今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ゴリシュカ・ブルダ(Goriška Brda)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はゴリシュカ・ブルダ(Goriška Brda)について勝手に語ります。

     

     

    スロベニアの首都リュブリャナから車で約1時間半、距離にして119㎞の位置にゴリシュカ・ブルダ(Goriška Brda)があります。
    「ブルダ」とは、イタリア語の「コリオ(Colio)」のことで、丘という意味です。文字通り丘が連なる地域です。丘の斜面はなだらかで日当たりが良く、地元の人はスロベニアのトスカーナだと表現したりします。まさにそんな趣きがある地域です。
    その丘ではブドウが栽培され、スロベニア国内有数のワインの生産地となっています。ブルダ地方独特のものとしては「オレンジワイン」が有名です。
    この「オレンジワイン」は、オレンジでできたものではなく、原材料は白ブドウです。通常の白ワインと違い、後皮などを取り除かず、皮も一緒にアルコール発酵させたものです。その結果、オレンジの色がつき、オレンジワインはすべて辛口になります。

     

    ゴリシュカ・ブルダにはワイナリーが点在していますが、地域の中心部分に位置する村はワインとは別に注目したいいところです。
    シュマルトゥノ村といい、城壁で囲まれたいかにもヨーロッパらしい村です。監視塔も5つあり、要塞になっています。それもそのはずで、この村は古代ローマ時代の要塞だった場所につくられた村で、かつては城壁の周囲は掘だったようです。
    中心部には聖マーチン教会があり、バロック様式の荘厳な姿を誇っています。ここから細い通路が伸び、そこに沿って家々が並んでいます。
    この地域は歴史的にハプスブルグ家とベネチアの争いの最前線となった場所で、ベネチア戦争に勝利したハプスブルク家により国境の防衛線になったことで、周囲の村も城塞化したことになります。
    ゴリシュカ・ブルダの要塞が堅牢だったのは、16世紀にトルコ軍の侵略の際にも重要な役割を果たしました。
    この村の中にあるレストランは2軒で、イタリアとの国境が近いせいか、イタリア風の料理もあるといいます。秋にはワイン祭りもあり、高品質なワインが気軽に飲める村といえそうです。

     

    さて、ゴリシュカ・ブルダのあるスロベニアですが、ハプスブルク家の所領となって以降も激動の時代が繰り返されました。オーストリア大公国、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国領となったのち、ナポレオンの侵攻によりフランスの支配地にもなりました。ウィーン会議により再びオーストリア領となりますが、第一次世界大戦によってオーストリア・ハンガリー帝国が解体されると、南スラヴ人連合王国構想に参加して、セルビア・クロアチア・スロベニア王国となり、ユーゴスラビア王国に改称しました。

    その後にナチス・ドイツの占領下に置かれ、ムッソリーニのイタリア、北東部ではハンガリー、さらにクロアチアの独立による統治地区ができて、スロベニア人は4つの国によって分断されました。

    ユーゴスラビアに復帰したときには社会主義体制になっていて、1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ったことを契機として、ユーゴスラビアの連邦解消とスロベニアの独立を宣言へと向かいました。1991年でした。

    独立に伴う戦争もありましたが、現在はEU加盟国となっています。

     

    ゴリシュカ・ブルダに行く場合には首都のリュブリャナからではなく、イタリア側から向かう方法もあります。
    時代に翻弄されながらもワインの品質を保ってきた貴重な地域ですから、ぜひ関心を寄せて頂きたい場所です。

     

  • 北マケドニア共和国(Република Северна Македонија)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は北マケドニア共和国(Република Северна Македонија)について勝手に語ります。

     

     

    北マケドニア共和国という国は馴染みがないかもしれませんが、神奈川県茅ヶ崎市では東京オリンピック2020大会で北マケドニア共和国のホストタウンになったことから、「北マケドニアフェア」を開催しています。
    このイベントでは、北マケドニアのワインや伝統料理などが味わえるそうです。

     

    では、この国はどんな国でしょうか?
    独立当初は「北」がついていませんでしたが、なぜ北マケドニアとなったのでしょうか?

     

    旧ユーゴスラビア連邦を構成する国の1つで、バルカン半島にありながら海とは接しない内陸国です。隣接する国は南にギリシャ、東がブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアとコソボになります。
    もともとこの周辺地域は歴史的に「マケドニア」と呼ばれていたエリアで、現在の北マケドニアは文字通り北、正確には北西部になります。もともとのマケドニアのエリアから見れば半分以下になります。
    マケドニアといえば古代にアレクサンドロス大王を出したマケドニア王国が有名ですが、古代王国との直接的な連続性はないといわれています。
    古代マケドニア王国の領土だった地域はギリシアにあり、ギリシアからすると古代マケドニアはギリシャだという論法になります。あながち暴論ともいえず、マケドニアと呼ばれる地域は、ギリシア国内からブルガリアやアルバニアにまで及ぶ範囲で、その中でギリシャ領が圧倒的に広い地域を占めています。

     

    そのため、ギリシアからすればマケドニア共和国が「マケドニア」と名乗ることに反発し、それだけでなく、マケドニア共和国の国号を改めるよう要求したりしていました。
    マケドニア共和国としては、ギリシア領土内のマケドニアのエリアには領土的関心もなく、領土問題にすることもないとしています。そのうえで国名を自国で決める権利を主張しています。
    それでもギリシアはマケドニア独立時から経済制裁を課しました。ギリシアは内政干渉ともいえる憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えました。マケドニアの国際的な暫定呼称を変え、国旗の改正まで求め、その結果、北マケドニアは譲歩し、憲法改正まで行いました。
    結局、ギリシアの経済制裁解除は1995年に行われました。
    そして2018年にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意が成立しました。

     

    そしてマケドニアといえば、マザーテレサ(Mother Teresa)を忘れてはいけません。
    ご存知の方も多いと思いますが、カトリック教会の聖人です。
    インドのコルカタ(当時のカルカッタ)で貧しい人々を救ったことから、マケドニアのイメージは皆無かもしれませんが、実はマケドニアの人なのです。さらに正確にいえば、マケドニア生まれのアルバニア人となります。アルバニア人はマケドニアでは少数民族で、全人口の2割程度しかいません。
    本名はアルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)です。
    彼女の父親は地元の名士だったといいます。成功した実業家であり、なおかつアルバニア独立運動の闘士でもありました。裕福な家庭であり、両親は敬虔なキリスト教徒で、貧しい人への施しを積極的に行っていたといいます。しかし、父親は45歳で急死してしまいました。一説には毒殺ともいわれています。
    マザー・テレサは、インドで「神の愛の宣教者会」を設立し、「死を待つ人々の家」というホスピスを開設したりして、1979年にはノーベル平和賞を受賞しました。
    スコピエにはマザー・テレサ記念館があり、彼女の生い立ちや慈善活動の歴史を知ることができます。コルカタにはマザー・テレサ・ハウスがありますが、北マケドニアの記念館は、彼女の生まれ故郷ですので、合わせて訪れるのも良いかもしれません。

     

    最後にマケドニアのハンバーガーについて言及します。
    これは実際に目にしていないので、又聞きの話ではありますが、マケドニアのハンバーガーは、フライドポテトが挟まっているといいます。日本だけでなく世界的に見てもハンバーガーとポテトは別々にあり、一緒になったセットが一般的です。しかしマケドニアでは一緒にすることでポテトのセットはないといいます。
    マクドナルドではどうしているのでしょうか? 残念ながらその情報は聞いていません。

     

  • ワインの醸造方法

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワインの醸造方法について勝手に語ります。

     

     

    極めて基本的なこととして、ワインの醸造方法を改めて語ろうと思います。
    ただし、ワイン販売店の店長ですが、実際にワインを醸造したことはありません。密造酒は法的に禁止されています。念の為。

     

    まず、ワインにはブドウが必要です。
    収穫したブドウを品種や品質などで選別します。これを発酵させます。
    発酵とは、生物の細胞がエネルギーを得るための行為である代謝のひとつですが、この場合はアルコール発酵 (ethanol fermentation)を伴います。
    ワインの場合はブドウに含まれる糖の発酵によってアルコールが作られます。酸素は必要でなく、嫌気的反応というものです。

     

    発酵の段階で赤ワインと白ワインでは製造法に違いが出ます。
    赤ワインは品種が赤ブドウや黒ブドウなどが使われ、ブドウの皮の成分と共に発酵させます。白ワインはブドウの皮を除去して発酵させます。
    ロゼの場合は黒に近いブドウの皮に接触させることで、独特なピンク色を付けます。
    一次発酵が終わると、果汁をタンクに送り、液の中に残る皮を圧搾して残りの果汁とワインを抽出します。
    新しい環境に置かれたワインの糖分は、アルコールと二酸化炭素に変化していきます。

     

    スパークリングワインなどの場合には、二次的発酵が行われます。これはボトルの中で自然に行われます。閉じ込められていた二酸化炭素が融けることで泡が発生してくるのです。

     

    ワインには防腐剤がつきものといえます。最も使用されているのは二酸化硫黄(SO2)です。他には、ソルビン酸カリウム、ナトリウム、ピロ亜硫酸カリウムなどがあります。
    防腐剤を使わない天然ワインの場合には冷凍状態での保存となります。

     

    ワイン醸造については、ワイン学と呼ばれる学問まであります。それだけで奥深いことなのです。
    仮に学問として学ばなくても、またソムリエ試験を受けなくても、ワイン好きなら興味を持っていい分野なのは間違いないでしょう。

     

  • 史上最強のモンゴル帝国

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はモンゴル帝国について勝手に語ります。

     

     

    以前にモンゴルのアイラグ(クミス)について勝手に語ったことがありました。

     

    モンゴルの「赤と白」

     

    そのモンゴルの歴史を語る上で、有史以来、もっとも広い領域を支配した国の一つだった時代は外せません。それがモンゴル帝国です。
    実際には広大な領土となると、植民地を多く持ち、「太陽の沈まぬ帝国」といわれた大英帝国や、ユーラシア大陸にまたがり多くの衛星国で囲んだソビエト連邦、欧州を圧倒させたナポレオンのフランス、アラブから、中央アジア、西アジア、北アフリカまでを押さえたアッバース朝など、単に領土面積ではなく、別の基準で世界帝国となった国々は多くあります。
    しかし、 圧倒的な強さで、しかも短期間に一大帝国を築き上げたダイナミックな国といえばモンゴル帝国に叶うものはないでしょう。
    チンギス・カンというたった一人の男により、アレクサンダー大王の侵略面積の4倍、ローマ帝国と比較しても2倍という広大な地域を征服したのです。

     

    モンゴル帝国はヨーロッパにも侵攻していました。
    ワールシュタットの戦い(Schlacht bei Wahlstatt)などです。これは1241年にモンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍と、ポーランド・ドイツ連合軍が激突した戦いです。

    この戦いはヨーロッパの人々にとっては悲劇的敗戦でしたが、モンゴル軍にとっては単なる局地戦の勝利に過ぎませんでした。それだけモンゴル軍は強く、ヨーロッパにとっては他に類を見ないほどの恐怖に包まれ、その絶望感は心理的後遺症にまでなったといわれるほどでした。
    モンゴル軍はウィーンまで征服するつもりだったようですが、このとき第2代皇帝オゴデイが急死したことで遠征軍は帰国することになりました。ヨーロッパは蹂躙の悲劇を土壇場で奇跡的に免れたことになりました。
    この無敵のモンゴル軍の戦法は、相手が混乱に陥るまで敵と接触しないというものでした。ワールシュタットの戦いでも、城に立てこもっていたヨーロッパ軍に対しては、わざと弱い軍と戦わせ、負けたと見せて退却しています。
    ヨーロッパの軍は見事に騙されます。モンゴル軍に対して騎士団が追撃していきます。
    そこをモンゴル軍が待ち構えていて、圧倒的な量の矢を騎士団に浴びせました。さらに煙幕をたくことで、後続の騎士団と分断し、最前線の騎士団は混乱のなかで矢の攻撃を受け、さらに、そこへモンゴル軍の重装歩兵が加わり、徹底的な殺戮に至るのでした。

     

    戦う前にすでに勝負を決めていたのです。
    これが負け知らずのモンゴル戦術で、その圧倒的な強さに対してヨーロッパの騎士たちがトラウマになるのも頷ける話です。
    また、戦いに使っていた弓はコンポジット・ボウとよばれるもので、合成弓でした。小型のもので、木に動物の腱や皮を張っていて、軽量で携帯性に優れているだけでなく、発射距離も長く、また小型にも関わらすかなり強力だったといいます。
    モンゴル軍が使う馬も、小さく短足な馬でしたが、持久力が抜群で、長距離移動に適していたといわれます。しかもひとりが数頭の馬を持つことで、馬の疲労にあわせて乗り換えるようにしていました。まるでガソリンの切れたクルマから燃料タンクが一杯になったクルマに乗り換えるような感じで、移動スピードを維持していたようです。
    そのため、1日の移動距離は約70kmに及んだといいます。当時の平均的な軍隊と比べると、その距離は軽く2~3倍になっていました。

     

    戦力や戦術とは別に、モンゴル軍のもう一つの側面は残虐非道なことといえます。
    モンゴル軍が侵略する過程で、逆らってきた都市については徹底的に破壊していきます。その都市の住民も情け容赦なく虐殺していくのです。
    さらに、生き残った住民は次の侵略地に向けて最前列に立たせて連れていきました。次の侵略地に着くと、その人達を殺害し、その死体で城の堀を埋め尽くします。その死体の山が堀の橋の役割となり、モンゴル軍はその上を渡って侵攻したともいいます。
    「ワールシュタットの戦い」でも10万人以上のヨーロッパ兵を殺害したといわれます。

     

    歴史に「if」は禁句といえますが、もしモンゴル軍がそのままヨーロッパを攻め続けていたらどうなっていたでしょうか?
    ウィーンからバイエルン、さらにはフランスへと侵攻していたら、ワイン生産にも影響が出ていたことでしょう。考えるだけで恐ろしい話です。

     

  • ブダペスト紀行 2(Kálvin tér )

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行2回目です。
    リスト・フェレンツ国際空港からカールヴィン広場(Kálvin tér)までやって来ました。

     

     

    不本意にも地下鉄3号線に乗車することになり、カールヴィン広場駅(Kálvin tér)まで移動することにしました。
    ブダペストの中心地であり、広場というより交差点の場所です。地下鉄だけでなく、トラム、バス、トロリーバスが通る場所のため、交通の要衝ともいえます。
    かつて、ここには巨大な改革派教会があったことから、ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)の名前に由来している場所です。
    カルヴァンといえば、マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並ぶ宗教改革初期の指導者で、キリスト教のプロテスタント諸派に大きな影響を与えた人物です。
    地下鉄から地上に出た先に、暗闇の中に浮かぶカルヴァン像が見えました。

     

    宿泊したホテルはそこから中央市場方面に少し歩いた先にありました。
    ホテルなのに入り口はロックされていて、インターフォンを押さなければならないのは面倒でしたが、セキュリティの面では良いのかもしれません。フロントの人は英語もドイツ語も堪能でした。
    夜の10時近いチェックインで、とにかく空腹だったため、すぐにホテルに荷物を置いて出かけました。カールヴィン広場に戻り、周囲のレストランに顔を出しましたが、10時に閉店だと、どこも口を揃えて言います。英語やドイツ語だけでなく、ハンガリー語でしか言わない人もいましたが、時計をさして話すので、おそらくそういうことと理解します。
    仕方がないので、周囲で唯一10時以降も営業していたトルコ料理の店に入りました。イスラム教の人の経営なのでアルコール類がありません。ハンガリーに来たのにワインもビールも飲めず、見たことのないトルコ料理を食べることになりました。

     

    空腹が満たされたので、ドナウ川方面へと歩いていきました。
    街の中心部らしく、閉店している店舗は多いものの、人通りはそれなりにありました。ベルリンと違って、怪しそうな人の数は見かけません。ベルリンよりスリが多いと聞いていましたが、街を歩いている感じでは治安は悪い気がしませんでした。
    途中で日本で言うコンビニのような終夜営業の店を見つけ、酒類を販売していることを確認したので、帰りに買っていこうと思いました。

     

    中央市場を過ぎた先がドナウ川です。リバティブリッジがあります。
    橋まで行って周囲を見回すと、ヨーロッパ随一、というより「世界一夜景の美しい都」といわれる所以がよく分かりました。
    ドナウ川沿いにあるブダ王宮(Budavári Palota)を初め、「くさり橋」や「国会議事堂」などが美しくライトアップされ、そのような施設を除くとライティングされないため、そのコントラストが街の陰影を与え、光りの引き算による夜景の美を演出しているのです。
    「ドナウの真珠」と称されるブダペストは、確かに夜に「真珠」が輝いていました。

     

     

    ドイツでここまで夜景を演出した都市を知らなかったので、これは初めての体験でした。
    ネオンに彩られた街と違い、どこか神秘的な雰囲気を持つ都市のパワーは、確かに魅了されます。
    ブダペスト初訪問の夜はこの雰囲気の中に入ることだけで十分に充実していた気がします。

     

     

    夜景を堪能した後はビールを購入し、ホテルで静かに飲んで寝ました。
    明日はブダ王宮に行く予定です。

     

  • ブダペスト紀行 1(Budapest Liszt Ferenc nemzetközi repülőtér )

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    昨年に訪れた欧州の中でハンガリーのブダペスト紀行を開始します。
    ベルリンからLCCでブダペストへ向かいました。

     

     

    ベルリンの大混雑したテーゲル空港では、LCCの発着はメインの場所から少し歩いた先にあります。その通路も大混雑でした。都市の規模と空港の規模のバランスがとれていない影響で、あまり好きになれない空港です。
    もっともブランデンブルク国際空港が開港すれば、このテーゲル空港は閉鎖される予定ではあるので、次に空路でベルリンに来る場合は縁がなくなっているとは思いますが。

     

    ブダペストまでの移動はイージージェット(easyJet)を利用しました。イギリスのルートンに本社を置くLCCの航空会社です。 鉄道より安く、しかも早く、しかもボーディングパスも発券しないのが素晴らしいといえます。スマホだけでチェックインできるので、まるで日本の鉄道の改札のようです。
    このイージージェットはヨーロッパでは破格の格安運賃で知られる航空会社で、一体どんな航空機を使っているかと思いましたが、よく見るエアバスで、何も不自由なく移動できました。

     

    ブダペストに到着する空港はリスト・フェレンツ国際空港(Budapest Liszt Ferenc nemzetközi repülőtér)です。
    空港の名称になっているリスト・フェレンツ(フランツ・リスト)が2011年3月に生誕200周年を記念して名称変更されたました。
    決して規模の大きな空港ではありません。2012年にターミナル1が閉鎖されたことで、すべての航空会社がターミナル2を利用することになりました。
    ターミナル2は2Aと2Bに分かれています。シェンゲン協定国(シェンゲン協定)から入国する飛行機はターミナル2A、非シェンゲン協定国からはターミナル2Bになります。AとB、どちらのターミナルも、出発ロビーは2階と3階・到着ロビーは1階になっています。

     

    ハンガリーの通貨はフォリントなので、少しだけ両替しました。
    市内中心部に向かうためにはバスを利用することにしました。LCCで入国してタクシーを使う気にはなりません。
    案内所で市内までのバスチケットを購入したものの、どのバスに乗ればよいのかよく分かりません。喫煙所の先にスーツケースを手にした人々が並ぶバス停があり、しかもこのバス停専門の係員までいることから、おそらくここだろうと思い、そこに並びました。何とも適当な判断です。「100E」という路線番号でした。
    しかし行列は長く、バスは超満員、とても乗れたものではありません。次のバスにしよう、と思い、1本見送ることにしました。すると、おや? 超満員のバスのすぐ後ろにもバスが停まり、ここも旅行者らしい人々が乗り込んでいます。ほぼ同じバス停で、後方のバスはそれほど混んでいません。
    こちらに乗ろう、と瞬時に判断して移動しました。

     

     

    発車してからこのバスの路線番号が「200E」であることに気づき、もしかして失敗したかな、と思いましたが、まあ、それは仕方ありません。
    案の定、Kobanya-Kispest駅が終点で、中心部に行くためには地下鉄3号線に乗り換えが必要でした。Google mapのおかげで、バス停から地下鉄の入り口まで何とかいくことができました。夜も更けてきたので、いきなり夜間に知らない街の探訪となりました。
    東欧らしく街中では英語は通じず、ドイツ語も片言レベルしか通じないため、身振り手振りで会話するしかありません。久しぶりに言語がほとんど通じない世界に来たことに感激しつつ、地下鉄で移動しました。

     

    次回に続きます。

     

  • コソボ共和国(Republika e Kosovës)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコソボ共和国(Republika e Kosovës)について勝手に語ります。

     

     

    コソボはバルカン半島中部の内陸部に位置する国家ですが、独立を承認しているのは国連加盟193ヶ国の中で110ヶ国で、85カ国は承認を拒否しています。
    日本は承認していて、他にはアメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどです。拒否しているのは、隣のセルビアをはじめ、ロシア、中国、インド、インドネシア、南アフリカなどで、ヨーロッパではスペイン、キプロス、ギリシャ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、ジョージアなどです。南米ではブラジル、アルゼンチン、チリなどです。
    小さな国で面積はわずかに1万887平方キロメートルしかありません。人口も約180万人だけで、首都のプリシュティナ(Prishtina) の都市圏が50万人になります。

     

    あまり知られていませんが、コソボはブドウの産地でもあります。
    日本にほとんど輸入されていないことから、想像できないかもしれませんが、ワインの質はかなり高いレベルです。おそらく日本では一部のワイン通の人に知られている程度かもしれません。
    アナドリニ地方でプリシュティナの近郊にあるラホベッツ(Rahovec)には、バルカン半島最大の規模のワイナリーがあります。ストーンキャッスルという醸造所で、地下貯蔵庫には5,000万リットルものワインが貯蔵されているといわれます。ワイン生産量も年間70,000トンに及ぶといいます。
    ここには事前予約不要な売店もあって、ワインだけでなくブランデーなどもが驚くほど安価で買えます。
    他にはない個性的な味を誇る高品質なワインと評判なので、ぜひ味わってみたいと思っています。

     

     

    コソボの民族構成はアルバニア人が92%と最も多く、セルビア人は4%です。ただ公用語はアルバニア語とセルビア語で、ヨーロッパの国でありながらイスラム教信者の多い国になっています。それはアルバニア人の大半がイスラム教を信仰をしているからです。もちろん少数ですが、カトリックやセルビア正教の信者もいます。
    日本では詳細な情報の少ない国でもあり、ヨーロッパ旅行にコソボを組み入れる人もほとんどいないでしょう。それでもワイン通ならぜひとも訪れたい国です。

     

  • ヨーロッパ最後の独裁国家

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヨーロッパ最後の独裁国家について勝手に語ります。

     

     

    ヨーロッパ最後の独裁国家は、アルコール消費量世界最大の国でもあります。
    以前に取り上げたことがあります。

     

    アルコール消費量1位の国

     

    その国は、ルカシェンコ大統領による独裁国家として知られるベラルーシです。
    そして、今でもウラジーミル・レーニンの銅像が首都ミンスクの中心部に堂々と立っています。ネザレージナスチ大通り沿いにある独立広場の奥にあります。しかも、この通りには、旧ソ連国家保安委員会(KGB)まであります。
    レーニンの像といえば、旧ソ連のシンボルであり、旧ソ連の全領土内には約1万4,000程度あったといわれますが、現在は捨てられたり、放置されたりしています。
    それなのにミンスクでは現在でも現役で立っているというのは、何ともいえない光景かもしれません。

     

    ベラルーシの住民はベラルーシ人が8割以上で、ロシア人は1割以下です。
    それにも関わらず、言語は家庭内では70%の人々が使用し、ベラルーシ語は23%になっています。ただ、53.2%の人が、母語についてはベラルーシ語としています。何とも不思議な国です。
    歴史的にポーランドとロシア・ソ連との関係が深く、現在の体制はソ連崩壊によって独立が承認されたことによります。ただ、独立後に行われた大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指す公約によりアレクサンドル・ルカシェンコが当選しました。
    ルカシェンコ大統領はロシアのエリツィン大統領との間で、政治・経済・軍事などの統合を目指すロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約に調印しました。ところが、ロシアの大統領がエリツィンからプーチンに変わると、ロシアがベラルーシを事実上の吸収合併するような発言を繰り返すようになりました。
    これにルカシェンコ大統領は反発し、メドヴェージェフ大統領の時代になってもロシアとの関係改善にはなりませんでした。

     

    ロシアの大統領は再びプーチンとなり、さらなるロシアの圧力が強まり、ルカシェンコは協議には応じるものの、ロシアに対して強気の発言を繰り返していました。
    国内的にはルカシェンコ大統領とその派閥を除くと政権担当の力がなく、ロシアとは敵対しつつも連携し、中国・イラン・ベネズエラなど反米的要素の強い国々との外交で、経済援助を獲得したりしています。
    まさに独裁体制が維持されている状態です。

     

    日本人に馴染みの薄いベラルーシですが、ここの出身者として、絵画の世界では日本人にも人気の高いマルク・シャガール(Marc Chagall)がいます。
    ミンスクから北東に車で4時間ほど走った先にあるヴィーツェプスク(Ві́цебск)という都市が彼の故郷です。
    この街は帝政ロシア時代、ユダヤ人コミュニティであるシュテットル(shtetl)が発達したことで、都市の人口の半分は保守系ユダヤ人となっていました。シュテットルとは小都市を意味し、ドイツ語では「Städtchen」に相当します。
    ヴィーツェプスクは第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けた都市ですが、シャガールの生家は奇跡的に残ったことで、現在は美術館として一般開放されています。また近くにはシャガール・アートセンターが1992年から開館しています。なんと、このセンターは開館時にシャガールの収蔵作品が皆無だったといいます。それが今では世界中から寄贈された約300点が収蔵作品としてあるといいます。

     

    そんなベラルーシがアルコール消費量1位の国というのは、歴史的な背景とは別に理由がありそうです。
    ソ連の雰囲気を最も残す国が、アルコール消費を最もしている因果関係は興味深い気がします。

     

  • ニトラ(Nitra)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニトラ(Nitra)について勝手に語ります。

     

     

    ニトラ (Nitra) はスロヴァキアにあるニトラ河畔の都市です。ドイツ語ではノイトラ (Neutra) といいます。
    首都のブラチスラヴァは約70km西に向かった場所にあります。
    スロヴァキア第4の都市ですが、人口はわずかに84,000人程度です。

     

    スロヴァキア自体が小さな国ですが、ブドウ栽培については歴史があり、高品質なワインを生産しています。ワイン産地は6つあり、ニトラを中心とする地方もその中に含まれています。

     

    ニトラは日本人には馴染みのない街ですが、現在のスロヴァキア領域では最初にキリスト教会がつくられた都市です。
    9世紀初頭にはニトラ公国の中心地となりました。しかし、建国後まもなくモラヴィア王国に併合されてしまいました。モラヴィア王国はスラヴ人の王国です。
    フランク王国の領土と接していたモラヴィア王国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国家となりました。ザルツブルク大司教座の布教が行われ、パッサウの司教がモラヴィアの教会を管轄することになり、フランク王国に服属する関係となりました。

     

    ニトラでは11世紀からハンガリー王国の支配下に入り、17世紀後半にオスマン帝国領となりました。
    第一次世界大戦後はチェコスロヴァキア領となり、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離したことで、スロヴァキア領となりました。

     

    現代のニトラでは、工業団地に企業を誘致しています。
    日本語に対応している工業流通団地もあるそうです。
    この都市の観光名所としてはニトラ城です。城は高台にあるので街のどこからでもだいたい見えます。
    城の手前には聖ペテロとパウロ教会(Kostol svätého Petra a Pavla)があります。オスマン帝国が侵攻してきた際、被害を受けたかもしれません。
    ニトラ城が最初に文献に現れるのは871年のことです。丘の上にある城ですから、いかにも守備に適した城といえます。
    城から街を見下ろしながら、スロヴァキアのワインを味わうのは格別かもしれません。
    ただ、この都市は英語は通じないそうです。ドイツ語はかなり通じるといわれます。

     

  • ワイン・ラーオ(wine lao)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワイン・ラーオ(wine lao)について勝手に語ります。

     

     

    ラオス人民民主共和国は、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟10カ国の中で唯一の内陸国です。海のない国で、面積は日本の約63%相当の広さがありますが、約70%は高原や山岳地帯になっています。
    ラオス人民革命党による一党独裁制による社会主義共和制国家です。
    おそらくワインのイメージはないでしょうが、フランスの植民地だった歴史があるため、国内にワインは普通に流通しているようです。首都のヴィエンチャンにはワイン専門店まであります。
    ただ一般国民が日常的に飲むというより、植民地時代からの流れで宗主だったフランス人や一部の富裕層のためかもしれません。酒類の中では贅沢品として扱われているようです。

     

    ラオスの歴史はナンチャオ王国(南詔国)から始まるといわれます。
    ナンチャオ王国は、中国南西部で現在の雲南省にあった国です。この国の領土が広がり、支配地域が現在のラオスにまで南下してきました。
    そしてナンチャオ王国が滅亡すると、1353年に統一王朝が誕生しました。これが、ラーンサーン王国です。
    「百万頭の象の王国」という意味を持つ国で、支配地域は現在のラオス領土を網羅していました。
    山地タイ人の「ムアン(国家)」の一つで、ラーオ族による統一王朝です。ラーオ族の古来から受け継がれた制度と上座部仏教を統合した王権思想に基づく統治で、建国はファー・グム王でした。

     

    最盛期はスリニャ・ウォンサー王の時代で、上座部仏教による文化や文芸が花開いていました。
    しかし18世紀になると、ヴィエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の3国に分裂してしまいます。さらにシエンクアーン王国を加えた4つの国で、対立や抗争を繰り返すことになりました。この結果、分裂したすべての国が疲弊し、1779年に3つの国がタイのトンブリー王朝の宗主下に入ることになり、ラーンサーン王家の独立は終焉を迎えました。
    ただ厳密にはヴィエンチャン王国とルアンパバーン王国は王朝としては存続していて、20世紀になって独立する際には、ルアンパバーンの王がラオス王国の国王として即位しました。

     

    タイの支配下から抜け出したのはフランスの力を借りたことによります。1893年の仏泰戦争により、ラオスはフランスの保護国となり、フランス領インドシナに編入されました。
    このフランス領インドシナが解体されたのは、日本軍の進駐によるものでした。日本は1945年に独立宣言をすることに協力しました。
    しかし第二次大戦が終結すると、フランスは仏領インドシナ連邦を復活させようとしました。これが1946年の第一次インドシナ戦争に結びつきました。そして1949年には、ラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上の独立となりました。
    完全独立は1953年になってからで、フランス・ラオス条約によるものでした。

     

    完全独立は必ずしも平穏な時代をもたらしてくれませんでした。
    右派、中立派、左派という三つ巴のラオス内戦が勃発し、しかも長期化したのです。
    さらに隣国のベトナム戦争にも巻き込まれました。
    ラオスは北ベトナム(ベトナム民主共和国)の補給路(ホーチミンルート)に使われていたのです。
    ベトナム戦争は1973年にアメリカが撤退し、翌年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立しました。
    ここからまたベトナム戦争の影響が大きくなります。1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが陥落したことで、社会主義体制の優勢によりラオスの連合政府が王政の廃止を宣言したのです。
    これによってラオスは社会主義国となりました。
    東西冷戦という背景と地理的に中ソ対立という国際情勢とその環境下で、ラオス人民民主共和国もベトナムとソ連の影響下になりました。

     

    フランスが支配し、日本により独立、再度のフランス支配、そして完全独立後の内戦という歴史のあとに、ベトナムとソ連の影響下による社会主義国というラオス。
    そんな激しい時代の波に翻弄された国のワインは、どんな味がするのでしょうか。機会があれば一度味わってみたいと思います。

     

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