今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ボルドー(Bordeaux)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は都市としてのボルドー(Bordeaux)について勝手に語ります。

     

     

    ボルドー(Bordeaux)については、「ボルドー・アキテーヌ公国の首府」として紹介したり、「ボルドーとブルゴーニュの違い」など、このワイン・ブログでは数多く取り上げてきました。
    今回はワイン産地としてのボルドーではなく、都市としてのボルドーという視点で取り上げてみます。

     

    ボルドーの市街地は、2007年に世界遺産に登録されました。その登録された市街地は1810ヘクタールに及び、18〜19世紀の都市計画による街並み、それに歴史的な再開発などが評価されたものでした。 この都市計画により、中心部から北側へは大通りが貫き、南側は旧市街地らしい狭い道路が、まがりくねった欧州らしい一画になっています。
    都市としてのボルドーが、もっとも特徴的な面といえば、市街地の形はガロンヌ川の湾曲部にそっている点といえます。その形が三日月形のため、月の港とも呼ばれます。ドイツのハンブルクと同じように河口を使った港町でもあります。
    中心市街地のメリアデック(Mériadeck)では、1960〜1970年代に大規模な再開発が行われました。人と自動車の通行を分離することを目的に、道路上に歩道が建設されたのでした。ただ、おの開発についての成果には賛否両論あるようです。また、2000年代に入ってからも新たな再開発が始まりました。このときに路面電車の復活などがありました。
    位置的には、首都のパリからは直線距離でパリから約500km離れています。スペインのサン・セバスティアンのほうが近く、約200kmという距離です。

     

    ボルドーが町として創設されたのは、紀元前300年にまで遡ります。町の建設はケルト系ガリア人によるものでした。当時はブルティガラと呼ばれていました。
    その後、ローマの占領地となり、交易港、ワイン生産により発展していきました。大司教座がおかれたのは4世紀で、西ローマ帝国が崩壊後にはゴート人に支配されました。また、一時期はイスラム軍に占領された時代にありました。そしてアキテーヌ公国の首府です。イングランドが撤退し、フランス王の支配になってから、黄金時代を迎えることになりました。17世紀半ばからフランス革命期までは、まさにボルドーの絶頂期で、この時期に近代的な港も整備されました。ワインだけでなく、植民地で生産された砂糖やコーヒー、さらには奴隷なども商品として取り扱い、ドイツやオランダなどの販売する中継貿易が繁栄したのでした。
    その貿易額ですが、フランス革命前年のには1億1000万リーヴルを超えていたました。この額は貿易都市のマルセイユより2倍以上も多いものだったのです。
    それだけ裕福となった都市ということもあり、大司教や地方長官などは、都市の整備を徹底していきました。城壁の整備だけでなく、郊外の沼地まで干拓し、都市開発を行ったのが、現在の世界遺産に繋がったわけです。オスマンのパリ改造より100年も前に行った都市改造だったのでした。

     

    フランス革命が起こると、ボルドーは穏健共和派のジロンド派が本拠地としました。そのためジャコバン派による報復もありました。
    さらに1871年の普仏戦争の敗勢状況は、ボルドーで国民議会が開催されました。ボルドーにフランス政府が置かれることになりました。このように臨時の首都となったのは、第一次世界大戦、第二次世界大戦でもありました。

     

     

  • ソミュール(Saumur)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はソミュール (Saumur)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのメーヌ=エ=ロワール県の都市であるソミュール(Saumur)は、ロワール河岸にあり、ロワールワインの産地です。 石を採掘するために掘られたトンネルがり、それを利用して、地元のブドウ園がワインの保管場所としています。
    採掘される石というのは、美しいが壊れやすいといわれるテュフォストーンというもので、これはチョーク質石灰岩です。ソミュールの民家の多くも、この石灰岩で建設されています。

     

    この都市には新石器時代の巨石墳墓群があります。「ドルメン・デ・バニュー」というもので、このことから数千年前よりこの地に居住した人がいたことを意味します。それだけ太古より居住地に向いていたわけですが、この街が大きく変貌したのはノルマン人(Normanean)の侵入かもしれません。
    ノルマン人はスカンディナヴィアやバルト海沿岸にいた北方系ゲルマン人のことです。8世紀後半から活発化し、9世紀になるとヨーロッパ各地を侵略していました。
    ソミュールは845年に略奪され、10世紀になるとノルマン人防衛を目的とするため、ブロワ伯ティボー1世によってソミュール城(Château de Saumur)が建設されました。トゥエ川とロワール川の合流点を見渡せる位置にあります。1067年には破壊されてしまいましたが、12世紀後半にイングランド王ヘンリー2世によって再建されました。最終的にはシャトー(château)になりました。

     

    宗教改革の時代にはカルヴァン主義(Calvinism)の影響を受け、ソミュール大学でプロテスタント神学者のMoses Amyrautによる「Amyraldism 」あるいは「School of Saumur 」という学派が誕生しました。
    フランス革命期に発生したカトリック王党派の反乱であるヴァンデの反乱(Rébellion Vendéenne)では、戦場となりました。王党派の白軍と共和国側を青軍が激しく戦闘し、白軍はロワール川の北に追い詰められました。1794年のル・マン、サヴネの戦いにより、組織的抵抗は壊滅しましたが、以後はゲリラ戦へと続いた反乱でした。

     

    第二次世界大戦でもソミュールの戦いがありました。1940年6月18~20日でした。
    ソミュールの人々は、愛国心を見せ、必死の抵抗をしました。このことから、クロア・デ・ゲール勲章を授与されることにもなりました。
    現在はロワールワインの産地として、人口わずかに2万7千人の平和な都市になっています。

     

     

  • フォルバック(Forbach)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフォルバック(Forbach)について勝手に語ります。

     

     

    フランスでもドイツ国境にあるフォルバック(Forbach)は、ワインでもドイツのワインと一体化した印象があります。ドイツのザールブリュッケンとコナベーションを形成しているので、国が異なっていても同一文化圏の雰囲気もあります。
    歴史も古く、古代よりフォルバック周辺には人が定住し、ケルト人、ローマ人の住む場所でした。地名はゲルマン語由来です。
    12世紀の終盤になると、シュロスベールの丘に城が建てられ、規模が徐々に拡大していきました。そして、1550年になると、城壁が町とつながりました。その後は、荘園領主の支配がそれぞれ代わりました。

     

    しかし三十年戦争により、フォルバックだけでなくロレーヌ地方が荒廃しました。城と城壁も解体されました。サント=クロワ礼拝堂も荒れたまま放置されました。
    その後の荘園領主の交代があり、ドイツ領となったのは1870年のスピケレンの戦い後でした。
    第一次大戦後にドイツ帝国が消滅し、1919年にはフランス領に復帰しました。次の第二次世界大戦では、ドイツ第三帝国が侵入し、コミューンに大きな変化をもたらしました。フォルバックの男性はドイツ国防軍や親衛隊の軍事部門に徴兵されたり、第三帝国の工場へ送られたりしました。
    そして1944年9月、ナンシーとヴェルダンが解放されました。その後にメスが解放されました。しかし、フォルバックの住民は解放されませんでした。そして1945年3月14日、最後の激しい戦闘が終わり、この苦難の期間が終焉を迎えました。

     

    では、ここでの言語はどうなっているかというと、歴史的に行政はニ言語となっていました。それでも1794年にはフランス語の使用が決められ、それ以外の言語は公的機関で使用することが禁止されました。ところが、教理問答と祭式はドイツ語で行われていたことで、フランス語とドイツ語が普通に使われていたようです。
    普仏戦争でドイツが占領すると、ドイツ人移民が増加し、定住していきました。そして1872年には、学校は完全にドイツ語化されたのでした。これも1918年にフランスに復帰したことで、教育現場では徐々にフランス語化が進んでいきました。
    1940年にはドイツ第三帝国の支配となり、学校の授業はドイツ語に戻りました。フランス語は禁止されました。
    第二次大戦後は強制的にフランス語化を行いました。

     

     

    日本人には想像できない歴史です。
    ただ、これがヨーロッパらしいともいえます。

     

  • ランス(Reims)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はランス(Reims)について勝手に語ります。

     

     

    フランス北東部の旧シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏、現在のグラン・テスト地域圏マルヌ県にあるランス(Reims)は、シャンパーニュ地方の中でも特にワイン醸造で知られています。ランスを拠点として、多くの有名なシャンパン製造会社がテイスティングやセラーツアーを開催しています。また、それらのシャンパン製造会社は、ランスの地下に、総延長120キロに及ぶワイン貯蔵庫・カーヴが縦横に張り巡らされています。
    そのような都市ということもあり、郊外はブドウ畑が一面に広がっています。まさにブドウ畑の平原であり、シャンパーニュの語源も「平原」を意味するラテン語のカンパニアに由来すると言われています。
    パリからは、東北東に約130kmの場所に位置しています。

     

    かなり古くからの歴史のある都市で、古代ローマによる支配がはじまる以前から、この地に都市ができていたといわれます。当時はガリアで、居住していたのは、レミ族でした。彼らが築いた都市がドゥロコルトルム(Durocortorum)で、これがランスの前身でした。
    古代ローマが支配する時代になってからの遺構も残っています。その代表が、3~4世紀につくられたマルス門でしょう。
    また「戴冠の都市(la cité des sacres)」や「王たちの都市(la cité des rois)」とも呼ばれますが、これは498年にメロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世の戴冠式が関係しています。ここで聖別戴冠式が挙行されたのです。そのようなことから、フランス王家にとっては、聖なる都市ともなっています。歴代国王の戴冠式がここで行われてきたのです。

     

    そのフランス歴代国王の聖別戴冠式が行われたのが「ノートルダム大聖堂」です。これは隣接するトー宮殿、市内の聖レミ教会堂とともに1991年に、ユネスコ世界遺産に登録されました。フランス国内のゴシック様式の傑作の一つといわれています。
    816年にルイ1世がここで戴冠式を行い、その後、1825年のシャルル10世に至るまで、計32人が大聖堂で聖別を受けました。戴冠式では、15世紀、ジャンヌ・ダルクに連れられて聖別を受けたシャルル7世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ16世などがいます。
    しかし、ランス・ノートルダム大聖堂は、フランス革命の時の動乱では、彫像を中心に破壊されてしまいました。そこで1875年には、フランスの国会で修復が決議され、彫像の多くが修復されるようになりました。
    ところが次は第一次世界大戦でした。1914年から1918年までドイツ軍により彫像だけでなく、ステンドグラスも半数近くが被害にあいました。大聖堂は壊滅的な被害を受けたのでした。
    20世紀になって、ランス出身の建築家アンリ・ドゥヌの主導により再建が開始されました。現在でも一部はまだ修復作業が行われています。

     

     

    そして、このランスでは、1962年にフランス大統領のシャルル・ド・ゴールと西ドイツ首相のコンラート・アデナウアーがこの地で会見しました。フランスとドイツの歴史的な和解でした。

     

  • ナンシー(Nancy/Nanzig)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナンシー(Nancy/Nanzig)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのロレーヌワインは、AOC(原産地名統制ワイン)に指定されていますが、その産地の近くにはムルト=エ=モゼル県の県庁所在地があります。ナンシー(Nancy)です。ドイツ語では「Nanzig」になります。人口10万人程度の都市ですが、かつてはロレーヌ公国の首都でした。

     

    ロレーヌ公国はフランス語で「Duché de Lorraine」、ドイツ語ではロートリンゲン公国で「Herzogtum Lothringen」になります。
    フランスからルクセンブルクやドイツにまたがる地域の国でした。
    フランス語とドイツ語が並列されるのは、ロレーヌ地方を巡る争いの舞台だったことが原因です。神聖ローマ帝国とフランス王国の狭間に位置することから、歴史的に大国二つの影響を大きく受けてきました。
    1218年のシャンパーニュ伯継承戦争ではテオバルト1世に支配され、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によってナンシーは徹底的に破壊されました。その後の再建により、新しい城が拡張され、新たな町となりました。1477年にはブルゴーニュ戦争でナンシーの戦いが起こりました。
    18世紀にはロレーヌ公国がフランス王国に併合され、ナンシーは州都になりました。

     

    フランス革命がおき、その最中の1790年にはナンシー事件が起こりました。
    そして1871年には普仏戦争後のフランクフルト条約によってドイツに併合されました。しかし、ナンシーはフランス領に留まったことで、ドイツ領に反対する人々がナンシーに大多数移住してきたこともありました。
    ただロレーヌは北部とアルザスがドイツ帝国に吸収された状態であり、第一次世界大戦が終結するまでアルザス=ロレーヌはドイツの一部だったわけです。そこで、アメリカが支援したことで、アルザス=ロレーヌ共和国の独立が宣言されました。
    しかし、これはフランスが即占領し、自国へと吸収してしまいました。このときにフランス政府はドイツ語を禁止し、フランス語を使用するような方針としました。
    さらに1940年になると、またドイツの第三帝国により占領されてしまいました。ここでフランス語は禁止されました。さらにドイツの学校での教育が義務付けられたのでした。
    1944年になって再びフランスに戻りました。

     

    このような経緯のため、現在でもドイツ語訛りの方言が生き残っているそうです。
    フランス語の中の特殊な方言で、ロレーヌ・フランコニア語といわれています。

     

    現在のナンシーはアールヌーボーの街として知られています。
    街中には、いたるところにこの様式の建物があり、中でもナンシー商工会議所の玄関はその代表作といわれています。ナンシー美術館には、ガレやドーム兄弟のアントナン・ドームなど、ナンシー派の作品が所蔵されています。

     

     

  • フランス語入門(Vue d’ensemble)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランス語入門について勝手に語ります。

     

     

    ワインといえばフランス、フランスで話される言語はフランス語。
    このフランス語ですが、単にフランス国内だけでなく、フランスの旧植民地だったアフリカ西北部なども含め、全世界で1億2300万人の母語であり、2億人以上が公用語・第二言語(第一外国語)として使用しています。
    しかし、実をいうとフランス国内で話される言語はフランス語だけでなく、オック語やアルピタン語などもあり、いわゆるフランス語というのはフランス北部のオイル語が母体のことで、必ずしもこの言語を日常的に話す人が多いわけではないのです。

     

    では、オック語ですが、これはどこで話されているかというと、フランスの南部です。厳密にはロワール川以南の地域で、ローヌ=アルプ地域圏一帯になります。ただし、この地域にはバスク語圏やカタルーニャ語圏がありますので、それらを除いた地域になります。
    このオック語はフランス語でないばかりか、方言の派生語でもありません。ロマンス語の一種といえます。このロマンス語はフランス語と同様に俗ラテン語から派生していますが、むしろカタルーニャ語に近いといわれます。

     

    アルピタン語は、フランコ・プロヴァンス語やフランコ・プロヴァンサル語などともいわれます。イタリアやスイスの国境付近で話される言語で、一般的にはフランス語の方言とされています。しかし、方言としては違いがあまりにも多く、別の言語といったほうが的確といえます。
    アルピタン語はイタリアのヴァッレ・ダオスタ州ではアオスタ語とも呼ばれています。

     

    オイル語は現代のフランス語の母体といわれ、オック語と同じように俗ラテン語からの派生です。ただしオック語が南フランスなのに対して、オイル語は中世の時代では北フランスで話されていました。オイル語にも諸語あって、フランス語はその中の一方言でした。
    オイル語の派生語としてワロン語などもあり、最初はこれもフランス語の方言という扱いでしたが、現在では独立言語として捉えることも多くあります。
    これはフランスの言語政策によるもので、現代フランス語を除いた他の言語は地方で母語として使われているにすぎません。しかしこれは裏を返すと、フランス語という統一したものは、ある種の幻想ともいえるわけです。

     

    別言語ではなく方言という扱いでも、ワインと密接な繋がりがあるものとしては、シャンパーニュ語、ブルゴーニュ方言、ロレーヌ方言などもあります。シャンパーニュ語もロマンス語の一つです。
    フランシアン語というのもあります。これはフランス語が確立する以前にパリ周辺で話されていた言語です。

     

    フランス国内やその周辺でも、これだけ多岐にわたるわけですから、これがアフリカ諸国、カナダなどになると、独自の発展をした方言になっているのが、むしろ当然といえます。
    では、日本人が学ぶフランス語は何か、というと、これは標準フランス語になります。ただし、この標準のフランス語を実際に話す人はどのくらいの割合なのかは分かりません。それでもフランスのテレビなどで話される言語ですから、まずはこれをマスターして、それぞれの地方で、もし暮らすことがあれば、徐々にその言語を受け入れていくのが一般的かもしれません。
    そして日本人にとっては、母音が5つしかない環境で育ってきたことから、13の口腔母音と4つの鼻母音で構成されるフランス語は、最初に発音で苦労するかもしれません。子音でも、二重子音字が多いにも関わらず、長子音が少なく、英語とも異なる独特のものですので、まずは慣れるのが大事かもしれません。
    それでもフランス語を話せるようになりたい方は、ぜひ頑張ってください。ワイン屋の店長ですが、フランス語は苦手です。フランス語入門はこの概要だけで終わるかもしれません。

     

  • シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)について勝手に語ります。

     

     

    シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)は、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県北部にある都市です。県内では最大の人口がありますが、それでも4万6千人程度です。
    ここの周辺は、ブルゴーニュ・ワインの産地として知られるシャロネーズ地区です。

     

    シャロネーズ地区は、ソーヌ川に面した場所で、以前はワイン商の重要な活動拠点でした。当時は川の港から出荷していました。場所的に北方と地中海を結ぶ交易地で、ローマ時代から重要な港でした。
    しかし、現在は川での交易はなくなり、ワインと直接関係する産業は廃れ、一般的な産業都市へと変貌しています。
    ブドウ栽培は、平野部から丘陵地帯へと続いていますが、平野部のワインは特徴がなく、何の評価もありません。これが西の丘陵地帯のブドウとなると、良質のワインと評価されます。

     

    気候は場所によって変化があり、特に南側へと進むと地中海性気候の影響を受けてきます。土壌や地形にも変化があり、それによってブドウ品種も変わってきます。ピノ・ロワールやシャルドネだけでなく、ガメイとアリゴテのブドウなども栽培されています。そのため完成したワインも多種多様で、変化に富んだワインが楽しめる地域といえます。また、価格も比較的リーズナブルといえます。

     

    この丘陵地帯には、リュリ(Ruly)、メルキュレ(Mercurey)、ジブリ(Gvry)、ビュクシー(Buxy)など、ブルゴーニュ・ワインの有名産地の村々が点在しています。
    また、市内の旧市街地にはサン・ヴァンサン大聖堂(Cathédrale Saint-Vincent)があり、フランス文化省から「芸術・歴史都市」に指定されています。この大聖堂は8世紀に建てられたもので、シャロン司教が置かれていました。1801年には、政教条約によってオータンの司教区に統合されました。一部に8世紀の創建時の部分が残っていますが、現在の姿は19世紀の改築後のものが中心で、ファザードがネオ・クラッシック様式となっています。1903年には歴史記念物に指定されました。
    市庁舎(Hôtel de ville)はサン・ピエール広場(Place Saint-Pierre)にあり、元々は修道院でした。1845年に修道院跡に移転されました。

     

     

  • リヨン (Lyon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はリヨン (Lyon) について勝手に語ります。

     

     

    ワインの本場であるフランスで、国内第二の規模を持つ都市圏の中心都市がリヨン (Lyon) です。
    リヨン近郊にもワイナリーは多くあり、ボジョレー地区やコート・デュ・ローヌ、マコネー地区などへもアクセスしやすい都市です。

     

    フランスでは、金融の中心地であり、フランスの銀行の本店が多くある都市です。これは中世の時代から、ヨーロッパ各地の手形交換所だったことの延長ともいえます。
    また、物資の集散地としても歴史があり、それはローマ帝国の時代にまで遡ります。当時はガリア属州の植民市で、ルークヌドゥムとして栄えていました。紀元前43年にルキウス・ムナティウス・プランクスによって建設されました。
    2世紀になると、皇帝属州ガリア・ルグドゥネンシスの中心都市となりました。その後はヨーロッパ有数の交易地にまで発展しました。
    カロリング朝の時代には司教座がおかれたことで、大司教による支配地にもなり、その関係で1245年の第1リヨン公会議、1274年の第2リヨン公会議がひらかれたこともありました。

     

    14世紀になってフランス王国に併合されました。
    フランス革命のときには、リヨンでは反革命派が反乱を起こしました。共和国軍が鎮圧のため、リヨンの大虐殺が起こりました。リヨンの反乱(Siège de Lyon)でした。
    この時代、リヨンは工業都市として繁栄していてたことで、ブルジョワジーと労働者との対立は激しいという背景がありました。フランス革命により、急進的な労働者階級のサン・キュロットと、反革命派や穏健派などの対立が深刻となったのです。そのような中で狂信的なジャコバン主義者ジョゼフ・シャリエ(Joseph Chalier)を支持するシャリエ派が台頭し、シャリエは王党派たちによって投獄されてしまい、処刑されてしまいました。これが混乱を引き起こしました。
    結局、革命政府は徹底的に弾圧し、リヨンの大虐殺へと繋がりました。

     

    リヨンの街は徹底的に破壊されてしまい、反乱関係者も処刑されました。
    リヨンの反革命分子は絶滅状態に近くなりました。そこで、リヨンの名はヴィル・アフランシ(”Ville-affranchie”)と呼ばれるようになりました。
    この大虐殺を指導したのはフーシェ、コロー・デルボワでしたが、彼に対してロベスピエールは怒ったといいます。虐殺の規模や内容に反対していたようです。派遣されていた議員たちは、これを理由に処刑されることを恐れ、フーシェの首謀する反ロベスピエールの陰謀に加担するようになりました。これがテルミドールのクーデターへとつながったようです。
    そしてこのクーデターがおきたあと、1794年10月7日に都市名はリヨンに戻されました。

     

    悲惨な歴史の舞台となったリヨンですが、今ではワイナリーツアーの拠点にもなっています。
    再び自由な海外旅行が復活したら、ワイン好きにはぜひ訪れてほしい都市といえます。

     

  • ガヤック(Gaillac)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はガヤック(Gaillac)について勝手に語ります。

     

     

    ガヤック(Gaillac)は、フランス南部にあるミディ・ピレネー地方タルヌ県にある都市です。人口は1万人程度の小さな町です。トゥールーズ(Toulouse)からは北東の位置になります。
    ローマ時代からワインの醸造が行われていて、タルヌ県内で生産されるAOCワイン「ガヤック」の生産・流通拠点になっています。

     

    ここでのワインの歴史は古く、プロヴァンスやラングドック・ルシヨン地方に次いで古いと言われています。もともとはローマ人がタルヌ川を下り、地中海沿岸で生産されたワインを大西洋側や、ヨーロッパ北部へ運搬していました。その中でブドウの苗もここへ持ち込まれたことから、次第にこの地方でも栽培されるようになりました。そのようにローマとの関係が強いせいか、ローマ時代の土器なども発掘されています。
    また、気候も大西洋と地中海の間になり、温暖で乾燥しています。

     

    紀元前7世紀にはブドウは栽培されるようになり、その後、サンミッシェル修道院を中心に発展していきました。ここでも「キリストの血」であるワインを聖餐式などの儀式に使用する目的で、修道士たちがブドウ栽培に励みました。

     

    ガヤックでは、白ワイン、赤ワイン、ロゼワイン、スパークリングワインと、様々なワインが生産されています。この中で生産量としては赤ワインが全体の6割程度を占めています。
    しかし、品質的に評価されているのは、むしろ白ワインやスパークリングワインかもしれません。
    また、ブドウ品種に特徴があります。あまり他の場所で栽培されていない品種が多く、国際品種より伝統を重視しています。

     

     

    スパークリングワインでは、ガイヤコワーズという伝統的な製法でつくられます。これは、発酵中のワインを途中で瓶詰めにします。残りの発酵は瓶内で二次発酵となります。
    かなり上品な味でシャンパーニュと比較しても見劣りしません。

     

  • ペスト(La Peste)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『ペスト』(La Peste)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』に続いて4作目です。
    そして、この作品こそ現在のコロナウイルス蔓延状態の現在をいち早く予想していたかのような文学作品です。

     

     

    作者はフランスのアルベール・カミュで、ノーベル文学賞の受賞者です。『ペスト』は1947年に出版されました。
    フランツ・カフカの『変身』と並んで不条理文学の代表作として知られています。カフカの『変身』については、以前に取り上げたことがあります。

     

    グレゴール・ザムザにワイン

     

    この小説の舞台はフランス領アルジェリアのオランという港町です。
    始まりは4月16日の朝でした。医師のリウーは、診療室から出ようとして階段の途中のネズミの死骸につまずいてしまいました。
    これが、その後にオランの町を襲う恐ろしい病の前触れだったのです。
    町には死者が増加し、リウーはこれはペストが原因であると気づきます。新聞やラジオでも報じられ、オランはパニック状態になっていきました。死者数は増加し、当初は楽観的だった町の当局も慌てて対応するようになりました。
    そしてついに、町は外部と完全に遮断されてしまいました。

     

    新聞記者のレイモン・ランベールは、パリに妻がいるため、オランからの脱出を考えます。そこで犯罪者のコタールに密輸業者を紹介してもらいました。コタールは逃亡してきた人なので、この町を出る気はありませんでした。
    一方、イエズス会のパヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいであるとし、悔い改めよと説教していました。医師のリウーたちは、必死に患者の治療を続けていました。
    ランベールは脱出計画をリウーたちに打ち明けますが、彼らは医師として町に残る義務があるという態度でした。
    そんなリウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中でした。
    ランベールはそれを知り、脱出計画をやめ、リウーたちを手伝うことにしました。

     

    ペストで少年が苦しみながら死んだことに対して、パヌルー神父は罪が原因であるといいました。これにリウーは抗議しました。
    やはて、パヌルー神父もペストに感染し、死んでしまいました。
    その後、ペストの感染は突然、潮が退いたように終息していき、オランの人々は元の生活に戻ってゆきました。
    ランベールは妻と再会し、コタールは逮捕、リウーの妻は死んでいました。

     

    このストーリーだけを見れば、ペストの感染拡大から終息までの期間、登場人物のそれぞれの行動が描かれているだけに思えます。
    しかし、カミュはペストに襲われる人々を単に描いたわけではなく、人間を取り巻く哀しい不条理を表現していました。カミュは、人間は世界の偶然性を超えることができないとして、この「人生と世界の無根拠性」が不条理としたのです。

     

    オランの町ではペスト蔓延が終わり、喜悦の叫びがあちこちで上がりました。
    しかし、この小説を語る人物は、最後に述べています。その内容はネタバレになるので、ここでは語らないことにしましょう。

     

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