今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • イエス・キリスト生誕地のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイエス・キリスト生誕地・ベツレヘムのワインについて勝手に語ります。

     

     

    「旧約聖書」では「ダビデの町」、「新約聖書」ではイエス・キリスト生誕地とされている町がベツレヘムです。
    聖地であるエルサレムとはわずか10kmしか離れていませんが、東西冷戦時代のベルリンの壁と同じように、イスラエルとパレスチナに分かれているため、ここでも壁によって隔てられています。
    「新約聖書」の「ルカによる福音書」では、イエスの両親はナザレからベツレヘムに移り、ここでイエスが誕生し、その後にナザレに戻ったとなっています。「マタイによる福音書」ではイエス誕生前に両親がナザレにいたという記述はなく、誕生後にナザレに行ったのは迫害を逃れるためとしています。
    この福音書の記述から、イエスの生誕地はベツレヘムであると信じられてきました。しかし、現代の学者の中には、このことを疑問視している人も大勢います。ベツレヘムに誕生したことにすることで、ダビデ王の系譜と結びつけることを目的としたのではないかという見方です。そのため、ベツレヘムでの生誕は歴史的な事実を記述したものではないというのです。
    考古学的にも、歴史学的にも証明することは難しいでしょう。

     

    キリスト教にとっては重要な町であるのは事実でしょうが、現在はキリスト教徒よりムスリムの人口が多く、アラブ化した町といえます。
    それでもベツレヘムには修道院もあり、サレジオ修道会・クレミザン修道院ではワイナリーがあってワインを醸造しています。しかも、ハムダニ、ジャンダリなどの土着のブドウ品種を半分使ったワインがつくられているのです。この土着品種の果皮はやや黄色がかっている緑で、ベツレヘムで栽培されています。
    また、ベツレヘム近郊のクレミザンの丘で栽培されているのが、バラディという土着品種です。これはアラビア語で「我が国」、「その土地の固有」を意味しているそうです。ベツレヘムの街中より標高が高く、その分、昼夜の寒暖差が大きいことから、酸味が強いブドウになっています。

     

    ベツレヘムはイエス生誕よりはるか前から歴史に登場してきています。
    文書で登場する最古のものは、紀元前1400年ごろアマルナ文書(Amarna letters)でした。この文書は、エジプト第18王朝のアメンヘテプ4世時代の外交政策と国際関係を示した史料です。年代としては、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃と推測されます。ナイル川東岸アマルナで発見されたことからこのように呼ばれ、楔形文字による粘土板文書です。この文書からベツレヘムがカナン人の集落だったと考えられています。
    このカナンこそ、「旧約聖書」で「乳と蜜の流れる場所」と描写された地であり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地です。

     

    古代ローマの時代になると、ローマに占領され、イエス生誕地にギリシャ神話のアドーニスの神殿まで建てられてしまいました。
    しかし、のちにローマ帝国の東西分裂にともなって、東ローマ帝国の初代皇帝となったコンスタンティヌス1世の母親・聖ヘレナにより、ベツレヘムに聖誕教会が建立されました。
    そしてイスラム教勢力と十字軍の時代となり、オスマン帝国による支配となりました。
    カトリックと正教会、それにイスラム教という複雑な勢力分布のもとで、パレスチナは不安定な時代を継続してきました。
    現在でもイスラエルとパレスチナの対立構造が続き、ベツレヘムがエルサレムから隔絶された状態というのは、何とも悲しい気分になります。

     

    それでも修道院で醸造されるワインがあるので、一度は味わってみたいと思っています。

     

  • クルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)について勝手に語ります。

     

     

    あまり知られていないでしょうが、ルーマニアのブドウ栽培面積は世界10位であり、ヨーロッパでは第5位の広さを誇っています。ワイン醸造の歴史も古く、伝統を持ちながら、魅力溢れるワインが生産されています。
    緯度が南フランスや北イタリアと同じ44°〜48°Nにあり、気候についても「温帯大陸性気候」ということで、四季があり、昼夜の気温差もあり、冬と夏の寒暖差も大きい国です。
    そんなルーマニアのワイン産地の中に、トランシルヴァニア地方があります。ここは高原地帯で、比較的白ワインの生産が中心といえます。

     

    トランシルヴァニア

     

    そのトランシルヴァニア地方の中心地ともいえるのがクルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)です。
    ソメシュル・ミク川の渓谷に位置しています。首都のブカレストから約480km離れています。ルーマニア第3の人口を誇り、ハンガリー語ではコロジュヴァール(Kolozsvár)、ドイツ語ではクラウゼンブルク(Klausenburg)という名前になっています。
    このドイツ語名は、ハンガリー王ラースロー4世によって、1275年にトランシルヴァニアにいたザクセン人を、この地に入植するように勧めたことで、ドイツ語名のクラウゼンブルクとなったものです。
    さらにここに居住したハンガリー人はコロジュヴァールと呼びました。

     

    その後は都市として発展し、15世紀にはザクセン人とハンガリー人の住民の数が等しくなりました。そして1541年にトランシルヴァニア公国の一部となりました。しかもトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心都市となりました。一方で、オスマン帝国とハンガリー王国の戦争により、ザクセン人が減少し、ハンガリー人の人口が増えていきました。
    1861年から1867年のわずか6年の期間は、トランシルヴァニア大公国の首都となりました。これはオーストリア・ハンガリー帝国が建国されたことで、ハンガリー王国に編入されたことから首都でなくなりました。それでもブダペストに次ぐ王国第2の都市となっていました。
    ルーマニア王国の一部となったのは第一次世界大戦後のことでした。そのためか、20世紀半ばまで住民の最大人数を占めていたのはハンガリー人でした。
    徐々にルーマニア人が増加し、1966年の国勢調査では逆転していたようです。

     

     

    実はこの都市は、ハンガリーのブダペストとルーマニアのブカレストとの中間距離に近い場所にあります。
    東欧を堪能する旅であれば、ここを経由するプランもありだと思います。

     

  • 法定飲酒年齢

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は法定飲酒年齢について勝手に語ります。

     

     

    プレゼント専門ワインのシエル・エ・ヴァンでは、日本の法律を遵守して営業をしています。そのため未成年者飲酒禁止法は特に注意しています。具体的には、満20歳未満の未成年者の飲酒を禁止する法律で、それだけでなく親権者や、酒を販売した側にも罰則が定められています。

     

    では、日本を除く世界各国の法律はどうなっているでしょうか?
    飲酒可能年齢は、国によって異なります。しかも酒類によって分けられている国もあります。
    具体的に見ていきましょう。

     

    まず、アメリカです。
    実は日本より厳しくて21歳です。以前(1970~75年)に飲酒可能年齢を18歳に引き下げた時期もありましたが、現在は21歳に戻っています。
    ただ、アメリカの飲酒については州法となりますので、年齢を引き下げたのも全米で29州でした。引き下げの幅は州によって異なり、その中で最も多い州が「21歳から18歳へ」でした。
    ところが、この引き下げ期間に、飲酒運転による事故、死亡者、大幅に増加したそうです。もちろん引き下げた年齢層の人々による飲酒量が増加していました。
    この結果、1970年代後半からそれぞれの州で飲酒可能年齢を21歳に戻してきたのでした。
    では、21歳への引き上げで飲酒運転の事故などが減ったかというと、まさにその通りだったようです。そして1988年までには、全米すべての州で飲酒可能年齢が21歳に戻ったのでした。

     

    これに対して、ヨーロッパでは比較的飲酒年齢が低いといえます。
    ここも具体的な国で見てみましょう。
    まず、最も年齢が低いのが、オーストリアとスペインです。何と16歳です。ドイツとオランダの場合も、ビールとワインなら16歳ですが、蒸留酒は18歳になっています。
    18歳というのは、ヨーロッパでは他にイタリア、フランスもそうです。オセアニアのオーストラリア、ニュージーランドも同じく18歳です。南米ではブラジルも同様です。
    ノルウェーもビールとワインは18歳ですが、蒸留酒は20歳になってます。
    ワインと蒸留酒が21歳になっているエジプトでは、ビールに関してだけ18歳となっています。
    アジアではどうかというと、韓国が19歳、台湾、モンゴルが18歳、マレーシアは21歳です。

     

    世界各国、微妙に年齢が異なりますが、あくまで法律は守りましょう。

     

  • ヴァラジュディン(Varaždin)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァラジュディン(Varaždin)について勝手に語ります。

     

     

    クロアチアの首都ザグレブから北へ81kmの位置にヴァラジュディン(Varaždin)はあります。
    クロアチアは沿岸部は急峻な山が多く、ワイナリーは小規模なものが集まっていますが、ヴァラジュディンは大陸側にあり、比較的平坦な地形となっていることから大規模なワイナリーも多くあります。
    クロアチアのワインの飲み方は多様で、そのまま飲む人だけでなく、白ワインのスパークリングウォーター割り「ゲミシュト(gemišt)」、赤ワインの水割り「べヴァンダ(bevanda)」などもあります。
    ザグレブからはヴァラジュディン方向にワインロードなどがあり、見学できるワイナリーも多くあります。クロアチア人だけでなく、ヨーロッパから大勢の人がやってきます。

     

    さて、ヴァラジュディンですが、ここはクロアチア有数の都市史跡が残る町です。1991年のクロアチア紛争でも直接的な被害がありませんでした。
    歴史的には温泉地として知られ、1181年にハンガリー王ベーラ3世により温泉地として公式に記録した場所です。その後、1209年には自由王立都市となり、経済・軍事で発展していきました。
    要塞都市としても守勢の構造となり、聖ヨハネ騎士団による修道院なども建てられました。その後、支配者は転々と変わり、1756年にクロアチアの首都となりました。
    しかし、1776年に大火があり、このとき町の大半が焼けてしまいました。このことから、行政機能がザグレブへと戻ることになりました。
    都市として再建されたのは19世紀で、完全に再建されただけでなく、都市としても拡張し、それ以降、クロアチア北西部の産業中心地にまで成長しました。

     

    大火を経たとはいえ、史跡としては保存状態が良く、旧市街の要塞などは中世そのもの状態となっています。
    さらに、クロアチアならではの典型的なゴシック様式の円形塔などもあります。
    街中には、バロック、ロココの邸宅などがあり、また、クロアチア国立劇場はウィーンのヘルマン・ヘルマー、フェルディナント・フェルナーによって設計されました。

     

     

    20世紀にユーゴスラヴィアが崩壊し、クロアチア独立戦争は熾烈を極めました。
    農地は荒廃、都市部は破壊され、ワイン生産には大打撃となりました。しかし、ここヴァラジュディンは被害がほとんどなく、貴重な都市となっています。
    もし機会があれば、ぜひ訪問したい街です。

     

  • キリストの血入門 12

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第12回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はミラノ勅令によりキリスト教がローマ帝国で認められ、テオドシウス1世により国教となった点について述べました。今回はその後の歴史についてです。

     

    キリスト教の公認にともなって、キリスト教内部でも神学が様々に発展していきました。各地で構築された神学が独自の教理となり、キリスト教内での論争が激しくなっていきました。
    迫害されていた時代から、キリスト教の拠点が各地にあったことで、教会内での意見の統一は難しい状況でしたが、その中で神学の中心としては、ローマではなくギリシア教父でした。アレクサンドリアのオリゲネス(Origenes Adamantius)、カイサリアのバシレイオス(Βασίλειος Καισαρείας)、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスなどでした。

     

    オリゲネスは、新プラトン主義の影響を受けていました。
    それが最も現れているのが、プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の『創世記』を融合しようとした点にあります。二つの世界創造についての記述を融合させ、創造について、「神が無に自分の存在を分かち与えたこと」としました。このような融合とともに、聖書の記述をそのまま信じるのではなく、何かの比喩として解釈する手法をとりました。
    しかし、彼の死後300年経過した西暦553年には、異端とされてしまいました。

     

    カイサリアのバシレイオスは、全ての教派で聖人として崇敬されているほどの神学者でした。特に正教会で顕著です。
    救貧施設を建設した人物で、らい病を含む病人の収容保護、貧民収容所、孤児病者収容所、嬰児収容所など、、福祉事業に貢献する一方で、三位一体論の形成などに影響を与えました。また、正教会の聖体礼儀の奉神礼文を整備した人物でもありました。

     

    ナジアンゾスのグレゴリオスは、テオーシス(人間の神化)思想の理論化、神の本質の不可知性と神の業において顕現する神の光の可知性の二重構造を、初めて神学理論として体系化した人物です。
    ナジアンゾスのグレゴリオスも正教会では特に崇敬されました。

     

    ニュッサのグレゴリオスは、第1回コンスタンティノポリス公会議でアリウス派を反駁した人物です。
    このアリウス派への反駁は、同時に三位一体論の確立に繋がりました。そして神の無限性についての神学を確立しました。
    正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人になっています。

     

    キリスト教も内包したマニ教、モンタノス派、アリウス派など、様々な視点によるキリスト教観により、4世紀以降では、神学論争によって教会の分裂にまで至る事態となりました。
    特にアリウス派とアタナシウス派の論争は、キリストの位置付けに対して反発し、暴力的な争いにまで発展してしまいました。
    そこで、このような過激な教派間の抗争を止めることを目的として、西暦352年にニカイア公会議が開かれることになりました。ローマ皇帝コンスタンティヌスによるものでした。
    ここで初めて、ローマ帝国の皇帝がキリスト教に介入したことになります。彼は、キリスト教というよりもローマ帝国内の問題として、この解決を図ることにしたようです。

     

    その結果、アリウス派は異端とされました。
    西暦431年にはテオドシウス2世によりエフェソス公会議が行われ、このときはネストリウス派が異端とされました。
    これによりアリウス派もネストリウス派も追放されました。

     

    ここでネストリウス派が追放されたことで、のちの東方世界、シルクロード経由での中国など、歴史を大きく変えることになりました。その話はまた機会を改めましょう。

     

  • ジャムシード (Jamshīd‎)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジャムシード (Jamshīd‎)について勝手に語ります。

     

     

    ツァラトゥストラ(ザラスシュトラ)が、ゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダー (Ahura Mazdā) に「最初に語りかけた人間は誰なのか」と尋ねると、アスラ・マズダーはイマ(Yima)だと答えました。
    このイマはアヴェスター語で、ペルシア語ではジャムシード (Jamshīd‎)です。イラン最古の王朝ベーシュダード王朝の王の一人です。インド神話ではヤマ(閻魔)に相当しています。
    このジャムシードですが、最高神から「教えを広めよ」と言われたものの、それを拒否しました。ジャムシードが神より創造されたのは、布教活動をする目的ではないとしたのです。
    最高神アスラ・マズダーは、では、この世の世界を繁栄させるように指示しました。彼はこの言葉には従うこととしました。そこで、神からは王権を象徴する黄金の矢と黄金で飾られた鞭が与えられたのでした。

     

    そしてジャムシードに関してはワインに関する伝説が残っています。
    ある時、ジャムシードは、ハーレムの一人の女性を追放してしまいました。しかも追放した彼女に対し、絶望させ、自殺させるような仕打ちをしたのでした。
    思惑通り、彼女は落胆し、毒を飲んで自殺することにしました。そこで王の倉庫に行き、「毒」と書かれた瓶を見付けました。この瓶の中は腐ったブドウでした。ブドウを保管していたものの、身が腐ってしまい、もう飲めないと思われ、「毒」という扱いだったのです。
    当然ながらブドウの残骸は発酵していて、ワインとなっていました。
    彼女はその「ワイン」を飲みました。もちろん「毒」ではなく、逆に気分が高揚していきました。
    彼女は驚き、自殺をやめ、この発見を王に伝えることにしました。王は彼女の話を聞くと、この新しい飲み物を飲み、しかも夢中になりました。
    自殺させようとした女性も再びハーレムに戻しました。さらに、ペルセポリスで栽培されていたすべてのブドウを「ワイン」にするために醸造するように命じたといいます。

     

    これはあくまで伝説であり、ジャムシードですらゾロアスター教神話の登場人物です。
    それでも酒を禁じないゾロアスター教神話に登場するだけあって、いかにもそれらしい話に感じます。

     

  • オレンジワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオレンジワインについて勝手に語ります。

     

     

    以前にスロベニアのゴリシュカ・ブルダ(Goriška Brda)でご紹介しました。
    今回は、醸造法をご紹介いたします。

     

    オレンジワインは、基本的に赤ワインと同じプロセスで造られています。ただし原料が赤ブドウではなく、白ブドウになります。
    赤ワインの場合であれば、破砕した黒ブドウの果皮を果汁と一緒に発酵し醸すことになります。この際に果皮に含まれる青や赤色の色素(アントシアニン)が溶出して、赤ワインになるわけです。これが、オレンジワインの場合は、白ブドウを使いますので、果皮中にアントシアニンが含まれていないため、赤色にはなりません。代わりに黄色系色素が溶出することで、オレンジに近い色調になるわけです。
    オレンジワインは、いわばロゼワインと対極に位置するといえます。
    ロゼワインは黒ブドウを圧搾する際に、果皮から色素が移ります。これでピンク色になった果汁を、白ワインと同様に醸造する製法です。従って、オレンジワインは「白ブドウで造る赤ワイン」で、ロゼワインは「黒ブドウで造る白ワイン」となるわけです。

     

    タンニンについても言及しないとなりません。
    白ワインは酸化防止剤の役割をするタンニンがありません。そのため、タンニンが豊富な赤ワインに比べると酸化防止剤としての亜硫酸を多く使うことになります。
    そこで、オレンジワインですが、タンニンは赤ワインと同じように豊富であるため、亜硫酸の添加は少なくてすみます。
    実はナチュラルワインで扱う白ワインは、このオレンジワインによって添加物を抑えている傾向があるようです。

     

    では、料理との相性はどうでしょうか?
    実は世界のソムリエたちが、オレンジワインと合わせる料理について、従来では考えられないような料理まであわせてきて、実際に様々な提供をしているそうです。
    特に香辛料を多く使うアジア系の料理などでは、赤ワインでは渋味と辛味が合わされて、料理もワインも味を台無しにしてしまいます。白ワインでは弱すぎて、料理の味にワインが負けてしまいます。そんな香辛料系の料理にも、オレンジワインは合わせられるようです。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 4

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第4回になります。

     

       

     

    前回は古代ヨーロッパのエーゲ海文明について触れました。今回は、古代ギリシアを話題にします。

       

     

    エーゲ海文明は青銅器時代で、その次に鉄器時代へと移っていきました。
    紀元前1200年にカタストロフの襲来によりミケーネ文明は崩壊し、ここで一旦、歴史は空白の時代となりました。考古学的にも史料的にも空白の時代です。
    紀元前8世紀になって、都市国家ポリスが誕生し、再び歴史の表舞台に立ちました。
    文字の資料がない時代から、文字が現れてきたのは、フェニキア人の影響によるものといわれています。これがアルファベットの成立です。
    アテネを中心とするポリスなどで、ギリシアは大いなる発展を遂げました。
    紀元前508年からアテネでの民主制の基盤が整えられていき、アテネはペルシア戦争に勝利し、デロス同盟の盟主となりました。エーゲ海世界の支配者であると同時に、民主化された国家として全盛期を迎えました。
    ライバルとして現れたのはスパルタでした。紀元前431年のペロポネソス戦争の影響で、紀元前403年にアテネはスパルタに破れてしまいました。これでアテネは凋落したのでした。
    アテネに代わったスパルタでしたが、覇権国はテーバイ、そしてマケドニアへと移っていきました。

       

     

    紀元前4世紀前半には、勢力争いが繰り広げられたものの、結局はどのポリスも覇権を握ることができず、各ポリスの力が弱まるだけの状況となりました。
    そこで登場したのが、マケドニアのフィリッポス2世でした。第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を握り、ギリシア本土へと迫っていきました。そしてアテネ・テーバイ連合軍破り、ギリシア征服に達しました。
    勢いに乗るピリッポス2世はコリントス同盟(ヘラス同盟)を結び、次にペルシア遠征へと向かう予定でした。しかし、紀元前336年、ピリッポス2世は志半ばの状態で暗殺されてしまいました。
    その次に登場したのが、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)でした。

       

     

    紀元前356年にペラで生まれたアレクサンドロス3世が、、父であるピリッポス2世の王位を継承したのは20歳のときでした。
    他に例をみない規模での東方遠征を行い、30歳になったときには、ギリシャからインド北西にまたがる大帝国にしていました。連戦連勝を誇るほどの、戦術・戦略の天才だったといわれ、しかも征服した異民族の統治でも独創的でした。
    史上初めての世界征服者であり、異文化の地との融合策まで行い、通貨のドラクマを全地域で流通させました。従って、彼の登場によって世界は一変したのです。

       

     

    紀元前326年、アレクサンドロス3世は、当時の「ヨーロッパ世界」では「世界の果て」だったインドまで侵攻していました。パウラヴァ族に勝利したものの、インド征服をすることなくマケドニアへと引き返しました。
    そして新たな首都を建設する予定地だったバビロンで、紀元前323年、熱病により死去しました。このときまだ32歳でした。
    その後、巨大な世界帝国は内戦により分裂し、アレクサドロス一代で築き上げた帝国は、彼の死により終焉を迎えました。

       

     

    アレクサンドロスにより、ギリシア文化を東方へと伝達し、古代ギリシアと古代オリエントの文明が融合しました。これはヘレニズムと呼ばれる新たな文明ともえいます。
    そして、ギリシアからローマの時代へと変遷していきますが、続きは次回にしましょう。

       

     

  • ボルツァーノ(Bolzano , Bozen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はボルツァーノ(Bolzano,Bozen)について勝手に語ります。

     

     

    以前に南チロル(アルト・アディジェ)を取り上げましたが、今回はその地域の中心都市ともいえるボルツァーノ(Bolzano)、ドイツ語ではボーツェン(Bozen)を紹介します。「イタリア屈指の白ワイン産地」であるボルツァーノ自治県の県都です。

     

    古代、この地にはラエティ人(Raeti)の一派であるイザルキ人(Isarci people)が居住していました。イタリアからガリア人の侵攻から逃れてきたエトルリア人の末裔といわれていました。
    ローマ帝国の時代には第10行政区ウェネティア・エト・イストリア(Regio X Venetia et Histria)の一部となりました。
    7世紀になるとローマの影響力が衰え、バイエルン人が移住してきました。これ以降、チロル地方はバイエルン人を中心とするドイツ系住民の居住地となりました。
    12世紀後半には市場ができ、さらに、ヴェネツィアからアルプス山脈、ブレンナー峠を経由してアウクスブルクを結ぶ交易路上に位置する交易所として重要な役割を担うようになりました。

     

    1363年にハプスブルク家の領地となり、オーストリアと神聖ローマ帝国の影響下になりました。
    1806年に神聖ローマ帝国が解体されると、ボルツァーノはイタリア王国の一部となり、アルト・アディジェ県になりました。しかし、ウィーン会議により、再びオーストリア帝国の一部としてチロル伯領に戻りました。この領土は、現代の南チロルだけでなく、オーストリアのチロルも含むものでした。
    そして第一次世界大戦、この地域ではロンドン条約によって戦闘が起きませんでした。ただ戦争の結果、ドイツとオーストリア・ハンガリーの敗戦により、南チロルがイタリアへと割譲されました。1919年でした。

     

    ドイツ語圏なのに、イタリアへと割譲されたことで、1920年代になるとイタリア化政策に晒されることになりました。それを先導したのがファシスト党のベニート・ムッソリーニでした。
    このイタリア化政策とは、イタリアの他の地域からイタリア語を話す人を移住させるというもので、ボルツァーノの人口を3倍にすることでした。これにより、もともとの住民であるドイツ語を話す人の人口よりイタリア語住民を上回らせるようにしたのです。
    ところがその後、ドイツでアドルフ・ヒトラー政権が誕生して、少し事情が変わりました。
    ヒトラーは、ドイツ民族をひとつのライヒのもとに束ねるというイデオロギーですから、イタリア側からすれば、ドイツがイタリアから南チロルを奪還するのではないかという懸念が起きたのです。
    ただこれは、1939年にムッソリーニとヒトラーとの間で、ドイツの「生存圏」に南チロルを含めることを取り下げたのでした。
    ただこれは、南チロルからドイツ第三帝国に移住することを拒否したドイツ系住民は、裏切り者とみなされることになったのです。

     

    そしてついに第二次世界大戦です。
    1943年にイタリアが連合国軍に降伏すると、ドイツ軍は北部イタリアを占領しました。アルペンフォーラント作戦地域(Operationszone Alpenvorland)とし、ボルツァーノにはその本部拠点となりました。これは事実上のドイツ編入でした。
    1944年には「ボルツァーノ通過収容所」が設立され、イタリア最大の収容所になりました。
    大戦後は南チロルのドイツ系住民の間で独立運動の機運が高まりました。これにより分離主義過激派「南チロル解放委員会」(South Tyrolean Liberation Committee)によるテロ攻撃などもありました。
    これに対して国際連合は、11年に渡って調停と交渉を繰り返し、南チロルに相当の自治権を付与することとなりました。
    それでも現在は、言語の構成として、イタリア語が74%、ドイツ語が26%となっていて、ドイツ語圏としては小さな地域となっています。

     

    さて、ボルツァーノでのワイン製造ですが、古い伝統が守られ、引き継がれています。
    ワインセラーは、現在30程度あり、協同組合によって生産されています。
    ブドウ畑は、郊外だけでなく、歴史地区にもあり、それだけで街の外観が彩られています。

     

  • 世界最大の島

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界最大の島について勝手に語ります。

     

     

    世界最大の島がどこかご存じでしょうか。日本の面積の5.73倍もある島です。
    それがグリーンランド(Kalaallit Nunaat)です。
    独立した国ではなく、デンマークの一部となっています。

     

    グリーンランドというと、白ワインベースのカクテルの名にもなっています。 白ワインにメロンリキュールとトニックウォーターを合せたものです。爽快感のある甘口なカクテルなせいか、ワインを飲まない人にも飲みやすいといえます。
    では、島としてのグリーンランドとは、どんな場所でしょか?

     

    巨大な島ではありますが、内陸部のほとんどは厚い氷で覆われているため、人間が居住できる面積は少ない島です。
    また、ヨーロッパに属しますが、北極海と北大西洋の間に位置するため、カナダの北東に島が広がっています。島の北西部では、ネアズ海峡をはさんでカナダのエルズミーア島に隣接していて、その距離はわずかに約30kmです。逆にデンマークには南東方向で約300km離れています。
    気候は、島の大半が北極圏になり、準北極圏もあります。ただし、最北部は氷に覆われていません。それは、空気が乾燥している地域のため、寒くても雪が降らないからです。

     

    デンマークの支配になる前はエスキモー系の先住民族カラーリット(Kalaallit)がいました。イヌイットと同一民族といわれます。
    ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに入植した人物とされるのが赤毛のエイリーク(Eiríkr hinn rauði)で、彼がグリーンランドと名付けました。その後もヴァイキングが入植していきましたが、15世紀にはいなくなり、カラーリットだけが残りました。そのため、ここから百年以上の期間は、ヨーロッパの歴史から完全に姿を消しました。
    再びグリーンランドが歴史に現れたのは、16世紀半ばで、18世紀初頭になると植民地が作られ、キリスト教の布教も始まりました。それ以降はデンマークによる植民地となりました。
    北極圏という厳しい気候だけでなく、資源もあるわけではないグリーンランドとしては、ヨーロッパの一員として自立するのは不可能でした。そのため、デンマークの植民地として、支援されることは必然的な流れともいえました。

     

    現在でもグリーンランドの90%近くはカラーリットが占め、その比率は大きく変化していません。大きく変化したのは、意識かもしれず、かつてのカラーリットは政治的勢力がありませんでしたが、現在は異なります。
    1953年にデンマーク本国の県と同様の自治権を得て、その後、1979年には自治政府が発足しました。これでグリーンランドはデンマークの自治領となったのです。
    それ以降は、カラーリットの人々は支持政党を持つようになり、地名についてもイヌイット語にするようになりました。自立の道を進んでいます。

     

    EUとの関係でいうと、1985年にグリーンランド自治政府は当時のECを離脱したことから、グリーンランド自体はEUに属さないことになっています。しかし、グリーンランドの人たちは、EUに加盟するデンマークの国籍を持っているため、EUの市民権を持っていることになります。 ただし、EUの欧州議会等の選挙権については、グリーンランドが選挙区外という扱いですから、選挙権を行使することはできません。

     

    白ワインベースのカクテルの名になっていますが、実物のグリーンランドは厳しい環境で、EUとも複雑な関係になっています。
    なかなか行く機会のない島でしょから、せめてカクテルでも飲みましょうか。

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