今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ヴァン・ジョーヌ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァン・ジョーヌについて勝手に語ります。

     

     

    「黄色いワイン」の意味を持つヴァン・ジョーヌは、フランスのジュラ地方で生産される特殊な白ワインです。
    例外もありますが、基本的にジュラ地方でのみ栽培される地域固有種のブドウの「サヴァニャン」という品種でつくられます。そのため、極めて特殊なワインになるわけです。
    このサヴァニャンは、トラミナー系統の白ブドウです。
    泥灰土壌のAOCシャトー・シャロンで産出されるものが最良とされています。

     

    ヴァン・ジョーヌの場合、他のワインとは異なり、ブドウの収穫時期が遅くなります。糖度や酸も多いのが特徴です。
    その糖度ですが、ワイン醸造した際にアルコール度数が13-15度になるようにしたときの糖度になるよう収穫時期を決めているようです。そのために10月下旬から12月にかけて収穫されることになり、他の収穫時期より遅くなるわけです。
    オーク樽に入れてからの熟成も少し異なります。樽にワインを満たさず、ワインが蒸発する空間をつくるのです。これにより酵母の膜がワインの表面に発生し、ワインが酸化から守られるといわれています。この膜をvoileといい、シェリーのフロールと似た概念になっています。
    voileの生育には2~3年の時間を要します。通常はこの熟成期間中に蒸発したワインを補充したり、オリをひいたりしますが、ヴァン・ジョーヌはそのようなことを一切しません。そのため、熟成する頃までに、量は30パーセント程度にまで減るといわれています。
    また、この期間に香り成分も生成され、ヴァン・ジョーヌ特有のフレーバーやアロマが生まれます。

     

    熟成期間としてはヴァン・ジョーヌの場合、6年3か月という期間が義務付けられています。
    このワインを特徴的とする黄色い色となり、香りもナッツのようになります。
    ヴァン・ジョーヌを飲む際には、13~15度にするのが一般的で、デカンタで酸素に触れさせ、特有の香りを引きたたせるのも一般的です。

     

    このヴァン・ジョーヌを産出するジュラ (Jura)は、 ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏にあります。
    フランス本土の中で最も海から遠い地域です。地名の由来であるジュラ山脈(Massif du Jura)は、スイスアルプスより北に位置する山脈で、スイスアルプスとの谷合いにスイス高原があります。

    フランスとスイスの国境をなしている山脈で、もともとはフランスとスイスだけでなく、イタリアとの境界でもありました。
    ジュラ山脈の最高峰は、アルプスと違ってそれほどの標高はありません。もともとはル・ルキュレ(Le Reculet)が海抜1,719mでこの山脈の最高峰といわれていましたが、それより1m高い無名峰があるともいわれています。

     

  • フランス共和国( République française)3

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインと美食の国・フランスについて勝手に語る第3回(最終回)です。

     

     

    フランス革命により、ルイ16世が処刑され、さらに王妃マリー・アントワネットや王党派のダントンらまで処刑されました。
    ロベスピエールによる恐怖政治の始まりでしたが、彼も1794年にクーデターで失脚し、今度は処刑される側になってしまいました。
    そして1799年です。
    ナポレオン・ボナパルトの登場です。

     

     

    1804年にはナポレオンが皇帝に即位し、次々とヨーロッパ各国に対し侵略をはじめました。連戦連勝の破竹の勢いだったナポレオンでしたが、ライプツィヒの戦いに敗れ、1814年に退位することになりました。ウィーン会議により、エルバ島への流刑が決定しました。
    しかし、ナポレオンは翌年の1815年にエルバ島を脱出し、再び返り咲きます。ただこれも百日天下に終わり、完全な失脚へと繋がりました。
    次にルイ18世がフランス国王に即位したことにより、ブルボン家の復古となりました。諸外国はこの即位を承認しました。
    一般的によくいわれるウィーン体制による保守反動的な体制です。それでも絶対王政が完全に復活したわけではなく、立憲君主政となり、近代的国家としてかつての身分制の枠組みは復活しませんでした。

     

    ルイ18世の次に、弟であるシャルル10世が即位すると、王権復古的な政治を推し進めますが、これにともなって王への反発も強まりました。
    そして1830年の七月革命により、シャルル10世も失脚しました。
    フランスの歴史が難しいのは、この革命は立憲君主派によるもので、共和政にはならなかったことになりますが、共和制や帝政などが繰り返され点にあります。ちなみに現在は第五共和制です。

     

    さて、七月革命後に即位したルイ・フィリップは、次の二月革命で失脚しました。
    その後の総選挙では社会主義者が大敗を喫し、国立作業場が閉鎖されたことで、パリの労働者が反発し、六月蜂起を起こしました。これはすぐに鎮圧されたものの、政治的混迷状態が続きました。この背景から、ある種のカリスマ性を持った強力な指導者の登場が待望されるようになったのかもしれません。
    結局、その願望を叶えたのがルイ・ナポレオンでした。1851年、国民投票により皇帝に即位しました。
    このナポレオン3世については、以前に投稿したことがあります。

     

    ナポレオン3世が制定したワインランク

     

    ナポレオン3世は、様々な外国遠征に成功し、国内では工業化を推進していきました。
    しかし1870年に普仏戦争に破れ、ナポレオン3世が捕らえられてしまいました。これが第二帝政の終焉でした。

     

    第三共和政は1875年の第三共和国憲法によって始まりました。
    この時期に第一次大戦も第二次大戦も起きました。
    この時期の「自由フランス」についても以前に投稿したことがあります。

     

    自由フランス

     

    大戦後に第四共和制、第五共和制と移行しました。
    3回に分けて、駆け足でフランスの歴史を語ってきましたが、よく分からなかったかもしれません。おそらく日本の歴史もこの短い量で語った場合、同じようによく分からず、なんだか同じことの繰り返しのように感じるかもしれません。でも、それが歴史というものかもしれません。
    歴史は繰り返す、、、
    フランスも日本も共通することではないかと、思いつつ、この連載を終えます。
    フランスは詳しくないので、疲れました。

     

  • フランス共和国( République française)2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインと美食の国・フランスについて勝手に語る第2回です。

     

     

    1337年に百年戦争が起きました。
    この戦争で登場したジャンヌ・ダルクは、消極的な作戦を一新する効果をもたらしました。防戦から攻勢に転じたフランス軍は、イングランド軍が占拠していたサン・ルー要塞を攻略することに成功しました。
    さらに、1429年にはジャンヌが軍を率い、サン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠しました。
    この翌日には逸話が残っています。
    作戦会議の席で指揮官だったデュノワは、イングランド軍へのさらなる攻撃には消極的な立場でした。しかし、ジャンヌ・ダルクはこれに反対していたのです。
    結局、指揮官のデュノワは市街の城門を閉鎖し、戦線拡大をしない選択をしました。一方、ジャンヌは、市民と兵を呼び集め、城門の責任者に門を開けさせるように働きかけます。
    そしてジャンヌ・ダルクは市街を脱出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略へと進んだのでした。
    その夜、作戦会議では、軍事行動の中止が決定していたことを知ることになりました。それでも彼女は無視し、レ・トゥレルへの攻撃を主張したのでした。

     

    このジャンヌ・ダルクですが、「神の声」を聞いたと公言していました。そのため、異端審問も経験しています。
    それによると、初めて「神の声」を聞いたのは12歳だったといいます。その内容は、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿が現れ、イングランド軍を駆逐し、シャルルをフランス王位に就かしめよという「声」だったといます。
    聖人たちの姿が消えると、ジャンヌ・ダルクは泣き崩れたそうです。

     

    さて、フランスの歴史に戻ると、いよいよフランス革命に近づいていきます。
    1589年にナヴァール王アンリが、フランス王に即位し、ブルボン朝となります。アンリはカトリックに改宗しつつ、1598年にはナントの勅令によって宗教的な寛容を示しました。しかし、1610年にカトリック教徒の凶刃に倒れることになってしまいました。
    次に即位したのがルイ13世です。彼は王権の強化を推進し、1618年から三十年戦争に突入します。
    三十年戦争といえば、ヨーロッパのキリスト教において史上最大の宗教戦争でしたが、ルイ13世はカトリックという宗教的な立場よりもフランスの国益を優先していました。その結果、ブルボン家の勢力を拡大させることになりましたが、カトリック派からは反感を買うことになりました。
    1643年にルイ13世が死去し、次にルイ14世が即位しましたが、当時まだ5歳でした。そのため宰相のマザランが補佐することになりました。
    宰相マザランは1661年に死去、ルイ14世の親政が始まることになりました。
    このルイ14世こそが「太陽王」と呼ばれ、「絶対王政」の時代を到来させました。
    まさにフランス革命前夜へと繋がる道が開けました。

     

    フランス革命をもたらしたものは、「絶対王政」に対する反動といえます。
    これは、聖職者・貴族・ギルドといったある種の利権団体により成立したものであるがゆえ、その圧政に反発した民衆の革命でした。
    1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃事件が起きました。これがフランス革命の契機でした。これは単なる襲撃事件に終わらず、その戦火はフランス全国にまで飛び火していきました。農民の暴動は、貴族や領主を襲うこととなったのです。
    このような騒乱を受け、国民議会は8月27日に人権宣言を採択することになりました。しかし、ルイ16世は、議会から提出された法令の可決を拒絶しました。
    このような不安定な政治情勢の中、フランスの物価は高騰し、怒ったパリの女性たちが武器を手にして、ヴェルサイユ宮殿に乱入する事件まで起きました。さらに一部は暴徒と化すことにもなりました。
    ルイ16世はこの段階になって、ようやく人権宣言を承認したのでした。
    さらに、その後はパリ市民の監視を受けることとなったのです。
    ただこの革命は、他の地域にまで波及することを恐れるヨーロッパ各国によって、革命に干渉する動きが現れ、さらにこれに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発することにもなりました。

     

    この革命以降の歴史は共和制や帝政、王政などがあり、まさにフランスの歴史の醍醐味となっていきます。

     

  • フランス共和国( République française)1

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    やはりワインと言えばフランス、でもフランスのこと、特に歴史についてどれだけご存知でしょうか?
    今回はワインと美食の国・フランスについて勝手に語ります。

     

     

    ワインだけでなく、旅行先としても人気のフランスですが、正式名称はフランス共和国(République française)で、国名のFranceはフランク王国に由来します。
    その証拠に、フランスの歴代の王の代数は、フランク王国の王からの連番となっているのです。
    凱旋門やエッフェル塔、ルーヴル美術館など、フランスの観光地は、日本人なら誰もが知るような場所が多くあり、馴染み深い国とはいえますが、どのような国の成り立ちなのか、その歴史については意外と馴染みがないかもしれません。

     

    世界史の教科書で最初に登場するフランスの地は、おそらくラスコー洞窟でしょう。
    有史となると、遡れるのは古代ローマの時代になります。
    フランス周辺地域は当時、「ガリア」と呼ばれていて、居住していたのはケルト人だといわれます。
    カエサルの「ガリア戦記」がこの時代の第一級資料として有名です。
    ガリア戦争により、紀元前58年からカエサルがガリアの全域を征服したことで、ローマの属州となりました。その結果、ローマ的な都市の建設が行われることとなりました。

     

    その後、西暦375年ごろからゲルマン人がローマ帝国を脅かすようになります。「ゲルマン人の大移動」です。
    そのゲルマン人の民族のひとつがフランク族で、ローマ帝国と同盟関係となり、他のゲルマン系民族だけでなく、ローマ系住民まで吸収していき、勢力が大きく拡大していきました。その拡大範囲は、現在のフランス領土内だけでなく、ドイツの一部地域にまで及びました。
    これがフランク王国の成立に繋がりました。
    最初に統治したのはクローヴィス王で、ローマのカトリックを受け入れ、自ら洗礼を受けたことで、カトリック勢力からの支持を得ることができました。これは勢力拡大の上ではとても有利に働き、その後も遠征を繰り返し、西ゴート王国からガリア南部を奪取することに成功し、ガリア支配を確立させました。
    しかし、クローヴィス王の死後には、フランク王国は4つの国に分かれることになりました。その中でアウストラリア分王国のカロリング家が台頭し、フランク王国全土を従える実質的支配者へとなっていきました。
    こうして、メロヴィング朝からがカロリング朝の時代となり、シャルルマーニュ(カール大帝:Karl Martell)はイベリア半島にまで遠征し、イスラム勢力やアヴァール族を相手にし、イベリア半島北部からイタリア半島北部、現在のハンガリー周辺までを勢力範囲としました。
    ヨーロッパを統一に等しいほどの偉業を成し遂げたのです。
    これにより、フランク王国の領土は最大になり、ヨーロッパも平静な時代となりました。そして800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられたのです。

     

    シャルルマーニュの没後は、フランク王国は3つに分裂しました。
    西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国ですが、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリア・ドイツの基礎となる国だといわれます。

     

    西フランク王国はカロリング家の後、987年にユーグ・カペーによってカペー朝となりました。しかし、この時代には東フランクのオットー1世が皇帝となった神聖ローマ帝国と比べると脆弱なものでした。
    それでも13世紀になると、にカペー朝は徐々に王権が強化され、ノルマンディーを奪ったりしました。ローマ教皇との連携が進んだことも影響しています。
    ただこれも長続きせず、14世紀には、フランス王とローマ教皇は対立関係に変化してしまいます。
    最終的に、フランス王権がローマ教皇に対して優位性を示し、フランス教会は、ローマ教皇から独立することに繋がりました。
    カペー朝はこのように繁栄することとなりましたが、あっけなく終焉を迎えました。フィリップ4世の死後、跡継ぎが不在だったのです。栄華のあとに王朝断絶へと至ったのでした。

     

    カペー朝断絶は、フランスの王位継承問題になり、百年戦争にも繋がりました。
    フィリップ6世がフランス王に即位したことに対し、フィリップ4世の孫でイングランドド王のエドワード3世が、自分こそが正当なフランスの王位継承者だと主張したことに始まります。
    この戦争で登場したのがジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)です。

     

    彼女はバル公領の村ドンレミで農夫の娘として生まれましたが、神の啓示を受け、フランス軍に従軍したといいます。
    まさに伝説化した人物で、フランスの歴史を語る上では外せない人物です。
    改めて彼女に焦点を当てて、この続きにしたいと考えます。

     

  • 自由フランス(France libre)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は自由フランス(France libre)について勝手に語ります。

     

     

    ワインの産地フランスは、ヨーロッパという地域特性から、様々な戦争の歴史を繰り返してきました。
    今回はその戦争の中から第二次大戦中の自由フランスにフォーカスしたいと思います。
    自由フランスとは聞きなれないかもしれませんが、ドイツのフランス占領に反対して成立した組織のことです。パルチザン(Partisan)の一種といえます。
    特徴的なのは、亡命フランス人による独自の自由フランス軍(Forces Françaises Libres)であった点です。
    1940年にドイツ軍によるパリ陥落後、ロンドンに亡命した前国防次官シャルル・ド・ゴール将軍は、BBCを通じて歴史的な演説(en:Appeal of 18 June)を行いました。その内容が、国内外のフランス人に対独抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけるものでした。
    さらにド・ゴールは「フランス国民委員会」(fr:Comité national français)を設置し、イギリス国内にいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言しました。
    ウィンストン・チャーチルはこの委員会設置を支持し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人(Français libre)の主席」として承認したのです。

     

    最初にダカール沖海戦に参加しましたが、これは失敗に終わりました。
    それでもコンゴのブラザヴィルでは「海外領土防衛協議会」設置を宣言したことで、海外植民地の結集を図ることにしました。その結果、フランスの植民地の中で、赤道アフリカとカメルーン、ニューカレドニアとフランス領ポリネシアがこれに応じました。
    また、イギリスと自由フランスはエクスポーター作戦(Operation Exporter)によりシリアへと侵攻しました。
    独ソ戦開始後は、ソ連に外交攻勢を掛けることで関係を深めていきました。それにより、ソ連はド・ゴールを承認し、アメリカも自由フランスに対して武器援助を開始することに至ったのです。

     

    単なるゲリラ的なパルチザンのレベルを大きく超え、自由フランスはフランス国外のフランス政府のような勢いを持つこととなりましたが、ド・ゴールは自由フランスの「独裁者」でもありました。
    そのせいか、他国への要求も尊大な態度でのぞみ、連合国間での評判が悪化しました。
    1942年7月21日からは「戦うフランス(フランス語: France combattante)」と改称されました。

     

    1944年には、南米亡命者を中心とした義勇軍も自由フランス軍に参加したことで、兵力は40万人にまで達していました。
    そのような状況から「フランス共和国臨時政府」に改組する布告をし、ド・ゴールが主席となりました。これをイギリスに承認を迫ったものの、チャーチルは不快感を抱くことになりました。それでもイギリス全体の基本政策としてはド・ゴールを支持し、臨時政府が正式に発足することとなりました。
    この臨時政府承認については、ノルマンディー上陸作戦の際、チャーチル、アイゼンハワー、ド・ゴールの会談でも行われたほどでした。
    結局、ノルマンディー上陸作戦には自由フランス第2機甲師団が参加することとなりました。

     

    パリの解放に至ったとき、ド・ゴールもパリに入り、臨時政府も正式にパリに移りました。
    これにより、ようやくフランス国内でフランス政府としての活動を行うこととなり、連合国も正式なフランス政府として臨時政府を承認することとなりました。

     

    フランスでは、ド・ゴールの名前をいくつかの施設などに命名していますが、おそらくその代表格はパリのシャルル・ド・ゴール空港でしょう。
    ただ、彼が怒涛の勢いでつくりあげた自由フランスについては、あまり関心を持つ人も多くないでしょう。秋の夜長、ワインでも飲みながらフランスの歴史を学ぶのも良いかもしれません。

     

  • プロヴァンスワイン(Vignoble de Provence)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はプロヴァンスワイン(Vignoble de Provence)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのワインといえば、ボルドーとブルゴーニュがメジャーな存在ですが、フランス国内で最も古くからワイン生産をしていた地域はプロヴァンスです。
    南東部にあるコート・ダジュールの海外線から内陸に少しだけ入った地域に相当します。自治体でいえば、アルプ=マリティームからひとつ、ヴァール県で68、ブーシュ=デュ=ローヌ県では15の地域がブドウ栽培している範囲です。

     

    プロヴァンスの古さは、地名の由来からも分かります。
    ローマ時代のプロウィンキア(Provincia)、つまり属州にちなんだものです。
    しかし、沿岸部はもともとギリシア人の植民により誕生した地域です。紀元前600年代といわれます。
    最初に定住したのはマッサリアで、ニースやアンティーブなどの沿岸部分に小さな都市を建設していきました。
    それまでは、ケルト人、リグリア人などが先住していたといわれます。
    多くの侵攻を受けたのち、西暦843年にヴェルダン条約により、プロヴァンスはロタール1世のものとなりました。
    フランス革命後は、ブーシュ=デュ=ローヌ、ヴァール、バス=アルプスの3つの県が誕生し、1793年にはニース伯領がフランスに一時的に併合されたりもしました。

     

    肝心のワインについてですが、プロヴァンス産ワインは、ほかの地域に比べてロゼが多いのが特徴です。
    ブドウ品種はカリニャン、ムルヴェードル、グルナッシュ、サンソー、シラーなどで、白ワインはクレレット、ユニ・ブラン、セミヨン抔などの品種から作られています。
    熟成させることよりも、そのまま流通して気軽に飲まれる傾向にあり、味としては、フルーティーでさわやかな感じを味わうワインと言えます。特にロゼと白は軽快な辛口です。
    基本的に高級ワインより日常用の安価なワインを大量生産してきました。これは、気候的に恵まれていて、地中海性気候が栽培条件に適していたことに由来します。
    それでも、一部には少量生産される村名AOCワインなどもあります。

     

    プロヴァンスの典型的な風景といえばギャリグ(fr)で、地中海盆地周辺の石灰岩質の土壌にある低木の潅木地です。ただここも、毎年干ばつが見られるようになっているそうです。
    気候変動の影響かどうかは分かりません。

     

    フランスワインもボルドーやブルゴーニュだけでなく、プロヴァンスワインも安価だけでない魅力をぜひ知ってほしく思います。

  • マルクス・アウレリウス・プロブス

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマルクス・アウレリウス・プロブスについて勝手に語ります。

     

     

    梅雨が開けた暑い季節には、冷やして美味しい白ワインをプレゼントしたいものです。
    シエル・エ・ヴァンでは、その代表格としてミュスカデ(Muscadet)を扱っています。フランス・ロワール渓谷地方のロワール川の河口に近い地区で生産されるAOCワインですが、この地方でワインが作られるようになったのは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・プロブス(Marcus Aurelius Probus)の時代だといわれています。

     

     

    実際にはミュスカデの形ができたのは、プロブスより時代がかなりあとの18世紀の初め頃ではありますが、軍人皇帝時代のローマ皇帝時代からの延長線上であるのは間違いありません。
    では、そのマルクス・アウレリウス・プロブスとは一体、どんな皇帝だったでしょうか?
    あまり馴染みがないかもしれません。

     

    プロブスは、皇帝に名乗りを挙げた際、ライバルがいました。
    そのライバルは西方属州や元老院が支持していたフロリアヌスです。
    プロブスは東方属州の軍の支持を受けていたので、東西対決として対峙した関係だったのです。
    ところが、フロリアヌスが暗殺され、内部対立が解消され、皇帝へと上り詰めることとなりました。

     

    そもそもプロブスが東方の支持を得ていたのは、ウァレリアヌス帝の時代に軍団長になり、皇帝アウレリアヌスによるパルミラ王国への征討戦でアエギュプトゥス(エジプト)を占領したことで、東方全域の防衛の任を受けていたからでした。
    皇帝になってからも軍人として活躍が続きました。
    ライン川・ドナウ川戦線では蛮族迎撃に加わり、それ以降はローマ帝国への蛮族侵入はことごとく撃破していきました。
    さらには蛮族の地にまで攻め込み、ローマ帝国の国境を平安な場所へとかえていきました。
    しかし、国境から先の安定とは裏腹に、ローマ帝国領土内では内乱が絶えず発生することとなりました。
    領土は反乱などの鎮圧により、農地は荒廃していきました。これを復興させるために、軍を動かしたことで、反発を招き、結局は、その兵士たちにより暗殺されてしまいました。

     

    軍人としては優秀だった皇帝が、自分の指揮命令下にある軍の兵士により最期を迎えてしまったわけです。
    その原因が農業復興政策で、そのかすかな流れの先にミュスカデがあるのかもしれません。

     

  • シャトー・ディケム

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシャトー・ディケムについて勝手に語ります。

     

     

    世界最高の極甘口白ワインでの生産者として知られるシャトー・ディケム(Château d’Yquem)は、フランスのアキテーヌ地方ジロンド県ソーテルヌ村にあるリュル=サリュース家所有のシャトーです。
    AOCワインとしてはソーテルヌ (Sauternes)で、ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼ、ハンガリーのトカイと並ぶ、世界三大甘口ワインの一つです。

     

    フランスを代表するボルドーワインの中で、シャトー・ディケムは最も古いシャトーの一つといわれます。
    ワイン生産量は毎年6万3千~7万本程度ですが、生産されない年も存在します。具体的には1930、51、52、64、72、74年などです。
    なぜ生産されない年があるかというと、完璧さを維持する為です。ブドウが不作の年は瓶詰めしないのです。

     

    貴腐ワインとしては、熟成に20年以上かかるともいわれ、優れたヴィンテージワインとして、100年以上経っても十分に価値ある味が保たれている貴重さがあります。

     

    貴腐ワインを探す

     

    貴腐ワインは、ヨーロッパでは以前、クスリとしても飲まれていたものです。

    普段のワインに飽きたら、ぜひ貴腐ワインも味わって頂きたいと思っています。

     

  • ラウブルとマディラン・ワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラウブル(バスク十字)について勝手に語ります。

     

     

    フランス南部オクシタニー地域圏オート=ガロンヌ県南部にマディラン(Madiran)というコミューンがあります。
    マディランを中心にして生産されるAOCワイン生産の拠点です。
    この地方の固有品種であるタナ種を中心に、カベルネ・ソーヴィニョンやカベルネ・フラン抔を混醸して作られるワインの他、この地方原産のタナ種のワインが生産されえいます。
    ワインの色が濃いのが特徴で、それは見た目だけでなく、実際に味わってもその濃さから、渋みや酸味も強いといえます。

     

    この地域は、オクシタニー地域圏で、ラングドック=ルシヨン地域圏とミディ=ピレネー地域圏が統合されたものです。
    また、ピレネー山脈の両麓で、ビスケー湾に面した地域は、フランスだけでなくスペインにまでまたがり、バスク地方になっています。(Euskal Herria)
    バスク地方のシンボルはラウブル(バスク十字)です。

     

    ラウブルは、卍に似た曲線状の4本のアームを持つものです。
    確かに十字ではありますが、キリスト教のシンボルとは全く異質です。キリスト教以前のシンボルとみなされているようで、十字の解釈も多岐にわたっています。

     

    古代にはバスクにカルタゴが進出したり、中世には西ゴート族が侵入したりという、ヨーロッパ独特の激動の時代を経た地域です。
    この地方原産のブドウを使ってマディラン・ワインは生まれ、ファンも多くいます。ボルドーやブルゴーニュとは異なる独特のワインが魅力です。

     

  • パリスの審判

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はパリスの審判について勝手に語ります。

     

    ギリシア神話の一挿話で、トロイア戦争の発端とされる事件として知られる「パリスの審判」。フランドルの画家ピーテル・パウル・ルーベンスによる絵画としても有名です。
    3人の女神が、美男といわれたパリスの前に並び美を競い合うというものですが、この3人の女神は、神々の女王ヘーラー・知恵の女神アテーナー・愛と美の女神アプロディーテーです。
    イリオス(トロイア)王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)により判定されるというものです。
    これは賄賂戦ともいえるもので、3人の女神はパリスをそれぞれに買収しようとしていました。ヘーラーは「アシアの君主の座」、アテーナーは「戦いにおける勝利」、アプロディーテーは「最も美しい女」を約束しました。
    最終的にパリスは「最も美しい女を与える」というアプロディーテーを選びましたが、この「最も美しい女」が問題で、その人はスパルタ王メネラーオスの妻であるヘレネーのことでした。
    これこそがトロイア戦争の原因となったといわれるものです。

     

    この神話に絡めて、ワイン業界では激震が走った事件がフランスでおきました。1970年代の「パリスの審判」は、フランスのワインとカリフォルニアのワインの優劣をフランスのワインの専門家を集めて審査するというものでした。
    当然、新世界ワインのカリフォルニアワインは品質が向上したとしても、まだまだフランスのワインに勝つことはありえないといわれ、いわば「パリスの審判」と同じように予め勝敗は分かっているはずのものでした。
    そう、結果は決まっていたのです。

     

    では、その結果は?

     

    20世紀も終盤に近くなり、新世界のワインの品質が向上し、伝統的なワイン産地だけが優れているという信仰は消え去りました。
    ところが21世紀の現在でも、ワインの代表的な国はフランスに変化はありません。絶対的に揺るぎないフランスワインの地位は失墜していません。
    では、パリスの審判の結果は?

     

    思いつきで今回のテーマを決めたので、もう少し詳細を調べてからにしましょう。機会があれば次回へ続きます。

     

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