今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

キリストの血入門 13

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第13回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

 

 

前回はキリスト教神学の幅が広がり、エフェソス公会議でネストリウス派が異端とされた所まで述べました。今回はネストリウス派のその後についてです。

 

まず最初にネストリウス(Nestorius)ですが、コンスタンティノープル大主教には428年から431年まで在位していました。シリアのアンティオキア学派に属していました。
彼はアレクサンドリアの主教キュリロスと対立していました。それは、キュリロスたちの学派が神性に中心を置いたことで、キリストに対して非人格的な人間性以上の概念を認めなかったのに対し、ネストリウスはそこを批判していたからでした。
ネストリウスはイエスの母であるマリヤについて、「神の母」という表現を否定していました。当時の民間信仰レベルになっていた聖母マリヤ信仰に警告を与え、マリヤを「キリストの母」として、イエス・キリストの人間的な面の延長に置いたのでした。つまり、イエス・キリストの人間性と神性を分離し、二つの自立存在として並存することを説きました。
このことからキュリロス派と激しく対立し、431年のエフェソスで公会議で異端と宣告されたのでした。ネストリウスは主教職を罷免されてしまいました。

 

いわば追放されたことになったネストリウスはエジプトに移り、隠遁生活を送ることになり、451年に亡くなりました。
しかし、ネストリウスを支持する教徒は多く、ネストリウス派として各地で積極的な不況活動を展開していたのでした。

 

498年には、ネストリウス派はチグリス川東岸のクテシフォン(Ctesiphon)やチグリス河畔に位置するセレウキア(Seleucia)に新しい総主教を立てました。
ペルシア地域から東方へと活動の範囲を広げていきました。
中国が唐の太宗の時代、7世紀には、「景教」という名で伝来していました。ペルシア人司祭「阿羅本」によるものと伝えられています。景教の教会を大秦寺といいました。しかし、唐の末期になると、弾圧されてしまい、景教は消滅してしまいました。
それでも元の時代になると、モンゴル帝国の遊牧集団の中に景教徒がいたことから一時的に復活したものの、それも長続きせず、次第に衰えていきました。

 

実は日本にも伝来していたとする説は根強くあります。
高野山に景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカまで建立されています。高野山の開祖である空海も唐で景教を学んだとされているのです。
フランシスコ・ザビエルよりはるか前に日本に伝来していたというのは、その流れが仏教諸派に取り入れられた状況を意味し、本来なら全く新しい宗教であるはずのキリスト教が、かなり馴染みやすいものだったことにもつながります。さらに空海より時代を遡り、第45代天皇・聖武天皇の皇后だった光明皇后との関係も考えられます。

 

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