今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • マーガレット・リバー(Margaret River)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマーガレット・リバー(Margaret River)について勝手に語ります。

     

     

    マーガレット・リバーは、西オーストラリア州の南西部にある町です。州都であるパースから南へ277㎞、クルマで車で約3時間の距離にあります。
    マーガレット・リバー地域は、オーストラリアを代表する高品質のワイン産地でも知られます。ただし、この地域のワイン生産量は、オーストラリア全体の3%以下しかありません。それにもかかわらず、最高級ワインの5分の1以上がここで生産されているのです。
    世界レベルのワイナリーとしては、ヴァス・フェリックス(Vasse Felix)、ルーウィン(Leeuwin)、ボエジャー・エステート(Voyager Estate)などがり、その数は120以上を誇ります。

     

    町の名は、1831年に西オーストラリアの初期開拓者だったジョン・バッセルのいとこの名前が由来です。マーガレット・ホワーという名で、彼女の名を川に名付け、その上で、この町の名になりました。
    もともとはこの地域にはヌーンガー族が住んでいたそうです。最初の開拓者はイギリス人で、1850年に到着後、1870年頃頃から材木を伐採していき、1910年までに、町として機能するようになったようです。

     

    第一次世界大戦後には、西オーストラリア州への移住を誘致し、新しい開拓者が集まってきました。1922年には移住者が100人を超え、入植者による地区ができたそうです。
    鉄道は1920年代初頭にバッセルトン-マーガレットリバー鉄道が建設され、1925年にマーガレットリバー-フリンダースベイ線が開通しました。

     

    南北に約100㎞、部分的に幅約27㎞というこの地域は、東側にリーウウィン自然史リッジが囲み、西側にはインド洋があります。気候は地中海性で、ブドウ栽培には理想的な条件です。
    しかも、この気候はフランスのボルドーと似ているともいわれます。
    湿度も理想的で、気候、土壌、ブドウ栽培の実践の組み合わせにより、一貫して高品質の強い風味の果実が生まれます。

     

    また、マーガレット・リバーの見どころとしては、レイク・ケーブ(Lake Cave)の鍾乳洞にある「suspended table」と呼ばれる造形物です。
    この鍾乳洞は石灰岩の結晶で、重さは数トンに及びます。洞窟の天井から地底湖の水面すれすれまで吊り下がっているのは圧巻です。このような岩層は、世界でここにしかないと言われていますので、これは必見です。

     

  • キリストの血入門 10

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第10回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の国教化後の教父哲学について語りました。アウグスティヌスでした。今回はアウグスティヌスのその後の影響について触れていきます。

     

    アウグスティヌスの思想は、キリスト教共同体としての「教会」と世俗国家を弁別することで、キリスト教の優位性を示しました。このことからローマ教会の権威が確立されていくことに繋がり、普遍性の有力な根拠でもありました。
    また、個人的な部分を題材にした『告白』により、個人主義的な信仰とは、『神の国』による共同体としての教会でさえ世俗的であるとしました。これらの影響は後世に大きな影響を与えました。

     

    宗教改革への影響にも大きく与えましたが、その点は後に譲るとして、今回は自由意志(freier Wille)に関して絞ってみます。
    自分の意志が自分の自由になるという仮説ですが、人間が自己の判断に対してコントロールすることができるかどうかが問題になります。
    自身の意志によって、行為が発生し、最後に結果が生まれる、という一連の流れです。思ったとおりに行動していることは、自身意志から行動に移ることであり、これだけで論争をするものではありません。
    どのような意志か、それが自由か否かについて、直接的に問うことで、意志の成立過程が重要となります。自由意志の問題とは、自由と因果との関係であって、ここに宗教的、哲学的、倫理的、さらに科学的原理が絡み合っています。
    このようなアウグスティヌスの自由意志と信仰との問題が、後のアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)やフリードリヒ・ニーチェ( Friedrich Wilhelm Nietzsche)にまで影響を与えているのです。
    アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなしています。そのため、善を成すには、神の恩寵なしにはできないとしました。これこそ、若き日の非合法な結婚に関連する性的に放縦な生活を送ったことへの悔悟が背景になっているといえます。

     

    ショーペンハウアーは、カント哲学を受け継いでいるとしながらも、世界を表象とみなし、その根底にあるものを「盲目的な生存意志」としました。
    この「意志」があるゆえ、経験的な事象はすべて非合理であることになります。人間が生活していくには、意志は絶えず他の意志によって阻まれてしまい、生きることは同時に苦を意味することになります。この苦から脱出するためには、意志を諦観するか、絶滅させることしかないと説きました。
    いわゆる厭世観的思想です。
    アウグスティヌスの自由意志という捉え方との比較が興味深い内容です。
    これは19世紀後半に流行したもので、それを広めたのがニーチェです。
    ニーチェの『悲劇の誕生(Die Geburt der Tragödie)』は、ショーペンハウアーの意志と表象から成る世界観が大前提になっています。彼は、古代ギリシアのアポロンに理性を象徴させ、ディオニュソスに情動を象徴させ、その上で、ディオニュソス的根底には、ルター、カント、バッハ、ベートーベン、ドイツ精神がつながるとしました。
    さらに『悲劇の誕生』第16節では、ショーペンハウアーの音楽観を引用し、全面的帰依を表明していたのです。

     

    自由意志とは別に、意外なことにフランク王国のカール大帝も、アウグスティヌスの著作を好んでいたようです。
    さらに中世には、カトリックを代表する神学者のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)もアウグスティヌスから大きな影響を受けていました。彼の代表作といえば『神学大全』で、スコラ学の代表的神学者であり、カトリック教会と聖公会では聖人になっています。
    トマスは、キリスト教思想に古代ギリシア哲学を統合し、総合的な体系を構築しました。その古代ギリシア哲学がアリストテレスで、この統合に目を見張るものがありました。
    アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しながら、哲学ではプラトンからアリストテレスに変え、神学と哲学の関係を整理しました。これにより、神を中心とすることと、人間を中心とすることの、相対立する概念について、統合を図ったことになります。
    このトマスの思想は、トマス主義として受け継がれていきました。その原点こそがアウグスティヌスといえなくもありません。

     

    アウグスティヌスはカトリック教会で最も重要視されてきた人物です。
    その反面で、ルターやカルヴァンなどによれば、アウグスティヌスに対する誤謬を誤って利用してきたという態度もあり、アウグスティヌスの論説については、プロテスタントとの各派に温度差もあります。この点は宗教改革のときに改めたいと思います。

     

  • オラル(Орал)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオラル(Орал)について勝手に語ります。

     

     

    カザフスタンという国がヨーロッパに位置するというイメージはないかもしれませんが、ウラル川の西側部分は地理的にはヨーロッパに区分されるため、一部地域はヨーロッパになります。
    そのヨーロッパにある都市としてオラル(Орал)があります。
    ウラル川とチャガン川(Chagan)の合流点にあるため、アジアにも近い位置となります。

     

    ウラル川(Урал)は全長2,428kmの河川で、プガチョフの乱以前はロシア語名もヤイク川(Яик)でした。1775年にロシア語名だけがウラル川に変更されました。これは、ヤイツクのコサックが、ステンカ・ラージンやエメリヤン・プガチョフの反乱に加担したことから、エカチェリーナ2世によって川の名を「ウラル川」と変えられたことによります。このとき町の名も「ウラリスク」に変えました。
    プガチョフの乱では、包囲されていた期間は半年間にも及びました。
    エカチェリーナ2世の軍はオレンブルクを奪還し、その後にウラリスクを奪回しました。

     

    ウラル川はヨーロッパとアジアの境界の一部を形成する川で、ウラル山脈の東部に源流となるマグニトゴルスクを経て南に向かって流れています。オリ川(Орь)と合流すると西に流れを変え、サクマラ川と合流してカザフスタンに入ります。
    そしてここオラルでまた流れを南に変えます。

     

    オラルは、ウラル山脈とカスピ海の間に位置することから、交易の中心地として発展してきました。
    しかし、ロシア革命のときにはコサックに包囲されました。それでもミハイル・フルンゼの防衛軍が街を死守したという歴史があります。
    オラルという都市名になったのは、1991年にカザフスタンが独立したときです。
    また、ロシア文学の『大尉の娘』で知られるレクサンドル・プーシキンは1833年、まさにその小説を執筆するための調査でここをを訪れています。

     

    地理的にヨーロッパに位置するせいか、ロシアとの関りが強いですが、現在の住民は、およそ72%がカザフ人だそうです。
    人口は21万人程度の都市ですが、ロシア料理だけでなく、イタリアや和食のレストランなどもあり、実は国際的です。その際にワインを飲むこともできます。
    イスラム教徒の多い国ですが、戒律は緩く、飲酒が公然と行われているカザフスタンならではといえます。

     

  • ペスト(La Peste)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『ペスト』(La Peste)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』に続いて4作目です。
    そして、この作品こそ現在のコロナウイルス蔓延状態の現在をいち早く予想していたかのような文学作品です。

     

     

    作者はフランスのアルベール・カミュで、ノーベル文学賞の受賞者です。『ペスト』は1947年に出版されました。
    フランツ・カフカの『変身』と並んで不条理文学の代表作として知られています。カフカの『変身』については、以前に取り上げたことがあります。

     

    グレゴール・ザムザにワイン

     

    この小説の舞台はフランス領アルジェリアのオランという港町です。
    始まりは4月16日の朝でした。医師のリウーは、診療室から出ようとして階段の途中のネズミの死骸につまずいてしまいました。
    これが、その後にオランの町を襲う恐ろしい病の前触れだったのです。
    町には死者が増加し、リウーはこれはペストが原因であると気づきます。新聞やラジオでも報じられ、オランはパニック状態になっていきました。死者数は増加し、当初は楽観的だった町の当局も慌てて対応するようになりました。
    そしてついに、町は外部と完全に遮断されてしまいました。

     

    新聞記者のレイモン・ランベールは、パリに妻がいるため、オランからの脱出を考えます。そこで犯罪者のコタールに密輸業者を紹介してもらいました。コタールは逃亡してきた人なので、この町を出る気はありませんでした。
    一方、イエズス会のパヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいであるとし、悔い改めよと説教していました。医師のリウーたちは、必死に患者の治療を続けていました。
    ランベールは脱出計画をリウーたちに打ち明けますが、彼らは医師として町に残る義務があるという態度でした。
    そんなリウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中でした。
    ランベールはそれを知り、脱出計画をやめ、リウーたちを手伝うことにしました。

     

    ペストで少年が苦しみながら死んだことに対して、パヌルー神父は罪が原因であるといいました。これにリウーは抗議しました。
    やはて、パヌルー神父もペストに感染し、死んでしまいました。
    その後、ペストの感染は突然、潮が退いたように終息していき、オランの人々は元の生活に戻ってゆきました。
    ランベールは妻と再会し、コタールは逮捕、リウーの妻は死んでいました。

     

    このストーリーだけを見れば、ペストの感染拡大から終息までの期間、登場人物のそれぞれの行動が描かれているだけに思えます。
    しかし、カミュはペストに襲われる人々を単に描いたわけではなく、人間を取り巻く哀しい不条理を表現していました。カミュは、人間は世界の偶然性を超えることができないとして、この「人生と世界の無根拠性」が不条理としたのです。

     

    オランの町ではペスト蔓延が終わり、喜悦の叫びがあちこちで上がりました。
    しかし、この小説を語る人物は、最後に述べています。その内容はネタバレになるので、ここでは語らないことにしましょう。

     

  • ステレンボシュ(Stellenbosch)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はステレンボシュ(Stellenbosch)について勝手に語ります。

     

     

    あまり知られていませんが、南アフリカのワインは、世界で最も酸化防止剤の使用基準が厳しいといわれています。
    それは自然保護を目的としたためで、農薬、薬品の国で定める使用基準が関係しているからです。
    そんな南アフリカのワイン産地の中で、ステレンボシュ(Stellenbosch)はワイン産業の中心地です。

     

    ケ−プタウンからだと東の郊外へ向かった先になります。
    実際にケープタウンから向かうと、郊外の風景にブドウ畑が目立つようになるとステレンボシュに到着します。クルマならケ−プタウンから1時間を要しない距離です。おそらく40分程度で着けるでしょう。
    小さな町で、喧騒とは無縁な落ち着いた雰囲気があります。緑豊かな場所でもあります。
    ブドウ栽培に最適な降水量と、土壌も水はけが良く、しかも様々なテロワールが存在しています。そのためワイナリーの数も多く、現在は約150あるそうです。

     

    ステレンボシュは、1679年に町となり、町の古さとしてはケ−プタウンに次いでいます。
    ワイン生産地としても1971年からで、南アフリカでは最も古い歴史があります。
    この地域に限らず、ケ−プタウン周辺地域はブドウ栽培に適した地中海性気候で、土地も肥沃なことから植民地の開拓者たちによって発展してきました。
    それがさらに発展したのは、フランスから逃れてきたユグノ−派新教徒によるようです。
    現在ではケープ地方を代表する銘柄のワインが多数あります。しかも、ワイン生産に必要な教育機関や研究所まであります。ステレンボシュ大学では醸造学や栽培学が学べます。
    他にもエルセンバーグ農業専門学校やニートフルベイ研究所などもあり、さまざまな研究や教育がされています。

     

    町の中には樫木類が生い茂る静かな並木道があり、建築物も古い時代の様式が多く、かなり落ち着いた街並みになっています。通行するクルマの数も少なく、一見すると単なる田舎町のようですが、寂れてるわけではありません。
    ワイナリーを巡るのも良い場所です。

     

  • New Latitude Wine(新緯度帯ワイン)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はNew Latitude Wine(新緯度帯ワイン)について勝手に語ります。

     

     

    ワインの産地は「ワインベルト」と呼ばれる地域が中心で、北緯・南緯ともにに30~50度の緯度帯になります。
    さらにこれを伝統的なワイン生産地である「旧世界」と、新大陸などの「新世界」という2つのエリアに分けるのが一般的です。
    ヨーロッパのフランスやイタリアを中心とする「旧世界」ワインも、南北のアメリカ大陸やオセアニアなどの「新世界」ワインも、どちらも30~50度の緯度帯がブドウの生育に最適になっています。

     

    しかし、この区分に対して、新たに「New Latitude Wine(新緯度帯ワイン)」が加わっています。
    具体的には北緯50度以北にあるオランダ、デンマーク、ポーランドなどや、北緯13~15度のタイやインドなどです。イギリスもそうで、英王室の結婚式に出されたスパークリングワインは、英国産の新緯度帯ワインです。
    ワインベルトの北側では、以前は気温が低くてブドウが完熟しませんでしたが、最近では地球温暖化に伴う気候変動の影響でしょうか、この地域でも良質なワインが生産されるようになりました。

     

    ただ気候変動では説明できないのは、タイやベトナム、インドなどの北緯13〜15度の地域です。赤道に近い熱帯気候ですから、温暖化の影響とはいえません。
    風土的にワイン生産地ではなかったわけですが、実はここでは、標高の高い場所を利用してワイン生産地にしていったのです。熱帯地方でも、標高の高い地域では気温も下がり、山間部などは昼夜の寒暖差もあります。
    そのため、完全な山間部や、いわゆる避暑地などで、従来では考えられなかったワインが誕生してきたわけです。そこには様々な創意工夫があったようです。
    これが「熱帯ワイン」となりました。

     

    また、気候変動はワインの品種や味わいにも影響を与えています。
    今までワインベルトとしては高い緯度で、冷涼な気候を生かしたワインを造っていた産地が、気温上昇の影響で、南でつくられていた産地のワイン・スタイルに替えていかなければならなくなることもあります。
    この南北の差はブドウの生育に大きく関係していて、緯度が高い地域では、冷涼になるため酸やミネラル分は明瞭になります。逆に果実の凝縮した味やボディの厚みは抑え目になります。それに対して、緯度が低い地域では、温暖になり、果実味の凝縮感やボディの厚みは高くなりますが、酸やミネラル分は抑え目になります。
    そのため歴史ある生産地に適したブドウ品種も、その地に不適応となるケースが出てくる可能性があります。栽培や醸造方法にしても、その地ならではのブドウ品種にあわせた熟成方法だったものが、変化を余儀なくさせる事態にまでつながりかねません。

     

    ワイン産地を語るだけで地球温暖化が関係してくるわけですから、ワイン愛好者は、これからの環境問題にも関心を抱かなければならないかもしれません。

  • ザカルパッチャ州(Закарпатська область)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はザカルパッチャ州(Закарпатська область)について勝手に語ります。

     

     

    かつてウクライナはソ連最大のワイン供給国でした。しかし、1986年、ゴルバチョフがアルコール消費制限を開始した当時、広大なブドウ園が破壊されるという惨事が起きました。それでもソ連崩壊後には、ウクライナワインは復活し、輸出も増加傾向にあります。
    そんなウクライナのワイン産地に、ザカルパッチャ州(Закарпатська область)があります。

     

    ウクライナ最西端の州です。
    ウクライナ人が多く居住する地域でしたが、他民族国家に統治されてきた歴史があります。
    まず9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にブルガリア帝国、12世紀にキエフ大公国、13世紀にハンガリー王国と、それぞれの国の支配下に入っていました。
    さらに16世紀からはハプスブルク帝国、続いてオスマン帝国、そして18世紀以降はオーストリア帝国の支配地でした。オーストリア・ハンガリー帝国が成立すると、ハンガリー王国の一部となりました。
    このような状況で第一次世界大戦を迎え、オーストリア・ハンガリー帝国が敗北、ロシアではロシア革命が起こり、それぞれの帝国に支配されていた地域では、民族が分離独立を始めるようになりました。ここでもウクライナ人とルシン人の勢力が西ウクライナ人民共和国に合流したことで、ウクライナ人民共和国の統合まで画策したものの、ポーランド・ウクライナ戦争で西ウクライナ人民共和国は敗れました。その結果、チェコスロバキアの領域となってしまったのです。

     

    国家として独立を宣言したのは1939年のことで、「カルパート・ウクライナ」という国とし、大統領制共和国で、公用語をウクライナ語としました。初代大統領にはアウグスティーン・ヴォローシンが就任しました。
    しかしこの独立後わずか3日間で変化しました。ハンガリー軍侵攻により、ほとんどの領域を占拠されてしまったのです。首脳部はルーマニアへ亡命し、カルバート・ウクライナは短期間で滅亡となりました。

     

    二度目の独立宣言は、第二次世界大戦末期の1944年でした。
    ソ連軍がナチス・ドイツに勝利し、ハンガリーも破ったことで、旧カルパート・ウクライナの地域はザカルパート・ウクライナという国号により独立宣言しました。しかし、この国も翌年には消滅することになりました。ソヴィエト・ウクライナに合併され、これがウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合されたのです。

     

    ソ連崩壊後はそのままウクライナの一部となりましたが、一部にはチェコスロバキアへの再併合を求める声もありました。ただ、チェコスロバキアでもチェコとスロバキアに分裂することとなり、この声は消えることになりました。
    これで独立は消えたかと思われましたが、今世紀に入って、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国」としてウクライナからの独立を宣言したりしました。
    ウクライナ人の多い地域ではあるものの、他の民族意識を持つ勢力も多いため、ウクライナでも特殊な地域といえるかもしれません。実際にザカルパッチャ州の中には、ハンガリーの国旗が掲揚されている地域もあるといいます。

     

    ザカルパッチャ州の州都はウージュホロド(Ужгород)で、ここも興味深い都市です。
    ぜひご紹介したいと思いますが、今日はここまでです。

     

  • アルツァフ共和国とナゴルノ・カラバフ共和国

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルツァフ共和国とナゴルノ・カラバフ共和国について勝手に語ります。

     

     

    ワイン発祥の地と呼ばれるジョージアでは、太古よりワイン生産の歴史があります。そのため、その周辺地域にもワイン造りの歴史があります。主にコーカサス地方に相当する地域です。
    アゼルバイジャンも隣接地域のため、ワイン生産は5千年以上の歴史があるといわれています。
    このアゼルバイジャンで、南コーカサスのナゴルノ・カラバフに未承認国家があります。事実上独立した国で、首都はステパナケルトです。
    国名は、アルツァフ共和国またはナゴルノ・カラバフ共和国で、二つの名称があります。ちなみに日本では「アルメニアによる占領地域」としています。
    実はこの周辺は複雑で、以前にはアゼルバイジャンの飛び地としてナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)も取り上げたことがあります。

     

    かつて、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部だったナゴルノ・カラバフ自治州では、ナゴルノ・カラバフ戦争とソ連崩壊による状態での独立宣言が行われました。このパターンは東欧でよくみられるものですが、ここでは状況が異なっていました。
    この独立宣言には、実態としてはアルメニアの保護国というものでした。アルメニアは西側に位置する国で、その先にナヒチェヴァン自治共和国があるため、かなり入り組んでいます。

     

    では、このナゴルノ・カラバフ戦争とは何だったのかというと、この地域をめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの戦争でした。
    もともとこの地域はアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台でした。双方には言い分があって、アルメニアは、古代アルメニア王国から続くアルメニア文化の中心地であると主張し、対するアゼルバイジャンは、アルメニア人よりも古くからカフカース・アルバニア王国を形成していたカラバフ一帯の先住者であると主張しています。
    そのような火種のある地域に、ソ連が進出し、アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国とアルメニア社会主義ソビエト共和国となりました。この際、ボリシェヴィキらが行った国境画定交渉により、ナゴルノ・カラバフはアルメニア側に帰属することになりました。しかし、これが、アゼルバイジャンの反発を生み、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆されてしまったのです。
    ただし、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられました。
    このような背景から、ゴルバチョフが書記長になり、ペレストロイカが進み、再び民族対立が深まっていきました。
    そして1988年のアスケラン事件、スムガイト事件、キロヴァバード事件が起こり、ナゴルノ・カラバフ全域で両民族が武装を開始するようになりました。

     

    現在は停戦状態で、未だ緊張が解けたとはいえません。
    つい最近では2016年に4日戦争もおきています。
    最古のワイン生産地域の近隣では、今でもこのような状態の場所があることを、ワイン好きな人はあまり知らないかもしれません。

  • ブラチスラヴァ(Bratislava)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブラチスラヴァ(Bratislava)について勝手に語ります。

     

     

    スロバキアは小さな国で、歴史的にはハンガリーとの関係が強い地域でした。そのためか、ハンガリー貴族の発祥地でもありました。
    しかし第一次世界大戦後の独立の際、チェコと合併したことから、共産党政権になりました。ようやく1993年にチェコスロバキアから分離独立することができました。
    スロバキアのワインもハンガリーとの関係が強く、ハンガリーの代表的なワインであるトカイワインもスロバキアで生産されています。
    そんなスロバキアの首都がブラチスラヴァ(Bratislava)です。

     

    ブラチスラヴァはドナウ川に面した都市で、ハンガリーとオーストリアの国境に接してるため市域内に三国国境があります。実はウィーンとは近く、近郊都市といってもよいほどです。
    人口は43万人程度なので、首都としても規模はそれほど大きくありません。ドナウ川とモラヴァ川の合流地点に近い小カルパチア山地の麓に相当するドナウ平原にあり、ドナウ川を挟んで両岸に都市は広がっています。
    ドナウ川は、西側のウィーン方面から南東方向へと流れ、西側にモラヴァ川があり、合流地点には「ジェヴィーン水門」(Devínska brána)があります。ここから先がドナウ平原です。
    東側では支流の小ドナウ川(Malý Dunaj)と別れ、支流と再び合流する間に「ジトニー島」(Žitný ostrov)というヨーロッパ最大の大中州地帯もあります。

     

    ブラチスラヴァは初めて文献に登場したときはポジョニという名でした。一時期ハンガリー王国の首都だった時代もあります。
    それはオスマン帝国の侵攻でブダが支配されたためでした。首都だった期間は1536年から1784年まででした。
    1809年になると、フランスによって占領されました。
    ただ、この頃から中部スロバキア方言をベースにしたスロバキア語の文語が完成しました。
    オーストリア・ハンガリー帝国解体によるチェコスロバキアを経て、1939年にはナチス・ドイツ傀儡政権ができ、スロバキア共和国の首都となりました。
    しかし、これは長く続かず1945年にソ連の赤軍が侵攻したことで、再びチェコスロバキアに戻りました。
    ビロード離婚により文字通りの独立に成功し、主権国家スロバキア共和国が誕生し、ブラチスラヴァは首都となりました。

     

    社会主義の時代にはウィーンと結ぶ鉄道が途絶えていましたが、新たにブラチスラヴァ・ペトルジャルカ鉄道駅 (Železničná stanica Bratislava-Petržalka)から発着するようになりました。
    そのため、現在では約1時間程度でウィーンへ行くことができるようになっています。 ブラチスラヴァ・ペトルジャルカ鉄道駅へは、街の中心部からトラムで15分ほどですから、二つの国の首都を同時に味わえることができます。

     

    ブラチスラヴァの旧市街を代表するものとえいば、ミハエル門かもしれませんん。
    門ですが、細くて高いので、塔のように見えます。かつてブラチスラヴァを守っていた要塞の1つです。現在は、門の中は中世の武器博物館になっています。
    ブラチスラヴァの要塞の門は13世紀からつくられてきて、街には全部で4つの門がありました。ミハエル門はその中の1つで、完成したのは14世紀で、現在まで残る雄一のものです。他の門は18世紀にオーストリアのマリア・テレジアによって壊されました。
    周囲は土産物屋やレストランなどで賑わっている場所なので、ブラチスラヴァ観光には拠点となる地域といえます。

     

    日本人にはマイナーな都市かもしれませんが、ウィーンとセットでぜひとも訪れて欲しい都市です。ただ、英語はあまり通じないかもしれません。

     

  • アーネム(Arnhem)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアーネム(Arnhem)について勝手に語ります。

     

     

    庭園都市や公園都市などと呼ばれるアーネム(Arnhem)は美しい街で、オランダ東部のヘルダーラント州(Gelderland)の州都です。
    このアーネムにはワイン博物館 Wijnmuseum (Wine Museum Arnhem)があります。ワインセラーの見学ツアーに参加すれば、見学だけでなく試飲もできます。
    オランダはワインベルトからすると、やや北に位置していて、気候が冷涼なため、ブドウ栽培には適していません。そのためワインの生産量は多いとは言えないものの、ワイン生産は古くから行われていました。現在、国内で約150のワイナリーがあるといわれています。

     

    アーネムが市として誕生したのは1233年で、1443年からハンザ同盟に加入しました。続いて1579年にはユトレヒト同盟に加入しました。
    現在は「ファッションの街」でもあり、ワイン博物館だけでなく、美術館も多く、そして、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園でも知られています。
    その中でクレラー・ミュラー美術館(Kröller Müller Museum)が特に有名です。収蔵品として、世界的に有名なフィンセント・ファン・ゴッホに関するコレクションで知られています。具体的には、『アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)』(1888年)、『夜のカフェテラス』(1888年)、『種まく人』(1888年)、『糸杉と星の見える道』(1890年)などで、絵画87点におよぶ規模はアムステルダムのゴッホ美術館とならび、2大ゴッホ美術館と称されています。
    ここは、1938年、実業家のアントン・クレラー・ミュラーと、その夫人ヘレン・クレラー・ミュラーのコレクションを基に開設されました。
    屋内だけでなく、屋外にも彫刻が展示され、そこは緑に囲まれた広大な敷地になっていて、日本の彫刻の森美術館が参考にしたといわれます。

     

    また、アーネムには「Arnhems Meisjes」があります。
    これは日本語にすると「アーネムの女の子」となり、オランダ伝統のクッキーです。イギリスの作家ロアルド・ダールが愛し、「世界一のクッキー」と称したクッキーです。
    パイ生地のように何層になっているクッキーで、独特の食感が新鮮であり、キャラメルのような香ばしいものです。

     

     

    実はこのアーネムですが、ドイツバイエルン州のニュルンベルク(Nürnberg)とアウトバーン3号線とオランダ国内の高速道路でつながっています。(カイザーブルクでワイン)とんでもなく遠いのですが、一気に走り抜けたい気もします。
    もっとも、そんな機会があれば、の話ですが。

     

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