今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)について勝手に語ります。

     

     

    スペインの最西端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、世界遺産の巡礼地です。キリスト教にとっては、エルサレム、ローマに並ぶ三大聖地のひとつであり、この地への巡礼のため、古くから巡礼者が集まってきました。
    巡礼のスタート地点はいくつかあり、ポルトガルから経由する道、スペイン国内からスタートする道などがありますが、最も有名なのは、ヨーロッパ各地からフランスを経由し、ピレネー山脈からスペインに入るルートです。この巡礼路は、ワインとの関わりが深いことで知られています。

     

    このフランスからのルートは、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の4つの道がスペインに向かっています。スペインに入ってからは、ナバラ州からカスティーリャ・イ・レオン州の北部を西に横切り、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう「フランスの道」が主要になっています。
    サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、スペイン語では定冠詞をつけます。「El Camino」で、フランス語では「le chemin de Saint Jacques(サン・ジャックの道)」となります。

     

    この巡礼路は歴史が古く、1000年以上前から続いています。
    現在も年間で10万人近い巡礼者がやってきます。巡礼の拠点もあり、巡礼事務所では、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取ります。また、そこの周囲には無料の宿泊所もあります。巡礼者専用で、日本の四国霊場の「お接待」に近いものがあります。
    巡礼者はこの宿泊所で「洗足の儀式」を受け、足を水で清めます。

     

    この巡礼の道沿いには、リオハやビエルソ、リベラ・デル・デュエロなど多くのワイン銘醸地があり、巡礼中に訪れることができるようになっています。ここも巡礼者のための休憩場所となっています。

     

    目指す先は大聖堂ですが、ここでは聖ヤコブの遺骸が祀られています。
    以前に「サラゴサ(Zaragoza)」をご紹介したときにも登場した聖人です。新約聖書ではゼベダイの子のヤコブとして登場し、イエスの使徒の一人です。ヨハネの兄弟であり、アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われます。キリスト教各教派で、聖人として崇敬されています。
    このヤコブの遺体とされるものが、9世紀に現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で発見されたといわれます。その当時、スペインはレコンキスタの真っ最中で、イスラム勢力との闘争が繰り広げられていました。
    この奇跡的な発見により、イスラム勢力と対峙するキリスト教徒勢力にとっては、行動のシンボルとなり、熱狂的に崇められていきました。そしてスペインの守護聖人となったのです。

     

    巡礼者が大聖堂に到着すると、中に入るのは「栄光の門」と呼ばれる門で、そこから中へと入っていきます。その先には聖なる柱があり、巡礼者たちは祈りを捧げます。

     

  • テュービンゲン(Tübingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はテュービンゲン(Tübingen)の思い出を語ります。

     

     

    初めてドイツでクルマを運転したのは21歳のときだったと記憶しています。そのときは、若さだけの勢いで、ドイツの交通事情もよく分からずに運転していました。
    その後、ドイツを離れ、再びドイツに戻ったときには、少し慎重に運転するようになった気もします。
    ドイツで自由にクルマを乗り回していると、地方への移動ではすごく楽になります。特にホーエンツォレルン城などは、バスではなく、クルマでいったおかげで、かなり楽だった記憶があります。

     

    【参考ページ】
    ホーエンツォレルン城
    ホーエンツォレルン家( Haus Hohenzollern)

     

    そのホーエンツォレルン城に程近い都市にテュービンゲン(Tübingen)があります。ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州の中心部に位置する都市です。バーデン・ヴュルテンベルク州のワインについては、以前にご紹介しています。

     

    【参考ページ】
    バーデン=ヴュルテンベルク州のワイン

     

    テュービンゲンといえば、大学都市であり、街中は中世のままの雰囲気を残すことで知られています。
    大学の設立は1477年で、大学がこの町の中心となっています。そのため居住者の3分の1は大学関係者だといわれるほどです。
    キリスト教神学の研究では世界に名を知られた大学で、そのためドイツでは、キリスト教ルター派神学研究部門では中心地といえます。
    人口は9万人弱で、それほど大きな都市ではありません。

     

    シュトゥットガルトからアウトバーン81号線で向かいました。
    それほどの距離があるわけではありません。わずか30㎞程度です。そのためクルマの移動では短時間で、かなり快適に行くことができます。ただ、アウトバーンは、直線的にテュービンゲンに向かっているわけではなく、ヘレンベルク(Herrenberg)へと向かい、そこからアウトバーンを離れ、296号線で西側からテュービンゲンの街中に入ることになります。
    もし鉄道で訪問する場合は、中央駅に到着します。ただ、この駅は町の中心部へはネッカー川を渡らなければなりません。
    このネッカー川を挟んで街の印象はかなり異なるかもしれません。伝統的な街並みは渡った先で、クルマでは直接、ここへと入ります。

     

     

    この小さな都市には、21歳のときと、25歳のときの2回訪れています。
    別にここの大学に用があったわけではなく、初めて訪れたときにその雰囲気が気に入り、二度目の訪問を生んだのでした。ここは大学生が多いので、当時の同世代の人々、しかも留学生も多かったので、それぞれの国の人たちとの交流が楽しかった思い出があります。
    北ドイツ中心の生活から、ここまで南下してきて気に入った街ができたことが、それだけでうれしかったのかもしれません。
    もう、あの時代には戻れません。

     

  • アコンカグア地方(Aconcagua)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアコンカグア地方(Aconcagua)について勝手に語ります。

     

     

    南北に細長い国土が特徴のチリは、ワイン産地も縦で割って分けています。
    アコンカグア地方(Aconcagua)は、縦で割った中央部に位置しています。バルパライソ州のサン フェリペ デ アコンカグア県周辺に相当します。
    ここでは、フランスやカリフォルニアの名門ワイナリーが進出しています。そのためコストパフォーマンスが高いワインが多く生産されています。
    標高は1000mくらいの高い場所から、50mまでの場所まであり、ワイン産地としては珍しいほどの高低差です。もう一つ、アコンカグア地方の特徴は晴天が多いことです。年間で最大300日が晴天だといいます。これだけ陽に当たるブドウなので、健康的に生育していることになります。
    しかし、これは逆に言えば雨が少ないことを意味するわけで、灌漑が必要です。

     

    恵まれた日射量によって栽培されているブドウ品種は様々です。
    比較的温暖な地域は赤ワイン主体のため、カベルネソーヴィニヨンやシラーなどの品種が栽培され、凝縮感のある赤ワインがつくられています。
    海側は比較的冷涼な地域になりますので、白ワイン主体になります。シャルドネ、ソーヴィニヨン ブランなど、酸味とミネラル感が絶妙なバランスとなっている白ワインに仕上がっています。

     

    この温暖な地域と冷涼な地域というのは、地名にも関係します。
    アコンカグア地方といいますが、このアコンカグアとは、アンデス山脈にある山の名前なのです。標高6,960.8mで、アジア以外の山としては最高峰です、当然、南米で一番高い山です。チリとアルゼンチンとの国境付近で、アルゼンチン側にあります。
    そのためアコンカグア地方ではアンデス山脈と太平洋の両方の影響を受けているのです。
    ちなみに、中南米最大のワイン祭りが開催されたアルゼンチンのメンドーサ(Mendoza)については、以前にご紹介しています。

     

    アコンカグア地方には3つのDOがありますが、それぞれが谷間に位置しています。
    まず、アコンカグア・ヴァレーですが、ここはアコンカグア川沿いのワイン産地で、ブドウ栽培だけでなく花の産地としても知られています。ここは晴天日が多い地域です。
    そのため、ブドウ品種は赤ワイン用が主体で、チリでも赤ワインの銘醸地となっています。
    次にカサブランカ・ヴァレー(Casablanca Valley )です。ここも以前にご紹介しました。
    最後にサンアントニオ・ヴァレーです。
    ここは太平洋に近いワイン産地です。そのため、フンボルト海流による冷涼な風の影響を受けています。そのため白ワイン主体のブドウ栽培が行われています。

     

    新世界ワインの中でもチリのワインは、日本に多く流通していますから、もしかしたらアコンカグア地方(Aconcagua)のワインは飲んだことがあるかもしれません。今度ぜひ、チリワインをお飲みの際は、確認してみてください。

     

  • ビシュケク(Бишкек)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はビシュケク(Бишкек)について勝手に語ります。

     

     

    ビシュケク(Бишкек)はキルギスの首都で、以前に日本の「隠れた兄弟国」でも取り上げた国です。ビールやコニャックと並んでワインも生産している国です。

     

    そんな国であるからこそ、イスラム教国家とはいえ、ビシュケクにはワインバーもあります。
    ただし、ビシュケクは、馬乳酒 (Кумыс) を作る際に使用する撹拌器の名前が由来となっています。また、馬乳酒はキルギスの国民酒でもあります。
    旧都市名はフルンゼ(Frunze)で、人口は98万人です。アラ・トー山地の麓に広がる都市で、標高は800mあります。カザフスタンとの国境にも近い位置です。

     

    もともとはキャラバンの停泊地として町ができました。そのキャラバン隊は巨大な天山山脈を通る人々で、ソグド人により造営されたといわれています。
    キルギス人がこの地へ来たのは15世紀からで、19世紀初めまで断続的に移住してきました。1825年になって、コーカンド・ハン国により要塞が建設されました。
    しかし、その後はロシア帝国が進出してきたことで、1860年に支配され、その後にコーカンド・ハン国が奪還しました。さらに、1862年にロシア軍が再度占領したことで、翌年にはロシアに編入されました。
    ロシアの支配となると、ロシア各地から農民を入植させる政策がとられ、キルギス人はパミール高原やアフガニスタンへと脱出していきました。

     

    そして20世紀になって、ロシア革命以降のソ連により、キルギス自治ソビエト社会主義共和国となりました。実は革命時の赤軍司令官には、ピシュペク生まれのミハイル・フルンゼがいました。
    彼の死後、フルンゼという都市名に改名され、自治共和国の首都となりました。そして1936年にはキルギス・ソビエト社会主義共和国となりました。
    ビシュケクに改名されたのは1991年で、同じ年にキルギスタン共和国として独立し、1993にはキルギス共和国に改称しました。

     

    そのような歴史を持つビシュケクはロシアの都市として発展してきました。そのため、碁盤目上に区画された都市であり、社会主義国家らしい画一的な建物が並ぶ都市でした。
    また、ロシア人の割合も高い都市でした。
    それが独立したことで、ロシア人比率が下がり、現在は20%以下になったようです。

     

     

    日本とは友好的な関係であり、ビシュケクには日本人センターもあります。
    イスラム教徒の比率は75%だそうですが、街中はそのような雰囲気はないかもしれません。
    一度、訪れていみたい気もします。

     

  • スヴェティ・ステファン(Sveti Stefan)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスヴェティ・ステファン(Sveti Stefan)について語ります。

     

     

    ブドウ畑がヨーロッパ最大の面積を誇り、知られざるワイン産地のモンテネグロについては全体像と首都のポドゴリツァ(Podgorica)を取り上げたことがあります。

     

    モンテネグロの歴史とワイン
    ポドゴリツァ(Podgorica)

     

    そして今回は、スヴェティ・ステファン(Sveti Stefan)です。
    モンテネグロ屈指のリゾート地です。かつては潮の満ち引きによって地続きとなったり、島になったりしていましたが、現在はかろうじて砂州で結ばれています。
    モンテネグロの美しい海岸線が続き、真っ青なアドリア海に向かって小さな出島となっているのが「スベティ・ステファン」なのです。アドリア海を挟んで向かい合っているのはイタリアです。
    オレンジ色の屋根が並ぶ家々が固まっていて、小さな島におとぎ話に出てくるような街並みが残っています。
    島は石畳の道になっていて、建物は石壁、そこにツタが絡まっていたりします。

     

    スヴェティ・ステファンは、今でこそリゾート地ですが、もともとは小さな漁村でした。
    15世紀に人が住み始め、1950年代になって漁村の住民は誰もいなくなりました。漁村から村全体が豪奢なホテルに生まれ変わったのです。
    モンテネグロ沿岸部の最高級リゾートに生まれ変わりました。
    ただ、建物を構成する部分は漁村だった時代の原型をそのまま維持していて、内装が最高級ホテルらしいものに改装されています。
    現在は「アマン・スベティ・ステファン」というラグジュアリーリゾートになっていて、リゾートホテルのゲスト以外は入ることができません。いわばプライベートアイランドなわけです。
    リゾートは2つのパートに分かれています。スヴェティ・ステファンの島部分と、ビーチ側に1934年に王家の別荘として建てられたVilla Milocer(ヴィラ・ミロチャー)などに分かれています。

     

    日本のリゾートと違い、ヨーロッパのリゾートは、規模が違います。
    コロナ収束後、このようなリゾートで優雅にワインを飲んでみたいものです。

     

     

  • ブルノ(Brno)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブルノ(Brno)について勝手に語ります。

     

     

    チェコはビール大国ですが、モラヴィア地方はワイン産地として知られています。
    日本人にはなじみのない、いわば隠れたブドウ産地で、ドイツと同様に白ワインの優れた品質のものが多数あります。口当たりはフルーティーなものが多く、辛口よりも甘めなものが中心といえるかもしれません。そのため、ワインが苦手な人でも飲みやすいといえます。

     

    そのモラヴィア地方の中心都市がブルノ(Brno)です。ドイツ語名ではブリュン (Brünn) やブルン (Brunn)です。人口は37万人弱で、チェコでは第2の都市です。
    歴史的にモラヴィア辺境伯領の中心地として発展し、ドイツ人が多く移住してきました。ボヘミア王国内でありながら、事実上独立していた伯領でした。そして、都市特権が認められたのは13世紀半ばでした。神聖ローマ帝国の干渉や、ハプスブルク帝国の構成国などの歴史を経たことで、侵略や攻撃の歴史を経ています。
    しかし、ブルノの守りは固く、街が壊滅するようなことはありませんでした。具体的には、15世紀のフス戦争で、フス派の攻撃を受けたものの、撃退に成功しました。17世紀の三十年戦争でもスウェーデン軍から街を守り抜き、18世のオーストリア継承戦争では、プロイセンの侵略を阻止しました。

     

    ウィーンと鉄道で繋がったのは1839年からで、その後に都市を囲む城壁が環状道路になり、近代的な都市へと変貌していきました。工業化が進み、その流れから社会主義運動も盛んになりました。
    そんな中、第一次世界大戦を経て、チェコスロヴァキアの一都市となりました。オーストリア・ハンガリー帝国が解体したことで、新しい国の一部になったわけです。
    ただし、歴史的にドイツ人の多い都市ということもあり、チェコスロヴァキアの中のドイツという特殊な状況でもありました。これが一変したのが、第二次世界大戦でした。戦後、チェコスロヴァキア政府はベネシュ布告により、ドイツ系住民の市民権と私有財産の剥奪・没収となったのです。そのため、ドイツ人は国外追放されていきました。

     

    その後は、ソ連の衛星国、東欧革命を経て、1993年にチェコとスロヴァキアの分離となりました。現在でもモラヴィア地方の中心都市という位置は変わっていません。
    ドイツ風の都市であることから、マルクト広場に相当するのがnáměstí Svobodyで、ここではワイン祭りも行われます。
    ドイツ的な光景でありながら、そこに集まる人たちはチェコ人です。しかも、それほど観光客も多くない都市なので、素朴な感じが魅力かもしれません。言語はチェコ語で、当然ながら英語が通じるわけではありません。かつて共産圏だったことからロシア語は通じるかもしれません。それとドイツ語は結構通じるかもしれません。

     

     

    【参考】
    ミクロフ(Mikulov)・ニコルスブルク(Nikolsburg)
    ヴェルコパヴロヴィツカー・ワイン

  • ケープ半島(Cape Peninsula)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケープ半島(Cape Peninsula)について勝手に語ります。

     

     

    南アフリカを代表する岬といえば喜望峰(Cape of Good Hope)ですが、この周辺は自然が豊かなケープ半島にあります。ケープペンギンが生息する地域としても知られています。
    喜望峰はケープ半島の突端にあり、北端のテーブルマウンテンと同じ珪質砂岩でできています。
    大航海時代の航路として知られていることから、喜望峰がアフリカ大陸の最南端というイメージがありますが、実際は異なります。アフリカ最南端は喜望峰から東南東へ約150km先のアガラス岬です。
    実はこのケープ半島はワイン生産地でもあり、コンスタンシア地区は南アフリカで最も古いワイナリー「コンスタンシア」があります。
    気候的にブドウ栽培に向いた地域で、降雨の量も適量といえます。そのためアフリカではありますが、灌漑などを行う必要がありません。平均気温もそれほど高くないため、かなり恵まれた土地といえます。
    ソーヴィニヨン・ブランの産地としても知られていますが、それだけでなく、デザートワインとして世界的に有名な「ヴァン・ド・コンスタンス」も、ケープ半島で生産されています。

     

    この半島は約6000万年前までは島だったようです。
    その後の地殻変動により島が陸と繋がり、半島を形成するようになりました。
    喜望峰の歴史も実は古く、紀元前600年頃にはヘロドトスによる記述が喜望峰と関係あったそうです。それによると、エジプト第26王朝のファラオ・ネコ2世の命により、フェニキア人がアフリカ周航を行ないました。その結果、3年をかけて成功させたそうです。その際に、南アフリカで天頂の北側に真昼の太陽を見たという報告があったといいます。
    これは北半球ではありえない話で、当然ながらヘロドトスの時代には南半球という概念がなかったため、この話は信じられないと記していました。
    しかし、現代の目から見れば、南半球の概念のない時代に、このようなことが語られているというだけで、逆に喜望峰を経由する海洋航路が信憑性を持たせているといえます。

     

    ヨーロッパの歴史から見ると、喜望峰への到達は1488年にポルトガル人のバルトロメウ・ディアスによるものとなります。
    最初は喜望峰ではなく、荒れる海域から「嵐の岬Cabo des Tormentas(Cabo Tormentoso)」と命名されました。喜望峰(「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改めたのはポルトガル王ジョアン2世でした。この航路は香辛料貿易のルート短縮につながった、まさに「希望」だったからです。

     

  • プリシュティナ(Prishtina)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はプリシュティナ(Prishtina)について勝手に語ります。

     

     

    知られざるワイン産地としてのコソボ共和国(Republika e Kosovës)は、以前に取り上げたことがありました。コソボは人口の99.2%を占めるのがアルバニア系の住民ですが、彼らがセルビア人と戦い、独立を目指した民族紛争がコソボ紛争でした。このとき、多くのアルバニア系の住民が難民となりました。2008年にアメリカなどの支援により、セルビアから独立したことで、ヨーロッパで最も新しい国となりました。しかし、以前にも述べましたが、セルビアやロシアなど、独立を認めていない国々も多くあります。そのため、セルビアからすれば、コソボはセルビアの自治州として扱っています。

     

    そのコソボの首都がプリシュティナ(Prishtina)です。
    セルビアでは、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としています。
    コソボ最大の都市ですが、都市単体での人口は15万人に満たない程度で、 都市圏でも50万人程度です。市の南西15kmの位置には国内唯一の民間空港もありますが、空軍基地内にあります。
    もともとプリシュティナは、バルカン半島の交通の要衝として発展し、交易都市として栄えていました。セルビア王国の都市でしたが、オスマン帝国に支配されると、イスラム勢力の統治下となり、17世紀から18世紀には、キリスト教徒のセルビア人がオーストリアへと移住することになりました。
    これにより人口が減少した街に、イスラム教徒のアルバニア人が移住してきたことで、その後はアルバニア人の比重が高くなりました。地域的にはセルビアの一部でありながら、居住する民族はアルバニア人という歪な構造が出来上がったのです。まさにこの時代からコソボ紛争の火種ができあがったわけです。

     

    19世紀末になると、プリシュティナでは、アルバニア人の民族運動も高まったことで、プリズレン連盟が結成されました。そして1912年の第1次バルカン戦争により、アルバニアが独立し、プリシュティナもアルバニア領内になりました。
    ただ、この状況は長く続かず、アルバニアをセルビア王国へ、次にはユーゴスラヴィア王国に譲渡され、アルバニア人の自治は失われてしまいました。さらに第一次世界大戦の前には、セルビア人がアルバニア人を迫害したことで、トルコに逃れる住民も多くいました。
    第一次大戦でユーゴスラヴィア王国の一部になり、第二次大戦のナチス占領下を経て、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国ではコソボ自治州の州都となりました。
    コソボ紛争に繋がった直接的な状況とは、1989年にセルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限したことによります。このときにアルバニア語の使用まで制限されたことで、アルバニア系住民の多くが失業することにまでなりました。これで、コソボがユーゴスラヴィアからの独立を目指す運動が激化しました。
    1996年からコソボ解放軍が武装闘争をはじめ、1999年にはコソボ紛争が本格化したことで、プリシュティナは戦場となりました。紛争は悲惨な状況を招きました。
    2009年にはプリシュティナからセルビア系住民すべていなくなったともいわれるようになりました。

     

    アルバニア人はムスリムが多いため、コソボは、イスラム教の比率が高いヨーロッパの国となります。
    それでもワイン文化は消えていませんので、まずは、首都のプリシュティナから、ワイナリーを巡る旅をしてみたいと考えています。

  • キリストの血入門 14

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第14回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はエフェソス公会議でネストリウス派が異端とされ、その後、中国や日本へと伝わったことについて述べました。今回はさらにネストリウス派に関連する、ある種の「トンデモ説」をまじめに語ります。

     

    まず、日本のネストリウス派を語る前に、日本史に登場する秦氏一族にふれたいと思います。
    秦氏は実は謎の一族で、応神14年(283年)に渡来したと言われていますが、詳細は分かっていません。一説には「秦」から、秦の始皇帝の末裔とも言われたりしました。もちろんこの説は根拠に乏しく、文字からのこじつけといえるかもしれません。結局、海外からやってきた渡来人であることは確かですが、どこの出身なのか、どの民族なのか、全くわかっていないのです。
    そのため、出自については多くの説があり、朝鮮半島から渡来した朝鮮人であるという説のほか、中国大陸から漢民族が渡来したという説、シルクロードを経由して渡来したとして、ウイグルなどの西域の民族説、さらに先に位置するトルコ系、そしてユダヤ人説などなどです。
    高度な文化と技術を持った一族で、日本に定着後は、養蚕、機織、治水など、朝廷には重宝される技術により、一大勢力にまで発展していきました。

     

    その秦氏は多くの神社とも関係しています。
    思いつくままに秦氏に関連する神社を挙げると、まずは日本最大の末社のある伏見稲荷大社、同じく京都では上賀茂神社、松尾大社、そして九州の宇佐八幡などです。これらの神社は秦氏が勧請したものなのです。

     

    まず、伏見稲荷大社ですが、空海との関係があります。
    空海開祖の教王護国寺(京都の東寺)の守護神が伏見稲荷なのです。それだけでなく、そもそも「稲荷」を現在の漢字に当てたのも空海なのです。もちろん高野山を開山するときも稲荷との関係があります。それほど真言密教と稲荷とは関係深いものなのです。
    では稲荷という神の正体とは何でしょうか?
    一般には文字通り「稲」から穀物の神とされています。しかし、この字を当てたのが空海であり、ある意味で日本古来のもののように演出する意図まで見えます。天才といわれた空海が、もともと「伊奈利」などいくつかの当て字で書かれたものを変えただけ、などと考えてはいけません。
    渡来人の勧請した神社の神である以上、「イナリ」は外来語であった可能性が高いわけです。それをあえて空海が「稲荷」にしたわけです。

     

    でも、稲荷社といえばキツネや油揚げのイメージが強く、五穀豊穣や商売繁盛の神様ではないか、と思われるかたは多いでしょう。確かに現在の見方からすればその通りです。
    しかし、これらはすべて後世に付け加えられてきたものなのです。特に商売繁盛など、江戸の商人によるもので、歴史的にはそれほど古くありません。

     

    さて、ここでネストリウス派です。
    イエスを描いた宗教画には、十字架に張り付けられたイエスの頭上に木札が打ちつけてあることが多くあります。そこに書かれた文字は「INRI」で、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」を略したものです。意味は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」です。
    これをネストリウス派では、「インリ」や「イナリ」と読んでいました。
    このことだけで、稲荷社をネストリウス派と結びつけるのは無理がありますが、稲荷が外来の神であることは間違いなく、秦氏がネストリウス派であり、日本の神道にあわせた宗教とした場合、ありえるのでは、という一種の可能性です。

     

    もう少し、補助する要素を加えるとすると、稲荷社には「稲荷大神秘文」があります。
    この最初の文章に注目です。
    「~夫神は唯一にして御形なし虚にして霊有」
    要するに神は唯一であり、形がなく、霊があるというのです。神はたった一つであり、いわばそれが稲荷ということになるのでしょう。多神教の日本の神道とは相いれないものなのが良く分かります。
    古来の日本の価値観では森、山、海、川など神羅万象あらゆるものが神であり、そればかりか怨霊という思想があって、恨んで死んだ人も神として祀り上げるものです。それなのに、稲荷神だけが全く異なる宗教観というのは、実に不思議なものです。
    これもネストリウス派と安易に結び付けて良いものではないでしょうが、かなり気になるものです。

     

    最後に付け加えるのは、再び空海に戻って密教です。
    真言密教の儀式の中には、密教法具を手にして十字を切る作法があります。明らかにキリスト教の作法に見えますが、この意味を知るもの誰もいません。おそらく空海も弟子たちに語らなかったのでしょう。
    前回にも述べましたがイギリスのエリザベス・アンナ・ゴルドンは、「大秦景教流行中国碑」のレプリカを高野山に建立しています。ネストリウス派がここまで行きついた記念碑ですが、高野山側もこのレプリカを受け入れています。
    このような話はいくらまじめに語っても、結局は「トンデモ説」で終わるので、今回はここまでにしましょう。

     

  • マリボル(Maribor)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマリボル(Maribor)について勝手に語ります。

     

     

    400年以上前からワイン用ブドウ・スタラ・トルタがある都市として知られるのがスロベニアのマリボル(Maribor)です。マリボルの中心部にあり、平屋のファサードの南側に沿ってブドウが生えています。2004年には、世界で最も古いブドウの木としてギネスブックに登録されました。
    この幹は直径25cmで、高さは2mあります。水平に芽が伸び、枝が分かれ、格子で支えられています。その長さは15mにも達しています。ブドウ品種はブルーフランコニア、あるいはブラックベルベットと呼ばれるもので、スロベニアで最も古い国産品種のブドウです。

     

    マリボルはドイツ語ではマールブルク(Marburg an der Drau)といい、長くドイツ語圏の人が支配した都市でした。
    もともとマルヒブルヒ(Marchburch)という城があり、近くに市場が発達し、1254年に町の特権を授けられました。その後、町は発展していきましたが、マティアス・コルヴィヌス軍やオスマン帝国軍に包囲されることにもなりました。
    そしてハプスブルク家の支配下になりました。

     

     

    第一次世界大戦中になって、ハプスブルク帝国のオーストリア人とスロベニア人との間の対立が引き起こされました。そしてオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、マリボルは1918年にドイツ=オーストリアに併合されました。
    これに対し、ドイツからの解放を勝ち取るためにマリボルでスロベニア人の軍事部隊が組織されました。さらにシュツヴァー(Schutzwehr)という軍の一部隊が組織されたりしました。
    その後、スロベニア軍によりマリボルが囲まれ、第一次世界大戦後にユーゴスラビア王国の一部とみなされるようになりました。
    それ以降、マリボルのドイツ人たちはオーストリアへと移住していきました。

     

    しかし、1941年にはナチスによりドイツに併合されてしまいました。
    アドルフ・ヒトラーは「再びドイツの手に」といい、マリボルを訪問しました。すぐにナチスはスロベニア人を大量追放することにしたのでした。スロベニア愛国者たちは人質にされ、刑務所で銃殺されていきました。
    第二次世界大戦末期になると、連合国による空襲が激しくなり、マリボルに居住するドイツ人たちはスロベニア人による犯罪に巻き込まれ、戦終後はドイツ人は追放されることになりました。

     

    そして1991年、スロベニアはユーゴスラビアから独立し、2004年にはEUに加入しました。さらに2007年にはシェンゲン条約を批准しました。これでオーストリアとの行き来が自由となりました。
    オーストリアのグラーツまでは約60km程度の距離であることから、二つの都市を巡る旅が容易になりました。

     

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