今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ヴァナゾル(Vanadzor)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァナゾル(Vanadzor)について勝手に語ります。

     

     

    アルメニア共和国は、トルコの東、イランの北西にあり、南コーカサスに位置する内陸の小さな国です。ジョージアと並んで世界最古のワイン生産地といわれています。
    以前にこの国の首都であるエレバンについては取り上げたことがあります。

     

    現存する世界最古の都市・エレバン

     

    ワインの歴史が古いのは、6100年前の醸造所跡が発見されたことでも知られていますが、同様にキリスト教を国教に定めたという点でも最古の歴史を誇ります。
    そのアルメニア第三の規模を誇る都市がヴァナゾル(Vanadzor)です。
    エレバンからは北に128kmほど離れた位置にあります。標高は1425mと高く、さらに都市の周囲にはバズム山地やパンバク山地などの標高2500m級の山々に囲まれています。

     

    この都市の歴史は古いのですが、最初にここが集落となった時代のことは分かっていません。ただ、青銅器時代の遺物が発掘されていることから、その時代までは遡れるのかもしれません。
    紀元前190年から紀元前66年まで続いていたアルメニア王国の末期の時代にはグガルク地方の町として記録されています。
    第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア帝国領となりましたが、ヴァナゾルは1801年にはロシア帝国領になっていたことで、対ペルシャのロシア防衛軍の前線となっていました。
    その結果、ロシア・ペルシャ戦争の最中だった1826年には都市が破壊されつくされてしまいました。

     

    19世紀後半には、オスマン帝国支配下のアルメニア人とトルコ人民族主義者との対立が激化する時代になりましたが、ヴァナゾルでは1899年にトビリシへの鉄道が開通したことで、交通の要衝となりました。
    第一次世界大戦中にはトルコ陸軍の侵略を阻止することができました。
    そのためか、エレバンからヴァナゾルへ移り住んだ人も多く、他の移民も多くなったといわれています。

     

    また、ヴァナゾルはアルメニア使徒教会のグガルク教区の拠点になっています。
    アルメニア使徒教会キリスト教の非カルケドン派の教会で、この名称の由来は使徒がアルメニアにキリスト教を伝えたという伝承によります。
    この伝承に登場する使徒とは、タダイとバルトロマイの二人ですが、実際に記録が残っているわけではないようです。実際、新約聖書ではタダイに関する記述は少なく、ほとんどが伝承によるものです。バルトロマイについても同様で、福音書の弟子として登場するだけで、他には記述されていません。

     

    ワインの歴史から見れば、アルメニアはジョージアと並んで大切な国となるでしょうが、日本人には馴染みがないといえます。
    だからこそ、あまり知られていない都市を垣間見るのは、これからも続けていきたいと思っています。

     

  • ブダペスト紀行 8(Budapest)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行8回目で、最終回です。

     

     

    今回のブダペスト滞在は1日と少ししかなく、十分に堪能できるほどの余裕はありませんでした。
    ベルリンから慌ただしく移動したこともあり、あまり予備知識もないままの滞在でしたが、王宮の丘や聖イシュトヴァーン大聖堂など、ブダペストの定番観光地だけは巡ることができました。
    ワインのブログに投稿するのなら、ハンガリーらしくトカイワインなどを取り上げたりするのが良いのでしょうが、残念ながらトカイワインを味わう機会はありませんでした。

     

    今回、ほとんど取り上げなかった場所に中央市場があります。
    ここは、観光客向けの市場という印象を持つものの、それでも昔ながらのローカルな市場の雰囲気も残っています。海外の市場では、その国の本当の姿が垣間見えることが多いのですが、ここもまさにそうでした。
    日本でいう1階部分は、まさに市場らしい活気がありました。魚、肉などの定番の店舗が並び、階段を上がったフロアでは、民芸品などが売られていたり、フードコートもありました。
    物価的に安いという印象はあまりありませんでしたが、結構楽しく市場内を散策できました。

     

    街中では英語もドイツ語も通じない場面はありました。
    地下鉄のチケットで誤って打刻した際には、その誤りの理由がわからず、職員と話し込んだものの、全く何を言っているのか分かりませんでした。仕方なく、こちらは日本語を使うことになり、ますます分からなくなりました。
    もう少し滞在すればハンガリー語も少しは覚えようかという気になったかもしれませんが、この期間ではドイツ語が通じなければ諦めて日本語を使い、ますますわからなくなって混乱するという次第です。

     

    今回の旅では、ごく数時間だけポーランドにも滞在しましたが、その際には、ポーランド語は必要なく、ドイツと同じようにドイツ語が通じる場所にしか行きませんでした。
    ハンガリーのブダペストでもホテルではドイツ語が通じるものの、街中ではあまり通じませんでした。他のホテル宿泊者は意外にもイタリア人が多く、次にフランス人でした。彼らはホテルの人とは英語で会話していたようです。ちなみにアジア系は我々だけで、他にはいませんでした。これは市内の観光地でも同じような傾向があった気がします。ドイツ系の人は少なく、イタリア系の人が多い印象でした。中国人は時々見かけましたが、訪日中国人より少ない感じがしました。日本人は誰とも会いませんでした。
    このように日本人と離れた場所で、日本語もドイツ語も通じないというのは、旧ソ連やイタリアに旅行して以来になるので、自分にとってはあまりに懐かしく感じました。大学時代にシベリア鉄道でヨーロッパへ行ったとにきに会話が満足に成立しないという感覚です。それでも何とかなるという結果こそ、癖になりそうです。
    また、機会があれば、言葉の通じない国へ行ってみよう、と思いました。

     

  • ミクロフ(Mikulov)・ニコルスブルク(Nikolsburg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミクロフ(Mikulov)について勝手に語ります。

     

     

    ウィーン北部のフロリッツドルフ(Floridsdorf)から国道7号線を北上していくと、ツォルアムト=ドラーゼンホーフェン(Zollamt-Drasenhofen) でブリュンナー通りとなり、さらに国境を超えるとチェコのミクロフ(Mikulov)に入ります。ドイツ語ではニコルスブルク(Nikolsburg)です。
    チェコといえばビールですが(ビール大国のワイン)、この国境の地域であるモラヴィア地方は、「モラヴィアワイン」として国際的なワインコンペティションで他の欧州各国のワインと賞を競い合っているレベルの品質を誇ります。
    ミクロフはそのモラヴィアワインの中心的な生産地なのです。
    ただし、モラヴィアワインは生産量が少ないため、輸出用のものは少なく、ほとんどを周辺地域や国内で消費されています。日本でも滅多に見かけないと思います。

     

    街の中心部にはミクロフ城が聳えています。
    バロック様式の重厚な印象を持つ城で、城の内部には博物館や、ディートリヒシュタイン家の絵画コレクションなどが展示されています。
    さらに、城の地下にワインセラーがあります。かなりの規模で、巨大なワイン樽が展示されています。この樽は4~5メートルもの直径があります。それもそのはずで、チェコ最大の樽であり、ヨーロッパ全体でも巨大なことで知られるものです。
    ビール大国のチェコでもここだけは、ビールよりワインが日常的に飲まれているといわれるだけあって、街中にはワインの飲める店もたくさんあります。

     

    歴史的な出来事では、ニコルスブルク仮条約(Vorfrieden von Nikolsburg)が結ばれた街です。
    これは1866年7月26日に結ばれた普墺戦争の仮講和条約で、普墺戦争開始早々にプロイセン軍は優勢で、逆にオーストリアは敗勢濃厚となっていたのを、ナポレオン3世が休戦交渉を提案したものです。
    勢いのあるプロイセンとしては、ウィーン陥落まで主張する人も多かったものの、ビスマルクはこの休戦提案を受け入れました。
    その休戦交渉がここミクロフで行われ、仮講和条約が成立したわけです。

     

    また、ミクロフではかつて、大規模なユダヤ人コミュニティがありました。
    モラヴィア地方のユダヤ人中心地だったのです。現在でもわずかに一つだけシナゴーグが残っています。
    17世紀に建てられたもので、現在は博物館となってます。ユダヤ教らしいステンドグラスの装飾などはそのまま残されています。
    この地域では第二次世界大戦のナチスによる迫害を受けたこともあり、壊滅的な打撃を受け、当時のユダヤ人社会はありません。

     

    街中からは、あらゆる場所で目にするのが「聖なる丘」と呼ばれる小さな丘です。
    標高はわずかに363メートルなので、登山をするほどではないので、登ってみるのがおすすめです。眺望はが良いので、小さなミクロフの町並みを一望できます。赤い屋根が並ぶ町並みが魅力的です。
    頂上には聖セバスチャン礼拝堂もあります。1600年代に建てられ礼拝堂ですが、現在は夏だけ中に入れます。白い礼拝堂で、かなりきれいではありますが、以前は廃墟だったといいます。

     

    第二次大戦後、この地域はドイツ系の人々が追放されましたが、物価がオーストリアより安いことから、ドイツ語圏の人向けのショッピングモールも郊外にあります。そこでは普通のドイツ語が話されています。

     

  • エトルリア(Etruria)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエトルリア(Etruria)について勝手に語ります。

     

     

    イタリアといえば世界最大のワイン生産量ということで、以前にピサの斜塔やドゥオモ広場を取り上げたことがありました。そこで個人的にも思い出のあるフィレンツェを話題にしようと思いましたが、せっかくなのでエトルリアにまで遡ろうと思いました。

     

    ピサのドゥオモ広場

     

    フィレンツェといえばトスカーナ州ですが、ここはエトルリア文明の地でした。
    のちに強大な帝国となったローマがまだまだ小さな都市国家だった時代、具体的には紀元前8世紀から3世紀頃、イタリアはここが中心部であり、それがエトルリア人の高度な文明による連邦都市国家でした。統一国家ではなかったものの、各都市国家は宗教や言語などが共通で、12都市連盟というゆるやかな連合体でした。
    最盛期は紀元前750〜500年頃で、北はポー平原、南はナポリの先まで広がっていました。そのため、ローマはエトルリア文明の一都市でしかなかったわけです。
    ヘロドトスは、エトルリア人は小アジアのリュディアからこの地にやってきたといっていましたが、ハリカルナッソスのディオニュシオスはイタリア古来の民族だとしています。しかし、現在でもエトルリア人の出自については判明していなく、インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用することから、謎の民族ともいえます。
    ただ古代地中海世界の複数の地域でその存在が記録されていることから、一説ではエトルリア人は古代エジプト第20王朝の記録にある「海の民」だともいわれます。

     

    古くからエトルリア人は高度な文字を持っていたといわれます。
    ただし、文献として残っていません。これも一説には、のちのローマがエトルリアを吸収した際に、エトルリアの文字を意図的に隠滅したともいわれます。インド・ヨーロッパ語族に属さないことは、わずかに残された石碑や墳墓に刻まれた文字からわかったことです。ちなみにエトルリア語はアルファベットで記述されていることから、文字を読むことだけはできるものの、意味については全部が解読されていません。このアルファベットは、エトルリアの商人がギリシア人との交易からマスターしたもののようです。
    紀元前4世紀になると、ローマの勢力が強くなり、少しずつイタリアの諸都市はローマに併合されていきました。最終的にローマに同化し、共和制ローマ以前の王政ローマの時代では、7人の王のうち3人はエトルリア人でした。
    ローマはエトルリア人の都市を破壊して支配地域にしたわけではなく、同化というかたちで支配下に収めたことから、エトルリア人はその後も子孫が繋いでいたといえます。

     

    では、エトルリアの国家統治はどのようなものだったのでしょうか?
    一言で表現すれば神権政治だったといえます。政治権力を持つ者が支配者層としての権威を持ち、部族や氏族の組織の上部に位置します。支配者層のいわゆる政府こそが、非支配者層の生死を決めるだけの権限を持ち、この権威による都市国家が連携しています。
    都市国家の連携は共通の信仰を持っていることになり、宗教的には多神教でした。
    この多神教は、現実世界の目に見える現象はすべて神の力の顕現だというものです。神にもランクがあり、上位の神が下位の神々へと細分化していき、最終的に人間へと作用を及ぼすというものです。

     

    また、プラトンを始めとするギリシャ思想家やローマの著述家たちなどは、エトルリア人に対して侮辱的な表現もしていました。
    それは、エトルリア人の習慣として、妻を共有することがあるからです。従ってエトルリア人の子供は、父親が誰であるかを知らず、母親は産まれたすべての子供に分け隔てなく接して育てます。
    飲酒パーティーがあり、男性はそこで様々な女性と関係を持ち、その行為について、誰も文句をいいません。
    その一方で、エトルリア社会は一夫一婦制です。

     

    本当に謎の多い文明で、どこまでが真実だったのか、歴史の闇もまだまだ解明されていない部分も多くあります。
    イタリアワインでも飲んで、静かにエトルリアを思い浮かべるのはどうでしょうか。

     

  • ワラキア(Valahia)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワラキア(Valahia)について勝手に語ります。

     

     

    ルーマニアはヨーロッパ有数のワイン生産地ですが、そのワイン生産地の中でワラキア(Valahia)は赤ワインが多いので知られています。
    ルーマニアの南東部でブルガリアとの国境に近いムンテニアでは、甘口の赤ワインの生産地となっていましたが、これはソ連の影響でのことで、現在は必ずしも甘口だけではないといいます。
    このムンテニアはワラキアの東部に位置し、西部はオルテニアです。間にオルト川が流れ、ムンテニアの南と東はドナウ川、北はトランシルヴァニアのアルプス山脈があります。

     

    また、ワラキアはルーマニアの首都ブカレストがある地域であり、かつてはワラキア公国でした。
    ワラキアとは「ヴラフ人(Vlach)の国」という意味で、ヴラフ人は複数のラテン系の民族を指します。言語は、東ロマンス諸語(Eastern Romance languages)で、古ルーマニア語(Proto-Romanian language)から分化したものです。さらに、スラヴ人、ギリシャ人、アルバニア人、クマン人などの周辺の民族と混交していきました。

     

    古代の世界では、ヨーロパらしく、ローマ帝国との関係が大きいといえます。
    地理的に西ローマではなく東ローマの影響が大きかったといえます。
    ワラキアが国として成立したのは、バサラブ1世が豪族をまとめたことによります。彼は1330年のポサダの戦いに勝利したことでワラキア公国の独立が達成されました。
    しかし、この地域はオスマン帝国の脅威が訪れます。
    さらに大トルコ戦争が終盤になると、ハプスブルク帝国の標的となったり、ロシアの影響が出てきたりすることになっていきます。

     

    オスマン帝国の宗主下に置かれていた時代が長かったものの、ワラキアとモルダヴィアの連合公国からルーマニア公国へと発展し、1877年5月にオスマン帝国宗主権下からの独立が宣言されました。

     

    ワラキアはヨーロッパでは珍しく、奴隷制度が長期間に渡って存在していました。
    奴隷になっていたのはロマ人でした。現在でも、ルーマニアでのロマ人に対する差別は根深いようで、結婚や就職だけでなく、学校や転居地域などでも影響が残っているといいます。
    この奴隷制度は19世紀半ばまでの約600年間にも及んだことから、その影響が続いているのではといわれています。一説では1800年代の法典にロマを「生まれながらの奴隷」と規定していたとされ、ロマ人は都市の周辺部に居住させられ、閉鎖的な社会となっていました。しかしこの法典については、ロマ支援組織が差別の根拠として捏造したものという説もあります。
    ルーマニア政府はこれらの差別的状況について、「国内にロマはいない」と否定し、従って差別問題は存在しないという見解を出しています。ロマ差別は架空の話としているのです。
    そのため、国内だけでなく国外からもロマ対策についての要求があっても、全く反応することはありません。
    そのため21世紀になっても、ロマ人問題はルーマニアで尾を引いているのです。

     

    赤ワイン産地のワラキアには、ロマ人の問題が残っています。
    そこまで考えながら今宵もワインを飲みます。

     

  • 世界言語で「ワイン」は?

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界言語について勝手に語ります。

     

     

    日本語の「ワイン」は当然ながら外来語で、本場のフランスでは「vin」、イタリア語では「vino」、スペイン語では「Vino」になります。
    これらはかなり近い印象を持つ単語ですが、英語の「wine」とは大分印象が異なります。英語に近いのはドイツ語の「Wein」といえるでしょう。しかし、ドイツ語の「Wein」は男性名詞で「der Wein」、英語は名詞に性がないのでそのままになります。ちなみにオランダ語では「wijn」です。
    赤ワイン、白ワインは、それぞれ色をあらわす語がつくわけですが、フランス語、イタリア語、スペイン語は「ワイン」の後ろにつきます。具体的には、赤ワインをフランス語では「vin rouge」、イタリア語では「vino rosso」、スペイン語では「vino rosé」になります。英語とドイツ語は前につきます。「red wine」と「Rotwein」です。
    中国語も前です。「红葡萄酒」

     

    では、そもそも世界で最も使われている言語とは何でしょうか?
    実はこれ、単純な話ではなくて、母国語として使われているだけでなく、第二言語として日常でも使われる言語もあるからです。日本人は第二外国語を大学で学習しても、全く役に立っていないでしょうが、世界に目を向けると、かなり事情が違います。例えば植民地を支配した国が、現地の人に公用語として押し付けた例もあります。そのため大英帝国の植民地から派生した国々は英語が第二言語となり、第一言語では中国語よりはるかに少ない英語が、合算すると中国語に迫る人数になったりします。
    また、植民地という理由だけでなく、言語習得をして自由に使っている人々も多くいます。特にヨーロッパでは複数言語を自在に使う文化もありますから、これらも加味しないと世界言語としては不適当といえるかもしれません。

     

    そこでネットで色々と調べてみると、「These are the most powerful languages in the world」というページをみつけました。
    これは結構おもしろくて、単に言語を使う人数という視点だけでなく、複数の視点から言語をランキングしたものです。具体的には、旅行先でどの程度の範囲で言語が通じるか、その言語圏でのGDPや総輸出額、コミュニケーション力、その言語での情報量やアカデミック論文など、国際関係での外交的な力などをまとめた視点です。

     

    それによると、言語圏人口では中国語が世界最多ですが、この順位では2位に後退し、1位は英語になっています。以下、フランス語、スペイン語と続き、5位にアラビア語、6位がロシア語で、7位にドイツ語となっています。日本語は次の8位です。9位がポルトガル語、10位がヒンドゥー語です。

     

    この順位を見ると、日本語はトップ10に入っていますから、英語が話せないコンプレックスなど、どうでも良い気にもなります。ただ、そのコンプレックスがないと英会話スクールが成り立たないですし、「国際的」=「英語」という幻想で商売している市場も巨大なので、それはそれ、ということでしょうか。
    ところで、この順位には登場しませんが話者の数としては3億人弱を誇る言語があります。
    それがベンガル語です。
    バングラデシュと隣接するインドの西ベンガル州や、その周辺地域で話されている言語ですが、とにかくこの地域は人口が多いため、総数でもベスト10に入ってもおかしくないのです。
    ヒンドゥー語の話者も5億人弱と多いですから、インド周辺地域の言語と13億人以上の中国語をあわせると、それだけで世界言語の大部分を抑えることになるのかもしれません。

     

    それぞれの言語で「ワイン」をどのようにいうのか調べてみるのも大変ですし、そもそもワインを飲む習慣がなかったりする地域もあります。それでもワイン文化が根付いている地域の「ワイン」をどのように表現するのかは、ワイン好きなら知っていても良い気がします。

     

  • カーネーション革命(Revolução dos Cravos)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカーネーション革命(Revolução dos Cravos)について勝手に語ります。

     

     

    ポルトガルワインといえば、甘い「ポートワイン」を思い浮かべる方が多いかもしれません。あるいは酒精強化ワインかもしれません。このブログでは、以前にどちらも取り上げています。

     

    ヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)

     

    世界三大酒精強化ワイン・マディラワイン

     

    ただ、ポルトガルはワインについて世界で初めて原産地呼称管理法を制定した国だということはあまり知られていないかもしれません。
    同様に1974年にポルトガルで発生したカーネーション革命(Revolução dos Cravos)についても、ご存じないかたも多いかもしれません。ただ、これは革命とはいうものの、実際には軍事クーデターで、無血で終わりました。カーネーションが革命のシンボルとなっていたことからカーネーション革命と呼ばれています。

     

    そもそも、1933年に成立したアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(António de Oliveira Salazar)による政権が独裁体制となり、しかも40年以上続いていたことが背景としてあります。
    サラザールは、エスタド・ノヴォ(Estado Novo)と呼ばれる保守権威主義的な長期独裁政権を築きました。ヨーロッパ最長の独裁体制といわれています。エスタド・ノヴォとはポルトガル語で「新しい国家」を意味し、要するに新国家体制です。ファシズム指向を併せ持ちつつ、父権的干渉主義政権ということから、暴力的な支配を前面に出していたスペインのフランコや、文字通りのファシズム政権であるイタリアのムッソリーニと異なり、支配方法としては緩やかなものを目標としていました。
    また、サラザール政権はナショナリズムだけでなく、カトリックを強要していました。それはサラザール自身が熱心なカトリック教徒であったことに関係します。
    政権の基礎部分としては、社会の安定が財政の安定であり、成長をもたらすとしていました。支持率も高く、「サラザールの教訓」という政府方針も示されていました。

     

    エスタド・ノヴォ体制下では「人民独裁を基礎とする新国家」を標榜していたことで、議会制民主主義は敵視されました。
    1936年には、サラザールは首相と財相だけでなく、外相、陸軍相、海軍相をも兼任することになり、より体制を強固にしていきました。
    スペイン内戦では、フランシスコ・フランコ将軍の反乱軍へ武器を援助したことで、1939年にはフランコ体制下になっていたスペインとの友好不可侵条約を締結することになりました。
    このような独裁政権でありながら、第二次世界大戦では中立の立場をとり、後になって連合国側の外交政策をすることで、大きな混乱を招くことを排除できました。しかも第二次世界大戦から復興しようとするヨーロッパ諸国に対し、資材を大量に販売することで、高度経済成長まで成し遂げたのです。
    しかし、1960年代に入ると、ヨーロッパの復興も一段落したことで、第二次大戦復興特需は終焉しました。
    ポルトガルは一転して、経済の遅れから回復する必要に迫られました。さらに1961年以来、植民地でも問題が発生していました。アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウではソ連やキューバが支援する独立革命軍との戦争が続き、戦費が財政を圧迫していたのです。経済状況はますます悪化し、徴兵制や低水準の賃金から逃れるため、フランスや旧西ドイツへ移民する人も多くなり、ポルトガルは西ヨーロッパ最貧国にまで転落してしまいました。

     

    エスタド・ノヴォ体制は第二次大戦後も継続したものの、西ヨーロッパ最貧国にまで転落し、1968年にはサラザールは椅子が壊れて頭部を強打したことで意識不明の重体となってしまいました。2ヶ月後に意識を取り戻しましたが、既に政権はマルセロ・ジョゼ・ダス・ネヴェス・アルヴェス・カエターノ(Marcelo José das Neves Alves Caetano)首相になっていました。
    結局、サラザールは1970年7月27日にポルトガルが政治的にも経済的にも混乱状態にあることを知らないまま息を引き取りました。
    サラザールの死後でもエスタド・ノヴォ体制は維持され、ポルトガル植民地帝国も維持していたものの、ついに1974年4月25日、カーネーション革命によって打倒されました。

     

    1974年4月25日早朝、ポルトガル軍のオテロ・デ・カルヴァーリョ大尉の指揮によりリスボンで決起し、市内の要所を占拠していきました。カエターノ首相は投降し、スピノラ大将に権力を委譲しました。
    流血のない無血革命でした。
    革命の成功を知ったリスボン市民は、カーネーションを手に兵士たちと交歓しました。この4月25日は「自由の日」としてポルトガル国民の祝日となりました。
    ただ、スピノラ大将が権力を握っただけで革命は終わらず、すぐにコスタ・ゴメス将軍に移譲、さらにスピノラのクーデター、そして失敗などもあり、最終的に穏健派のアントニオ・エアネス(António dos Santos Ramalho Eanes)大将が大統領になったことで革命は終結しました。

     

    その後はポルトガルのEU加盟により、EU支援による最新のワイン製造技術も取り入れることになり、ポルトガルワインの生産にも大きな影響が与えられました。
    ポルトガルのワインを飲む際は、エスタド・ノヴォ体制の独裁政権とその後のカーネーション革命のことも思いつつ味わって頂きたいものです。

     

  • ドゥシャンベ(Душанбе)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドゥシャンベ(Душанбе)について勝手に語ります。

     

     

    タジキスタンについて、正式国名をキリル文字やアラビア文字で表記した読み方として、以前に「ジュムフーリーイ・トージーキストーン」という投稿をしました。
    今回はジュムフーリーイ・トージーキストーンの首都であるドゥシャンベ(Душанбе)を取り上げます。

     

    この都市も旧ソ連からの独立国ということで、1961年までは「スターリンの町」を意味するスターリナバード(Stalinabad)という名の都市でした。 現在はタジク語で「月曜日」に由来する都市名になっています。この「月曜日」とは、元来はペルシア語で「土曜日の2日後」の意味だそうで、その日、要するに月曜日に、市場が開かれた都市だったことを意味するそうです。
    現在の人口は68万人程度ですが、19世紀までは小さな村だったようです。それでも古い遺跡もあり、太古より人々が居住する地域だったことは間違いないようです。
    そんな小さなドゥシャンベに人口が集中してきたのはロシア革命により、、レーニンが率いた左派のボリシェヴィキが中央アジアにまで影響してきたことに関係します。ボリシェヴィキに対抗するタジク人・ウズベク人の反革命軍の拠点として、ドゥシャンベに人が集まったのです。
    テュルク系イスラム王朝のブハラ・アミール国の最後のアミール、アーリム・ハーンもドゥシャンベに逃げ込み、その後、カーブルに亡命して死去しました。
    結局、1922年にドゥシャンベは赤軍の手により陥落しました。その後はタジク自治ソビエト社会主義共和国の行政府が置かれた町となりました。

     

    このタジク自治ソビエト社会主義共和国とは、1924年10月14日に中央アジアの3つの国を分割し、5つの民族により区分けされた地域を設置し、この中でタジクASSRがブハラ東部と、トルキスタン南部を領域として成立した国です。このときに分割した国は、トルキスタンASSR、ブハラ社会主義ソビエト共和国、ホラズム社会主義ソビエト共和国でした。
    1929年になると、北部タジキスタンのホジェンド地方(現在のソグド州)を吸収したことで、タジク・ソビエト社会主義共和国へと昇格することになりました。
    ドゥシャンベが首都に指定されたことで、1929年、スターリンにちなんだ「スターリナバード」となりました。
    ところが1961年になると、フルシチョフのスターリン批判の延長上で、都市名がドゥシャンベに戻されることになりました。
    タジキスタン共産党を構成するのは、南部人、カラテギン、パミール及びクリャーブの一部の代表者でしたが、1937年に最初にタジク革命政府を樹立したのは南部人でした。しかし、南部人は完全に粛清され、第二次世界大戦後はホジェンド出身者が権力を握ることとなりました。彼らの権力は、1980年代に至るまで維持しました。

     

    ソ連の時代では、あらゆる地域からドゥシャンベへの移住が促進させられました。
    ロシア人の人口比率も上昇しましたが、タジク人も地方から流入してくるようになったことで、首都らしい人口規模へと膨れ上がっていきました。
    またソ連は大量に流入する人々のために、産業としても綿花や絹の大生産地にしていったのです。
    最盛期にはロシア人の比率は半分近くまで及んでいたようですが、現在はわずかに2~3%程度ともいわれます。必然的にロシア語も共通語ではなくなり、現在はタジク語となっています。

     

    ソ連晩年はゴルバチョフのペレストロイカの時代となりましたが、タジキスタンではドゥシャンベ暴動が起きた時期と重なっていました。これは、アゼルバイジャンで起きた反アルメニア暴動の影響で、亡命アルメニア人がタジキスタンに移住してくるという噂が拡散し、住宅難だったタジク人の間で暴動が起こった事件でした。
    折しも中央アジアでの民族主義運動が拡大し、ついに1992年にタジキスタン内戦が勃発しました。大統領選挙の結に対して、ラフモン・ナビエフ大統領への抗議行動が激しくなり、政府側と反政府勢力の間で戦闘が勃発したのでした。
    ナビエフ大統領は辞任となりましたが、ドゥシャンベでは市街戦では既に市街戦が繰り広げられる事態にまでなっていました。
    ようやく、1997年に国連主導の停戦協議が始まり、ついに和平協定が調印されました。
    この内戦によりタジキスタンは内戦で荒廃し、120万人が難民となりました。ドゥシャンベも甚大な被害を受けました。

     

    イスラム圏でも比較的アルコール類を飲める国ですが、タジキスタンでは現地でワインを飲むより、復興しているドゥシャンベを思いながら日本で飲むほうが良い気もします。

  • ブダペスト紀行 7(Szent István-bazilika)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行7回目です。
    王宮の丘から離れペスト側の聖イシュトヴァーン大聖堂(Szent István-bazilika)へと行きました。

     

     

    王宮の丘から再び鎖橋の近くまで降り、そこからトラムに乗車し、北上しました。
    地下鉄の2号線に乗り換えると、ドナウ川は地下で渡ることとなりました。Deák Ferenc térで下車し、バイチジリンスキ通りに沿って北上し、目指す聖イシュトヴァーン大聖堂へと向かいました。
    実はこの周辺はブダペストの中心部になり、王宮の丘から鎖橋を渡って東側に直進した位置になります。トラムと地下鉄を乗り継ぐと大回りになりますが、実は徒歩ならそれほどの距離があるわけではありません。

     

    聖イシュトヴァーン大聖堂は、ブダペストで最も高い建造物といわれます。東京のように高層ビルがあるわけではないので、このような歴史的建物が高い建造物というのはうれしくなります。
    その高さは、96mで、幅は55m、奥行が87.4mです。歴史的建造物とはいっても着工したのは1851年で、完成したのは1905年です。この建設中の1868年にはドームが倒壊し、新たに作り直す必要があったことから、これだけの期間を要したといわれています。
    カトリック教会のバシリカで、バシリカとはローマ時代からの伝統的礼拝堂建築ではなく、礼拝に集まる人々が一箇所に集合できるような一定の平面形式を指すものです。ただし、この語源はギリシア語に由来するもので、一説には「王の列柱廊」を意味するバシリケーだといわれています。
    聖イシュトヴァーン大聖堂の建築様式は新古典主義様式で、正面には2つの大きな鐘楼があります。かなりのインパクトのある鐘楼で、南の鐘楼では、鐘の重量が9トン以上もあるそうです。ハンガリー最大の鐘ですが、実はこれは2代目です。初代の鐘は第二次世界大戦のときに、軍用に使われてしまいました。

     

    この大聖堂は最初に関わった建築家はヨーゼフ・ヒルド(Jozsef Hild)で、19世紀前半のハンガリー最大の建築家でした。しかし、1867年に彼が死去し、その後をミクローシュ・イブル(Miklis Ybl)が継ぎました。
    このイブルがヒルドの設計ミスを発見したのですが、修正が間に合わず、中央ドームが崩壊してしまったといわれます。そしてイブル死去後の最後の14年間はヨーゼフ・カウザー(Jozsef Kauser)が担当しました。

     

    聖堂の中に入ってみました。
    すぐにドームに登ることができるエレベーターを待つ列がありましたが、それをスルーして中に入っていくと、カトリック教会らしい荘厳な空間が待っていました。
    正面の祭壇には聖イシュトヴァーンの像がありました。その手には、ハンガリーのシンボルである二重の十字架があり、背後にはイシュトヴァーンの生涯を描いたレリーフがあります。
    祭壇の左側から裏手に行く通路があり、奥に聖イシュトヴァーンの「聖なる右手」のミイラが奉られています。
    イシュトヴァーン1世(I. István)は、ハンガリー王国の初代国王であり、カトリック教会では聖人として列聖されている人物です。記念日として8月20日がハンガリーの祝日に定められているほどです。

     

     

    このような大聖堂に入ると、ヨーロッパにいる気分が満たされます。
    ただ、観光客が多いので、その点は興ざめする部分もあります。こんなにブダペストが観光客に人気であることに、ここでも改めて思う次第です。でも日本人の姿は見かけませんでした。

     

  • アウクスブルク(Augsburg)と宗教

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアウクスブルク(Augsburg)と宗教について勝手に語ります。

     

     

    アウグスブルクというと、世界史の授業で「アウグスブルクの和議」として習ったことを思い出す人もいるでしょう。
    当時、神聖ローマ帝国の都市だったアウクスブルクにおいて、て1555年9月25日に開催された帝国議会の中で、ルター派を容認した決議のことです。これはプロテスタントを容認したわけではなく、プロテスタントでもカルヴァン派については認めませんでした。しかも、カトリックかプロテスタントを個人意思にて選択できるものではなく、あくまで信仰の選択は、都市や領主により決定することになっていました。そのため、都市単位や領主の支配地域によりカトリックであったりプロテスタントであったりするということは、三十年戦争にもつながるものでもありました。
    その一方で、カトリックによる支配を進めていたハプスブルク家は、思わぬ結果となっていました。

     

    現在のアウグスブルクは、ドイツのバイエルン州でミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐ第3の都市で、人口は約26万人です。
    都市名はローマ皇帝アウグストゥスが由来ですから、ドイツでは最も古い都市の一つといえます。ただローマの時代にはそれほどの規模の都市ではなく、それ以降もしばらくは人口増加も都市の規模も大きくなりませんでしたが、1500年頃には神聖ローマ帝国最大規模の都市の一つにまで成長し、ケルンやプラハに次ぐ規模になったようです。

    アウグスブルクの和議の舞台らしく、4世紀から5世紀頃にはローマ・カトリックの司教座都市となっていてるとともに、ルター派福音主義教会のアウクスブルク教会管区本部の所在地でもあります。実はそれだけでなく、アウクスブルクには正教会もあります。特にシリア正教会が顕著で、これはトルコからの避難民です。またギリシア正教会ではゴスペル教会を購入しています。

    キリスト教系の宗教組織としては、古カトリック教会、新使徒派教会、エホバの証人などもあるそうです。

    実はイスラム教徒やユダヤ教徒、さらに仏教徒もいます。
    そのためか、アウクスブルクでは「宗教円卓会議」が定期的に開催されています。
    それぞれの異なる宗教信者が、互いに宗教、霊性、儀典、宗教実践について語り合うものです。
    無宗教社会論組織である「Bund für Geistesfreiheit」もあります。

     

    またアウグスブルクは、帝国自由都市の時代に三十年戦争に巻き込まれましたが、その戦争期間はスウェーデン軍に占領されていたことがあります。続いてスペイン継承戦争の時代の1703年には、バイエルン軍によって占領されました。
    結局、1805年12月28日のプレスブルクの和約により帝国自由都市の地位を失ってしまい、バイエルン領となりました。今ではバイエルン州を代表する都市ですが、自由都市からの転落の結果という見方もできます。

     

    このアウグスブルクは、個人的にはあまり記憶に残らない都市でした。
    滞在期間が短かったこともありますが、駐車場を探すのに苦労して、クルマを駐車したときには疲れ切っていたのを思い出します。それでもカトリック、プロテスタント両方の教会を訪れ、わずかな時間でしたが街を散策しました。
    思ったより地味な印象を持ちました。と、いっても当時はハンブルクを基点にしていたので、無意識にハンブルクと比較していたのかもしれません。また、バイエルンの文化や言語も、決して嫌いでないものの、何となく田舎くさい感じを持っていたのかもしれません。
    今では考えられない感覚です。
    さらにいえば、宿泊する時間的余裕もなく、短時間の市内散策だけだったことが、何とも勿体ないことに思えます。これも当時の状況を考えれば仕方ないのですが、今ならもう少し余裕のある旅をしただろうと思います。

     

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