今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ハンブルク近郊のアウトバーン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンブルクの鉄道に続いて、近郊のアウトバーンについて勝手に語ります。今回もワイン片手にお読みいただければありがたく思います。

     

     

    ハンブルクは鉄道だけでなく、アウトバーンも使い勝手が良い都市です。
    街の中心を囲む位置に、主要なアウトバーンが各方面に伸びています。
    アウトバーン(Autobahn)といえば、ドイツだけでなく、オーストリアやスイスでも高速道路のことで、速度無制限の高速道路として知られています。しかし、速度無制限の区域は全区域というわけではなく、速度制限のある区域も多くあります。
    速度無制限の区域でも、推奨速度があり、それは時速130 km/hです。日本と同じように混雑する区間もあり、また日本で言うジャンクションなどの合流分岐の付近、または山間部などの急坂区間などでは制限速度が設定されているケースが多くあります。その場合は、100 km/hから130 km/hなので、これだけでも日本とは異なることがよく分かります。

     

    さて、ハンブルクのアウトバーンですが、東側に1号線が走っています。
    オルデンブルク・イン・ホルシュタインからザールブリュッケンまで続く、総距離730 kmの路線です。しかし、実際にはケルンからトリーアの間が未完成ではあります。
    ハンブルクから北西に伸びた部分はリューベックを経由してデンマーク方面に向かいますが、最終的に、フェールマン島、ロラン島、フォルスター島などを経由して、橋を新たに作って、デンマークのコペンハーゲンまで接続する計画があるといわれますが、詳細は知りません。
    反対方向ですと、南西に向かっていて、ブレーメンに至ります。

     

    1号線とは都市の中心部を挟んで反対側の西側に7号線が南北に貫いています。
    この7号線はドイツ最長の路線で、距離は962 kmに及びます。
    ドイツ国内を最北端付近から最南端付近まで縦断しています。北はデンマーク国境で、南はオーストリア国境のフュッセン付近にまで続いています。そのため、この路線はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ハンブルク州、ニーダーザクセン州、ヘッセン州、バイエルン州、バーデン=ヴュルテンベルク州、バイエルン州を通っています。
    ハンブルク南側のぜーフェタールで1号線と交差し、このジャンクションの近くで39号線とも交差します。7号線は南下するとハノーファーに至ります。

     

    39号線は2つの分断された区間からなる路線で、ハンブルク近郊では北の区間に相当します。リューネブルクまでの区間だけがつながっていて、ヴォルフスブルクからヒルデスハイム付近が南側の区間になります。もし全線開通すれば距離は204 kmになる予定だそうです。

     

    23号線はハイデ付近からハンブルクまでの路線で、距離は96 kmです。
    ハンブルクは終点になり、この路線の沿線は自分にとっては未知の場所で、したがってこの路線は使ったことがありません。

     

    24号線はベルリン付近まで続く237 kmの路線です。
    1889年にベルリンの壁が崩壊してから、翌年の10月3日の統一の日を迎えた時期、この路線はかなり渋滞していました。
    ハンブルクのホルンからそのまま24号線を進むと、1号線とのジャンクションで必ず渋滞に直面した想い出があります。しかも、その渋滞を抜けた先でも断続渋滞によくあい、いつしか使わない路線になった想い出があります。

     

    25号線は東京の第三京浜のようなもので、アウトバーンというよりバイバスのようなものです。
    1号線のモールフレーからジャクソンで別れ、東のエシェブルクまでのわずか18 kmの路線です。これだけの距離しかなく、エシェブルクには特に用事もなかったので、この路線は使ったことがありません。

     

    252号線や255号線は1号線を補助して市街地へのアプローチの役目を持つような路線です。

     

    ドイツ第二の都市だけあって、周辺道路もよく整備され、鉄道だけでなく、クルマでの移動もかなり快適です。
    ただエルベ川が巨大な港になっていることから、大きく迂回しないと目的地につけない場所もあります。でも、そこはむしろ魅力といえるかもしれません。

  • ハンブルクの主要駅

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルクの鉄道について勝手に語ります。ワイン片手にお読みいただければありがたく思います。

     

     

    パリやモスクワなどは方面別の鉄道ターミナル駅が、市内に点在していて、各方面のターミナルとなる中央駅がありません。
    かつてはドイツのベルリンもそうでしたが、第二次大戦後の東西分裂から、統一を経て、現在ではターミナル機能を整理し、市内に新たにつくった中央駅に集約しました。その結果、劇的に使いやすく、しかもわかりやすくなりました。
    東京でも北の玄関口だった上野駅と、東海道方面の東京駅が別れていましたが、直通で繋がり、事実上の中央駅機能を東京駅が担うことになりました。逆にリニアのターミナルを新たに品川駅にしたり、新宿駅や池袋駅もターミナル機能は薄れていません。

     

    それぞれの都市には、それぞれの事情によってターミナルの変遷があり、その変化が都市の進む方向を決めているのかもしれません。そう考えれば、鉄道マニアでなくとも、都市の主要駅に注目していくことで、その都市の本当の顔を垣間見ることができるかもしれません。
    そこで今回はドイツ第二の大都市を取り上げようと思います。ハンブルクです。

     

    ハンブルクは市内の主要鉄道駅は4つあります。
    中央駅(Hauptbahnhof)、アルトナ駅 (Bahnhof Hamburg-Altona) 、ダムトーア駅(Bahnhof Hamburg Dammtor)、ハールブルク駅(Bahnhof Hamburg-Harburg)です。これらは長距離列車が連続して停車する駅でもあり、ベルリンではツォー駅(Zoologischer Garten)、中央駅(Hauptbahnhof)、フリードリヒシュトラーセ駅(Friedrichstraße)、アレクサンダープラッツ駅(Alexanderplatz)の関係に似ていますが、ベルリンと異なり、ハンブルクのそれぞれの駅は、明確に地域性が異なります。

     

    まずハールブルク駅ですが、この駅だけエルベ川の反対側にあります。
    中心街から距離があり、独立した街のような雰囲気です。
    路線は、エルベ川の本流や支流、中洲などを越え、アルスター湖の畔にある中央駅に着きます。ここがハンブルクの表玄関です。
    中央駅は巨大で、1日の平均利用者数は約45万人という規模を誇ります。ここからベルリンには最速で1時間42分で行くことが可能です。
    次のダムトーア駅はハンブルクの中心地域に位置し、住所としてはアイムスビュッテル区(Eimsbüttel)ローゼルバウム地区(Rotherbaum)になり、ハンブルク大学の最寄り駅となります。
    最後のアルトナ駅はヨーロッパらしい行き止まり式の頭端駅で、終着駅らしい雰囲気と規模があります。車両基地や貨物ヤードなどもあります。
    もともとはデンマーク領の地域にある駅でしたが、ハンブルクの一部となり、長距離列車の始発・終着駅として発展しました。

     

    ハンブルク中央駅

     

    これらの主要駅はドイツ国鉄(DB)の駅ですが、近郊電車のSバーン、地下鉄のUバーンなどがそれぞれに結ばれ、都市の交通機能を維持しています。またバスだけでなくトラム(Strassenbahn)もあります。
    東京在住者であれば、ハンブルクの交通網は比較的分かりやすいかもしれません。ベルリンほどの規模があるわけではないのと、都市のそれぞれの街に特徴があることで、目的地に向かう際もあまり迷いません。
    また、フランクフルト(マイン)やミュンヘンのような、いかにもヨーロッパという中央駅が中心にあるわけではないので、かなり馴染みやすい雰囲気があります。
    個人的には世界で一番好きな都市であり、好きな中央駅です。
    もっとも、ベルリン中央駅も捨てがたくなりましたが。

     

    ワイン片手に語るには、中途半端な内容でしたが、鉄道だけでなくアウトバーンなどの道路の側面や、他の都市についても勝手に語るのも良い気がしてきました。

  • バート・ノイェンアール=アールヴァイラー (Bad Neuenahr-Ahrweiler)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)について勝手に語ります。

     

    温泉とカジノの街であり、アール・ワインの産地として知られるバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)は、ドイツ南西部のラインラント=プファルツ州アールヴァイラー郡の郡庁所在地です。
    ケルンやボンの南側で、コブレンツの北側に位置しています。
    長い町の名は、2つが合併したからで、東のバート・ノイェンアールと西のアールヴァイラーが1969年に統合されたことで、この名になりました。
    2つの町の中心地は2kmくらい離れていて、バート・ノイエンアールがいわば新市街、アールヴァイラーが旧市街といった感じになっています。

     

    ドイツの地名で「バート(Bad)」という名がついているのは、温泉保養地だったことを意味します。現在では温泉だけでなく、高級ホテルやカジノなどもあり、ドイツの代表格はバーデン・バーデンですが、ここも規模は異なるものの、同じ雰囲気があるといえます。
    また、ここで有名なのはアポリナリス(Apollinaris)です。
    ミネラルウォーターですが、源泉が1852年に発見され、1892年にはイギリスで行われたトレードショーで最高品質を示すレッド・トライアングル賞を得たものです。
    ドイツだけでなく欧州各国で使われ、さらに北米でも人気だといいます。
    成分は、マグネシウム、ナトリウム、重炭酸塩で、この三重奏が醸す重厚感が特徴のミネラルウォーターです。
    赤い三角マークがトレード・マークで、ドイツのミネラルウォーターの中でも最高級ランクのものです。ただ、硬度が高く、かなりの重量級なので、日本人には合わないかもしれません。

     

    旧市街の雰囲気を残すアールヴァイラーは、典型的なドイツの町の雰囲気を残し、城壁に囲まれています。城壁の中に入ると中世の町並みが残り、古い木組みの家並みが並ぶ光景はなかなかに見応えがあります。
    ここの城壁は第二次大戦の戦火を逃れ、ほぼ完全な姿で残っています。
    しかも、リゾート地のせいか、日曜日でも営業している店が他の町と比べると多く、観光客には助かります。

     

    ここからほど近い、アール川流域には狭い谷間を利用した急斜面にブドウ畑が点在しています。ブドウ栽培面積は約560ヘクタールで、ドイツでは最も小さい生産地ともいわれ、しかもドイツでは珍しく赤ワイン品種が中心の栽培です。

     

  • ヤギェウォ朝(Dynastia Jagiellonów)時代のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヤギェウォ朝(Dynastia Jagiellonów)時代のワインについて勝手に語ります。

     

     

    ヤギェウォ朝(Dynastia Jagiellonów)は、1386年から始まります。
    ポーランド王位を継承したヤドヴィガは当時まだ11歳で、リトアニア大公ヤギェウォ(ヨガイラ)と結婚したことで誕生した王朝です。
    ヤギェウォはこの結婚に際し、クラクフでヴワディスワフの名で洗礼を受け、キリスト教に改宗しました。またポーランド国王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとして戴冠し、リトアニアもキリスト教に改宗させました。

     

    この王朝成立に到る背景はかなり複雑で、当時のリトアニアは北西部が異教の地であり、現在のウクライナ、ベラルーシに、ロシアの旧キエフ大公国の地を含めた広大な地域でした。
    そのため、民族が異なり、宗教が異なり、さらに政治的な部分も異なる地域だったのです。
    そこへ、ドイツ騎士団の軍事的侵入とキリスト教改修への波が襲ってきた時代でもありました。

     

    わずか11歳で結婚したヤドヴィガは1399年に亡くなり、その死後すぐにポーランドでは聖女として崇敬を受けるようになりました。1997年には、ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。
    ヤドヴィガの死後はヴワディスワフ2世の統治が続き、それは以後35年以上も継続しました。
    この王朝はポーランドとリトアニアの2つの国を1572年まで支配していました。
    このヤギェウォ朝からベラルーシの君主やボヘミア、ハンガリーなどの王も出ましたが、最終的には断絶してしまいました。

     

    ところで中央ヨーロッパのスロバキアでは、このヤギェウォ朝の支配下の時代、スロバキアのワインはハンガリーと同等の品質であるとされ、しかも生産面でも統合されていました。

     

    中央ヨーロッパを代表するワインと言えばトカイワインかもしれませんが、このヤギェウォ朝の時代には明確な地域の区別はなく、品質も安定していたことから、もしかしたら現代よりワインにとっては恵まれた時代だったのかもしれません。

  • オデッサ(Одеса)のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオデッサ(Одеса)について勝手に語ります。

     

     

    ウクライナで3番目に大きな都市がオデッサです。
    黒海沿岸の港湾都市であり、ウクライナでは最大の港湾を誇り、人口は約101万人です。
    もともとはキンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人が居住していた周辺地域の中で、タタール人により集落が形成されたことに始まります。
    しかし、現在のオデッサの直接的な起源としては、15世紀になります。オスマン帝国によってタタール人集落地の跡地に新たに建設されたハジベイという集落が、現在のオデッサの始まりです。

     

    ロシア帝国が1789年にハジベイを占領し、のちにヤシ条約により正式にロシア領になりました。
    1794年から港が建設され、翌年からハジベイはオデッサに改称されました。
    その後のオデッサは都市としての発展をとげ、19世紀末にロシア帝国の領土の中で、ペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐ第四の都市にまで成長しました。貿易港としてはペテルブルクに次ぐ第二の港となりました。
    ソビエト連邦時代には、ウクライナ共和国オデッサ州の州都となりました。

     

    オデッサの気候はウクライナでも南側にあるため、ブドウ栽培に適しています。理想的とも言えるほどです。
    そのため、ワイン生産も行われ、例えばシャボー(Shabo)はウクライナ国内に流通するワイナリーで、特に赤ワインが人気だそうです。
    場所はオデッサの中心部からは約2時間ほど離れていますが、郊外ということもあり、広大なブドウ畑に巨大な工場があります。観光地として人気スポットになっています。
    設備も樹実していて、展示物やビデオを通して地域社会の歴史とワイナリーを共有することを目的としたものなどもあるそうです。

     

    また、オデッサはウクライナ人が多数を占める都市ですが、使われている言語はロシア語が圧倒的に多いのも特徴です。
    あるデータによれば、実際に家庭で話される言語は、ロシア語が78%、ウクライナ語が6%、ロシア語とウクライナ語の両方が15%だという数値もあるほどです。
    ただし、オデッサのロシア語はローカルな語彙や独特な言い回しが使われているそうです。スイスで話されるドイツ語のような感じでしょうか。
    いずれにしても多民族が集まり、発展した都市らしい名残といえます。

  • 世界最小の自称「国家」

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界最小の自称「国家」について勝手に語ります。

     

    出典 seiza-sekai.com

     

    ワインを飲みながら、意味のない薀蓄を語るには秋が似合います。
    日本だけでなく、世界のあらゆる場所で異常気象が起きてはいますが、一足先に秋に思いを馳せながらワインを傾けたいと思います。
    今回のテーマは世界最小の国です。

     

    一般的には世界最小の国というとバチカン市国といわれます。
    人口はわずかに827人だけで、国民はカトリックの高位の僧侶だけです。ローマ市内にある宗教国家であり都市国家になります。
    しかし、面積がバチカン市国より小さい自称「国家」があります。
    シーランド公国です。

     

    1967年、日本の元号では昭和42年の9月2日に、シーランド公国は独立を宣言しました。
    国土面積はわずかに207平方メートル、テニスコートと同じようなサイズです。また、海上にありますが、島ではありません。第二次世界大戦中にイギリスのブリテン島沿岸の一帯に作られた防衛拠点の一つで、「マンセル要塞(Maunsell Fort)」と呼ばれていたものの一つです。ブリテン島からの沖合10キロ程度の距離にあり、あまりに小さいため、Googleのマップでもわからないほどです。
    島ではないのに海上にあるというのは、砂堆の上に大きな柱が二本建てられ、その上に船のように平らな場所が設けられています。そこに居住区や対空砲台などが作られていました。
    イギリス軍の施設でしたので、戦時中は最大で300人程度の海軍兵員が駐留していた場所です。

     

    独立宣言をしたのは元イギリス陸軍少佐のパディ・ロイ・ベーツです。
    彼はイギリス放送法違反で訴えられた際に、当時この要塞がイギリスの領海外にあったことから、ここを不法占拠し、あげくには「独立宣言」まで発表したのです。
    そのときに、この要塞を「シーランド」と名付け、自身については 「シーランドの公、ロイ公殿下」(H.R.H. Prince Roy, The Prince of Sealand)と名乗りました。
    この建国宣言をした日が一緒に上陸した妻ジョアンの誕生日で、「プリンセス(公女)」の称号をプレゼントしたといいます。

     

    もちろんイギリス側も黙っているわけにはいかず、強制的に立ち退かせようとして裁判に訴えました。
    しかし、1968年11月25日の判決では、シーランドがイギリスの領海外にあり、イギリスを含めて周辺諸国が領有を主張していないことから、イギリス司法の管轄外というものでした。
    ロイ・ベーツはこの判決を受けて、「シーランド公国が事実上国家として承認された」とし、1975年には憲法・国旗・国歌を制定しました。

     

    成り立ちはともかく、独立国としてスタートしたシーランド公国ですが、1978年にロイ・ベーツが西ドイツの投資家アレクサンダー・アッヘンバッハを首相に任命したことで、大きな事件に発展しました。
    この首相任命は、ロイ・ベーツがカジノの運営を計画したことによるもので、7000万ドルのホテルとギャンブルの複合施設を建設しようという計画に基づくものでした。
    しかし、アッヘンバッハはクーデターを画策しました。
    利益独占を目的とするもので、仲間とともにシーランドを急襲し、ロイ・ベーツを国外追放し、息子のマイケル・ベーツを人質にしたのです。

     

    ロイ・ベーツはイギリスへと戻り、元軍人の人脈を活かして約20人の同志を募りました。そこでヘリコプターにより、奪還作戦を実行しました。その結果、シーランド公国を取り戻すことに成功しました。
    なお、これを契機としてシーランド騎士団が創設されました。
    アッヘンバッハは戦争捕虜としてを拘束され、西ドイツ政府はシーランド公国に直接外交官を送ることとなりました。その結果、捕虜は解放されることとなりました。
    まさに外交交渉だったわけで、ロイ・ベーツは「ドイツがシーランド公国を、事実上承認した」と主張するようになりました。

     

    2000年代になると、シーランド公国は「データ・ヘイブン」として利用され、サーバー設置されることになりました。これはアメリカのライアン・ラッキーがシーランド公国に移住してサーバーを設置したことに始まり、 政府と共同でヘイブンコー社が設立されました。
    国家による検問を受けないサーバーなので、あらゆるコンテンツを許容すると告知されました。世界貿易機関(WTO)とも関係していないので、国際的な知的財産法は適用されないとも主張しています。ただ、児童ポルノ、スパム、ハッキング目的でのサーバーの使用は禁止としていました。

     

    2006年6月23日には火災が発生し、公国の半分が焼けるということがありました。
    老朽化した発電機からの火災でした。ロイ・ベーツは国外にいたため、無事だったものの、「国土」に相当する部分は壊滅状態にまでなりました。
    同年、ロイ・ベーツは私財を投じて再整備を行い、発電機や配線系統の復旧を完了させたことで、公国として存続することが可能となりました。このときの再建方法として、爵位などを海外に販売し、その売上金が大きく貢献したといいます。

     

    2007年1月8日付のイギリス デイリー・テレグラフ紙には、驚くべき記事が掲載されていました。
    なんと、シーランド公国を6500万ポンドで売りに出していたのです。
    これに対して、スウェーデンで「パイレート・ベイ」のWEBサイトを扱う会社が買収に名乗りを上げました。しかし、シーランド公国側がこの買収を拒絶し、売買は実現しませんでした。

     

    ロイ・ベーツは、2012年10月9日永眠しました。享年91歳でした。
    息子で「摂政」のマイケル・ベーツ公世子が後を継ぎ、2代目シーランド公国公に即位しました。

     

    ちなみに、シーランド公国が建国宣言をして以来、世界のどの国も国家承認を明示的に行っていません。だから自称「国家」なのです。

  • サマルカンドのワイナリー

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサマルカンドのワイナリーについて勝手に語ります。

     

     

    サマルカンド(Samarkand)といえば、古代ギリシアの史料にも、漢文資料などにも登場する地域で、ヨーロッパ文化とアジア文化が交差する地域だったといえます。
    現在は、ウズベキスタンの古都であり、モスクの色から「青の都」と称される都市です。
    歴史も古く、紀元前10世紀ころからオアシス都市として発展したようです。住民はイラン系民族でした。古代中国の「後漢書」などでは「康国」と表記されていました。

     

    多くの王朝支配や、十字軍の影響、モンゴルの侵攻など、様々な歴史を経て、14世紀末からはティムール朝の首都として繁栄しました。しかしシャイバーニー朝の征服、ジャーン朝などと変遷も多く、それでも中央アジア屈指の主要都市として機能し、発展してきました。
    19世紀になるとロシア軍が占領し、ロシア領トルキスタンへ編入されてしまいました。その後は1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国になり、1930年までは首都でした。

     

    現在のウズベキスタン共和国は、首都がタシュケントになっています。
    もちろん、イスラムの国です。
    それでも厳しい禁酒国というわけではなく、旧ソ連邦の構成国だった時代に、共産主義的な意向なのか、宗教色が薄められたことにより、イスラムの戒律は緩められてきました。
    そのためアルコール類は販売されているのが実情です。

     

    そんなサマルカンドのワイナリーですが、サマルカンドワインファクトリー(самарканд винозавод)があります。
    ここには常設の博物館もあり、無料とのことです。
    この地でのワインの歴史がわかる小さな博物館らしいですが、ロシア語で表記されているそうです。
    肝心な味はどうかというと、一般的に糖度の高いワインといえます。そのためデザートワインも豊富です。
    ワイナリーにはテイスティングルームがり、10種類のワインをティスティングできるようですから、サマルカンドに行った際は足をのばすといいかもしれません。

  • アレクサンドロヴィッチ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアレクサンドロヴィッチについて勝手に語ります。

     

     

    ヨーロッパで最古の都市の1つに数えられるベオグラードは、旧ユーゴスラビアで最大の都市であり、ドナウ川沿いではウィーンの次で、辛うじてブダペストを抜いて2番めの規模を誇ります。
    現在はセルビアの首都ですが、ユーゴスラビア誕生以来の首都で、例外だったのはセルビア・モンテネグロの時代だけでした。

     

    セルビアのワイナリーで有名なのは、「アレクサンドロヴィッチ」です。
    中部にあるトポラ・オプレナッツ近郊にあり、ここはワイン名産地として知られるヴィンチャ村の中にあるワイナリーです。
    またここは、フランスのボルドーとほぼ同緯度に相当し、1日の寒暖差が大きいことから、ブドウ栽培に適した気候と言われています。

     

    このヴィンチャですが、マニアックな歴史好きには、古ヨーロッパ文字の「ヴィンチャ文字」と関係するかと思うかもしれませんが、まさにその文字が使われたヴィンチャ文化遺跡に近い地域です。
    遺跡としては、1908年から発掘が行われ、1932年まで断続的に行われました。
    堆積土は文化層になっていて、その中で約7mがヴィンチャ文化層といわれます。紀元前5500年~紀元前3500年頃といわれます。
    下層には、紀元前6500年~紀元前5500年のスタルチェヴォ文化層もありました。
    ヴィンチャ文明時代の文字も判明していて、ギリシアでもラテンでもゲルマンでもない古ヨーロッパ言語です。これはこれで興味深いといえます。

     

    ヴィンチャ村の歴史としては、ローマ帝国との関係もあります。
    古代ローマ帝国はドナウ川沿いまでが領土でしたが、その先に侵攻するために、セルビアの中部に軍のキャンプがつくられました。
    実はこの地はブドウ栽培に適していることに気づき、ここでブドウ栽培が始まり、ワイン生産が行われるようになったといわれています。このときの伝統的製法が現在まで続いているのです。

     

    アレクサンドロヴィッチ・ワイナリーは、100年以上の歴史を誇るワイナリーです。
    このワイナリーのワインを有名にしたのは、1932年にカラジョルジェヴィッチ王朝で生まれたワインです。これはヨーロッパ各国の宮殿で飲まれていたことから、「王室ワイン」といわれます。まさに高級品です。
    王室ワインだけあって、ブドウも厳選し、熟成にもこだわり、伝統的製法で生産されます。高級という以前に、生産される数量も限定的になり、それだけでも希少価値が生まれるものです。

     

    セルビアやベオグラードは、東ローマ帝国、イスラム勢力、ロシアやソビエト連邦などとの複雑な絡みがあり、勝手に語りたいことは多くありますが、今回はアレクサンドロヴィッチだけで失礼しましょう。

  • プロヴァンスワイン(Vignoble de Provence)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はプロヴァンスワイン(Vignoble de Provence)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのワインといえば、ボルドーとブルゴーニュがメジャーな存在ですが、フランス国内で最も古くからワイン生産をしていた地域はプロヴァンスです。
    南東部にあるコート・ダジュールの海外線から内陸に少しだけ入った地域に相当します。自治体でいえば、アルプ=マリティームからひとつ、ヴァール県で68、ブーシュ=デュ=ローヌ県では15の地域がブドウ栽培している範囲です。

     

    プロヴァンスの古さは、地名の由来からも分かります。
    ローマ時代のプロウィンキア(Provincia)、つまり属州にちなんだものです。
    しかし、沿岸部はもともとギリシア人の植民により誕生した地域です。紀元前600年代といわれます。
    最初に定住したのはマッサリアで、ニースやアンティーブなどの沿岸部分に小さな都市を建設していきました。
    それまでは、ケルト人、リグリア人などが先住していたといわれます。
    多くの侵攻を受けたのち、西暦843年にヴェルダン条約により、プロヴァンスはロタール1世のものとなりました。
    フランス革命後は、ブーシュ=デュ=ローヌ、ヴァール、バス=アルプスの3つの県が誕生し、1793年にはニース伯領がフランスに一時的に併合されたりもしました。

     

    肝心のワインについてですが、プロヴァンス産ワインは、ほかの地域に比べてロゼが多いのが特徴です。
    ブドウ品種はカリニャン、ムルヴェードル、グルナッシュ、サンソー、シラーなどで、白ワインはクレレット、ユニ・ブラン、セミヨン抔などの品種から作られています。
    熟成させることよりも、そのまま流通して気軽に飲まれる傾向にあり、味としては、フルーティーでさわやかな感じを味わうワインと言えます。特にロゼと白は軽快な辛口です。
    基本的に高級ワインより日常用の安価なワインを大量生産してきました。これは、気候的に恵まれていて、地中海性気候が栽培条件に適していたことに由来します。
    それでも、一部には少量生産される村名AOCワインなどもあります。

     

    プロヴァンスの典型的な風景といえばギャリグ(fr)で、地中海盆地周辺の石灰岩質の土壌にある低木の潅木地です。ただここも、毎年干ばつが見られるようになっているそうです。
    気候変動の影響かどうかは分かりません。

     

    フランスワインもボルドーやブルゴーニュだけでなく、プロヴァンスワインも安価だけでない魅力をぜひ知ってほしく思います。

  • ビリャロブレド(Villarrobledo)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はビリャロブレド(Villarrobledo)について勝手に語ります。

     

     

    世界最大のワイン産地といわれるラ・マンチャ (DO)に含まれるビリャロブレド(Villarrobledo)は、ラ・マンチャ地方の中心部に位置しています。ラ・マンチャ地方は26,000km2に及ぶ広大な平原地域で、多くの山脈に囲まれています。
    ビリャロブレドの標高は721mで、自治体の面積は広く、グアディアナ川の支流であるサランカ川、コルコレス川、サランカ川の支流のソトゥエラモス川が流れています。

     

    ここに30,000ヘクタール以上のブドウ畑が広がっています。
    ブドウの木は約4,800万本ともいわれる規模です。
    ワインベルトに位置するものの、平原ということもあってか、気温の変化が激しいのが特徴です。冬と夏の差も極端に差があるほどです。
    冬はマイナス20度以下を記録したことがあり、夏は40度以上にもなります。
    ただ、雨は少なく、年平均降水量は39.02mm程度です。
    また、風があり、夏にはソラノという東風、冬にはシエルソという北西の風、一年中吹くアブレゴという南西の風があります。

     

    スペインのワイン産地は様々な地域に広がっていますが、おそらくここまで乾燥した地域は他にないでしょう。
    また、安価なワイン生産から国外品種の良質なワインまでを生産しているので、現地でしか味わえないものも数多くあるかと思います。

     

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