今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • 李白のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は李白のワインについて勝手に語ります。

     

     

    中国の河南省で、約9000年前の新石器時代の遺跡から発見された土器に、ワイン由来のタンニンの痕跡が見つかっています。これが本当にワインだったのかどうかは分かりませんが、中国での発見ということで興味深い話でした。ワインに関して、最も古い文献では、漢の武帝の時代に遡ります。西域に派遣された張騫がワイン醸造用のブドウであるヴィティス=ヴィニフィラを持ち帰ったことで、中国でのワイン醸造の歴史が始まったとされるものです。

     

    【参考ページ】
    張騫のワイン

     

    有名な詩人に李白や杜甫がいますが、彼らはワインを題材とした漢詩を詠んでいます。そのため、中国でのワイン生産は発展していたと思われます。元の時代が最盛期だったようです。王宮内にブドウ畑があったともいわれています。しかし、明や清の時代には停滞してしまいました。その時代に人気があったのは蒸留酒でした。

     

    今回はワインを飲んでいた李白をご紹介します。
    李白の出身地、どのような家系だったのか等、実は詳細不明です。様々な説があるようですが、定説にはなっていません。
    725年、李白は25歳頃だったといわれ、この頃から10数年の間、放浪の旅に出ました。その地域は長江の中下流域でした。ここには洛陽、太原、東魯などがあります。732年、李白が32歳の時に結婚しました。相手は安陸の名家の娘でした。2人の子が生まれました。

     

    10年後、李白は玄宗の妹の玉真公主の推薦により、長安へと上京することになりました。玄宗と謁見する前に、当時の詩壇の長老である賀知章により「謫仙人」の評価を得ました。宮廷の有力者2人が推薦することになり、李白は宮廷の翰林供奉という側近の顧問役として玄宗に仕えることになりました。そのため、李白は宮廷での詩歌を作るようになりました。おそらくワインもこのときに飲むことがあったのだろうと思われます。また、この時代には楊貴妃がいました。彼女の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られました。

     

    しかし宮廷文人として活躍したのは、わずかに3年でした。他の宮廷人との間に摩擦があり、744年に、宦官の高力士らの讒言を受け、長安から離れることになりました。その後に杜甫と出会い、意気投合しました。また、阿倍仲麻呂とも親交がありました。

     

    757年、玄宗の第16子である永王李璘の幕僚として李白は招かれることとなりました。この永王は異母兄の粛宗が、玄宗に無断で皇帝に即位したことから、これを認めない立場でした。そこで、、粛宗の命令を無視し、勝手に軍を動かしました。これが粛宗から反乱軍と見なされたのでした。その結果、捕らえられ、斬られるということになりました。李白も捕らえられました。何とか釈放されたものの、結局は流罪とされました。しかしこれも、759年に、白帝城付近で罪を許されました。その後の李白は、再び各地を放浪しました。死去したのは762年の冬で、62歳だったといわれます。

     

    李白の伝説としては、船に乗船しているときに、酒に酔い、水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したというものがあります。このとき飲んでいたのがワインだったかどうかは分かりません。

     

  • ミュルーズ(Mulhouse)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミュルーズ(Mulhouse)について勝手に語ります。

     

     

    アルザス地方の誇る伝統のワインが集まる都市がいくつかありますが、今回はミュルーズ(Mulhouse)をご紹介します。フランスのグラン・テスト地域圏のオー=ラン県南部で、スイスとの国境に近い都市です。アルザス地方ということから、フランスの都市らしくない顔を持ちます。

     

    ミュルーズのランドマークといえば、サン・テティエンヌ聖堂(Temple Saint-Etienne)です。旧市街の中心部レユニオン広場にあります。1866年に建設されたもので、もともとこの場所には、12世紀に建設された教会があった場所でした。しかも、この聖堂はプロテスタントで、この規模の聖堂が街の中心部にあるというのは、フランスではミュルーズだけかもしれません。また、フランス国内にあるプロテスタント建築としては最も高いものになります。

     

    アルザス地方を代表する工業都市で、特に18世紀以降に発展しました。第二次世界大戦が終結するまで、フランスとドイツの間で度々領有権が移り変わったのは、この地方ならではのことです。それも工業都市としての魅力があったことに繋がり、逆に現在まで、あまり観光客が集まる都市にはなっていません。それでも貴重な博物館がここにはあります。その中で、一般公開されているものとしては世界最大の自動車コレクションがあります。国立自動車博物館(Musée national de l’automobile)が所蔵するシュルンプ・コレクション(Collection Schlumpf)です。他にも染色織物博物館、鉄道博物館などがあります。

     

    ミュルーズという都市名が記録に現れるのは、12世紀でした。このときは神聖ローマ帝国の南アルザス郡のスンドゥガウ(Sundgau)の一部でした。 自由都市となり、1354年には十都市同盟(Zehnstädtebund, Décapole)に加盟していました。この同盟は、神聖ローマ皇帝カール4世が条約を批准して創設されたものでした。1378年にカール4世死去にともない、一旦は解消されましたが、翌年に再度創設され、ミュルーズは1515年まで加盟していました。た。新たに同盟した相手はスイスでした。

     

    1648年のヴェストファーレン条約により、スンドゥガウはフランスに併合されました。しかし、この条約ではミュルーズはフランス併合になっていませんでした。独立した都市国家と同じような扱いだったのです、それも、独立したカルヴァン主義を保っている都市というのが特徴だったからともいえました。それでも1798年いは、住民投票の結果、フランスにへと編入することになり、これ以降はアルザス地方の都市となりました。

     

    19世紀の普仏戦争では、フランスがプロイセンに敗北し、その後のドイツ統一により、ミュルーズはドイツ帝国のアルザス・ロレーヌ州に併合されました。20世紀に入り、第一次世界大戦では、フランス軍がミュルーズを占領したものの、すぐにドイツ軍がフランス軍を追い払いました。ただ、第一次世界大戦が終了すると、アルザス・ロレーヌをフランスが占拠することになり、フランスへ併合しました。これもナチス・ドイツがフランス侵攻したことで、ドイツがまた占拠することになりました。現在のフランス領となったのは、1945年5月で、第二次世界大戦の終結とともにでした。

     

     

  • カリャリ(Cagliari)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカリャリ(Cagliari)について勝手に語ります。

     

     

    イタリア共和国のサルデーニャ島南部にカリャリ(Cagliari)はあります。周辺地域を含めた人口は約15万人で、サルデーニャ自治州(Sardegna)の州都になっています。郊外コムーネを含めると人口は約50万人となり、大都市圏となっています。

     

    都市の歴史は古く、紀元前7世紀頃にフェニキア人により建設されました。これはサルデーニャ島での貿易植民地の一つというものでした。このときはカラリス(Karalis)という名称で、古代ギリシャ語では「Kalares」、ラテン語では「Càralis」でした。そのため、基本的にカルタゴ(Carthāgō)の植民地であり、重要な交易を担う場所でした。実際、ここの港の役割としては、地中海の中継地点であり、特にアフリカ大陸を繋ぐのに最適な地でした。

     

    カルタゴからローマへと支配者が代わり、ローマもカルタゴと同じようま交易の中継地として重要視していました。ただ、このローマによる征服については、いつ頃だったかの史料がありません。さらにいうと、ローマ帝国が支配していた時代に、この地域で歴史的な出来事についても記載されたものがありません。それでもがないが、この町はサルデーニャ島の首都であったのは間違いないといわれています。また支配者はローマ帝国でも、植民地という扱いでなかったことから、住民はローマ市民の権利を獲得していました。しかし、ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅亡すると、サルデーニャ島はヴァンダル族(Vandal)によりに陥落させられました。ヴァンダル族はゲルマニアから北アフリカに移住した民族です。

     

    ヴァンダル族が支配する時代から、次に東ローマ帝国の影響を受けて、カリャリは独立王国の首都となりました。ここで外部に支配者のいない自治国家となりましたが、これで繁栄とまではいきませんでした。ムーア人の海賊が再三にわたって攻撃してきたのでした。都市は荒廃し、住民は新たな場所を求めて移住していきました。その移住先として代表的なのは、サンタ・イジアという新たに建設した町でした。海から離れているため、海賊の脅威がなかったのでした。

     

    カリャリの再建は11世紀に入ってからでした。ピサ共和国が侵入したことで、カリャリの都市再建が行われたのでした。ピサは海洋共和国であることから、この島の支配をしたかったからです。14世紀になると、アラゴン王国がピサを破って、カリャリを征服しました。サルデーニャ全体がアラゴンの支配となり、カリャリはサルデーニャ副王国の行政首都とし、後にスペイン帝国の支配下に入りました。

     

    18世紀はハプスブルク家が事実上の支配を行い、フランス革命以後に、フランス軍がカリャリへと進軍してきました。フランス軍は敗れ、カリャリの人々は、その見返りとして、ハプスブルクサヴォイア家からの権利を獲得しようとしました。しかし、その結果がサヴォイア家に対する蜂起に発展しました。19世紀末からは、イタリア統一運動が活発化し、カリャリは都市として急速に成長していきました。この時代に建設されたものは、伝統的なサルデーニャ風とアール・ヌーヴォー調が組み合わされたものでした。20世紀の第二次世界大戦では多くの被害が出ました。連合国、ナチス・ドイツ、イタリアだけでなくアメリカもこの地に関係してきました。戦後になって減少したカリャリの人口も、増加に転じ、大規模な住宅地の開発などに繋がりました。

     

     

    1970年代末から、イタリアでは「イタリアワイン・ルネッサンス」と呼ばれることがありました。ワイン生産についての近代化が急速に進んだのでした。同時にブドウ品種についても、イタリア各地で国際品種が植えられていきました。そのため、古くから栽培されていたイタリア固有種が減少していきました。この流れに乗らなかったのが、カリャリのあるサルデーニャでした。頑なに土着品種を栽培し、独自のワインを守り続けてきているのです。そういう意味でも、カリャリは古き良き時代のワインを気軽に飲まる都市といえます。

     

  • アシガバート(Aşgabat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアシガバート(Aşgabat)について勝手に語ります。

     

     

    以前にご紹介した「失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala)」に関連した内容です。ワイン産地だったコンジカラですが、紀元前2世紀に大地震に襲われ、町は廃墟となりました。そこにアルサケス朝パルティアによりニサという町が作られ、シルクロードの交易で繁栄しました。しかし、ニサもモンゴル軍に襲来され、破壊されてしまいました。その後は繁栄の面影のない、小さな村のままとなっていました。ここまでは、現在のトルクメニスタン(Türkmenistan)の首都になったとは思えない歴史です。

     

    この小さな村に大きな変化が起きたのは19世紀でした。
    ロシア人が入ってきて、新たに「アシハバード」という町を作りました。さらに要塞まで造られ、多くの人々が集まってきました。もともと交易の盛んな土地だったことから、ます商人が集まり、人口増加による需要を満たすために各種の職人も集ってきました。これにより、新たな発展が始まりました。

     

    当時、この地方の支配者はガージャール朝でした。
    現在のイランを中心に支配していたトゥルクマーン系ガージャール部族連合で、18世紀末に生まれたイスラム王朝でした。ガージャール朝時代はイランにとって、暗い時代ともいわれています。 権力基盤が弱く、軍事力も部族勢力に依存していたことから、各部族の勢力を抑えることができませんでした。このガージャール朝が1881年のアクハル条約により、この地をロシアに割譲することになりました。ロシアとしては、中央アジアの基地的な役割として、戦略的に重要な場所としていました。イギリスとも対抗するため、この町を開発していきました。そのため、アジアや中東ではなく、ヨーロッパ的な町並みが作られていき、ザカスピ州の行政の中心地にまでなりました。

     

    宗教的な事柄としては、1902年にバハーイー教の礼拝堂がつくられました。バハーイー教は、イランでは最初から布教を禁止されていました。そこで、創始者のバハー・ウッラーと信者はイランを逃れ、イラク、トルコ、アッカへと追放されていきました。しかも迫害が続いている宗教です。バハー・ウッラーは、イランから追放された後、自分がアッラーから遣わされた使徒、預言者であると宣言していたのでした。この信者をアシガバートは受け入れ、バハーイー教の共同体が設立されたのでした。

     

    【参考ページ】
    キリストの血入門 28(イスラム教の分派)

     

    20世紀に入り、第一次世界大戦が勃発し、ロシアでは革命が起きました。そこで、赤軍がアシハバートを掌握したものの、1918年にはイギリス軍と白軍に奪われたりしました。それでも、ここでは沿カスピ連合政府のザカスピ臨時政府が設立されたことで、アシハバート内戦となりました。ボリシェヴィキとの激しい戦闘となりました。
    1919年に奪回し、このときに市名をポルトラツクとしました。国としてはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国となり、主要都市の1つに名を連ねました。1925年にはトルクメン・ソビエト社会主義共和国となり、首都となりました。1927年に市の名称をアシハバードに戻りました。そしてソ連が崩壊し、トルクメニスタンが独立しました。この独立の際に都市名をアシガバートとしました。21世紀には武装勢力による暴動事件が発生しました。

     

     

    現在は、人口86万人の都市で、政府系の建造物が白い大理石を用いているため、海外から「ホワイト・シティ」(White City)という別名で呼ばれたりしています。古代のワイン産地という面影は皆無です。

     

  • アルブフェイラ(Albufeira)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルブフェイラ(Albufeira)について勝手に語ります。

     

     

    ポルトガルを代表するビーチリゾートの街がアルブフェイラ(Albufeira)です。断崖を背にしたビーチで、その景色は綺麗というより「お見事」と表現したくなるほどです。リゾート地なので、街は色々なショップやレストランが並び、近隣のワイナリーで生産されたワインも気軽に飲めます。断崖の上に登れば、街やビーチが一望出来るので、それも絶景です。

     

    ただ、この街についてはイスラム勢力が侵攻した以前のことはよく分かっていません。イスラム支配の時代には、要塞化した町となっていて、崖の上に城、町を壁が取り囲むという状態でした。
    第5代ポルトガル王のアフォンソ3世(Afonso III)は、ポルトガル南部のイスラム教勢力との戦争を開始しました。その結果、1249年にはイスラム勢力の飛び地アルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させることに成功しました。これでポルトガルのレコンキスタは完了しました。翌年、アルブフェイラも占領し、この地をアヴィス騎士団(Ordem Militar de Avis)へ与えました。

     

    このアヴィス騎士団とは、ポルトガル王国がカスティーリャ王国から独立し、イベリア半島のレコンキスタに参加するために生まれたものでした。もともとレコンキスタの十字軍騎士たちは、ピレネー山脈以北から集まった人々でポルトガル人ではありませんでした。そこで、テンプル騎士団のポルトガルでの活動を許可されたことで、ポルトガル人の騎士団が生まれのでした。

     

    1504年になると、ポルトガル王国の黄金期を築いたマヌエル1世(Manuel I)から憲章が与えられました。彼は「幸運王」とも称された国王です。探検隊や商業の発展を積極的に支援したことで知られ、中でも1497年にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマの航海は、喜望峰を経てインドへ至る海上ルートの発見となりました。さらにブラジルをポルトガル領にすることになりました。インド洋でもアラブ商人を排除し、この交易路をポルトガル商人に独占させるようにしました。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、マデイラ島からの砂糖など、莫大な利益を得ることに成功したのでした。

     

    アルブフェイラは、1755年にリスボン大地震による津波の被害を受けました。低地部分の居住地域では、わずかに27軒だけしか残らなかったといわれ、生き残った人々は教会へと避難したものの、ここも崩落したことで、多大な犠牲者を出す結果となりました。このリスボン大地震は、西ヨーロッパの広範囲に強い揺れ起こしたもので、津波による死者は1万人を超えるといわれています。死者数は約6万人で、推定されるマグニチュードはMw8.5から9.0という巨大なものでした。地震当日はカトリックの祭日である万聖節でした。

     

     

    もともと小さな漁村だったアルブフェイラですが、現在は夏場は ヨーロッパから たくさんの観光客が集まる人気のリゾート地になりました。マリーナもあり、いかにも富裕層が集まる雰囲気を出しています。ここで優雅にワインを飲める陽が訪れることを祈るのみです。

     

  • ゴディン・テペ遺跡(Godin Tepe)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はゴディン・テペ遺跡(Godin Tepe)について勝手に語ります。

     

     

    1961年、イランのザグロス山脈中部でゴディン・テペ遺跡(Godin Tepe)が発見されました。発掘調査が行われ、出土した壺の破片に残留物が付着していたものがありました。この「残留物」を分析したところ、紀元前3500から3100年頃のシュウ酸カルシウム、要するに炭素のカスであることがわかりました。これは六条大麦を醸造する過程で生まれたものであると分かりました。さらに、その壺には、同時代の史料で見られるビールを指し示す印が刻印がされていたのでした。そこから、これこそ、世界最古のビールの痕跡であるとの発表に至ったわけです。
    そればかりでなく、この大発見の前年に、この研究チームは同じくゴディン・テペで、最古のビールとほぼ同時代のワインの痕跡も確認していたのでした。

     

    これだけの昔からビールもワインも飲用されていたことが再発見されたわけですが、文献からすると、このメソポタミア南部の地方では、シュメール人にはビールのほうが人気があったことが分かりました。ワインと違い、ビールは上流階級だけでなく庶民だでも好んでけでなく上流階層にも好んで飲まれていたようでした。

     

    このゴディン・テペですが、ギルガメシュ叙事詩にも登場しています。
    重要な交易ルート上に位置する場所でした。特にザグロス山脈(Zagros Mountains)が立ちはだかることから、この険しいルートを通過するための拠点でした。この交易ルートはメソポタミアとアフガニスタンを結ぶものでした。ゴディン・テペは商人の旅人で賑わうオアシス都市で、ここでビールが多く消費されていたといのも頷けます。確かにワインのイメージではないかもしれません。

     

     

  • テュルクアイム(Turckheim)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はテュルクアイム(Turckheim)について勝手に語ります。

     

     

    高品質なブドウが採れるワインの町として有名なテュルクアイム(Turckheim)は、フランスのグラン・テスト(Grand Est)地域圏、オー=ラン県(Haut-Rhin)のコミューンです。アルザス・ワイン街道沿線にあり、人口は約3700人の小さな町です。

     

    この町の歴史はゲルマン人の移動に始まります。ゲルマン人がライン川を越え、ローマ帝国の領内へと侵攻してきました。このとき、北海近くにいたゲルマン人のトゥリンギ族がこの地とどまり、定住したようです。そのまま部族名から地名になったといわれています。この地域は、ローマ帝国とゲルマン人の影響を多く受けてきましたが、ローマ帝国が東西分裂となり、西ローマ帝国が滅亡となるとゲルマン人の地域となりました。キリスト教も受け入れ、現在のフランスとドイツが国境を接するアルザスの山中にマンステール修道院ができました。ここは谷で、修道士たちは今でも人気のチーズづくりをしていました。テュルクアイムはこの修道院の領地となっていました。史料で最初に登場したのは743年といわれています。その中でテュルクアイムは「ワイン産地」と記載されているようです。

     

    また中世には神聖ローマ帝国の一部を形成するオーランズベール領主(Hohlandsberg)の場所にもなりました。帝国の自由都市になったのは、1312年でした。このときから城壁が建設されるようになりました。現在、旧市街を囲む城壁は三角形のようになっています。町の入り口となる門は、跳ね橋になっています。3つの門が残っていて、主要門になっているのはフランス門で、南側に位置しています。東にはブラン門、西にはマンステール門があります。

     

    1354年にはアルザス十都市同盟の一員として、市場を開く特権とともに各種特権が授けられました。この時代にが、ワインの輸出が活発となっていて、繁栄期を迎えていました。15世紀に100年戦争が勃発しましたが。テュルクアイムは大きな影響は受けませんでした。これはアルザス地方全体もそうでした。しかし、1618年からの30年戦争では、壊滅的な被害を受けることになりました。しかも、それだけではなく、ペストの流行、飢饉などにより、人口は半減したほどでした。30年戦争については、ヴェストファーレン条約が締結され、フランス王国がアルザスのハプスブルク家領を獲得しました。ところが、テュルクアイムを含めたアルザス十都市同盟は、神聖ローマ帝国への帝国直接性特権により、フランス王国に従うことを拒絶したのでした。言語もドイツ語圏で、特権もあったことから、むしろ当然の流れともいえますが、次に1675年のテュルクハイムの戦いで変化しました。フランス軍が神聖ローマ帝国軍に勝利し、1678年のナイメーヘンの和約により、今度は完全にフランスに併合されたのでした。

     

    再び変化したのは1871年の普仏戦争後でした。テュルクアイムを含むアルザスはドイツ帝国に併合されたのでした。フランスへ戻ったのは1918年でした。このようにテュルクアイムには、アルザスという地方独特のドイツとフランスの歴史が交差しながら、優れたワインを生み出してきたのでした。

     

     

  • カーボベルデ共和国(República de Cabo Verde)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカーボベルデ共和国(República de Cabo Verde)について勝手に語ります。

     

     

    アフリカのセネガルやモーリタニアの西側、大西洋沖に浮かぶ島々にカーボベルデ共和国(República de Cabo Verde)があります。日本での知名度は圧倒的に低いといえます。位置的にアフリカのイスラム教圏のようにも感じるため、ワインとは無縁にような気がしますが、気軽にワインの飲める国です。それもそのはずで、15世紀から20世紀の1975年までポルトガル領でした。住民もポルトガル人とアフリカ系との間に誕生した人を祖先にする人々が7割を占めています。公用語もポルトガル語です。ワインが流通しているということは、宗教は85%がカトリックと最大です。中にはアフリカの宗教と習合したカトリックもあるようです。プロテスタントもあり、その中ではナザレン教会が最多で、他にセブンスデー・アドベンチスト教会、末日聖徒イエス・キリスト教会などもあります。

     

    ここは、もともと無人島だったと思われています。それはポルトガルの冒険家が1456年に、最初にこの諸島に着いた時に無人だったからです。それでもギニアの海岸地方からは漁師たちが訪れていたとようです。それ以前からも、アラブ人やフェニキア人が太古より訪れていたのではないか、ともいわれています。ただそれは民話伝承です。現在、確実な史料によれば、1444年にポルトガルのディアゴ・ディアスは周辺の島々を発見し、1455年にジェノヴァ商人のアントニオ・ノリと、ポルトガル人のディオゴ・アフォンソが訪れたとさています。このときは諸島のすべての島ではなく、残りの島を発見したのは、その後数十年を要しました。その後、植民地化が始まり、16世紀になると、アフリカから南北アメリカ大陸へ向かう奴隷船の中継拠点となりました。そのため、奴隷貿易で栄える島となったのでした。

     

    ポルトガルからの入植者は、アフリカから連行されてきた人との交わりにより、両者の混血によるクレオール文化が築かれていきました。このようなポルトガルと別の文化が育つ傍ら、海賊に狙われるようになりました。特にポルトガル人居住地が攻撃されました。

     

    繁栄は奴隷貿易が衰退したことにより、徐々に失われていきました。しかもそれだけでなく、旱魃や飢餓が頻発するようになりました。それでも奴隷貿易で活躍した港は、19世紀になると商業港として重要性が増していきました。ただ、頻発する旱魃などは、農業に大打撃を与え、農民たちはルデ人の外国への移住するようになっていきました。その多くがアメリカでした。
    そのため、現在では本国の人口より多い数のカーボベルデ人が外国で生活しています。最大のカーボベルデ人移民のコミュニティはやはりアメリカで、その数は約50万人といわれます。本国の人口も同程度なので、いかにアメリカに移住したかが分かります。それ以外にも、ポルトガルで約8万人、アンゴラで約4万5千人、セネガルで約2万5千人といわれます。ポルトガルを除くヨーロッパでも、イタリアやフランス、オランダなどにもいます。

     

    カーボベルデのフォゴ島には、国内最高峰の成層火山であるフォゴ山があります。海抜2829メートルです。活発な火山活動を続けていて、最近では2014年に噴火しています。この頂上付近には、カルデラがあり、周辺に小さな村があります。この村人たちは、山の斜面でコーヒー豆やブドウなどを栽培しています。ただ、このブドウを使ったワインは、かなり評判が良く、ヨーロッパでは知名度は高いといいます。

     

     

  • ハイリゲンシュタット (Heiligenstadt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)について勝手に語ります。

     

     

    日本では「楽聖」と呼ばれるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、20代後半頃から持病の難聴が悪化していきました。最終的には全聾になったといわれますが、この難聴が進行している時代の1802年4月から10月の期間、静養していたのがハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)でした。当時はここは温泉保養地だったのでした。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで滞在していたのは、プロプスガッセ(Probusgasse)のパン焼き小屋でした。ここは現在、ベートーヴェン記念館(Beethoven Museum)になっています。実はここで彼は遺書を書いていたのでした。ちなみに、この記念館の近くには小川沿いに「ベートーヴェンの小路」があります。
    また、ベートーヴェンといえば、生涯に60回以上も引越しをしたことでも知られます。当然のようにハイリゲンシュタットでも、このパン焼き小屋だけでなく、いくつかの場所に住んでいました。その中にホイリゲ(die Heurige)もありました。ホイリゲについては、過去にご紹介しています。

     

    【参考ページ】
    オーストリアのワイン
    ウィーン郊外のホイリゲ
    シュランメル音楽(Schrammelmusik)
    ウィーンのホイリゲ・ミニガイド

     

    そのホイリゲは、「マイヤー・アム・プファールプラッツ(Mayer am Pfarrplatz)」で、ベートーヴェンが滞在していたのは1817年の夏でした。
    このようなホイリゲがあるということで、ハイリゲンシュタット はウィーンの森のワイン生産地だったわけです。1892年までは独立した自治体でしたが、現在はウィーン19区のデープリング(Doebling)になっています。 ハイリゲンシュタットとは「聖なる街を」を意味します。実はキリスト教以前から、この地が聖なる場所だったからだといわれています。しかし、どの場所が聖なる場所だったのかはわかっていません。

     

    ワインも古くから生産されていて、900年頃から移住してきたフランク人によりワイン醸造をしていたようです。このような古いワインセラーの史跡も丘から発見されています。1250年頃にはクロスターノイブルク僧院により、ブドウ栽培がされていたという記録もあります。
    14世紀には繁栄した地域となっていましたが、15世紀以降になると戦火の影響を受けました。特に1484年のハンガリーのマーチャーシュ1世、1529年にはオスマン帝国の第一次ウィーン包囲は、ハイリゲンシュタットや教会に大きな影響を与えました。

     

    その一方で、宗教改革では大きな被害はありませんでした。次に大きな被害を受けたのは、1683年の第二次ウィーン包囲でした。このときハイリゲンシュタットの住民は虐殺されました。街は荒廃し、疲弊しました。ここから経済を回復させたのは18世紀後半になってからで、温泉施設が成功したからでした。入浴客が多く集まり、併設するレストランも潤いました。ベートーヴェンのこの時期の静養に来ていました。まるで温泉で町おこしをする日本の地方の自治体のようでした。

     

    ところが、この温泉施設は長く続きませんでした。1875年にドナウ川の河川工事が行われ、その影響なのか、ハイリゲンシュタットの温泉が涸れてしまったのでした。それでも、富裕層の人たちの避暑地、あるいは居住地として人気があり、1873年にはハイリゲンシュタット墓地が開かれましたが、これはブドウ畑を切り開いて作られました。その後も発展を続け、人口も増加しました。

     

    そして1892年、ハイリゲンシュタットはウィーンに併合されました。1930年には集合住宅のカール・マルクス・ホーフが建てられ、1934年のオーストリア内戦では、反政府の労働者たちが立て籠もったこともありました。今でもホイリゲは残りますが、ドナウ川から広がる丘陵地帯のブドウ畑は、19世紀以降に工場が多く建つようになりました。

     

     

  • ギズボーン(Gisborne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はギズボーン(Gisborne)について勝手に語ります。

     

     

    ニュージーランドのワイン産地として知られるギズボーン(Gisborne)は、世界中で最も日付変更線に近い都市といわれています。そのため、朝日が昇るのも世界でもっともはやくなります。ニュージーランド北島の北東部にあり、人口は3万4,000人ほどですが、この周辺地域では中心都市になっています。オークランドからは距離があり、車で6時間、飛行機で1時間程度を要します。マオリ語では「Tūranga-nui-a-Kiwa」となり、意味としては「キワの停泊場所」になります。マオリ人が最初にニュージーランドにカヌーを接岸した場所だといわれますが、ヘイスティングズをご紹介したときにも、同じことをいわれているので、実際はどうなのか分かりません。

     

    【参考ページ】
    ネーピア(Napier)とヘイスティングズ(Hastings)

     

    ギズボーンは日照時間が長く、温暖な地域になっています。これは緯度が低いことが影響しているため、スコールもあります。これで気温の上昇を抑える働きもあり、さらに海風も気温を下げる効果があることで、ブドウ栽培にとっては良い影響になっています。周囲にはビーチがあり、サーフスポットとしても知られています。

     

    白ワインの産地で、中心となるブドウ品種はシャルドネです。ニュージーランドでは「シャルドネの首都」と呼ばれるほどです。シャルドネというと、比較的冷涼な気候の地で栽培されるイメージがありますが、ギズボーンの場合は気温より土壌が大きく関係しているよです。細かい粘土質で、これが高品質のワインに繋がっているようです。
    しかし、ギズボーンのワイン生産が本格的になった当初は、主力品種がミュラー・トゥルガウ(Müller-Thurgau)でした。1960年代でした。ニュージーランドの場合、現在はワイン生産が盛んなのは南島のマールボロ地方ですが、当時は南島はぐブドウ栽培に適していないと考えられていました。その分、北島のギズボーンでは、ワイン生産が活発化し、1970年代にはニュージーランド最大のワイン産地にまでなりました。

     

    では、なぜギズボーンがミュラー・トゥルガウを主力品種として国内最大のワイン生産地になったのでしょうか。それはこの品種が、スイスのトゥルガウ出身のヘルマン・ミュラーが交配したもので、この品種をガイゼンハイムブドウ育種研究所のヘルムートベッカー(Helmut Becker)が指導したことが関係しています。生育が早く、収穫量も豊富な品種で、ギズボーンの土壌に適していたことから、ワイン生産量が増加したようです。

     

    しかし1980年代以降となると、ミュラー・トゥルガウの特性上、収穫量の多さから、ワイン価格が安価になってきたのでした。この対策として、ニュージーランド政府は、他の品種への植え替えを進みました。その結果、現在ではほとんど栽培されなくなりました。
    結果的に植え替えられた品種としてシャルドネが主力となったのでした。

     

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