今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キュステンディル(Кюстендил)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はキュステンディル(Кюстендил)について勝手に語ります。

     

     

    ブルガリア西部のキュステンディル州の州都がキュステンディル(Кюстендил)です。首都のソフィアからは約90㎞の位置にあり、標高は約500mです。ブルガリアを代表する温泉地であり、温泉療法の施設があります。鉱泉の数は40以上あり、効能は運動器系や、婦人病などに効用があるそうです。また、果物の生産も多い都市です。市街地はバンスカ川(Banska)の両岸に広がっていて、オソゴヴォ山(Осогово Osogovo)のふもとに位置しています。

     

    この都市の歴史はトラキア人から始まります。紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろから居住していたようで、要塞を形成しつつも、保養地であり、経済的には交易拠点となっていました。この時代は、トラキア語でパウタリア(Pautalia)と呼ばれていて、これは「泉の町」あるいは「源泉」を意味していました。
    第二次ブルガリア帝国の皇帝カロヤン・アセン(Калоян Асен)は、ここを領土とすることになりました。彼はブルガリア皇帝の権力を向上させ、帝国としても強固にした人物です。十字軍、ラテン系の国家との戦争でも成功を収めました。

     

    1330年には、ヴェルブジドの戦い(Битка код Велбужда)が起きました。セルビア王国(Краљевина Србија)と第二次ブルガリア帝国とが、ヴェルブジュド(現在のキュステンディル)を舞台にした戦闘でした。領土を急拡大してきた新興勢力のセルビアに、旧勢力のブルガリア帝国と東ローマ帝国が反セルビア軍事同盟を結びました。その結果、セルビア軍とブルガリア軍との戦闘に発展したのでした。セルビア軍の奇襲攻撃に対して、ブルガリア軍は敗北しました。このセルビアの勝利は、バルカン半島での勢力図に大きな影響を与えました。ブルガリアはこの敗北により、セルビアがマケドニアへ進出することを止めることができませんでした。一方、セルビアはウロシュ4世により、マケドニアだけでなく、テッサリアやイピロスの一部にまで進出したことで、東ローマ帝国の領土の一部を奪うまでになったのでした。そしてウロシュ4世は「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、東ローマ帝国の征服までを企図していたのでした。ドゥシャン法典を発布し、セルビア帝国の最盛期を築き上げましたが、1355年、東ローマ帝国征服の遠征中に急死してしまいました。

     

    この頃、キュステンディルはコンスタンティン・ドラガシュが支配することになりました。半独立的なヴェルブジド大公国の一部となり、
    15世紀にはコンスタンティン・ドラガシュにちなんでキュステンディルとなりました。
    その一方で、オスマン帝国が侵攻し、支配されるようになりました。イスラム教勢力の支配は続き、ようやくオスマン帝国から解放されたのは1878年になってからでした。

     

     

  • 李白のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は李白のワインについて勝手に語ります。

     

     

    中国の河南省で、約9000年前の新石器時代の遺跡から発見された土器に、ワイン由来のタンニンの痕跡が見つかっています。これが本当にワインだったのかどうかは分かりませんが、中国での発見ということで興味深い話でした。ワインに関して、最も古い文献では、漢の武帝の時代に遡ります。西域に派遣された張騫がワイン醸造用のブドウであるヴィティス=ヴィニフィラを持ち帰ったことで、中国でのワイン醸造の歴史が始まったとされるものです。

     

    【参考ページ】
    張騫のワイン

     

    有名な詩人に李白や杜甫がいますが、彼らはワインを題材とした漢詩を詠んでいます。そのため、中国でのワイン生産は発展していたと思われます。元の時代が最盛期だったようです。王宮内にブドウ畑があったともいわれています。しかし、明や清の時代には停滞してしまいました。その時代に人気があったのは蒸留酒でした。

     

    今回はワインを飲んでいた李白をご紹介します。
    李白の出身地、どのような家系だったのか等、実は詳細不明です。様々な説があるようですが、定説にはなっていません。
    725年、李白は25歳頃だったといわれ、この頃から10数年の間、放浪の旅に出ました。その地域は長江の中下流域でした。ここには洛陽、太原、東魯などがあります。732年、李白が32歳の時に結婚しました。相手は安陸の名家の娘でした。2人の子が生まれました。

     

    10年後、李白は玄宗の妹の玉真公主の推薦により、長安へと上京することになりました。玄宗と謁見する前に、当時の詩壇の長老である賀知章により「謫仙人」の評価を得ました。宮廷の有力者2人が推薦することになり、李白は宮廷の翰林供奉という側近の顧問役として玄宗に仕えることになりました。そのため、李白は宮廷での詩歌を作るようになりました。おそらくワインもこのときに飲むことがあったのだろうと思われます。また、この時代には楊貴妃がいました。彼女の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られました。

     

    しかし宮廷文人として活躍したのは、わずかに3年でした。他の宮廷人との間に摩擦があり、744年に、宦官の高力士らの讒言を受け、長安から離れることになりました。その後に杜甫と出会い、意気投合しました。また、阿倍仲麻呂とも親交がありました。

     

    757年、玄宗の第16子である永王李璘の幕僚として李白は招かれることとなりました。この永王は異母兄の粛宗が、玄宗に無断で皇帝に即位したことから、これを認めない立場でした。そこで、、粛宗の命令を無視し、勝手に軍を動かしました。これが粛宗から反乱軍と見なされたのでした。その結果、捕らえられ、斬られるということになりました。李白も捕らえられました。何とか釈放されたものの、結局は流罪とされました。しかしこれも、759年に、白帝城付近で罪を許されました。その後の李白は、再び各地を放浪しました。死去したのは762年の冬で、62歳だったといわれます。

     

    李白の伝説としては、船に乗船しているときに、酒に酔い、水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したというものがあります。このとき飲んでいたのがワインだったかどうかは分かりません。

     

  • ミュルーズ(Mulhouse)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミュルーズ(Mulhouse)について勝手に語ります。

     

     

    アルザス地方の誇る伝統のワインが集まる都市がいくつかありますが、今回はミュルーズ(Mulhouse)をご紹介します。フランスのグラン・テスト地域圏のオー=ラン県南部で、スイスとの国境に近い都市です。アルザス地方ということから、フランスの都市らしくない顔を持ちます。

     

    ミュルーズのランドマークといえば、サン・テティエンヌ聖堂(Temple Saint-Etienne)です。旧市街の中心部レユニオン広場にあります。1866年に建設されたもので、もともとこの場所には、12世紀に建設された教会があった場所でした。しかも、この聖堂はプロテスタントで、この規模の聖堂が街の中心部にあるというのは、フランスではミュルーズだけかもしれません。また、フランス国内にあるプロテスタント建築としては最も高いものになります。

     

    アルザス地方を代表する工業都市で、特に18世紀以降に発展しました。第二次世界大戦が終結するまで、フランスとドイツの間で度々領有権が移り変わったのは、この地方ならではのことです。それも工業都市としての魅力があったことに繋がり、逆に現在まで、あまり観光客が集まる都市にはなっていません。それでも貴重な博物館がここにはあります。その中で、一般公開されているものとしては世界最大の自動車コレクションがあります。国立自動車博物館(Musée national de l’automobile)が所蔵するシュルンプ・コレクション(Collection Schlumpf)です。他にも染色織物博物館、鉄道博物館などがあります。

     

    ミュルーズという都市名が記録に現れるのは、12世紀でした。このときは神聖ローマ帝国の南アルザス郡のスンドゥガウ(Sundgau)の一部でした。 自由都市となり、1354年には十都市同盟(Zehnstädtebund, Décapole)に加盟していました。この同盟は、神聖ローマ皇帝カール4世が条約を批准して創設されたものでした。1378年にカール4世死去にともない、一旦は解消されましたが、翌年に再度創設され、ミュルーズは1515年まで加盟していました。た。新たに同盟した相手はスイスでした。

     

    1648年のヴェストファーレン条約により、スンドゥガウはフランスに併合されました。しかし、この条約ではミュルーズはフランス併合になっていませんでした。独立した都市国家と同じような扱いだったのです、それも、独立したカルヴァン主義を保っている都市というのが特徴だったからともいえました。それでも1798年いは、住民投票の結果、フランスにへと編入することになり、これ以降はアルザス地方の都市となりました。

     

    19世紀の普仏戦争では、フランスがプロイセンに敗北し、その後のドイツ統一により、ミュルーズはドイツ帝国のアルザス・ロレーヌ州に併合されました。20世紀に入り、第一次世界大戦では、フランス軍がミュルーズを占領したものの、すぐにドイツ軍がフランス軍を追い払いました。ただ、第一次世界大戦が終了すると、アルザス・ロレーヌをフランスが占拠することになり、フランスへ併合しました。これもナチス・ドイツがフランス侵攻したことで、ドイツがまた占拠することになりました。現在のフランス領となったのは、1945年5月で、第二次世界大戦の終結とともにでした。

     

     

  • カリャリ(Cagliari)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカリャリ(Cagliari)について勝手に語ります。

     

     

    イタリア共和国のサルデーニャ島南部にカリャリ(Cagliari)はあります。周辺地域を含めた人口は約15万人で、サルデーニャ自治州(Sardegna)の州都になっています。郊外コムーネを含めると人口は約50万人となり、大都市圏となっています。

     

    都市の歴史は古く、紀元前7世紀頃にフェニキア人により建設されました。これはサルデーニャ島での貿易植民地の一つというものでした。このときはカラリス(Karalis)という名称で、古代ギリシャ語では「Kalares」、ラテン語では「Càralis」でした。そのため、基本的にカルタゴ(Carthāgō)の植民地であり、重要な交易を担う場所でした。実際、ここの港の役割としては、地中海の中継地点であり、特にアフリカ大陸を繋ぐのに最適な地でした。

     

    カルタゴからローマへと支配者が代わり、ローマもカルタゴと同じようま交易の中継地として重要視していました。ただ、このローマによる征服については、いつ頃だったかの史料がありません。さらにいうと、ローマ帝国が支配していた時代に、この地域で歴史的な出来事についても記載されたものがありません。それでもがないが、この町はサルデーニャ島の首都であったのは間違いないといわれています。また支配者はローマ帝国でも、植民地という扱いでなかったことから、住民はローマ市民の権利を獲得していました。しかし、ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅亡すると、サルデーニャ島はヴァンダル族(Vandal)によりに陥落させられました。ヴァンダル族はゲルマニアから北アフリカに移住した民族です。

     

    ヴァンダル族が支配する時代から、次に東ローマ帝国の影響を受けて、カリャリは独立王国の首都となりました。ここで外部に支配者のいない自治国家となりましたが、これで繁栄とまではいきませんでした。ムーア人の海賊が再三にわたって攻撃してきたのでした。都市は荒廃し、住民は新たな場所を求めて移住していきました。その移住先として代表的なのは、サンタ・イジアという新たに建設した町でした。海から離れているため、海賊の脅威がなかったのでした。

     

    カリャリの再建は11世紀に入ってからでした。ピサ共和国が侵入したことで、カリャリの都市再建が行われたのでした。ピサは海洋共和国であることから、この島の支配をしたかったからです。14世紀になると、アラゴン王国がピサを破って、カリャリを征服しました。サルデーニャ全体がアラゴンの支配となり、カリャリはサルデーニャ副王国の行政首都とし、後にスペイン帝国の支配下に入りました。

     

    18世紀はハプスブルク家が事実上の支配を行い、フランス革命以後に、フランス軍がカリャリへと進軍してきました。フランス軍は敗れ、カリャリの人々は、その見返りとして、ハプスブルクサヴォイア家からの権利を獲得しようとしました。しかし、その結果がサヴォイア家に対する蜂起に発展しました。19世紀末からは、イタリア統一運動が活発化し、カリャリは都市として急速に成長していきました。この時代に建設されたものは、伝統的なサルデーニャ風とアール・ヌーヴォー調が組み合わされたものでした。20世紀の第二次世界大戦では多くの被害が出ました。連合国、ナチス・ドイツ、イタリアだけでなくアメリカもこの地に関係してきました。戦後になって減少したカリャリの人口も、増加に転じ、大規模な住宅地の開発などに繋がりました。

     

     

    1970年代末から、イタリアでは「イタリアワイン・ルネッサンス」と呼ばれることがありました。ワイン生産についての近代化が急速に進んだのでした。同時にブドウ品種についても、イタリア各地で国際品種が植えられていきました。そのため、古くから栽培されていたイタリア固有種が減少していきました。この流れに乗らなかったのが、カリャリのあるサルデーニャでした。頑なに土着品種を栽培し、独自のワインを守り続けてきているのです。そういう意味でも、カリャリは古き良き時代のワインを気軽に飲まる都市といえます。

     

  • ハンブルク 5(Erinnerungen an Hamburg 5)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第5回です。

     

     

    前回はJungfernstiegで再会したメラニー(Melanie)との話から、アンネマリー(Annemarie)が勤務するシュテルンシャンツェ(Sternschanze)へ向かうことになった話でした。今回は、そのシャンツェの話です。

     

    JungfernstiegからMönckebergstraßeまで歩き、Uバーンの3号線に乗車しました。LandungsbrückenやSt. Pauliを通って、シュテルンシャンツェ(Sternschanze)駅で下車しました。

     

     

    アルスター湖の南側を大きく回ったことになります。中央駅からSバーンで行くなら、内アルスター湖と外アルスター湖の間を通過していくことになります。ここはアルトナ地区になり、レーパーバーンとは異なる、ハンブルクを代表するエンターテインメントとナイトライフの地区といえます。1930年代から1970年代にかけて、ここは労働者階級の居住区でした。ところが家賃の安い点と利便性から、1970年代以降には多くの若者が集まってきました。学生が多かったですが、家族で移り住んできた人も多くいました。街の雰囲気が徐々に変化し、おしゃれな店舗やバー、クラブなどのエンターテインメント的店舗を増加しました。

     

    1888年にFloraコンサートホールとして建てられました劇場(Rote Flora)もあり、1988年には新しいミュージカル劇場として再建する計画がありました。しかし、1989年に左派グループによって不法占拠されるという事件がありました。その結果、新規劇場再建の計画はホルステンシュトラーセ駅近くに新フローラ「neue Flora」として建設されました。占領された劇場は、は不法占拠したグループが文化イベントに使用されるようになりました。2000年になると、ハンブルク市が施設の変更を禁止した契約をもとに、不動産業社に買収されることになりました。これは住民との争いに発展し、今度は2014年にハンブルク市が建物を再購入することになり、翌年、ボランティアによって改装されました。

     

    21世紀には、完全な新しいハンブルクの顔になり、流行の最先端の街になりました。それでも左派グループによる政治デモは、ここで行われ続けています。特には5月1日のドイツ労働者の日には、警察との衝突にまでなるケースがあります。そして2008年、ハンブルクミッテ、アイムスビュッテル、アルトナという3つの地区に分割されていたシャンツェンフィアテルのエリアが、シュテルンシャンツェの新しい地区として統合されました。ただ、このときは1990年代だったので、ここまでの規模にはなっていませんでした。

     

    アンネマリーが働く店舗はカフェで、ズザンネン通り(Susannenstraße)沿いにありました。ヨーロッパらしく、歩道に席が並んでいます。彼女は店内で働いているわけではなく、チラシや広告などを含めた仕事が中心で、店員という扱いではないようでした。そのため、いきなり訪れても問題なく対応してくれました。メラニーから電話があったようで、訪ねてくることも知っていました。
    久しぶりに再会した彼女は、少し印象が変わりました。日系金融機関の3人組で動いていた時と異なり、自信にあふれた雰囲気を醸し出していました。聞けば、このカフェの経営者が彼氏らしく、経営面で支えていることが自信に繋がったようでした。

     

    店が終わってから、シュテルンシャンツェの夜を案内してもらうことになり、その時に彼氏も紹介してくれることとなりました。レーパーバーンの夜に慣れた身には、この街の雰囲気は似合わない気もしましたが、好意に甘えることにしました。

     

  • アシガバート(Aşgabat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアシガバート(Aşgabat)について勝手に語ります。

     

     

    以前にご紹介した「失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala)」に関連した内容です。ワイン産地だったコンジカラですが、紀元前2世紀に大地震に襲われ、町は廃墟となりました。そこにアルサケス朝パルティアによりニサという町が作られ、シルクロードの交易で繁栄しました。しかし、ニサもモンゴル軍に襲来され、破壊されてしまいました。その後は繁栄の面影のない、小さな村のままとなっていました。ここまでは、現在のトルクメニスタン(Türkmenistan)の首都になったとは思えない歴史です。

     

    この小さな村に大きな変化が起きたのは19世紀でした。
    ロシア人が入ってきて、新たに「アシハバード」という町を作りました。さらに要塞まで造られ、多くの人々が集まってきました。もともと交易の盛んな土地だったことから、ます商人が集まり、人口増加による需要を満たすために各種の職人も集ってきました。これにより、新たな発展が始まりました。

     

    当時、この地方の支配者はガージャール朝でした。
    現在のイランを中心に支配していたトゥルクマーン系ガージャール部族連合で、18世紀末に生まれたイスラム王朝でした。ガージャール朝時代はイランにとって、暗い時代ともいわれています。 権力基盤が弱く、軍事力も部族勢力に依存していたことから、各部族の勢力を抑えることができませんでした。このガージャール朝が1881年のアクハル条約により、この地をロシアに割譲することになりました。ロシアとしては、中央アジアの基地的な役割として、戦略的に重要な場所としていました。イギリスとも対抗するため、この町を開発していきました。そのため、アジアや中東ではなく、ヨーロッパ的な町並みが作られていき、ザカスピ州の行政の中心地にまでなりました。

     

    宗教的な事柄としては、1902年にバハーイー教の礼拝堂がつくられました。バハーイー教は、イランでは最初から布教を禁止されていました。そこで、創始者のバハー・ウッラーと信者はイランを逃れ、イラク、トルコ、アッカへと追放されていきました。しかも迫害が続いている宗教です。バハー・ウッラーは、イランから追放された後、自分がアッラーから遣わされた使徒、預言者であると宣言していたのでした。この信者をアシガバートは受け入れ、バハーイー教の共同体が設立されたのでした。

     

    【参考ページ】
    キリストの血入門 28(イスラム教の分派)

     

    20世紀に入り、第一次世界大戦が勃発し、ロシアでは革命が起きました。そこで、赤軍がアシハバートを掌握したものの、1918年にはイギリス軍と白軍に奪われたりしました。それでも、ここでは沿カスピ連合政府のザカスピ臨時政府が設立されたことで、アシハバート内戦となりました。ボリシェヴィキとの激しい戦闘となりました。
    1919年に奪回し、このときに市名をポルトラツクとしました。国としてはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国となり、主要都市の1つに名を連ねました。1925年にはトルクメン・ソビエト社会主義共和国となり、首都となりました。1927年に市の名称をアシハバードに戻りました。そしてソ連が崩壊し、トルクメニスタンが独立しました。この独立の際に都市名をアシガバートとしました。21世紀には武装勢力による暴動事件が発生しました。

     

     

    現在は、人口86万人の都市で、政府系の建造物が白い大理石を用いているため、海外から「ホワイト・シティ」(White City)という別名で呼ばれたりしています。古代のワイン産地という面影は皆無です。

     

  • キリストの血入門 34

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第34回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回まで、宗教改革のマルティン・ルター(Martin Luther)を取り上げてきました。今回はその後の流れです。

     

    まず、ルターのところでも触れた農民戦争(Deutscher Bauernkrieg)です。
    1524年に起きた農民たちの大規模な反乱です。ルターが唱えた「12ヶ条の要求」はシュヴァーベン地方にある修道院の農民たちに大きな影響を与えました。農民たちは、賦役や貢納を軽減すること、十分の一税や農奴制の廃止などを掲げたのでした。この反乱を指導したのはトマス・ミュンツァー(Thomas Müntzer)でした。彼は、ルターが穏健派なのに対して、宗教改革では最左翼の過激派という人物でした。神学者で、聖書に記述されている言葉を、階級闘争に翻訳していました。これは農民に限らず、一般の大衆を理想社会へと導こうとしていたのでした。

     

    ルターも最初の頃が、農民側を支持していたものの、ますます過激化した反乱の様相を呈して以降、逆に農民側を非難するようになりました。さらには領主に対し、農民の反乱を弾圧するように呼びかけたのでした。その結果、農民戦争は領主側の勝利に終わり、ミュンツァーも処刑されました。これは領主側にとっても、新たな構図を生むことになりました。それは、ルターが意外にも保守的であることから、神聖ローマ帝国のカール5世がカトリックによる支配強化策をしていることへの対抗手段として、ルター派を支持す、皇帝とルター派の都市諸侯という対立構造ができたのでした。

     

    そのカール5世との戦いに発展したのが、ミュールベルクの戦い(Schlacht bei Mühlberg)でした。
    神聖ローマ帝国内に生まれたルター派の領邦君主と、ローマ教会を奉ずる神聖ローマ帝国の皇帝とカトリック勢力との対立が激化していきました。しかし、時代は新教と旧教の対立構造だけでなく、東ヨーロッパではオスマン帝国が着実にヨーロッパを侵略していきました。1526年にはハンガリー王国がオスマン帝国により事実上の滅亡させました。その先にあるハプスブルク家の本領であるウィーンへと迫るほどでした。このような背景から、内部分裂を大きくすると、帝国そのものの存亡に関わると判断したカール5世は、ルター派諸侯に対し、譲歩する姿勢を見せるようになりました。ついにルター派の禁止を一時的とはいえ凍結することにしたのでした。

     

    これはルター派にとっては、好機到来となり、広い範囲にルター派化が進んでいきました。さすがにこれは危惧する事態となり、カトリック派の諸侯は1529年に再びルター派を禁止しました。ルター派はこの決定に対して抗議しました。この抗議が「プロテスト」で、新教を「プロテスタント」という由来となりました。そしてプロテスタント諸侯たちは、1531年にシュマルカルデン同盟(Schmalkaldischer Bund)を結びました。これはプロテスタント諸侯と諸都市によって結成された反皇帝同盟でした。

     

    神聖ローマ帝国としては、1532年にニュルンベルク休戦を結ぶことで一時休戦としましたが、ついに両者の戦いが始まりました。それが1547年のミュールベルクの戦いでした。プロテスタント軍はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒが指揮する約7,000の兵士でした。ヴィッテンベルクへ向かう行軍の途中、ミュールベルクの軍営で奇襲を受けてしまいました。皇帝側のカトリック軍は、17,000の歩兵と10,000の騎兵という規模で、プロテスタント軍はまとも応戦できる状況にありませんでした。退却を指示したものの、その場で壊滅的な打撃を受けたのでした。これでカール5世の勝利が確定しました。そこで、カトリック側に優位となるアウクスブルク仮信条協定が締結され、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれました。これにより、諸侯はカトリックとプロテスタントを選択する権利だけは認められました。しかし、このプロテスタントはあくまでルター派を意味し、カルヴァン派は認められませんでした。

     

    また、アウクスブルクの和議とは、個人の信仰の自由を認めたわけではなく、領邦や都市によるカトリック、プロテスタントの選択権を認めただけでした。両派間の対立が完全に解消したとは言い難いもので、これは悲惨な三十年戦争へと繋がるのでした。

     

  • アルブフェイラ(Albufeira)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルブフェイラ(Albufeira)について勝手に語ります。

     

     

    ポルトガルを代表するビーチリゾートの街がアルブフェイラ(Albufeira)です。断崖を背にしたビーチで、その景色は綺麗というより「お見事」と表現したくなるほどです。リゾート地なので、街は色々なショップやレストランが並び、近隣のワイナリーで生産されたワインも気軽に飲めます。断崖の上に登れば、街やビーチが一望出来るので、それも絶景です。

     

    ただ、この街についてはイスラム勢力が侵攻した以前のことはよく分かっていません。イスラム支配の時代には、要塞化した町となっていて、崖の上に城、町を壁が取り囲むという状態でした。
    第5代ポルトガル王のアフォンソ3世(Afonso III)は、ポルトガル南部のイスラム教勢力との戦争を開始しました。その結果、1249年にはイスラム勢力の飛び地アルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させることに成功しました。これでポルトガルのレコンキスタは完了しました。翌年、アルブフェイラも占領し、この地をアヴィス騎士団(Ordem Militar de Avis)へ与えました。

     

    このアヴィス騎士団とは、ポルトガル王国がカスティーリャ王国から独立し、イベリア半島のレコンキスタに参加するために生まれたものでした。もともとレコンキスタの十字軍騎士たちは、ピレネー山脈以北から集まった人々でポルトガル人ではありませんでした。そこで、テンプル騎士団のポルトガルでの活動を許可されたことで、ポルトガル人の騎士団が生まれのでした。

     

    1504年になると、ポルトガル王国の黄金期を築いたマヌエル1世(Manuel I)から憲章が与えられました。彼は「幸運王」とも称された国王です。探検隊や商業の発展を積極的に支援したことで知られ、中でも1497年にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマの航海は、喜望峰を経てインドへ至る海上ルートの発見となりました。さらにブラジルをポルトガル領にすることになりました。インド洋でもアラブ商人を排除し、この交易路をポルトガル商人に独占させるようにしました。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、マデイラ島からの砂糖など、莫大な利益を得ることに成功したのでした。

     

    アルブフェイラは、1755年にリスボン大地震による津波の被害を受けました。低地部分の居住地域では、わずかに27軒だけしか残らなかったといわれ、生き残った人々は教会へと避難したものの、ここも崩落したことで、多大な犠牲者を出す結果となりました。このリスボン大地震は、西ヨーロッパの広範囲に強い揺れ起こしたもので、津波による死者は1万人を超えるといわれています。死者数は約6万人で、推定されるマグニチュードはMw8.5から9.0という巨大なものでした。地震当日はカトリックの祭日である万聖節でした。

     

     

    もともと小さな漁村だったアルブフェイラですが、現在は夏場は ヨーロッパから たくさんの観光客が集まる人気のリゾート地になりました。マリーナもあり、いかにも富裕層が集まる雰囲気を出しています。ここで優雅にワインを飲める陽が訪れることを祈るのみです。

     

  • サンニコフ島(Земля Санникова)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンニコフ島(Земля Санникова)について勝手に語ります。

     

     

    コロナ禍の現在、海外への自由な渡航は制限されています。せめて未知の世界を想像しながら、静かにワインを飲むくらいが贅沢な気持ちにさせてくれるかもしれません。
    そこで、今回はサンニコフ島(Земля Санникова)をご紹介します。

     

    世界の地図のどこを探しても、サンニコフ島を探すことがせきないでしょう。それもそのはず、この島は幻島(Phantom islands)なのです。よく伝説の島と混同しがちですが、幻島は似ていいるものの。少し異なります。伝説で存在したとされる島や大陸には、伝説だけでなく神話が伴うことが多くあります。しかし幻島は、近代以降に科学的な立場で報告されたことで、その時点では存在が信じられていたものです。その後の調査で存在が否定された、まさに幻の島なのです。

     

    この幻島は北極海にあると信じられていました。北極圏の場合、海水は凍り、氷山も多い地域です。航海には不向きで、航空機による探索がない時代では、容易に島を見つけることはできませんでした。ソリなどで移動し、島影のようなものを目撃したとしても、それを確認するため接近することも困難だったりします。
    そのような背景のある北極海で、最も有名な幻島こそがサンニコフ島なのです。

     

    時代は19世紀初頭に遡ります。まだロシア帝国だった時代です。広大なシベリアという領土を有していましたが、シベリア周辺の島々については未知なものが多く、もし他の帝国列強に発見され、そこを領有されることは、ロシアにとって致命的なものでした。そのため、未発見の島々を確認するとともに、発見した島々を自国領に編入することを目的として、探検隊が多く派遣されるようになりました。その探検隊のメンバーにヤコフ・サンニコフ(Яков Санников)がいました。彼はノヴォシビルスク諸島(Новосиби́рские острова)へ探検に行く途中、未知なる島を目撃したと語ったのでした。ノヴォシビルスク諸島を構成するアンジュー諸島(острова Анжу)の中にあるコテリヌイ島(Котельный)の北方に島があると、1811年に報告したのでした。その彼の名から「サンニコフ島」と呼ばれるようになりました。サンニコフについては、過去に新しい島を発見した実績があり、しかも人格者として、信頼性の高い人物だったことから、この島の存在は広く信用されることになりました。

     

    さらに、1886年にはバルト・ドイツ人探検家のエドゥアルト・フォン・トル(Eduard Von Toll)も、ノヴォシビルスク諸島への探検の途中で、島のような陸影を観測したと報告していました。
    20世紀になってから、砕氷船の北極観測船が出航し、サンニコフ島を探すため、ラプテフ海を横切る進路を取っていました。しかし、ノヴォシビルスク諸島の流氷が進路を阻害し、定着した氷に捕まって動けなくなりました。それでも探検隊はサンニコフ島に向かおうとして、本隊を船に残したまま出発したのでした。しかし、その後の消息は不明となりました。

     

    その後も何度かチャレンジし、徹底的な探索を行いましたが、サンニコフ島は確認できませんでした。そして、時代は航空機による極地観測が可能となり、1944年にソ連による探索が実行されました。しかし、ここでも発見することはできませんでした。これにより、サンニコフ島は存在しないという結論になったのでした。

     

    では、本当に存在していなかったのでしょうか?
    実は歴史家や地理学者などが、サンニコフ島は存在していたものの、消失してしまった可能性について言及しています。北極海、特にノヴォシビルスク諸島の島弧では、島が消失することが頻繁に起こっているといいます。それは現在でも続いているようです。どのように島が消えるかというと、永久凍土であり、化石水で形成されている島は、海岸線の侵食が激しく、簡単に破壊されることで、海面下が砂州になってしまうという仮説でした。このプロセスによりサンニコフ島が消失ししてしまったというのです。あくまで仮設で、他の学者は、蜃気楼だったのではないかとの説も唱えています。

     

     

    真実は分かりません。
    でも、世界に旅立つことができない今、そんなロマンに浸るのも良いのではないでしょうか。もちろん、ワインを片手に。

     

  • ゴディン・テペ遺跡(Godin Tepe)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はゴディン・テペ遺跡(Godin Tepe)について勝手に語ります。

     

     

    1961年、イランのザグロス山脈中部でゴディン・テペ遺跡(Godin Tepe)が発見されました。発掘調査が行われ、出土した壺の破片に残留物が付着していたものがありました。この「残留物」を分析したところ、紀元前3500から3100年頃のシュウ酸カルシウム、要するに炭素のカスであることがわかりました。これは六条大麦を醸造する過程で生まれたものであると分かりました。さらに、その壺には、同時代の史料で見られるビールを指し示す印が刻印がされていたのでした。そこから、これこそ、世界最古のビールの痕跡であるとの発表に至ったわけです。
    そればかりでなく、この大発見の前年に、この研究チームは同じくゴディン・テペで、最古のビールとほぼ同時代のワインの痕跡も確認していたのでした。

     

    これだけの昔からビールもワインも飲用されていたことが再発見されたわけですが、文献からすると、このメソポタミア南部の地方では、シュメール人にはビールのほうが人気があったことが分かりました。ワインと違い、ビールは上流階級だけでなく庶民だでも好んでけでなく上流階層にも好んで飲まれていたようでした。

     

    このゴディン・テペですが、ギルガメシュ叙事詩にも登場しています。
    重要な交易ルート上に位置する場所でした。特にザグロス山脈(Zagros Mountains)が立ちはだかることから、この険しいルートを通過するための拠点でした。この交易ルートはメソポタミアとアフガニスタンを結ぶものでした。ゴディン・テペは商人の旅人で賑わうオアシス都市で、ここでビールが多く消費されていたといのも頷けます。確かにワインのイメージではないかもしれません。

     

     

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