今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • テューリンゲン紀行5(Mühlhausen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の最終回です。現在の州都エアフルトから離れて、暗い村と森の中を疾走します。

     

     

    エアフルトの街が暗闇に包まれ、西側世界のようなネオンも輝いていない街は、思った以上に暗い印象をもちました。
    今夜はこの街に宿泊しようかとも思いましたが、セヴェリ教会を離れてから再び迷子状態になってしまったので、とりあえず市街地を脱出することにしました。郊外のガストホフ(Gasthof)が東ドイツにあるかどうかわかりませんが、何の情報も持たない日本人が、暗い街中で宿探しをするのは辛いことだと感じていました。クルマで郊外で出れば、最悪、車中泊も可能となります。
    取り合えず、ライプツィヒ(Leipzig)方面へ行こうかと思い、北東方向への道路を探しました。ところが、ここでも案内表示板が暗く、一瞬で確認することに失敗しました。暗いだけでなく、見慣れない地名が多かったことが原因です。

     

    アウトバーンには宿泊施設がないので、国道などの幹線に行こうとしていたのもありますが、それ以上にアウトバーンの表示そのものについても見かけることがなく、結局どこをどう走っているのか分からないままでした。
    計画性もなく、慣れない東ドイツに入国したので、開き直って走りやすい道路を走ることにしました。その結果、どうやらノルドパーク方面の北側へと進んでいるようで、行きたい方向とはズレていることに気づきました。しかし、修正するのも大変なので、そのまま北へ行き、4号線へと合流しました。ガソリンもどこかで入れようかと思いましたが、東ドイツにまともなガソリンスタンドはなく、あっても、いわゆる「ハイオク」に相当するオクタン価のものもなさそうでした。
    一度、西側に戻らないとならないかもと考えるようになり、国境をさがすことにしました。

     

    東西を自由に行き来できるようになったのは、つい最近のことで、東西冷戦時代には厳しい監視状態だった国境は、当然ながら案内表示はありません。
    仕方なく西方向の国道でカッセル(Kassel)方面へと行こうと考えました。
    小さな集落に入るとアスファルトから石畳になり、しかもかなり狭い道路になります。周囲は暗い森が続き、アップダウンも随所にあります。寂しい道です。もし、こんな場所でガス欠になってしまったらシャレになりません。
    小さな村に宿泊施設も見つけましたが、宿の人に話をきくと営業していない、という答えでした。実際には営業していないのではなく、客がいないので、夜になってから新たな客を迎えるのが面倒という印象でした。いかにも共産圏らしい反応で、見かけない日本人についても興味はないようでした。

     

    空腹も感じてきたものの、国道に沿って現れる村や町には、食事を提供してくれそうな店も見かけません。明るい時間帯であれば、あるいは探し当てることができるのかもしれませんが、西側のような商業的な意識のないレストランは、存在そのものが消失しているようです。何も知らない西の旅人が、消え去った空間から見つけるのは難易度が高すぎました。
    パン屋や軽食を扱う店舗もありません。当然ながらコンビニもありません。
    ここにきて、何ともいえない寂寥感だけでなく、ある種の危機感も感じてきました。ただ、この途方にくれた状態は、決して不快なものではありませんでした。

     

    30年も前のことなので、記憶が定かではないものの、おそらくミュールハウゼン(Mühlhausen)という町だと思いますが、ここで国道を左折することになりました。
    少し走ると、路上に屋台が出ていました。ヴルストやパンの屋台です。街灯もないような寂しい国道に屋台があることが奇跡に感じました。
    慌ててクルマを停め、近くの空き地に駐車してから屋台へ向かいました。
    先客は父と小さな娘の親子が一組だけでした。小さな女の子は、謎の東洋人が現れたことに少し驚いたようでしたが、父親は特に反応はありませんでした。
    屋台の親父さんは気さくな人で、西ドイツの人でした。どうやら通貨統合されたことで、ここまで来て営業しているようでした。ただ、物価が東側は安いので、半分はボランティアみたいなものだと言っていました。ついでに国境の位置も教えてもらいました。
    クルマに持ち帰り、ようやく空腹を満たし、少しだけですが仮眠もしました。ガソリンは残り少ないものの、屋台の親父さんの話を信じれば、カッセルまでは持たないとしても、西側のガソリンスタンドまでは問題ないと判断しました。

     

    夜明け前に再び出発しました。
    屋台はいつの間にか姿を消しています。
    ミュールハウゼンから西に向かうと、そこは山岳部でした。道路は何とか舗装されていますが、真っ暗な山の中を走るのでスリルはあります。しかも国境の表示がなく、本当にこの道で正しいのかどうかが分かりません。
    ようやく、怪しく輝く光が何もない山間部に突然現れました。ダムを照らしているような光景でしたが、近づくと国境の検問所でした。無人でした。何とも奇妙な印象を持ちます。
    こうしてテューリンゲンから離れ、西ドイツ国内に入ったわけですが、景色が変わるわけもなく、相変わらず山の中でした。

     

  • テューリンゲン紀行4(Erfurt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の4回めです。大学都市のイルメナウ (Ilmenau)から、いよいよエアフルトへと行きます。

     

     

    イルメナウ (Ilmenau)からは一直線にエアフルト(Erfurt)へと向かいました。
    現在のテューリンゲン州の州都ですが、この時代、つまり東ドイツ時代はエアフルト県の県都でした。
    ドイツらしい平野が広がった先、南側のテューリンゲンの森に入る場所になだらかな丘陵地帯があります。エアフルトはその丘陵地帯に開けた都市です。
    小さな都市から来ると、市域が広い場所に来た感じがしますが、西側と違って街が暗く、都市の華やかさとは無縁な感じがします。道路の案内表示も暗くて、少し陽が傾いたときに市街地に入ったことで、迷子になりました。
    アウトバーンからアイゼナッハ通りに入り、東に進んでゴータアー通り、突き当りでフリーデンス通りに行けなくて、ハインリヒ通りに行ったのは良かったものの、そこから市街地中心部にどのように走ったのか分からなくなりました。トラバントやトラックの中に、時々、メルセデスやアウディ、VW、BMWも見かけるものの、やはり地元のクルマが多いようでした。

     

    エアフルトというとクレーマー橋(Krämerbrücke)が有名ですが、どこをどう行けば近づけるのかがわかりませんでした。
    この橋はフィレンツェのヴェッキオ橋と並ぶ欧州を代表する歩行者用の橋で、橋梁の両側に多数の店舗が並んでいるものです。東側のヴェーニガーマルクト (Wenigemarkt) と西側のベネディクト広場 (Benediktsplatz) を結んだ橋です。1100年頃には木造で建造されたようで、1325年になって現在の原型の橋になったといいます。
    そんなクレーマー橋に行こうという気持ちはすぐに失せ、東ドイツの暗い街は、観光に適していないのがよくわかったので、適当にクルマを停めて、適当な場所を散策するしかないと気持ちを切り替えました。

     

    宗教改革で知られるマルティン・ルターゆかりの都市ということもあり、とりあえずルターがかつて過ごした街の空気を吸うことだけで満足することにしました。迷子のまま走り続けます。
    宗教都市という側面でいえば、エアフルトには教会と修道院礼拝堂が70以上もあるそうです。その中で代表的なのが大聖堂(Erfurter Domberg)といえるでしょう。他のドイツの都市のように平らなマルクト広場に市庁舎と並んで建つわけではなく、小高い丘の上に建っているので、より巨大に見えます。しかもドイツ・ゴシック建築の傑作ともいわれるだけあって、圧倒的な存在感があります。
    現在は夜にはライトアップされるようですが、このときは偶々なのか、それとも東ドイツの時代だったからなのか、薄暮の状態で暗いままでした。
    あとで聞いたところによると、内観も圧倒されるほど見ごたえがあるとのことでした。ステンドグラス、等身大の十二使徒像、祭壇など、キリスト教の荘厳さが際立ているとのことでした。
    迷子で走り回りながら、比較的近くに行くことができましたが、駐車場が見つからなかったので、クルマから見るだけだったのは何とも残念でした。

     

    大聖堂前のドーム通りからペーター通りに進むと、大聖堂の裏側に佇むセヴェリ教会があります。3本の尖塔が印象的な教会で、屋根も何とも特徴的です。大聖堂と並んでいるので、一体化しているようでもあり、それぞれの個性を主張しているようでもあります。
    大聖堂とセヴェリ教会が織りなす光景については、マルティン・ルターが「塔多きエアフルト」と称えたといいます。それだけこの都市のシンボルとなっているようです。
    ただし、まともに観光したら、さらに実感したかと思うと、何とも残念です。

     

    ちなみに行けませんでしたが、エアフルトには中央ヨーロッパ最古のシナゴーグがあります。
    ナチスによるユダヤ人迫害を経て、ユダヤ教の施設であるシナゴーグが残っているのは、何とも感慨深いものがあります。エアフルトのシナゴーグはかつての姿をそのまま維持しているようなので、歴史的に貴重といえます。今では観光客にも人気のスポットだといいます。

     

    とにかく、初めてのエアフルト訪問は、観光に来たのに観光できず、道は暗くて迷子になり、ろくな思い出がありません。
    再訪してリベンジしたい都市、ナンバーワンです。

  • テューリンゲン紀行3(Ilmenau)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の3回めです。軍需産業都市のズールから大学都市のイルメナウ (Ilmenau)へと行きました。

     

     

    ズールの散策もほどほどにして、再び北上しました。
    テューリンゲンの森が深くなり、右手奥には珍しい動植物が生息する湿原地域のあるグローセル・ベーアーベルク(Großer Beerberg)もあります。標高は982mです。何となく興味を持つものの、東ドイツの貧弱な道路事情で、山岳路を進む選択はできません。
    おそらく東西統一後は道路も整備されたでしょうが、統一前の東ドイツは第二次大戦前に舗装された道路が、ろくに補修されずに残っていたりします。
    まだ中世の石畳の道路が残っているのなら風情がありますが、戦前の道路は走りにくく、しかもいつ通行止めになるかわからない不安もあります。

     

    森を抜けるとゲーラベルク(Geraberg)の小さな町が現れ、 再び森に入った先にイルメナウ (Ilmenau)の郊外に至りました。
    ここは「ゲーテ及び大学都市 (Goethe- und Universitätsstadt)」を冠している小さな都市です。イルム川による谷が形成された場所にあります。
    街の中心部の近くに大きな池があります。規模的には、池というより沼か湖でも良いほどです。

     

    ここは文字通りの大学都市で、イルムナウ工科大学があります。
    訪れたときは大学の夏季休暇のときでしたが、それでも街中を歩く人の数は疎らで、あまり活気を感じません。これが東側世界の都市なのか、と、改めて感じた次第です。
    この都市そのものも、おそらく地味な存在といえるかもしれません。自分自身もたまたま通りかかっただけで、最初から知っていたわけでもないし、特に行きたいと思ったわけでもありません。

     

    あとで調べてみると、都市としての発展は新しく、ドイツ帝国になってからだそうです。それ以前はリゾート地や温泉保養地だったようです。
    確かにテューリンゲンの森にはハイキングコースもあり、特に尾根づたいのコースなどは、この周辺からザーレ川方面へと散策するのに向いている気もします。実際のコースがわからないので、何ともいえませんが、エアフルトやライプチヒなどの都市からなら、この周辺がテューリンゲンの森の拠点には最適な気もします。

     

    ちなみにですが、ドイツにはイルメナウ川(Ilmenau)があります。
    この川はハンブルクの人間なら知っている人は多く、というのも、ハンブルク南部のリューネブルクの近くを流れる川だからです。
    ハンブルクを代表するエルベ川に合流する川であり、支流なのです。
    テューリンゲン州のイルメナウと全く同じ名ですが、この都市には一切関係しない位置関係になっています。
    もしかしたら、既知の川の名に反応して、この都市に立ち寄る気になったのかもしれません。

     

     

    ここでも滞在時間が短く、見知らむ東洋人に目を向ける人の数も少なく、クルマに戻ってさらに北上することにしました。

     

  • テューリンゲン紀行2(Suhl)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の2回めです。いよいよ国境を超えます。

     

     

    コーブルク(Coburg)で城塞を見学したあと、クルマに乗り込んで国道4号線を北上してアウトバーンに合流しました。
    すぐに左手は農地が広がり、右手の先にはテューリンゲンの森へと続く緑が濃くなってきました。東ドイツの国境を超えるルートなので、つい最近までは交通量は少なかったはずですが、通貨統合から国境閉鎖以来、ここでも交通量は激増したようです。
    快適に飛ばしていくと、やがて国境の検問所が見えてきました。東側世界への入り口なので、国境警備の東ドイツの兵士が周囲にいる雰囲気はあったものの、報道の通り、素通りできました。日本の高速道路の料金所より簡単に通過できるので、何とも不思議な気分です。

     

    森やなだらかな丘陵地帯が続き、やがて舗装状態も悪くなってくると、ズール(Suhl)に到着しました。
    小さな都市で、テューリンゲンの森に囲まれています。それほどの山はないものの、ここは標高600mにある関係で、夏の平均気温も低いといわれています。しかし、2019年はベルリンで40度近い気温を経験しているので、現在のズールもそこまで快適なのかどうかは調べてみないと分かりません。少なくとも1990年は、確かに夏でも快適だった思い出があります。
    また、この都市で特筆すべきことがあります。上水道が軟水なのです。水道水を飲むことが可能なドイツですが、硬水のため、日本人には合わないといわれます。それがここでは日本人も安心して飲めるというわけです。

     

    ズールというと武器の生産地としても知られています。
    もともと鉄の産出地として中世の時代から知られていましたが、その鉄から銃をつくったのは16世紀以降のことでした。
    宗教改革を経て、17世紀には30年戦争が起こり、ズールは銃の生産地として発展していきました。これは20世紀に入っても続いていて、武器産業の街として、第一次世界大戦、第二次世界大戦に様々な武器を供給していました。
    当然ながら連合国側からすれば標的となる都市であり、激しい空爆が続きました。
    ちなみにミュンヘンオリンピックの時代には射撃場もありました。これはのちに再統一後、旧東ドイツの資産でしたが、それを市で買い上げたことで、現在ではドイツでは唯一のクレー射撃場となりました。

     

    武器産業の都市だったことから、第二次大戦後のソ連統治時代には、新たに軍需産業都市を形成することになりました。
    1万人に満たない小さな都市に、ソ連の衛星国だったポーランド、チェコから3万人もの人を移住させたのです。ソ連の軍需産業都市とするため、新しい道路もつくり、アパートも多く建てていきました。
    ここで造られた銃器製品はソ連に出荷されていきましたが、さらに中近東などにも製造販売することになりました。

     

    もう一点、日本人としてはズールには注目すべき施設がありました。
    東ドイツ時代に、「日本風旅館・鉄砲鍛冶」があったのです。しかも国立です。
    文字通りの旅館で、建物も日本建築様式をまね、施設内も浴場、大宴会場、それに畳までありました。当時の日本経済団体連合会の企業がベルリンを訪れた際、この旅館へ招待されていたといいます。
    ここでは日本風の食事ができ、東西冷戦の時代にも関わらず、唯一、東側世界で日本を味わえる場所だったのです。
    実はこの情報はのちに知ったもので、ここを訪れたときには、全く知りませんでした。知っていたら、ぜひとも見てみたいと思ったはずです。残念ながらもうここを見ることはできません。
    東西ドイツが統一された直後、まさにここを訪れた年の1990年、国立「日本風旅館・鉄砲鍛冶」の建物はすべてが解体されました。現在は駐車場になっているそうです。
    どうやら、この旅館には盗聴器がいたるところに取り付けられ、宿泊者を監視していたようです。その証拠をSED (ドイツ社会主義統一党)が隠滅するために解体したようです。ソ連の軍需産業都市にある異国風の高級旅館を舞台にした数々のドラマがあったことが、世に知られないようにしたのだと思われます。
    さらに、シュタージ(国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)による市民の監視は厳しく、国民連帯組織・フォルクス・ゾリダリテート( Volkssolidarität )も社会福祉組織でありながら、住民監視組織としても機能していました。この市民相互監視組織により、市内のあらゆる所にネットワークがはりめぐらされたことで、知らない間にシュタージに密告され、刑務所に護送される事態までありました。
    この監視体制は、一説には住民の精神構造に大きな影響を与えたともいわれます。
    統一によって開放されたことで、その後は約70%の住民が旧西ドイツ側に流出していったようです。

     

    統一前に訪れた日本人として、あまり居心地が良くない場所であり、当初は街中をゆっくり散策するつもりでしたがあっさりと諦めました。

     

  • テューリンゲン紀行1(Coburg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は、今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出について勝手に語ります。

     

     

    現在はドイツのテューリンゲン州ですが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の時代には、エアフルト県、ゲーラ県、ズール県に分割されていました。
    現在の正式名称はテューリンゲン自由州となります。単なる「州(Staat)」ではなく、「自由州(Freistaat)」です。ドイツでは自由州を名乗っているのは他に、バイエルン州とザクセン州だけになっています。
    州都はエアフルト(Erfurt)で、ヨーロッパの交通・交易の要所として繁栄してきた都市です。

     

    旧東ドイツの時代には、西側の人間が入国するにはビザが必要でした。しかしベルリンの壁が崩壊し、ドイツ・マルクの通貨統合がなされると、国境は事実上なくなり、自由に東西ドイツを行き来できるようになりました。
    このチャンスに東ドイツに入ろうと思い、バイエルン州側から機能していない国境検問所を抜けてテューリンゲンへとクルマを走らせました。

     

    本当はハンブルクからベルリンへ向かう予定でしたが、アウトバーン24号線は大渋滞、ハノーファーから2号線で行くのも何だかつまらない気がして、結局、南側からの入国にしました。
    出発はコーブルク(Coburg)でした。
    テューリンゲンの森の南側にある小さな都市で、渓谷部分にあります。市内をイッツ川が流れ、ラウターバッハ川の河口もあります。
    そして何より、この街で注目なのはコーブルク城塞(Veste Coburg)です。「フランケンの冠」とも言われ、ドイツの古城の中でも有数の堅牢な城として知られています。
    1056年に初めて文献に登場していますが、現在の城塞は13世紀初めに建設されました。14〜16世紀の期間に大幅に城塞が拡大し、城壁も二重になり、ドイツを代表する一大城塞となりました。16世紀以降には、ザクセン選帝侯の滞在地となり、19世紀にはザクセン=コーブルク=ゴータ家の公爵により、ガラス工芸、武器・武具、馬車などが収集され、現在ではそのコレクションは城塞内の博物館で見学することができます。
    それ以外にも、ルターの部屋や狩猟の間などもあり、見どころの多い城です。

     

    ドイツの都市らしく、街の中心部にはマルクト広場があり、そこに市庁舎があります。
    小さな都市ですが、逆にドイツらしい光景が広がり、バイエルン州の都市の中でもかなりお気に入りとなりました。何より、現在はどうか知りませんが、当時は日本人にはあまり知られていないようで、日本人に限らず東洋系の人はほとんど見かけませんでした。
    おそらく現在は中東系の人も増えているかもしれません。

     

    コーブルクに到着したのは夕方近かったこともあり、城塞には翌日に行くことにしました。
    そのあとに東ドイツ側のテューリンゲンへ行こうと、何とも安易な計画をたて、その日は宿の近くでビールを飲むことにしました。

     

  • ブダペスト紀行 8(Budapest)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行8回目で、最終回です。

     

     

    今回のブダペスト滞在は1日と少ししかなく、十分に堪能できるほどの余裕はありませんでした。
    ベルリンから慌ただしく移動したこともあり、あまり予備知識もないままの滞在でしたが、王宮の丘や聖イシュトヴァーン大聖堂など、ブダペストの定番観光地だけは巡ることができました。
    ワインのブログに投稿するのなら、ハンガリーらしくトカイワインなどを取り上げたりするのが良いのでしょうが、残念ながらトカイワインを味わう機会はありませんでした。

     

    今回、ほとんど取り上げなかった場所に中央市場があります。
    ここは、観光客向けの市場という印象を持つものの、それでも昔ながらのローカルな市場の雰囲気も残っています。海外の市場では、その国の本当の姿が垣間見えることが多いのですが、ここもまさにそうでした。
    日本でいう1階部分は、まさに市場らしい活気がありました。魚、肉などの定番の店舗が並び、階段を上がったフロアでは、民芸品などが売られていたり、フードコートもありました。
    物価的に安いという印象はあまりありませんでしたが、結構楽しく市場内を散策できました。

     

    街中では英語もドイツ語も通じない場面はありました。
    地下鉄のチケットで誤って打刻した際には、その誤りの理由がわからず、職員と話し込んだものの、全く何を言っているのか分かりませんでした。仕方なく、こちらは日本語を使うことになり、ますます分からなくなりました。
    もう少し滞在すればハンガリー語も少しは覚えようかという気になったかもしれませんが、この期間ではドイツ語が通じなければ諦めて日本語を使い、ますますわからなくなって混乱するという次第です。

     

    今回の旅では、ごく数時間だけポーランドにも滞在しましたが、その際には、ポーランド語は必要なく、ドイツと同じようにドイツ語が通じる場所にしか行きませんでした。
    ハンガリーのブダペストでもホテルではドイツ語が通じるものの、街中ではあまり通じませんでした。他のホテル宿泊者は意外にもイタリア人が多く、次にフランス人でした。彼らはホテルの人とは英語で会話していたようです。ちなみにアジア系は我々だけで、他にはいませんでした。これは市内の観光地でも同じような傾向があった気がします。ドイツ系の人は少なく、イタリア系の人が多い印象でした。中国人は時々見かけましたが、訪日中国人より少ない感じがしました。日本人は誰とも会いませんでした。
    このように日本人と離れた場所で、日本語もドイツ語も通じないというのは、旧ソ連やイタリアに旅行して以来になるので、自分にとってはあまりに懐かしく感じました。大学時代にシベリア鉄道でヨーロッパへ行ったとにきに会話が満足に成立しないという感覚です。それでも何とかなるという結果こそ、癖になりそうです。
    また、機会があれば、言葉の通じない国へ行ってみよう、と思いました。

     

  • ブダペスト紀行 7(Szent István-bazilika)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行7回目です。
    王宮の丘から離れペスト側の聖イシュトヴァーン大聖堂(Szent István-bazilika)へと行きました。

     

     

    王宮の丘から再び鎖橋の近くまで降り、そこからトラムに乗車し、北上しました。
    地下鉄の2号線に乗り換えると、ドナウ川は地下で渡ることとなりました。Deák Ferenc térで下車し、バイチジリンスキ通りに沿って北上し、目指す聖イシュトヴァーン大聖堂へと向かいました。
    実はこの周辺はブダペストの中心部になり、王宮の丘から鎖橋を渡って東側に直進した位置になります。トラムと地下鉄を乗り継ぐと大回りになりますが、実は徒歩ならそれほどの距離があるわけではありません。

     

    聖イシュトヴァーン大聖堂は、ブダペストで最も高い建造物といわれます。東京のように高層ビルがあるわけではないので、このような歴史的建物が高い建造物というのはうれしくなります。
    その高さは、96mで、幅は55m、奥行が87.4mです。歴史的建造物とはいっても着工したのは1851年で、完成したのは1905年です。この建設中の1868年にはドームが倒壊し、新たに作り直す必要があったことから、これだけの期間を要したといわれています。
    カトリック教会のバシリカで、バシリカとはローマ時代からの伝統的礼拝堂建築ではなく、礼拝に集まる人々が一箇所に集合できるような一定の平面形式を指すものです。ただし、この語源はギリシア語に由来するもので、一説には「王の列柱廊」を意味するバシリケーだといわれています。
    聖イシュトヴァーン大聖堂の建築様式は新古典主義様式で、正面には2つの大きな鐘楼があります。かなりのインパクトのある鐘楼で、南の鐘楼では、鐘の重量が9トン以上もあるそうです。ハンガリー最大の鐘ですが、実はこれは2代目です。初代の鐘は第二次世界大戦のときに、軍用に使われてしまいました。

     

    この大聖堂は最初に関わった建築家はヨーゼフ・ヒルド(Jozsef Hild)で、19世紀前半のハンガリー最大の建築家でした。しかし、1867年に彼が死去し、その後をミクローシュ・イブル(Miklis Ybl)が継ぎました。
    このイブルがヒルドの設計ミスを発見したのですが、修正が間に合わず、中央ドームが崩壊してしまったといわれます。そしてイブル死去後の最後の14年間はヨーゼフ・カウザー(Jozsef Kauser)が担当しました。

     

    聖堂の中に入ってみました。
    すぐにドームに登ることができるエレベーターを待つ列がありましたが、それをスルーして中に入っていくと、カトリック教会らしい荘厳な空間が待っていました。
    正面の祭壇には聖イシュトヴァーンの像がありました。その手には、ハンガリーのシンボルである二重の十字架があり、背後にはイシュトヴァーンの生涯を描いたレリーフがあります。
    祭壇の左側から裏手に行く通路があり、奥に聖イシュトヴァーンの「聖なる右手」のミイラが奉られています。
    イシュトヴァーン1世(I. István)は、ハンガリー王国の初代国王であり、カトリック教会では聖人として列聖されている人物です。記念日として8月20日がハンガリーの祝日に定められているほどです。

     

     

    このような大聖堂に入ると、ヨーロッパにいる気分が満たされます。
    ただ、観光客が多いので、その点は興ざめする部分もあります。こんなにブダペストが観光客に人気であることに、ここでも改めて思う次第です。でも日本人の姿は見かけませんでした。

     

  • ブダペスト紀行 6(Budavari labirintus)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行6回目です。
    王宮の丘の地下にある迷宮へと行きました。異世界が待っていました。

     

     

    マーチャーシュ聖堂を離れると、王宮の丘でありながら、何でもない住宅街のような路地に入り、地下迷宮(Budavari labirintus)へと行きました。
    地下への入口は普通の家の玄関のような雰囲気です。そこから地下へと続く階段を下ると、途中から地下の洞窟になっています。まるで怪奇幻想小説のような感じなので、なかなかおもしろい。

     

     

    ここは元々、ブダ城の地下に張り巡らされていた洞窟で、これを地下迷宮として観光客向けに公開している場所です。ただし、それほどメジャーな施設ではないため、地下はかなり空いています。マーチャーシュ聖堂の雑踏とは比べ物にならないほどです。
    王宮の丘は石灰岩で構成された台地のため、雨水や地下水に浸食されたことで、自然にできた地下の洞穴が出来上がったようです。
    深さはかなりあり、数十メートルの地下空間が2層や3層にもなっているようです。
    見学というより、ほとんど探検気分で洞窟をめぐることになりますが、その距離は1km以上あります。ただ単に自然の洞窟を歩くのではなく、洞窟内には所々で展示しているものがあります。ベーラ4世の胸像やオペラを再現した蝋人形の部屋もあったりします。
    また、他の国の洞窟も紹介している部屋もありました。映画を上映している部屋へは、階段を少し上がった後方に投影しているので、最初に音声とかすかな光だけがある場所に入り込むことになります。何とも幻想的でした。

     

    ここは意外な穴場といえますが、一点だけ注意が必要です。
    入場料はハンガリー通貨のフォリントでしか支払いができませんでした。クレジットカードは不可でしたので、現金を用意していかないといけません。1フォリントは0.36円程度で、ユーロに慣れている人には分かりにくい通貨かもしれません。

     

    地下迷宮から出ると、王宮の丘をブラブラと歩きました。快適な地下の気温から、一気に真夏の暑さが蘇ります。
    ブダタワーまで歩きましたが、階段で上まで登っていく気にはなれず、すぐ近くに来たバスに乗車してみました。どこ行きなのかもわからず乗ってみたら、王宮へと戻る路線でした。ここまで歩いてきたのに、意味がありません。
    これも自由な旅なので、ドナウ川方向へと王宮の丘を降りることにしました。

     

  • ザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)の少女

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ここで取り上げる都市や地域は比較的マイナーなところが多いですが、今回もザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)という地味な都市をご案内します。
    勝手に語るのはいつもと一緒ですが、今回は過去の思い出です。

     

     

    東西ドイツの通貨統合が行われ、いよいよ念願の再統一を迎えようとしているとき、フランクフルトからウィーンへ向かってアウトバーンを疾走していました。
    オーストリアに入ってからも快調に飛ばし、メルクでドナウ川から離れると、少し疲労を感じてきました。このままのペースだと夕方の6時前にはウィーンに到着できそうです。ただ、約束している相手と会うのは翌日の昼なので、急ぐ必要もありません。このままアウトバーンを走る意味はないといえます。
    そこで適当な場所で宿泊しようかと思い、ザンクト・ペルテンの南インターでオーストリア国道20号線に出て、北上しました。この周辺は日本でも高速道路のインター近くの光景と同じような雰囲気です。いわゆる都市の郊外らしい景色です。
    ザンクト・ペルテンはかつて城壁で囲まれていたであろう場所が環状線のような道路となっていて、ザンクト・ペルテン=ラント郡の郡庁所在地らしい町並みを誇っていました。ただし、オーストリアはウィーンを除けば大都市といえるものはないので、ここも人口5万人程度しかありません。

     

    東に約56km進めばウィーンという場所です。
    明日、ゆっくりとウィーンに向かうには最適な位置ともいえます。
    宿泊先はどこでも良かったのですが、探すのが面倒だったので、ユースホステルにしました。駐車場もあったので、ここで十分です。
    夏らしく、世界各国から集まった旅行者が宿泊しているようです。それでもベッドに空きはあったので、問題なくチェックインしました。
    夏のヨーロッパのユースホステルでは、バックパッカーなどが多く、馴染みのない国の人々もいるので結構面白いので好きです。
    特にアメリカ人はよく見かけ、どこに行っても英語でしか話さないので、よく分かります。他のヨーロッパ諸国の旅行者は多言語を話すので、アメリカ人とは対照的です。
    ちなみに自分はドイツ語だけを使います。

     

    チェックイン後は、街中を散策しました。
    大聖堂はバロック風で、実は初期ゴシック様式を改装したもののようでした。それ以外にも街はバロック建築が多く、小さな街は落ち着いた印象があります。
    ザンクト・ペルテンの駅は思ったより立派で、駅前から南へ向かう通りは歩行者天国のクレムサー・ガッセ(Kremser Gasse)が延びています。
    リンツァー通り(Linzerstr.)にはピンク色の教会がありました。英国婦人教会(Institut der Englischen Fräulein)だそうです。リンツァー通りを北側に曲がっていった先はプランタウアー通り(Prandtauerstr.)で、市立博物館(Stadtmuseun St. Pölten)がありました。カルメル会修道院の建物を改装した施設だそうです。
    市庁舎(Stadtgemeinde St. Pölten – Rathaus)と市庁舎広場(Rathausplatz)などは賑わいがありましたが、夕方になると観光客らしい姿もなくなり、酒場も地元の人で賑わっているようでした。
    そんな場所で食事をし、ビールを飲み、ほろ酔い加減で宿に戻りました。シャワーを浴び、ロビーに戻ると、世界各国の人種で賑わっていました。夜に出歩くところのない小さな都市のユースホステルでは、よく見かける光景です。
    空いた椅子があったので、そこに腰掛けました。
    すると、

     

    女性棟の方向から、親子連れがやって来ました。
    母親らしき女性と、その娘らしい少女です。
    別に気にするような光景ではありませんでしたが、その少女は見事な赤毛で、目鼻立ちがフランス人形の印象でした。思わず凝視してしまいました。
    見慣れた親子連れではあるものの、その少女の人間離れした姿が、かなりのインパクトがありました。表情筋の動きが乏しいのか、人間らしさより人形のような雰囲気が目立っていました。
    人形のように美しい、という表現は褒め言葉になるかもしれませんが、表情が乏しいことで、人間らしさがないことで、人形のようとなると、明らかに褒め言葉ではなくなります。でもまさにその少女は、そのような雰囲気を持っていたのです。
    年齢はおそらく日本の小学校高学年に相当するかもしれませんが、見た感じは年齢不詳でした。ロリコンではないので、単純に驚いただけでしたが、人形が表情を変えずに、それでいて無邪気に喋っているかのように見えました。何とも不思議な光景です。
    その親子が他の人と話しているのを見ていると、どうやらフランス語のようでした。フランス人形の印象の少女にはこれ以上にふさわしい言語はありません。
    周囲の人たちの視線も少女に注がれている気もしました。

     

    実は30年たった今でも、この少女の印象は強烈に残っています。
    会話したわけでもなく、たまたま宿泊することになったザンクト・ペルテンのユースホステルで見かけただけの思い出ですが、ここまで強烈に焼き付いている少女の姿はありません。
    あまりフランス人とは交流もないし、フランスに思い入れもありません。このときの少女の姿だけが思い出にあるのも意味がありません。だからどうした、という話です。
    ただ、ザンクト・ペルテンの思い出には、街中のバロック様式の建物より、あの少女が表情を変化させずに美しい顔のまま行動している姿が最も記憶に残っています。

     

  • ブダペスト紀行 5(Mátyás-templom)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行5回目です。
    王宮の丘のマーチャーシュ聖堂(Mátyás-templom)へと向かいました。

     

     

    昼食後、マーチャーシュ聖堂の前に立ちました。平日にも関わらず、かなり多い観光客で賑わっていました。
    ここは独特な色彩を帯びた屋根に二つの塔を備えた教会で、まさにブダのシンボル的な教会です。
    二つの塔には名前があり、正面から見て左が「ベーラの塔」で、高さが約36メートル、右が「マーチャーシュの塔」で高さは約80メートルあります。
    屋根は、ハンガリー三大陶磁器とされているジョルナイのタイルが使われています。ウィーンのシュテファン寺院にも使われているものです。

     

    マーチャーシュとはマーチャーシュ1世の名前が由来で、ハンガリー帝国が繁栄した時代を齎した人物です。この聖堂で戴冠式を行い、結婚式もここで2回行いました。さらにマーチャーシュ1世により大々的に改修されました。
    最初に建設されたのは13世紀半ばのことで、ベーラ4世によるものでした。ゴシック様式の教会で、ブダ城内に建てられました。このときに「聖母マリア聖堂」と名付けられました。
    15世紀のマーチャーシュ1世による改修では、南の塔が加えられたり、大きな増築を行いました。

     

    そんなハンガリー帝国の城内にある聖堂ですが、1541年からオスマン帝国に支配されてしまいました。
    それは145年間にも及びました。
    聖堂内の宝物がオスマン帝国に奪われることを恐れ、多くの宝物はブラチスラヴァへと移されました。現在はスロバキアの首都ですが、1536年から1784年まではハンガリー王国の首都でもあったからです。
    そしてオスマン帝国による占領となり、聖堂はイスラムのモスクとなってしまったのです。豪華な天井のフレスコ画は塗りつぶさてしまいました。

     

    オスマン帝国からの奪還は、「聖母マリアの奇跡」により成し遂げられました。
    オスマン帝国に対して神聖同盟のポーランド・リトアニア共和国とハプスブルク帝国がブダを包囲し、大トルコ戦争(Great Turkish War)によって、聖堂が攻撃されました。
    このとき、モスクではイスラムの祈りが行われていましたが、破壊されたモスクの壁から古いマリア像が現れました。突如、出現したマリア像に驚愕し、オスマン帝国の駐屯軍の士気が落ち、神聖同盟側の攻撃に抵抗できなかったというものです。

     

    ようやくオスマン帝国支配から脱したことで、モスクと化した聖堂を復旧させることとしました。
    これには長い時間を要し、現在の聖堂は19世紀になってからで、建築家のフリジェシュ・シュレクにより改修が行われました。壮麗な姿を取り戻そうという動きに呼応して、13世紀の設計図を基にして、新たな要素も加えつつゴシック様式になりました。

     

    復活したマーチャーシュ聖堂に一歩中に入ると、そこはもう異質な空間となっています。
    数多くのヨーロッパの教会を見てきましたが、ここの美しさは圧倒される規模です。荘厳なカトリック教会の静謐さとは明らかに異なり、色彩豊かな文様が広がり、柱、壁、天井など、聖堂内のすべてに装飾が施されている感じです。まさに圧巻です。
    鐘楼にあったものを移動し、周囲をフレスコ画で飾ったマーチャーシュ王の紋章には、王冠の下の盾に二重十字があります。これに3つのライオンの首、1頭のライオンがあり、指輪を加えたカラスなどが描かれています。これは、アルパード朝、ダルマティア、ボヘミア、フニャディ家を表現しているそうです。

     

    この聖堂見学の一番の欠点は観光客の多さでした。
    とにかく人が多い。
    日本人にはメジャーではないかもしれませんが、世界的には人気の観光地だということがよく分かりました。

     

     

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