降のローマ司教は使徒ペテロの後継者とされています。
    共観福音書の中の「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」によると、ペトロはガリラヤ湖で弟のアンデレと一緒にに漁をしていたところを、イエスが声をかけ、彼の最初の弟子になったとされています。
    ところが「ルカによる福音書」では、イエスがゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうときに、ペトロの船を使った時に出会ったとなっています。
    イエスの弟子の中でもペトロはかなりの年長者であったともいわれ、また結婚していたともいわれます。そして「使徒言行録」の記述では、イエスの弟子の中で、リーダー的人物だったようです。
    ところが、ヤコブがエルサレムで、いわゆるユダヤ教イエス派のリーダーとして活動を始めました。そこでペトロはエルサレムを離れることにしました。
    各地に布教に出かけ、イエスと同じように奇跡まで行うようになったといいます。その奇跡には、亡くなった少女を生き返らせることもありました。

     

    ペテロについては「新約聖書」の記述だけでなく「ペテロ外伝」もあります。
    これによると、ローマへ宣教していた時代に、ローマ皇帝のネロによる迫害があり、逆さ十字架で殉教したとされています。また伝承では、ネロの迫害が激化したことで、ローマから離れるためにアッピア街道を歩いていると、反対側からイエスとすれ違うことになり、会話したとなっています。このとき、ペテロはイエスにどこへ行かれるのかと問うと、イエスはペテロがローマの信徒を見捨てるのなら、イエスはローマでもう一度、十字架にかけられるために行くと答えたといいます。
    ペテロはイエスの言葉で目を覚まし、迫害による殉教までを覚悟してローマへ戻ったといいます。

     

    結局ペテロは、カトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権を持つ教皇の初代ということになりました。さらにカトリックだけでなく、正教会や非カルケドン派では、初代アンティオキア総主教で、ローマで殉教したとしています。そのため、カトリックによる世界的権威という扱いには至っていません。
    では宗教改革後のプロテスタントの場合は、ペテロの権威は否定しないものの、継承されるものではないという解釈になっています。

     

    このように聖人であり、初代ローマ教皇という権威を持つペテロですが、福音書では「ペトロの否認」という場面があります。
    これは、最後の晩餐のときの有名なシーンです。イエスはペトロに「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言しました。ペトロはそんなことは絶対にありえないと否定しました。しかし、翌日になってイエスが連行されると、ペテロも仲間だろうと聞かれ、イエスの予言通り「違う」と否認してしまったのです。何度も問い詰められ、3度目に否認した直後、鶏が雄たけびを上げました。
    その鶏が鳴く声を耳にして、ペトロはイエスの予言を思い出しました。

     

    さて、使徒であるペトロの継承として、霊的権威を持つ指導者が教皇となり、教会としての組織についてもが徐々に形成されていきました。2世紀半ば以降には一人司教による教会組織が確立し、その後、ローマ教皇が全司教の一番目の地位となり、教皇権や教皇の首位権(Primatus Romani Pontifıcis)を持つようになっていきました。

     

    次回は礼拝観など、初期キリスト教の側面につて語りたいと思います。

     

  • ヨルダン・ハシミテ王国(Hashemite Kingdom of Jordan)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヨルダン・ハシミテ王国(Hashemite Kingdom of Jordan)について勝手に語ります。

     

     

    北にシリア、東にイラクとイラン、西にイスラエルとパレスチナ暫定自治区、南ににサウジアラビアと隣接するヨルダンは、イスラム教の預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻に遡るハーシム家出身が国王を世襲している国です。
    それだけ敬虔なイスラム教徒の多いヨルダンですから、当然ながら飲酒の習慣がありません。それでもワインが生産されています
    現在ではヨルダンにあるワイナリーは2つで、年間100万本近く生産されているようです。

     

    ヨルダンでのブドウ栽培とワイン醸造の歴史は古く、2000年以上前に遡ることができます。しかし、現在のヨルダンのワイン産業は20世紀からのもので、1975年にハダッド蒸留会社によって設立されたことによります。ワイナリーは2つとも北部のマフラクにブドウ畑があり、ここで生産されるワインは、基本的に国内消費向けに造られています。そのため輸出量は圧倒的に少なく、日本ではヨルダンのワインを購入する機会はまずないでしょう。
    ただ、ヨルダンのワインは高品質といわれ、世界で多くの受賞歴を持っています。

     

    ヨルダンはワイン生産が早かったように、、紀元前13世紀にはエドム人が住み着いた場所だといわれ、さらには「旧約聖書」に登場するアモン人の国もありました。
    アモン人は古代パレスチナのセム系民族の一つで、「旧約聖書」ではモアブ人の兄弟民族であるとされています。アブラハムの甥であるロトが先祖とされていることから、イスラエルとは従兄弟に当たる民族になり、ギレアデ地方に国家が築かれていました。
    しかしイスラエルとは敵対関係にあり、ダビデ王に征服されたことから、イスラエルの属国となりました。
    このときの首都が現在の首都であるアンマンで、最初はラバ(Rabbah)、後にラバト・アンモーン(Rabbath Ammon)と呼ばれていました。
    紀元前1世紀頃にはペトラ遺跡で有名なナバテア王国がありましたが、紀元1世紀からはローマ帝国の支配下になりました。

     

    その後はイスラム教の影響を受けます。
    ウマイヤ朝の滅亡後はイスラム世界の中心が離れることになり、辺境地となったことから都市文明も衰退傾向になっていきました。
    その後はオスマン帝国の支配地となり、第一次世界大戦後にはトランスヨルダン王国が成立しました、この国が独立したのは第二次大戦後の1946年で、1949年には国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めました。

     

    ヨルダンは現在、国内には不安定要因が多くあり、決して快適な旅行先とはいえないでしょうが、ここのワインはぜひ飲んでみたいと思っています。

     

  • ペリェシャツ半島(Pelješac)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はペリェシャツ半島(Pelješac)について勝手に語ります。

     

     

    クロアチア共和国(Republika Hrvatska)のワイン生産は、紀元前に遡るほど歴史があります。古代ギリシャ人によりワイン生産技術が伝えられたといわれています。
    その生産地はクロアチア本土に限らず、アドリア海に浮かぶ島々にも及んでいます。

     

    クロアチアのブドウ品種の中で、「最高の赤ワイン」と絶賛されるのが、プラヴァツ・マリ(Plavac Mali)です。
    主要な生産地はペリェシャツ半島です。
    ダルマチア南部にある半島で、クロアチアでは二番目に大きい半島です。ペリェシャツ半島地峡の南側に位置するストン(Ston)から峡谷が始まり、ロビスタ岬までつながる長さは65kmの半島です。
    古代ギリシアの時代に記録に残っていて、その後はローマのダルマチア地方の一部となりました。ローマからの移住も多くなり、ローマ帝国の東西分裂後の6世紀には東ローマ帝国の支配地となりました。
    中世にはセルビア人が入ってきて、ハムの君主国を設立したこともありました。 1333年にはラグサ共和国に編入されたりもしました。

     

    19世紀になるとフランスに占領され、オーストリアに譲渡されました。
    1918年からはユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成するクロアチア社会主義共和国に属するようになりました。
    中心都市はストンで、牡蠣の養殖や、昔ながらの製法による塩づくりが有名ですが、もうひとつ、注目すべきは「ヨーロッパの万里の長城」といわれる長城壁があることでも知られています。

     

    さて、「最高の赤ワイン」と絶賛されプラヴァツ・マリですが、アドリア海に面した急斜面にあるブドウ畑で栽培されています。空から降り注ぐ太陽とアドリア海に反射した日光により、ブドウは理想的に生育していきます。
    高い評価を受ける生産地は、ポストゥプ(Postup)やディンガチ(Dingac)です。

     

    クロアチア語で乾杯は「Zivjeli」や「Nazdravlje」といいます。
    古くから続くワイン文化があり、飲み方もワインに炭酸水を混ぜて飲むこともします。中には安い赤ワインにコーラを混ぜたりもします。バンプス(Banbus)といわれる飲み物で、ジュース感覚で飲むのもクロアチア流となります。

     

    なじみの薄いクロアチアで、しかもペリェシャツ半島というローカルな場所ですが、一度、訪れてみる価値はあるといえそうです。

     

  • 大トルコ戦争(Great Turkish War)とトカイ(Tokaji)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は大トルコ戦争(Great Turkish War)とトカイ(Tokaji)について勝手に語ります。

     

     

    トカイワインといえば、ハンガリーのトカイ・ワイン地区(Tokaj-Hegyalja Borvidék)で作られるワインであり、貴腐ワインの代表的なものです。
    この貴腐ワインが生まれたのは、一説によると、オスマン帝国の侵略を受けた際に、トカイの住民たちが避難し、その間にブドウの収穫期を過ぎ、ブドウが腐り始めてしまいましたが、それでワインを作ったことによるといわれます。そこで作られたワインが、濃厚で甘い蜜のようなワインになったということです。

     

    この住民が避難したのが、大トルコ戦争(Great Turkish War)でした。
    この戦争は17世紀後半に起こったもので、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟とオスマン帝国の間で起きた戦争でした。
    三十年戦争以降、ハプスブルク家とオスマン帝国は激しく対立するようになり、1664年にはオスマン帝国がハンガリーへ侵攻してきました。このときはハプスブルク家が勝利したものの、フランスのルイ14世が虎視眈々と領土拡大に向けていたことから、ハプスブルク家はオスマン帝国との間で20年の休戦で終結をはかることになりました。その結果、ハプスブルク家にとっては不利な内容での締結となってしまいました。
    このことから、1670年のヴェッシェレーニ陰謀の摘発と弾圧、1678年のテケリ・イムレの蜂起に繋がっていきました。
    そして、第二次ウィーン包囲となっていきました。

     

    このウィーン包囲戦は神聖ローマ帝国の皇帝・レオポルト1世により、帝国内の諸侯とポーランド王ヤン3世がオスマン帝国側を急襲したことで失敗に終わりました。
    さらに、ハプスブルク家のオーストリア軍はハンガリーのエステルゴムを奪取し、1684年にはポーランド・ヴェネツィアの神聖同盟を結びました。続いてロシアも神聖同盟に加わりました。
    遠征軍としてヨーロッパ諸国からの援助があり、人員も派遣されたことから、異教徒のオスマン帝国に対する十字軍の様相を呈することになりました。
    現在のハンガリーの首都はブダペストですが、この時代はドナウ川を挟んでブダとペストに分かれていて、遠征軍はブダは落とせず、ペストだけを陥落させました。
    ブダを奪取できたのは1686年で、これでハンガリーをほぼ手に入れたことになりました。
    トランシルヴァニアにも進出し、これによりトランシルヴァニアは実質上ハプスブルク家の支配地となりました。

     

    次にバルカン半島に進軍し、ベオグラードも陥落させることに成功しました。
    一方、ヴェネツィアはアドリア海に艦隊を送り、ダルマチア・ボスニアを襲撃していました。1687年にはペロポネソス半島を占領するまでになりました。
    ここから複雑な様相を呈することになり、和平交渉は1695年頃から始まり、最終的に1699年にカルロヴィッツ条約を締結することになりました。
    このカルロヴィッツ条約では、ハプスブルク家のオーストリアは、ハンガリー・トランシルヴァニアを獲得することになり、東欧世界に大きな影響力が及ぶことになりました。これは、のちのプロイセンによるドイツ統一から、世界大戦、東西冷戦に至るまで関係したものといえます。三十年戦争で神聖ローマ帝国の弱体化とドイツからの排除という方向だったハプスブルク家は、フランスの勢威もあって、東欧に勢力を伸ばすことで新たな帝国へと成長していくことになったわけです。
    ポーランドはウクライナのポドリアを獲得したものの、1700年の大北方戦争などを経て、国威は低下していきました。逆にロシアは大北方戦争を経て、西欧列強国に肩を並べる程にまでなりました。
    さらにオスマン帝国はハンガリー・トランシルヴァニアを失うことになり、勢いは完全に失われました

     

    この戦争は実はこれだけでなく、欧州のかなり広い地域に影響を与え、さらに詳しく述べると大変なことになってしまうほどでした。
    ただ、これがトカイのワインを誕生させたという伝説は、興味深い気がします。

  • アブハジア共和国(Аҧсны Аҳәынҭқарра)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアブハジア共和国(Аҧсны Аҳәынҭқарра)について勝手に語ります。

     

     

    紀元前6000年の時代からワインが生産されていた世界最古のワイン産地であるジョージアは、コーカサス山脈から黒海にかけて広がる国です。
    では、アブハジア共和国(Аҧсны Аҳәынҭқарра)はどこにあるかというと、ジョージアの国の中にあり、ジョージアとしてはアブハジア自治共和国であるとして、ジョージアに属した地域と主張しています。
    しかし、2008年8月にロシア、9月にニカラグア、2009年9月にベネズエラ、12月にナウル、2018年5月にシリアがアブハジア共和国の独立を承認しています。

     

    なぜ、このような事態になっているかといえば、1990年前後のソ連崩壊が大きく影響しています。
    ジョージアは当時グルジアといっていましたが、周囲の国と同様に独立機運が高まった際に、グルジア独立がより一層の「グルジア化」につながるとの懸念がアブハズ人たちに生じました。そこでアブハジア人の独立国家建設という機運ができました。
    これが1989年7月のスフミでの暴動に繋がりました。このときは最終的にソ連軍が鎮圧することで終わりました。

     

    1991年4月にグルジアが独立を宣言し、翌年の7月には、アブハジア自治政府が独立を宣言しました。
    これに対してグルジアは軍をアブハジアに送り、武装グループとの間で激しい戦闘が起こりました。
    アブハジアが敗北したものの、北コーカサス地方の諸共和国かの義勇軍がアブハジア側に合流したことで、グルジア軍を劣勢に立たせるようになりました。さらに、「チェチェン大隊」による介入までありました。
    これはロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の工作があったとされています。
    1992年末になると、スフミ以西のアブハジアの大部分が反乱軍に掌握されました。

     

    停戦合意は1994年5月15日で、国連の平和維持軍が監視することになりました。
    この停戦により、戦闘は繰り返されることはなかったものの、解決策も見えていなく、結局は大きな進展もない状態が続いていることになりました。
    そして、アブハジアはグルジア政府とは関係なく、新しい憲法を採択し、主権を宣言しました。大統領選挙も1996年から行われるようになりました。

     

    この地域は世界最古のワイン生産地に近いこともあり、紀元前4000年頃から居住者がいたといわれています。それだけ歴史のある地域で、古代コルヒダ王国、エグリシ王国、ギリシア人による交易港建設などを経てローマ帝国支配地になりました。
    独立国家の期間は短く、その後は東ローマ帝国の支配地になりました。
    16世紀からはオスマン帝国に支配され、この時代にキリスト教からイスラム教に改宗した人も多くいました。

     

    ソ連崩壊はヨーロッパ周辺地域に大きな影響を与えていますが、あまり日本人にはなじみがないせいか、ほとんどの人が良く知らないと思います。でも最古のワイン生産地で起こっていることは、ワイン好きなら知っていても良い気がします。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 1

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヨーロッパ(Europa)の基礎知識について勝手に語ります。

     

     

    ワインを語るうえで必ず関係する地域といえば、フランスをはじめとするヨーロッパです。
    現在のヨーロッパは、新型コロナウイルスの感染拡大で日々ニュースが伝えられていますが、そもそもヨーロッパという地域について、みなさんはどの程度の知識があるでしょうか? ヨーロッパの人がアジアのことを意外と知らないのと同じで、日本人もヨーロッパについて詳しくないのではと思い、基礎知識を学ぶ場を提供しようと思いました。
    しかし、このブログの筆者はワイン屋のオヤジです。間違っている点がありましたら、ごめんなさい、最初に謝っておきます。

     

    最初にヨーロッパはどこからどこまでの地域を指すのか、おわかりでしょうか?
    そこで定番の「広辞苑」で調べてみると、「北極海、大西洋、地中海、カスピ海、黒海、カフカス山脈、ウラル山脈に囲まれた地域」となっています。これだとかなり曖昧で、アジアとの境界が鮮明ではありませんが、これを元に国を当てはめてみます。
    「北極海、大西洋、地中海」はわかりやすいので特に問題はないでしょう。「黒海」の場合はボスポラス海峡を挟むトルコはどうなるかという問題がありす。この場合、一般的にはトルコはヨーロッパとアジアにまたがる国という扱いになります。
    次の「カスピ海」と「カフカス山脈(コーカサス)」ですが、これに当てはめると、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアはヨーロッパではなくアジアとなりますが、歴史的にはヨーロッパと大きく関係する国となります。
    「ウラル山脈」に「ウラル川」まで含めれば、カザフスタンの一部もヨーロッパになりますが、ここはアジアにして、この境界はロシアの国内にしておくのが一般的でしょう。つまりロシアもトルコと同じようにヨーロッパとアジアにまたがる国となります。

     

    ただ、地理的なものだけでは判断できないこともあり、地理的定義ではアジアに属するものの、 場合によってはヨーロッパに分類されることがある国々もあります。
    その代表的なものが、先に挙げたジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタンに、さらにキプロスなども加えられます。

     

    次にヨーロッパを東西に分ける分類があります。
    冷戦時代は地理的要素だけでなく、政治体制も関係するので、極めて分かりやすい分類でした。
    現在は国際連合によって、東欧、西欧、南欧、北欧という区分が一般的といえるでしょう。

     

    【東欧】
    ・ウクライナ
    ・スロバキア
    ・チェコ
    ・ハンガリー
    ・ブルガリア
    ・ベラルーシ
    ・ポーランド
    ・モルドバ
    ・ルーマニア
    ・ロシア

     

    【西欧】
    ・オーストリア
    ・オランダ
    ・スイス
    ・ドイツ
    ・フランス
    ・ベルギー
    ・モナコ
    ・リヒテンシュタイン
    ・ルクセンブルク

     

    【南欧】
    ・アルバニア
    ・ギリシア
    ・モンテネグロ
    ・北マケドニア
    ・コソボ
    ・セルビア
    ・ボスニアヘルツェゴビナ
    ・クロアチア
    ・スロベニア
    ・イタリア
    ・スペイン
    ・ポルトガル

     

    【北欧】
    ・イギリス
    ・アイルランド
    ・アイスランド
    ・デンマーク
    ・ノルウェー
    ・スウェーデン
    ・フィンランド
    ・エストニア
    ・ラトビア
    ・リトアニア

     

    イギリスを北欧にするのは、何となく抵抗がある気がしますが、地理的な意味でこのように区分されているので、納得もできます。
    この中には小国や未承認国が入っていませんが、ヨーロッパというだけで、これらの国々があることをまずは知ることが基礎の第一歩かと思います。
    次回は歴史に入りましょうか。

     

  • アルバニア共和国(Republika e Shqipërise)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルバニア共和国(Republika e Shqipërise)について勝手に語ります。

     

     

    新型コロナウイルスの蔓延により国境閉鎖になっているヨーロッパ諸国ですが、1991年まで鎖国をしていた国があったのをご存じでしょうか?
    その国が、バルカン半島南西部に位置し、アドリア海に面し、ギリシアと隣接するアルバニア共和国(Republika e Shqipërise)です。
    ヨーロッパにある国ですがイスラム教徒が人口の大半を占めるのは、長くオスマン帝国に支配されていた地域だからといえます。ヨーロッパ唯一のイスラム協力機構正規加盟国にもなっています。

     

    ただ、現在に至るまでに社会主義時代があり、そのときに中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「国家無神論(State atheism)」を宣言しました。一切の宗教活動が禁止となったのです。1967年でした。
    これは「世界初の無神国家」をアルバニアが自称したことになりました。
    エンヴェル・ホッジャ(Enver Hoxha)による独裁時代で、鎖国も含めて狂信的な無神論を強制しました。宗教の代わりとするものとして、反修正主義、マルクス・レーニン主義の変種のひとつであるホッジャ主義がありました。
    日本でも度々いわれる「政教分離」とは異なり、個人の宗教・信仰に国家・政府は関与しないのではなく、国家無神論では、無神論が宗教の代わりに国教のような位置づけとなり、政治と無神論が一体化したものになります。しかも宗教活動が弾圧の対象にもなっていました。

     

    社会主義国として独自路線を歩んだのは、ソ連やユーゴスラビアと距離を置いただけでなく、援助を受けていた中国に対しても、1978年に鄧小平が改革開放路線に転換すると、批判するようになり、対立するようになりました。
    同様にルーマニアや北朝鮮も批判し、事実上の鎖国状態となりました。
    このときに「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言していました。
    それでもソ連崩壊や東欧革命という時代を迎え、アルバニアにも非共産政権が誕生し、国際社会へと復帰するようになっていきました。

     

    アルバニアの場合、イスラム教徒の多い国とはいいながら、無神論と鎖国の時代を経ていたため、戒律がかなり緩くなっていました。
    ムスリムでも普通に酒を飲んだりしていたようです。当然、ビールもワインもごく日常的に飲む習慣があったといいます。
    そもそもギリシアに近く、ワイン醸造については歴史的に古い地域ですから、オスマン帝国支配を終えて、元も姿に戻ったともいえるわけです。

     

    知られざる国なので、もう少し、アルバニアについては調べてみたくなりました。

  • イボ族とパームワイン(Palm wine)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイボ族とパームワイン(Palm wine)について勝手に語ります。

     

     

    パームワイン(Palm wine)とは、ヤシから採れる液体を醗酵させて作ったもので、醸造酒です。
    ナイジェリアでは最もポピュラーな酒といわれます。アルコール度数は約4度です。
    イボ族は、儀式でパームワインが必需品となっています。結婚式、誕生祝い、葬儀など、パームワインがなければ成り立たないほどです。

     

    イボ族は黒人系の単一民族としては最大規模を誇り、ナイジェリア東南部に多く居住しています。ナイジェリアの総人口に占める割合としては約20%になります。
    もともとイボ族は統一国家はなく、王や首長もいませんでした。複数の共同体がそれぞれに半自治的なかたちをとっていました。ただし、王は皆無というわけではなく、例外的に存在し、エゼと呼ばれる祭司王がいました。
    基本的にイボ族の町は王の権力ではなく、住民たちが集まって自治をしていました。称号については、権威とはなっても権力とは結び付かなかったようです。従って自治の集会でリーダー的役割を担っても、王にはなれなかったのです。これは独特な統治形態で、似た形態はガーナのエウェのみで、他のアフリカ民族とは異なっていました。

     

    習慣としては、イボ族の人はパームワインを飲む前に、少量を大地にこぼします。
    これは祖先の霊への尊敬を表す意味があるそうです。
    また、パームワインは身体の病に有効な薬草の薬効を上げるものとされています 。
    なお、イボ族には秘密結社もあります。
    ンシビディと呼ばれる儀礼用の文書が秘密結社で伝えられています。

     

    19世紀からはイギリスの支配下に入りました。
    イボ族はイギリスから入ってきたキリスト教や、英国の教育方法にも熱心だったようです。
    ところが20世紀になると、厳しい飢餓により、栄養不足と病気、さらに北部州では虐殺があり、イボ族の人々は150万人以上が死亡する事態になりました。
    1966年にイボ人の中堅将校が、クーデターを起こしました。しかし、同じイボ人出身の将軍に鎮圧され、将軍は臨時政府を作り、イボ人を多く登用しました。
    これに対して北部では数千人のイボ人が殺害され、将軍も下級将校により殺害されました。
    軍事政権を樹立したのはゴウォン中佐で、イボ族出身の軍人を殺害したり、追放していきました。北部でもイボ族への迫害が強くなり、さらに1万人以上のイボ人が殺害されました。
    1967年には、オジュク中佐は、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言しました。

     

    これにより連邦軍との激しい内戦が始まり、1970年にビアフラは降伏しました。
    これがナイジェリア内戦とも呼ばれるビアフラ戦争ですが、このとき、ビアフラが包囲されたことで、食料・物資の供給が遮断されました。このときの飢餓が国際的な問題となったのは記憶に新しいかもしれません。

     

  • キリストの血入門 5

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第5回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の誕生といえるのではないかという場面まででした。
    今回は初期キリスト教とその異端について言及していきます。
    2世紀になると、キリスト教は各地に広がっていきました。小アジアでも拡大し、その一方でユダヤ教との軋轢、迫害などもありました。
    そんな中、早くもキリスト教の異端も現れるようになりました。完全な分派による異端とは断定できないのは、現在では、キリスト教とは異質の宗教思想とするのが主流となっているからです。それがグノーシス主義(Gnostizismus)です。

     

    グノーシス主義は、キリスト教初期の時代にいた秘教信奉者と、そこを原点として中世に異端とされた思想を指していました。
    初期のキリスト教の文献では、様々な異端反駁文書の中でグノーシス主義はキリスト教内部の異端思想として扱われていました。時期的にはパウロ後の2〜4世紀の頃でした。ただ3世紀くらいから衰微したともいわれます。実はこれを異端とすることで、キリスト教側としても初期の聖書解釈が進み、神学も確立していったという側面もあります。

     

    グノーシスはギリシア語で、「知識」や「認識」などを意味します。
    グノーシス主義は、グノーシスを「霊知」として扱い、これを持つことによって救済されるとし、その「霊知」こそがキリストだとしました。
    特徴的なのは二元論で、「善」と「悪」の対立というのはゾロアスター教と共通する部分があります。しかし、グノーシス主義では、霊は純粋なものであり、神秘性を伴うものなのに対して、物質は罪悪性を持ち、物質で成り立つ肉体も同様の悪であり、堕落したものであるとしました。
    ゾロアスター教では、善神であるアフラ=マズダを最高神とし、悪神のアーリマンとの対立構造という二元論になりますので、根本的に異なっているのが分かります。
    グノーシス主義では、二元論が「反宇宙論」とも合わさることで、「反宇宙的二元論」という思想になります。

     

    また、グノーシス主義はキリスト教やユダヤ教での創造論とも相容れない立場に立っていました。
    グノーシス主義では、世界を創造したのは絶対者である神ではなく、物質を創造した下級の造物者であり、物質はそれだけで罪悪性を持っていることになります。原罪も、人間が肉体を持っているから罪であるという考えになります。
    これだけ異なるということは、聖書に記述されていることも否定につながり、イエスが神の子であるということも否定することになります。
    このようにグノーシス主義は、肉体を罪悪視したことで、禁欲的、戒律的になると同時に、霊の神秘性が強調されることになりました。その結果、密儀宗教の性格が強くなったといえます。

     

    また、2世紀の同じ頃、異端といわれたキリスト教一派でモンタノス派も誕生しています。
    小アジアのフリュギアで誕生したもので、創始者がモンタノスです。グノーシス主義と比べて、極めて分かりやすく、モンタノス自身に聖霊が働きかけてきて、キリストの再臨が近いと説きました。この再臨は新しいエルサレムとフリュギアによるものだとしていました。プリスカとマキシミラという二人の女預言者も加わったことで、活動が活発化しました。
    モンタノスは禁欲的な生活を行うことを説き、独身であることを尊びました。断食を強化し、苦行を積極的に行っていきました。
    完全に異端とされたのは、主教会議においてでした。このとき、モンタノスたちはキリスト教の位階制に対して批判的だったことから、異端であるとされたのです。
    それでもモンタノス派は継続し、中世まで存続したようです。

     

    2世紀末には、エジプトでは正統教理学校ができて、アレクサンドリア教会はキリスト教にとって古代5主教座のひとつとなりました。
    このアレクサンドリア教会はオリゲネスやアタナシウスなどの多くの哲学者・神学者を輩出していきました。古代キリスト教の神学の中心地となり、アレクサンドリア学派とよばれるようになりました。

     

    イエスの死後、わずかな期間で信者の広がりを見せ、しかも異端派まで派生させたことは、キリスト教のパワーはかなり強かったことが分かると思います。

     

  • バラの谷(Розова долина)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はバラの谷(Розова долина)について勝手に語ります。

     

     

    トラキアの時代まで遡るほど歴史のあるブルガリアワインは、いくつかの生産地を有しています。
    その中でバルカン山脈の南に位置するバラの谷(Розова долина)もワイン生産が盛んな地域です。赤ワインは少量しか生産されず、多くはドライかオフドライの白ワインです。

     

    バラの谷はバルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈にはさまれた地域です。
    バルカン山脈といえば、ブルガリアにとっては特別な場所です。681年に第一次ブルガリア帝国が建国されましたが、この時代には東ローマ帝国が脅威の対象で、領土を隔てているのが、天然の要塞だったバルカン山脈だったのです。当然のように東ローマ帝国との戦闘では、この山脈が舞台となりました。759年にはリシュ峠の戦い、811年にはヴルビツァ峠の戦い、1190年にはトリャヴナの戦いなどがありました。
    東ローマ帝国にとっても、この天然の要塞は邪魔な存在であるとともに、危険な山だったようです。
    しかし、1014年にはクレディオン峠の戦いでブルガリア帝国の皇帝サムイルが敗走し、その後病死、そして1018年には東ローマ皇帝バシレイオス2世による併合となり、第一次ブルガリア帝国は滅亡しました。

     

    第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国により滅亡し、その支配下となりました。
    バルカン山脈には、多くのハイドゥク(Hajduk)が集まり、隠れ家を築いていました。ハイドゥクとは、バルカン半島にいる無法者や追いはぎなどの意味ですが、自由の闘士という意味も持っていました。オスマン帝国支配時代にあって、単なる無法者というだけでなく、トルコ人から略奪をしたり、オスマンへのゲリラ戦を行うなど、ある種の英雄像ともなっていました。オスマン帝国の裕福な者から金品を奪い、ブルガリアの貧者に分け与える義賊であることからロビンフッドと比較される存在とされています。
    しかし、実際には義賊だけでなく、盗賊も多かったともいわれます。

     

    さて、バラの谷ですが、2つの渓谷があります。ストリャマ川(Стряма)とトゥンジャ川(Тунджа)の渓谷です。
    これらの渓谷が、バラの生産地です。バラの栽培の歴史は古く、香水に使われるローズオイルの世界最大規模の生産地になっています。
    一方、ワイン生産は東西に分かれた小さな地域に分けられています。
    マスカット、リースリング、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなど、ワインでは知られた品種が栽培されています。

     

    バラの開花時期は、日本では5月~6月頃が多いでしょう。
    新型コロナウイルスが終息し、バラの香りに包まれながらワインでも飲みたいものです。

     

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