今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ノイシュヴァンシュタイン城

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)について勝手に語ります。

     

     

    以前に城としてはホーエンツォレルン城を取り上げたことがありますが、今回はドイツで最も有名な城であるノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)の思い出を語ります。
    カリフォルニアにあるオリジナルのディズニーランドも香港ディズニーランドも、眠れる森の美女の城のモデルになっています。おとぎ話に登場する城そのものです。ちなみにディズニーランド・パリでは、ノイシュヴァンシュタイン城はモデルになっていません。

     

    この城はバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方オストアルゴイ郡シュヴァンガウ町ホーエンシュヴァンガウ地区という場所にありますが、ここへ向かうための拠点となる町はフュッセン(Füssen)になります。実はこの地域、バイエルン州の最南西部で、話されている言語はシュヴァーベン語です。アレマン語系言語で、標準ドイツ語とは異なります。そのため、 アレマン語系のノイシュヴァンシュタイン城の表記では「Schloss Nuischwanschtui」、フュッセンも「Füssen」ではなく「Fiesse」になります。
    それでも日本人観光客にも人気のロマンティック街道の終点を担っているため、標準ドイツ語は通じます。地元の人の会話が全く聞き取れないだけです。

     

    城の歴史はそれほど古いわけではなく、建築されたのは19世紀です。
    バイエルン王ルートヴィヒ2世によるもので、近隣にはホーエンシュヴァンガウ城もあります。こちらはルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごした城です。
    ルートヴィヒ2世は、中世への憧れがあり、それを具現化するための城を欲していました。そのため、城のデザインは建築家ではなく、宮廷劇場の舞台舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクでした。いわば見た目こそが重要ということもあり、見た目は伝統的建築方式ですが、実際は鉄骨組みのコンクリートとモルタル製でつくられました。
    従ってドイツの伝統的な城館に必需であるものも省略されました。例えば小聖堂などは必ずありますが、ノイシュヴァンシュタイン城にはありません。
    ホーエンツォレルン城の重厚さを目にしたあとで、この城を訪れると、やはりディズニーランド的と感じるのは、そのような見た目重視の印象が強く出ているからかもしれません。

     

    この城へはクルマを運転して行きました。
    フュッセンからパーク通りで郊外に出て、そのまま行き着いたので、カーナビのない時代でも容易でした。通行量の少ない寂しい山道を通らなければたどり着かなかったホーエンツォレルン城とは大違いです。
    しかも駐車場の係員が案内して、停車する場所まで決められてしまいました。日本の観光地と変わりません。駐車料金もここのほうが高かったです。
    城の内部は十数人のグループに入れられ、ガイドが案内してまわるようになっていました。団体旅行であれば、そのまま団体にガイドがつくようでした。一人で気ままに城を散策したかったのですが、それは無理だと知り、仕方なくドイツ語ガイドの列に並びました。ところが、係員がやってきて、英語ガイドに連れていかれ、何が何だか分からないまま城の内部へと入りました。
    英語ガイドなので、何を説明しているか分からず、かなり退屈してしまい、実は城の内部の記憶はあまり残っていません。ホーエンツォレルン城は大学生のドイツ語ガイドで、かなり記憶に残っているので、何とも残念でした。

     

     

  • コペンハーゲン(København)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコペンハーゲン(København)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    「北欧のパリ」ともいわれるコペンハーゲン(København/Kopenhagen)には、ストックホルム(Stockholm)から夜行列車で到着しました。現在では行われていませんが、当時は列車ごとフェリーに乗り、海を渡った旅でした。今では橋ができたことで、このような楽しみはなくなってしまいました。

     

    ストックホルムでもウプサラ(Uppsala)でも、ホテルには宿泊せず、民家に滞在していましたが、コペンハーゲンでは一人の部屋で気を使わないで滞在しようと考えていました。しかし、さすが北欧、とにかく物価が高いのです。どうしようか、と迷いましたが、すぐに考えるのを放棄しました。まずは市内を散策することにしたのです。
    コペンハーゲンとえばチボリ公園(Tivoli)で、駅からも近いのですが、そこは後回しにして市街地へと向かいました。ちなみにチボリ公園は世界で3番目に歴史のあるテーマパークです。
    歴史的な景観を誇る市庁舎、国立博物館など、市街地そのものはコンパクトにまとまっているので、早朝に到着した旅行者には、気軽に観光できます。

     

    チボリ公園と並ぶ観光名所といえば、人魚姫の像(Den lille havfrue)です。
    ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフにしたブロンズ像です。そして「世界三大がっかり」の一つといわれています。ちなみにあと二つは、「シドニーのオペラハウス」、「シンガポールのマーライオン」です。「ブリュッセルの小便小僧」を入れて、オペラハウスを抜かすこともあるようです。
    実際、わざわざ見に行く価値があるかというと、確かに疑問符です。コペンハーゲン滞在のネタという以上の価値はないかもしれません。
    それでも歴史はあって、『人魚姫』のバレエに感銘を受けたカール・ヤコブセンが、1909年に彫刻家エドヴァルド・エリクセンに人魚姫の像の制作を要請したことから始まります。彼はカールスバーグ醸造所の創立者の息子でした。正式に現在の場所に設置され、公開されたのは1913年8月23日でした。
    人魚姫のモデルになったのは、頭部がエレン・プリースといわれています。ただし、これは本当かどうか分かっていません、彼女は当時デンマーク王立劇場のプリマドンナでしたが、裸体モデルを拒否したともいわれています。結局体の部分は彫刻家エドヴァルドの妻エリーネ・エリクセンだといわれています。

     

    それほど派手な都市ではありませんが、コペンハーゲンはソ連、フィンランド、スウェーデンと渡り歩いてきた人間には、それなりの華やかさを感じました。「北欧のパリ」といわるのも頷けます。
    物価が高いので、長期間滞在する場所ではない気がします。それでも街中でビールを飲み、今夜の宿をどうするか、改めて考えることにしました。
    実はこの酒場でモスクワのホテルで一緒だったオーストラリア人と再会し、彼の知り合いでハンブルク在住の人を紹介されました。英語での会話なので、何だかよく分かりませんでしたが、彼らの宿泊するユースホステルに行き、そこで宿泊することのなりました。
    後日、ハンブルクが生活拠点になったのは、このときに紹介してもらった人のおかげでした。コペンハーゲンの思い出は、ハンブルク生活の入り口と直結していたのでした。

     

  • ナホトカ(Находка)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナホトカ(Находка)について勝手に語ります。

     

     

    2020年の夏は、コロナ禍の猛暑となりました。未だかつて経験したことのない夏になっています。海外旅行に行って、その土地のワインを飲むというのも、今年は無理があります。
    そこで、今回は過去に訪れたことのある思い出の地の現在を知り、快適な冷房の効いた部屋でワインを飲みたいと思います。舞台はナホトカ(Находка)です。

     

    日本から近いロシアの都市で、日本海の北西部にあります。ナホトカ湾に面していて、かつてはウラジオストクが外国人の立入禁止都市だったため、ここに横浜からの航路がありました。清朝時代には灠溝崴でした。 約16万人の人口です。

     

    この場所はロシア人ではなく、イギリス人がゴーネット湾と呼んでいました。
    ナホトカと命名したのはロシアの東シベリア提督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーでした。湾の名称についてのもので、ロシア語で「発見」・「掘り出し物」の意味でした。
    集落の始まりは1865年からで、サハリンで重労働を強いられたのちに釈放された人たちでした。まず、アレクサンドロフカ集落を設け、次にアムール川からナホトカへ農民の26人が移住し、ウラジミフカ集落を設けました。
    これがナホトカの都市の始まりでした。
    1868年にはフィンランドからの移住があったり、1977年にはウクライナのチェルニゴフ県から女性移住者たちが来たりしました。

     

    ソ連の時代になると、1950年にナホトカ労働集落が市に格上げになり、初めて大通りが作られるようになりました。これにより、ナホトカ大通り、中央通り(現在のガガーリン通り)、レールモントフ通り、そしてクリィロフ通りができ、その後モスクワ通りも作られましたが、この通りは現在のレーニン通りとなりました。
    1961年には京都府舞鶴市と姉妹都市関係を結びました。その後にも北海道小樽市、福井県敦賀市、アメリカのカリフォルニア州のオークランド、ワシントン州ベリンハムとも姉妹都市となりました。
    そして1965年が大きな変動がありました。ナホトカに輸出入事務所「ダリイントログ」が開設されたのです。これは、ソ連の極東と、日本・オーストラリア・北朝鮮との貿易管理を行うことから、ソ連極東貿易の拠点となったからです。
    本来であれば、この地位にふさわしい都市としてウラジオストクがありますが、太平洋艦隊の軍港都市になっていたため、外国人立入禁止にしたことで、その地位をナホトカが担ったことになりました。

     

    このような状況の中で、横浜から船に乗り、ナホトカへと向かったのでした。
    シベリア鉄道の起点はウラジオストクですが、外国人はいけないので、ナホトカから支線の特別列車でハバロフスクへ行き、そこで乗り換えてモスクワへ向かうしかなかったのです。
    ソ連時代のナホトカの港に降り立ち、そこからホテルで宿泊したのち、駅へと行きました。街の印象は、とても地味だったという感じです。社会主義国には商業用の看板はありません。ネオンもありませんでした。暗い街並みという印象が強く、それ以外の詳細な部分は思い出せないほどです。
    そして自分にとって、初めて訪れた外国こそがソ連のナホトカだったわけです。それにも関わらず印象が薄いのは、単に月日が経過したというだけの理由ではありません。

     

    ヨーロッパでは東西ドイツの統一がなされた1990年には、極東でも大きな変化がありました。
    ゴルバチョフ政権により、ウラジオストクを開放したのです。これで本来の都市の規模から、ウラジオストクは軍港だけでなく商港にもなり、ナホトカの商港としての重要性は低下することになりました。それでも、ナホトカは自由経済地域に指定されました。ただ、この政策は失敗続きで、2006年にはこの政令が失効し、自由経済地域は終焉を迎えました。

     

     

    日本からの観光という面でも、ウラジオストクには空港があり、ビザも緩和されていることから、あえてナホトカを選択する理由がないかもしれません。
    それでも思い出の都市なので、死ぬまでに一度は再び行きたい気もします。そんな思いを抱きながら今宵はワインで乾杯!

     

  • アンカレッジ(Anchorage)経由

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアンカレッジ(Anchorage)経由の思い出を勝手に語ります。

     

     

    アンカレッジ(Anchorage)はアメリカを代表する港湾都市の一つであり、アラスカの中心都市です。
    しかし、ある一定以上の年齢の日本人で、欧州などへの渡航経験がある人にはなじみの深い都市といえます。具体的には1991年以前にヨーロッパへ北回りルートで旅したことのある人です。この時代、ほとんどがアンカレッジ経由だったからです。

     

    経由していた空港はテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港(Ted Stevens Anchorage International Airport)です。かつて日本で唯一国際線を運航していたのが日本航空でしたが、その時代には、日本航空がこの空港にもっとも多く離発着していました。1960~1990年頃は、旅客便と貨物便を合わせて1日に十数機が寄航していました。
    それだけ頻繁に日本から寄港していた空港ですが、目的はすべて給油でした。乗客は給油の間、国際線ターミナル内で過ごしていました。滞在時間は1時間から2時間程度でした。
    そのため、空港内には日本人向けの免税店やレストランもあり、うどん屋もありました。日本語のできる従業員も多くいました。

     

    現在はアンカレッジを経由しなくても、ロシア上空を経由して直接ヨーロッパに行けるようになりました。そのため、アンカレッジ経由の便はなくなりました。
    かつての状況を知っている人間からすれば、何とも寂しい気もする反面、ヨーロッパへの飛行時間が大幅に短縮していることにうれしくもあります。

     

    初めてアンカレッジの空港に降り立ったのは、まだ1980年代の東西冷戦時代でした。大韓航空機撃墜事件の記憶もまだ新しいときでした。しかも乗ったのは、フランクフルト発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空でしたから、周囲からは危ないのでは、ともいわれたことが思い出です。
    大韓航空機撃墜事件は、1983年9月1日におきた事件で、大韓航空のボーイング747が、ソ連の領空を侵犯したことで、ソ連の戦闘機により撃墜された事件のことです。この事件では、乗員・乗客合わせて269人全員が死亡しました。まさにこの航路での事件でした。
    ちなみに、これとは別に大韓航空機爆破事件もあり、これは1987年11月29日の事件でした。偽造された日本国旅券を使った北朝鮮の工作員によるテロ事件でした。

     

    実をいうと、貧乏大学生だった頃は、アンカレッジ経由の北回りでヨーロッパに行けるというのは、ある意味で憧れでもありました。南回りのアジア系航空会社を使った格安航空券が主でしたから、JALやヨーロッパ系キャリアの航空会社の便は、敷居の高いものだったのです。
    北回りのアンカレッジ経由で、唯一チケットがとれるのが大韓航空でした。少し背伸びすると、アエロフロートという選択肢もありましたが、この場合はシベリア経由なおでアンカレッジとは無縁でした。
    そのような状態だったので、実際に経由した思い出より、アンカレッジ経由でヨーロッパを頻繁に行き来することへの憧憬が強かったといえます。

  • ケミ(Kemi)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケミ(Kemi)についての思い出を勝手に語ります。

     

     

    ケミ(Kemi)といっても、ほとんどの日本人は知らいなと思います。Wikipediaで調べてみても、日本語のサイトでは多くの情報は得られないでしょう。それほど知名度のないケミはフィンランドの都市です。ボスニア湾の港湾都市で、人口もわずかに2万人強という小さな都市です。
    ここにも思い出があります。21歳の夏でした。列車の乗り換えのために訪れました。

     

    シベリア鉄道を縦断してモスクワへ行き、そこから当時のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)へと北上しました。そこからヘルシンキを経て、ここへと来たわけです。実はこのルートを選択する人は珍しいといえます。シベリア鉄道でアジアからヨーロッパに来た人は、ヘルシンキから船でストックホルムへと行くのが王道といえます。わざわざ陸路で北極圏近くまで北上して、スウェーデン方面へ向かう人は物好きだけといえました。
    まさにその物好きだったわけです。

     

    ケミ周辺の大きな都市というとオウル(Oulu)ですが、鉄道では、そのオウルからケミへは支線という扱いになっています。その先にはロヴァニエミ (Rovaniemi) へと繋がります。ヘルシンキからは直通列車が走っているので、距離はともかく、不便という感じはしませんでした。そもそもシベリア鉄道での移動を経験した直後ということもあり、そのまま陸路を選びたかったという気持ちが強かったといえます。
    あまり刺激のなかったヘルシンキに別れを告げ、何も情報のないケミへと向かいましたが、この移動のことはあまり覚えていません。やはり刺激がなかったのかもしれません。

     

    この都市は中世にはすでに交易で栄えていました。主に毛皮や魚を中心とした交易の中心地でした。
    ロマノフ朝第12代ロシア皇帝だったアレクサンドル2世の時代だった1869年には、帝国令によって市の権利を与えられました。さらに工業化へと進み、この面からも重要な役割を果たしてきました。
    鉄道は1903年からでした。

     

     

    この街を訪れたのは7月の下旬でした。日本では梅雨が明けて、暑さが全開の時期です。
    ところが、駅に降り立つと、北風が強く、とんでもなく寒く感じました。それもそのはずで、日本では12月の気温だったのです。夏の恰好で来るべき場所ではありませんでした。ストーブに助けられ、身体を温めてから街を散策したのが印象的でした。そのせいか、街の印象より寒さの印象が強い場所でした。
    懐かしい思い出です。

     

  • テュービンゲン(Tübingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はテュービンゲン(Tübingen)の思い出を語ります。

     

     

    初めてドイツでクルマを運転したのは21歳のときだったと記憶しています。そのときは、若さだけの勢いで、ドイツの交通事情もよく分からずに運転していました。
    その後、ドイツを離れ、再びドイツに戻ったときには、少し慎重に運転するようになった気もします。
    ドイツで自由にクルマを乗り回していると、地方への移動ではすごく楽になります。特にホーエンツォレルン城などは、バスではなく、クルマでいったおかげで、かなり楽だった記憶があります。

     

    【参考ページ】
    ホーエンツォレルン城
    ホーエンツォレルン家( Haus Hohenzollern)

     

    そのホーエンツォレルン城に程近い都市にテュービンゲン(Tübingen)があります。ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州の中心部に位置する都市です。バーデン・ヴュルテンベルク州のワインについては、以前にご紹介しています。

     

    【参考ページ】
    バーデン=ヴュルテンベルク州のワイン

     

    テュービンゲンといえば、大学都市であり、街中は中世のままの雰囲気を残すことで知られています。
    大学の設立は1477年で、大学がこの町の中心となっています。そのため居住者の3分の1は大学関係者だといわれるほどです。
    キリスト教神学の研究では世界に名を知られた大学で、そのためドイツでは、キリスト教ルター派神学研究部門では中心地といえます。
    人口は9万人弱で、それほど大きな都市ではありません。

     

    シュトゥットガルトからアウトバーン81号線で向かいました。
    それほどの距離があるわけではありません。わずか30㎞程度です。そのためクルマの移動では短時間で、かなり快適に行くことができます。ただ、アウトバーンは、直線的にテュービンゲンに向かっているわけではなく、ヘレンベルク(Herrenberg)へと向かい、そこからアウトバーンを離れ、296号線で西側からテュービンゲンの街中に入ることになります。
    もし鉄道で訪問する場合は、中央駅に到着します。ただ、この駅は町の中心部へはネッカー川を渡らなければなりません。
    このネッカー川を挟んで街の印象はかなり異なるかもしれません。伝統的な街並みは渡った先で、クルマでは直接、ここへと入ります。

     

     

    この小さな都市には、21歳のときと、25歳のときの2回訪れています。
    別にここの大学に用があったわけではなく、初めて訪れたときにその雰囲気が気に入り、二度目の訪問を生んだのでした。ここは大学生が多いので、当時の同世代の人々、しかも留学生も多かったので、それぞれの国の人たちとの交流が楽しかった思い出があります。
    北ドイツ中心の生活から、ここまで南下してきて気に入った街ができたことが、それだけでうれしかったのかもしれません。
    もう、あの時代には戻れません。

     

  • 世界で最も高い尖塔

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界で最も高い尖塔について、昔の紀行として勝手に語ります。

     

       

     

    以前に「バーデン=ヴュルテンベルク州のワイン」を取り上げましたが、その州の南部にあるウルム(Ulm)には、大昔に行ったときの思い出が強烈にあります。まだ20代前半の頃の思い出で、フォルクスワーゲンの当時日本には輸出していない1600ccのゴルフに乗って、世界で最も高い尖塔を見に行きました。ところが市内の地図を持っていなかったために迷子になりました。

       

     

    ウルムはシュトゥットガルトとミュンヘンを結ぶ斜め右下のライン上にあります。それほど大きな都市ではありませんが、ドナウ川沿いのためか、中世より交通の要所として栄えてきた都市です。
    ホーエンツォレルン城からテュービンゲン(Tübingen)へ北上し、そこからロイトリンゲン(Reutlingen)方向へ東に進み、ウルムへと向かいました。当時の西ドイツ全国版の一枚地図は持っていたため、ウルムへ向かうだけなら何の問題もありませんでした。
    アウトバーンの8号線からドルンシュタット(Dornstadt)で南下してウルム市内へと入りました。この周辺地域の道路は森と畑が多く、当時のSOHCエンジンでも十分に快適に走れました。

       

     

    ウルムの市街地は標高459mで比較的平坦な場所になっています。市で最も標高の高い場所は646mで、そこはクリンゲンシュタインの森になっています。市街地の中心部はブラウ川とドナウ川が合流するイラーから2kmほど東に行った場所です。ドナウ南岸はノイウルム(新ウルム)といってバイエルン州の都市になっています。
    ここで世界に誇るウルム大聖堂があります。ミュンスターと呼ばれていて、ゴシック建築の大聖堂です。尖塔の高さが161.53mあり、教会の塔では世界一の高さがあるとして知られます。
    そのため、ウルムの街のシルエットはミュンスターの尖塔を中心にして構成されています。街中のいたるところで塔を見上げることができます。
    市内の地図がなくとも、その塔を目印にすれば、ミュンスターには行けるだろうと、単純に考えたのが間違いでした。
    まずシラー通りから塔の見えるノイエ通りに左折しようしたら、5車線くらいある大きな道路なのに反対方向への一方通行でした。まだ若い時代ですから、慌ててしまって、軽いパニック。交差点を渡ってすぐに左折したのがエーヒンガー通り、ここはすぐにトラムに突き当り、あとで冷静に確認すると、L字型の右に曲がれば良かったものの、慌ててUターンをしてしまいました。
    仕方なくシラー通りに戻って、ノイエ通りを曲がりました。これが間違いのもと、前の車につられてビスマルクリングへ進んでしまい、そのままドナウ川を渡りバイエルン州へ入ってしまいました。

       

     

    何とも格好悪い間違い方で、ノイウルムを彷徨うことになり、再びウルムの旧市街地に入ったときは夕暮れ時期でした。ミュンスターの近くまでは行けたので、方向を確認するため路肩にクルマを停め、運転席から降りました。
    目の前の建物の先に、確かに高い尖塔があります。旧市街地だけあって一方通行が多いですが、何とか行けそうだと思っていたところに、駐車違反を取り締まる警察がやってきました。そういえばここは駐車禁止だ、と、ここでも慌てて、クルマに乗り込み、何も考えずに発車しました。これも間違いでした。
    せっかく方向を確認していたのに、慌てていて、またまた間違えたのでした。

       

     

    ウルムという都市は、第二次世界大戦まで帝国時代の建築が残った街でした。ゴシック様式、ルネサンス、バロック様式、古典主義様式など、歴史的な建築物が多いのが特徴でした。ウルムの旧市街は、南ドイツを代表する歴史的な場所だったのです。
    これが第二次世界大戦終盤の1944年12月17、ウルムは空襲によって旧市街地は崩壊しました。ミュンスターから中央駅までの西部の市内中心部は完全に破壊されたのです。
    その結果、現代のウルムの街並みは、かすかに残った街の遺産を保存し、戦後に再建された歴史的建造物、現代の建築物が混在することになりました。そのためか、ドイツらしい位街並みを期待するとがっかりするかもしれません。それでも、世界一の高さを誇るミュンスターは一見の価値はあるし、新旧あわせた都市建築物も、実はそれなりに調和がとれている気がします。
    だからこそ、わざわざウルムに来たのですが、迷っている時間があまりに多く、街の散策はろくにできず、何とも残念な訪問に終わりました。

       

     

    あれから35年近くが経過しています。
    今でもウルムの悔しい思い出は消えません。

       

     

  • テューリンゲン紀行5(Mühlhausen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の最終回です。現在の州都エアフルトから離れて、暗い村と森の中を疾走します。

     

     

    エアフルトの街が暗闇に包まれ、西側世界のようなネオンも輝いていない街は、思った以上に暗い印象をもちました。
    今夜はこの街に宿泊しようかとも思いましたが、セヴェリ教会を離れてから再び迷子状態になってしまったので、とりあえず市街地を脱出することにしました。郊外のガストホフ(Gasthof)が東ドイツにあるかどうかわかりませんが、何の情報も持たない日本人が、暗い街中で宿探しをするのは辛いことだと感じていました。クルマで郊外で出れば、最悪、車中泊も可能となります。
    取り合えず、ライプツィヒ(Leipzig)方面へ行こうかと思い、北東方向への道路を探しました。ところが、ここでも案内表示板が暗く、一瞬で確認することに失敗しました。暗いだけでなく、見慣れない地名が多かったことが原因です。

     

    アウトバーンには宿泊施設がないので、国道などの幹線に行こうとしていたのもありますが、それ以上にアウトバーンの表示そのものについても見かけることがなく、結局どこをどう走っているのか分からないままでした。
    計画性もなく、慣れない東ドイツに入国したので、開き直って走りやすい道路を走ることにしました。その結果、どうやらノルドパーク方面の北側へと進んでいるようで、行きたい方向とはズレていることに気づきました。しかし、修正するのも大変なので、そのまま北へ行き、4号線へと合流しました。ガソリンもどこかで入れようかと思いましたが、東ドイツにまともなガソリンスタンドはなく、あっても、いわゆる「ハイオク」に相当するオクタン価のものもなさそうでした。
    一度、西側に戻らないとならないかもと考えるようになり、国境をさがすことにしました。

     

    東西を自由に行き来できるようになったのは、つい最近のことで、東西冷戦時代には厳しい監視状態だった国境は、当然ながら案内表示はありません。
    仕方なく西方向の国道でカッセル(Kassel)方面へと行こうと考えました。
    小さな集落に入るとアスファルトから石畳になり、しかもかなり狭い道路になります。周囲は暗い森が続き、アップダウンも随所にあります。寂しい道です。もし、こんな場所でガス欠になってしまったらシャレになりません。
    小さな村に宿泊施設も見つけましたが、宿の人に話をきくと営業していない、という答えでした。実際には営業していないのではなく、客がいないので、夜になってから新たな客を迎えるのが面倒という印象でした。いかにも共産圏らしい反応で、見かけない日本人についても興味はないようでした。

     

    空腹も感じてきたものの、国道に沿って現れる村や町には、食事を提供してくれそうな店も見かけません。明るい時間帯であれば、あるいは探し当てることができるのかもしれませんが、西側のような商業的な意識のないレストランは、存在そのものが消失しているようです。何も知らない西の旅人が、消え去った空間から見つけるのは難易度が高すぎました。
    パン屋や軽食を扱う店舗もありません。当然ながらコンビニもありません。
    ここにきて、何ともいえない寂寥感だけでなく、ある種の危機感も感じてきました。ただ、この途方にくれた状態は、決して不快なものではありませんでした。

     

    30年も前のことなので、記憶が定かではないものの、おそらくミュールハウゼン(Mühlhausen)という町だと思いますが、ここで国道を左折することになりました。
    少し走ると、路上に屋台が出ていました。ヴルストやパンの屋台です。街灯もないような寂しい国道に屋台があることが奇跡に感じました。
    慌ててクルマを停め、近くの空き地に駐車してから屋台へ向かいました。
    先客は父と小さな娘の親子が一組だけでした。小さな女の子は、謎の東洋人が現れたことに少し驚いたようでしたが、父親は特に反応はありませんでした。
    屋台の親父さんは気さくな人で、西ドイツの人でした。どうやら通貨統合されたことで、ここまで来て営業しているようでした。ただ、物価が東側は安いので、半分はボランティアみたいなものだと言っていました。ついでに国境の位置も教えてもらいました。
    クルマに持ち帰り、ようやく空腹を満たし、少しだけですが仮眠もしました。ガソリンは残り少ないものの、屋台の親父さんの話を信じれば、カッセルまでは持たないとしても、西側のガソリンスタンドまでは問題ないと判断しました。

     

    夜明け前に再び出発しました。
    屋台はいつの間にか姿を消しています。
    ミュールハウゼンから西に向かうと、そこは山岳部でした。道路は何とか舗装されていますが、真っ暗な山の中を走るのでスリルはあります。しかも国境の表示がなく、本当にこの道で正しいのかどうかが分かりません。
    ようやく、怪しく輝く光が何もない山間部に突然現れました。ダムを照らしているような光景でしたが、近づくと国境の検問所でした。無人でした。何とも奇妙な印象を持ちます。
    こうしてテューリンゲンから離れ、西ドイツ国内に入ったわけですが、景色が変わるわけもなく、相変わらず山の中でした。

     

  • テューリンゲン紀行4(Erfurt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の4回めです。大学都市のイルメナウ (Ilmenau)から、いよいよエアフルトへと行きます。

     

     

    イルメナウ (Ilmenau)からは一直線にエアフルト(Erfurt)へと向かいました。
    現在のテューリンゲン州の州都ですが、この時代、つまり東ドイツ時代はエアフルト県の県都でした。
    ドイツらしい平野が広がった先、南側のテューリンゲンの森に入る場所になだらかな丘陵地帯があります。エアフルトはその丘陵地帯に開けた都市です。
    小さな都市から来ると、市域が広い場所に来た感じがしますが、西側と違って街が暗く、都市の華やかさとは無縁な感じがします。道路の案内表示も暗くて、少し陽が傾いたときに市街地に入ったことで、迷子になりました。
    アウトバーンからアイゼナッハ通りに入り、東に進んでゴータアー通り、突き当りでフリーデンス通りに行けなくて、ハインリヒ通りに行ったのは良かったものの、そこから市街地中心部にどのように走ったのか分からなくなりました。トラバントやトラックの中に、時々、メルセデスやアウディ、VW、BMWも見かけるものの、やはり地元のクルマが多いようでした。

     

    エアフルトというとクレーマー橋(Krämerbrücke)が有名ですが、どこをどう行けば近づけるのかがわかりませんでした。
    この橋はフィレンツェのヴェッキオ橋と並ぶ欧州を代表する歩行者用の橋で、橋梁の両側に多数の店舗が並んでいるものです。東側のヴェーニガーマルクト (Wenigemarkt) と西側のベネディクト広場 (Benediktsplatz) を結んだ橋です。1100年頃には木造で建造されたようで、1325年になって現在の原型の橋になったといいます。
    そんなクレーマー橋に行こうという気持ちはすぐに失せ、東ドイツの暗い街は、観光に適していないのがよくわかったので、適当にクルマを停めて、適当な場所を散策するしかないと気持ちを切り替えました。

     

    宗教改革で知られるマルティン・ルターゆかりの都市ということもあり、とりあえずルターがかつて過ごした街の空気を吸うことだけで満足することにしました。迷子のまま走り続けます。
    宗教都市という側面でいえば、エアフルトには教会と修道院礼拝堂が70以上もあるそうです。その中で代表的なのが大聖堂(Erfurter Domberg)といえるでしょう。他のドイツの都市のように平らなマルクト広場に市庁舎と並んで建つわけではなく、小高い丘の上に建っているので、より巨大に見えます。しかもドイツ・ゴシック建築の傑作ともいわれるだけあって、圧倒的な存在感があります。
    現在は夜にはライトアップされるようですが、このときは偶々なのか、それとも東ドイツの時代だったからなのか、薄暮の状態で暗いままでした。
    あとで聞いたところによると、内観も圧倒されるほど見ごたえがあるとのことでした。ステンドグラス、等身大の十二使徒像、祭壇など、キリスト教の荘厳さが際立ているとのことでした。
    迷子で走り回りながら、比較的近くに行くことができましたが、駐車場が見つからなかったので、クルマから見るだけだったのは何とも残念でした。

     

    大聖堂前のドーム通りからペーター通りに進むと、大聖堂の裏側に佇むセヴェリ教会があります。3本の尖塔が印象的な教会で、屋根も何とも特徴的です。大聖堂と並んでいるので、一体化しているようでもあり、それぞれの個性を主張しているようでもあります。
    大聖堂とセヴェリ教会が織りなす光景については、マルティン・ルターが「塔多きエアフルト」と称えたといいます。それだけこの都市のシンボルとなっているようです。
    ただし、まともに観光したら、さらに実感したかと思うと、何とも残念です。

     

    ちなみに行けませんでしたが、エアフルトには中央ヨーロッパ最古のシナゴーグがあります。
    ナチスによるユダヤ人迫害を経て、ユダヤ教の施設であるシナゴーグが残っているのは、何とも感慨深いものがあります。エアフルトのシナゴーグはかつての姿をそのまま維持しているようなので、歴史的に貴重といえます。今では観光客にも人気のスポットだといいます。

     

    とにかく、初めてのエアフルト訪問は、観光に来たのに観光できず、道は暗くて迷子になり、ろくな思い出がありません。
    再訪してリベンジしたい都市、ナンバーワンです。

  • テューリンゲン紀行3(Ilmenau)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の3回めです。軍需産業都市のズールから大学都市のイルメナウ (Ilmenau)へと行きました。

     

     

    ズールの散策もほどほどにして、再び北上しました。
    テューリンゲンの森が深くなり、右手奥には珍しい動植物が生息する湿原地域のあるグローセル・ベーアーベルク(Großer Beerberg)もあります。標高は982mです。何となく興味を持つものの、東ドイツの貧弱な道路事情で、山岳路を進む選択はできません。
    おそらく東西統一後は道路も整備されたでしょうが、統一前の東ドイツは第二次大戦前に舗装された道路が、ろくに補修されずに残っていたりします。
    まだ中世の石畳の道路が残っているのなら風情がありますが、戦前の道路は走りにくく、しかもいつ通行止めになるかわからない不安もあります。

     

    森を抜けるとゲーラベルク(Geraberg)の小さな町が現れ、 再び森に入った先にイルメナウ (Ilmenau)の郊外に至りました。
    ここは「ゲーテ及び大学都市 (Goethe- und Universitätsstadt)」を冠している小さな都市です。イルム川による谷が形成された場所にあります。
    街の中心部の近くに大きな池があります。規模的には、池というより沼か湖でも良いほどです。

     

    ここは文字通りの大学都市で、イルムナウ工科大学があります。
    訪れたときは大学の夏季休暇のときでしたが、それでも街中を歩く人の数は疎らで、あまり活気を感じません。これが東側世界の都市なのか、と、改めて感じた次第です。
    この都市そのものも、おそらく地味な存在といえるかもしれません。自分自身もたまたま通りかかっただけで、最初から知っていたわけでもないし、特に行きたいと思ったわけでもありません。

     

    あとで調べてみると、都市としての発展は新しく、ドイツ帝国になってからだそうです。それ以前はリゾート地や温泉保養地だったようです。
    確かにテューリンゲンの森にはハイキングコースもあり、特に尾根づたいのコースなどは、この周辺からザーレ川方面へと散策するのに向いている気もします。実際のコースがわからないので、何ともいえませんが、エアフルトやライプチヒなどの都市からなら、この周辺がテューリンゲンの森の拠点には最適な気もします。

     

    ちなみにですが、ドイツにはイルメナウ川(Ilmenau)があります。
    この川はハンブルクの人間なら知っている人は多く、というのも、ハンブルク南部のリューネブルクの近くを流れる川だからです。
    ハンブルクを代表するエルベ川に合流する川であり、支流なのです。
    テューリンゲン州のイルメナウと全く同じ名ですが、この都市には一切関係しない位置関係になっています。
    もしかしたら、既知の川の名に反応して、この都市に立ち寄る気になったのかもしれません。

     

     

    ここでも滞在時間が短く、見知らむ東洋人に目を向ける人の数も少なく、クルマに戻ってさらに北上することにしました。

     

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