今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • コルトレイク(Kortrijk)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコルトレイク(Kortrijk)について勝手に語りますす。

     

     

    ベルギーのコルトレイク行政区最大の都市であり首府でもあるのがコルトレイク(Kortrijk)です。ライエ川 (Leie) に面した都市で、フランスのリールと国境を挟み、同一都市圏を形成し、都市圏人口は190万人になります。いかにもヨーロッパらしい都市圏です。

     

    コルトレイクの歴史は古く、古代ローマの時代から続いています。古代ローマ時代はコルトリアクム(Cortoriacum)とよばれていました。ライエ川近くに街道が交差してたことから、交通拠点であり、ガロ・ローマ文化の栄えた古代都市でした。ここを通るローマ街道は、トンゲレン、カッセル、トゥルネー、アウデンブルフなどと結ばれていました。ヴァイキングの襲撃が激しくなった9世紀には、要塞が築かれるようになりました。1190年には町が特権を得ることになりました。これによりさらに都市化が進み、人口も増加していきました。要塞の防御壁も新たにする必要が生じたほどでした。

     

    戦火の影響を受け、町が破壊されたのは13世紀でした。これは、ポルトガル王サンシュ1世の息子であるフェルナンドとフランス王ルイ8世との戦いでした。フェルナンドはこの地域を支配するフランドル女伯ジャンヌの夫で、ルイ8世とは従兄弟の関係でした。破壊された町はすぐに再建されました。1302年になると、ブルージュで反乱がありました。フランスがフランドルを併合したことに対する蜂起でした。これによりフランス勢を駆逐することに成功し、フランス人は虐殺されました。

     

    【参考ページ】
    ブルージュ(Brugge)

     

    その後、金拍車の戦いが起こり、フランドルの市民、農民がフィリップ4世の騎士との間で戦いが起こりました。この戦いにフランドル側が勝利したことで、これを記念して、現在では国民の祝日となっています。1323年になると、またフランスの侵略が始まりました。このとき、フラマン人は領主のフランドル伯ルイ1世に対して蜂起を起こし、カッセルの戦いでフランスに対する捕捉を固めました。フランドル伯ルイ1世の息子のルイ2世は、1381年になってここを再び手にすることに成功したものの、翌年にはローセベークの戦いの結果、また略奪されました。都市も破壊されました。

     

    フランスとの争いは、その後しばらくの期間なくなりました。この期間は15世紀で、ブルゴーニュ公の支配下した。しかし、ブルゴーニュ女公マリーが1482年に死去すると、再びフランスとの戦いに巻き込まれました。16世紀は宗教改革の時代で、プロテスタントとカトリックの対立構造は、オランダとスペインの対立に繋がりました。また、フランスでは革命が起こり、その後、ナポレオン時代になって新たな局面を迎えました。コルトレイクは織物工業が発達し、経済が活性化しました。

     

     

    20世紀の第一次世界大戦、第二次世界大戦では、ともにコルトレイクは大きな被害を受けました。特にナチス・ドイツにとっては、軍事上の重要な鉄道の拠点になっていたたことから、連合軍が盛んに攻撃をしかけてきた場所だったのでした。特に1944年7月21日には、5,000発もの空爆が行われ、歴史的な建物や中央広場、古い鉄道駅は破壊されてしまったのでした。

     

  • カルタゴ1(Carthāgō 1)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカルタゴ(Carthāgō)について勝手に語る第1回目です。

     

     

    古代の地中海の覇者といえばカルタゴ(Carthāgō)です。フェニキア人の国家です。現在のチュニジア北部の地中海沿いを中心とし、海上貿易で栄え、造船技術も優れていました。領土は途中海沿岸に広がり、その範囲はアフリカ北岸からイベリア半島の南側までありました。地中海を挟んで北側にローマがあり、地中海の覇権を争う関係になっていました。

     

    カルタゴがフェニキア人により建国されたわけですが、最初から国家だったわけではありません。カルタゴ以前にフェニキア人が入植した都市にウティカやガデスがあり、その寄港地としてカルタゴが開発されてと思われています。カルタゴ建設の伝説では、ティルスの女王ディードーが兄のピュグマリオーンから逃れ、この地にカルタゴを建設したとされています。女王ディードーは、主神メルカルトの神官の妻でした。その神官である彼女の夫を、兄であるピュグマリーオンが殺害したことで、ディードーは逃げるためにテュロスを去ったというものです。ディードーは岬に上陸し、土地を求めました。その広さは、1頭の牛の皮で覆うだけの広さでした。岬に居住する現地の人が承知し、土地が分け与えられました。おそらく狭い土地だと思っていたものの、彼女は牛の川を細く切り、紐にし、それで土地を囲ったのでした。そのため、「1頭の牛の皮で覆うだけの広さ」といいながら、丘全体の土地を手に入れることができたのでした。この丘がビュルサと呼ばれるようになり、うわさを聞き付けた近隣の人々が集まるようになりました。また、ウティカというフェニキア人の植民都市から使者が訪れたことで、ここに新たな都市建設が始まったのでした。ちなみに、ディードーが手に入れた「皮で囲まれた土地」の費用については、地代として紀元前5世紀まで支払いを続けたといわれています。

     

    一方、別の伝説では、カルタゴは通常の植民都市ではなく、亡命者の土地だったというものもあります。女王ディードーが神官の妻だったことは同じですが、宗教的な正統性が強いことから、メルカルト信仰の中心地がテュロスからカルタゴへ移っただけという捉え方です。ビュルサの丘については、現在でもサン・ルイの丘として残っているとしています。建国時期については諸説あり、正確には分かっていません。チュニジア政府の場合、「紀元前814年」の建国説をとっています。

     

    建国後、交易で栄えるようになり、海運で潤う人たちが有力者となりました。そのため、統治するものが交易の海運業者で、農耕を営む人たちは支配される側になりました。実際、紀元前6世紀には、カルタゴは西地中海の覇者となっていたのでした。その海運力により、商人たちは地中海の通商路を開拓し、様々な地域から富が集まり、人の往来も激しくなりました。その航海距離も伸び、「ヘラクレスの柱」と呼ばれたジブラルタル海峡を越え、地中海の外にまで出ていきました。北アフリカ沿岸部にも植民都市を建設していき、沿岸一帯とともに、アフリカ内陸にも領土が拡大していきました。このような発展により、紀元前5世紀初頭からは、カルタゴは地中海交易の中心地となりました。同じフェニキア人が古代に建設した都市や、古代リビュアの諸部族も征服していき、モロッコからエジプト国境までの北アフリカ沿岸は、カルタゴが支配するようになったのでした。地中海に浮かぶ島々についても、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配しました。最終的に勢力範囲はイベリア半島にまで及びました。

     

    このようにカルタゴの経済的成功は、地中海での交易に依存していました。これは海賊や競合する都市に対抗するための軍事力が必要なものでした。そこでカルタゴ海軍は支配地域を拡大するごとに増強され、覇権の地域の拡大が、そのまま地中海中央部のギリシアとの紛争に繋がったわけです。ギリシアも地中海全域に殖民都市を建設していましたので、カルタゴとの競合は必然で、その衝突はカルタゴに近いシケリアでおきました。この戦争は数世紀にわたり、戦闘が繰り返されることになったのでした。

     

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 21

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第21回になります。

     

     

    前回の第20回はヨーロッパの空港でした。今回は第11回の続きで、古代ローマに戻ります。ヨーロッパを語る上で欠かせないローマ帝国について語ります。

     

    そもそもヨーロッパの「帝国」というのは、共和制ローマ時代に「ローマの命令権、統治権」に由来したものです。これをラテン語で「imperium Romanum」といい、「imperium」が命令権の範囲、領土となりました。 この命令権を持つ司令官が「imperato」で「皇帝」となります。これはローマ帝国だけでなく、フランク王国、神聖ローマ帝国などでも使われました。そのため、ヨーロッパの「帝国」は皇帝を前提としたわけではありません。統治の形態によるもので、多民族、多人種、多宗教の人々の居住地を領土とする国家となります。

     

    共和制ローマからローマ帝国へと変わったのは、カエサルが暗殺され、内戦状態が続き、オクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことからでした。オクタウィアヌスの権力は最高潮になり、最初のローマ皇帝となりました。これがローマ帝国の誕生でした。この後で「パクス・ロマーナ」となり、安定と繁栄の時代になりました。そしてハドリアヌスの時代、ローマ帝国は最盛期を迎えました。繁栄に陰りが出てきたのはアウレリウス帝の時代でした。疫病や異民族の侵入が帝国を脅かしたのでした。3世紀には皇帝の権力が失墜し、短命の皇帝が続きました。領土もガリア帝やパルミラが離脱しました。この3世紀の危機のあと、アウレリアヌスによって再統一されましたが、その後は再び混乱が続きました。これを収めたのがコンスタンティヌス1世でした。ローマ皇帝として絶大な権力を握り、ローマ帝国を見事に再統一したのでした。その再統一の手法の一つにキリスト教を公認したことも挙げられます。これ以降、キリスト教が一般化し、ローマ教皇が権威を持つ方向へと動くようになったのでした。さらにキリスト教を公認から国教にしたのがテオドシウス1世でした。このときに異教を禁止しました。

     

    テオドシウス1世が死去すると、395年、長男のアルカディウスを東側領土、次男のホノリウスに西側領土を治めるという分割統治となりました。これで、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂したことになるわけですが、別々の異なる国家に分裂したというものではありませんでした。あくまでもひとつのローマ帝国の領土を、2人の皇帝がそれぞれの領土に分けて統治するというスタイルでした。ここであまり知られていないのが、西ローマ帝国の首都です。実はディオクレティアヌス帝以降は、皇帝の所在地である首都はローマではありませんでした。ミラノ、次にラヴェンナへと遷都していたのです。裏を返せば西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に抵抗できていなかったわけです。そのため、分裂後も1,000年以上継続した東ローマ帝国と異なり、西ローマ帝国はあえなく滅亡を迎えたのでした。この滅亡はゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによるもので、東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ、西側を統治する皇帝は不要という書簡を出したいました。ゼノンはこれを受け、正式に西ローマの皇帝を廃止したのでした。

     

    一方、東ローマ帝国は1453年まで継続しました。首都はコンスタンティノポリスで、古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいましたが、地域的に言語はラテン語ではなくギリシャ語世界ということもあり、徐々にギリシア化していきました。西ローマ帝国がゲルマン人に悩まされたいましたが、東ローマ領土への攻撃は少なく、また圧倒的な軍事力と経済力により、ゲルマン人の侵入を阻止していました。また、かつてのローマ帝国の領土に使づけたこともありました。これは旧西ローマ帝国の領土まで拡大したことを意味します。それは6世紀のユスティニアヌス1世の時代でした。地中海世界を再びローマ皇帝領としたのでした。しかし、ユスティニアヌスの没後は領土を維持することができず、混乱の時代から領土縮小へとなっていきました。さらに7世紀以降はイスラム帝国の侵入があり、北からはスラヴ人も侵入してきたことで、統治体制は再編されることになりました。8世紀には北イタリアの領土を失ったことで、旧西ローマ帝国領土への影響力が低下しました。

     

    それでも安定期があり、11世紀に入るとバルカン半島やアナトリア半島、南イタリア、シリア北部までを領有するまでになりました。ただし、この繁栄も長くは続かず、イスラム勢力の脅威があり、13世紀には十字軍により首都コンスタンティノポリスが陥落し、一時期とはいえラテン帝国に占領されたこともありました。再びコンスタンティノポリスを取り戻したものの、その後は安定せず、最期はオスマン帝国に破れました。最後の皇帝はコンスタンティノス11世パレオロゴスで、戦死しました。これで東ローマ帝国の滅亡となりました。この滅亡により、古代の終わりから続いたローマ帝国が終わり、時代としては中世の終わりを象徴するものでした。中世のローマ帝国は古代ローマとは異なる国へ変貌し、西側で封建制後が誕生したのとは全く別の歴史を築いたのでした。しかし、一般にローマ帝国の滅亡というと、西ローマ帝国の滅亡を指すのが一般的です。それは西洋史を中心にした場合の見方といえますが、この東ローマ帝国滅亡こそが、ローマ帝国の終焉というのが正しいといえます。

     

  • カルロヴァツ(Karlovac)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカルロヴァツ(Karlovac)について勝手に語ります。

     

     

    カルロヴァツ(Karlovac)はクロアチアの都市で、ザグレブからは南西へ56km、リエカからは130kmの位置にあります。 人口は約5万人です。ムレズニツァ川、コラナ川、クパ川が周囲に流れていて、郊外にはドブラ川が流れています。川だけでなく緑地帯にも囲まれていて、自然の中にある都市として知られています。また、ここはワインではなく、ビールの醸造が主要産業になっています。

     

    カルロヴァツの歴史は、それほど古くありません。都市建設は神聖ローマ帝国によるもので、それは対オスマン帝国侵攻が目的でした。1579年でした。従って要塞建設から始まったわけですが、この要塞の形が変わっていました。6つの点を持つ星型の要塞だったのです。場所はクパ川とコラナ川の合流地点でした。ここから都市化していき、市街地はムレズニツァ川とドブラ川に近い地点にまで届きました。ちなみに、この独特の形をした星型要塞は現在でも見ることができます。

     

    市の名称は、神聖ローマ帝国による建設ということもあり、最初はドイツ語でカールシュタット(Karlstadt)でした。「カール」は都市の建設をしたインナーエスターライヒ公カール2世(Charles II of Austria)からとられたもので、彼は神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント1世の三男でした。中央広場にある教会は、三位一体教会が最初でした。この建設は1580年でした。しかし1594年に大火があり、建築物は燃えてしまいました。また、要塞建設の目的であったオスマン帝国ですが、包囲戦を繰り返してきました。しかし、陥落することはありませんでした。人口減少は、オスマン帝国の攻撃より、1773年のペストの大流行でした。このとき、カールシュタットの人口は半減したといわれます。

     

    神聖ローマ帝国からハプスブルク家のオーストリア帝国となってからも、カールシュタットは軍事辺境地としての重要性は高い都市でした。反逆者の処刑地にもなっていました。人口も増加し、1693年には制限があるものの自治政府が設置されるようになりました。そんな重要な都市ではありましたが、1776年にカールシュタットはクロアチア王国に譲ることになり、さらに自由都市になりました。

     

     

    20世紀は衰退期に入り、ユーゴスラビア解体に伴うクロアチア紛争では、カルロヴァツの損害は激しいものでした。多くの建物が破壊されていきました。それは市の南側の先が、クロアチアとクライナ・セルビア人共和国との前線地帯だったからでした。最近はビールを主産業として、再び発展する兆しが見えてきました。

     

  • アヤソフィア(Ayasofya Camii)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアヤソフィア(Ayasofya Camii)について勝手に語ります。キリストの血であるワインを飲みながら、キリスト教とイスラム教の文化遺産に触れてください。

     

     

    アヤソフィア(Ayasofya Camii)は、トルコのイスタンブールにあるモスクですが、2020年までは博物館でした。しかし、当初の建設は東ローマ帝国時代のキリスト教の大聖堂でした。東ローマ帝国の首都にある大聖堂でしたから、コンスタンティノープル総主教座の所在地でした。十字軍によりカトリックの大聖堂だった時期がありました。1204年から1261年までの期間で、この時期だけラテン帝国でした。オスマン帝国支配になってから、長い期間をかけてイスラム教のモスクへと改築していきました。博物館にしたのはトルコ共和国になってからで、1935年からでした。それだけ変遷を繰り返しても、東ローマ帝国の建築としては最高傑作と評価されるもので、オスマン帝国時代のモスクになっても、最高クラスの格式を誇っていました。

     

    アヤソフィアの建設はコンスタンティヌス大帝の子であるコンスタンティウス2世によりました。建設開始は350年頃で、完成は360年でした。巨大な建築ブルで、当時は「大教会」といわれていました。実際、コンスタンティノープルのどの教会よりも巨大でした。しかし、404年に焼失してしまいました。コンスタンティノープル大主教だったヨアンネス・クリュソストモスの追放に際しての争乱が原因でした。再建はテオドシウス2世によって行われ、415年には献堂されました。この聖堂は532年のニカの乱により、再び焼失してしまいました。

     

    2度も焼失してしまいましたが、ユスティニアヌス帝によって、すぐに再建することが決定しました。今回の再建では、金に糸目をつけませんでした。世界中から建設に関連する人員を集めたといわれます。しかも、単なる復旧による再建ではなく、設計そのものもく全く新たにしたのでした。その結果、ドームの高さは41.5mでは建設されたのでした。さらにいうと、工事期間もわずかに5年11か月という短期間でした。537年12月27日には、ユスティニアヌス帝が同席して、総主教メナスによる献堂式を迎えました。このように華々しく再建されたものの、553年から地震が頻発し、亀裂を生じることになりました。557年12月14日の地震は特にダメージが大きく、558年5月7日にはアーチやドームが崩壊してしまいました。ここでも再建工事は直ちに着手され、562年12月24日に献堂式が行われました。ところが、今回989年10月26日と1346年5月19日に大規模な崩落が起きました。その都度、修復されることになりました。

     

    キリスト教に関連する部分では、726年にレオーン3世によるイコノクラスム(聖像破壊運動)で、ずべてのイコンが取り除かれました。このような歴史を持つ大聖堂ですが、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として、正教会の格式では最高の地位を誇りました。東ローマ帝国の皇帝の霊廟としても用いられました。

     

    オスマン帝国が支配するようになると、コンスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を接収し、モスクへと転用することにしました。総主教館は破壊され、アヤソフィア内部にあった十字架は取り外されました。それでも、聖堂内部の改修は必要最低限になりました。1481年までには、ミナレットが建設されました。その後、補修や補強が繰り替えされていきました。

     

     

  • マクペラの洞穴

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマクペラの洞穴について勝手に語ります。ワイン片手に蘊蓄を語るネタになるかと思います。

     

     

    エルサレムの南に位置し、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区南端にヘブロン(Hebron)があります。旧市街が2017年に世界遺産リストに登録されました。ここはユダヤ教やキリスト教だけでなく、イスラム教でも聖地の一つとなっています。ユダヤ教・キリスト教・イスラムに共通する祖であるアブラハムの墓があるからです。旧約聖書では、アブラハムがエジプトから逃れ、初めて手に入れた土地とされています。また、ここにあるマクペラの洞穴は宗教史跡で、洞穴だけでなく、施設全体を指しています。埋葬されているのはアブラハムだけでなく、サラ、イサク、リベカ、ヤコブ、レアの六人とされています。

     

    マクペラの洞穴には、境内建造物があります。第二神殿時代に建築されたとされ、その時代の史跡建造物のなかで最も美しいとされています。紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって建設された第二神殿の時代とは、紀元前516年から紀元後70年までの期間に相当します。いわゆるエルサレム神殿が建造された時代です。ただし、マクペラの洞穴の建造物は、様式がヘロデ大王の時代の様式に類似しています。そのため、第二神殿時代より新しく、ヘロデ大王による大規模土木事業のひとつではないかという説もあります。ヘロデ大王の時代に既に存在していたのか否か、実際にはよくわかっていません。

     

    東ローマ帝国の時代には、キリスト教によりバジリカが建てられました。しかすぃ、イスラム教が支配するようになると、「アブラハムのモスク」に改修されました。 マムルーク朝以降、ユダヤ教徒は境内への立ち入りを禁じられるようになりました。

     

    調査もされてきましたが、現在では、イスラエルが管理しています。シナゴーグとモスクが置かれ、建造物は国境警備隊が警備しています。エルサレムと同じように、ユダヤ教徒とイスラム教徒の大勢の参拝者が訪れているからです。

     

     

    1994年2月25日、マクペラの洞窟虐殺事件が発生しました。
    大量殺人事件であり、アブラハムのモスク虐殺事件、ヘブロン虐殺事件、プリム虐殺事件などとも呼ばれる事件でした。事件が起きた日は、ユダヤ教徒のプリムとムスリムのラマダーンというそれぞれの祭日が重なっている時期でした。アメリカ出身で、キルヤット・アルバに住む医師のバールーフ・ゴールドシュテインが、パレスチナ人を襲撃し、29人を殺害したのでした。彼はイスラエル国防軍の予備役兵で、カハネ主義というユダヤ人の極右思想の活動家でした。彼はその場で殺されました。ただし、この事件を契機として、中東各地で暴力的な抗議活動が発生し、イスラエル人もパレスチナ人も双方に多数の死者が出ることになりました。

     

  • モスタル(Mostar)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はモスタル(Mostar)について勝手に語ります。

     

     

    モスタル(Mostar)はボスニア・ヘルツェゴビナのヘルツェゴビナ地方で最大の都市です。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内では5番目の規模を誇ります。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のときには、たヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都と定められていました。

     

    都市としてのモスタルが、歴史的に記録されたのは1468年以降と遅く、しかもオスマン帝国による調査でした。実際にはオスマン帝国が支配する直前の1452年の書簡で記録されていましたが、公式文書ではオスマン帝国が初めてでした。オスマン帝国が支配してから都市化が進んでいきました。行政管区の中心都市の機能を担わせつつ、中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地としても発展していきました。居住地はネレトヴァ川右岸に集まり、商業中心地と住宅地が分れました。

     

    1468年になると、トルコ語でキョプリュヒサール(Köprühisar)という名称で呼ばれるようになり、これは橋の近くの要塞を意味するものでした。16世紀からはネレトヴァサンジャクの首府となり、ヘルツェゴビナ地域では行政の中心都市にまでなりました。またこの時期から現在までモスタルを代表する橋であるスタリ・モストが木製から石橋に代わりました。これはオスマン時代の重要な建築物の一つになりました。

     

    17世紀にはモスタルの人口が1万人にまで達し、オスマン帝国らしい都市として発展しました。このオスマン様式としての発展は18世紀初期にピークを迎えました。しかし、オスマン帝国が弱体化してくると、イスラム教だけでなくキリスト教も入ってきました。

     

    19世紀末から第一次世界大戦後の1918年までは、オーストリア・ハンガリー帝国が支配していました。その後、1939年にユーゴスラビア王国のクロアチア自治州の一部となり、第二次世界大戦では、クロアチア独立国の都市になっていました。戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となり、工業都市化が進みました。このときにワインも多くつくられ、また交易も盛んになりました。

     

     

    20世紀末のソ連崩壊以降、ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立宣言をしました。その結果、ユーゴスラビア人民軍による爆撃は1992年に始まりました。悲惨なボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の始まりでした。モスタルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力、東側はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の軍が支配するようになりました。

     

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結すると、1995年以降は再びモスタルは復興していきました。廃墟となった場所には、新しい住宅やショッピングセンターなどが建設されました。破壊されたスタリ・モストや歴史的な建物も1999年には再建が開始されました。

     

  • クレサーレ(Kuressaare)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクレサーレ(Kuressaare)について勝手に語ります。

     

     

    エストニアのサーレマー島(Saaremaa)にあるクレサーレ(Kuressaare)は、人口約1万5千人の小さな都市です。サーレマー島といえば、かつては海賊の島として知られていました。デンマークやスウェーデンに遠征していき、略奪行為をしていました。それが1227年、北方十字軍によって島が征服されました。

     

    クレサーレについては、14世紀後半にエゼル・ヴィーク司教によりクレサーレ城が建設されていました。1343年の聖ゲオルギの夜の反乱はサーレマー島にも飛び火し、島民はリヴォニア騎士団の城砦を攻撃しました。鎮圧後にクレサーレ城が強化され、教会と聖マリア教会、マアシリン城が建設されました。ドイツ人の支配は1557年まで続き、1559年になって、エゼル=ヴィーク司教公(Bishopric of Ösel-Wiek)によりデンマークへと売却されました。1563年にはホルシュタイン公マグヌス(Magnus, Duke of Holstein)から町に市民憲章を得られました。

     

    1645年になって、ブレムセブルー条約により、町はスウェーデンの支配下に入りました。これにより、クレサーレは当時、ドイツ語とスウェーデン語の二つの読み方をされることになりました。ドイツ語ではアレンスブルク(Arensburg)でした。

     

    その後、大北方戦争が起こり、1710年にはロシア帝国軍の攻撃を受けました。町に火が放たれ、多くの建物が焼け落ちてしまいました。1721年のニスタット条約により、そのままロシア領となりました。1840年代には、クレサーレ郊外の湖の泥に医療的な効用があると喧伝されたことで、20世紀初頭までリゾート地として賑わいをみせることになりました。第一次世界大戦では、ドイツ軍のアルビオン作戦で、島が占領されました。しかし、第一次世界大戦終結後、エストニア領となりました。さらにエストニアが独立を宣言し、町の名もエストニア語になり、クレサーレに改名されました。

     

    1939年にエストニアがソビエト連邦と相互防衛条約を締結し、ソ連の飛行場の島となりました。そのまま1940年にエストニアがソ連に併合されました。その翌年、サーレマー島で赤色テロが起きましたが、ドイツ軍によって占領されたことで、島民はソ連支持派とドイツ支持派に分かれてしまいました。ソ連軍とドイツ軍の攻防も1944年に起きました。1952年から1988年まではソ連支配となり、ボリシェヴィキのヴィクトル・キンギセップにちなんでキンギセパ(Kingissepa)と呼ばれるようになりました。また、ソ連では「国境の島」となり、沿岸部の一部では住民が追放されたり監視されたりして、特別の許可がなければ立入できないようになりました。

     

     

    ソ連弱体化から崩壊という流れの中で、エストニアが独立し、1990年10月にはクレサーレはエストニア初の自治都市となりました。

     

  • キリストの血入門 44

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第44回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はプラハ窓外放出事件(Prager Fenstersturz)に焦点を当てました。今回はシュマルカルデン戦争(Schmalkaldischer Krieg)を取り上げます。

     

    この戦争は、神聖ローマ帝国内で起きもので、勃発は1546年7月10日、終結は1547年5月23日でした。カトリック教会支持の神聖ローマ帝国の皇帝カール5世とプロテスタント勢力の間で争われたものです。プロテスタント側はアウクスブルク帝国議会終了後の1531年に、プロテスタント諸侯と諸都市によって結成された反皇帝同盟である 同盟(Schmalkaldischer Bund)でした。アウクスブルク帝国議会ではルター派を支持する諸侯の足並みは揃いませんでした。これはカトリック側、つまり神聖ローマ帝国側諸侯の団結力が勝り、プロテスタント側が不当に奪ったとする教会財産の返還要求が行われたのでした。この執行については猶予をつけたものの、皇帝もこれを認めたことから、ルター派を支持する諸侯たちは反皇帝同盟を結んだものでした。

     

    1532年には、シュマルカルデン同盟はフランス王のフランソワ1世と同盟することになり、さらに1538年にはデンマークとも連携することになりました。一方、皇帝側も1544年にフランソワ1世と和約し、敵対関係だったローマ教皇のパウルス3世とバイエルンと同盟しました。このような背景の中、1546年に、ついにシュマルカルデン同盟がカール5世に対して宣戦布告したのでした。これがシュマルカルデン戦争です。

     

    神聖ローマ帝国としては、この時代、オスマン帝国に対する戦費を集めることが最重要となっていました。そのため、帝国内情は放置状態に近く、ドイツ農民戦争でも皇帝は鎮圧しないほどでした。この農民戦争も諸侯による鎮圧で終わったことから、皇帝の帝国内情の疎さが露呈するとともに、弱体化していることが明白でした。そのような中、シュマルカルデン戦争開始の2年前にフランスが第五次イタリア戦争を開始し、神聖ローマ帝国と開戦していたのでした。そのため、皇帝のカール5世は1544年にフランスとの戦争を中止し、ようやく内乱の鎮圧に着手しました。シュマルカルデン戦争が本格化しのたのはこの後でした。

     

    カール5世は、1547年4月にミュールベルクの戦いで同盟軍を再び打ち破りました。このとき指導者だったヨハン・フリードリヒとフィリップの2人を捕虜にしました。結局、カール5世によりシュマルカルデン同盟は崩壊し、ルター派を異端とする暫定規定の受諾を帝国諸侯に迫ったのでした。それでも1552年8月にパッサウ条約が締結され、ルター派を容認する和平条約となりました。その後に1555年のアウクスブルクの和議へと進みました。

     

  • ヌビア遺跡(Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群(Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae)、通称ヌビア遺跡について勝手に語ります。

     

     

    古代エジプト文明の遺跡についてですので、ワイン片手に読んで頂けたらと思います。ここは1960年代から始まります。エジプトのナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったときです。このダム計画は、ヌビア遺跡が水没していしまうことが分かり、考古学者だけでなく、世界中で大きな話題となりました。そこでユネスコがヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始したのでした。その結果、世界の60ヶ国が援助することとなり、技術支援だけでなく、考古学調査の支援まで行われました。そして、1972年11月16日、ユネスコのパリ本部で第17回ユネスコ総会が開催された際、世界遺産条約が成立しました。1975年に20ヶ国が条約を締結し、正式に発効しました。1979年、ヌビア遺跡が文化遺産として登録されました。

     

    このヌビア遺跡の中で最も有名なものといえば、アブ・シンベル神殿(Abu Simbel)です。
    この神殿は、岩山を掘り、その中に作られた神殿です。岩窟神殿は、大神殿と小神殿があります。この神殿を建造させたのは、新王国時代の第19王朝ラムセス2世といわれます。祭神は、大神殿が太陽神ラー、小神殿が女神ハトホルで、小神殿は王妃のネフェルタリのためにつくられたとされています。発見されたのは1813年でした。スイスのヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによるものですが、このときは小壁の一部が発見されただけでした。出入口が発見されたのは1817年でに、イタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによるものでした。

     

    ユネスコによる救済活動は、1964年から始まりました。神殿を分割し、約60m上方の地でナイル川からは210m離れた丘に移築したのでした。このときにコンクリート製のドームを基盤としました。その後、アスワン・ハイ・ダムが建設され、ナセル湖という人造湖ができたことで、その畔に位置することになりました。世界稀に見る歴史的遺産の大規模移設工事でしたが、これを契機として世界遺産が誕生したわけです。

     

    この大神殿には四体の像があり、それはラムセス2世の像になっています。その前には家族の像が並んでいます。このようにラムセス2世の像が並ぶ姿は圧巻ですが、向かって左から2体目は崩れています。神殿が完成した数年後に地震があり、頭部が崩れ、2体目の前に転がっています。

     

     

    アブ・シンベルには空港があり、世界中の観光客がここに降り立ちます。空港からは、エジプト航空が無料送迎バスを運行しているので、わずか10分程度で行くことができます。しかもバスは飛行機の発着に合わせて運行されているので、これも旅行者には優しい対応です。

     

1 2 3 4 5 6 119

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ