今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

ラヨシュ2世の私生児ヤーノシュ・ウォス

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
今回はスロバキアについて勝手に語ります。

 

 

スロバキア共和国(Slovenská republika)は、あまり日本人には馴染みがないかもしれませんが、首都のブラチスラヴァ(Bratislava・旧称:Preßburg)は、実はウィーンから近い距離にあり、ウィーンと同じようにドナウ川沿岸都市です。
さらに国境という点では、オーストリアだけでなくハンガリーとも接していて、チェコとも近い位置関係にあります。
このスロバキアにはワインというイメージはないかもしれませんが、実はハンガリーワインやフランスワインとの関係性が強くあります。

 

歴史をひも解くと、ハンガリー王国に支配されていた時代には、当然ながらハンガリーワインの影響を受けていました。
品質も同等の扱いであり、生産面でも統合されていました。
その一方で、フランスとは経済的な関係がありました。
それがヤーノシュ・ウォスがモハーチの戦い以降にワイン生産のためにブドウ園を継承したことに始まります。
このヤーノシュ・ウォスはハンガリー王とボヘミア王だったラヨシュ2世の私生児です。彼の家族の一部はのちにフランスに移住し、ワインの地域経済に参加したことで、フランスとの関係性もできたのです。

 

では、ラヨシュ2世が戦死したモハーチの戦いと何か?
世界史でも西欧の歴史を重視する教科書では、東欧のこの戦争はあまり馴染まないでしょうが、これはオスマン帝国との戦いです。戦場となったのがハンガリーのモハーチ平原だったため、このように呼ばれます。
もともとはアナトリアの小さな国だったものの、イスラム王朝として巨大化し、東ローマ帝国から東欧諸国、西アジア、北アフリカまでを征服していきました。まさに破竹の勢いで、新たな地中海世界の覇者となっていました。
モハーチの戦いは、スレイマン1世の時代で、ベオグラードからヨーロッパへの進出を進めました。

1526年にハンガリーへの進軍が開始され、このときのハンガリー側はラヨシュ2世ですが、若干20歳という若さでした。

このときに姻戚関係のあるハプスブルク家やボヘミアからも援軍が派遣されることとなりました。

 

若いラヨシュ2世は、しかし、致命的なミスをしてしまいます。

オスマン帝国軍がモハーチに到着すると、まだ援軍が到着していない段階で、ハンガリー軍は攻撃を開始してしまったのです。組織的な戦術を得意として地中海世界に君臨するオスマン帝国からすれば、ハンガリー軍の騎士など敵ではありませんでした。
ハンガリー軍は壊滅し、ラヨシュ2世も戦死しました。

 

この戦争により、ハンガリーは分割されることになり、オスマン帝国はハンガリー中央部を以降の150年間もの間、支配することになったのです。

まさにラヨシュ2世の未熟な戦いによって、この地域の歴史は大きく変わりました。

それでも私生児だったヤーノシュ・ウォスによって、ワインという面では発展したともいえます。

 

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