今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

キリストの血入門 23

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第23回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

 

 

前回はカトリックの異端審問でした。今回はカトリック教会の教皇権に関係した出来事を取り上げます。

 

カトリック教会の教皇権が最大の権威となっていた時代がありました。王権をも超越するものとなり、聖と俗を支配したインノケンティウス3世(Innocentius III)などは、その代表的な人物でした。第176代ローマ教皇で、教皇権全盛期時代を築き、政治までに介入したことで知られています。
彼はパリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学び、37歳で教皇に選出されました。1202年にアイユーブ朝でアル=アーディルが即位したことで、反撃の兆しが見えたことから第4回十字軍を提唱しました。しかし、この第4回十字軍はイスラム勢力ではなくキリスト教圏のザーラで、略奪を行なっていました。これに対してインノケンティウス3世教皇は激怒し、十字軍を全て破門しました。ただ、この十字軍は破門も関係なく、1204年に東ローマ帝国のコンスタンティノープルまで征服してしまいました。しかもラテン帝国まで建国してしまったのでした。
東西教会分裂後に、このような事態になったことから、インノケンティウス3世はラテン帝国を承認する立場となったのでした。
また、1208年には神聖ローマ皇帝フィリップの暗殺を行いました。これはバイエルン宮中伯オットー8世 と計って行いました。オットー4世に対しては、イタリア南部への勢力を拡大したことから1210年に破門し、自分が暗殺した前帝フィリップの甥のフリードリヒ2世を帝位に就けることで、オットー4世を廃帝に追い込んだのでした。
イングランドでは1209年に国王のジョンを破門し、フランスではフィリップ2世の離婚問題を理由に、フランスを聖務停止にしました。
このように西欧諸国に対して、教皇権が王権より優位である事を証明していったのでした。

 

一方で1210年には、フランチェスコと会見し、フランシスコ会を承認しました。
そして1215年、第4ラテラン公会議で「教皇は太陽。皇帝は月」と演説しました。

 

このように教皇権が王権より優位であるというのも、フランスやイングランドなどで王権が再び伸張してくると、教皇庁との対立構造に繋がりました。教会財産の所有権、聖職者裁判権、司教任命権など、教皇庁の権力と王権が争われるようになったのでした。
このときに枢機卿会は教皇の顧問団でありながら、出身国家の見方となり、混乱の末、教皇庁の権威が低下していくことになりました。その中でもフランスのフィリップ4世は枢機卿団によって教皇庁をコントロールすることに成功したのでした。これによりフランス出身の教皇クレメンス5世を出すことができました。
これが「アヴィニョン捕囚」へと進むのでした。

 

【参考ページ】
アヴィニョン(Avignon)

 

この「アヴィニョン捕囚」は、教皇庁のアヴィニョンにいる教皇と、ローマに残っていた枢機卿団による独自の教皇という、2人の「正統」教皇が現れる事態になったのでした。しかも、ピサの教会会議では、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇ヨハネス23世を選出したものの、2人の教皇が廃位を認めませんでした。そのため、教皇が同時に3人いるという異常事態にまでなってしまいました。
このような混乱は、完全に教皇の権威を低下させただけでなく、教会の至上決定権は、教皇ではなく公会議こそがを持つべきであるという公会議主義が誕生しました。その中心人物がジャン・ジェルソン(Jean Gerson)でした。彼の最大の業績は、教会大分裂(シスマ)を克服させたことでした。実は同時期に起きたブルゴーニュ公ジャンの指示により、オルレアン公ルイの暗殺事件がありましたが、これを合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対し、パリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとした動きがありました。このようなことから、公会議の有用性を主張し、コンスタンツ公会議が開かれたのでした。
最終的に会議は3人の教皇を廃位することになりました。これにより公会議の権威が教皇権に対して優越することになりました。これは神聖ローマ皇帝ジギスムントがジャン・ジェルソンの熱意に対応したものでしたが、実はこれも、フランス王が教会政治に強い影響力を持っていたことへのジギスムントの対抗心だったといわれます。

 

そして新たなマルティヌス5世教皇が選出されました。
これに付随して、教会の抜本的な改革を掲げ、教会改革の実施を宣言して閉会したのでした。ところが、コンスタンツ公会議で宣言した教会改革は、その後、行われることはありませんでした。公会議によって教会を変えていくという理想も失われていったのでした。
まさにこれこそが、のちの宗教改革、さらには悲惨な三十年戦争の伏線だったのでした。

 

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