今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)について勝手に語ります。

     

     

    「旧約聖書」の「ノアの箱舟」でお馴染みのストーリーの中で、主人公のノアが降りた場所(Nakshijahan、Nuhchikhan)としている国があります。
    それがナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)です。
    アゼルバイジャンの飛地になっている自治共和国のため、アルメニアの国の中にある地域でもあり、他にトルコやイランに接しています。

     

    ナヒチェヴァンで作られるワインは昔ながらの伝統的手法で作られていて、知る人ぞ知るワインの名産地でもあります。
    ナヒチェヴァンの気候は夏から秋にかけて温暖な時期が続くため、ブドウは長い期間をかけて育っていきます。そのためとても甘くなるといいます。人気のワインは、ナヒチェヴァン、シャブズ、アラクニス、アズナブルクなどです。

     

    この地域は他国の支配を多く経験してきました。
    紀元前6世紀にはアケメネス朝の支配下にあり、その後は大アルメニア王国、5世紀になるとサーサーン朝ペルシア、そして東ローマ帝国へと変遷していきました。
    そして7世紀半ばからはアラブ人が入ってきて征服されました。
    11世紀にセルジューク朝、13世紀からはモンゴル帝国、続いてティムールによる支配、15世紀に黒羊朝や白羊朝の一部となっていきました。
    14世紀からはペルシアとオスマン帝国の戦火に脅かされました。これは多分に地理的な理由によります。オスマン帝国(トルコ)とペルシア(イラン)に隣接することで、激しい衝突を繰り返す両国に巻き込まれたのです。

     

    ナヒチェヴァン・ハン国となったのは、ペルシアのナーディル・シャーが死去した1747年以降ですが、短命に終わることになりました。それは、二度にわたるロシア・ペルシア戦争により、ロシア領となったからです。1828年のトルコマンチャーイ条約 (Turkmanchai Treaty) によるものでした。
    ロシアではロマノフ朝による帝政が崩壊し、二月革命以降はロシア臨時政府のザカフカース特別委員会の支配下となり、翌年、アゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言しました。これも長く続かず、1918年にはイギリスに占領され、2年後にはソ連の赤軍に占領され、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の支配下となりました。
    東欧革命によるソ連弱体化と崩壊への流れの中で、1991年8月30日にアゼルバイジャン共和国が成立し、飛び地としてナヒチェヴァン自治共和国となりました。

     

    現在、ナヒチェヴァン自治共和国のほとんどはアゼルバイジャン人が占め、わずかにロシア人がいる程度となっています。地理的にはアルメニアの中にあるといえますが、アルメニア人はこの地域から追放されています。 それはナゴルノ・カラバフ戦争によるもので、この戦争はアルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る戦争でした。
    日本人から見ればアルメニア人とアゼルバイジャン人の違いはよくわからないかもしれませんが、古くから両者は領土紛争を繰り返してきたのです。強大なソ連という錘がなくなったことで、再び紛争が表面化しました。

     

    よほどのワイン好きでない限り、ナヒチェヴァン自治共和国のワインを知る日本人はいないでしょうが、このような占領の歴史の中でも生き続けたワインの味は、ぜひとも味わってみる価値があるのではないでしょうか。

     

  • ロードス島(Ρόδος)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はロードス島(Ρόδος)について勝手に語ります。

     

     

    紀元前2000年頃からフェニキア人により古代ギリシア世界へワインは伝播してきました。
    古代ギリシアの世界ではワイン醸造が活発に行われ、さらにそのギリシャ人によって地中海世界に広まっていきました。それだけ歴史のあるギリシアのワインですが、生産地の中にはエーゲ海諸島も含まれます。
    その中でロードス島(Ρόδος)はドデカニサ諸島の東で、アナトリア半島の沿岸部に位置しています。エーゲ海の中では最も南側になり、ギリシャ共和国の島の中では最も東側になります。
    面積は約1,400km²で、北に約18kmという位置にはトルコのアナトリア半島になっています。

     

    ワイン以上にこの島を有名にしたものは「ロードス島の巨像」です。世界の七不思議の一つになっています。
    文字通り巨大な像で、全長は34メートル、台座からだと約50メートルという大きさは、ニューヨークの自由の女神像に匹敵します。
    ロドスの港の入り口付近に大理石製の台座を設置し、その上に鉄製の骨組みを作り、薄い青銅板で外装を覆ったといいます。武器などを鋳潰したものを使い、巨像の完成には着工から12年間を要したといわれています。時に紀元前284年でした。
    これだけの巨像がつくられたのは、マケドニアのアレクサンドロス大王急逝後の後継者戦争(ディアドコイ戦争)で、ロードス島はエジプトのプトレマイオス1世側について、アンティゴノス1世との戦いに勝利したことによります。アンティゴノス1世軍がロードス島に攻め込んできましたが、島の防御は固く、紀元前304年にプトレマイオスの派遣した軍隊がロードス島に到着したことで、勝利することとなりました。
    巨像はこの勝利を祝い、太陽神ヘーリオスへの感謝の証として作ることとしたのです。

     

    巨像は58年間しか、その偉大な姿を見せてくれませんでした。紀元前226年にロードス島で地震が発生し、巨像は倒壊してしまったのでした。エジプトのプトレマイオス3世は再建するための資金提供をするとしましたが、島の人たちは再建することをやめました。
    これは、神に似せた彫像を作ったことで、神の怒りに触れた結果だと考えていたのです。そのまま巨像は廃墟のままの状態で置かれていたそうです。

     

    中世には東ローマ帝国領となり、次にオスマン帝国に征服されました。
    ギリシア領になったのは1947年で、その前に一時期はイタリアの占領もありました。
    現在はトルコに近いエーゲ海のギリシア領の島として、ワインではギリシャの原産地名称保護制度によって、「ロドスワイン」(赤ワイン・白ワイン)は最上級のO.P.A.P.になっています。甘口ワインの「マスカット・オブ・ロドス」はO.P.E.に指定されています。

     

     

  • ベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)について勝手に語ります。

     

     

    アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はベジタリアンだったという説があるのをご存じでしょうか?
    ワインもビールも飲まず、煙草も嫌っていた、さらには女性とは関係をもたない禁欲主義だったという人までいます。これはナチス政権下のドイツに投影していた禁欲主義のイメージを、そのままヒトラーの伝説にしたものともいえます。
    そのため、ヒトラーはビールを飲んだし、ワインも飲んだ(ただし薄めていたらしい)という声もあります。ベジタリアンではありえないドイツ名物のブルスト(ソーセージ)もことのほか好んでいた、また愛人だって手放すことはなかった、という声もあります。
    実際はどうだったのかは謎ですが、今回ご紹介するのはナチス政権時代のアドルフ・ヒトラーの別荘の町です。
    人口が1万人にも満たないバイエルン州のベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)です。

     

    バイエルン州でもオーストリアの国境に近い地域で、周囲は山岳地帯です。
    近隣の都市としてはドイツではなく、オーストリアのザルツブルクになります。距離にして約20㎞です。
    1920年代にベルヒテスガーデンの近郊の山腹オーバーザルツベルクがナチスに買い取られました。そこがナチス最高幹部用のリゾート地となったのです。もちろん軍事拠点としての役割も担いました。
    ヒトラーの別荘がベルクホーフと呼ばれるもので、ベジタリアンというイメージを持っていたヒトラーのための菜園があったといいます。
    ナチス幹部を警護するための武装親衛隊のために宿舎もあり、発電所や燃料庫、弾薬庫も完備されていました。しかもベルヒテスガーデンの山腹に地下トンネルがあり、これらの施設と繋がっていました。現在でも地下トンネルの廃墟を見ることができるようです。

     

    ナチスの保養地となったことで、風光明媚な観光地は様相を一変させ、もともとの住民も退去させられたケースがあったようです。
    ヒトラーをはじめとするナチス幹部の使う建物で占められたことで、ベルヒテスガーデンの駅や郵便局などは近寄りがたいものになっていきました。

     

    もともとベルヒテスガーデン周辺では岩塩の採掘が盛んで、この岩塩を求めて中世より争奪戦が繰り広げられた場所でした。
    20世紀になってナチスに利用され、戦時中はイギリス空軍による爆撃を受けました。
    でも今では、過去の戦火が消え、優雅にワインを飲める場所になりました。

     

     

  • キリストの血入門 7

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第7回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、ローマ教皇の誕生について述べました。
    今回はキリスト教初期の側面について勝手に語っていきます。

     

    キリスト教は当時の覇権国であるローマ帝国でも信徒を増やしていきましたが、ローマ帝国側としては皇帝礼拝(Emperor Worship)を否定する宗教とは相容れない部分がありました。そのため迫害の原因にもなっていました。
    古代ローマでは、この皇帝礼拝によって皇帝の神格化を行っていたわけです。これは元来、ヘレニズム世界にみられた君主崇拝に由来するといわれています。そのためローマ本国より、東方属州から広まり、帝政が確立するとともに強要されるようになったものと考えられています。つまり、かつての日本の天皇と同じように、皇帝が現人神 (あらひとがみ)という扱いになったものといえます。
    しかし、皇帝礼拝の範囲は政治的な意味と宗教的な意味に近い部分を併せ持つもので、実態は曖昧ともいえました。これは、ディオクレティアヌスによる迫害のときなど、皇帝とローマの神々への礼拝が義務づけられていたものの、この解釈の中には、ローマの神々を礼拝すればキリスト教を信仰しても良いというものでした。

     

    では、この時代のキリスト教の礼拝とはどうだったのでしょうか。
    皇帝礼拝を否定するのには、当然ながら「神」に対する奉仕行為であり、のちにカトリックでは「ミサ」と呼ばれるようになります。ただ、何度も繰り返しますがイエスはキリスト教を創始したわけではなく、当初はあくまでユダヤ教の一派でした。そのためイエスは、ユダヤ教の神殿での礼拝を否定しいたわけではありません。自ら神殿へ赴いていたほどでした。
    ただ、旧来のユダヤ教の祭祀をすべて肯定していたわけではなく、より内面を重視した新しい礼拝観を示したともいえます。使徒のステファノもイエス流の礼拝を主張したことで、旧来のユダヤ教から敵視されてしまいました。
    キリスト教が様々な地域へと拡大していくと、集会場が教会となり、典礼の中心となっていきました。これは共同体の延長に位置するもので、ここでもユダヤ教のエッセネ派の影響を見ることができます。

     

    そして次に「新約聖書」に繋がる共観福音書の成立です。
    4つの福音書の成立時期は、はっきりとした年代は特定できていません。説はたくさんあるものの、どれも決定的な確証がないためです。かつては1世紀の半ばから後半という説が一般的でしたが、現代はそれぞれの福音書の年代に幅をもたせつつ、それぞれの年代について、以下のように推測しています。

     

    マタイによる福音書:70年~100年ごろ
    マルコによる福音書:68年~73年ごろ
    ルカによる福音書:80年~100年ごろ
    ヨハネによる福音書:90年~110年ごろ

     

    この中でマタイ、マルコ、ルカは共通する記述が多いのが特徴です。
    しかし、ヨハネによる福音の場合は明らかに他の福音書とは異なります。他の3つがストーリー主体で語られているのに対して、ヨハネの福音書の場合は思想的な表現やキリスト教神学の基礎的な要素が強く、しかもイエスを直接的に神として扱っています。
    また福音書は4つだけでなく、「新約聖書」に入れられなかったものもあります。例えば「ペトロによる福音書」や「トマスによる福音書」、そして「ユダの福音書」などもあります。
    特に「ユダの福音書」は以前に述べたグノーシス主義と関連したものです。共観福音書と異なり、イエスを裏切ったイスカリオテのユダこそが、イエスの弟子の中で、誰よりも真理を授かっていたという内容です。一般にいわれるユダの「裏切り」という行為についても、イエスがユダへ指示したものであるとしています。
    聖書に採用された4つの福音書はギリシア語で書かれていました。マタイによる福音書にはアラム語による原版があるともいわれ、ギリシア語へ翻訳したという説もあります。しかし、これも断定はできないようです。

     

    20世紀になって発見されたナグ・ハマディ写本など、正典と外典との関係など、この部分は興味がつきませんが、今回はここまでにしましょう。

     

  • ハーメルンの笛吹き男(Rattenfänger von Hameln)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハーメルンの笛吹き男(Rattenfänger von Hameln)について勝手に語ります。

     

     

    今回も緊急事態宣言による外出自粛を受けて、自宅でワインを飲みながら読書をする際に、最適な書籍を紹介していきます。
    今回は誰もが知る「グリム童話」の中の「ハーメルンの笛吹き男(Rattenfänger von Hameln)」です。一説には黒死病と恐れられたペストと関係するともいわれるものなので、感染拡大を防ぐために自宅で静かに読書するには最適かもしれません。

     

    舞台となったは、現在のドイツにあるニーダーザクセン州のハーメルン (Hameln) です。ハノーファー(Hannover)から217号線を南西方向に進んだ場所にある都市です。ヴェーザー川が市内を流れていて、ハーメル川とフンメ川が合流する位置にあります。
    言語は標準ドイツ語に近いので、ドイツ語の初級学習者には向いている都市といえます。人口は6万人に満たない典型的な地方都市ですが、かつてはハンザ同盟都市であり、三十年戦争までは経済的に発展していました。

     

    さて、物語ですが、これは1284年の出来事でした。
    ハーメルンにネズミが大繁殖し、町の人々は大変困っていました。そんなある日、ネズミ退治をするから報酬をくれ、という男が現れました。ハーメルンの人々はその男の提案を受け入れ、報酬を与えて、ネズミ退治をしてもらうことにしました。そして、男は笛を吹いて町を歩くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきました。男はそのままヴェーザー川まで歩き、ネズミを川で溺死させていきました。
    男は約束通りネズミを退治したので、ハーメルンの人々に報酬をもらいに行きましたが、彼らは笛吹き男との約束を破ってしまいました。報酬を払わなかったのです。
    笛吹き男は町の人たちの対応に怒り、ハーメルンからいったんは姿を消しましたが、再び町に戻り、笛を鳴らしながら通りを歩きました。このとき、住民たちは教会に行っていたため、家には子供たちだけがいて、笛の音とともに男のあとをついていってしまいました。総勢130人の少年少女たちでした。
    子どもたちは笛吹き男を追うようにハーメルンの町の外に出ていき、市外の山腹にあるほら穴の中に入っていきました。子供たちが穴に入ると、岩で出入り口はふさがれ、笛吹き男も子供たちも二度と戻ってきませんでした。

     

    この消えた子供たちについては、いくつかの仮説があります。代表的なものを挙げてみましょう。
    まずは冒頭でも触れたように、黒死病のペスト説です。
    ペストの感染源はネズミということもあり、ネズミがペストを表すものとする説です。恐ろしい伝染病だったペストがハーメルンで集団感染危機を迎え、感染した子供たちを隔離したというものです。
    次に少年十字軍説です。
    少年十字軍運動は1212年からですから、この事件より少し前ですが、この説によれば、笛吹き男は新兵募集員として町から子供たちを連れ去ったというものです。
    子供たちが自ら進んで町を去ったという説もあります。
    両親とハーメルン市を見捨て、東ヨーロッパの植民地で新たな村の創建者となる目的で町を出たというものです。この場合、笛吹き男はそのリーダーということになります。
    これとは別に、同じく東ヨーロッパやバルト地方に関係しますが、植民請負人に売られという説もあります。当時は児童売買は珍しいことではなかったからです。
    他にも、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったという説もあります。

     

    どれが正解なのかは分かりませんが、外出を自粛している今、ワインを飲みながら推理していくのも良いのではないでしょうか。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヨーロッパ(Europa)の基礎知識第2回です。

     

       

     

    前回はヨーロッパの地理的な部分について述べてみました。地理的な条件だけでなく、歴史的な結びつきまで含めると、ヨーロッパの範囲は複雑になってしまいます。
    今回は、ヨーロッパのすべての国に関係するわけではないですが、EU(European Union)に触れたいと思います。

     

    EU加盟国は世界人口の約5.8%を占めていて、離脱前のイギリスを含みますがGDPでは約20兆ドルとなっています。この数値は、世界の名目GDPの約25%に相当します。アメリカのGDPを上回っていて、今後イギリスを抜かしたとしても、EUの占める割合が巨大であることは変わりません。
    そのイギリスを除くと、現在の加盟国は27か国です。EUの前身であるECが6か国で発足したことを思うと、大きく発展したことが分かると思います。
    加盟の条件はマーストリヒト条約第49条によるもので、その条件によれば、ヨーロッパの国であることと、自由、民主主義、人権の尊重、法の支配といった理念を尊重していることが挙げられています。ヨーロッパであることからすると、トルコはヨーロッパとアジアにまたがる国なので、対象となるともいえます。
    実際にトルコとはEU加盟の公開交渉のためのサミットを開いていくことで合意していました。一方でEU首脳からすると、トルコのEU加盟に対して歓迎ムードはないといえます。やはりイスラム教国家というのが難点になっていると思えます。未だイスラム勢力だったオスマン帝国の影を引きずっているのかもしれません。

     

    このEUとはヨーロッパの統合を進めるもので、逆の立場として欧州懐疑主義(Euroscepticism)もあります。
    ヨーロッパ統合の先には集権化されたヨーロッパ超国家体制となり、アメリカ合衆国と同じようにヨーロッパ合衆国を創設することまで含みます。しかし、通貨統合でも紆余曲折があり、旧東欧では西欧との格差から、統合を危惧する面もあります。司法制度などや政治体制など多岐にわたった分野で、しかも各国の事情も含んで、懐疑主義はそれぞれの主張があります。
    一部には、この統合こそ、歴史上類を見ない巨大帝国に繋がるとも言う人までいます。これは「聖書」の予言にある単一世界帝国の始まりということで、反キリストに進むという見方があるからだそうです。

     

    EUが成立するまでの歴史は、第二次大戦後のソ連を仮想敵国とした反共主義による面もありましたが、実は激しい戦争の歴史からの教訓という部分も大きかったといえます。
    次回からはヨーロッパの戦争という面から、基礎知識を学んでいくことにしましょう。不定期連載なので、次回がいつかはお約束できませんが、 それはご了承ください。

     

  • エルキヴァレー(Elqui Valley)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエルキヴァレー(Elqui Valley)について勝手に語ります。

     

     

    南北約1,400kmのエリアに広がるチリのワイン生産地ですが、その中でエルキヴァレー(Elqui Valley)は最北のD.O.になります。コキンボ地方に位置します。
    雨が少なく、年間を通じて晴れの日が多いのが特徴の地域で、空気が澄み切っていることから天文台もあります。
    ブドウが生産される場所は標高1000mを超える高地です。場所によっては2000m以上のところもあるようです。雨が降らない地域のため、灌漑によってブドウ畑が維持されています。

     

    コキンボ州にはコキンボ(Coquimbo)市があり、ブドウ生産地と違って山間部ではなく港湾都市になります。それでも谷あいに位置し、やはり降水量は少ない都市です。
    ワインの出荷拠点だけでなく、工業と海運の中心地で、しかも急速に発展しています。

     

    この地域は、もともとはブドウ蒸留酒のピスコの産地でした。
    むしろワイン生産のほうが歴史が浅く、まだ初期段階ともいわれるほどです。
    カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、カメルネールなどだけでなく、冷涼な地域特性を活かして、シャルドネ、ソーヴィニョン・ブランなども導入していて、高級ワイン生産に特化した印象があります。

     

    ちなみにですが、この近くには1945年にラテンアメリカ圏で初となるノーベル文学賞を受賞たガブリエラ・ミストラルの生誕地ヴィクーニャもあります。

     

  • ラスコーリニコフの口づけ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品『罪と罰』について勝手に語ります。

     

     

    新型コロナウイルス感染防止のため、緊急事態宣言に基づいて、外出自粛が続いています。
    こんなときこそ、ワインを飲みながら、世界的な文学作品を読むのはいかがでしょうか。
    ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの代表作である『罪と罰』(Преступление и наказание)など、読みごたえがあるのではないでしょうか。

     

    主人公はラスコーリニコフ。時代は帝政ロシア、舞台は帝都ペテルブルクです。
    ラスコーリニコフは頭脳明晰な元大学生で、貧しい青年でした。独自の犯罪哲を持ち、金貸しの老婆を殺害してしまいます。老婆は強欲狡猾な人物で、ラスコーリニコフの哲学からすれば、彼女を殺害することは、「選ばれた非凡人」である自分の場合、「世の中のため」であるならば正当化される行為であるということになります。
    彼は老婆を殺害し、奪った金で世の中のために使うという計画を思い描いていました。ただ、偶然に殺害現場にその妹までいたことで、彼女まで殺害してしまうことになりました。
    いわば偶然が招いた犯罪哲学に合致しない殺人だったため、彼は罪の意識を持つことになります。そして大いに苦悩しました。

     

    そして娼婦ソーニャの登場です。
    悲惨な暮らしをするソーニャですが、彼女は家族のために徹底的につくしています。その自己犠牲の生き方にラスコーリニコフは感動しました。そしてソーニャに諭され、ラスコーリニコフはついに自首を決意しました。そのとき、ひざまずいて口づけをした場所がセンナヤ広場でした。

     

     

    ロシアの地下鉄は冷戦時代に核シェルターとしての活用を想定していたため、とても地下深いのが特徴ですが、このセンナヤ広場は地下鉄のターミナルに直結している場所です。
    現在は賑わう場所といえるでしょうが、レニングラード時代は、雑踏はあるものの無機質な印象を持つ場所でした。懐かしく感じます。
    この広場から徒歩で5分程度でラスコーリニコフが住んだという設定のアパートに着きます。現在は1階にドストエフスキーに関連するプレートが据え付けられているようです。このアパートはクリーム色の壁になっていて、4階建てです。上の階に行くほど床と天井の間隔が狭くなっています。日本と違い、高いフロアほど家賃が安くなることから、上下の長さも短くなっているようです。

     

    さて、作品に戻ると、この『罪と罰』は、実存主義的な要素と社会主義思想への批判なども併せ持つとされています。純粋なヒューマニズム回帰のようなものではなく、有神論と無神論の対比、正当化された犯罪とそれを制御できない現実など、論じる点はたくさんあります。
    ニーチェ的なニヒリズムとも異なる犯罪哲学と、その崩壊を招く苦悩とソーニャの存在など、重量感のあるストーリーは外出自粛の今だからこそ家で読む価値がある気がします。

     

    ラスコーリニコフのアパート周辺は、小説の中では飲み屋から悪臭が漂う陰惨な場所となっていましたが、ソ連時代には殺風景な場所になり、現在は聞くところによると、商店やカフェが並ぶきれいな場所になったといいます。帝政ロシアの時代の風景は、今からは想像できないのかもしれません。

     

  • アルマトイ(Алматы)とアルバワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルマトイ(Алматы)とアルバワインについて勝手に語ります。

     

     

    カザフスタンの経済、教育、文化の中心都市であり、「南の首都」とも呼ばれるアルマトイ(Алматы)は、カザフスタン最大規模の都市です。
    このアルマトイから東へ約70km離れた場所に、アルバワインのワイナリーがあります。この地域は標高が1000mあり、トゥルガン川の流域になっています。カザフスタンの中でも涼しい地域になり、ブドウ生産は古くから行われていました。
    ソ連の時代にはアルコールの禁止により、ワイナリーは閉鎖していました。しかし、ソ連崩壊後、荒廃していたワイナリーに、フランスのワイン醸造家が目を向けたことにより、フランス流の手法も取り入れたワイナリーとして再出発しました。全く無名な世界最高峰ワインとも評されるほどの無農薬ワインなどもあり、フランスの品評会でゴールドメダルを獲得したこともあります。

     

    アルマトイはソ連から独立した中央アジアの国家の中で、最も経済的に発展した都市ですが、もともとはシルクロードの天山北路のオアシス都市として発展してきました。ところがモンゴル帝国が中央アジアへの遠征により、交易都市としてのアルマトイは衰退していきました。
    1854年には、コサックにより天山山脈のふもとに要塞が建設され、アルマトイはザイリースキー(Заилийский)という名で呼ばれることになり、要塞はヴェールノエと呼ばれました。
    1867年になると要塞はヴェールヌイ(Верный)となり、セミレチエ州の州都となりました。ロシア帝国の支配地として、多くの民族が移住し、出身地域ごとに集落が形成されていきました。

     

    そしてロシア帝国がソビエト連邦となると、1921年にはアルマ・アタという都市名に改称されました。
    カザフ自治ソビエト社会主義共和国の首都にもなり、カザフスタンの中心都市となっていきました。
    第二次世界大戦中には、、モスクワ、レニングラードなどの主要都市から大学や映画撮影所などの文化施設や、工場、病院なども含めて多く疎開してきました。そのため、当時のソ連映画では、約8割がアルマ・アタで制作されたものになったほどです。
    また、は日本兵捕虜の収容所もあり、日本兵捕虜の墓地もあります。

     

    ソ連崩壊後、独立したカザフスタン共和国の首都となり、名称もアルマトイとなりました。
    ただ首都は長く続かず、1998年にはアクモラ(現在のヌルスルタン)に遷都しました。このアスタナに遷都した理由には、地震の危険性があったようです。過去に複数回の大地震に見舞われた地だったからです。そのため地震対策として高層建築物は制限されていてるほどです。もっとも、そのおかげで都市の景観が守られているという側面もあります。

     

    ワインに話を戻すと、アルマトイ近郊にはアルバワイン直営のワイン屋があります。
    価格も安く、一杯が日本円で100円程度だといいます。市内のレストランでも飲むことができるようです。もしアルマトイに行く機会があれば、ぜひとも味わってみたいと思っています。

     

  • タンジェ(Tánger)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はタンジェ(Tánger) について勝手に語ります。

     

     

    以前にアフリカのモロッコのワインを取り上げました。(「日の没する地・モロッコのワイン」)
    今回はモロッコのタンジェ(Tánger) を紹介しようと思います。

     

    タンジェはモロッコ北部にあり、ジブラルタル海峡に面した港町です。人口は約95万人で、海峡を挟んだ隣のスペインからフェリーが多く行き来する場所です。スペインからフェリーで1時間という距離です。ただ、港から市内までは離れています。
    モロッコとヨーロッパを隔てるジブラルタル海峡の港町ということは、地理的な理由から、貿易の要所であるとともに、軍事的にも地中海域の戦略拠点となっていました。そのため歴史的に争奪戦が繰り広げられてきた場所でもあります。

     

    最初に交易拠点としたのはフェニキア人で、のちにローマ帝国のマウレタニア・ティンギタナ属州になりました。やがてイスラム教の勢力下になりました。その結果、レコンキスタの影響を受けました。レコンキスタはスペイン語で「再征服」を意味することで、キリスト教勢力が再びイスラム教世界に征服された地を取り戻すことになります。
    13世紀半ばになると、イスラム勢力はグラナダに残る程度に縮小し、1415年にはアフリカ北岸のセウタがポルトガル領に組み込まれ、さらに15世紀後半にはタンジェもポルトガル領となりました。
    一時的にイギリス領になった時代もありましたが、モロッコのイスラム王朝によって征服されたことで、モロッコの一部となりました。

     

    第一次モロッコ事件(First Moroccan Crisis)は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がタンジェを訪問し、フランスのモロッコ進出を牽制したことでおきました。1905年でした。
    第二次モロッコ事件(Second Moroccan Crisis)は、ドイツがアガディールに砲艦を派遣したことによりおきました。1911年でした。
    これらの事件を経て、モロッコはフランスによる保護国となり、タンジェは国際管理地域とされました。
    第二次世界大戦勃のときには、スペイン軍がタンジェに侵攻し、併合を宣言しましたが、世界大戦終結により再びタンジェは国際管理地域に戻りました。
    タンジェの国際管理が終わったのは1956年でした。ここでタンジェはモロッコに復帰しました。

     

    地理的要因から独特の歴史を持つタンジェは、ヨーロッパ的な町並みにアラブ的な雰囲気を持ち、混沌とした都市という側面があります。イスラム教のモスクだけでなく、スペイン教会などの建築もあるため、アフリカとヨーロッパの交差点であることが実感できると思います。
    ワインも飲むことは可能です。

     

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