今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • イエス・キリスト生誕地のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイエス・キリスト生誕地・ベツレヘムのワインについて勝手に語ります。

     

     

    「旧約聖書」では「ダビデの町」、「新約聖書」ではイエス・キリスト生誕地とされている町がベツレヘムです。
    聖地であるエルサレムとはわずか10kmしか離れていませんが、東西冷戦時代のベルリンの壁と同じように、イスラエルとパレスチナに分かれているため、ここでも壁によって隔てられています。
    「新約聖書」の「ルカによる福音書」では、イエスの両親はナザレからベツレヘムに移り、ここでイエスが誕生し、その後にナザレに戻ったとなっています。「マタイによる福音書」ではイエス誕生前に両親がナザレにいたという記述はなく、誕生後にナザレに行ったのは迫害を逃れるためとしています。
    この福音書の記述から、イエスの生誕地はベツレヘムであると信じられてきました。しかし、現代の学者の中には、このことを疑問視している人も大勢います。ベツレヘムに誕生したことにすることで、ダビデ王の系譜と結びつけることを目的としたのではないかという見方です。そのため、ベツレヘムでの生誕は歴史的な事実を記述したものではないというのです。
    考古学的にも、歴史学的にも証明することは難しいでしょう。

     

    キリスト教にとっては重要な町であるのは事実でしょうが、現在はキリスト教徒よりムスリムの人口が多く、アラブ化した町といえます。
    それでもベツレヘムには修道院もあり、サレジオ修道会・クレミザン修道院ではワイナリーがあってワインを醸造しています。しかも、ハムダニ、ジャンダリなどの土着のブドウ品種を半分使ったワインがつくられているのです。この土着品種の果皮はやや黄色がかっている緑で、ベツレヘムで栽培されています。
    また、ベツレヘム近郊のクレミザンの丘で栽培されているのが、バラディという土着品種です。これはアラビア語で「我が国」、「その土地の固有」を意味しているそうです。ベツレヘムの街中より標高が高く、その分、昼夜の寒暖差が大きいことから、酸味が強いブドウになっています。

     

    ベツレヘムはイエス生誕よりはるか前から歴史に登場してきています。
    文書で登場する最古のものは、紀元前1400年ごろアマルナ文書(Amarna letters)でした。この文書は、エジプト第18王朝のアメンヘテプ4世時代の外交政策と国際関係を示した史料です。年代としては、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃と推測されます。ナイル川東岸アマルナで発見されたことからこのように呼ばれ、楔形文字による粘土板文書です。この文書からベツレヘムがカナン人の集落だったと考えられています。
    このカナンこそ、「旧約聖書」で「乳と蜜の流れる場所」と描写された地であり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地です。

     

    古代ローマの時代になると、ローマに占領され、イエス生誕地にギリシャ神話のアドーニスの神殿まで建てられてしまいました。
    しかし、のちにローマ帝国の東西分裂にともなって、東ローマ帝国の初代皇帝となったコンスタンティヌス1世の母親・聖ヘレナにより、ベツレヘムに聖誕教会が建立されました。
    そしてイスラム教勢力と十字軍の時代となり、オスマン帝国による支配となりました。
    カトリックと正教会、それにイスラム教という複雑な勢力分布のもとで、パレスチナは不安定な時代を継続してきました。
    現在でもイスラエルとパレスチナの対立構造が続き、ベツレヘムがエルサレムから隔絶された状態というのは、何とも悲しい気分になります。

     

    それでも修道院で醸造されるワインがあるので、一度は味わってみたいと思っています。

     

  • クルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)について勝手に語ります。

     

     

    あまり知られていないでしょうが、ルーマニアのブドウ栽培面積は世界10位であり、ヨーロッパでは第5位の広さを誇っています。ワイン醸造の歴史も古く、伝統を持ちながら、魅力溢れるワインが生産されています。
    緯度が南フランスや北イタリアと同じ44°〜48°Nにあり、気候についても「温帯大陸性気候」ということで、四季があり、昼夜の気温差もあり、冬と夏の寒暖差も大きい国です。
    そんなルーマニアのワイン産地の中に、トランシルヴァニア地方があります。ここは高原地帯で、比較的白ワインの生産が中心といえます。

     

    トランシルヴァニア

     

    そのトランシルヴァニア地方の中心地ともいえるのがクルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)です。
    ソメシュル・ミク川の渓谷に位置しています。首都のブカレストから約480km離れています。ルーマニア第3の人口を誇り、ハンガリー語ではコロジュヴァール(Kolozsvár)、ドイツ語ではクラウゼンブルク(Klausenburg)という名前になっています。
    このドイツ語名は、ハンガリー王ラースロー4世によって、1275年にトランシルヴァニアにいたザクセン人を、この地に入植するように勧めたことで、ドイツ語名のクラウゼンブルクとなったものです。
    さらにここに居住したハンガリー人はコロジュヴァールと呼びました。

     

    その後は都市として発展し、15世紀にはザクセン人とハンガリー人の住民の数が等しくなりました。そして1541年にトランシルヴァニア公国の一部となりました。しかもトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心都市となりました。一方で、オスマン帝国とハンガリー王国の戦争により、ザクセン人が減少し、ハンガリー人の人口が増えていきました。
    1861年から1867年のわずか6年の期間は、トランシルヴァニア大公国の首都となりました。これはオーストリア・ハンガリー帝国が建国されたことで、ハンガリー王国に編入されたことから首都でなくなりました。それでもブダペストに次ぐ王国第2の都市となっていました。
    ルーマニア王国の一部となったのは第一次世界大戦後のことでした。そのためか、20世紀半ばまで住民の最大人数を占めていたのはハンガリー人でした。
    徐々にルーマニア人が増加し、1966年の国勢調査では逆転していたようです。

     

     

    実はこの都市は、ハンガリーのブダペストとルーマニアのブカレストとの中間距離に近い場所にあります。
    東欧を堪能する旅であれば、ここを経由するプランもありだと思います。

     

  • 法定飲酒年齢

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は法定飲酒年齢について勝手に語ります。

     

     

    プレゼント専門ワインのシエル・エ・ヴァンでは、日本の法律を遵守して営業をしています。そのため未成年者飲酒禁止法は特に注意しています。具体的には、満20歳未満の未成年者の飲酒を禁止する法律で、それだけでなく親権者や、酒を販売した側にも罰則が定められています。

     

    では、日本を除く世界各国の法律はどうなっているでしょうか?
    飲酒可能年齢は、国によって異なります。しかも酒類によって分けられている国もあります。
    具体的に見ていきましょう。

     

    まず、アメリカです。
    実は日本より厳しくて21歳です。以前(1970~75年)に飲酒可能年齢を18歳に引き下げた時期もありましたが、現在は21歳に戻っています。
    ただ、アメリカの飲酒については州法となりますので、年齢を引き下げたのも全米で29州でした。引き下げの幅は州によって異なり、その中で最も多い州が「21歳から18歳へ」でした。
    ところが、この引き下げ期間に、飲酒運転による事故、死亡者、大幅に増加したそうです。もちろん引き下げた年齢層の人々による飲酒量が増加していました。
    この結果、1970年代後半からそれぞれの州で飲酒可能年齢を21歳に戻してきたのでした。
    では、21歳への引き上げで飲酒運転の事故などが減ったかというと、まさにその通りだったようです。そして1988年までには、全米すべての州で飲酒可能年齢が21歳に戻ったのでした。

     

    これに対して、ヨーロッパでは比較的飲酒年齢が低いといえます。
    ここも具体的な国で見てみましょう。
    まず、最も年齢が低いのが、オーストリアとスペインです。何と16歳です。ドイツとオランダの場合も、ビールとワインなら16歳ですが、蒸留酒は18歳になっています。
    18歳というのは、ヨーロッパでは他にイタリア、フランスもそうです。オセアニアのオーストラリア、ニュージーランドも同じく18歳です。南米ではブラジルも同様です。
    ノルウェーもビールとワインは18歳ですが、蒸留酒は20歳になってます。
    ワインと蒸留酒が21歳になっているエジプトでは、ビールに関してだけ18歳となっています。
    アジアではどうかというと、韓国が19歳、台湾、モンゴルが18歳、マレーシアは21歳です。

     

    世界各国、微妙に年齢が異なりますが、あくまで法律は守りましょう。

     

  • ヴァラジュディン(Varaždin)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァラジュディン(Varaždin)について勝手に語ります。

     

     

    クロアチアの首都ザグレブから北へ81kmの位置にヴァラジュディン(Varaždin)はあります。
    クロアチアは沿岸部は急峻な山が多く、ワイナリーは小規模なものが集まっていますが、ヴァラジュディンは大陸側にあり、比較的平坦な地形となっていることから大規模なワイナリーも多くあります。
    クロアチアのワインの飲み方は多様で、そのまま飲む人だけでなく、白ワインのスパークリングウォーター割り「ゲミシュト(gemišt)」、赤ワインの水割り「べヴァンダ(bevanda)」などもあります。
    ザグレブからはヴァラジュディン方向にワインロードなどがあり、見学できるワイナリーも多くあります。クロアチア人だけでなく、ヨーロッパから大勢の人がやってきます。

     

    さて、ヴァラジュディンですが、ここはクロアチア有数の都市史跡が残る町です。1991年のクロアチア紛争でも直接的な被害がありませんでした。
    歴史的には温泉地として知られ、1181年にハンガリー王ベーラ3世により温泉地として公式に記録した場所です。その後、1209年には自由王立都市となり、経済・軍事で発展していきました。
    要塞都市としても守勢の構造となり、聖ヨハネ騎士団による修道院なども建てられました。その後、支配者は転々と変わり、1756年にクロアチアの首都となりました。
    しかし、1776年に大火があり、このとき町の大半が焼けてしまいました。このことから、行政機能がザグレブへと戻ることになりました。
    都市として再建されたのは19世紀で、完全に再建されただけでなく、都市としても拡張し、それ以降、クロアチア北西部の産業中心地にまで成長しました。

     

    大火を経たとはいえ、史跡としては保存状態が良く、旧市街の要塞などは中世そのもの状態となっています。
    さらに、クロアチアならではの典型的なゴシック様式の円形塔などもあります。
    街中には、バロック、ロココの邸宅などがあり、また、クロアチア国立劇場はウィーンのヘルマン・ヘルマー、フェルディナント・フェルナーによって設計されました。

     

     

    20世紀にユーゴスラヴィアが崩壊し、クロアチア独立戦争は熾烈を極めました。
    農地は荒廃、都市部は破壊され、ワイン生産には大打撃となりました。しかし、ここヴァラジュディンは被害がほとんどなく、貴重な都市となっています。
    もし機会があれば、ぜひ訪問したい街です。

     

  • ジャムシード (Jamshīd‎)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジャムシード (Jamshīd‎)について勝手に語ります。

     

     

    ツァラトゥストラ(ザラスシュトラ)が、ゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダー (Ahura Mazdā) に「最初に語りかけた人間は誰なのか」と尋ねると、アスラ・マズダーはイマ(Yima)だと答えました。
    このイマはアヴェスター語で、ペルシア語ではジャムシード (Jamshīd‎)です。イラン最古の王朝ベーシュダード王朝の王の一人です。インド神話ではヤマ(閻魔)に相当しています。
    このジャムシードですが、最高神から「教えを広めよ」と言われたものの、それを拒否しました。ジャムシードが神より創造されたのは、布教活動をする目的ではないとしたのです。
    最高神アスラ・マズダーは、では、この世の世界を繁栄させるように指示しました。彼はこの言葉には従うこととしました。そこで、神からは王権を象徴する黄金の矢と黄金で飾られた鞭が与えられたのでした。

     

    そしてジャムシードに関してはワインに関する伝説が残っています。
    ある時、ジャムシードは、ハーレムの一人の女性を追放してしまいました。しかも追放した彼女に対し、絶望させ、自殺させるような仕打ちをしたのでした。
    思惑通り、彼女は落胆し、毒を飲んで自殺することにしました。そこで王の倉庫に行き、「毒」と書かれた瓶を見付けました。この瓶の中は腐ったブドウでした。ブドウを保管していたものの、身が腐ってしまい、もう飲めないと思われ、「毒」という扱いだったのです。
    当然ながらブドウの残骸は発酵していて、ワインとなっていました。
    彼女はその「ワイン」を飲みました。もちろん「毒」ではなく、逆に気分が高揚していきました。
    彼女は驚き、自殺をやめ、この発見を王に伝えることにしました。王は彼女の話を聞くと、この新しい飲み物を飲み、しかも夢中になりました。
    自殺させようとした女性も再びハーレムに戻しました。さらに、ペルセポリスで栽培されていたすべてのブドウを「ワイン」にするために醸造するように命じたといいます。

     

    これはあくまで伝説であり、ジャムシードですらゾロアスター教神話の登場人物です。
    それでも酒を禁じないゾロアスター教神話に登場するだけあって、いかにもそれらしい話に感じます。

     

  • オレンジワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオレンジワインについて勝手に語ります。

     

     

    以前にスロベニアのゴリシュカ・ブルダ(Goriška Brda)でご紹介しました。
    今回は、醸造法をご紹介いたします。

     

    オレンジワインは、基本的に赤ワインと同じプロセスで造られています。ただし原料が赤ブドウではなく、白ブドウになります。
    赤ワインの場合であれば、破砕した黒ブドウの果皮を果汁と一緒に発酵し醸すことになります。この際に果皮に含まれる青や赤色の色素(アントシアニン)が溶出して、赤ワインになるわけです。これが、オレンジワインの場合は、白ブドウを使いますので、果皮中にアントシアニンが含まれていないため、赤色にはなりません。代わりに黄色系色素が溶出することで、オレンジに近い色調になるわけです。
    オレンジワインは、いわばロゼワインと対極に位置するといえます。
    ロゼワインは黒ブドウを圧搾する際に、果皮から色素が移ります。これでピンク色になった果汁を、白ワインと同様に醸造する製法です。従って、オレンジワインは「白ブドウで造る赤ワイン」で、ロゼワインは「黒ブドウで造る白ワイン」となるわけです。

     

    タンニンについても言及しないとなりません。
    白ワインは酸化防止剤の役割をするタンニンがありません。そのため、タンニンが豊富な赤ワインに比べると酸化防止剤としての亜硫酸を多く使うことになります。
    そこで、オレンジワインですが、タンニンは赤ワインと同じように豊富であるため、亜硫酸の添加は少なくてすみます。
    実はナチュラルワインで扱う白ワインは、このオレンジワインによって添加物を抑えている傾向があるようです。

     

    では、料理との相性はどうでしょうか?
    実は世界のソムリエたちが、オレンジワインと合わせる料理について、従来では考えられないような料理まであわせてきて、実際に様々な提供をしているそうです。
    特に香辛料を多く使うアジア系の料理などでは、赤ワインでは渋味と辛味が合わされて、料理もワインも味を台無しにしてしまいます。白ワインでは弱すぎて、料理の味にワインが負けてしまいます。そんな香辛料系の料理にも、オレンジワインは合わせられるようです。

     

  • ボルツァーノ(Bolzano , Bozen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はボルツァーノ(Bolzano,Bozen)について勝手に語ります。

     

     

    以前に南チロル(アルト・アディジェ)を取り上げましたが、今回はその地域の中心都市ともいえるボルツァーノ(Bolzano)、ドイツ語ではボーツェン(Bozen)を紹介します。「イタリア屈指の白ワイン産地」であるボルツァーノ自治県の県都です。

     

    古代、この地にはラエティ人(Raeti)の一派であるイザルキ人(Isarci people)が居住していました。イタリアからガリア人の侵攻から逃れてきたエトルリア人の末裔といわれていました。
    ローマ帝国の時代には第10行政区ウェネティア・エト・イストリア(Regio X Venetia et Histria)の一部となりました。
    7世紀になるとローマの影響力が衰え、バイエルン人が移住してきました。これ以降、チロル地方はバイエルン人を中心とするドイツ系住民の居住地となりました。
    12世紀後半には市場ができ、さらに、ヴェネツィアからアルプス山脈、ブレンナー峠を経由してアウクスブルクを結ぶ交易路上に位置する交易所として重要な役割を担うようになりました。

     

    1363年にハプスブルク家の領地となり、オーストリアと神聖ローマ帝国の影響下になりました。
    1806年に神聖ローマ帝国が解体されると、ボルツァーノはイタリア王国の一部となり、アルト・アディジェ県になりました。しかし、ウィーン会議により、再びオーストリア帝国の一部としてチロル伯領に戻りました。この領土は、現代の南チロルだけでなく、オーストリアのチロルも含むものでした。
    そして第一次世界大戦、この地域ではロンドン条約によって戦闘が起きませんでした。ただ戦争の結果、ドイツとオーストリア・ハンガリーの敗戦により、南チロルがイタリアへと割譲されました。1919年でした。

     

    ドイツ語圏なのに、イタリアへと割譲されたことで、1920年代になるとイタリア化政策に晒されることになりました。それを先導したのがファシスト党のベニート・ムッソリーニでした。
    このイタリア化政策とは、イタリアの他の地域からイタリア語を話す人を移住させるというもので、ボルツァーノの人口を3倍にすることでした。これにより、もともとの住民であるドイツ語を話す人の人口よりイタリア語住民を上回らせるようにしたのです。
    ところがその後、ドイツでアドルフ・ヒトラー政権が誕生して、少し事情が変わりました。
    ヒトラーは、ドイツ民族をひとつのライヒのもとに束ねるというイデオロギーですから、イタリア側からすれば、ドイツがイタリアから南チロルを奪還するのではないかという懸念が起きたのです。
    ただこれは、1939年にムッソリーニとヒトラーとの間で、ドイツの「生存圏」に南チロルを含めることを取り下げたのでした。
    ただこれは、南チロルからドイツ第三帝国に移住することを拒否したドイツ系住民は、裏切り者とみなされることになったのです。

     

    そしてついに第二次世界大戦です。
    1943年にイタリアが連合国軍に降伏すると、ドイツ軍は北部イタリアを占領しました。アルペンフォーラント作戦地域(Operationszone Alpenvorland)とし、ボルツァーノにはその本部拠点となりました。これは事実上のドイツ編入でした。
    1944年には「ボルツァーノ通過収容所」が設立され、イタリア最大の収容所になりました。
    大戦後は南チロルのドイツ系住民の間で独立運動の機運が高まりました。これにより分離主義過激派「南チロル解放委員会」(South Tyrolean Liberation Committee)によるテロ攻撃などもありました。
    これに対して国際連合は、11年に渡って調停と交渉を繰り返し、南チロルに相当の自治権を付与することとなりました。
    それでも現在は、言語の構成として、イタリア語が74%、ドイツ語が26%となっていて、ドイツ語圏としては小さな地域となっています。

     

    さて、ボルツァーノでのワイン製造ですが、古い伝統が守られ、引き継がれています。
    ワインセラーは、現在30程度あり、協同組合によって生産されています。
    ブドウ畑は、郊外だけでなく、歴史地区にもあり、それだけで街の外観が彩られています。

     

  • ラ・モッラ(La Morra)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラ・モッラ(La Morra)について勝手に語ります。

     

     

    ラ・モッラ(La Morra)は、イタリア北部のピエモンテ州クーネオ県(Provincia di Cuneo)にあり、人口は約2,700人です。
    クーネオ県はピエモンテ州では南西部に位置していて、南はリグーリア州ですが、西はフランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 (PACA)になっています。イタリアの中では3番目に広い県です。
    ラ・モッラは、イタリアを代表する高級赤ワインであり「ワインの王様」と呼ばれるバローロ村(Barolo)の南側に位置し、丘陵の頂上近くに村があります。丘陵の裾野にブドウ畑があり、斜面に沿って広がっています。
    土壌はマンガンとマグネシウム、石灰質の含有量が多いようです。気候は温暖湿潤で、夏と冬の温度差が大きく、夏は雨が多いのが特徴です。

     

    ラ・モッラで生産されるブドウは、バローロワインの原料になるネッビオーロ種が中心になっています。
    バローロはDOCG(統制保証原産地呼称)に格付けされているため、バローロ村近辺の限定地域のみ生産されています。ラ・モッラはまさにその条件を満たした産地です。
    「バローロ5大産地」の中の一つに数えられ、他はセッラルンガ・ダルバやカスティリオーネ・ファッレットなどです。

     

    ラ・モッラは小さな村ですが、ワイン好きの人にはバローロの産地とし知られ、ワイン目当ての観光客が多いといえます。
    そのため、ワイン目当ての客に対応するためのワインバーやレストランもあります。村の規模からは考えられないほどです。もちろん、土産用のワインを販売しているワイン蔵も多くあります。
    バローロワインはかなり強い味なので、レストランでは肉料理を中心とした料理がメインです。

     

  • ヌーシャテル(Neuchâtel)・ノイエンブルク(Neuenburg )

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヌーシャテル(Neuchâtel)・ノイエンブルク(Neuenburg ) について勝手に語ります。

     

     

    スイス西部にあるヌーシャテル州はワイン産地として知られ、実は日本にもわずかですが輸出されています。
    州都はヌーシャテルでフランス語圏ですが、ドイツ語名ではノイエンブルク(Neuenburg )といいます。人口は3万4千人程度の小さな都市です。フランス国境に近く、ヌーシャテル湖の湖畔に位置しています。この湖岸でブドウが栽培され、伝統的にワインを醸造してきました。ベルンへは約40㎞の位置になります。

     

    ここはブルグント王国のルドルフ3世が居城を構えた場所です。
    ブルグント王国は、ローヌ川流域を領土としていて、現在のフランス、スイスにまたがっていました。このブログで以前にも述べていますが、「ブルグント」はフランス語で「ブルゴーニュ」です。
    14世紀半ばには、この地域もペストの感染拡大により大きな被害を受けました。人口が激減し、人口が回復するのは長い時間を要しました。
    1535年、カルヴァンのいとこオリヴェタンが、フランス語翻訳の聖書をこの地で発刊しました。

     

    フランスに隣接する場所だけあって、この地域は様々な支配を受けてきました。18世紀に本国からはるかに離れたプロイセンの飛び地にもなりました。もっとも、本国から距離が離れていたことが幸いして、プロイセンの支配力は強くなく、1815年からはスイス盟約者団にも加わりました。ただし、プロイセンの支配下であるのは変わりませんでした。
    プロイセン支配に反対する蜂起は、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命の影響によるものでした。これにより共和制へと移行しました。
    当然ながらプロイセン側は反発し、軍事介入へと進む勢いでした。ただこれはナポレオン3世が介入たことで、1857年にパリ条約が締結され、プロイセンとヌーシャテルの間で和解が成立しました。同時に、プロイセンの支配が終わりました。

     

    現在、日本で人気のヌーシャテルワインといえば、ブドウの品種は、シャスラ、ピノ・ノワール、ギャマレ、ピノ・グリ、シャルドネ、マスカットなどです。
    ウイユ・ドゥ・ペルドリ(ロゼワイン)、ピノ・ノワール(赤ワイン)、シャスラ(白ワイン)など、高品質なワインが生産されています。

     

  • 失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala) について勝手に語ります。

     

     

    紀元前2世紀まで、ワインで知られたコンジカラ (Konjikala) という町がありました。
    しかし、この地に大地震が起こり、ワインの町は廃墟となってしまいました。
    これがのちに新たな村となり、都市となり、そして現在のアシガバート(Aşgabat)となりました。トルクメニスタンの首都です、1919年から1927年の間はポルトラツク(Полторацк)という都市名でした。

     

    コンジカラは廃墟となり、失われた町でしたが、古代イランのパルティア王国(アルサケス朝)のミトラダテス1世によってニサが作られました。
    ニサはパルティアの初期の首都でした。旧ニサは城壁に囲まれた遺丘で、北部に王の宝物庫などがあったと推測されています。中央部には巨大建築物群の遺構が残っています。新ニサも城壁に囲まれた遺丘で、パルティアが滅亡した後も滅ぶことはありませんでした。最終的に廃れるようになったのは、13世紀にモンゴルの襲来で破壊されたことによりました。その後は小さな村のままでした。

     

    このパルティアですが、多様な異民族、異文化の地域を支配してきたことで、ペルシアやギリシアなど、当時の覇権的な役割だった地域の文化を取り入れていました。
    初期はセレウコス朝との対立関係がありましたが、セレウコス朝はローマによって滅ぼされたことで、パルティアとローマが西アジアを分けるほどの勢力となりました。こうなると、ローマとの衝突は避けられなくなりました。その戦いは一進一退を繰り返しました。
    西暦2世紀以降になると、メソポタミアやバビロニアにローマ軍が侵入することが多くなり、セレウキアとクテシフォンを占領されることがありました。さらにパルティア側では王位をめぐる内戦もおきたことから弱体化していきました。

     

    実はパルティアについては、未だ不明瞭な部分が多く、史料も圧倒的に乏しいといえます。
    しかもこの地では、後にイスラム世界となり、パルティアの歴史については記録も記憶もほとんど残らなくなってしまったのです。
    滅亡についても、ローマとの戦争により弱体化し、サーサーン朝の勃興によって滅亡しましたが、経緯については、よくわかっていません。パルティアの公式な歴史記録がないこともあり、他の国々の文書からはかり知ることが多いのです。

     

    さて、失われたワイン産地だったコンジカラですが、19世紀になるとロシアによってアシハバードという町が作られました。要塞も造られ、新しい街として発展が始まりました。1881年にはガージャール朝がアクハル条約でロシアに割譲したことで、ロシアはさらにこの町を開発していきました。
    20世紀になると、ロシアの赤軍によってアシハバートが掌握され、1918年にはイギリス軍と白軍の連合軍に奪われるものの、沿カスピ連合政府が設立されたことで内戦となりました。そして1919年に奪回したことで、町の名をポルトラツクとしました。
    ポルトラツクはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の主要都市となり、1925年にトルクメン・ソビエト社会主義共和国が誕生すると首都となりました。1927年にアシハバードの名になりました。

     

    1948年10月6日には、この地に大地震が派生しました。市の人口の3分の2が失われたようです。まさに、紀元前の時代にワインの町だったコンジカラが廃墟となったのと同じような規模だったのでしょう。
    そして、1991年、ソ連からの独立によりアシガバートという都市名になりました。

     

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    謎の独裁国家トルクメニスタン

     

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