今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ラ・モッラ(La Morra)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラ・モッラ(La Morra)について勝手に語ります。

     

     

    ラ・モッラ(La Morra)は、イタリア北部のピエモンテ州クーネオ県(Provincia di Cuneo)にあり、人口は約2,700人です。
    クーネオ県はピエモンテ州では南西部に位置していて、南はリグーリア州ですが、西はフランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 (PACA)になっています。イタリアの中では3番目に広い県です。
    ラ・モッラは、イタリアを代表する高級赤ワインであり「ワインの王様」と呼ばれるバローロ村(Barolo)の南側に位置し、丘陵の頂上近くに村があります。丘陵の裾野にブドウ畑があり、斜面に沿って広がっています。
    土壌はマンガンとマグネシウム、石灰質の含有量が多いようです。気候は温暖湿潤で、夏と冬の温度差が大きく、夏は雨が多いのが特徴です。

     

    ラ・モッラで生産されるブドウは、バローロワインの原料になるネッビオーロ種が中心になっています。
    バローロはDOCG(統制保証原産地呼称)に格付けされているため、バローロ村近辺の限定地域のみ生産されています。ラ・モッラはまさにその条件を満たした産地です。
    「バローロ5大産地」の中の一つに数えられ、他はセッラルンガ・ダルバやカスティリオーネ・ファッレットなどです。

     

    ラ・モッラは小さな村ですが、ワイン好きの人にはバローロの産地とし知られ、ワイン目当ての観光客が多いといえます。
    そのため、ワイン目当ての客に対応するためのワインバーやレストランもあります。村の規模からは考えられないほどです。もちろん、土産用のワインを販売しているワイン蔵も多くあります。
    バローロワインはかなり強い味なので、レストランでは肉料理を中心とした料理がメインです。

     

  • ヌーシャテル(Neuchâtel)・ノイエンブルク(Neuenburg )

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヌーシャテル(Neuchâtel)・ノイエンブルク(Neuenburg ) について勝手に語ります。

     

     

    スイス西部にあるヌーシャテル州はワイン産地として知られ、実は日本にもわずかですが輸出されています。
    州都はヌーシャテルでフランス語圏ですが、ドイツ語名ではノイエンブルク(Neuenburg )といいます。人口は3万4千人程度の小さな都市です。フランス国境に近く、ヌーシャテル湖の湖畔に位置しています。この湖岸でブドウが栽培され、伝統的にワインを醸造してきました。ベルンへは約40㎞の位置になります。

     

    ここはブルグント王国のルドルフ3世が居城を構えた場所です。
    ブルグント王国は、ローヌ川流域を領土としていて、現在のフランス、スイスにまたがっていました。このブログで以前にも述べていますが、「ブルグント」はフランス語で「ブルゴーニュ」です。
    14世紀半ばには、この地域もペストの感染拡大により大きな被害を受けました。人口が激減し、人口が回復するのは長い時間を要しました。
    1535年、カルヴァンのいとこオリヴェタンが、フランス語翻訳の聖書をこの地で発刊しました。

     

    フランスに隣接する場所だけあって、この地域は様々な支配を受けてきました。18世紀に本国からはるかに離れたプロイセンの飛び地にもなりました。もっとも、本国から距離が離れていたことが幸いして、プロイセンの支配力は強くなく、1815年からはスイス盟約者団にも加わりました。ただし、プロイセンの支配下であるのは変わりませんでした。
    プロイセン支配に反対する蜂起は、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命の影響によるものでした。これにより共和制へと移行しました。
    当然ながらプロイセン側は反発し、軍事介入へと進む勢いでした。ただこれはナポレオン3世が介入たことで、1857年にパリ条約が締結され、プロイセンとヌーシャテルの間で和解が成立しました。同時に、プロイセンの支配が終わりました。

     

    現在、日本で人気のヌーシャテルワインといえば、ブドウの品種は、シャスラ、ピノ・ノワール、ギャマレ、ピノ・グリ、シャルドネ、マスカットなどです。
    ウイユ・ドゥ・ペルドリ(ロゼワイン)、ピノ・ノワール(赤ワイン)、シャスラ(白ワイン)など、高品質なワインが生産されています。

     

  • 失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala) について勝手に語ります。

     

     

    紀元前2世紀まで、ワインで知られたコンジカラ (Konjikala) という町がありました。
    しかし、この地に大地震が起こり、ワインの町は廃墟となってしまいました。
    これがのちに新たな村となり、都市となり、そして現在のアシガバート(Aşgabat)となりました。トルクメニスタンの首都です、1919年から1927年の間はポルトラツク(Полторацк)という都市名でした。

     

    コンジカラは廃墟となり、失われた町でしたが、古代イランのパルティア王国(アルサケス朝)のミトラダテス1世によってニサが作られました。
    ニサはパルティアの初期の首都でした。旧ニサは城壁に囲まれた遺丘で、北部に王の宝物庫などがあったと推測されています。中央部には巨大建築物群の遺構が残っています。新ニサも城壁に囲まれた遺丘で、パルティアが滅亡した後も滅ぶことはありませんでした。最終的に廃れるようになったのは、13世紀にモンゴルの襲来で破壊されたことによりました。その後は小さな村のままでした。

     

    このパルティアですが、多様な異民族、異文化の地域を支配してきたことで、ペルシアやギリシアなど、当時の覇権的な役割だった地域の文化を取り入れていました。
    初期はセレウコス朝との対立関係がありましたが、セレウコス朝はローマによって滅ぼされたことで、パルティアとローマが西アジアを分けるほどの勢力となりました。こうなると、ローマとの衝突は避けられなくなりました。その戦いは一進一退を繰り返しました。
    西暦2世紀以降になると、メソポタミアやバビロニアにローマ軍が侵入することが多くなり、セレウキアとクテシフォンを占領されることがありました。さらにパルティア側では王位をめぐる内戦もおきたことから弱体化していきました。

     

    実はパルティアについては、未だ不明瞭な部分が多く、史料も圧倒的に乏しいといえます。
    しかもこの地では、後にイスラム世界となり、パルティアの歴史については記録も記憶もほとんど残らなくなってしまったのです。
    滅亡についても、ローマとの戦争により弱体化し、サーサーン朝の勃興によって滅亡しましたが、経緯については、よくわかっていません。パルティアの公式な歴史記録がないこともあり、他の国々の文書からはかり知ることが多いのです。

     

    さて、失われたワイン産地だったコンジカラですが、19世紀になるとロシアによってアシハバードという町が作られました。要塞も造られ、新しい街として発展が始まりました。1881年にはガージャール朝がアクハル条約でロシアに割譲したことで、ロシアはさらにこの町を開発していきました。
    20世紀になると、ロシアの赤軍によってアシハバートが掌握され、1918年にはイギリス軍と白軍の連合軍に奪われるものの、沿カスピ連合政府が設立されたことで内戦となりました。そして1919年に奪回したことで、町の名をポルトラツクとしました。
    ポルトラツクはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の主要都市となり、1925年にトルクメン・ソビエト社会主義共和国が誕生すると首都となりました。1927年にアシハバードの名になりました。

     

    1948年10月6日には、この地に大地震が派生しました。市の人口の3分の2が失われたようです。まさに、紀元前の時代にワインの町だったコンジカラが廃墟となったのと同じような規模だったのでしょう。
    そして、1991年、ソ連からの独立によりアシガバートという都市名になりました。

     

    【関連記事】
    謎の独裁国家トルクメニスタン

     

  • ワイン密輸事件

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワイン密輸事件について勝手に語ります。

     

     

    密輸というと、ワインのような合法的なものと結びつかない気がするかもしれませんが、実はワイン密輸事件は頻発しています。そもそも密輸とは、違法に輸出入することなので、輸入禁止の拳銃や麻薬などが代表的ですが、ワインの場合は関税や各種手続きから逃れるために違法に輸入することになります。
    そこでワイン密輸事件が多く発生しているのが中国となります。

     

    中国本土にワインを直接輸入する場合、加算されるのが、消費税・関税・付加価値税(VAT)などになります。ところが、中国でもで香港やマカオの場合は、ワインに関する全ての税金が撤廃されています。そのため、中国本土と香港・マカオの間では、税金等の関係で、50%程度の価格差が生じてしまったのです。
    この税制による価格差を利用した密輸事件が起こるようになったわけです。特に高級ワインであれば、税金等も高額になりますから、密輸するには最適なものとなりました。
    特に香港やマカオと接する広東省では日常的に密輸ワインが入ってくるようになり、人口1千万人を超える広東省の深圳市などでは、市場で流通する高級ワインのほとんどは密輸ワインではないかといわれるほどになりました。

     

    その結果、2017年6月12日には、中国の税関当局により密輸ワインの一斉摘発が実施されました。この摘発により29人の逮捕者が出て、押収されたワインは約4000本、総額にして230万人民元(約4000万円)となりました。
    2018年5月14日には、約2億人民元(約33億円)相当のワインを密輸したとして17人が逮捕されました。

     

    中国だけでなく、実はシンガポールにも密輸ワインの疑惑があります。
    東南アジアの物流のハブとして機能しているシンガポールですが、ワインの関税率はかなり高額です。1ℓ当たり約800円という税金になっています。当然ながら街中で販売されるワインは、関税にあわせて高額にあるはずですが、出回っているのワインにはかなり安価なものが多くあります。
    まともに輸入していたらあり得ない価格のワインは、マレーシアの闇ルートにより密輸されているのではないかといわれています。しかし、事実はわかりません。

     

    さすがに日本ではワインの密輸はないと思われます。
    そもそも日本の関税率は低く、2019年2月1日からはヨーロッパ産のワイン関税などは撤廃されています。密輸するメリットもありません。むしろ日本のワインの価格の場合、関税より運賃や資材のコストのほうが高いといえるでしょう。

     

  • 英雄都市ムルマンスク(Мурманск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はムルマンスク(Мурманск)について勝手に語ります。

     

     

    世界中がコロナ禍の現在、日本はこれから暑くなる季節を迎えます。
    ワイン需要は気温の上昇とともに下がりますが、冷やしたスパークリングワインなどは暑い季節でも人気です。そこで、梅雨から夏へと向かう季節にあうワインを飲みながら、寒い都市をご紹介しようと思います。
    ムルマンスク(Мурманск)です。

     

    人口31万人弱の都市ですが、北極圏最大の都市です。ロシア連邦でも最大規模の港湾都市であり、ソ連時代には「英雄都市」の称号が授与されていました。
    ロシアの首都モスクワから北へ約2000kmも離れた場所にあり、コラ半島の北岸に位置し、コラ湾を50kmほど南に入った沿岸部になります。モスクワより北欧のノルウェーやフィンランドとの国境のほうがはるかに近い位置です。
    ここはまた世界最北の不凍港の一つです。北大西洋海流が暖流のため、その影響から海が凍結することがないようです。従って、港湾都市であるとともに軍港としても重要な場所となっています。
    7月の平均気温は15度に達しない程なので、東京の11月の平均気温並みといえます。それでも1月の平均気温は氷点下8~13度なので、夏の気温から考えるほど寒くはないことになります。

     

    この都市の成り立ちや歴史は、やはり不凍港と関係します。
    1870年代にロシア帝国は北極圏に港町を建設する計画をし、アレクサンドル3世の時期になると、当時の名称だったムルマンまで鉄道を敷設し、大洋艦隊の基地を建設する構想が提案されました。これはバルト海の軍港の代わりとなることを意味していました。
    ところが、この構想を現実化せず、1894年に皇帝がニコライ2世になると、この案は却下され、バルト海艦隊の母港は現在のラトビアのリエパーヤに建設することになりました。
    20世紀になってから、ようやくムルマンスク港が創設されることになりました。当時、ロシア帝国内で最も新しくつくられた町であったことから、「ロマノフ・ナ・ムールマネ」と呼びました。しかし、半年後には二月革命が起こり、現在の名称であるムルマンスクに変更されました。

     

    英雄都市の称号については、1985年にソ連政府によって与えられたもので、祖国防衛戦争時の功績を讃えたものでした。ソ連政府発行の勲章の中では最高章となるレーニン勲章と金星記章も授与されました。
    それ以前の1971年には、労働赤旗勲章が贈られました。1982年には第一級祖国戦争勲章が贈られました。

     

    ロシアの都市は、日本人にはなじみのない場所が多いでしょうが、実は興味深いところが多くあります。特に19世紀以降につくられた都市は、歴史は浅いものの、帝国から革命、社会主義と冷戦、その崩壊と、劇的な時代を経ています。
    ありきたりな観光に飽きた上級者向けの観光地かもしれません。

     

  • キリストの血入門 11

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第11回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はアウグスティヌスのその後の影響について触れました。今回はキリスト教の歴史に戻ります。

     

    迫害が続いたキリスト教でしたが、西暦303年にはキリスト教を公認する国が現れました。アルメニア王国です。国王のティリダテス3世がキリスト教に改宗したことで、世界初のキリスト教公認国となったのです。
    さらに350年になると、現在のエチオピアにあったアクスム王国でも、キリスト教が国教となりました。
    では、この時代の覇権国であるローマ帝国ではどうなのかというと、313年に発布されたミラノ勅令(Edictum Mediolanense)により、信教の自由が保障され、キリスト教も他の宗教とともに公認されました。

     

    ミラノ勅令以前はキリスト教迫害の時代でしたが、この勅令の直前の311年に、ローマ皇帝ガレリウス(Gaius Valerius Maximianus Galerius)が弾圧をやめたことが大きな影響を与えました。
    ガレリウスは、303年の布告によりキリスト教徒の迫害を始めました。キリスト教の集会所が破壊されたりしたのです。ところが、311年になると、病気となり、リキニウスとコンスタンティヌスを加えた連盟で、迫害をやめるという布告を発したのでした。
    この布告を受け、コンスタンティヌス1世によりミラノ勅令が発布されたのでした。さらにユリアヌスは、この勅令を逆利用しました。キリスト教が他の宗教と横並びになったことから、キリスト教の優遇を排したのでした。
    これはユリアヌスが死去すると、すべて撤回されることになりました。これ以降、ローマ皇帝はキリスト教徒に特権を与え続けるようになりました。
    そしてついに380年、テオドシウス1世によりキリスト教はローマ帝国の国教とされたのでした。

     

    このミラノ勅令ですが、実在を疑問視する研究者もいます。
    また、ミラノという地名がついているものの、ミラノで勅令が発布されたとも限らないようです。あくまでミラノはコンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談場所であり、そこで発布されたという証拠がないのです。わかっている範囲では、このときの会談による合意内容をキニウスの親書として313年に初めて公開したのは、ミラノではなくニコメディアだったのです。

     

    さて、ローマ帝国の国教となったキリスト教ですが、392年になると、ローマ帝国唯一の国教にまでなりました。キリスト教を除く他の宗教と、キリスト教でも異端派について、信仰が禁止されました。
    これによって、迫害されてきたキリスト教が、帝国により保護される宗教という立場となり、大逆転となったのでした。
    この続きは次回で。

     

  • パルケント (Parkent)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はパルケント (Parkent)について勝手に語ります。

     

     

    過去にウズベキスタンは何度か取り上げたことがあります。
    タシュケント(Toshkent)
    世界遺産都市ブハラ(Buxoro)
    サマルカンドのワイナリー

     

    古代ローマの時代、シルクロードによってブドウ栽培が導入されたウズベキスタンは、現在はイスラム教の国になっていますが、飲酒を厳しく禁止されているわけではありません。ムスリムがさすがに公共の場では、堂々と飲酒することはないものの、比較的酒類は手に入りやすく、また、よく飲まれています。
    旧ソ連の時代には、ゴルバチョフ政権の反アルコールキャンペーンにより、国内のワイナリーは大打撃を受けましたが、現在はワイン産業が復活しています。ブドウの栽培面積も増加傾向で、ブドウ品種についても新種を扱ってみたり、ワイン醸造に関連する設備投資も行われ、活発化してきています。

     

    そこで今回は、以前に紹介したタシュケントにも程近いパルケント (Parkent)を取り上げます。
    タシュケント州(Toshkent viloyati)の都市で、織物産業、食品産業などが主要産業となっています。人口は4万人程度です。
    ここでは輸出用のヨーロッパ品種によるワインが多く生産されています。ただ輸出先の大部分を占めるのはロシア、中国、カザフスタンで、近隣の国々となっています。
    ヨーロッパ品種が中心なので、赤ワイン用品種では、ピノ・ノワール、カベルネ・ソーヴィニヨンなどで、白ワイン用品種では、リースリングなどが栽培されています。それでも固有品種のワインも生産されています。

     

    パルケントのワイナリーの中で、唯一「樽熟成」を行っているのは「Hamkor」です。
    ワイナリーを巡るツアーなどで訪れることもできるようで、試飲会もあるといいます。ここはウズベキスタンワイン特有の甘いものだけでなく、かなり高品質なワインも生産されているそうです。その分、大量生産には向いていないようで、生産本数は少なめといいます。

     

    バザールは中心部から少し東に位置するラバシュセンターの向かい側で行われます。大規模なものではなく、地元の市民向けのものです。
    ウズベキスタンのバザールらしく、食品から日用雑貨、文房具、衣料品、生花、電化製品、さらには建設用資材まで並べられています。
    素朴なバザールと輸出用のワインの組み合わせは、何ともおもしろいといえます。

     

     

  • スコーネ(Skåne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスコーネ(Skåne)について勝手に語ります。

     

     

    スコーネ(Skåne)と聞いても、おそらく多くの人が知らないのではないかと思います。
    ここはスウェーデン南部の地方で、中心都市はマルメ(Malmö)です。話されている言語はスコーネ語(skånska)ですが、これはスウェーデン語の方言のひとつだそうです。
    ただ、もともとはデンマーク領であったことから、言語はデンマークの影響を強く受けているようで、文化全般についても同様のようです。そのためか。スコーネでは、スウェーデン国旗ではなく、デンマーク国旗に似た旗を掲げる人も多いといいます。

     

    北方戦争の最中だった1658年に、ロスキレ条約は締結され、スコーネはデンマークからスウェーデンへ割譲されました。この際に、スコーネ住民の特権、古い法律と慣習の継続は保証されました。
    しかし、スコーネの分離独立主義者が活発化し、ゲリラ活動が行われるようになりました。そのため、不穏な危険地域にもなってしまいましたが、徐々にスウェーデンの同化政策を続け、18世紀には完全なスウェーデン領となりました。
    この地域こそが、ワインベルトの北限を超えるスウェーデンのワイン産地です。
    ブドウ栽培に適さないといわれた地域でしたから、ワイン生産の歴史は浅く、15年ほど前にブドウ栽培が始まったほどでした。それでも、現在ではブドウ農園は6万㎡に達しました。
    これは、スウェーデンの平均気温の上昇も関係しています。過去150年の間に世界平均の倍の速度で気温が上昇しているのです。冬の平均気温では2度近くまで上がりました。夏は北欧とは思えないほどの暑さを感じるようになりました。この温暖化によって、ワイン生産が産業として成り立つようになってっきたのです。

     

    スコーネ(Skåne)とデンマークの間には海がありますが、オーレスン・リンク(Öresund Bridge)が開通したことで、かつての割譲前以上に経済的繋がりが強くなりました。
    オーレスン・リンクとは、デンマークのアマー島 (Amager) とスカンディナヴィア半島のスウェーデンとの間にあるエーレスンド海峡が結ばれたものです。鉄道と道路を併用した橋に、海底トンネルまであります。デンマーク側のアマー島は、コペンハーゲンがあるシェラン島に隣接しているので、この橋の効果は絶大なものがありました。
    これにより北欧最大の広域都市圏の通路という役割を担うことになっているのです。

     

    ちなみにオーレスン・リンクは、日本の瀬戸大橋と姉妹橋提携となっています。

     

  • ドイツ・プレディカーツワイン生産者協会(VDP)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドイツ・プレディカーツワイン生産者協会(VDP)について勝手に語ります。

     

     

    ドイツでは、各地で若手のワイン生産者団体があります。特に再統一を果たした1990年代以降に、その数は増加しているようです。団体の規模は大小様々で、活動内容も様々、存続した年数を様々です。
    その中で、最も知名度があり、規模が大きな団体といえば、ドイツ・プレディカーツワイン生産者協会(VDP)といえるでしょう。歴史も100年を超えていて、現役の生産者団体としてはドイツ最古だそうです。13生産地域に約200醸造所の会員数が」あり、ドイツワインのイメージアップに貢献してきました。鷲とブドウの房のシンボルマークは、日本でも見かけることもあり、それはそのままドイツを代表する高品質ワインを意味しています。

     

    VDPの前身はVDNV(ドイツ・ナチュラルワイン競売者連盟 Verband Deutscher Naturweinversteigerer)で、1910年の発足でした。自然な味を追求した高品質なワイン生産をする組織で、二度の世界大戦を経ても存続してきました。
    戦後の1955年にドイツ最高級のワイン競売会を実施し、その後は徹底した品質管理を行ってきました。ブドウ品種、畑のコンディション、醸造設備なども調査し、高品質を維持するための管理を続けてきました。
    このように順調に発展して生きたVDNVでしたが、1967年に大きな転機が訪れました。
    別団体のDWV(ドイツワイン醸造連盟 Deutscher Weinbauverband)が「ナチュラルワイン」という概念の使用禁止を通達していきたのです。そのため、VDNVは最も訴求してきたものを表現できず、解散の危機に瀕することになったのです。
    しかし、最終的に1972年に名称を現在のVDPとし、組織変更で一新し、再出発することになったのです。

     

    そんなVDPですが、会員のブドウ畑はドイツ全体の約5%程度にすぎません。収量についてはわずかに3%程度です。それでもワイン売上高としては収量と比較すると2倍をはるかに超える約7.5%にまで相当します。それだけ高級で高品質なワインを生産していることがよくわかります。
    リースリングの比率が高く、ドイツではリースリングの栽培割合はブドウ畑に占める比率は23%ですが、VDPの会員では55%になります。当然ながらオーガニックワインの栽培面積もVDP会員の比率が高くなっています。

     

    フランスだけでなく、ドイツワインを好む日本人も多くいます。
    ぜひ、VDPについても知って頂きたいと思っています。

     

  • カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)について勝手に語ります。

     

     

    スペインのワインを代表するブドウ品種として、最も有名なのはテンプラニーニョといえるでしょう。これを、カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)ではティンタ・デル・パイースや、ティント・フィノや、ティンタ・デ・トロとも呼ばれることもあるそうです。
    テンプラニーニョはスペイン最高の赤ワイン用品種であり、スペイン国内では黒ブドウ品種としては最大の栽培面積を誇ります。繊細な味で、香りも良いのが特徴です。タンニンや酸度が豊かであり、長期熟成でも味わいのあるワインになります。

     

    カスティーリャ・イ・レオン州は、西側がポルトガルに隣接した地域で、自治州の法によると、州都が定められていません。それでも州都としての役割はバリャドリッド(Valladolid IPA)が担っています。
    中世には、レオン王国(Reino de León)の中心地でした。これはワインの生産にも大きな影響がありました。それは711年に西ゴート王国が滅亡した後、イスラム教徒の侵入により、支配されることになったからです。
    ワインをキリストの血とするキリスト教に対し、禁酒のイスラム教徒の支配では、ワイン生産が発展することはありません。
    そんな中で北部山岳地帯のキリスト教信徒たちがイスラム勢力の諸国に対抗していきました。そして722年には、西ゴート王国の貴族だったペラーヨによりイスラム軍を破りました。西ゴートのキリスト教儀式を採用しつつ、西ゴート王に連なる家系図を作らせたアストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるとしていきました。

     

    910年には、ガルシア1世が首都をレオンへ遷都し、レオン王国と呼ばれるようになりました。
    1037年にはカスティーリャ王国のフェルナンド1世がレオン王国の継承権を持ち、カスティーリャ王国に併合されました。
    19世紀にはレオン地方と旧カスティーリャ地方に分かれました。

     

    スペインの歴史は、イスラム勢力との対立もさることながら、とても分かりにくいといえます。その理由として、イベリア半島はそれぞれの歴史の流れの中で、多くの変容がありました。まさに試練ともいうべきもので、日本人にはなじみのない部分もあるせいか、直感的に理解できないといえます。
    そんな歴史を持つスペインのテンプラニーニョからつくられるワインは、それだけで貴重な気もします。

     

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