今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • アルツァフ共和国とナゴルノ・カラバフ共和国

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルツァフ共和国とナゴルノ・カラバフ共和国について勝手に語ります。

     

     

    ワイン発祥の地と呼ばれるジョージアでは、太古よりワイン生産の歴史があります。そのため、その周辺地域にもワイン造りの歴史があります。主にコーカサス地方に相当する地域です。
    アゼルバイジャンも隣接地域のため、ワイン生産は5千年以上の歴史があるといわれています。
    このアゼルバイジャンで、南コーカサスのナゴルノ・カラバフに未承認国家があります。事実上独立した国で、首都はステパナケルトです。
    国名は、アルツァフ共和国またはナゴルノ・カラバフ共和国で、二つの名称があります。ちなみに日本では「アルメニアによる占領地域」としています。
    実はこの周辺は複雑で、以前にはアゼルバイジャンの飛び地としてナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)も取り上げたことがあります。

     

    かつて、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部だったナゴルノ・カラバフ自治州では、ナゴルノ・カラバフ戦争とソ連崩壊による状態での独立宣言が行われました。このパターンは東欧でよくみられるものですが、ここでは状況が異なっていました。
    この独立宣言には、実態としてはアルメニアの保護国というものでした。アルメニアは西側に位置する国で、その先にナヒチェヴァン自治共和国があるため、かなり入り組んでいます。

     

    では、このナゴルノ・カラバフ戦争とは何だったのかというと、この地域をめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの戦争でした。
    もともとこの地域はアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台でした。双方には言い分があって、アルメニアは、古代アルメニア王国から続くアルメニア文化の中心地であると主張し、対するアゼルバイジャンは、アルメニア人よりも古くからカフカース・アルバニア王国を形成していたカラバフ一帯の先住者であると主張しています。
    そのような火種のある地域に、ソ連が進出し、アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国とアルメニア社会主義ソビエト共和国となりました。この際、ボリシェヴィキらが行った国境画定交渉により、ナゴルノ・カラバフはアルメニア側に帰属することになりました。しかし、これが、アゼルバイジャンの反発を生み、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆されてしまったのです。
    ただし、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられました。
    このような背景から、ゴルバチョフが書記長になり、ペレストロイカが進み、再び民族対立が深まっていきました。
    そして1988年のアスケラン事件、スムガイト事件、キロヴァバード事件が起こり、ナゴルノ・カラバフ全域で両民族が武装を開始するようになりました。

     

    現在は停戦状態で、未だ緊張が解けたとはいえません。
    つい最近では2016年に4日戦争もおきています。
    最古のワイン生産地域の近隣では、今でもこのような状態の場所があることを、ワイン好きな人はあまり知らないかもしれません。

  • ブラチスラヴァ(Bratislava)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブラチスラヴァ(Bratislava)について勝手に語ります。

     

     

    スロバキアは小さな国で、歴史的にはハンガリーとの関係が強い地域でした。そのためか、ハンガリー貴族の発祥地でもありました。
    しかし第一次世界大戦後の独立の際、チェコと合併したことから、共産党政権になりました。ようやく1993年にチェコスロバキアから分離独立することができました。
    スロバキアのワインもハンガリーとの関係が強く、ハンガリーの代表的なワインであるトカイワインもスロバキアで生産されています。
    そんなスロバキアの首都がブラチスラヴァ(Bratislava)です。

     

    ブラチスラヴァはドナウ川に面した都市で、ハンガリーとオーストリアの国境に接してるため市域内に三国国境があります。実はウィーンとは近く、近郊都市といってもよいほどです。
    人口は43万人程度なので、首都としても規模はそれほど大きくありません。ドナウ川とモラヴァ川の合流地点に近い小カルパチア山地の麓に相当するドナウ平原にあり、ドナウ川を挟んで両岸に都市は広がっています。
    ドナウ川は、西側のウィーン方面から南東方向へと流れ、西側にモラヴァ川があり、合流地点には「ジェヴィーン水門」(Devínska brána)があります。ここから先がドナウ平原です。
    東側では支流の小ドナウ川(Malý Dunaj)と別れ、支流と再び合流する間に「ジトニー島」(Žitný ostrov)というヨーロッパ最大の大中州地帯もあります。

     

    ブラチスラヴァは初めて文献に登場したときはポジョニという名でした。一時期ハンガリー王国の首都だった時代もあります。
    それはオスマン帝国の侵攻でブダが支配されたためでした。首都だった期間は1536年から1784年まででした。
    1809年になると、フランスによって占領されました。
    ただ、この頃から中部スロバキア方言をベースにしたスロバキア語の文語が完成しました。
    オーストリア・ハンガリー帝国解体によるチェコスロバキアを経て、1939年にはナチス・ドイツ傀儡政権ができ、スロバキア共和国の首都となりました。
    しかし、これは長く続かず1945年にソ連の赤軍が侵攻したことで、再びチェコスロバキアに戻りました。
    ビロード離婚により文字通りの独立に成功し、主権国家スロバキア共和国が誕生し、ブラチスラヴァは首都となりました。

     

    社会主義の時代にはウィーンと結ぶ鉄道が途絶えていましたが、新たにブラチスラヴァ・ペトルジャルカ鉄道駅 (Železničná stanica Bratislava-Petržalka)から発着するようになりました。
    そのため、現在では約1時間程度でウィーンへ行くことができるようになっています。 ブラチスラヴァ・ペトルジャルカ鉄道駅へは、街の中心部からトラムで15分ほどですから、二つの国の首都を同時に味わえることができます。

     

    ブラチスラヴァの旧市街を代表するものとえいば、ミハエル門かもしれませんん。
    門ですが、細くて高いので、塔のように見えます。かつてブラチスラヴァを守っていた要塞の1つです。現在は、門の中は中世の武器博物館になっています。
    ブラチスラヴァの要塞の門は13世紀からつくられてきて、街には全部で4つの門がありました。ミハエル門はその中の1つで、完成したのは14世紀で、現在まで残る雄一のものです。他の門は18世紀にオーストリアのマリア・テレジアによって壊されました。
    周囲は土産物屋やレストランなどで賑わっている場所なので、ブラチスラヴァ観光には拠点となる地域といえます。

     

    日本人にはマイナーな都市かもしれませんが、ウィーンとセットでぜひとも訪れて欲しい都市です。ただ、英語はあまり通じないかもしれません。

     

  • アーネム(Arnhem)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアーネム(Arnhem)について勝手に語ります。

     

     

    庭園都市や公園都市などと呼ばれるアーネム(Arnhem)は美しい街で、オランダ東部のヘルダーラント州(Gelderland)の州都です。
    このアーネムにはワイン博物館 Wijnmuseum (Wine Museum Arnhem)があります。ワインセラーの見学ツアーに参加すれば、見学だけでなく試飲もできます。
    オランダはワインベルトからすると、やや北に位置していて、気候が冷涼なため、ブドウ栽培には適していません。そのためワインの生産量は多いとは言えないものの、ワイン生産は古くから行われていました。現在、国内で約150のワイナリーがあるといわれています。

     

    アーネムが市として誕生したのは1233年で、1443年からハンザ同盟に加入しました。続いて1579年にはユトレヒト同盟に加入しました。
    現在は「ファッションの街」でもあり、ワイン博物館だけでなく、美術館も多く、そして、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園でも知られています。
    その中でクレラー・ミュラー美術館(Kröller Müller Museum)が特に有名です。収蔵品として、世界的に有名なフィンセント・ファン・ゴッホに関するコレクションで知られています。具体的には、『アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)』(1888年)、『夜のカフェテラス』(1888年)、『種まく人』(1888年)、『糸杉と星の見える道』(1890年)などで、絵画87点におよぶ規模はアムステルダムのゴッホ美術館とならび、2大ゴッホ美術館と称されています。
    ここは、1938年、実業家のアントン・クレラー・ミュラーと、その夫人ヘレン・クレラー・ミュラーのコレクションを基に開設されました。
    屋内だけでなく、屋外にも彫刻が展示され、そこは緑に囲まれた広大な敷地になっていて、日本の彫刻の森美術館が参考にしたといわれます。

     

    また、アーネムには「Arnhems Meisjes」があります。
    これは日本語にすると「アーネムの女の子」となり、オランダ伝統のクッキーです。イギリスの作家ロアルド・ダールが愛し、「世界一のクッキー」と称したクッキーです。
    パイ生地のように何層になっているクッキーで、独特の食感が新鮮であり、キャラメルのような香ばしいものです。

     

     

    実はこのアーネムですが、ドイツバイエルン州のニュルンベルク(Nürnberg)とアウトバーン3号線とオランダ国内の高速道路でつながっています。(カイザーブルクでワイン)とんでもなく遠いのですが、一気に走り抜けたい気もします。
    もっとも、そんな機会があれば、の話ですが。

     

  • ラトビア共和国(Latvijas Republika)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラトビア共和国(Latvijas Republika)について勝手に語ります。

     

     

    バルト海沿岸に位置するラトビア共和国(Latvijas Republika)は1990年にソビエト連邦から独立した国です。EU、NATO、OECDの加盟国で、北に位置しているものの、ブドウが生産されています。そのため高品質なワインの産地でもあります。
    産業として大きいわけではなく、ワイン愛好家によって自家製ワインが作られている感じです。かつては、サビレのブドウ農園が世界最北としてギネスブックに掲載されていました。現在はこの記録は破られてしまいました。
    生産地としては、アバヴァ谷が有名で、ここの農場の多くはワイン用ブドウを栽培しています。ラトビアのブドウ栽培では200種類以上もの品種が生まれているようです。

     

    バルト海に面していることで、ラトビアの歴史はヴァイキング(Wikinger)が大きく関係しています。
    そこへドイツ騎士団が東方植民としてやってきました。キリスト教化が進められ、現在のラトビアの首都リガも建設されました。さらにリヴォニア帯剣騎士団も入ってきて、ドイツ人たちはラトビアに残るようになりました。
    これがバルト・ドイツ人となり、16世紀の半ばにはドイツのマルティン・ルターの宗教改革もラトビアに及びました。また、この時代にバルト海の覇権をめぐってリトアニア、ポーランド、スウェーデン・バルト帝国に支配されました。この際に北部リヴォニアと南部クールラントに分裂しました。

     

    ポーランド・リトアニア共和国時代を経て、スウェーデン領リヴォニア時代、そしてロシア帝国の支配地となりました。
    農奴解放はロシアより早く行い、資本主義経済と市民社会の形成がなされたことと、バルト・ドイツ人による主要民族に対する啓蒙運動が興ったことで、ロシアからの自立を望むようになりました。
    19世紀後半になると、ロシア皇帝・アレクサンドル3世の治世でロシア化が強められ、バルト・ドイツ人の権力が衰退していきました。そしてラトビア語の文語化が進められるとともに、民族主義運動が盛んになりました。しかしその一方で社会主義運動も活発化していきました。
    独立したのは第一次世界大戦後の1919年で、ラトビア第一共和国となりました。さらに右派政府と赤軍の内戦を経て、1920年にはソヴィエト・ロシアと和平条約を締結しました。世界大恐慌以降には、ソ連邦やナチス・ドイツと不可侵条約を締結しました。
    そして第二次大戦により、ソ連に併合され、ラトビア・ソビエト社会主義共和国が誕生しました。バルト・ドイツ人もロシア人によって一掃されたことで、民族構成は一変しました。

     

    1991年1月にリトアニアで血の日曜日事件が起きましたが、このとき、ラトビアでもソ連内務省特殊部隊の襲撃事件を起きていました。その後、ソ連のクーデターが失敗し、ラトビアは独立を宣言することになりました。
    これが現在では、国内に居住するロシア人に対する処遇問題になっています。ソ連時代からラトビア住むロシア人に対してラトビア国籍取得に際し、ラトビア語試験などを課しています。単なる言語のチェックだけでなく、民族主義的な側面が多々あるとして、今でも35万人近いロシア人が無国籍となっています。
    これに対してロシア系市民やロシアが改善を要求しているだけでなく、EU加盟委員会も加盟に際してこの問題の改善を促しました。

     

    バルト三国の中ではGDPも少なく、地味な印象がありますが、首都のリガは旧市街「リガ歴史地区」が世界遺産に登録されていますし、約300棟のアールヌーボー調の建築物の宝庫でもあります。
    かなり見どころも多く、またワインもぜひ味わいたい国でもあります。

     

  • キリストの血入門 9

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第9回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、ローマ帝国後期の「3世紀の危機」時代のキリスト教について述べました。
    今回はキリスト教の国教化後の教父哲学について語っていきます。アウグスティヌスの登場です。

     

    ローマ帝国の「3世紀の危機」を経て、いよいよキリスト教が国教化され、アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)が活躍します。古代キリスト教世界において、絶大な影響力をもった神学者であり、カトリック教会だけでなくのちのプロテスタントや正教会、非カルケドン派でも聖人になっています。

     

    生まれた場所はローマではなく、ローマ帝国の属州だった北アフリカのタガステでした。ここは現在のアルジェリアにある町です。父は異教徒でしたが、母のモニカは熱心なキリスト教徒で、のちに聖人とされた人物でした。
    カルタゴで学び、当時同棲していた女性との間にアデオダトゥス(Adeodatus›という息子が生まれました。実はこの女性の名は分かっていなく、「不義の女性を囲い」、「不義の子をもうけた」とされていますが、アウグスティヌスは結婚していたわけではないので、愛人というわけではありません。当時のローマ帝国では、法律で身分が異なる人との結婚は非合法だったことから、このような表現になったようです。
    また、この頃のアウグスティヌスはマニ教を信奉していました。マニ教はイラン人の教祖マニにより、ゾロアスター教をベースにした宗教です。キリスト教や仏教、さらにグノーシス派の要素も取り入れたものでした。ゾロアスター教がベースですから善悪二元論で、これはアウグスティヌスがのちに新プラトン主義(Neoplatonism)に傾斜したりして、この宗教から離れていくことになりました。

     

    383年にアウグスティヌスは事実上の妻と子供を連れてローマに行き、翌年には宮廷所在地のミラノに移りました。
    ここで息子のアデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となりました。
    ただ、母親のモニカは、アウグスティヌスの非合法な結婚を許せませんでした。ミラノまで押しかけ、アウグスティヌスに対し、大学教授となるためには非合法な結婚は直ちに解消し、合法的な結婚をしなければならないと諭したのです。
    このとき、アウグスティヌスは大学教授へ出世することが見えていたため、母親の言葉に従い、事実婚の彼女と別れ、母の勧める若い女と婚約することにしました。
    ところが婚約した女性は若すぎて、すぐに結婚というわけにもいかず、少し待つ期間が必要となりました。そこで彼は別の女性とも婚約したともいわれていますが、最終的に誰とも結婚しなかたともいわれています。

     

    アフリカに戻ると、ヒッポの司教となり、異端論争を行うようになりました。異端の中にはキリスト教の異端派だけでなく、かつて自身が信奉したマニ教も含まれていました。
    そして、カトリック教会としてのキリスト教理論が構築されていったのです。
    彼の代表作には400年頃の著作として『告白』がありますが、これはカルタゴでの青年時代の素行、身分違いの女性と息子とのこと、そしてマニ教への信奉などを告白し、キリスト教への回心の経緯が記されています。古代キリスト教文学の最高傑作と評されました。
    もうひとつ、426年の著作『神の国』では、西ローマ帝国の衰退時期にカトリック教会の存在意義を明確化し、古代から中世へと続くキリスト教思想の基盤を作り上げました。

     

    キリスト教の発展の中で、アウグスティヌスの果たした枠割は大きいものでした。キリスト教の正しさの論理を組み立て、それを説く教父だったからです。
    まず、神の存在についても証明しました。それは、「神は存在する。神の存在を問いかけているが、なんで見たことも触ったこともないのに神を知っているのか。それは神という存在を認識しているからだ」というもので、科学的な証明ではなく、当時の人々に「神」という概念が根付いていることを証明したようなものでした。
    これは次の問いに繋がります。では、「神という完璧なものが存在するならば、どうして悪を働く人がいるのか? 神が完璧な存在ではないがゆえに悪があるのではないか?」という疑問です。
    これに対してアウグスティヌスは、神は人間に自由意志を与えている、善か悪か、それは人間の自由意志であって、神の意志ではないとしました。この自由意志は、のちの哲学に大きな影響を与えました。
    このアウグスティヌスの理論によれば、悪という行為は、自由意志によって選択されたものにすぎず、いわば、目の前にある誘惑で選択することが社会的な罪になるだけだとなります。では神の真理とはというと、そのようなレベルではなく、より善であるもの、最も善なるものだとしています。
    つまり単純な「Yes」「No」という絶対的基準ではなく、相対的な善悪の判断という考え方をしたわけです。仮に社会的に賞賛されたことであっても、それが正しい行為だったか否かは別の問題であり、常に正しいのは神だけとなります。

     

    最後に重要な点は、キリスト教の三位一体説を信仰し、集結した信徒たちは「教会」という「神の国」で永遠の安らぎを得られると説いたことです。精神的なキリスト教共同体としての「教会」と世俗国家を弁別しました。キリスト教の教会こそ、世俗的な国家より優位であるとしたのです。
    ローマ帝国という「現世の国」「世俗的な国家」がなくなったとしても、教会には「神の国」という拠り所があるとしたことで、ローマ教皇を頂点としたカトリック教会の大きな基盤ができました。

     

    アウグスティヌスの思想は後世に多大なる影響を与えました。その影響については次回にしましょう。

     

  • フランスのワイン産地とワイン法

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランスのワイン産地について勝手に語ります。

     

     

    新型コロナウイルスで揺れるEU諸国は、外出制限の影響で、ワインを飲むのも自宅に限られている国が多いといえます。このワインについては、EUで2008年にワイン法が導入され、独自基準だったフランスでもEU基準に合わせることにしました。
    部分的なことは、このブログでも触れていましたが、改めてご紹介したいと思います。

     

    EU基準に変更される以前は、1935年のワイン法(A.O.C.法)による分類でした。生産地域・ブドウ品種・栽培方法・最大収穫量・最低アルコール度数等が厳しく規定され、大きく分類して、ヴァン・ド・ターブル、ヴァン・ド・ペイ、A.O.V.D.Q.S、A.O.Cの4つなっていました。これが変更され、2009年以降は、「地理的表示があるワイン」と「地理的表示がないワイン」の2つになり、かなりシンプルになりました。
    旧ワイン法では、地理的表示のないワインについては、品種や収穫年を表示することも禁止されているほど、徹底した厳し上がありましたが、新ワイン法によりこれらの表記が任意で可能になりました。

     

    A.O.C.法という法律については、「Appellation d’origen Controlee」を省略した名称で、日本語では「原産地統制呼称」としています。
    AOCのは認定地域は、フランス国内には覚えるのが不可能なほどたくさんあります。しかも単に地域だけでなく、シャトーやブドウ畑ごとの格付けもあって、付帯してきます。
    ソムリエになるならともかく、ワインが好きだというだけなら、そこまでを覚える必要はないでしょうが、フランスの代表的なワイン産地だけは頭に入れておいて損はないでしょう。以下、産地をかんたんにまとめてみます。

     

    ボルドー地方
    フランス南西部で大西洋岸に位置しています。赤ワインの銘醸地です。

     

    ブルゴーニュ地方
    ボルドー地方と並び称される銘醸地ですが、ブルゴーニュは赤・白ともフランスを代表ワインを生産地です。

     

    コート・デュ・ローヌ地方
    リヨン市の南を流れるローヌ川流域の地域です。赤ワイン産地です。

     

    ロワール地方
    フランス最長の河川であるロワール流域です。地域が広いため、それぞれの地域で特のあるワインがあります。

     

    プロヴァンス地方
    マルセイユからニースに至る海岸沿いと、その内陸部の地域です。コート・ダジュール地域です。

     

    ラングドック・ルーシヨン地方
    スペイン国境からペルピニャン、モンペリエ周辺までの地中海沿岸地域です。

     

    シャンパーニュ地方
    パリの北東約160kmで、発泡性ワインのシャンパンで知られる地域です。

     

    アルザス地方
    ライン川に沿ったドイツ国境に近いストラスブールからスミュールーズに至る地域です。

  • ウルタナ(Uruguay-Tannat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はウルタナ(Uruguay-Tannat)について勝手に語ります。

     

     

    南米でスリナム共和国に続いて、2番目に小さい国であるウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)は、以前に取り上げたことがありますが、ウルグアイのワインで押さえておくべきことはウルタナ(Uruguay-Tannat)です。
    タナ(Tannat)は黒ブドウ品種で、フランスの南西地方のACマディラン(Madiaran)等で主として使われているブドウです。ウルグアイでも適応したことで、現在は「ウルタナ」、つまりウルグアイのタナといわれ、ウルグアイを象徴するブドウ品種にまでなりました。
    特徴としてはタンニンが強く、これはもともと「タナ」が「タンニン」に由来していることから、濃く深い赤紫色をしたフルボディワインが有名です。タナはポリフェノールの含有量がとても高いのが特徴です。
    基本的にウルタナから造られるワインは、単一品種のものが主流ですが、メルロともブレンドされることもあります。この場合は、タンニンがまろやかになります。

     

    ウルグアイは国民1人当たりの年間牛肉消費量が約60kgだそうです。日本人の10倍です。
    この牛肉の消費量は、世界トップクラスといえます。ちなみにウルグアイで最も好まれているのは、自由放牧の牛肉の赤身だそうです。
    これだけ牛肉が日常的に食べられていることから、それに合うワインは必需品ともいえます。まさに、その役割を担っているのがウルタナといえるわけです。豊富なタンニンが、牛肉の脂と相性が抜群なのです。肉の脂っこさを消し、ますます大量に牛肉を食べるのが進んでしまうのかもしれません。
    必然的にウルグアイのブドウでは、タナが3分の1を占めることになります。

     

    ところで、ウルグアイのワイン生産の歴史については、17世紀半ばから始まりました。
    スペインの植民地となったことで始まりました。最初は自家消費用でしたが、1828年の独立後は商業用のワイン生産も活発になりました。1870年代になって、フランスからいくつかのブドウ品種が持ち込まれ、タナもこの頃にウルグアイに入ってきたと考えられています。
    南緯30~35度の地域はワインベルトの中にあり、気候的にもブドウの生育に適していたことで、ウルグアイのワインは品質も安定していました。

     

    牛肉とウルタナの組み合わせは、実際に経験してみないと分からないかもしれませんので、ぜひ機会があれば、経験してみてください。

     

  • ローランド島 (Lolland)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はローランド島 (Lolland)について勝手に語ります。

     

     

    ワインベルトの北緯30度~50度よりもわずかに北に位置するデンマークのワインについては、以前にとりあげたことがあります。(デンマークワイン
    今回は、デンマークで小規模ながらブドウを栽培しているローランド島 (Lolland)をご紹介します。

     

    ローランド島はバルト海の西端で、シェラン島の南西、ファルスター島の西という位置にあります。
    実はこの島は、ハンブルクとコペンハーゲン間を結ぶ鉄道ルートで、「渡り鳥ライン」や「渡り鳥ルート」と呼ばれるライン上にありました。これは日本では体験できないもので、乗車してきた列車がそのままフェリーに乗船し、そのまま航送されるものです。
    列車内で寝ていたら、いつの間にか海の上にいた、という経験は、何とも衝撃的なものでした。列車がそのままフェリーの船倉に積み込まれるのは、これ以上にない変化で、しかも乗客は船の客席の方に移ったり、船内のレストランなども利用できました。
    残念ながら、このルートは変更され、フェリー経由ではなくなり、ローランド島 (Lolland)を通過することはなくなりました。

     

    このローランド島は面積が1,243km2で、沖縄本島とほぼ同じ面積です。人口は6万8千人で、起伏の少ない平坦な島です。標高が最も高いところでも25mしかありません。
    ファルスター島とは可動橋(跳開橋)のフレゼリク9世橋で結ばれ、ドイツのフェーマルン島との間には海峡の海底を潜るトンネルを建設する構想があります。これが完成したら、かなり便利になると思われます。
    そして、このローランド島が有名なのは、風力発電です。この島の電力エネルギーのほぼ全てが自然エネルギーで賄われ、その中心にあるのが風力発電なのです。その電力量は52億キロワットで、ドイツにも供給しています。自然エネルギー100%、自給率600%の島なのです。

     

    隣のファルスタ島とあわせると、発電用の風車は500基以上になります。驚くべきことは、その風車を所有しているのは、半数が島民だということです。個人で風力発電を行っているわけです。
    さらに、風力だけでなく、バイオマス発電やゴミ発電なども行っています。
    しかし、1973年のオイルショック以前のデンマークは、エネルギー自給率は日本より低い国でした。そのため、原発建設を推進する機運が高まっていました。それが、このように再生可能エネルギーへと舵を切ったので、日本も見習いたいものです。
    そしてデンマーク政府は「2050年には化石燃料からの完全脱却」という目標を掲げています。

     

    また、自然エネルギーやワインだけでなく、マリボー(Maribo) を発祥とするチーズでも有名な島です。
    意外に知られていない島ですが、ハンブルクからもコペンハーゲンからも行けるので、ぜひ、この先進的な島を訪れてみてください。
    わざわざ行くだけの価値はあります。

     

  • グラーツ(Graz)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はグラーツ(Graz)について勝手に語ります。

     

     

    オーストリアの首都はウィーン(Wien)で、国内最大の都市です。
    日本人なら大抵は知っているかと思いますが、ではオーストリアの第2の規模を誇る都市となると、途端に知らないとなるのではないでしょうか。
    それがグラーツ(Graz)です。

     

    そのグラーツのあるのがシュタイアーマルク州(Steiermark)で、この地域は、ブドウの栽培に適した石灰質の土壌です。しかも内陸部ながら地中海性気候の影響を受けているようで、オーストリア国内でも有数のワイン産地になっています。ここで生産されるワインはドイツと同じで、辛口の白ワインが主流です。実は日本食にも合いそうな味ですが、流通しているのは主に国内だけです。
    最も多いのがリースリング(Riesling)で、価格もお手頃のものが多く、現地のスーパーなどではよく見かけます。

     

    グラーツは1999年に街の中心部が世界遺産に登録されました。さらに2010年には拡大登録されました。
    登録は「グラーツの市街-歴史地区とエッゲンベルク城」としてされました。時代ごとに異なる様々な建築様式の流入と調和をよく保存しているとして、グラーツの中心街が評価され、2010年の拡大登録では、その価値を補強するものとしてエッゲンベルク城が含まれるようになりました。
    ドイツ語圏ですが、もともとはスラブ系の人々の町として誕生し、丘の上に城砦を築いたことから、スラブ語で「小さな城」を意味するグラデツ (gradec) がグラーツの語源となりました。12世紀には丘の麓に市場が形成され、教会、庁舎なども建てられ、都市としての発展につながっていきました。

     

    13世紀になると都市特権を得ることとなり、14世紀にはハプスブルク家の分家に当たるレーオポルト家がグラーツを居住地としました。ハプスブルク家支配となったことで、15世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が輩出され、グラーツは神聖ローマ帝国の首都となりました。王宮と大聖堂も築かれました。
    ただ、ここでもオスマン帝国の脅威があり、砦を補強し、防衛機能も強化していきました。オスマン帝国の脅威はその後も17世紀後半まで続いものの、オーストリア大公カール2世の時代である1586年にはグラーツ大学が創設されました。さらにグラーツは文化的・芸術的な繁栄しました。
    しかし、皇帝がフェルディナント2世になると、首都をウィーンへと遷都したことにより、グラーツの華やかな文化は翳りを見せるようになりました。
    その一方で、世界遺産に登録されたエッゲンベルク城はこの時代に建設されました。

     

    オーストリア第二の都市ですが、グラーツの現在の人口はわずかに25万人程度です。それでも主要都市らしく、グラーツ空港もあり、グラーツ中央駅(Graz Hauptbahnhof)には、ウィーンへ直通する特急列車が2時間間隔で発着しています。また、ザルツブルクやインスブルックなどの国内主要都市を結ぶ特急列車だけでなく、スロヴェニア、クロアチア方面、チューリヒ、ブダペスト方面への国際特急列車も発着しています。
    市内には路面電車も走っていて、Sバーン(都市近郊鉄道網)もありますので、人口の規模の割には利便性の高い都市といえます。

     

    白ワインも安く、ヨーロッパらしい歴史空間が広がるグラーツは、おすすめの都市です。
    ウィーンやザルツブルクは日本人も多く訪れますが、ここは穴場といえるので、中欧方面への旅行の際は、ぜひ、グラーツ訪問もご検討ください。

     

  • ベオグラード(Београд)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はベオグラード(Београд)について勝手に語ります。

     

     

    セルビア共和国は、バルカン半島中西部の内陸に位置する国で、かつてのユーゴスラビアに属していました。ローマ帝国の時代からワイン生産が盛んな地域です。
    このセルビアの首都がベオグラード(Београд)です。ドナウ川とサヴァ川の合流地点にあり、人口は約175万人で、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都でもありました。
    現在はここからワイナリー巡りもできます。

     

    ヨーロッパでも最古の都市の1つといわれ、新石器時代のスタルチェヴォ文化やヴィンチャ文化は、ベオグラード付近で発達したといわれています。特にヴィンチャ文化の文字は、世界最古のアルファベットだという説もあるほどです。
    中世セルビア王国の時代は、12世紀後半に東ローマ帝国の衰退に乗じて誕生したものです。ステファン・ネマニャがセルビア侯となり、1171年には国王として即位しました。
    しかし、その後に内紛が続いたのちにステファン・ウロシュ2世ミルティンの時代になって安定しました。東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国と抗争を繰り返しつつ、領土が拡大していきました。
    ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの時代には、ブルガリアに代わってバルカン半島の盟主の座に就きました。さらに英主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはセルビア王国の最大領土を築きました。

     

    この中世セルビア王国の時代は、ブドウ栽培に力を入れていました。
    一方で首都のベオグラードは戦略的拠点となっていたため、戦場となる機会が多くある都市でした。その数は140回にも及ぶといわれます。
    そして1521年には、ついにベオグラードはオスマン帝国に征服されたことで、オスマン帝国領として、ヨーロッパの重要拠点という位置づけになりました。
    ベオグラードはオスマン帝国だけでなく、ハプスブルク帝国にも支配され、セルビアの首都に戻るまでには多くの時間を要しました。何とか1841年に独立したものの、ベオグラード北部はオーストリア・ハンガリー帝国の統治下となっていました。
    その後はユーゴスラビア王国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ユーゴスラビア連邦共和国、セルビア・モンテネグロの首都となり、ようやく2006年にセルビアが独立し、本来の姿に戻りました。
    その間、19世紀のオブレノビッチ王朝の時代にはブドウ栽培とワイン醸造は近代化し、次のカラジョルジェビッチ王朝の時代に引き継がれ、社会主義時代に停滞したものの、現代までワイン文化は残っています。

     

    現代のベオグラードはセルビアの中ではどの郡にも属さない独立した地域となっていて、独自の市政府を持っています。多種多様な人種がいて、セルビア人だけでなく、ユーゴスラビア人、モンテネグロ人、ロマ、クロアチア人、マケドニア人などが混合しています。ムスリム人もいます。
    夜間営業に対する規制が緩いことから、多様なナイトライフが楽しめることで知られています。もちろん上質なワインを提供する店もたくさんあります。
    ヨーロッパの大都市でありながら日本人にはなじみがないので、一度、ゆっくりと滞在したい都市でもあります。ただ、言語はセルビア語なので、現地語は諦めて会話するしかありませんが。

     

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