今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

アヴィニョン(Avignon)

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
今回はアヴィニョン(Avignon)について勝手に語ります。

 

 

フランスのローヌワインといえば、南北200kmにも及ぶ広大な産地のワインです。
フランスワインとしてはそれほど有名ともいえないかもしれませんが、フランスでは歴史的に最も古いもので、紀元前600年頃にはブドウが栽培されていたといわれている地域です。また、古代ローマの時代にはローマ文化とブドウ栽培の交易路だったといわれます。
アヴィニョン(Avignon)は、そんなローヌワインの地域の中にある都市です。
ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス(Gallia Narbōnēnsis)属州の都市でした。

 

ガリア・ナルボネンシスは西ローマ帝国が滅亡すると、アキテーヌ地方から西ゴート人が侵入してきました。その結果、東半分が西ゴート王国領となりました。アヴィニョンは5世紀には荒廃した状態でしたが、メロヴィング朝フランク王国の宮宰だったカール・マルテル(Karl Martell)が737年に完全に滅ばされることになりました。
これはアヴィニョンがカール・マルテルと敵対するアラブ人側についたことが原因といわれます。
ガリア・ナルボネンシスはフランク王国が支配することになり、ローヌ川が境界線となり、西が西フランク王国、東が中部フランク王国となりました。
アヴィニョンは「ブルゴーニュ」の由来となるブルグント王国(ブルゴーニュとブルグント王国)やアルル王国の支配を受け、12世紀末になって都市国家として独立を宣言しました。

 

しかし、都市国家としての独立は短命に終わり、プロヴァンス伯領、トゥールーズ伯領となっていきました。しかも、アルビ派(アルビジョア派・カタリ派・バタリニ派、ラングドック派)を支持したことで、1226年にはアルビジョア十字軍によって、フランス王ルイ8世の占領地域となってしまいました。このときに、市の城壁は破壊されました。

 

そしてアヴィニョンといえば、1309年から1377年までのアヴィニョン捕囚です。
1303年のアナーニ事件が発端でした。フランス王フィリップ4世とローマ教皇ボニファティウス8世が対立し、フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件です。教皇はこの事件直後に病死し、次の教皇はフランス王の言いなりとなる状況になったのです。
そして1308年に教皇庁がアヴィニョンに移されたのです。
このときのアヴィニョンはプロヴァンス伯領でした。
1310年から1313年は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアを侵略したこともあり、教皇はここに滞在せざるを得なかったという事情もありました。
古代のバビロン捕囚になぞらえ、アヴィニョン捕囚や教皇のバビロン捕囚とも呼ばれることになりました。
この時期にはフランス人枢機卿が新たに任命されるとともに、教皇も全てフランス人となりました。
当時のアヴィニョンは、教皇庁にふさわしいほどの都市基盤がなく、巨大な官僚機構を維持するだけの多くの住民が集まったことで、かなりの負担になったようです。
1377年になって、グレゴリウス11世がローマに戻り、7代にわたったアヴィニョン捕囚が終わりました。この期間はローマではなく、この小さな都市のアヴィニョンこそが現在のバチカンと同じ役割を担っていました。このときに建設された教皇庁宮殿、大司教館などが現在も残り、アヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録されています。

 

もうひとつ、アヴィニョンといえば、童謡「アヴィニョンの橋の上で」です。
15世紀頃に作られたフランス語の歌で、アヴィニョンのローヌ川に架かっていたサン・ベネゼ橋(Pont St. Bénézet)を題材にしています。
歌は橋の完成を祝ったものとされていて、有名なフレーズは「橋の上で輪になって踊ろう」です。しかし、実際には川岸で歌われていたようです。なぜかというと、実際の橋は道幅が狭いため、橋で輪になって踊れるほどの広さはなかったからです。しかも渡ることさえ危険なときもあるほどの、安全とは言い難い橋でした。橋から転落し命を落とした人もいるそうです。

 

そんな「アヴィニョンの橋の上で」でも聞きながら、ローヌワインを飲むというのも悪くありません。

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