今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • フェリザイ(Ferizaj)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフェリザイ(Ferizaj)について勝手に語ります。

     

     

    フェリザイ(Ferizaj)は、コソボでプリシュティナ・プリズレンに次ぐ3番目の都市です。ただし、人口はわずかに11万人程度の規模です。コソボについては、ワインも含めて以前にもご紹介してきました。

     

    【参考ページ】
    コソボ共和国(Republika e Kosovës)のワイン
    プリシュティナ(Prishtina)
    プリズレン(Prizren)
    ジャコヴァ(Gjakova)
    ミトロヴィツァ(Mitrovica)

     

    この都市名の由来は、少し変わっていて、「Feriz Shasivari」という人名に因んで名付けられました。人名由来というと、支配者の皇帝や王、あるいは地元の英雄などが多いですが、「Feriz Shasivari」はここでホテルを経営していた人物です。

     

    19世紀にベオグラードとテッサロニキを結ぶ鉄道が開通し、ここに駅ができ、ホテルができて、繁栄の基礎ができてといえます。それ以前はオスマン帝国が支配する小さな村でした。

     

    位置的に20世紀は戦乱の繰り返しでした。まず、第一次バルカン戦争で、オスマン帝国に対して、セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアのバルカン同盟が戦争をしました。バルカン同盟軍はオスマン帝国軍より、兵員数にしても戦略的な経験値でも劣勢でしたが、見事にオスマン帝国軍に勝利しました。この戦争により、ヨーロッパにあるオスマン帝国のほとんどの領地を奪い返すことに繋がりました。

     

    また、アルバニア人の多いコソボにはセルビアが侵攻しました。このときにフェリザイに吸収するアルバニア人は避難したり、処刑されたりしたといいます。その結果、フェリザイはセルビア王国領となり、都市名もセルビアのステファン・ウロシュ5世に因んでウロシェヴァツと改名されました。

     

    1929年からはユーゴスラビア王国(Kraljevina Jugoslavija)となり、第二次世界大戦では親ドイツ路線で、1941年には日独伊三国同盟へ加入する意思を表明しました。これに対してクーデターが起こり、政権が崩壊しました。ユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立しましたが、このときにヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito)が率いるパルチザンが活躍しました。彼に主導によりユーゴスラビア連邦人民共和国が成立しました。

     

    そして絶対的な権力と人気のあったチトー死去後、ユーゴスラビアは戦乱を迎えることになりました。この地域ではコソボ紛争です。フェリザイの近くには、アメリカ軍のコソボ治安維持部隊の基地がありました。現在でもアメリカの「Brown & Root」が残っています。

     

     

  • ザイェチャル(Zăiceari)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はザイェチャル(Zaječar)について勝手に語ります。

     

     

    ザイェチャル(Zaječar)は、セルビア東部にある小さな都市です。人口はわずかに約4万人程度です。居住者はセルビア人すが、約4.5%はヴラフ人です。この「ヴラフ」ですが、もともとhsゲルマン語の「異邦人」を意味する「Walha」に由来しているようです。古代ゲルマン人がローマ帝国のラテン系や当時ガイアといわれたフランスのケルト系の人々などを指すものだったようです。特にローマ系を自認するラテン系のルーマニア人が中心の民族となっています。ザイェチャルもブルガリアとともにルーマニア国境にも比較的近い距離にあります。

     

    ザイェチャルは教育関連の施設が多くあり、初中等学校だけでなく、メガトレンド大学(Мегатренд универзитет)の学部もあります。この大学はセルビアで最も歴史ある私立大学で、本拠地は首都のベオグラードにあります。その一方で、ロック音楽の祭典ギタリヤダ(Gitarijada)や現代アートの祭典「ZALET」が開催される年でもあります。

     

    ここは歴史的に古い都市ではなく、オスマン帝国が支配していた1466年当時、わずかに8世帯の家族が住む集落でしかなかったようです。しかし、近郊にあるガムジグラード(Гамзиград)はユネスコの世界遺産にも登録された遺跡があります。107年、ローマのトラヤヌス帝により征服され、この地域はローマ属州のダキアとなりました。しかし、その後にアウレリアヌス帝により、「ダキア・リペンシス」を創設して、この地方の再編を行いました。この新しい属州となった際、ロムリアーナの城塞がつくられました。ガレリウス帝の時代に繁栄し、さらに城壁と宮殿まで建てられました。ガレリウスもこの宮殿に埋葬されました。東ローマ帝国時代にも重要な場所でしたが、6世紀に侵入してきたアヴァール人により破壊されました。

     

    このように近郊に歴史的な遺跡はあるものの、ザイェチャルそのものは、ルーマニア系のヴラフ人がウサギを飼育する集落でしかなかったのでした。それがオスマン帝国支配以降、ユーゴスラビアなどの時代を経て、現在はティモチェカ・クライナ地方(Timočka Krajina)の中心都市になりました。

     

     

  • カラコルム(Qaraqorum)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカラコルム(Qaraqorum)について勝手に語ります。

     

     

    久しぶりにモンゴルです。
    モンゴルの首都ウランバートルから西へ約230kmの位置で、モンゴル高原中央部にあるカラコルム(Qaraqorum)は、モンゴル帝国の首都だったことで知られています。テュルク語やモンゴル語で「黒い砂礫」を意味する都市名で、現在のモンゴル語ではハルホリン(Хархорин)となっています。

     

    モンゴル帝国の首都となったのは、初代のチンギス・ハーン(Činggis Qan)ではなく、第2代のオゴデイ(Ögödei)でした。ただし、チンギス・ハーンがもともとこの地に兵站基地を造営し、そこへオゴデイが宮殿を築いたことから首都となったのでした。元朝の初代皇帝となったクビライ(忽必烈)は、現在の中国を支配したわけですから、首都を大都(現在の北京)にしましたが、カラコルムはモンゴル本土の拠点として重要都市のままでした。北元になったときに再び首都となりました。

     

    しかし、モンゴル帝国の盛衰とともに、カラコルムは衰退していきました。16世紀末になると、チベット仏教のエルデネ・ゾー寺院を建設する際には、この都市から資材を調達したこともあり、カラコルムは人だけでなく、インフラも含めて荒廃していきました。そのまま、歴史上から姿を消してしまいました。

     

    遺跡として発見されたのが、19世紀末でした。発見者はロシアの研究者ニコライ・ヤドリンツェフ(Nikolai Yadrintsev)でした。発掘調査が始まり、20世紀にはソビエト連邦とモンゴル人民共和国の合同調査も行われました。このときに宮殿の発掘で論争もありましたが、最終的に宮殿の存在が結論となりました。20世紀末になると、日本やドイツなどもモンゴルとの共同調査を行うようになりました。

     

     

  • ソルトレイクシティ(Salt Lake City)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はソルトレイクシティ(Salt Lake City)について勝手に語ります。

     

     

    ソルトレイクシティ(Salt Lake City)といえば、アメリカのユタ州の州都であり、2002年の冬季オリンピックが開催されたことでも知られています。また、ここは宗教都市でもあります。

     

    この都市ができたのは末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)によりつくられました。日本では一般的にモルモン教として知られます。この教会の設立者はジョセフ・スミス・ジュニア(Joseph Smith, Jr.)です。彼の先祖はイングランドからの移住者で、1600年代から5世代続く家系でした。モルモン教の聖典は「モルモン書」で、モルモン(Mormon)とは、最後の預言者モロナイの父の名前です。「書」となっていますが、黄金の板に書かれた文書のことで、1827年9月22日にジョセフ・スミス・ジュニアが発見したとされています。文章は古代の変体エジプト語で書かれたもので、従来のキリスト教の聖書とは別で、「もうひとつの証(Another Testament)」だというものです。これを発見した場所が、中東でもエジプトでもなく、ニューヨーク州ウエイン郡でした。

     

    アメリカ国内では多くの信徒を獲得していき、カトリック教会、ルーテル教会、バプティスト派、メソジスト派、ディサイプルスと並ぶ教派にまで発展しました。ただし、伝統的キリスト教ではなく、宗教学的にはキリスト教系の新宗教と分類されています。そのためか、教義の違いも含めて、カトリック教会、正教会、プロテスタント教会などからは「異端」という扱いも受けています。

     

    ジョセフ・スミス・ジュニアは神の啓示により「モルモン書」を発見し、その上で原始キリスト教会が現代に蘇るとしています。カトリックとの教義の違いでは、代表的なものとしては三位一体説の否認が挙げられます。太古からこの解釈については「異端」を生むことに繋がっています。また、当然ながら「モルモン書」は従来の「聖書」と並列すべき存在となっています。

     

    このスミス・ジュニアによるモルモン教は、急激な拡大をしたものの、その分、周囲との衝突も多くありました。1831年まではミズーリ州ジャクソン郡インディペンデンスが拠点でしたが、周囲との抗争いより追放され、ファー・ウエストやイリノイ州ナヴーへのと拠点を移そうとしましが、うまくいきませんでした。そんな中、1844年にジョゼフ・スミス・ジュニアが襲撃を受けて死亡してしまいました。そこで残った教徒たちは西方へと移動し、1847年、グレートソルト湖の砂漠地帯に都市を築くことを宣言したのでした。決して環境に恵まれた地域ではありませんでしたが、ここkがモルモン教の拠点となり、さらにゴールドラッシュの中継地点となったことで、都市としての発展がなされました。

     

    実は現在のソルトレイクシティは、日系人の割合が比較的高い都市といえます。モルモン教信者の日系人が移住してきたというわけではなく、太平洋戦争のときに日系人をここの強制収容キャンプに移住させてきたからでした。

     

     

  • カールスルーエ(Karlsruhe)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカールスルーエ(Karlsruhe)について勝手に語ります。

     

     

    カールスルーエ(Karlsruhe)というと、ドイツの「司法首都」という機能を有する都市として知られています。日本の最高裁判所に相当するドイツの連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht) や連邦裁判所(Bundesgerichtshof)があるからです。日本のように東京にあらゆる機能が集中するのではなく、神聖ローマ帝国時代から分散してきた伝統が残っています。

     

    しかし、個人的には、カールスルーエというと友人が留学していた都市としての思い出が強いといえます。以前にフランクフルトで失踪したピアニストを探す際にも、ここに留学していた友人と情報交換を行っていました。

     

    【参考ページ】
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-1
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-2
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-3
    フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) 1990-4
    ハンブルク 6(Hamburg 6 und Stade)シュターデ

     

    カールスルーエは、ライン川の近くにあり、フランスとの国境にも近い位置にあります。パリからストラスブール(Strasbourg)を経由する国際列車が停車します。そのためワインでは、アルザス地方の産地と同じ地域ともいえるくらいです。

     

    【参考ページ】
    ストラスブール病院のワイン(Cave des Hospices Strasbourg)
    フランスのワイン産地とワイン法

     

    黒い森というシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)も広がっている地域で、この地域を代表する温泉保養地であるバーデン=バーデン(Baden-Baden)は、カールスルーエから約30㎞ほど南の位置にあります。そのためドイツ語としてはバーデン語を話す人もいますが、実はアレマン語と、南フランケン語などの方言も混在していて、標準ドイツ語を学んだ日本人留学生は慣れるまで大変だった気もします。

     

    ここは中央駅に降り立つと、すぐ正面に動物園があり、西ベルリン時代の中心駅だった動物園駅を思い出させます。また、この都市は計画都市で、宮殿を中心に道路網が放射状に伸びているのです。ただし円ではなく、南側に向けた扇形になっています。これは太陽の光線をあらわすとされています。城壁に囲まれ、細々とした旧市街で成り立つドイツの都市が多い中、ここは貴重なドイツのバロック都市となっています。

     

    しかし、フランス国境に近い都市ですから、第二次世界大戦では甚大な被害を受けました。この復興に際し、宮殿から扇型に伸びる道路網を整備し、1970年代には大規模な都市再開発を行いました。

     

    友人はカールスルーエ音楽大学(Staatliche Hochschule für Musik)に留学していましたが、世界的にはカールスルーエ工科大学(Karlsruher Institut für Technologie)が有名です。1825年にルートヴィヒ1世 によって創立された大学で、ドイツでは最古の工業大学です。今でもドイツの工学系大学ではナンバーワンといわれています。

     

     

  • アンタキヤ(Antakya)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアンタキヤ(Antakya)について勝手に語ります。

     

     

    トルコのアンタキヤ(Antakya)は人口約15万人の地方都市ですが、ここをラテン語読みするとアンティオキアになり、ギリシア語表記で「Αντιόχεια」となり、ギリシア植民都市として各地に存在した名称になります。その中で最も有名なアンティオキアといえば、シリアにあったセレウコス朝シリア王セレウコス1世ニカノルが建設した都市となります。それが現在、トルコ領となったアンタキヤです。セレウコス朝の首都で、ヘレニズム都市で最も繁栄していました。ローマ帝国によりセレウコス朝が滅亡しても、ローマ帝国では、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ帝国第三の都市にまでなっていました。

     

    もう1点、ここは初期のキリスト教にとっても重要な場所でした。「マタイによる福音書」が成立したのもここだといわれ、パウロが布教の拠点とした場所でもありました。それだけにキリスト教の5大本山ともいうべき場所に入りました。ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、エルサレムと並んで、五大総主教座の一つだったのでした。そのため、現在でもアンティオキア正教会やアンティオキア総主教庁の名称が残っています。ただし、正教会の中で大きな位置を示すものではなくなっています。

     

    キリスト教世界からイスラム世界に代わったのは7世紀からで、それ以降は北シリアでの政治や経済、宗教の中心都市から外れました。代わりにダマスカスやアレッポがその役割を担うようになりました。そして1516年、オスマン帝国がシリアを征服したことで、アンタキヤはオスマン帝国のアレッポ州に属することになりました。このときにトルコ系住民が多く入ってきました。

     

    第一次世界大戦でオスマン帝国が解体され、フランス委任統治領シリアとなりましたが、トルコ系住民によるシリアからの分離運動が起きました。結果的に1939年、トルコ共和国に編入されました。

     

     

  • シナイ山(Mount Sinai)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシナイ山(Mount Sinai)について勝手に語ります。

     

     

    旧約聖書で、モーセが神から10戒を授かった場所として知られるのがシナイ山(Mount Sinai)です。「私以外の何者も神としてはならない」とか「偶像を作ってはならない」とかを授かった10戒です。ここで唯一絶対神との契約がなされたことになりますが、逆にいえば神は一般的に唯一絶対の存在ではなかったからともいえます。実際、それまでは多神教が一般的で、モーセたちも多神教のエジプトから逃げてくる途中だったわけです。

     

    そんなシナイ山ですが、実際の山の位置については定説はあるものの、確定はしていません。シナイ山なので、シナイ半島にある山であるのは事実でしょうし、アラブ人が「モーセの山」を意味するジェベル・ムーサー(Jabal Mūsā)という半島南部の山がそうだとされています。標高は2,285mで、モーセに関する伝承も多く残っているそうです。

     

    キリスト教の正教会で世界最古の修道院もこの山の近くに建設されました。それが世界遺産にもなっている聖カタリナ修道院(Saint Catherine’s Monastery)です。ここはシナイ山正教会全体を構成しする自治正教会になっています、ただし、大主教はエルサレム総主教庁より叙聖されるのが伝統となっています。

     

    そんな背景も考えれば、ここがシナイ山で間違いない気もしますが、聖書の記述と対比させるとおかしな点もあります。聖書で描写されている大平原はなく、そもそもモーセ一行がエジプトからパレスチナへ向かうには、この場所は南にありすぎります。わざわざここまで遠回りする理由がありません。そのため、別の山をシナイ山と比定する説もあります。本当はどうだったのか分かりませんが、太古より特別に神聖視されてきた山なのは事実なので、それだけでも価値があるといえます。

     

     

  • アトス自治修道士共和国(Autonomous Monastic State of the Holy Mountain)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアトス自治修道士共和国(Αυτόνομη Μοναστική Πολιτεία Αγίου Όρους)について勝手に語ります。

     

     

    ギリシャ正教最大の聖地であり、修道院共同体として宗教国家となっているアトス自治修道士共和国(Αυτόνομη Μοναστική Πολιτεία Αγίου Όρους)は、ギリシャの中央マケドニア南方に位置しています。ローマ市内にある独立国家のバチカン市国と似た印象を持つかもしれませんが、ここの場合、あくまでコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあります。修道士たち約2,000人が、中世から続く厳しい修行生活を送っています。

     

    【参考ページ】
    キリストの血入門 21

     

    ここには「聖山」といわれる標高2,033mのアトス山があります。半島になっていて、基本的に海からの交通手段しかない場所です。しかもその沿岸部は断崖絶壁となっているため、隔絶された秘境といえる場所なのです。 外国人がここに入るためには、事前の巡礼許可が必要になっていて、バチカンのように気軽に立ち入ることはできません。ギリシャ外務省宗教課による特別査証の取得が必須になっています。しかも、このビザを取得するためには、約1ヶ月の期間が必要とのことです。さらにいうと、女性と単独の未成年は入国禁止です。船も女性が乗っていた場合は、アトス半島の岸から500m以内を通ることが許されていません。これは伝統的なことではありますが、さすがに現代の感覚からすると問題視され、2003年、欧州議会は男女均等指令により撤廃要請しているそうです。

     

    ここに修道士たちが集まり、修行する共同体生活を始めたのは7世紀ころのことでした。修道院としてはメギスティス・ラヴラ修道院を創立したのが963年で、これは東ローマ帝国のニケフォロス2世フォカスから免税特権を賦与されました。ここから厳しい戒律によるスタイルが生み出され、続々と修道院が建てられていきました。修道院の数も多くなり、修道士の数も最盛期には約6万人にまで達したといわれます。

     

    コンスタンティノープルがオスマン帝国軍により陥落し、ついに東ローマ帝国が滅亡しました。この地もオスマン帝国が支配するようになりました。それでも、ここの修道院は破壊されず、キリスト教の正教会として継続し、そのまま伝統を守り続けました。オスマン帝国もアトスには自治権を認めたことから、ギリシャ人にとってはイスラム圏以前の文化を維持する場所となり、さらにこの修道院から多くの学者や教育者が誕生しました。

     

    ギリシャ王国がオスマン帝国から独立した後も、ギリシャ領土ではなく、治外法権を認めた独立の共和国という扱いになりました。それが現在まで続いているのです。

     

     

  • タルスス(Tarsus)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はタルスス(Tarsus)について勝手に語ります。

     

     

    トルコ中南部メルスィン県にあるタルスス(Tarsus)といえば、初期キリスト教を代表する人物であり、新約聖書の著者の一人として知られるパウロの生誕地です。最初はイエスを迫害する側にいましたが、その後、ヘレニズム世界に伝道していきました。

     

    このパウロは、タルススのテント職人でした。ローマ市民権を保持するユダヤ人で、ユダヤ教ではファリサイ派に属していました。エルサレムに行き、ガマリエル1世からユダヤ教神学を学び、キリスト教徒を迫害していました。ステファノ殺害も賛成派でした。そんな彼がキリスト教に改心したのは、目が見えなくなったとき、キリスト教徒の神のお告げにより、祈りで目が見えるようになったことが契機だといいます。このとき、目から鱗のようなものが落ちたといいます。これが起源34年頃だといわれています。

     

    タルススについては、パウロが生まれるはるか前から多くの支配者がいました。、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、マケドニア王国と続き、ローマ帝国の支配となりました。その後も、アルメニア、東ローマ帝国と続き、東ローマ帝国の勢力が弱まると、キリスト教世界から離れ、セルジューク朝、キリキア・アルメニア王国、オスマン帝国と続きました。そのたびに街は破壊され、再建を繰り返してきたのでした。首都の役割を担ったのはキリキア・アルメニア王国の時代でした。

     

    それほどまでに古代からの歴史を持つ都市なのは、通商路が交差する場所的な利点があったからといえます。そのため、周囲には遺跡も多く、支配者もヨーロッパからアジアまで様々で、日本では知名度が低いでしょうが、それほど重要な都市だったのでした。

     

     

  • キリストの血入門 52

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第52回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は中世に誕生した教派であるヴァルド派(Waldensians)を取り上げました。今回からも異端派を取り上げてみようと思います。まずはキリスト教仮現説(Docetismus)です。

     

    キリスト教仮現説というのは、、イエスの身体性を否定する教説のことです。分かりやすくいうと、イエスは人として誕生し、行動し、死んでいったこと、つまりイエスの「人」の部分は、単に一般の人間から、「人」のように見えただけmというものです。三位一体とは当然ながら相いれないものですので、主流派からは異端とされました。

     

    325年の第1ニカイア公会議により、正統派は明確にイエスを神としていました。これは原始キリスト教から続く伝統的な考え方ですが、一方で、唯一絶対神である神とイエスとの関係は、何ともあやふやなことを招いています。「受肉」といって、神が人間になることは明らかにキリスト教では矛盾となるからです。このようにイエスを神の面でとらえるのが当然でありながら、それ自体が矛盾を含むことで、必然的にその矛盾を解消するために、イエスの人間としての側面、肉体性を否定することが行われました。それが仮現説であり、これはのちの時代に「単性説」にも通ずる部分があります。

     

    この仮現説はグノーシス主義の立場でもあることが、『ナグ・ハマディ写本』の発見などによりよりわかるようになりました。イエスの人間としての「身体性」を完全否定している点で、例えば十字架にかけられたのは別の人物だとまで主張しています。外見にとらわれる無知な人々を笑ってさえいる記述が、『異端反駁』にあるほどです。

     

    ただし、グノーシス主義と仮現説はイコールで結ばれるものではなく、グノーシス主義の考え方の一部に仮現説があるというものです。グノーシス主義は二元論で、「物質的・肉体的なもの」と「霊的なもの」とを対立概念としています。「物質的・肉体的」が「悪」であり、「霊的」が「善」であることから、両者は相容れない対立的な存在としています。この根本的な考え方からすれば、イエスの人間としての部分は「悪」ということになり、もしイエスが神であるならば、「悪」である肉体を持つはずがない、ということになるわけです。

     

    もし、この二元論が正しいとするならば、十字架で苦しみ、死んでいったイエスとは何か? という問いが生まれます。この受難が三位一体説では大きな意味を持ちますが、仮現説ではそもそも「悪」である肉体を捨てることは、本来の「善」である「霊」になるだけで、受難などない、ということになるわけです。そうすると復活というのも、一般的な意味が変わってきます。霊的な啓示でしかなくなるわけです。

     

    これについては「トマスによる福音書」でも、肉体的復活を否定しています。しかし、受肉は表現しているので、これだけで仮現説とはいえないかもしれません。いずれにしても、キリスト教にとって、このイエスの扱いはかなり難解といえるのではないでしょうか。

     

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