今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • 世界で最も危険なワイン産地

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界で最も危険なワイン産地であるシリアについて勝手に語ります。
    今世紀最悪の内戦地で生産されるワインです。

     

     

    「21世紀最大の人道危機」ともいわれるシリアは、2011年3月15日に起きた一連の騒乱から続く内戦が続いています。
    シリア政府軍とシリアの反体制派による内戦は、総人口の半分を超える難民を生んだほどの悲惨な紛争です。
    内戦の序章ともいうべきものは、2011年のチュニジアで起きたジャスミン革命です。これを契機としてアラブ諸国に「アラブの春」が起こりました。
    最初はアサド政権派のシリア軍と反政権派勢力とが衝突したものでした。同時にサラフィー・ジハード主義勢力のアル・ヌスラ戦線とクルド人勢力の間でも衝突が起きました。
    これが次第にエスカレートし、様々な勢力の戦闘が生じ、アサド政権の打倒と当時のISIL掃討を目的としたアメリカ・フランスなどの多国籍軍、反対にアサド政権を支援するロシア・イランなどの軍事介入があり、単純な内戦というレベルをはるかに超えるものに発展し、泥沼化していきました。
    近隣の国でも、トルコ、サウジアラビア、カタールも反アサド政権の立場と自国の権益確保のために反政府武装勢力への資金援助や武器付与等まで含めた軍事支援を行うようになりました。

     

    もともとシリアは、1946年にフランスの植民地支配から独立しました。
    アラブ的な国家ではなく、宗教に基づくものではない現代のヨーロッパ的な国家を範とする国にする指標が示されていました。
    問題のアサド政権は、クーデターにより誕生しました。
    その後、40年以上もの長期に渡ってアサド一族による独裁政治体制が続きました。まさに独裁政治で、市民は軍や治安部隊、秘密警察によって監視・抑圧されている状態でした。
    このような背景から、「アラブの春」によって、市民が政治改革を要求する声を上げたのでした。
    しかし、シリアでの「アラブの春」は民主化運動としては続かず、アサド政権を打倒するための軍事的な革命闘争へと変質してしまったのです。

     

    結局、シリアの内戦は国際的な代理戦争の様相を呈することになってしまい、国際的にはアメリカ、ヨーロッパに対するロシア、中国、中東ではサウジアラビアに対するイラン、国内では反体制諸派に対するアサド政権という、実に三層構造という対立図式により成り立つ紛争になってしまいました。
    これでは単なる内戦の終結という簡単な話で終わらず、解決はいっそう困難なものとなりました。
    さらにISIL、つまり「イスラーム国(IS)」も関係しています。
    ISILはシリアの領土の一部を実効支配するようになり、2014年には北東部のラッカを首都とする「国家」の建国を宣言までしました。2003年のイラク戦争後に結成された「イラクのアル=カーイダ」を前身とするこの組織は、中東の内外から合流する者を多く生みました。
    シリアの内戦により、シリアの領土内に寄生し、資金、武器、人員を獲得することで台頭してきたわけです。
    当初は、ISILについてはシリア反政府勢力から歓迎されていましたが、他の反体制派組織を支配下に置こうとして内紛が起きました。次第に関係が悪化していきました。

     

    このISILの台頭は、シリア内戦の三層構造による対立図式に大きな変化を及ぼしました。
    国際的には、脅威の対象はISILであるという認識となっていきました。アサド政権は、ISILに対し、「対テロ戦争」の最前線を担うものとして正当化していくことになったのです。
    他方で、2014年8月には「有志連合」による軍事介入があり、ISILをターゲットにしました。

     

    その後のISILの勢力縮小などがあっても、シリア内戦を解決することにはつながらず、悲惨な状況、世界で最も危険な地域であるのは事実です。
    それでも約3000年以上も前からブドウ栽培をされていた地域であり、ワイン生産が途絶えていたものの、現在、新たなワインとして生み出されているのです。すぐ近くで銃撃戦が行われ、ブドウ畑に爆弾が投下されることがあっても、シリアのワインの新たな歴史が始まっています。
    シリアの「ドメーヌ・ド・バージュラス 」は、化学肥料を使わない栽培で、発酵も野生酵母によるもので、極めてナチュラルな製法です。ブドウ品種は国際的な品種を使っていますが、徹底的に探したというテロワールにより、かなり品質の高いワインが生産されています。

     

    世界で最も危険なワイン産地ですが、その品質は世界最高峰にも引けを取りません。

     

  • アイゼンシュタット紀行 (Eisenstadt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアイゼンシュタット紀行です。
    この夏の旅行ではなく、はるか昔の思い出を紀行にしました。そのため不鮮明な記憶がもとですから、多少の記憶違いや間違いは大目に見てください。

     

     

    当時、ウィーンのアパートの大家さんはハンガリー人で、とても優しいご夫妻でした。
    ハンガリー王国時代のハンガリー領に先祖が住んでいたようですが、実は現在、その場所はオーストリア領になっています。
    歴史の変動で生まれ育った地域が所属する国も変化してしまうヨーロッパらしい話ですが、ハンガリー人としての誇りを忘れず、故郷の話を色々と聞かせて頂いたので、すっかり興味を持つことになりました。
    そこで、同じアポートに住む人と、大家さんの先祖伝来の土地周辺に行こうという話になりました。

     

    朝早くにクルマで出発することになり、オーストリアのアウトバーン3号線を南へと走らせました。
    チロルと違い、オーストリアでもこの周辺は森が広がる地域で、起伏も少なく、快適なドライブでした。何よりこの当時に乗っていたクルマには、なぜか女性を乗せる機会が少なく、この旅で2人の女性が同乗することで珍しい感覚もありました。
    ヨーロッパの秋は短く、夏と冬の間の、ほんのつかの間です。そんな秋のやさしい日差しが降り注ぎ、適度な気温と湿度の中、クルマはブルゲンラント(Burgenland)へと入っていきました。
    1921年にトリアノン条約とサン・ジェルマン条約によってハンガリー王国から領土を割譲されたことでオーストリアの州になった地域です。そのため、それ以前から大家さんの一家はここに住んでいたことで、ハンガリー人からオーストリア人になってしまったことになります。

     

    ブルゲンラント州の州都がアイゼンシュタット(Eisenstadt)です。
    インターチェンジでブルゲンラント・シュネル通り(Burgenland Schnell Straße)に出て、国道50線から市内へと入っていきました。(実はここは記憶が曖昧で、もしかしたら52号線を経由して50号線だったかもしれません)

     

    アイゼンシュタットは小さな都市です。
    ブドウ畑に囲まれた中に、集落を大きくしたような都市部があるだけの町で、周囲を緑に囲まれているというより、緑の中に小さな町があるという表現のほうが正しい感じです。現在はどうなっているか分かりませんが、おそらくそれほど変わっていないのではないかと思います。いや、そのような願望があります。
    この周辺地域は中世以来、ドイツからの移民が相当数ありました。特に神聖ローマ帝国のキリスト教宗派による対立が関係して、プロテスタント系のドイツ人が逃げてくる地域でもあったようです。
    そのため昔からハンガリー領内でありながら、ドイツ人の数が多い地域でした。しかし、大家さんはドイツ移民が先祖ではなく、生粋のハンガリー人でした。この独特の運命を受け入れた地域に立ち、確かに町の雰囲気がドイツ的でないことを感じました。

     

    ドイツ的でない町並みに感激し、昼食後は周囲の城にも行ってみました。
    もともとブルゲンラントはドイツ語で「城の州」を意味します。
    城の多い地域なのは、ハンガリー時代のポジョニ県、モション県、シュプロン県、ヴァシュ県の4つのそれぞれの城をドイツ語でまとめたともいわれています。
    よくわかりませんが、周辺の観光地としては城が良いと、地元の人に勧められて行きました。
    午後になって風が強くなりました。なぜか、このときの風の強さは明確に覚えています。

     

    ブドウ畑が多く、ワイン生産も盛んな場所だといことから、どうしてもワインが飲みたくなりました。
    しかしクルマの運転があります。同乗してきた女性2人は運転に自信がないといいます。
    そこで、ウィーンに戻り、バスで郊外のホイリゲに行くことを約束して帰りました。
    大家さんにはその日に会えず、翌日にこのミニ旅行の印象を語りました。うれしそうな表情をして聞いてくれました。

     

    そんなウィーンの大家さんですが、1993年に永眠されました。
    訃報が届いたとき、東京からすぐにウィーンへ駆けつけようかとも思いましたが、現実的でなく、東京から冥福を祈りました。いつかお墓参りをしようと思いましたが、未だに実現していません。あれ以来、ウィーンとは縁がなくなり、心残りだけはあります。
    アイゼンシュタットの思い出は大家さんの思い出そのものです。

     

  • マウイ島(The Island of Maui)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマウイ島(The Island of Maui)のワインについて勝手に語ります。
    ヨーロッパでも地味な都市の紀行が続いたので、今回は日本人の大好きなハワイに舞台を移します。

     

     

    マウイ島はハワイで2番目に大きく、人口ではオアフ島、ハワイ島に次ぎ州内3番目に多い島です。
    観光客の多い島ですが、日本人が最も多く訪れるオアフ島に比べると観光客数の日本人についての相対的比率は低いといえます。どちらかというと、アメリカ本土からの国内比率が高く、海外からの旅行は4割程度だといいます。

     

    そんなマウイ島で、随一の観光名所といえばハレアカラといえるでしょう。「太陽の家」という意味を持つ山です。
    山頂にはハレアカラ・クレーター(Haleakalā Crater)がり、これは巨大なクレーターで、直径が11.25km、幅3.2km、深さ約800mという規模を持ちます。
    地球ではないかのような風景で、イメージ的には火星かもしれません。つまり土が赤いのです。
    神秘的とまでいえる地球誕生の一コマのような場所で、マウイ島では絶対に外せないスポットです。

     

    そんなハレアカラの中腹に緑豊かな農業地域があります。
    荒涼たる火星のような山頂付近からは想像できないような場所です。気候も高山性ではなく、穏やかになっています。
    その中にマウイ島唯一のワイナリー「マウイズ・ワイナリー」があります。

     

    標高600m以上ある位置ですが、気候的にブドウ生産には問題ないようです。
    しかし、ここでのおすすめは「パイナップルワイン」です。
    敷地内の醸造所でつくられ、ハワイ州内だけでなくアメリカ本土でも販売しています。
    テイスティング・ルームでは、ワイナリーで醸造されるワイン数種を少量無料で試飲することができます。このテイスティング・ルームですが、建物はカラカウア王の別荘をだった場所だといいます。
    カラカウア王とカピオラ二王妃は避暑のためにこの別荘を訪れ、連日パーティーをしていたようです。

     

    マウイで生産される「マウイ・ゴールド」というパイナップルで作られた「マウイ・スプラッシュ」は、爽やかな口あたりで、もちろん甘いワインです。
    料理と一緒に飲むというより、単独で味わう系統のワインですが、ハワイのレジャーとともに味わうのは最高かもしれません。

     

  • フランクフルト紀行 3(Słubice-Frankfurt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランクフルト紀行の3回目です。
    オーダー川を渡り、ポーランドへ入国します。

     

     

    ローザ・ルクセンブルク通り(Rosa-Luxemburug Straße)がオーダー川を渡る橋に繋がっています。この橋の途中がドイツとポーランドとの国境になります。
    ただし、国境とはいっても何もありません。
    ポーランドがシェンゲン協定に加盟したことで、基本的に国境だからといって何か施設があるわけでもなく、警備もなく、完全にフリーパスです。そのため国内で隣の市町村に入った感じ程度のものです。
    それでも間違いなく国が異なるわけで、通貨も、言語も違います。ポーランドの通貨はズウォティ(złoty)、言語はポーランド語です。

     

    ポーランド側にある町はスウビツェ(Słubice)という小さな町で、フランクフルト(オーダー)とは密接な関係があります。
    ただ単に隣だからというだけでなく、1945年まではフランクフルトの一部でした。つまり第二次大戦まではドイツ領だったのです。
    ドイツの敗北により、新たな国境が確定し、強制的にポーランドになった地域です。ただドイツ側も東ドイツでしたので、ベルリンのように東西冷戦の最前線のような分割とは異なり、そこまで悲劇的な分割ではありませんでした。
    現在では、何となくドイツとは雰囲気が違うかな、という程度ですが、以前はドイツとポーランドとの経済格差がそのまま街の雰囲気にまで影響していたといいます。
    少し、町中を散策してみることにしました。

     

    物価の違いからドイツ人がクルマで買い出しに来ることが多い町でもあり、特にタバコの価格差は相当あるので、タバコ屋の数を多く見かけます。何とも不思議な感じです。
    複数で歩いている人の会話を聞いてみると、やはり何を話しているのかさっぱりわかりません。おそらくポーランド語でしょう。
    集合住宅の1階にある窓が開き、そこに住むおばさんが猫を外に出している場面に遭遇しましたが、猫に話している言葉が分からず、なぜ、外に出しているのか不明でした。この猫はポーランド語を理解しているのだろうか? などと思ったりしました。
    ポーランド語はスラヴ語派に属する言語なので、ゲルマン系のドイツ語より、同じくスラブ語派のチェコ語に近いようです。今まで縁がなかったので、何とも新鮮です。

     

     

    マクドナルドもありました。
    ポーランドのマクドナルドはどんな雰囲気なのかと思いましたが、寄らずに、土手沿いをショッピングモールの方向へと歩いていきました。
    対岸がドイツですが、川ではなくなり、植物が茂った地帯となっていきました。
    途中で寄ったのはカトリック教会でした。Kościół NMP Królowej Polskiです。

     

     

    ここまで来るとほとんど歩行者がいなくなり、郊外に出ると、畑も多くなり、のどかな風景が広がりました。
    その先にショッピングモールがありました。
    プレハブを並べたような施設ですが、かなり巨大で、様々なものが店先に並んでいます。確かに物価は安く、ドイツよりかなり格安で購入できます。駐車場にとめられたクルマのナンバーを見ても9割がドイツのナンバーなのも頷けます。
    ここでは英語が全く通じないようでしたが、普通にドイツ語が通じます。日本人は珍しいようでしたが、話しかけてくるのはドイツ語でした。外国人にはすべてドイツ語で話しかけるようでした。
    確かにポーラン語を話せる日本人は少ないのでしょう。その前に日本人が訪れる場所ではないのかもしれませんが。

     

    帰りはバスにしようか、それともこのまま進んでポーランド国鉄の電車に乗ろうかと考えましたが、結局、歩いて戻ることにしました。
    土手沿いを歩き、対岸にフランクフルト唯一の高層ビルを眺めつつ、再び歩いて国境を超えました。

     

     

    橋を渡り終えた先の右手にはフリーデンス教会(Friedenskirche)がありました。
    1226年ごろにフランクフルト最初の教会として建てられた聖ニクラウス教会が現在のフリーデンス教会だそうです。
    案内板にはドイツ語、ポーランド語、英語の3ヶ国語で説明がありました。いかにも国境の町らしい感じです。

     

     

    この日は、中央駅まで戻り、ガードを潜り、駅の反対側にあるホテルに宿泊しました。
    日曜日ということもあり、食事のできる店舗の多くが休みでしたが、トルコからの移民の人が経営する店が営業中で、そこで食事をしました。
    ここでも英語が通じないようでした。おそらく一人で来ていたら、そのようなことに気づかなかったでしょう。これもある意味で新鮮なことといえるかもしれません。
    有名なフランクフルト(マイン)の想い出は数多くありますが、こちらの地味なフランクフルト(オーダー)も、短時間ながらも滞在できたことで、良い想い出が出来た気がします。ガイドブックに出ていない都市への旅は、やはり好きなんだと改めて思ったりもしました。

     

  • フランクフルト紀行 2(St. Marienkirche Frankfurt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランクフルト紀行の2回目です。
    市内を散策します。

     

     

    駅前からフェルディナント通り(Ferdinandstraße)に進み、坂道を下ると、静かな住宅街に入ります。
    この通りは坂を下った先で丁字路に突き当たり、左に曲がった先が本線になっています。商店も少しありますが、やはり地味です。
    その先でゲルトラウーデン・パーク(Gertraudenpark)の近くに出るので、折角ですから公園内に足を踏み入れました。天気も良いので、実にのどかな休日を満喫できそうです。人通りも少なく、閑散とし印象もあります。
    ここでは「Jakobsweg(聖ヤコブの巡礼道)」という案内板がありました。正式には、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路というものだそうで、スペインのガリシア州にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道です。一般的にはフランスからピレネー山脈を超え、スペインの北部を経由する巡礼道といわれます。

     

    聖ヤコブはスペイン語でサンティアゴといい、サンティアゴ・デ・コンポステーラには聖ヤコブの遺骸があるとされています。そのため、キリスト教では、ローマ、エルサレムと並ぶ三大巡礼地とされています。
    この聖地巡礼の道が、フランスだけでなくドイツにもあるというのは意外としかいいようがありませんでした。

     

    Jakobsweg oestliche und westlich der Oder
    ここでの巡礼の道は、オーダー川の東から西へと続く道のようでした。

     

    ゲルトラウーデン・パークから北上していくと、ヴィアドリナ欧州大学(Europa-Universität Viadrina)が右手にあり、その先には聖マリエン教会(St. Marienkirche)が見えてきました。荘厳な雰囲気がします。
    中に入ってみると、修復工事中で、寄付金を求めていたので1ユーロだけ寄付してきました。

     

     

    教会の北側には市庁舎(Rathaus der Stadt Frankfurt)があります。
    他のドイツ諸都市でもよく見かける光景といえますが、今でも現役で、かなりの存在感と威厳がある感じがします。

     

     

    市庁舎からは東側の通りを北上し、集合住宅の並ぶ中を歩きました。
    まず観光客が歩く道路ではないでしょう。地元の人の生活道路です。
    それ以前にフランクフルト(オーダー)そのものが観光都市ではないので、英語も中国語も、もちろん日本語も聞くことがなく、至って平凡なドイツの田舎町を歩く感じが心地よいといえます。
    ときには都会を離れるのは良いものだと、何ともステレオタイプ的に思うのでした。

     

    やがて橋の手前の公園に至り、ポーランドとの国境が見えてきました。

     

     

    あの橋を渡ればポーランドへ入国となります。
    次回に続きます。

     

  • フランクフルト紀行 1(Frankfurt an der Oder)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は欧州紀行のフランクフルトについて勝手に語ります。
    ポツダムに比べると、かなり地味な街です。

     

     

    ベルリンで宿泊したのはUバーン2号線のビューローシュトラーセ(Bülowstraße)駅のすぐ近くでしたが、フランクフルトへ移動するということで、1号線のクルフュアシュテンシュトラーセ(Kurfürstenstr)駅まで歩き、ヴァルシャウアーシュトラーセ(Warschauer Straße)駅まで移動しました。
    本来なら東(Ost)駅か、アレクサンダープラッツ(Alexanderplatz)駅でREに乗り換えるのが一般的といえるでしょうが、あえてそうしました。その理由はベルリンカードの有効時間の関係で、朝10時に切れる前に指定ソーン内に行けるところまで行こうという、貧乏根性のようなものでした。

     

    ところで、フランクフルトというと、大抵の日本人は聞いたことくらいはある都市名といえるでしょう。
    ロンドン、パリと並ぶ欧州の空の玄関口である空港があり、EUの金融の中心地であり、ソーセージで有名で、等々。
    そのフランクフルトの正式名称はフランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) で、ドイツ連邦共和国ヘッセン州にある都市のことです。人口は72万人で、ドイツ国内では、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ケルンに次ぐ第5の都市です。
    しかし、これから向かうのは フランクフルト・アン・デア・オーダー(Frankfurt an der Oder)で、別の都市です。
    「アム・マイン」と「アン・デア・オーダー」の違いがあります。前者が「マイン河畔のフランクフルト」なのに対して、後者は「オーダー河畔のフランクフルト」となります。前者の「アム(am)」は「an dem」で、マイン川が男性名詞に対して、オーダー川が女性名詞のため、冠詞の格変化によりこのようになります。辞書で出てくる男性名詞の冠詞は「der」ですが、前置詞「an」の格支配により女性名詞のオーダー川がこの場合「der」になります。
    わかりにくいですか?
    ドイツ語を知らない人には不思議な話になるかもしれません。

     

    ちなみに29年間、ドイツへ行ってなかったせいで、新しい単語の性が分からなかったので、少しだけ調べてみました。
    例えばiPhoneやiPadです。iPhoneは電話という扱いなので中性名詞、iPadはタブレットという扱いなので中性名詞だそうです。
    iMacはコンピューターなので男性名詞、しかしMacBookはノートPCという扱いで中性名詞、ノートがドイツ語でNotizbuchで中性名詞だからだそうです。何ともわかりやすいような、難しいような。
    浦島太郎状態なので、ある意味、新鮮でもありますが。

     

    さて、Sバーンの3号線に乗り換え、終点のエルクナーへ。
    エルクナーは単独で取り上げたことがありますので、そちらを参照ください。エルクナー(Erkner)
    ここから東へ2階建てのREは疾走します。
    ポツダムへの道のりでは、森の中を列車が走っていきましたが、フランクフルトも同様です。ただ、より郊外なので、森だけでなく牧草地が現れたり、風力発電の光景を目にしたりできます。のどかな旧東ドイツの風景が続きます。
    ドイツの鉄道は自転車を乗せるのも一般的で、自転車料金も設定されています。またREは車内のトイレの個室も広く、清潔です。日本の電車とは明らかに異なるので、それだけでも楽しい気分になります。

     

    ポーランドへと続く国際列車も多く走る路線ですが、REはフランクフルトが終点になります。一つ先の国境を越えた駅はポーランドのスウビツェ駅です。
    ドイツ国鉄(DB) Frankfurt (Oder)
    思ったより大きな駅なので驚きました。ドイツ再統一後、フランクフルト周辺の地域は経済的に苦しくなり、失業率も高まったことから、人口も大きく減少しているという話を聞いていたので、かなり寂れたイメージがあったものの、意外と明るい感じの駅でした。

     

    駅の先、というより街の先には地名の由来となったオーダー川が流れています。
    この周辺は浅瀬となっていることから、橋がない時代から川を渡る地点という役割を担う場所でした。
    その役割は、パリ・アーヘン・ベルリン・ワルシャワ・モスクワを結ぶ交易路、プラハ・マイセン・クラクフを結ぶ交易路、この2つの交易路が交差する場所として機能し、交易商人たちにより都市が形成されました。フランクフルトの誕生から交通の要衝としての役割が担われていたのです。
    都市として認められたのは1253年で、1430年にはハンザ同盟に加わりました。
    19世紀になると、プロイセン王国の重要な交易都市にまで発展し、1842年にベルリンと結ぶ鉄道も開通しました。ここでも鉄道を介しての交通の要衝となりました。

     

    駅前にはバスが並び、トラムは少し離れた場所に停留所がありました。
    ヨーロッパらしい地味な雰囲気の駅前は、チェーン店ばかりが林立する日本の郊外の駅とは違い、何とも懐かしく感じます。利便性を度外視して、やはりこの地味な雰囲気が好きです。
    第二次大戦中は激戦地でもあったことから、旧市街が残っているわけではありません。ソ連の赤軍に対抗するためにドイツ国防軍の要塞となり、激しい攻防がここで行われました。
    敗戦により、ドイツ国境はオーダー川となり、川の東岸にあったダムフォアシュタット地区 (Dammvorstadt) はフランクフルトから切り離され、ポーランド領となりました。現在のスウビツェです。
    今回、この都市を訪れた目的の一つは、歩いてポーランドに入国することです。

     

    ポーランド入国前に、市内の散策も行いましたが、それは次回へ。

     

  • 新疆ウイグル自治区(新疆維吾爾自治区)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は新疆ウイグル自治区について勝手に語ります。

     

     

    「新疆ウイグル自治区ワイン産業発展計画(2019~25年)」では、この先の具体的な数値見込みが書かれています。
    2025年には、ワイナリーは150カ所以上、ワイン生産は年30万キロリットル、完成酒類は18万キロリットル、ワイン加工段階の生産額は100億元に達する見込みとなっています。
    もともと新疆ウイグル自治区ではブドウそのものを食べたり、干しブドウにして食べる習慣があるため、中国内では最もブドウ栽培が盛んだった地域です。そこへワイン需要が高まり、ワイン産業が大きく発展する機会を得たということかもしれません。

     

    ただこの自治区にはウイグル族だけでなく、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族などの多様な民族が入り乱れている地域で、自治州、自治県など、それぞれの民族自治区画があります。そのため、これだけから想像すると、まとまりのない社会のような印象を持つかもしれません。
    また、歴史的にも中国との関係が強いとはいえ、西域という場所柄、中央アジアの文化圏も大きく影響されてきました。

     

    ワインのようなアルコール飲料とはなじまないイスラム教徒も、この地域の歴史には大きく関係してきました。
    例えば東トルキスタン共和国(Sherqiy Türkistan Jumuhuriyiti)です。
    中華民国時代、新疆ウイグル自治区は新疆省となっていましたが、ここでテュルク系イスラム教徒によって樹立された国家のことです。しかも、1度ならず、2度、しかも別々の地域を拠点として樹立された独立政権なのです。

     

    第1次東トルキスタン共和国は、タリム盆地西南部のカシュガルに建設された政権で、第一次世界大戦後のロシア内戦、シベリア出兵などにより、大量のロシア人が中央アジアに流入したことで、その中の一部が中国領内でテュルク人社会を形成したこが背景としてあります。
    このテュルク人社会を形成する人々が傭兵となり、独立運動に参加したことで、四・十二クーデターが起こりました。
    この政権の興亡は、ロシアに始まりソ連に終わったといえます。崩壊は、 新疆省政府がソ連に介入を要請したことで、1934年に新疆に入ったソ連軍の影響が大きく、第1次東トルキスタン共和国の軍隊は壊滅しました。
    ロシア領の西トルキスタンでジャディード運動に影響を受けた商人・知識人層により、東トルキスタンの民族運動のひとつの結実として誕生した共和国がソ連の軍事力を契機として崩壊するものでした。

     

    第2次東トルキスタン共和国は1944年から1946年という短い期間に存在しました。
    ここでもソ連が関係します。第二次世界大戦の時代には、東トルキスタン独立運動は今度はソ連が支持しました。
    これによって北部のイリ渓谷のグルジャ(伊寧市)に樹立されました。
    このグルジャが独立軍の蜂起した地域で、ソ連軍の赤軍が協力したことで、イリ地区の全域を支配し、翌年にはアルタイ地区、タルバガタイ地区まで占領することに成功しました。この躍進にはカザフ人のゲリラ勢力が加わったことが大きかったようです。彼らはソ連領西トルキスタンで教育や訓練を受けたゲリラでした。
    ここまでソ連との関係が深くなると、軍事部門ではソ連のロシア人やテュルク系民族出身が中心となっていて、ソ連の意向に左右される政権でしかありませんでした。
    結局、東トルキスタン共和国はソ連の意思に従うこととなり、新疆省政府に合流することになったのです。ただこれも長く続かず、新疆省政府と東トルキスタン共和国が合流した新疆省連合政府は1947年に崩壊してしまいます。
    そこでソ連が支援するモンゴル人民革命軍と中華民国軍が新疆で武力衝突しました。北塔山事件です。

     

    新疆ウイグル自治区になったのは1955年で、1962年には国境地帯の住民がソ連領内に逃亡するという事件もありました。その逃亡者の数は何と7万人以上といわれます。
    そして1966年には自治区内にも文化大革命が波及しました。新疆ウイグル自治区でもモスクの破壊などがありました。
    2001年のアメリカ同時多発テロもこの地区に少なからず影響が出ました。
    このテロにより反イスラムの潮流が世界的規模で強まり、2014年のウルムチ駅爆発事件を契機として、中国は新疆ウイグル自治区に徹底的な管理統制の構築に乗り出すことになったのです。中国当局により住民を完全に監視するシステムが進められ、世界の人権団体から批判されることとなりました。

     

    また、新疆ウイグル自治区内のロプノール地域は中国が核実験場としていました。
    1960年代から1996年までに核実験が45回実施されたといわれます。
    この核実験により、自治区のウイグル人を中心に19万人が急死したともいわれています。

     

    p>これからのワイン産業の発展という未来に対し、過去の独立運動や核実験など、悲惨な歴史を辿ってきた自治区です。
    国際コンテストで金賞や銀賞を何度も獲得した実績のあるワインに対して、常に監査された社会という独特の世界でもあり、ここから脱するとともに、民族の誇りから、今でも独立運動は消えていないようです。

     

  • ポツダム紀行 2(Orangerie Schloss)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオランジュリー宮殿 (Orangerie Schloss)について勝手に語ります。
    前回のサンスーシー宮殿からの続きです。

     

     

     

    サンスーシ公園は広大な敷地で、サンスーシー宮殿だけでなく、新宮殿、中国茶館、シャルロッテンホーフ宮殿、オランジュリー宮殿などが点在しています。
    その中でサンスーシー宮殿より大きなオランジュリー宮殿 (Orangerie Schloss)へと向かいました。

     

    サンスーシ公園内にある宮殿の中で、最後に建てられた最大の宮殿です。
    オレンジ色の宮殿で、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世のイタリアへの憧れを鮮やかに示しています。
    眼下に広がる庭園を中央にして、噴水から、様々な彫刻、アーケード、テラスが揃った宮殿は、サンスーシー宮殿のこじんまりとした豪華さとは違い、ダイナミックな存在感を出している気がします。
    何より、観光客が少ないのがうれしいポイントです。

     

     

    長さ300mに及ぶ建物で、側面には植物ホールがあり、このホールはベルリン・ブランデンブルク地区最大の屋内イベントスペースの1つになっています。
    三翼の複合施設になった宮殿で、中央部分の建物に入ると圧巻の光景が待っていました。
    ラファエロの絵画が50以上も飾られているのです。ただし、本物ではありません。
    19世紀のレプリカですが、その圧倒される数は、堂々としたラファエロホールといえます。実際にこの部屋に立つと、本物でもレプリカでもどうでも良い気持ちになります。

     

    この宮殿は1851から1860年にかけて建設されました。2つの塔がある中央館は、ローマにある別荘ヴィラ・メディチをモデルにしています。
    そのため、サンスーシ宮殿がフランス風なのに対して、オランジェリー宮殿はイタリア風であるのがよくわかります。ドイツにあるサンスーシ公園内に、フランスとイタリアの建築様式があるのが、なんともいえない醍醐味といえるかもしれません。
    また屋上にも上がることができるので、ここから庭園を見渡すのもおすすめポイントです。

     

     

    2つの宮殿を堪能したあと、再びブランデンブルク門まで戻ると、ワインの試飲をするイベントがありました。いくつかのワイナリーがそれぞれのワインをお披露目していました。
    隣ではヴルストの屋台があり、本来であればビールでしょうが、やはりここはワイン。ドイツの白ワインとヴルストの組み合わせは必ずしもあうわけではないでしょうが、ここでは関係なしとします。
    少し酔ったので、帰りはバスでポツダム中央駅に戻りました。

     

    ポツダムからはREに乗車し、フリードリッヒシュトラーセ駅まで戻りました。
    この距離だとSバーンよりREの2階席のほうが快適なのがよくわかりました。
    次はシュプレー川の中洲に向かいます。

     

  • ポツダム紀行 1(Schloss Sanssouci)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンスーシ宮殿(Schloss Sanssouci)について勝手に語ります。
    今年の夏、久しぶりにドイツに行きましたので、そのときの紀行です。秋に夏の旅を思い出してみました。

     

     

    世界遺産になっているサンスーシ宮殿はポツダムにあります。
    ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の州都であるポツダムは人口は約18万人の都市で、ドイツの首都ベルリンから南西約30kmの位置にあります。
    そのため、ベルリンからはSバーン(近郊電車)でもRE(中距離列車)でも容易に往復できる距離です。

     

    旧西ベルリンの中心駅だったZoo(動物園)駅から、行きはSバーンで向かいました。環状線 (Ringbahn) の東西南北にある4つの主要な乗り換え駅の一つであるヴェストクロイツ駅 (Bahnhof Berlin Westkreuz) を過ぎると、車窓には森が広がります。一気に郊外に出たように感じますが、ベルリンの場合はそうではなく、森の合間に都市があるので、むしろ当然の光景といえます。
    ツェーレンドルフ(Zehlendorf)が進行方向左手の先にあり、反対側にはハーフェル川(Havel)の湖に続いている森の中を電車は駆け抜けます。この区間は駅間が長くなり、Sバーンといえども旅情気分を味わえます。
    ヴァン湖を過ぎると、いよいよポツダムに近づきます。

     

    ポツダム中央駅はSバーンの終点ですが、REも多く走っているため、なかなか立派な駅でした。
    正面口ではなく、反対側から街の中心部へと向かいました。トラム(Straßenbahn)やバスもありますが、急ぐ必要がなかったため、自由気ままに歩きました。地図もろくに見ず、現地の人しか通らない路地などもあるきつつ、ブランデンブルク門へとたどり着きました。

     

     

    ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)というと、ベルリンのシンボルですが、ポツダムにもあります。規模は小さいですが、何となく親しみやすい印象です。
    1771年に落成した門で、七年戦争の戦勝記念碑です。ベルリンのブランデンブルク門は1791年の竣工ですから、わずかですがポツダムの門のほうが古いのです。

     

    このポツダムが歴史に初めて現れたのは西暦993年の文献です、「Poztupimi」として記述されたのが最初で、1317年までは小さな町とされていました。
    それでも1345年には都市特権を得ることとなり、その後に三十年戦争によって大きな被害を受けました。
    ポツダムが大きく変化したのは、1660年にブランデンブルク=プロイセンの選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムによります。ポツダムに狩猟館を置くこととなり、さらにプロイセンの皇帝を輩出するホーエンツォレルン家の宮殿が建設されることになったのです。
    その中のひとつがサンスーシ宮殿で、18世紀半ばのフリードリヒ2世の治世の間でした。

     

    ブランデンブルク門から北上するとサンスーシー公園になり、庭園が続きます。
    その先の右手にサンスーシ宮殿が現れます。

     

     

    フリードリヒ2世は第二次シュレージエン戦争の最中に宮殿建築を行ったことから、敵対するオーストリアへの挑戦行為ともいわれました。
    もともとはフリードリヒ2世の「夏の離宮」として建設されましたが、実際には離宮ではなく居城となりました。
    設計を担当したはクノーベルスドルフで、彼は壮麗な宮殿の建築プランを提案したものの、フリードリヒ2世の意向により小さいが、瀟洒な宮殿となりました。ただ小さいといっても東西が100メートル、部屋数12という規模です。
    ただサン・スーシ宮殿は平屋建てなので、高さはなく、ヴェルサイユ、ルーヴル、シェーンブルンなどの宮殿と比較するとかなり地味な印象にもなります。
    ロココ建築の宮殿で、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

     

    サンスーシー宮殿の次に向かったのはオーランジェリー宮殿でした。

     

  • マルサラ(Marsala)のペルペトゥオ(Perpetuo)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマルサラ(Marsala)のペルペトゥオ(Perpetuo)について勝手に語ります。

     

     

    ペルペトゥオ(Perpetuo)とはラテン語で「永遠に」という意味です。
    「永遠に終わらないワイン」なのです。
    それは、樽に入れたワインを少しずつ飲んでいき、毎年、新しいワインを継ぎ足すことで、絶えず樽が満たされた「永遠に」終わらないということです。つぎ足しながら熟成させる独特のワインといえます。

     

    そのペルペトゥオは、アルコール度も高めで、16度くらいまで上がるようです。すべて自然発酵の作用です。毎年新しいワインがつぎ足されることで、酵母が活性化され、アルコール度数が上昇し、これが保存料の代わりとなって、長期保存を可能としています。
    琥珀色の白ワインです。
    地中海の陽光が反射し、ワイングラスの中で美しい輝やきを誇ります。

     

    マルサラ(Marsala)は、シチリア島の西海岸に位置し、イタリア共和国シチリア州トラーパニ県では最大の都市です。
    マルサラ・ワインとよばれるものもあり、これは酒精強化ワインです。

     

    この都市の歴史は、地中海にあることから、古代のカルタゴ人から始まります。
    フェニキア人都市モティアがあり、その後にシチリアの第一の要塞リルバイウム(Lilybaeum)が築かれた場所です。
    この要塞は紀元前396年に、カルタゴ人航海者ヒミルコ(en:Himilco)によって建設されたものです。かなり強固な要塞で、ローマも最初は零落させることができませんでした。
    のちにポエニ戦争に巻き込まれ、ローマ軍遠征の拠点になったりしました。皇帝アウグストゥスの時代には地方自治権を獲得しました。

     

    マルサラの名称は、マルサ・アラー(Marsa Allah)やマルサ・アリー(Marsa Ali)によるもので、意味としては「偉大な港」となります。
    シチリアがアラブ人の支配を受けた時代のことでした。

     

    そのような歴史を持つマルサラですが、ペルペトゥオは古代フェニキュア人の時代から続いていると言われます。

     

    マルサラ・ワインについてはこのような逸話もあります。
    1773年のことです。イギリス商人だったジョン・ウッドハウスがたまたまマルサラに立ち寄り、食事のときにワインを飲みました。
    そのワインの美味しさから、イギリスに持ち帰ろうと思いました。しかし、そのままでは本国に届くまでの保存の問題があり、アルコールを添加することを考えました。その時代、イギリスではマデイラ・ワインなどの酒精強化ワインが人気あったため、ごく自然にその考えを持ったといわれます。
    これがマルサラ・ワインとして認知されたという話です。
    ペルペトゥオという伝統とは別に、このような逸話があるほど、ここのワインは高品質であるということなのかもしれません。

     

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