今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ハンブルク 5(Erinnerungen an Hamburg 5)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第5回です。

     

     

    前回はJungfernstiegで再会したメラニー(Melanie)との話から、アンネマリー(Annemarie)が勤務するシュテルンシャンツェ(Sternschanze)へ向かうことになった話でした。今回は、そのシャンツェの話です。

     

    JungfernstiegからMönckebergstraßeまで歩き、Uバーンの3号線に乗車しました。LandungsbrückenやSt. Pauliを通って、シュテルンシャンツェ(Sternschanze)駅で下車しました。

     

     

    アルスター湖の南側を大きく回ったことになります。中央駅からSバーンで行くなら、内アルスター湖と外アルスター湖の間を通過していくことになります。ここはアルトナ地区になり、レーパーバーンとは異なる、ハンブルクを代表するエンターテインメントとナイトライフの地区といえます。1930年代から1970年代にかけて、ここは労働者階級の居住区でした。ところが家賃の安い点と利便性から、1970年代以降には多くの若者が集まってきました。学生が多かったですが、家族で移り住んできた人も多くいました。街の雰囲気が徐々に変化し、おしゃれな店舗やバー、クラブなどのエンターテインメント的店舗を増加しました。

     

    1888年にFloraコンサートホールとして建てられました劇場(Rote Flora)もあり、1988年には新しいミュージカル劇場として再建する計画がありました。しかし、1989年に左派グループによって不法占拠されるという事件がありました。その結果、新規劇場再建の計画はホルステンシュトラーセ駅近くに新フローラ「neue Flora」として建設されました。占領された劇場は、は不法占拠したグループが文化イベントに使用されるようになりました。2000年になると、ハンブルク市が施設の変更を禁止した契約をもとに、不動産業社に買収されることになりました。これは住民との争いに発展し、今度は2014年にハンブルク市が建物を再購入することになり、翌年、ボランティアによって改装されました。

     

    21世紀には、完全な新しいハンブルクの顔になり、流行の最先端の街になりました。それでも左派グループによる政治デモは、ここで行われ続けています。特には5月1日のドイツ労働者の日には、警察との衝突にまでなるケースがあります。そして2008年、ハンブルクミッテ、アイムスビュッテル、アルトナという3つの地区に分割されていたシャンツェンフィアテルのエリアが、シュテルンシャンツェの新しい地区として統合されました。ただ、このときは1990年代だったので、ここまでの規模にはなっていませんでした。

     

    アンネマリーが働く店舗はカフェで、ズザンネン通り(Susannenstraße)沿いにありました。ヨーロッパらしく、歩道に席が並んでいます。彼女は店内で働いているわけではなく、チラシや広告などを含めた仕事が中心で、店員という扱いではないようでした。そのため、いきなり訪れても問題なく対応してくれました。メラニーから電話があったようで、訪ねてくることも知っていました。
    久しぶりに再会した彼女は、少し印象が変わりました。日系金融機関の3人組で動いていた時と異なり、自信にあふれた雰囲気を醸し出していました。聞けば、このカフェの経営者が彼氏らしく、経営面で支えていることが自信に繋がったようでした。

     

    店が終わってから、シュテルンシャンツェの夜を案内してもらうことになり、その時に彼氏も紹介してくれることとなりました。レーパーバーンの夜に慣れた身には、この街の雰囲気は似合わない気もしましたが、好意に甘えることにしました。

     

  • ハンブルク 4(Erinnerungen an Hamburg 4)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第4回です。

     

     

    前回は「世界で一番罪深い1マイル」といわれる歓楽街のレーパーバーン(Reeperbahn)をご紹介しました。まだまだ言い足りないことがたくさんありますが、ワインブログの趣旨から大きく外れるので、今回は別の思い出です。

     

    ハンブルク在主のカメラマンたちと、夜に飲み歩くことが多々ありましたが、そんな中、ある3人組の女性たちと親しくなりました。今は名称が異なってしまいましたが、日本の某銀行のハンブルク支店に勤める人たちでした。現地スタッフで、上司が日本人です。ところが、日本語はほとんどできませんでした。それでも日本語を聞きなれているためか、珍しく、すぐに日本人であるこが分かったようです。普段の業務では、顧客対応はドイツ語と英語で、日本語で対応する案件は、日本人が担当していたようです。

     

    その中の一人、アンネマリー(Annemarie)という4つ年上の女性がいました。日系金融機関3人組の中で、もっとも酒に強く、陽気な、頼れる「お姉さん」という印象でした。当時はまだ携帯電話もメールもない時代で、自宅の固定電話の番号しか知らず、しかも一度も電話したことはありませんでした。それもそのはずで、まともにドイツ語で会話できなかったからです。それでも一番気が合ったので、みんなで食事をしたり、飲みに行ったりした際には、身振り手振りを交えて最も多く会話していました。特にそれ以上でもそれ以下でもない関係だったので、ハンブルクを去るときもあっさりとしたものでした。

     

    まさかこのハンブルクに長く滞在することになるとは、夢にも思えなかったものの、ゲーテ・インスティトゥート(Goethe-Institut)の試験を受ける場所を考えていたとき、ふとアンネマリーを思い出したことで、よく考えずにハンブルクへの再訪となったのでした。ハンブルクのゲーテ・インスティトゥートは市の中心部にあり、ホテルだけでなく、ガストホフ、ホストファミリーなどとの提携で、比較的交通至便なエリアを拠点にできるメリットがありました。ここは迷わず思い出のランドゥングブリュッケン(Landungsbrücken)周辺にしました。なんだか地元に戻ってきた感じです。インスティトゥートまでUバーン3号線で1本なので、これも気に入りました。試験に合格したうえで、そのまま次のレベルへと進むことにしたのでした。

     

    ある程度のドイツ語の会話力は身に着けた気になり、アンネマリーに電話してみようと思ったのは、1ヶ月くらい経過してからでした。ところが、電話番号を記入していたノートをなくしたようで、それはできませんでした。何とも情けない話です。
    そんなある日、内アルスター湖南岸のJungfernstiegを歩いていたときのことです。あ、そうそう、この「Jungfernstieg」ですが、「Jungfern」と「stieg」の二つの語句から成り立っています。「Jungfern」は「乙女たち」という意味です。この通りの由来は、18世紀頃に、乙女たち(未婚の女性たち)が男性を探すために散歩した通りだといわれています。本当かどうか知りませんが、現在では高級ブティックなどが立ち並ぶ、少しハイソな雰囲気のある場所です。自分にとっては場違いな場所ですが、内アルスター湖周辺は東京で言えば銀座のような場所でもあり、散策するには最適です。そこで偶然、メラニー(Melanie)と会いました。3人組のリーダー格の女性で、当時は30歳を過ぎていたと思います。

     

     

    自分がハンブルクを離れている間に、彼女は結婚し、ハンブルク近郊のエルムスホルン(Elmshorn)に住んでいるとのことでした。今でも日系金融機関に勤めているとのことでした。話はアンネマリーの近況になり、彼女は銀行を辞め、シャンツェン通り(Schanzenstraße)沿いの店舗で働いているとのことでした。会いにいってあげたら、喜ぶよ、という言葉を受けて、あまり縁のない街のシャンツェンに行ってみることにしました。

     

    シャンツェンといえば、ハンブルクで一番おしゃれに生まれ変わった街といえます。旧市街からは北西に位置し、最寄り駅はSバーン、Uバーンのシュテルンシャンツェ(Sternschanze)駅になります。かつて、この周辺は利便性が良い割に家賃が安かったことから、若い世代の人々やアーティストが多く住むようになりました。それは独自の発展を生み、旅行者にも人気のサブカルチャーの発信地となりました。店舗も多く、しかも大手資本のチェーン店はほとんどなく、個人運営の個性的なショップやカフェなどが点在する街になりました。
    そのまま向かうことにしました。

     

  • ハンブルク 3(Erinnerungen an Hamburg 3)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第3回です。

     

     

    ハンブルクの歓楽街は「世界で一番罪深い1マイル」といわれるレーパーバーン(Reeperbahn)です。「レーパー(Reeper)」は、低地ドイツ語の「ロープ」由来で、港湾都市ハンブルクで、かつては船用のロープを製造する地域だったといわれています。ビートルズがまだ無名だった時代に、このレーパーバーンが活動の中心地だったことでも知られています。そんなレーパーバーンですが、新宿の歌舞伎町に行く気分で、初めてこの街に足を踏み入れました。やはりここは特殊な衝撃を与えてくれる街でした。

     

    ハンザ同盟都市のハンブルクはドイツを代表する港湾都市で、世界中からここの港に船が入港してきました。長い航海を経て港へ帰還した船員は、ハンブルクに無事に上陸すると、ひとときの快楽を求めて歓楽街へと駆け込みました。そのため、飲食店だけでなく、あらゆる種類の風俗産業が発展していきました。ヨーロッパだけでなく、新大陸、アフリカ、中東など、世界中を旅した船員たちのために、合法的なものに限らず、非合法な店舗まで軒を連なるようになりました。さらに民族の積壺のように人々が集まってきたことで、レーパーバーンは人種や民族、宗教などの垣根が低く、誰でも受け入れてきたのです。ここは異邦人のいない街なのです。

     

    そのような意味で、あらゆるものを許容する文化があり、それがドイツ的でもあり、逆にもっともドイツ文化から遠い場所ともいえます。20世紀のヒトラー政権にとっては、ドイツ民族の純化を唱えていましたから、当然ながらこの街は目の敵にされました。異民族による家族的な街だったレーパーバーンに、ナチスは移民に対する取り締まりを強化しました。風俗産業も厳しく締め付けを行いました。第二次世界大戦が終わるとレーパーバーンは、街を立て直すことになりました。自由を取り戻すことになり、風俗産業も蘇りました。

     

    さて、樹木に囲まれたビスマルク記念碑から、ネオンの輝く方向へと進みましたが、この位置関係からすると、日本では歌舞伎町と新宿御苑のような感じかもしれません。ブダペスター通りに出てすぐ左手はミラートンプラッツ、ここで左に入るとレーパーバーンです。
    すぐキャッツの劇団を目にしました。向かい側はカジノです。歌舞伎町と決定的に異なるのは、レーパーバーンがそれなりの規模の道路なので、あまりゴミゴミとした印象がない点です。しかし、路地を入っていくとそこは完全な異世界になります。

     

    街頭に立つ若い娼婦も増えてきました。よく声をかけてきますが、ドイツ語とは限らず英語の場合もあります。ドイツ人だけでなく、トルコ人などのアラブ系やアジア系、中には黒人もいました。また、今ではドイツの主要都市では珍しくないエロスセンターもあります。これはレーパーバーンが最初の施設でした。これにも歴史があって、1960年代後半にハンブルク市議会の承認によって誕生したものです。
    市民の税金で建物を用意し、管理も市が行うというのが他に例のないことでした。その誕生理由は、売春行為を必要悪として捉えることにあり、根絶する事が不可能である以上、娼婦の安全と福祉という観点から行政で管理できる施設をつくったというものだったのです。これでは行政による管理売春ではないか、と思われるかもしれません。しかし実際には行政は場を提供するだけで、個々の部屋の賃貸や営業行為については娼婦の責任で行うということになっているのです。一方客側は、入場料も部屋代も不要になっています。

     

    もうひとつ、ハンブルクで忘れてならないのは「飾り窓」です。
    小さな通りにあり、この小さな通りに入り口には警官が常駐しています。ここで、18歳未満の人と女性が立ち入らないようにチェックしているのです。ここまで管理されているのがハンブルクで、オランダのアムステルダムの「飾り窓」のように性別年齢を問わず自由に通行できるのとは大きく異なります。

     

     

    ここでも様々な思い出があります。自称カメラマン氏や友人のオーストラリア人などは、連日、ここで遊んでいました。さすがにそこまで付き合えない身としては、外でビールを飲みながら、様々な人種の人と歓談していました。

     

  • ハンブルク 2(Erinnerungen an Hamburg 2)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ハンブルク中央駅に降り立つと、とりあえず今日の宿に行くことにしました。チェックインには早い時間ですが、荷物は預かってくれるので、珍しく午前中から宿泊地へと向かうことになりました。ハンブルク在住の自称カメラマンがお勧めするユースホステルです。親切にも連れて行ってくれるとのことで、好意に甘えることにしました。ハンブルクの地下鉄で移動することになりましたが、ハンブルク中央駅の場合は、地下鉄の駅は中央駅の北口駅と南口駅があります。乗車するのはUバーン3号線なので、南口の駅になります。

     

    南口駅から5駅でランドゥングブリュッケン(Landungsbrücken)駅へ移動しました。ここはノイシュタット(Neustadt)地域で港にも近い場所です。埠頭だけでなくレストランやカフェもあります。ここから丘を登った先にユースホステルはあります。ユーゲントヘアベルゲ・ハンブルク・アウフ・デム・シュティントファンというホステルで、港を一望できます。港としては巨大なのがよくわかりますが、海ではなくエルベ川の港というのが驚きでした。日本では河川の巨大な港というのは想像できないものだったので、かなり感動しました。思えば、ここで見た光景こそがハンブルクに魅入られる契機だったかもしれません。

     

     

    ホステルはやはりチェックインできる時間には早かったため、荷物を預かってもらい、早速周辺の散策に出ました。カメラマンと一緒に食事をしてから別れ、一人で埠頭の周辺を歩きました。潮風のない港は穏やかでした。ただこのときはホステルの裏側には行かず、ただ緑が広がっているのを確認しただけでした。
    この樹木に囲まれた地域に足を踏み入れたのは夜になってからでした。木々が生い茂る場所は、外灯の光も届かず、森の中を歩いている気分でした。少し開けた場所に行くと、何者かの像があるのに気づきます。暗いのでよくわかりませんが、あとで調べるとビスマルクでした。彼はドイツ統一の中心人物で、「鉄血宰相(Eiserne Kanzler)」の異名を持っています。正式にはオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen)といい、彼がいなければ現在のドイツはなかったともいえます。

     

    このビスマルク記念碑を抜けると、「世界で一番罪深い1マイル」といわれるレーパーバーンに至りました。

     

     

  • ハンブルク 1(Erinnerungen an Hamburg 1)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第1回です。

     

     

    ドイツでのホームグラウンドといえば、何といってもハンブルク(Hamburg)です。
    初めて訪れたのは、ハンブルク在住のカメラマン、ソ連で知り合ったオーストラリア人と一緒でした。この3人でコペンハーゲンから夜行列車でハンブルク中央駅に降り立ちました。一人で見知らぬ都市に行くのが当たり前の状態でしたが、珍しくコペンハーゲンで意気投合して、一緒にハンブルクへ向かうことになったのでした。これだけでも他のドイツの都市とは異質なことです。

     

    ハンブルクの正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg)」で、市単独で連邦州を構成しています。ドイツでは同じようなパターンでは首都のベルリンが特別市で、やはり単独で州となっています。 人口は約184万人で、ドイツではベルリンに次ぐ第二の規模です。しかし、当時はハンブルクについての詳細なデータはなく、単なるドイツの入り口でしかありませんでした。それが、その後の人生に大きな影響を与える都市になるとは思ってもいませんでした。

     

    特急列車がハンブルク市内に入って最初に停車した駅はハールブルク駅(Bahnhof Hamburg-Harburg)で、長距離列車だけでなく地下にはSバーンのS3号線、S31号線も乗り入れています。市内の中心部とはエルベ川を挟んだ対岸に位置し、どちらかといえば郊外の地区ともいえます。そのため、自然と融合した街並みといえます。ハンブルク工科大学や考古学博物館などもあるエリアです。街から外れれば果樹園もあります。

     

    ようやく眼も覚めてきたときに停車し、再び動きだすとすぐにエルベ川を渡りました。複数の運河を超え、運河に沿って左に大きく曲がると次は中央駅です。アルトナ行きなので、終点の手前の中央駅で下車します。

     

     

    ヨーロッパらしい駅とはいえないのがハンブルク中央駅です。でも逆に日本人には馴染みやすいといえるかもしれません。終着駅ではないので、日本の一般的な駅と同じようにスイッチバックをしないからです。また、一日の平均利用者数は約55万人を誇り、ドイツでは最大の乗降客数です。新宿や池袋に慣れている身としては、この数を見ても親しみが持てます。ただ駅舎の外観は日本と異なり、ヨーロッパらしい雰囲気があります。第二次世界大戦で激しい損傷を受け、戦後に復興されたものです。

     

    ハンブルクは思い出が多く、最初に滞在した場所、生活していた住居、格安でとめていた駐車場、そして何より人間関係と夜の遊び。久しぶりに思い出をこれから紐解いてみようかと思います。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)3

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第3回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)のブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)で見かけた彼女は、フォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)で知り合ったときより、かなり地味な印象でした。たまたまビールのお代わりを頼もうと、店員の姿を確認していたときに、その姿が視界に入りました。思わず声をかけました。しかし、その一瞬後には後悔しました。一人で来ているとは限らす、むしろ誰かと来店している可能性が高いといえます。もしデート中だったら、とんでもない邪魔だと思ったわけです。

     

    彼女が視線をあわせ、一瞬だけ訝しい表情をしたあと、すぐに笑顔になりました。思い出すのに少し時間を要したようです。わざわざ席を立ち、こちらへと近づいてくれました。久しぶり、というありきたりな挨拶をしたものの、彼女はこちらの名前までは思い出せないようでした。日本人の名前など、なじみがないのが当然なので、別段、ショックではありませんでした。覚えていてくれただけでうれしいものです。
    聞けば、同僚と食事をしているようでした。一度、そのテーブルに戻り、二言三言声をかけたあと、ビールのジョッキを持って、こちらのテーブルに移ってきてくれました。

     

    3年近く前、しかも一度しか会っていない人ですが、お互いに強烈なイメージだったのか、純粋に再会を喜ぶことができました。ドイツの再統一直前に再び会えたことになりますが、お互いのフォイヒトヴァンゲン以降の話に花が咲きました。
    彼女はブレーメン芸術大学を出た後、ニュルンベルク美術館(Kunsthalle Nürnberg)に関連する職場で働いているとのことでした。この美術館は1967年に、市内中心部に設立された市立美術館です。行ったことはありませんが、芸術大学出身者が働くことは容易に想像できます。ここに通勤するなら、彼女の出身地のアンスバッハ(Ansbach)からでも無理のない距離といえます。しかし、彼女はニュルンベルクの隣町のフュルト(Fürth)で一人暮らしをしているとのことでした。フュルトはカイザーブルク城の北北西の位置にあり、ニュルンベルクと同一都市圏を形成しています。環状線の「4R」からフュルト通りの8号線に出れば、クルマでも数十分です。確か記憶によればモスクもある街だったはずです。後で調べてみると正しくて、1977年以降にできたモスクで、市内のシュヴァーバッハー通りにあります。トルコ協会による運営されているので、トルコ人の多いドイツならではといえます。

     

     

    今思い出しても、この日の再会は楽しいものでした。
    利害関係の全くなく、お互いの人脈も交差しない相手なので、異国の地で単純に楽しめる会話と、大好きなニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト(Nürnberger Rostbratwurst)にビールです。

     

    この何でもない再会の場所がニュルンベルクだったことで、この街の思い出は、カイザーブルク城などの観光要素より強いものになりました。
    よくよく考えると、バイエルン生まれの彼女でしたが、訛りがあまりなく、特に「s」+「母音」の発音も濁っていました。これが心地よいドイツ語に聞こえたことで、より好印象を持ったかもしれません。日本語のように自由に使いこなせるレベルのドイツ語であれば、また違っていたかもしれませんが、その当時は、この地方でそのようなドイツ語を聞くだけでうれしかったきもします。何とも単純なものです。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)の思い出は、アンスバッハ(Ansbach)やフォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)との関連が強く、この二つの都市との個人的な結びつきがなければ語れないといえます。
    特にフォイヒトヴァンゲンは常宿があり、行きつけのレストランもある都市でした。ここで知り合ったオランダ人からニュルンベルクのユースホステルは最高だよ、と教えてもらったのでした。もうひとつ、 アンスバッハ出身の女性ともここで知り合い、ニュルンベルクで一緒に遊んだことも思いだされます。

     

    ブレーメン芸術大学でAusbildung(職業訓練)をしていた彼女は、夏季休暇を利用して、国内を旅行しながら故郷のアンスバッハへ戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは隣町ともいえるような距離にある都市ですが、ここで友達と合流したのだとか。話した感じでは彼氏のような印象を持ちましたが、突っ込んだ話はしていないので分かりません。
    彼女との出会いは、ガストホフでのことでした。マスターが日本人の新しい常連客ができた、というようなことを他の常連客に話してくれたことで、何となく注目されるようになりました。マスターは初老の男性で、普段は無口な印象でしたが、そのときは陽気で、地元の人たちに紹介してくれたのでした。確かに田舎町での東洋人は華僑を除けば珍しい存在ともいえるのか、酔った地元の人たちから話しかけられるようになりました。
    実はそのときの客に彼女がいたのでした。翌日に地元のアンスバッハへ帰る予定だったようです。

     

    一方、自分はというと、スイスのバーゼルからハンブルクに戻る途中でした。フォイヒトヴァンゲンは初めてドイツを旅したときから気に入っている町で、途中の宿泊地としては、わざわざ迂回してでもここを選択したいほどでした。戦後のドイツ軍の駐屯地にもなったことで、よそ者がいても違和感のない点も気に入っていました。
    実はこのときは、彼女と連絡先を交換した程度で、それも社交辞令の延長のようでした。お互いに美術系の大学にいたことで、酒の肴に共通の話題があっただけで、それ以上のものではなかったといえます。

     

    そんな彼女と再会したのがニュルンベルクでした。ウィーンから戻り、ドイツ再統一をどこで迎えようかと考えている途中で、三度目のニュルンベルクへの立ち寄ったときでした。本当はベルリンに行きたかったのですが、当時ハンブルクからベルリンへ向かうアウトバーンが慢性的に渋滞していて、いつも困っていたことを経験しているせいか、どうしても躊躇われていたのでした。

     

    カイザーブルク城の隣の宿にチェックインし、クルマをコインパーキングに駐車すると、丘を下り、ニュルンベルクの街中へと向かいました。夜のニュルンベルクは決して治安が良いとはいえません。もちろんドイツの都市なので、他の欧州諸国の都市と比べればはるかに安全ですが、都市の規模からすると悪い印象です。ハンブルクのザンクトパウリやフランクフルトの中央駅近くに比べるほどではないですが、特に夜は怪しい人がそれなりに目立つ街であるのは事実です。
    お目当てはニュルンベルクソーセージでした。特に「ブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)」という店は有名です。ドイツのソーセージというと太いものをイメージするでしょうが、ニュルンベルクのはミニサイズで、「ニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト Nürnberger Rostbratwurst」という小指ほどのサイズの焼きソーセージが定番です。これは原産地名称保護制度で認められたものだけが名乗ることができるものです。クルマで回避してきた中央広場(Hauptmarkt)はクリスマスマーケットが開催されることでも有名ですが、ここにある聖ゼバルドス教会の隣に店があります。山小屋風の店舗です。煙突があり、ソーセージを焼いた煙が出ています。

     

    ソーセージと言えばビールですが、ここではワインも飲めます。フランケン地方産のワインです。バイエルン州の北端にある地方で、ブドウ畑の総面積は6.100ヘクタールにも及び、辛口ワインで知られます。

     

     

    喧騒の店内ですが、わずかに空いた席があったので、そこに座りました。ビールとニュルンベルガー・ローストブラートヴルストを堪能していると、懐かしい彼女の姿を見かけたのでした。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)1

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)については、以前に「カイザーブルクでワイン」で少しだけご紹介したことがあります。個人的には3回、訪問したことがある都市です。バイエルン州のドイツ語は北部訛りに慣れた人間には、少し苦手意識がありましたが、ウィーンから戻ると、そこまでの苦手意識はなくなりました。多少はウィーンの言葉が耳に慣れた影響で、バイエルンの方言も聞きやすくなったのかもしれません。もっとも、日本語のように話すレベルではありませんが。

     

    ニュルンベルクは旧市街であるミッテ(Mitte)を囲むように、環状道路があり、4号線も市内は環状線になっているので、クルマで訪れるにはかなり機能的な街になっています。東京在住者であれば、東京のミニチュア版の構造になっているのが分かると思います。
    3回目に訪れたときは、郊外のアウトバーン3号線から14号線に入って市内へと入りました。オストシュタット(Oststadt)から4Rの環状線に入らず、そのまま直進してズルスバッハ通りでバイロイター通りまで行きました。ヴェールダー湖(Wöhrder See)の北側を西に走ったことになります。

     

    市内にはペグニッツ川(Pegnitz)が流れていて、旧市街では運河のようになっています。川の両岸に街が広がり、ハンザ都市のハンブルクとは雰囲気が異なるものの、同じように水と都市の賑やかさが際立ちます。
    中心のマルクト広場(Hauptmarkt)周辺はクルマで行くと厄介なので、そこを避けるようにして北へと向かいました。カイザーブルク城へ向かったのでした。かつて神聖ローマ帝国最大の都市でもあったのは、ここに多くの皇帝が居住したことによります。そういう意味では神聖ローマ帝国の首都だった時期が長いともいえますが、この帝国には首都機能がないため、あくまで皇帝の居住地として人気だった、ということになるでしょう。

     

    初めてニュルンベルクに来たのは、確か21歳の頃だったと記憶しています。そのときは、単純にカイザーブルク城を見学することが目的でした。ロマンティック街道沿いの町のように、小さな都市だとイメージしていたものの、これほど賑やかな大きな都市であることに驚きでした。もちろんハンブルクやミュンヘンに比べれば、はるかに小さな都市ではありますが、それでもイメージとのギャップは大きかったのが強烈に残っていました。そのためか、クルマで訪れる時は道路の選択がポイントでした。中心部は大都市のような入り組んだ構造で、歩行者も多いことから、賑やかな場所を避けることが重要でした。
    ナビのない時代だったので、それでも途中、少しは迷いつつ、カイザーブルク城の隣に位置する宿泊施設へと着くことができました。

     

    DJH Jugendherberge Nurnbergに宿泊しました。ここはユースホステルで、4人部屋でした。国籍の異なる異文化の人と同室なのは慣れているので気になることもなく、快適な滞在です。何より、城のある場所で、高台ですから、窓からは旧市街の景色が一望できます。宿泊費用も安いので、訪問した3回とも、宿泊はここにしています。
    ただ欠点は駐車場です。目の前にはコインパーキングがありますが、当然ながら無料ではありません。現在はどうか知りませんが、当時は夜間は無料だったので、日中はクルマで移動し、夜になってここに駐車するというのが、ニュルンベルクの行動パータンでした。

     

    ここでの思い出は数多くあり、次回は都市を紹介しながら、記していきましょう。

     

  • イルクーツク(Иркутск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイルクーツク(Иркутск)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    以前にバイカル湖を取り上げたことがありました。(「シベリアの真珠・シベリアのパリ」)そのバイカル湖の西岸にある都市がイルクーツク(Иркутск)です。
    ここは滞在したことはしたのですが、ソ連時代のインツーリスト(ソ連国営旅行社)のミスで、夜中に到着して翌日の早朝出発のためにホテルに宿泊しただけでした。従って、イルクーツクの街については、駅からホテルまでの移動区間とホテルだけしか知りません。しかも深夜と早朝なので、街の様子も目に入ってしませんでした。

     

    シベリア鉄道での旅だったため、深夜に到着して、ホテルにチェックインし、翌日は1日市内観光をして、下車した同じ時刻のシベリア鉄道に乗車する予定でした。翌日の同じ時間の鉄道ですから、市内には24時間の滞在をする予定だったのです。それが深夜着で早朝出発になったわけですから、イルクーツクの滞在はほぼホテル内、その内訳は、ホテルのバーと宿泊した部屋だけでした。何とも悔しい思い出です。

     

    では、このイルクーツクという都市は、どんな都市だったのでしょうか。
    もともとは毛皮をとるための宿営地でした。そのため、毛皮の集積地として発展し、清や満州、朝鮮などとの交易が盛んになりました。その一方で囚人や政治犯の流刑地にもなっていました。流刑になった人の中には、1825年のデカブリストの乱(Восстание декабристов)で反乱を起こした貴族の将校たちも含まれていました。ロシアで初めて皇帝専制(ツァーリズム)を打破するための反乱でしたから、いわばその後のロシア革命にも繋がる部分があり、その役割を担った人たちがイルクーツクに流されてきたので、それも感慨深い場所といえます。流刑者はロシア人だけとは限らず、反ロシアのポーランド人なども含まれていました。

     

     

    日本との関係でいえば、1701年に伝兵衛が初めて滞在し、回船の船頭だった大黒屋光太夫も滞在しています。伝兵衛については、1753年にロシア最古の日本語学校で教鞭をとっていました。
    さらに第二次世界大戦後は、イルクーツクも日本人のシベリア抑留地のひとつとなっていました。

     

    日本からシベリア鉄道でヨーロッパに行くのには、丁度よいい中間地点に相当します。長く列車に揺られいた状態から離れ、途中下車して、シベリアの都市を1日散策するのは最適なプランと言えます。
    ここでの思い出はホテルしかないのが、今でも悔やまれます。

     

  • ネルトリンゲン(Nördlingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はネルトリンゲン(Nördlingen)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    ロマンティック街道といえば、ワイン産地として知られるフランケンからアルプスのぶもとまで伸びる街道で、ほぼ南北に走っています。具体的にはヴュルツブルクからフュッセンまでの約400㎞に及びます。
    しかし、街道として1本の道路が走ってるわけではなく、観光名所を地図の上でつなげたものです。観光順路のような役割で、「観光街道」「休暇街道」(Ferienstraße)となっています。
    この街道沿いにあるネルトリンゲン(Nördlingen)には、ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)方面から南下して訪れた思い出があります。

     

    今ではロマンティック街道沿いに観光都市として知られますが、歴史的には三十年戦争の影響が大きいものでした。それがネルトリンゲン包囲戦であり、ネルトリンゲンの戦いでした。これでスウェーデン・プロテスタント軍はハプスブルク軍に敗れたのでした。
    ネルトリンゲンは高額の賠償金を支払うことになりました。ただこの支払いをすることで、略奪行為からは免れることにも繋がりました。その一方で二度の戦闘により、住民は大きく減少することにもなりました。飢餓や病気が原因でした。
    その後にヘーヒシュタットの戦いが起こりました。これはスペイン継承戦争でしたが、これでも都市としては打撃を受けました。
    最終的に、ネルトリンゲンは戦争による交易の停滞期間が続くことになりました。その代わりに中世の風景がそのまま現代まで残ることにもなりました。

     

    まだアウトバーン7号線が途切れている時期で、25号線に沿っての移動となりましたが、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)から南側へと向かうルートは、なかなか快適だったことを覚えています。
    ネルトリンゲン中心部へは、25号線から29号線に入って南下し、東南方面にのびるロマンティック通りへと入ります。エーガー川の手前で、右折し、その先を左折してインネラーリングに入りました。ここは完全ではないもののネルトリンゲンを半分以上周回できる通りになります。その内側が中世からの市壁です。1327年当時の姿を残す市壁は、5つの楼門、11の塔、2つの堡塁があり、しかも市壁の内側の通路も完全に保存されています。

     

    西のバルディンガー門から市壁の内側へと入りました。途端にタイムスリップしたかのように中世の街並みが広がります。
    街の中心部にあるマルクト広場は、中世には毎年見本市が開催されたようです。マルクト広場とセットになっているのは、市庁舎と聖ゲオルク教会です。この教会は、1427年から1505年に建造されたもので、ゴシック教会です。

     

    初めて訪れた頃は、まだドイツ語も十分に活用できていなかったので、この地域の言語についてはよくわかりませんでした。しかし2度目の際は、ここまでシュヴァーベン語(Schwäbisch)が使われていることに驚きました。アレマン語に属するもので、バイエルン州やオーストリアのチロルの言葉にイメージが強かったので、おそらく北限地域なのだろうと思った次第です。
    ちなみにこのシュヴァーベン語ですが、現在完了形の過去分詞が標準ドイツ語と異なります。

     

    Er hat am Fenster gesessen. → Er ist am Fenschter gesesse.
    ※ 参照:Wikipedia

     

    まず、ドイツ語の現在完了形は基本的にはhaben支配ですが、標準ドイツ語でも、いくつかは sein支配になります。4格をとる他動詞は全てhaben支配ですが、自動詞の一部がsein支配となります。
    それが上記の場合ですが、gesessen が gesesse となるのはともかく、この不定形が「sitzen」です。「座っている」という動詞ですが、使い方はいろいろあって、例えば「am/hinter dem Steuer sitzen」などは「運転する」となったり、「tief sitzend」は「根絶できない」や、「特有な」などとなります。
    標準ドイツ語ではhaben支配ですが、シュヴァーベン語ではsein支配となります。

     

     

    滞在時間の短い街でしたが、中世の面影を残すネルトリンゲンは、お勧めの場所と言えます。

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