今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ニュルンベルク(Nürnberg)2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)の思い出は、アンスバッハ(Ansbach)やフォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)との関連が強く、この二つの都市との個人的な結びつきがなければ語れないといえます。
    特にフォイヒトヴァンゲンは常宿があり、行きつけのレストランもある都市でした。ここで知り合ったオランダ人からニュルンベルクのユースホステルは最高だよ、と教えてもらったのでした。もうひとつ、 アンスバッハ出身の女性ともここで知り合い、ニュルンベルクで一緒に遊んだことも思いだされます。

     

    ブレーメン芸術大学でAusbildung(職業訓練)をしていた彼女は、夏季休暇を利用して、国内を旅行しながら故郷のアンスバッハへ戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは隣町ともいえるような距離にある都市ですが、ここで友達と合流したのだとか。話した感じでは彼氏のような印象を持ちましたが、突っ込んだ話はしていないので分かりません。
    彼女との出会いは、ガストホフでのことでした。マスターが日本人の新しい常連客ができた、というようなことを他の常連客に話してくれたことで、何となく注目されるようになりました。マスターは初老の男性で、普段は無口な印象でしたが、そのときは陽気で、地元の人たちに紹介してくれたのでした。確かに田舎町での東洋人は華僑を除けば珍しい存在ともいえるのか、酔った地元の人たちから話しかけられるようになりました。
    実はそのときの客に彼女がいたのでした。翌日に地元のアンスバッハへ帰る予定だったようです。

     

    一方、自分はというと、スイスのバーゼルからハンブルクに戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは初めてドイツを旅したときから気に入っている町で、途中の宿泊地としては、わざわざ迂回してでもここを選択したいほどでした。戦後のドイツ軍の駐屯地にもなったことで、よそ者がいても違和感のない点も気に入っていました。
    実はこのときは、彼女と連絡先を交換した程度で、それも社交辞令の延長のようでした。お互いに美術系の大学にいたことで、酒の肴に共通の話題があっただけで、それ以上のものではなかったといえます。

     

    そんな彼女と再会したのがニュルンベルクでした。ウィーンから戻り、ドイツ再統一をどこで迎えようかと考えている途中で、三度目のニュルンベルクへの立ち寄ったときでした。本当はベルリンに行きたかったのですが、当時ハンブルクからベルリンへ向かうアウトバーンが慢性的に渋滞していて、いつも困っていたことを経験しているせいか、どうしても躊躇われていたのでした。

     

    カイザーブルク城の隣の宿にチェックインし、クルマをコインパーキングに駐車すると、丘を下り、ニュルンベルクの街中へと向かいました。夜のニュルンベルクは決して治安が良いとはいえません。もちろんドイツの都市なので、他の欧州諸国の都市と比べればはるかに安全ですが、都市の規模からすると悪い印象です。ハンブルクのザンクトパウリやフランクフルトの中央駅近くに比べるほどではないですが、特に夜は怪しい人がそれなりに目立つ街であるのは事実です。
    お目当てはニュルンベルクソーセージでした。特に「ブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)」という店は有名です。ドイツのソーセージというと太いものをイメージするでしょうが、ニュルンベルクのはミニサイズで、「ニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト Nürnberger Rostbratwurst」という小指ほどのサイズの焼きソーセージが定番です。これは原産地名称保護制度で認められたものだけが名乗ることができるものです。クルマで回避してきた中央広場(Hauptmarkt)はクリスマスマーケットが開催されることでも有名ですが、ここにある聖ゼバルドス教会の隣に店があります。山小屋風の店舗です。煙突があり、ソーセージを焼いた煙が出ています。

     

    ソーセージと言えばビールですが、ここではワインも飲めます。フランケン地方産のワインです。バイエルン州の北端にある地方で、ブドウ畑の総面積は6.100ヘクタールにも及び、辛口ワインで知られます。

     

     

    喧騒の店内ですが、わずかに空いた席があったので、そこに座りました。ビールとニュルンベルガー・ローストブラートヴルストを堪能していると、懐かしい彼女の姿を見かけたのでした。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)1

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)については、以前に「カイザーブルクでワイン」で少しだけご紹介したことがあります。個人的には3回、訪問したことがある都市です。バイエルン州のドイツ語は北部訛りに慣れた人間には、少し苦手意識がありましたが、ウィーンから戻ると、そこまでの苦手意識はなくなりました。多少はウィーンの言葉が耳に慣れた影響で、バイエルンの方言も聞きやすくなったのかもしれません。もっとも、日本語のように話すレベルではありませんが。

     

    ニュルンベルクは旧市街であるミッテ(Mitte)を囲むように、環状道路があり、4号線も市内は環状線になっているので、クルマで訪れるにはかなり機能的な街になっています。東京在住者であれば、東京のミニチュア版の構造になっているのが分かると思います。
    3回目に訪れたときは、郊外のアウトバーン3号線から14号線に入って市内へと入りました。オストシュタット(Oststadt)から4Rの環状線に入らず、そのまま直進してズルスバッハ通りでバイロイター通りまで行きました。ヴェールダー湖(Wöhrder See)の北側を西に走ったことになります。

     

    市内にはペグニッツ川(Pegnitz)が流れていて、旧市街では運河のようになっています。川の両岸に街が広がり、ハンザ都市のハンブルクとは雰囲気が異なるものの、同じように水と都市の賑やかさが際立ちます。
    中心のマルクト広場(Hauptmarkt)周辺はクルマで行くと厄介なので、そこを避けるようにして北へと向かいました。カイザーブルク城へ向かったのでした。かつて神聖ローマ帝国最大の都市でもあったのは、ここに多くの皇帝が居住したことによります。そういう意味では神聖ローマ帝国の首都だった時期が長いともいえますが、この帝国には首都機能がないため、あくまで皇帝の居住地として人気だった、ということになるでしょう。

     

    初めてニュルンベルクに来たのは、確か21歳の頃だったと記憶しています。そのときは、単純にカイザーブルク城を見学することが目的でした。ロマンティック街道沿いの町のように、小さな都市だとイメージしていたものの、これほど賑やかな大きな都市であることに驚きでした。もちろんハンブルクやミュンヘンに比べれば、はるかに小さな都市ではありますが、それでもイメージとのギャップは大きかったのが強烈に残っていました。そのためか、クルマで訪れる時は道路の選択がポイントでした。中心部は大都市のような入り組んだ構造で、歩行者も多いことから、賑やかな場所を避けることが重要でした。
    ナビのない時代だったので、それでも途中、少しは迷いつつ、カイザーブルク城の隣に位置する宿泊施設へと着くことができました。

     

    DJH Jugendherberge Nurnbergに宿泊しました。ここはユースホステルで、4人部屋でした。国籍の異なる異文化の人と同室なのは慣れているので気になることもなく、快適な滞在です。何より、城のある場所で、高台ですから、窓からは旧市街の景色が一望できます。宿泊費用も安いので、訪問した3回とも、宿泊はここにしています。
    ただ欠点は駐車場です。目の前にはコインパーキングがありますが、当然ながら無料ではありません。現在はどうか知りませんが、当時は夜間は無料だったので、日中はクルマで移動し、夜になってここに駐車するというのが、ニュルンベルクの行動パータンでした。

     

    ここでの思い出は数多くあり、次回は都市を紹介しながら、記していきましょう。

     

  • イルクーツク(Иркутск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイルクーツク(Иркутск)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    以前にバイカル湖を取り上げたことがありました。(「シベリアの真珠・シベリアのパリ」)そのバイカル湖の西岸にある都市がイルクーツク(Иркутск)です。
    ここは滞在したことはしたのですが、ソ連時代のインツーリスト(ソ連国営旅行社)のミスで、夜中に到着して翌日の早朝出発のためにホテルに宿泊しただけでした。従って、イルクーツクの街については、駅からホテルまでの移動区間とホテルだけしか知りません。しかも深夜と早朝なので、街の様子も目に入ってしませんでした。

     

    シベリア鉄道での旅だったため、深夜に到着して、ホテルにチェックインし、翌日は1日市内観光をして、下車した同じ時刻のシベリア鉄道に乗車する予定でした。翌日の同じ時間の鉄道ですから、市内には24時間の滞在をする予定だったのです。それが深夜着で早朝出発になったわけですから、イルクーツクの滞在はほぼホテル内、その内訳は、ホテルのバーと宿泊した部屋だけでした。何とも悔しい思い出です。

     

    では、このイルクーツクという都市は、どんな都市だったのでしょうか。
    もともとは毛皮をとるための宿営地でした。そのため、毛皮の集積地として発展し、清や満州、朝鮮などとの交易が盛んになりました。その一方で囚人や政治犯の流刑地にもなっていました。流刑になった人の中には、1825年のデカブリストの乱(Восстание декабристов)で反乱を起こした貴族の将校たちも含まれていました。ロシアで初めて皇帝専制(ツァーリズム)を打破するための反乱でしたから、いわばその後のロシア革命にも繋がる部分があり、その役割を担った人たちがイルクーツクに流されてきたので、それも感慨深い場所といえます。流刑者はロシア人だけとは限らず、反ロシアのポーランド人なども含まれていました。

     

     

    日本との関係でいえば、1701年に伝兵衛が初めて滞在し、回船の船頭だった大黒屋光太夫も滞在しています。伝兵衛については、1753年にロシア最古の日本語学校で教鞭をとっていました。
    さらに第二次世界大戦後は、イルクーツクも日本人のシベリア抑留地のひとつとなっていました。

     

    日本からシベリア鉄道でヨーロッパに行くのには、丁度よいい中間地点に相当します。長く列車に揺られいた状態から離れ、途中下車して、シベリアの都市を1日散策するのは最適なプランと言えます。
    ここでの思い出はホテルしかないのが、今でも悔やまれます。

     

  • ネルトリンゲン(Nördlingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はネルトリンゲン(Nördlingen)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    ロマンティック街道といえば、ワイン産地として知られるフランケンからアルプスのぶもとまで伸びる街道で、ほぼ南北に走っています。具体的にはヴュルツブルクからフュッセンまでの約400㎞に及びます。
    しかし、街道として1本の道路が走ってるわけではなく、観光名所を地図の上でつなげたものです。観光順路のような役割で、「観光街道」「休暇街道」(Ferienstraße)となっています。
    この街道沿いにあるネルトリンゲン(Nördlingen)には、ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)方面から南下して訪れた思い出があります。

     

    今ではロマンティック街道沿いに観光都市として知られますが、歴史的には三十年戦争の影響が大きいものでした。それがネルトリンゲン包囲戦であり、ネルトリンゲンの戦いでした。これでスウェーデン・プロテスタント軍はハプスブルク軍に敗れたのでした。
    ネルトリンゲンは高額の賠償金を支払うことになりました。ただこの支払いをすることで、略奪行為からは免れることにも繋がりました。その一方で二度の戦闘により、住民は大きく減少することにもなりました。飢餓や病気が原因でした。
    その後にヘーヒシュタットの戦いが起こりました。これはスペイン継承戦争でしたが、これでも都市としては打撃を受けました。
    最終的に、ネルトリンゲンは戦争による交易の停滞期間が続くことになりました。その代わりに中世の風景がそのまま現代まで残ることにもなりました。

     

    まだアウトバーン7号線が途切れている時期で、25号線に沿っての移動となりましたが、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)から南側へと向かうルートは、なかなか快適だったことを覚えています。
    ネルトリンゲン中心部へは、25号線から29号線に入って南下し、東南方面にのびるロマンティック通りへと入ります。エーガー川の手前で、右折し、その先を左折してインネラーリングに入りました。ここは完全ではないもののネルトリンゲンを半分以上周回できる通りになります。その内側が中世からの市壁です。1327年当時の姿を残す市壁は、5つの楼門、11の塔、2つの堡塁があり、しかも市壁の内側の通路も完全に保存されています。

     

    西のバルディンガー門から市壁の内側へと入りました。途端にタイムスリップしたかのように中世の街並みが広がります。
    街の中心部にあるマルクト広場は、中世には毎年見本市が開催されたようです。マルクト広場とセットになっているのは、市庁舎と聖ゲオルク教会です。この教会は、1427年から1505年に建造されたもので、ゴシック教会です。

     

    初めて訪れた頃は、まだドイツ語も十分に活用できていなかったので、この地域の言語についてはよくわかりませんでした。しかし2度目の際は、ここまでシュヴァーベン語(Schwäbisch)が使われていることに驚きました。アレマン語に属するもので、バイエルン州やオーストリアのチロルの言葉にイメージが強かったので、おそらく北限地域なのだろうと思った次第です。
    ちなみにこのシュヴァーベン語ですが、現在完了形の過去分詞が標準ドイツ語と異なります。

     

    Er hat am Fenster gesessen. → Er ist am Fenschter gesesse.
    ※ 参照:Wikipedia

     

    まず、ドイツ語の現在完了形は基本的にはhaben支配ですが、標準ドイツ語でも、いくつかは sein支配になります。4格をとる他動詞は全てhaben支配ですが、自動詞の一部がsein支配となります。
    それが上記の場合ですが、gesessen が gesesse となるのはともかく、この不定形が「sitzen」です。「座っている」という動詞ですが、使い方はいろいろあって、例えば「am/hinter dem Steuer sitzen」などは「運転する」となったり、「tief sitzend」は「根絶できない」や、「特有な」などとなります。
    標準ドイツ語ではhaben支配ですが、シュヴァーベン語ではsein支配となります。

     

     

    滞在時間の短い街でしたが、中世の面影を残すネルトリンゲンは、お勧めの場所と言えます。

  • ノイシュヴァンシュタイン城

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)について勝手に語ります。

     

     

    以前に城としてはホーエンツォレルン城を取り上げたことがありますが、今回はドイツで最も有名な城であるノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)の思い出を語ります。
    カリフォルニアにあるオリジナルのディズニーランドも香港ディズニーランドも、眠れる森の美女の城のモデルになっています。おとぎ話に登場する城そのものです。ちなみにディズニーランド・パリでは、ノイシュヴァンシュタイン城はモデルになっていません。

     

    この城はバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方オストアルゴイ郡シュヴァンガウ町ホーエンシュヴァンガウ地区という場所にありますが、ここへ向かうための拠点となる町はフュッセン(Füssen)になります。実はこの地域、バイエルン州の最南西部で、話されている言語はシュヴァーベン語です。アレマン語系言語で、標準ドイツ語とは異なります。そのため、 アレマン語系のノイシュヴァンシュタイン城の表記では「Schloss Nuischwanschtui」、フュッセンも「Füssen」ではなく「Fiesse」になります。
    それでも日本人観光客にも人気のロマンティック街道の終点を担っているため、標準ドイツ語は通じます。地元の人の会話が全く聞き取れないだけです。

     

    城の歴史はそれほど古いわけではなく、建築されたのは19世紀です。
    バイエルン王ルートヴィヒ2世によるもので、近隣にはホーエンシュヴァンガウ城もあります。こちらはルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごした城です。
    ルートヴィヒ2世は、中世への憧れがあり、それを具現化するための城を欲していました。そのため、城のデザインは建築家ではなく、宮廷劇場の舞台舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクでした。いわば見た目こそが重要ということもあり、見た目は伝統的建築方式ですが、実際は鉄骨組みのコンクリートとモルタル製でつくられました。
    従ってドイツの伝統的な城館に必需であるものも省略されました。例えば小聖堂などは必ずありますが、ノイシュヴァンシュタイン城にはありません。
    ホーエンツォレルン城の重厚さを目にしたあとで、この城を訪れると、やはりディズニーランド的と感じるのは、そのような見た目重視の印象が強く出ているからかもしれません。

     

    この城へはクルマを運転して行きました。
    フュッセンからパーク通りで郊外に出て、そのまま行き着いたので、カーナビのない時代でも容易でした。通行量の少ない寂しい山道を通らなければたどり着かなかったホーエンツォレルン城とは大違いです。
    しかも駐車場の係員が案内して、停車する場所まで決められてしまいました。日本の観光地と変わりません。駐車料金もここのほうが高かったです。
    城の内部は十数人のグループに入れられ、ガイドが案内してまわるようになっていました。団体旅行であれば、そのまま団体にガイドがつくようでした。一人で気ままに城を散策したかったのですが、それは無理だと知り、仕方なくドイツ語ガイドの列に並びました。ところが、係員がやってきて、英語ガイドに連れていかれ、何が何だか分からないまま城の内部へと入りました。
    英語ガイドなので、何を説明しているか分からず、かなり退屈してしまい、実は城の内部の記憶はあまり残っていません。ホーエンツォレルン城は大学生のドイツ語ガイドで、かなり記憶に残っているので、何とも残念でした。

     

     

  • コペンハーゲン(København)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコペンハーゲン(København)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    「北欧のパリ」ともいわれるコペンハーゲン(København/Kopenhagen)には、ストックホルム(Stockholm)から夜行列車で到着しました。現在では行われていませんが、当時は列車ごとフェリーに乗り、海を渡った旅でした。今では橋ができたことで、このような楽しみはなくなってしまいました。

     

    ストックホルムでもウプサラ(Uppsala)でも、ホテルには宿泊せず、民家に滞在していましたが、コペンハーゲンでは一人の部屋で気を使わないで滞在しようと考えていました。しかし、さすが北欧、とにかく物価が高いのです。どうしようか、と迷いましたが、すぐに考えるのを放棄しました。まずは市内を散策することにしたのです。
    コペンハーゲンとえばチボリ公園(Tivoli)で、駅からも近いのですが、そこは後回しにして市街地へと向かいました。ちなみにチボリ公園は世界で3番目に歴史のあるテーマパークです。
    歴史的な景観を誇る市庁舎、国立博物館など、市街地そのものはコンパクトにまとまっているので、早朝に到着した旅行者には、気軽に観光できます。

     

    チボリ公園と並ぶ観光名所といえば、人魚姫の像(Den lille havfrue)です。
    ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフにしたブロンズ像です。そして「世界三大がっかり」の一つといわれています。ちなみにあと二つは、「シドニーのオペラハウス」、「シンガポールのマーライオン」です。「ブリュッセルの小便小僧」を入れて、オペラハウスを抜かすこともあるようです。
    実際、わざわざ見に行く価値があるかというと、確かに疑問符です。コペンハーゲン滞在のネタという以上の価値はないかもしれません。
    それでも歴史はあって、『人魚姫』のバレエに感銘を受けたカール・ヤコブセンが、1909年に彫刻家エドヴァルド・エリクセンに人魚姫の像の制作を要請したことから始まります。彼はカールスバーグ醸造所の創立者の息子でした。正式に現在の場所に設置され、公開されたのは1913年8月23日でした。
    人魚姫のモデルになったのは、頭部がエレン・プリースといわれています。ただし、これは本当かどうか分かっていません、彼女は当時デンマーク王立劇場のプリマドンナでしたが、裸体モデルを拒否したともいわれています。結局体の部分は彫刻家エドヴァルドの妻エリーネ・エリクセンだといわれています。

     

    それほど派手な都市ではありませんが、コペンハーゲンはソ連、フィンランド、スウェーデンと渡り歩いてきた人間には、それなりの華やかさを感じました。「北欧のパリ」といわるのも頷けます。
    物価が高いので、長期間滞在する場所ではない気がします。それでも街中でビールを飲み、今夜の宿をどうするか、改めて考えることにしました。
    実はこの酒場でモスクワのホテルで一緒だったオーストラリア人と再会し、彼の知り合いでハンブルク在住の人を紹介されました。英語での会話なので、何だかよく分かりませんでしたが、彼らの宿泊するユースホステルに行き、そこで宿泊することのなりました。
    後日、ハンブルクが生活拠点になったのは、このときに紹介してもらった人のおかげでした。コペンハーゲンの思い出は、ハンブルク生活の入り口と直結していたのでした。

     

  • ナホトカ(Находка)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナホトカ(Находка)について勝手に語ります。

     

     

    2020年の夏は、コロナ禍の猛暑となりました。未だかつて経験したことのない夏になっています。海外旅行に行って、その土地のワインを飲むというのも、今年は無理があります。
    そこで、今回は過去に訪れたことのある思い出の地の現在を知り、快適な冷房の効いた部屋でワインを飲みたいと思います。舞台はナホトカ(Находка)です。

     

    日本から近いロシアの都市で、日本海の北西部にあります。ナホトカ湾に面していて、かつてはウラジオストクが外国人の立入禁止都市だったため、ここに横浜からの航路がありました。清朝時代には灠溝崴でした。 約16万人の人口です。

     

    この場所はロシア人ではなく、イギリス人がゴーネット湾と呼んでいました。
    ナホトカと命名したのはロシアの東シベリア提督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーでした。湾の名称についてのもので、ロシア語で「発見」・「掘り出し物」の意味でした。
    集落の始まりは1865年からで、サハリンで重労働を強いられたのちに釈放された人たちでした。まず、アレクサンドロフカ集落を設け、次にアムール川からナホトカへ農民の26人が移住し、ウラジミフカ集落を設けました。
    これがナホトカの都市の始まりでした。
    1868年にはフィンランドからの移住があったり、1977年にはウクライナのチェルニゴフ県から女性移住者たちが来たりしました。

     

    ソ連の時代になると、1950年にナホトカ労働集落が市に格上げになり、初めて大通りが作られるようになりました。これにより、ナホトカ大通り、中央通り(現在のガガーリン通り)、レールモントフ通り、そしてクリィロフ通りができ、その後モスクワ通りも作られましたが、この通りは現在のレーニン通りとなりました。
    1961年には京都府舞鶴市と姉妹都市関係を結びました。その後にも北海道小樽市、福井県敦賀市、アメリカのカリフォルニア州のオークランド、ワシントン州ベリンハムとも姉妹都市となりました。
    そして1965年が大きな変動がありました。ナホトカに輸出入事務所「ダリイントログ」が開設されたのです。これは、ソ連の極東と、日本・オーストラリア・北朝鮮との貿易管理を行うことから、ソ連極東貿易の拠点となったからです。
    本来であれば、この地位にふさわしい都市としてウラジオストクがありますが、太平洋艦隊の軍港都市になっていたため、外国人立入禁止にしたことで、その地位をナホトカが担ったことになりました。

     

    このような状況の中で、横浜から船に乗り、ナホトカへと向かったのでした。
    シベリア鉄道の起点はウラジオストクですが、外国人はいけないので、ナホトカから支線の特別列車でハバロフスクへ行き、そこで乗り換えてモスクワへ向かうしかなかったのです。
    ソ連時代のナホトカの港に降り立ち、そこからホテルで宿泊したのち、駅へと行きました。街の印象は、とても地味だったという感じです。社会主義国には商業用の看板はありません。ネオンもありませんでした。暗い街並みという印象が強く、それ以外の詳細な部分は思い出せないほどです。
    そして自分にとって、初めて訪れた外国こそがソ連のナホトカだったわけです。それにも関わらず印象が薄いのは、単に月日が経過したというだけの理由ではありません。

     

    ヨーロッパでは東西ドイツの統一がなされた1990年には、極東でも大きな変化がありました。
    ゴルバチョフ政権により、ウラジオストクを開放したのです。これで本来の都市の規模から、ウラジオストクは軍港だけでなく商港にもなり、ナホトカの商港としての重要性は低下することになりました。それでも、ナホトカは自由経済地域に指定されました。ただ、この政策は失敗続きで、2006年にはこの政令が失効し、自由経済地域は終焉を迎えました。

     

     

    日本からの観光という面でも、ウラジオストクには空港があり、ビザも緩和されていることから、あえてナホトカを選択する理由がないかもしれません。
    それでも思い出の都市なので、死ぬまでに一度は再び行きたい気もします。そんな思いを抱きながら今宵はワインで乾杯!

     

  • アンカレッジ(Anchorage)経由

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアンカレッジ(Anchorage)経由の思い出を勝手に語ります。

     

     

    アンカレッジ(Anchorage)はアメリカを代表する港湾都市の一つであり、アラスカの中心都市です。
    しかし、ある一定以上の年齢の日本人で、欧州などへの渡航経験がある人にはなじみの深い都市といえます。具体的には1991年以前にヨーロッパへ北回りルートで旅したことのある人です。この時代、ほとんどがアンカレッジ経由だったからです。

     

    経由していた空港はテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港(Ted Stevens Anchorage International Airport)です。かつて日本で唯一国際線を運航していたのが日本航空でしたが、その時代には、日本航空がこの空港にもっとも多く離発着していました。1960~1990年頃は、旅客便と貨物便を合わせて1日に十数機が寄航していました。
    それだけ頻繁に日本から寄港していた空港ですが、目的はすべて給油でした。乗客は給油の間、国際線ターミナル内で過ごしていました。滞在時間は1時間から2時間程度でした。
    そのため、空港内には日本人向けの免税店やレストランもあり、うどん屋もありました。日本語のできる従業員も多くいました。

     

    現在はアンカレッジを経由しなくても、ロシア上空を経由して直接ヨーロッパに行けるようになりました。そのため、アンカレッジ経由の便はなくなりました。
    かつての状況を知っている人間からすれば、何とも寂しい気もする反面、ヨーロッパへの飛行時間が大幅に短縮していることにうれしくもあります。

     

    初めてアンカレッジの空港に降り立ったのは、まだ1980年代の東西冷戦時代でした。大韓航空機撃墜事件の記憶もまだ新しいときでした。しかも乗ったのは、フランクフルト発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空でしたから、周囲からは危ないのでは、ともいわれたことが思い出です。
    大韓航空機撃墜事件は、1983年9月1日におきた事件で、大韓航空のボーイング747が、ソ連の領空を侵犯したことで、ソ連の戦闘機により撃墜された事件のことです。この事件では、乗員・乗客合わせて269人全員が死亡しました。まさにこの航路での事件でした。
    ちなみに、これとは別に大韓航空機爆破事件もあり、これは1987年11月29日の事件でした。偽造された日本国旅券を使った北朝鮮の工作員によるテロ事件でした。

     

    実をいうと、貧乏大学生だった頃は、アンカレッジ経由の北回りでヨーロッパに行けるというのは、ある意味で憧れでもありました。南回りのアジア系航空会社を使った格安航空券が主でしたから、JALやヨーロッパ系キャリアの航空会社の便は、敷居の高いものだったのです。
    北回りのアンカレッジ経由で、唯一チケットがとれるのが大韓航空でした。少し背伸びすると、アエロフロートという選択肢もありましたが、この場合はシベリア経由なおでアンカレッジとは無縁でした。
    そのような状態だったので、実際に経由した思い出より、アンカレッジ経由でヨーロッパを頻繁に行き来することへの憧憬が強かったといえます。

  • ケミ(Kemi)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケミ(Kemi)についての思い出を勝手に語ります。

     

     

    ケミ(Kemi)といっても、ほとんどの日本人は知らいなと思います。Wikipediaで調べてみても、日本語のサイトでは多くの情報は得られないでしょう。それほど知名度のないケミはフィンランドの都市です。ボスニア湾の港湾都市で、人口もわずかに2万人強という小さな都市です。
    ここにも思い出があります。21歳の夏でした。列車の乗り換えのために訪れました。

     

    シベリア鉄道を縦断してモスクワへ行き、そこから当時のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)へと北上しました。そこからヘルシンキを経て、ここへと来たわけです。実はこのルートを選択する人は珍しいといえます。シベリア鉄道でアジアからヨーロッパに来た人は、ヘルシンキから船でストックホルムへと行くのが王道といえます。わざわざ陸路で北極圏近くまで北上して、スウェーデン方面へ向かう人は物好きだけといえました。
    まさにその物好きだったわけです。

     

    ケミ周辺の大きな都市というとオウル(Oulu)ですが、鉄道では、そのオウルからケミへは支線という扱いになっています。その先にはロヴァニエミ (Rovaniemi) へと繋がります。ヘルシンキからは直通列車が走っているので、距離はともかく、不便という感じはしませんでした。そもそもシベリア鉄道での移動を経験した直後ということもあり、そのまま陸路を選びたかったという気持ちが強かったといえます。
    あまり刺激のなかったヘルシンキに別れを告げ、何も情報のないケミへと向かいましたが、この移動のことはあまり覚えていません。やはり刺激がなかったのかもしれません。

     

    この都市は中世にはすでに交易で栄えていました。主に毛皮や魚を中心とした交易の中心地でした。
    ロマノフ朝第12代ロシア皇帝だったアレクサンドル2世の時代だった1869年には、帝国令によって市の権利を与えられました。さらに工業化へと進み、この面からも重要な役割を果たしてきました。
    鉄道は1903年からでした。

     

     

    この街を訪れたのは7月の下旬でした。日本では梅雨が明けて、暑さが全開の時期です。
    ところが、駅に降り立つと、北風が強く、とんでもなく寒く感じました。それもそのはずで、日本では12月の気温だったのです。夏の恰好で来るべき場所ではありませんでした。ストーブに助けられ、身体を温めてから街を散策したのが印象的でした。そのせいか、街の印象より寒さの印象が強い場所でした。
    懐かしい思い出です。

     

  • テュービンゲン(Tübingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はテュービンゲン(Tübingen)の思い出を語ります。

     

     

    初めてドイツでクルマを運転したのは21歳のときだったと記憶しています。そのときは、若さだけの勢いで、ドイツの交通事情もよく分からずに運転していました。
    その後、ドイツを離れ、再びドイツに戻ったときには、少し慎重に運転するようになった気もします。
    ドイツで自由にクルマを乗り回していると、地方への移動ではすごく楽になります。特にホーエンツォレルン城などは、バスではなく、クルマでいったおかげで、かなり楽だった記憶があります。

     

    【参考ページ】
    ホーエンツォレルン城
    ホーエンツォレルン家( Haus Hohenzollern)

     

    そのホーエンツォレルン城に程近い都市にテュービンゲン(Tübingen)があります。ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州の中心部に位置する都市です。バーデン・ヴュルテンベルク州のワインについては、以前にご紹介しています。

     

    【参考ページ】
    バーデン=ヴュルテンベルク州のワイン

     

    テュービンゲンといえば、大学都市であり、街中は中世のままの雰囲気を残すことで知られています。
    大学の設立は1477年で、大学がこの町の中心となっています。そのため居住者の3分の1は大学関係者だといわれるほどです。
    キリスト教神学の研究では世界に名を知られた大学で、そのためドイツでは、キリスト教ルター派神学研究部門では中心地といえます。
    人口は9万人弱で、それほど大きな都市ではありません。

     

    シュトゥットガルトからアウトバーン81号線で向かいました。
    それほどの距離があるわけではありません。わずか30㎞程度です。そのためクルマの移動では短時間で、かなり快適に行くことができます。ただ、アウトバーンは、直線的にテュービンゲンに向かっているわけではなく、ヘレンベルク(Herrenberg)へと向かい、そこからアウトバーンを離れ、296号線で西側からテュービンゲンの街中に入ることになります。
    もし鉄道で訪問する場合は、中央駅に到着します。ただ、この駅は町の中心部へはネッカー川を渡らなければなりません。
    このネッカー川を挟んで街の印象はかなり異なるかもしれません。伝統的な街並みは渡った先で、クルマでは直接、ここへと入ります。

     

     

    この小さな都市には、21歳のときと、25歳のときの2回訪れています。
    別にここの大学に用があったわけではなく、初めて訪れたときにその雰囲気が気に入り、二度目の訪問を生んだのでした。ここは大学生が多いので、当時の同世代の人々、しかも留学生も多かったので、それぞれの国の人たちとの交流が楽しかった思い出があります。
    北ドイツ中心の生活から、ここまで南下してきて気に入った街ができたことが、それだけでうれしかったのかもしれません。
    もう、あの時代には戻れません。

     

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