今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

コンスタンティノープル(Constantinopolis)陥落

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
今回はコンスタンティノープル(Constantinopolis)陥落について勝手に語ります。

 

 

ヨーロッパのワイン産地やワイン文化を歴史の面で語る場合、ヨーロッパの人を震撼させた巨大帝国の影が関係するケースが多々あります。モンゴル帝国の脅威も凄まじいものでしたが、長くは続きませんでした。もうひとつ、600年も続いた帝国により、常に脅威にさらされていたことがあります。それがオスマン帝国です。
史上最強国の一つに数えられる帝国です。最初はアナトリア地方のトルコ系の小さな集団にすぎなかったものが、北はウィーン、東はペルシャ湾、西はアフリカ北西部のアルジェリア、南はアラビア半島南部のイエメン、まさに怒涛の勢いで勢力を拡大していったのです。その領土は交易路の支配であり、それは国に富みをもたらすことに繋がり、軍隊も強靭化することになりました。
600年も続き、終えんは第一次世界大戦でした。

 

オスマン帝国を語るには、多くのページが必要になりますので、今回は、その中からコンスタンティノープル(Constantinopolis)陥落に焦点を当てたいと思います。
東西に分裂後、すぐに崩壊してしまった西ローマ帝国と違い、東ローマ帝国はその後も1,000年近く存続しました。その首都がコンスタンティノープルでした。都市として建設されたのは330年で、強固な城壁に守られた都市は、1453年の陥落まで難攻不落でした。しかも東西交易路の要衝であり、良港もあり、キリスト教では正教会の中心地でもありました。そのため、キリスト教圏最大の都市であり、「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれるほどの大都市だったのです。
しかし、11世紀後半に遊牧集団(トゥルクマーン)により建国されたセルジューク朝から攻撃を受けたことで、弱体化していきました。12世紀になって、何とか繁栄を取り戻しましたが、十字軍による侵攻にも悩まされるようになりました。実は1204年の第4回十字軍のときには、コンスタンティノープルは一度陥落しています。このときはすぐに取り戻したものの、国力は格段に弱くなり、コンスタンティノープルは荒廃していました。キリスト教圏最大の都市だった面影もなく、人口も7万人以下に減少し、さらに交易による富も、ヴェネツィアなどに集まるようになっていました。

 

そして14世紀からは、オスマン帝国軍による包囲です。
オスマン帝国の第7代スルタンのメフメト2世によるコンスタンティノープル包囲は、バヤズィト1世、ムラト2世に続く3度目でした。
和平交渉も形式的とはいえ行わていました。メフメト2世は降伏し、開城を呼びかけていましたが、コンスタンティノス11世は拒絶しました。その結果、最終的にメフメト2世は総攻撃を開始しました。1453年5月29日の未明のことでした。
そしてついにコンスタンティノポリスは陥落しました。皇帝のコンスタンティノス11世はオスマン軍に突撃し、行方不明となってしまいました。この時点で東ローマ帝国の滅亡となりました。
伝統あるローマ帝国は、古代より続いてきた系統が途絶えることになりました。時代も東ローマ帝国の滅亡により中世が終わってことを意味しました。

 

コンスタンティノープルはオスマン帝国の新しい首都となり、正教会の聖堂はモスクに改造されていきました。
その一方で、メフメト2世や、スレイマン1世などは、オスマン帝国のスルタンであるとともに、「ルーム・カイセリ」つまりローマ皇帝も名乗り、さらには1467年にはイヴァン3世によりローマ帝国の継承者、つまり「第3のローマ」だと宣言するに至りました。これは主に東ヨーロッパ諸国に対しての権威を示すことが目的だったといえます。この影響は歴代のロシア皇帝がローマ帝国の継承性を主張することにも繋がりました。

 

キリスト教にとって大切な「キリストの血」であるワインも、正教会の中心都市がイスラム勢力に陥落したことで、生産に変化をもたらしたといえるでしょう。しかし、現在のトルコはイスラム圏であるものの、飲酒に対する規制がありません。
イスラム教よりはるか昔からビールやラク、さらにワインの醸造も行っていましたので、その伝統はキリスト教徒が受け継いだのでした。

 

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