今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

自由フランス(France libre)

プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
今回は自由フランス(France libre)について勝手に語ります。

 

 

ワインの産地フランスは、ヨーロッパという地域特性から、様々な戦争の歴史を繰り返してきました。
今回はその戦争の中から第二次大戦中の自由フランスにフォーカスしたいと思います。
自由フランスとは聞きなれないかもしれませんが、ドイツのフランス占領に反対して成立した組織のことです。パルチザン(Partisan)の一種といえます。
特徴的なのは、亡命フランス人による独自の自由フランス軍(Forces Françaises Libres)であった点です。
1940年にドイツ軍によるパリ陥落後、ロンドンに亡命した前国防次官シャルル・ド・ゴール将軍は、BBCを通じて歴史的な演説(en:Appeal of 18 June)を行いました。その内容が、国内外のフランス人に対独抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけるものでした。
さらにド・ゴールは「フランス国民委員会」(fr:Comité national français)を設置し、イギリス国内にいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言しました。
ウィンストン・チャーチルはこの委員会設置を支持し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人(Français libre)の主席」として承認したのです。

 

最初にダカール沖海戦に参加しましたが、これは失敗に終わりました。
それでもコンゴのブラザヴィルでは「海外領土防衛協議会」設置を宣言したことで、海外植民地の結集を図ることにしました。その結果、フランスの植民地の中で、赤道アフリカとカメルーン、ニューカレドニアとフランス領ポリネシアがこれに応じました。
また、イギリスと自由フランスはエクスポーター作戦(Operation Exporter)によりシリアへと侵攻しました。
独ソ戦開始後は、ソ連に外交攻勢を掛けることで関係を深めていきました。それにより、ソ連はド・ゴールを承認し、アメリカも自由フランスに対して武器援助を開始することに至ったのです。

 

単なるゲリラ的なパルチザンのレベルを大きく超え、自由フランスはフランス国外のフランス政府のような勢いを持つこととなりましたが、ド・ゴールは自由フランスの「独裁者」でもありました。
そのせいか、他国への要求も尊大な態度でのぞみ、連合国間での評判が悪化しました。
1942年7月21日からは「戦うフランス(フランス語: France combattante)」と改称されました。

 

1944年には、南米亡命者を中心とした義勇軍も自由フランス軍に参加したことで、兵力は40万人にまで達していました。
そのような状況から「フランス共和国臨時政府」に改組する布告をし、ド・ゴールが主席となりました。これをイギリスに承認を迫ったものの、チャーチルは不快感を抱くことになりました。それでもイギリス全体の基本政策としてはド・ゴールを支持し、臨時政府が正式に発足することとなりました。
この臨時政府承認については、ノルマンディー上陸作戦の際、チャーチル、アイゼンハワー、ド・ゴールの会談でも行われたほどでした。
結局、ノルマンディー上陸作戦には自由フランス第2機甲師団が参加することとなりました。

 

パリの解放に至ったとき、ド・ゴールもパリに入り、臨時政府も正式にパリに移りました。
これにより、ようやくフランス国内でフランス政府としての活動を行うこととなり、連合国も正式なフランス政府として臨時政府を承認することとなりました。

 

フランスでは、ド・ゴールの名前をいくつかの施設などに命名していますが、おそらくその代表格はパリのシャルル・ド・ゴール空港でしょう。
ただ、彼が怒涛の勢いでつくりあげた自由フランスについては、あまり関心を持つ人も多くないでしょう。秋の夜長、ワインでも飲みながらフランスの歴史を学ぶのも良いかもしれません。

 

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