今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

キリストの血入門 18

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第18回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

 

 

前回はフィリオクェ問題についてでした。今回は東西教会の分裂以降、イスラム勢力の台頭、その後の西ヨーロッパ独特の政治宗教体制についてです。キリスト教(聖)と政治権力(俗)が緊密な関係で統治を分かち合う特殊な関係が成立しました。

 

7世紀になると、イスラム教が急速に拡大してきました。アラビア半島で誕生した新しい勢力は、イスラム帝国へと発展していきました。
地理的に東方諸教会は大きな影響を受けました。イスラム帝国の勢いは早く、シリア、パレスチナ、エジプトが支配されるよになりました。実はこの地域こそ、キリスト教の単性論が主流で、東ローマ帝国の東方教会の正統派からは抑圧されていたのでした。そのため、皮肉なことに、イスラム帝国の侵攻は、東ローマからの解放者でもありました。そのため歓迎されたりもしたほどでした。
イスラム帝国側も、統治した地域のキリスト教徒に対して、一定の人権を保障しました。そのせいで、東ローマ帝国からは異端派として危険視されていた状態よりも、イスラム帝国のほうがむしろ安全な生活と信仰が保障されたのでした。

 

とはいえ、完全にイスラム教の影響下にあるわけで、全く差別がなかったわけではなく、改宗を迫られることもありました。そのせいか、この地域はイスラム化が徐々にではありますが進んでいったのでした。
そしてイスラム勢力によりエルサレムの陥落です。638年でした。ウマル1世はエルサレムを征服後、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言しました。その後にキリスト教徒からすれば屈辱的なウマル憲章を発布しました。
イスラム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われていて、キリスト教が聖像を使用していることに対しては猛烈な批判がありました。もともとキリスト教も偶像崇拝を否定する立場からの出発点だったこともあり、東ローマ帝国の一部の知識人は、これに大きく影響されました。これは8世紀の聖像破壊主義へと繋がり、さらには東方教会が偶像を否定しつつ、イコンを認めるような方向性にまで関係しました。
これにより、東ローマ皇帝が聖像破壊主義を支持し、ローマ教皇とは相いれないほどの疎遠さに繋がっていきました。ただし、第3コンスタンティノポリス公会議では、聖像崇敬が教義として確立されるようになり、聖像破壊論争は終結することになりました。

 

一方イスラム帝国は、東ローマ帝国の領土を飛び越え、西ヨーロッパにも侵攻していきました。アフリカ北部を経由してイベリア半島へと進んでいったのです。現在のスペイン国内を超え、さらにピレネー山脈まで越えていきました。
この西ヨーロッパに迫ったイスラム帝国を撃破したのが、フランク王国のカール・マルテルでした。この当時、すでにフランク王国は西ヨーロッパの覇権を握る勢いだったのです。
そして800年、ローマ教皇レオ3世は、カール・マルテルの孫・フランク王カール1世を「ローマ皇帝」として戴冠したのでした。その後、オットー1世の戴冠により、神聖ローマ帝国が成立しました。これにより政治的、軍事的な権力が、かつてのローマ帝国と同じように皇帝となり、キリスト教の権威の頂点にローマ教皇がいる、という聖俗が緊密な関係で統治を分かち合うスタイルが確立しました。これこそ西ヨーロッパ独特の政治宗教体制でした。

 

その反対で、東ローマ帝国では皇帝が聖俗両方の支配というスタイルとなり、キリスト教会は皇帝の統治下での国家宗教という位置づけでした。
西ヨーロッパのスタイルに比べて、東ローマ帝国は皇帝に権力が集中していたわけですが、キリスト教の教義については、皇帝でも絶対的な決定権があったわけではありませんでした。
神聖ローマ帝国は中央集権化された帝国ではなく、ある意味で名目上の皇帝にまで落ち、首都も定まらず、これが独特な歴史を辿ることになりました。

 

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