今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ペスト(La Peste)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『ペスト』(La Peste)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』に続いて4作目です。
    そして、この作品こそ現在のコロナウイルス蔓延状態の現在をいち早く予想していたかのような文学作品です。

     

     

    作者はフランスのアルベール・カミュで、ノーベル文学賞の受賞者です。『ペスト』は1947年に出版されました。
    フランツ・カフカの『変身』と並んで不条理文学の代表作として知られています。カフカの『変身』については、以前に取り上げたことがあります。

     

    グレゴール・ザムザにワイン

     

    この小説の舞台はフランス領アルジェリアのオランという港町です。
    始まりは4月16日の朝でした。医師のリウーは、診療室から出ようとして階段の途中のネズミの死骸につまずいてしまいました。
    これが、その後にオランの町を襲う恐ろしい病の前触れだったのです。
    町には死者が増加し、リウーはこれはペストが原因であると気づきます。新聞やラジオでも報じられ、オランはパニック状態になっていきました。死者数は増加し、当初は楽観的だった町の当局も慌てて対応するようになりました。
    そしてついに、町は外部と完全に遮断されてしまいました。

     

    新聞記者のレイモン・ランベールは、パリに妻がいるため、オランからの脱出を考えます。そこで犯罪者のコタールに密輸業者を紹介してもらいました。コタールは逃亡してきた人なので、この町を出る気はありませんでした。
    一方、イエズス会のパヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいであるとし、悔い改めよと説教していました。医師のリウーたちは、必死に患者の治療を続けていました。
    ランベールは脱出計画をリウーたちに打ち明けますが、彼らは医師として町に残る義務があるという態度でした。
    そんなリウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中でした。
    ランベールはそれを知り、脱出計画をやめ、リウーたちを手伝うことにしました。

     

    ペストで少年が苦しみながら死んだことに対して、パヌルー神父は罪が原因であるといいました。これにリウーは抗議しました。
    やはて、パヌルー神父もペストに感染し、死んでしまいました。
    その後、ペストの感染は突然、潮が退いたように終息していき、オランの人々は元の生活に戻ってゆきました。
    ランベールは妻と再会し、コタールは逮捕、リウーの妻は死んでいました。

     

    このストーリーだけを見れば、ペストの感染拡大から終息までの期間、登場人物のそれぞれの行動が描かれているだけに思えます。
    しかし、カミュはペストに襲われる人々を単に描いたわけではなく、人間を取り巻く哀しい不条理を表現していました。カミュは、人間は世界の偶然性を超えることができないとして、この「人生と世界の無根拠性」が不条理としたのです。

     

    オランの町ではペスト蔓延が終わり、喜悦の叫びがあちこちで上がりました。
    しかし、この小説を語る人物は、最後に述べています。その内容はネタバレになるので、ここでは語らないことにしましょう。

     

  • フランスのワイン産地とワイン法

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフランスのワイン産地について勝手に語ります。

     

     

    新型コロナウイルスで揺れるEU諸国は、外出制限の影響で、ワインを飲むのも自宅に限られている国が多いといえます。このワインについては、EUで2008年にワイン法が導入され、独自基準だったフランスでもEU基準に合わせることにしました。
    部分的なことは、このブログでも触れていましたが、改めてご紹介したいと思います。

     

    EU基準に変更される以前は、1935年のワイン法(A.O.C.法)による分類でした。生産地域・ブドウ品種・栽培方法・最大収穫量・最低アルコール度数等が厳しく規定され、大きく分類して、ヴァン・ド・ターブル、ヴァン・ド・ペイ、A.O.V.D.Q.S、A.O.Cの4つなっていました。これが変更され、2009年以降は、「地理的表示があるワイン」と「地理的表示がないワイン」の2つになり、かなりシンプルになりました。
    旧ワイン法では、地理的表示のないワインについては、品種や収穫年を表示することも禁止されているほど、徹底した厳し上がありましたが、新ワイン法によりこれらの表記が任意で可能になりました。

     

    A.O.C.法という法律については、「Appellation d’origen Controlee」を省略した名称で、日本語では「原産地統制呼称」としています。
    AOCのは認定地域は、フランス国内には覚えるのが不可能なほどたくさんあります。しかも単に地域だけでなく、シャトーやブドウ畑ごとの格付けもあって、付帯してきます。
    ソムリエになるならともかく、ワインが好きだというだけなら、そこまでを覚える必要はないでしょうが、フランスの代表的なワイン産地だけは頭に入れておいて損はないでしょう。以下、産地をかんたんにまとめてみます。

     

    ボルドー地方
    フランス南西部で大西洋岸に位置しています。赤ワインの銘醸地です。

     

    ブルゴーニュ地方
    ボルドー地方と並び称される銘醸地ですが、ブルゴーニュは赤・白ともフランスを代表ワインを生産地です。

     

    コート・デュ・ローヌ地方
    リヨン市の南を流れるローヌ川流域の地域です。赤ワイン産地です。

     

    ロワール地方
    フランス最長の河川であるロワール流域です。地域が広いため、それぞれの地域で特のあるワインがあります。

     

    プロヴァンス地方
    マルセイユからニースに至る海岸沿いと、その内陸部の地域です。コート・ダジュール地域です。

     

    ラングドック・ルーシヨン地方
    スペイン国境からペルピニャン、モンペリエ周辺までの地中海沿岸地域です。

     

    シャンパーニュ地方
    パリの北東約160kmで、発泡性ワインのシャンパンで知られる地域です。

     

    アルザス地方
    ライン川に沿ったドイツ国境に近いストラスブールからスミュールーズに至る地域です。

  • 悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『悲しみよこんにちは』(Bonjour Tristesse)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』に続いて3作目です。

     

     

    1954年に発表された『悲しみよこんにちは』という小説は、フランスの作家フランソワーズ・サガンの処女作です。世界22か国で翻訳され、世界的なベストセラーとなったことで知られています。
    作者のサガンは、このときまだ18歳の若さでした。
    自宅でフランスワインを飲みながら読書するには最適な一冊です。

     

    サガンは恵まれたブルジョワ家庭で育ちました。
    学校生活には馴染めなかったようで、ルイーズ=ド=ベティニ校(Cours Louise-de-Bettignies)に入学したものの3か月で追放され、次にクヴァン・デ・ゾワゾー女子寄宿学校に入れられ、さらに三つのカトリック系学校を転々としていました。
    1952年にソルボンヌ大学への入学が許可され、この頃から『悲しみよこんにちは』を書き始めたようです。
    処女作は、サガンの親友の母親が作家のクララ・マルローで、彼女を経由して出版社に原稿が渡されました。しかし、ここですんなりと出版には至らず、作家で映画脚本家のコレット・オドリーが結末の改訂を提案した上で出版社を紹介され、ジュリアール社から出版されることになりました。

     

    この題名はポール・エリュアールの詩「直接の生命」の一節から採られたもので、主人公は18歳の少女セシルです。コート・ダジュールの別荘で、セシルと父親のレエモン、彼の愛人のエルザが過ごす一夏を描いた作品です。ただし、セシルの父とエルザは物語の前半で別れ、その後にまた重要な役割となります。

     

    セシルは近くの別荘に滞在しているシリルに好意を抱きます。彼は大学生でした。
    セシルの母親は他界していますが、ある日、別荘に母の友人のアンヌがやってきます。アンヌは知性的な女性で、しかも美しく、セシルはアンヌを慕っています。
    しかし、アンヌが父と再婚するような気配が見えてきます。するとアンヌは母親のような振る舞いをはじめました。セシルには勉強についてや、恋人となったシリルのことについて厳しい態度をとるようになりました。父との気楽な生活に変化が訪れ、また何よりアンヌに父が奪われてしまうという懸念に駆られました。必然的にアンヌに対しては反感を抱くようになります。

     

    セシルは様々な葛藤を経て、父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつきました。
    そのために、恋人のシリルと父の愛人だったエルザを巻き込んで実行に移すのでした。何と、アンヌは自殺とも事故とも取れる死に方をするのです。

     

    サガンはジャン=ポール・サルトルと交流が深かったことから、実存主義の影響が見られるといわれます。しかし、この『悲しみよこんにちは』は学生時代の作品ということもあり、若々しい視点が際立つ作品になっています。
    サルトルの死後に発表された作品の中には、ナチス政権やレジスタンス運動を題材としたものもあり、作風の変遷を追うのも興味深い作家といえます。

     

    それほど長い小説ではないので、フランスワインを味わいながら一気に読むのも良いかもしれません。

     

  • ナント(Nantes)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナント(Nantes)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのロワールワインといえば、赤・白・スパークリング・ロゼなど、すべてのワイン種類が生産されていることで知られています。
    その中でフランス最多の生産量を誇るのが白ワインです。ミュスカデからつくられるワインが最も有名です。
    ロワール地方はロワール河に沿ったワイン産地のため、東西に長く、主に4つの地区に分けられています。ナント、アンジュー&ソーミュール、トゥーレーヌ、中央フランスです。
    この中でとナント(Nantes)といえば、歴史の教科書でお馴染みの「ナントの勅令」でも知られた都市です。

     

    人口は30万人弱ですが、フランスでは第6位の都市です。
    ここもケルト人が最初の定住者であり、ガリア人により都市形成の基礎ができ、ローマの支配下に入りました。
    3世紀にはサクソン人、フランク人、ブリトン人などの襲来があり、かなり荒廃していきました。それでもキリスト教が浸透し、ブルターニュ公国の建国に至りました。

     

    フランスに併合されたのは1532年で、ナントの勅令(Édit de Nantes)は1598年4月13日でした。フランス王アンリ4世がナントで発布した勅令のことです。これによりユグノー戦争が終結しました。
    ユグノー、つまりプロテスタント信者に対して、カトリック信者とほぼ同じ権利を与えるという勅令だったためです。これはヨーロッパ初の信仰の自由を認めたものではありましたが、一方でプロテスタント側はカトリック教会にも十分の一税を納めなければならないというもので、必ずしもプロテスタントとカトリックが対等になったわけではなく、いわば条件付きのものでした。
    これで、フランスは建国以来初めて一国二宗教となりましたが、プロテスタント側はナントの勅令以降も抵抗を続ける人々もいました。中には武装してカトリック側と対立する地域もありました。
    さらに勅令を出したアンリ4世も、条件付きで信仰の自由を与えることで、プロテスタント、カトリック双方を王権に従わせる狙いとともに、ある意味でユグノー戦争の休戦状態にしたという面もあったといえます。

     

    ブルボン朝としては、休戦状態にしたとはいえ、プロテスタント勢力への弾圧を止めたわけではありませんでした。
    ルイ13世は、ラ=ロシェルを攻撃したことで、プロテスタント勢の抵抗を終わらせ、さらに「太陽王」ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令により、ナントの勅令を廃止しました。
    これにより、プロテスタント信者は多くが、オランダ、ドイツ、スイスなどの国外へと逃れていきました。
    商工業の中核を担っていたプロテスタント信者を失ったことになり、フランスは財政悪化から衰退を招くことになりました。そのために増税政策を行い、これに反発した市民などの不満が、のちのフランス革命にもつながっていくことになりました。

     

    フランスの歴史の転換点に関係したナントの勅令ですが、ワインについてはミュスカデの誕生の伝説も残っています。
    1709年に、大寒波がナントを襲いました。ロワール河が凍結するほどのもので、ナントのブドウも全滅してしまいました。
    ブドウを生産している人たちは、この大打撃に悲しみ、途方にくれつつも、大寒波にも耐えうるブドウ栽培に切り替えようと考えました。そこで目を付けたのが寒冷地のブルゴーニュで栽培されるブドウでした。最終的に選んだのが「ムロン・ド・ブルゴーニュ」でした。これはブルゴーニュのメロンの香りのするブドウという意味です。
    この品種がナントに適していたことで、生産が続けられ、「ムロン」が、「ムスク」となり、さらに変化して「ミュスカデ」の語源になったと言われます。

     

    フランスワインといえばブルゴーニュとボルドーだけだと思っている方がいれば、ぜひナントの「ミュスカデ」も味わって頂きたいと思います。

  • カール大帝とコルトン・シャルルマーニュ(Corton-Charlemagne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカール大帝とコルトン・シャルルマーニュ(Corton-Charlemagne)について勝手に語ります。

     

     

    世界で最も偉大な赤ワイン産地」とも呼ばれるコート・ド・ニュイの南端にはニュイ・サン・ジョルジュがあります。ここからさらに南下するとコルトンの丘に至ります。ここは標高400m程度の丘陵地で、森林で覆われています。
    このコルトンの丘の斜面にある広大なブドウ畑からコルトン・シャルルマーニュというグラン・クリュ(特級畑)が産み出されています。
    赤ワインではなく、白ワインとして有名なコルトン・シャルルマーニュです。

     

    シャルルマーニュとは、フランス語で「Charlemagne」ですが、歴史の教科書ではフランク王国のカール大帝となります。フランク王国の大帝ですから、ドイツとフランスの始祖ともいわれる人物です。
    なぜカール大帝の名が関係するのかといえば、ここには伝説があるからです。

     

    カール大帝はコルトンの丘にブドウ畑を所有していたといいます。主に赤ワインを生産させていたそうです。
    ある日のこと、カール大帝はここで赤ワインを飲んだところ、白くなった髭がワインで赤く染まってしまいました。威厳が保てない姿になってしまいました。また、一説では、自慢の髭が赤く染まったことで、戦いに明け暮れた若い頃の血を連想させたともいわれ、カール大帝は激怒しました。
    そこでカール大帝は白ワインしか飲まなくなり、コルトンの丘でも白ブドウの栽培しか許さなくなったという伝説です。
    これがコルトン・シャルルマーニュの誕生となりました。

     

    単なる伝説だと思えますが、カール大帝のエピソードのあるワインというだけで貴重な気もします。
    ただし、カール大帝が飲むようになった白ワインと現在のコルトン・シャルルマーニュが同じものとは思えません。なぜなら、このエピソードから1000年経過した時代には、コルトンの丘では赤ワインだけがつくられていたといわれているからです。
    では、現代のコルトン・シャルルマーニュはいつ誕生したのかというと、19世紀末頃だといわれます。ルイ・ラトゥールによるもので、この時代、フィロキセラの影響でコルトンの丘のピノ・ノワールが壊滅的な被害を受けてしまいました。この時に、シャルドネを植樹して、カール大帝に因んでコルトン・シャルルマーニュと名付けたようです。

     

    ブルゴーニュワインを探す

     

    カール大帝は5回結婚し、しかも第二夫人も4人いたといいます。
    子どもも20人以上いたといわれます。しかも、娘たちを結婚させなかったため、娘たちは駆け落ちしたりするケースがあったといいます。
    さらに、カール大帝は娘を寵愛するあまり、娘たちとの近親相姦の関係があったともいわれています。近親相姦は実の妹のギゼラ(ジゼル)ともあり、二人の間にローランが生まれたといいます。
    もちろんこれも伝説で、そもそもローランは「ローランの歌」という文学作品に登場する勇将で、この物語ではカール大帝の甥で、7年間、スペイン遠征に従軍した人物です。
    これだけの伝説を残すカール大帝ですから、コルトン・シャルルマーニュの伝説があっても何ら不思議ではないといえます。

     

  • アヴィニョン(Avignon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアヴィニョン(Avignon)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのローヌワインといえば、南北200kmにも及ぶ広大な産地のワインです。
    フランスワインとしてはそれほど有名ともいえないかもしれませんが、フランスでは歴史的に最も古いもので、紀元前600年頃にはブドウが栽培されていたといわれている地域です。また、古代ローマの時代にはローマ文化とブドウ栽培の交易路だったといわれます。
    アヴィニョン(Avignon)は、そんなローヌワインの地域の中にある都市です。
    ローマ帝国時代にはガリア・ナルボネンシス(Gallia Narbōnēnsis)属州の都市でした。

     

    ガリア・ナルボネンシスは西ローマ帝国が滅亡すると、アキテーヌ地方から西ゴート人が侵入してきました。その結果、東半分が西ゴート王国領となりました。アヴィニョンは5世紀には荒廃した状態でしたが、メロヴィング朝フランク王国の宮宰だったカール・マルテル(Karl Martell)が737年に完全に滅ばされることになりました。
    これはアヴィニョンがカール・マルテルと敵対するアラブ人側についたことが原因といわれます。
    ガリア・ナルボネンシスはフランク王国が支配することになり、ローヌ川が境界線となり、西が西フランク王国、東が中部フランク王国となりました。
    アヴィニョンは「ブルゴーニュ」の由来となるブルグント王国(ブルゴーニュとブルグント王国)やアルル王国の支配を受け、12世紀末になって都市国家として独立を宣言しました。

     

    しかし、都市国家としての独立は短命に終わり、プロヴァンス伯領、トゥールーズ伯領となっていきました。しかも、アルビ派(アルビジョア派・カタリ派・バタリニ派、ラングドック派)を支持したことで、1226年にはアルビジョア十字軍によって、フランス王ルイ8世の占領地域となってしまいました。このときに、市の城壁は破壊されました。

     

    そしてアヴィニョンといえば、1309年から1377年までのアヴィニョン捕囚です。
    1303年のアナーニ事件が発端でした。フランス王フィリップ4世とローマ教皇ボニファティウス8世が対立し、フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件です。教皇はこの事件直後に病死し、次の教皇はフランス王の言いなりとなる状況になったのです。
    そして1308年に教皇庁がアヴィニョンに移されたのです。
    このときのアヴィニョンはプロヴァンス伯領でした。
    1310年から1313年は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアを侵略したこともあり、教皇はここに滞在せざるを得なかったという事情もありました。
    古代のバビロン捕囚になぞらえ、アヴィニョン捕囚や教皇のバビロン捕囚とも呼ばれることになりました。
    この時期にはフランス人枢機卿が新たに任命されるとともに、教皇も全てフランス人となりました。
    当時のアヴィニョンは、教皇庁にふさわしいほどの都市基盤がなく、巨大な官僚機構を維持するだけの多くの住民が集まったことで、かなりの負担になったようです。
    1377年になって、グレゴリウス11世がローマに戻り、7代にわたったアヴィニョン捕囚が終わりました。この期間はローマではなく、この小さな都市のアヴィニョンこそが現在のバチカンと同じ役割を担っていました。このときに建設された教皇庁宮殿、大司教館などが現在も残り、アヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録されています。

     

    もうひとつ、アヴィニョンといえば、童謡「アヴィニョンの橋の上で」です。
    15世紀頃に作られたフランス語の歌で、アヴィニョンのローヌ川に架かっていたサン・ベネゼ橋(Pont St. Bénézet)を題材にしています。
    歌は橋の完成を祝ったものとされていて、有名なフレーズは「橋の上で輪になって踊ろう」です。しかし、実際には川岸で歌われていたようです。なぜかというと、実際の橋は道幅が狭いため、橋で輪になって踊れるほどの広さはなかったからです。しかも渡ることさえ危険なときもあるほどの、安全とは言い難い橋でした。橋から転落し命を落とした人もいるそうです。

     

    そんな「アヴィニョンの橋の上で」でも聞きながら、ローヌワインを飲むというのも悪くありません。

  • サルグミーヌ(Sarreguemines)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサルグミーヌ(Sarreguemines)について勝手に語ります。

     

     

    フランスの歴史的なロレーヌの一部であるサルグミーヌ(Sarreguemines)は、ドイツ国境に沿って広がっている都市です。
    しかも現在ではトラムでドイツのザールブリュッケンまで結ばれているので、国境をトラムで超えることのできる珍しい場所です。

    フランク王国のピピン3世やカール大帝の顧問的な立場にあったフルラートが、のちに歴代フランス君主の埋葬地となったサン=ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)に、この地にあった財産を寄付したといわれています。おそらくこれが歴史上でサルグミーヌが登場する最古のものと思われます。
    まだこの時代は小さな集落程度の規模だったようで、10世紀を過ぎてから城の建設によって成長していきました。この城は、ザール川とブリー川の合流地点を監視するためのものでした。
    1297年にはツヴァイブリュッケン公国からロレーヌ公国(Duché de Lorraine)の支配下に変わりました。
    しかし、その後のウィーン条約によって1766年にフランス王国に併合され、再びフランス領となりました。

     

    ロレーヌ公国とは、現在のロレーヌ地方北東部とルクセンブルク、それにドイツの一部を支配していた歴史的公国です。
    この公国以前はロタリンギア(Lotharingia)という短期間存在した王国で、ロタール2世(855年–869年)の時代にはフランク帝国内部での独立王国でした。しかしその後に分割され、ロタール1世死去後のロタール2世が北部地域を支配し、その地域をフランスではロレーヌ(Lorraine)、ドイツではロートリンゲン(Lothringen)と呼ばれるようになりました。
    ロタール2世死去後に東フランク王国と西フランク王国に分割されました。この時点で現在のフランスとドイツに分割されたことになり、880年のリブモント条約で全域が東フランク王国、つまり現在のドイツの支配下になりました。
    これも長く続かず、東フランク王国のカロリング朝断絶により西フランク王国に吸収され、925年に東フランク王ハインリヒ1世によって征服されました。
    ここだけを見てもフランスとドイツの支配が交互に変わる、複雑な地域であることが分かると思います。

     

    1698年になるとドイツの代官区の中心地となっていました。このことから1748年までは、公文書はドイツ語になっていました。しかし住民たちの使う言語はロートリンゲン・フランケン語というゲルマン語方言でした。
    島国の日本人にはなかなか想像できない歴史を経験してきた都市だということが、いろいろな場面で分かります。

     

    このサルグミーヌに人が集まるのは、2月に行われるカーニバルです。
    このカーニバルは日本のハロウィンのように、マスクや変装した人々が集まって盛り上がります。数万人がこの街に集結するといわれます。なんと18世紀から始まったカーニバルだといいます。

     

    国境の街の住民は、自由にふたつの国を行き来しています。国境を越えて、ドイツ側のスーパーマーケットに行くのは日常茶飯事です。ヨーロッパならではの光景です。
    しかも通貨はユーロで統一されているので便利です。フランスとドイツという2つの国の支配に翻弄されてきたサルグミーヌも、現在は、実質的に国境のない生活になっています。
    日本人には異次元の体験ができる場所です。ぜひおすすめします。

     

  • なぜフランスはワイン大国なのか?

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はなぜフランスはワイン大国なのかについて勝手に語ります。

     

     

    やはりフランスの酒と言えばワインのイメージが強いでしょう。
    お隣のドイツだとビールというイメージになるかと思います。
    実際に一人当たりのワインとビールの消費量を調べてみると、ドイツ、日本、アメリカはビールが圧倒的に消費量が多く、フランスはビールよりワインが消費量が多いということが分かりました。
    でも、フランスの母体となったのは、ゲルマン系のフランク族によるフランク王国なのです。つまりドイツと同じで、特に8世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)により、現在のフランス、ドイツ、イタリアまで及ぶ巨大な国ができあがったのです。そのカール大帝といえばビール好きで知られています。
    ビールが好きなゲルマン人の国にあって、カール大帝こそがビールを振興していきました。必然的に現在のフランスでもワインよりビールが好まれて当然の状況でした。

     

    ただ、現在のフランスがある地域をフランク王国より前まで遡ると、ガリアと呼ばれていた時代には、ガリア人やケルト人の居住地域でした。そこへローマ帝国が侵入し、属州となりました。
    すでにキリスト教が国教となっていたローマでは、ワインは「キリストの血」として重要なものとなり、ガリアでもキリスト教とともにワイン文化が浸透していきました。
    ブドウ栽培も始まり、フランスでワイン生産をするのは当然のことになっていました。
    もし、このままガリア人によって独立した国家が形成されれば、ビール好きのゲルマン人とは異なる文化圏として、現在のようにワイン大国となったとしても不思議ではありませんでした。

     

    ところがビールを好むゲルマン系によってフランク王国が成立したことで、状況が一転してしまったわけです。必然的にワインの生産量が激減し、ワイン文化も廃れていくかのように思えました。
    ただ、フランク王国とはゲルマン人の国であることは間違いないものの、ガリア地域に入植してきたゲルマン人の数は少なかったといいます。いわば統治を行うのがゲルマン人で、実際に居住する一般の人々はガリア人だったのです。そのためガリア地域でのゲルマン人の人口比率としては、わずか5%程度だったのではないかとも言われています。
    つまりゲルマン系の国家とはいっても、ガリア地域、現在のフランスでは、ラテン系でワイン好きなガリア人が居住する地域であることには変わりなく、支配者層にビール好きなゲルマン人がごくわずかにいるという構造だったのです。

     

    そこでカール大帝です。
    実はカール大帝は、ビールを振興していくことを進めていく一方で、荒廃したブドウ園も立て直し、ワインの醸造についても奨励していたのです。これはゲルマン人の文化としてのビール振興とともに、現地のガリア人に対してはワイン復興も進めていたのです。人心掌握術的政策の一つかもしれませんが、これによりフランク王国は最盛期を築いたのです。
    このカール大帝により、ガリア地域ではワイン文化が復活しました。のちにフランク王国が分裂し、フランスとなっても、そのワイン文化は続きました。ローマ帝国以来のワイン文化がそのまま継続した国である以上、フランスはワイン大国であり続けることが当然の帰結なのかもしれません。
    一方で、同じフランク王国でも、居住者もゲルマン人が中心だった現在のドイツなどでは、そのままビール文化が継続しているといえるわけです。
    カール大帝はまた、国内の諸民族の独自性とは反対に、キリスト教による共通の世界観を構成しました。例えワインとビールという文化的な差異があろうとも、酒類の文化としては共有し、各民族に共属意識をもたらすことにしました。ただ、これは、カール大帝というカリスマ性や政治力によるものであって、個々民族に一体的な法規や制度にまでは至りませんでした。

     

    カール大帝の死去後、ヴェルダン条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国に分かれました。この中で西フランク王国が現在のフランスとなり、東フランク王国が現在のドイツとなりました。
    これでワイン文化とビール文化の国が分かれ、わかりやすくなったともいえます。

     

    このような視点で歴史を見ていくのも楽しいかもしれません。

  • ハルシュタット文化とワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハルシュタット文化について勝手に語ります。

     

     

    ルートヴィヒ・マクシミリアン大学(Ludwig-Maximilians-Universitaet )とテュービンゲン大学(University of Tübingen)の合同研究により、古代ケルト人がワインやビールを祝祭日に飲んでいたことを明らかにしました。
    時期的にはハルシュタット文化の時代です。
    これは紀元前12世紀以降の青銅器時代後期から紀元前6世紀の鉄器時代初期までの時代で、中央ヨーロッパにあった文化です。
    古代ケルト人によるものですが、実はケルト人というのは単一民族ではありません。インド・ヨーロッパ語族で、ケルト語系の言語の人々を総称したものです。しかも「ケルト」は古代ギリシャ語の「Keltoi」に由来するもので、意味としては「異邦人」という意味ですが、実は「野蛮人」の意味もあるようです。
    現在はケルト語系の言語は、アイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズなどの英国周辺とフランスのブルターニュなどに現存していますが、日常的に使用している人はほとんどいないといわれます。

     

    「ハルシュタット文化」というのは、19世紀にヨハン・ゲオルク・ラムザウアーによって、オーストリアのハルシュタット近郊で、先史時代の地下墓地から多くの副葬品を発掘したことに由来しています。
    ハルシュタットでは共同体として生活し、この地域にある岩塩鉱山から岩塩を採掘していたようでした。ケルト語の「halen」や「hall」「halle」は塩を意味する言葉で、塩は調味料だけでなく、保存料でもあり、また重要な交易品でもありました。
    ハルシュタット文化はハルシュタットのあるオーストリアだけでなく、ドイツ南部、スイス、イタリア北部、フランス東部などまで広がる西文化圏と、スロヴァキア、ハンガリー西部、ルーマニア西部、クロアチア、スロヴェニア、チェコなどに広がる東文化圏に分かれていました。
    交易は地中海世界と行い、特に塩や農産物が数多く輸出され、ワインなどが輸入されました。

     

    そんなハルシュタット文化を代表する遺跡がフランスにあります。
    「ヴィクスの女王」の墓です。ブルゴーニュ地方コート・ドール県のセーヌ川流域ラソワ山の麓の町にあるヴィクスにあった遺跡です。
    紀元前600年頃の墓で、安置されていたのは推定年齢が30代半ばから40歳前後の女性でした。「女王」といわれているのは、黄金の冠をかぶり、首飾りや腕輪などを身につけていたからです。
    副葬品も多く、その中にワイン壺などが含まれていました。

     

    ルートヴィヒ・マクシミリアン大学とテュービンゲン大学の合同研究チームは、この「ヴィクスの女王」遺跡で発掘されたものを分析しました。分析したのは、ギリシアから輸入された陶器や青銅製の容器、陶製の飲用容器、さらには貯蔵や輸送のために使われた瓶などでした。
    その結果、オリーブオイル、牛乳、ワインや、地元生産と思われるアルコール飲料の成分などとともに、キビと蜂蜜の痕跡を見つけました。これにより、ワインだけでなく、キビや大麦から醸造されたビールが飲まれていたことが分かったとしています。特に祝祭日に消費されていたといいます。
    さらに輸入したワインを飲んでいたのは社会的上層部に限られていたわけではなく、職人たちもワインを飲んでいた可能性が高いことが示唆されました。

     

    現在ではフランスといえばワインの生産が切り離せないものになっています。
    しかし古代ケルト人のハルシュタット文化では、自ら生産するわけではなく、地中海世界との交易で、塩の代わりに輸入されたワインが中心だったということになります。
    興味深い話に感じました。

     

  • ストラスブール病院のワイン(Cave des Hospices Strasbourg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はストラスブール病院のワイン(Cave des Hospices Strasbourg)について勝手に語ります。

     

     

    フランス北東部にあり、ライン川の左岸に広がる人口28万人のストラスブールは、かつては神聖ローマ帝国の都市でした。そのため、都市名の語源もドイツ語で「Straßen」と「Burg」で、いわば街道の城塞都市という意味になります。
    ドイツとフランス双方がこの地域の領有権を争った歴史があり、現在は政治的にはフランスであるものの、言語や文化はドイツ系という入り組んだ都市でもあります。
    従ってストラスブールの歴史は、フランスとドイツというふたつの国の歴史と大きく関係しています。

     

    フランスとドイツが混濁したアルザス

     

    最初に歴史に登場するのはローマ帝国の時代でした。
    ローマ帝国とゲルマニア(Germania)との国境がライン川だったことから、ローマ人によって、ここにアルゲントラトゥム(Argentoratum)とよばれる都市が築かれました。キリスト教も入ってきて、4世紀には司教座がおかれました。
    しかし、 東ヨーロッパの遊牧民だったフン族(Hun)により、都市が破壊されてしまいました。455年でした。
    のちにゲルマン人の部族であるフランク族(Franken)が入ってきて、都市を再建していき、そのままフランク王国の領土となりました。
    神聖ローマ帝国となってからは、カトリック教会がシュトラースブルク(ストラスブール)司教座を新たに設置しました。ローマ帝国時代と同じように設置されたことで、カトリック教会の教区の中心となる都市になりました。商業的には毛織物業が発展しました。
    また、地理的に交通の要衝でもあったことから、シュトラースブルクは都市として発展していきました。さらに1262年には自由都市になりました。

     

    1523年には市内にプロテスタントの教会もできて、カトリックとプロテスタントが並立する都市となりました。
    しかしヨーロッパを悲劇に陥れた三十年戦争に巻き込まれ、単なるカトリックとプロテスタントの宗教戦争ではなく、フランス王ルイ14世の膨張政策により、アルザス=ロレーヌ地方がフランス領土となりました。1697年のレイスウェイク条約により正式にフランス領となり、都市の読み方もシュトラースブルクをフランス語風にして、ストラスブールとなりました。

     

    このままフランス領として現在まで続いていたわけではなく、1871年には普仏戦争でプロイセンが勝利したことで、アルザス=ロレーヌ地方はプロイセン(ドイツ帝国)の領土に戻りました。
    これが再びフランス領になったのは、1919年に第一次世界大戦でフランスが勝利したことによります。
    次にドイツ領になったのは、第二次世界大戦中で1940年でした。
    しかしフランスを含めた連合国が1944年に奪還し、その後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、ヨーロッパの多くの国際機関が置かれる都市となりました。

     

    ドイツとフランスというふたつの異なる歴史が交差した都市らしく、例えばパンでもフランス風やドイツ風などが日常的に食べられ、ドイツのワイン文化に近いアルザスワインがフランス風に飲まれたりしています。
    そんなストラスブールの町中にある病院にワイナリーがあります。
    Cave des Hospices Strasbourg」です。
    なんと病院の地下にワインが置かれ、販売もされているのです。街中の病院の地下にワインがあるなど、想像しにくいことかもしれませんが、500年以上の歴史があるそうです。
    戦火の激しかった街にある病院らしく、かつて兵隊が通った地下道や、学生が研究することを目的として使われていた解剖室などもあります。

     

     

    ヨーロッパの歴史を象徴する都市として、ドイツとフランスに翻弄された歴史を持つストラスブールは、観光都市としも魅力があります。
    ドイツ側からならライン川を渡った先、フランス側からならドイツへ入国する手前の都市ですが、ワインを目的に行くのも良いかもしれません。

     

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