今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ソミュール(Saumur)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はソミュール (Saumur)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのメーヌ=エ=ロワール県の都市であるソミュール(Saumur)は、ロワール河岸にあり、ロワールワインの産地です。 石を採掘するために掘られたトンネルがり、それを利用して、地元のブドウ園がワインの保管場所としています。
    採掘される石というのは、美しいが壊れやすいといわれるテュフォストーンというもので、これはチョーク質石灰岩です。ソミュールの民家の多くも、この石灰岩で建設されています。

     

    この都市には新石器時代の巨石墳墓群があります。「ドルメン・デ・バニュー」というもので、このことから数千年前よりこの地に居住した人がいたことを意味します。それだけ太古より居住地に向いていたわけですが、この街が大きく変貌したのはノルマン人(Normanean)の侵入かもしれません。
    ノルマン人はスカンディナヴィアやバルト海沿岸にいた北方系ゲルマン人のことです。8世紀後半から活発化し、9世紀になるとヨーロッパ各地を侵略していました。
    ソミュールは845年に略奪され、10世紀になるとノルマン人防衛を目的とするため、ブロワ伯ティボー1世によってソミュール城(Château de Saumur)が建設されました。トゥエ川とロワール川の合流点を見渡せる位置にあります。1067年には破壊されてしまいましたが、12世紀後半にイングランド王ヘンリー2世によって再建されました。最終的にはシャトー(château)になりました。

     

    宗教改革の時代にはカルヴァン主義(Calvinism)の影響を受け、ソミュール大学でプロテスタント神学者のMoses Amyrautによる「Amyraldism 」あるいは「School of Saumur 」という学派が誕生しました。
    フランス革命期に発生したカトリック王党派の反乱であるヴァンデの反乱(Rébellion Vendéenne)では、戦場となりました。王党派の白軍と共和国側を青軍が激しく戦闘し、白軍はロワール川の北に追い詰められました。1794年のル・マン、サヴネの戦いにより、組織的抵抗は壊滅しましたが、以後はゲリラ戦へと続いた反乱でした。

     

    第二次世界大戦でもソミュールの戦いがありました。1940年6月18~20日でした。
    ソミュールの人々は、愛国心を見せ、必死の抵抗をしました。このことから、クロア・デ・ゲール勲章を授与されることにもなりました。
    現在はロワールワインの産地として、人口わずかに2万7千人の平和な都市になっています。

     

     

  • 果実酒とフルーツワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は果実酒とフルーツワインについて勝手に語ります。

     

     

    果実酒というと、ワインのことを指すような気がしますが、必ずしもそうではありません。確かに狭義では、果汁から作られた醸造酒のことですから、まさにブドウから醸造したものはワインとなります。
    しかし、一般に果実酒となるとより広いものを指すことになり、果実を中性スピリッツのような酒に浸漬した混成酒も含まれたりします。欧米でも、これらを含めてフルーツワインとなります。ただし、歴史的に固有の酒として古くから認知されている種類、例えば、リンゴ酒のシードル、洋ナシを使ったベリー、ハチミツ酒のミードなどは、フルーツワインとはいわない場合があります。

     

    日本の場合、酒税法第3条により、果実酒の分類は、果実を原料として発酵させたものとなっています。従って、発酵後に中性スピリッツなどを添加しても果実酒となるわけです。ただし、シードルは発泡性酒類に分類され、「その他の発泡性酒類」になっています。
    またフルーツワインの場合、ブドウ原料のワインと区別するために、ワインの前に原料名をつけています。プラムワイン、エルダーベリーワインなどのようにです。この背景には、欧州連合 (EU)で「ワイン」は法的に定義していることも関係します。ワインと単独で表現できるのは、ブドウ果汁を発酵させたものだけに限定しているからです。

     

    果実を発酵させることによりできるものが果実酒ということは、発酵可能な果実であれば、どの植物でもつくることが可能ということを意味します。しかし、ブドウを除くと、飲用できるものとして、最低限必要な糖分や酸、あるいはタンニンなど、バランスよくなっているとは限りません。そこで、果実酒では発酵時にいくつかの栄養素を入れることでバランスを調整することが多くあります。
    その栄養素の役目には、風味をよくするためや、アルコール度数を上げることを目的として添加するものがあります。特に砂糖などは、発酵中にアルコールになるため、かなり多くの果実酒で使われています。

     

    では具体的な果実酒、フルーツワインとは何か、というと、日本で代表的なのは梅酒でしょう。青梅を焼酎に漬けて作るもので、日本だけでなく韓国や中国でも飲まれています。
    酒精強化ワインやリキュールを作るために使用されることもあるチェリーワインも代表的なものでしょう。サクランボから作られるもので、デンマークのフレドリクスダル・チェリーワインなどが有名です。
    他にもオレンジワインやパイナップルワインなどもあります。ヨーロッパではなじみがないですが、アメリカではタンポポワインもあります。タンポポの花弁と砂糖にレモン果汁を組み合わせたものです。アルコール度数も手ごろな範囲にあるので、気軽に飲めるフルーツワインです。

     

  • ケファロニア島(Κεφαλονιά)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケファロニア島(Κεφαλονιά)について勝手に語ります。

     

     

    ギリシャでアドリア海に浮かぶイオニア諸島には、小さな島々が7つあります。その中でケファロニア島(Κεφαλονιά)は最大の面積をもち、なおかつワインの原産地呼称に認定された産地があります。歴史の古いギリシャには古代からワインが伝わっていますので、ケファロニア島のワインにも注目です。

     

    古代ギリシア語ではケパレニア島(Κεφαλληνία)と呼ばれていました。
    島で最大の都市はアルゴストリ(Αργοστόλι)で、人口は1万3,000人弱です。 18世紀にはギリシャで最も活気のある港町にまでなっていました。
    島としては山が多く、平地は少なく、全体の15%程度しかありません。

     

    東地中海貿易による海洋国家として「アドリア海の女王」と呼ばれたのが、ヴェネツィア共和国ですが、この島も統治されていました。この国は正式には「晴朗きわまる共和国ヴェネツィア(Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)」です。信教の自由や法の支配が徹底された国家でした。
    ヴェネツィア商人の交易が活発で、交易品の中にはワインだけでなく、故障、絹、オリーブオイル、羊毛皮などに加え、奴隷も含まれていました。特に交易では東ローマ帝国での特権が大きく大きな利益をあげていました。

     

    西地中海への交易は、イベリア半島のレコンキスタの影響で進出していきました。ジブラルタル海峡が安定したことで、東地中海だけでなく、ロンドンにまで及んでいきました。これは地中海と北ヨーロッパを結ぶものとして、陸路ではなく海路が活発化することなりました。

     

     

  • スヒンドル(Сухиндол)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスヒンドル(Сухиндол)について勝手に語ります。

     

     

    ブルガリア北東部のにあるスヒンドル(Сухиндол)はヴェリコ・タルノヴォ州に属しています。ドナウ平原の中央部分は、ワイン生産に適した土地ということもあり、
    世界的に知られるワインと蒸留酒の産地になっています。ワイン生産共同組合”Gamza”は、町の名前を冠しています。スヒンドルのワインは、地元の品種のディミャト(Димят / Dimyat)だけでなく、にカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローも生産しています。

     

    スヒンドルのあるヴェリコ・タルノヴォ州の州都は、第二次ブルガリア帝国の首都だった時期があります。12世紀後半から14世紀末まで存在した国家でした。
    第一次ブルガリア帝国の滅亡後、東ローマ帝国領となりましたが、ブルガリア貴族や高位聖職者の特権は保証されました。ところが、その後の皇帝によりブルガリアへの圧政が始まりました。それは、財政改革によりブルガリアの農民にも及びました。
    そこでペタル・デリャンの蜂起がおこり、デリャンはブルガリア帝国の再建を掲げました。結局、この蜂起は鎮圧されましたが、これが第二次ブルガリア帝国への序章となりました。
    さらに十字軍の影響もあり、神聖ローマ帝国との同盟などから、東ローマ帝国からの脱却を図り、第二次ブルガリア帝国が成立しました。

     

    スヒンドルはヴェリコ・タルノヴォから北北西の位置にあり、近くには、ロシツァ川(Росица / Rositsa)にかかるダム湖があります。周囲は丘陵地帯になっていて、緑にあふれています。バルカン山脈のふもとにゆるやかな丘陵が広がり、ブドウの栽培からワイン醸造まで行われているわけです。

     

  • ノヴォ・メスト(Novo Mesto)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノヴォ・メスト(Novo Mesto)について勝手に語ります。

     

     

    スロベニア南東部ドレンスカ地方を流れるクルカ川(Krka)は、サヴァ川の支流ですが、スロベニア領内のみを完全に流れる河川では2番目の長さを誇ります。このクルカ川流域はワインの名産地として知られるようになりました。日本人にはなじみがないでしょうが、ヨーロッパの愛好者たちは、ワインを求めてクルカ川流域のドレンスカ地方へと訪れています。Cviček は地元産の何種類かのワインをブレンドし生成しています。

     

    そのクルカ川のしゅう曲した部分に位置する都市がノヴォ・メスト(Novo Mesto)です。この「Novo Mesto」はドイツ語では「Neustadtl」となり、要するに「新しい町」という意味になります。ドイツ語名があるのは、ハプスブルク家との関係が深いことに由来します。ただ、歴史的、というようり考古学的には、かなり古くから人が居住していたようで、先史時代の遺跡が残っています。

     

    グラーベン・フォン・シュタイン家により都市化されたようですが、史料の上ではハプスブルク家の大公ルドルフ4世により、ルドルフスヴェルト(Ruodolphswert,Rudolfovo)として成立させました。1365年でした。そのため市の紋章はルドルフ4世が描かれています。このようにハプスブルク家の関係により、都市は発展していきました。
    そのため、第一次世界大戦後はハプスブルクのオーストリア=ハンガリー帝国が解体したことで、ユーゴスラビア王国に組み入れられました。このときに都市名がノヴォ・メストとなりました。

     

    第二次世界大戦では、ナチス・ドイツとイタリアの同盟国の間で、支配地のやり取りが行われました。最終的にはドイツの支配地となりました。
    そして、大戦終了後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の誕生により、その中に戻りました。スロベニアの首都リュブリャナとクロアチアのザグレブなどが結ばれた道路に、ノヴォ・メストも入りました。この道路こそ、その後の高速道路のルートとなり、現在はA2ハイウェーとなっています。欧州自動車道路では70号線(E70)の一部です。

     

    良質なワインを生産し、人口わずか36,000人程度のスロベニアの小都市は、観光客も多く、落ち着いた雰囲気が人気です。

     

     

  • カラガンダ(Қарағанды)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカラガンダ(Қарағанды)について勝手に語ります。

     

     

    極寒の地の動物園で、赤ワインをサルに与えているというニュースが以前にありました。赤ワインを与えることで、インフルエンザなどの呼吸器感染症を予防できるいうのでした。
    サルに与えるワインには、刻んだフルーツや蜂蜜、レモン、砂糖、お湯などを加えるそうです。

     

    その動物園があるのがカラガンダ(Қарағанды)です。
    カザフスタン共和国のカラガンダ州都で、カザフスタンでは、4番目に人口の多い都市です。 極寒の地といわれるのは、亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属するからで、冬季はマイナス40度を下回る気温になります。その一方、夏季は日中では30度を超えます。
    住民はカザフ人とロシア人が同じくらいの割合で、他にドイツ系、ポーランド系、チェチェン人などで構成されています。特にドイツ人との関係は深く、1940年代は70%がドイツ系住民だったようです。
    これはヒトラーのポーランド侵攻が関係していて、ソ連のスターリンは、ヴォルガ・ドイツ人をシベリアやカザフスタンに追放した結果でした。第二次世界大戦終が結後したあとも抑留は続きましたが、その後、10万人以上のドイツ系住民がドイツに帰還していきました。それでもまだ残ったドイツ系住民の子孫がガラガンダにはいるわけです。

     

    カラガンダの都市に成立ちは、石炭採掘の拠点としてつくられました。その労働力に強制収容所の人々を利用し、彼らを酷使していました。この石炭産業は現在でも重要な産業となっています。しかし、最初の都市建設時代の石炭採掘場は堀つくしてしまい、破棄されました。そこで現在の市街地は南へ10kmほど移っています。
    ソ連崩壊後の1990年初頭、カザフスタン共和国として新たな独立国家となりましたが、カラガンダも首都の候補になっていました。

     

    カザフスタン最大の収容地区だったカラガンダですが、シベリアに抑留された日本人捕虜も多く連行されてきました。その中では通称「スパスク」と呼ばれる収容所がありました。宿舎は仕切り板によって二段、三段に分けられた寝台で、廊下を挟んで左右両側に取り付けられていたようです。簡素な寝台で、とても人の生活する空間ではありませんでした。 
    衛生環境も劣悪で、多くの収容所でチフスが流行したそうです。しかも感染しても薬の投与もなかったといいます。チフスだけでなく結核などの感染症患者が多く収容されていたそうです。
    現在では、郊外には収容所博物館もあります。

     

     

  • ラインラント(Rheinland)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラインラント(Rheinland)について勝手に語ります。

     

     

    ドイツ・ワインの中心的産地として知られる地域がラインラント(Rheinland)です。具体的にはドイツ西部のライン川沿岸一帯になります。州だと、ラインラント・プファルツ州全地域とノルトライン・ヴェストファーレン州西部、ヘッセン州西部、バーデン・ヴュルテンベルク州北部が含まれます。ライン川は南部が上流で、フランスのアルザスや黒い森近郊のバーデン地方もありますが、ラインランとには含れていません。

     

    ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)は、この地域に分布していたといわれています。第四紀の更新世の時代で、発見されたのがネアンデル谷(Neanderthal)だったため、ここから名づけられました。ライン川の支流であるデュッセル川 (Düssel) にある小さな谷です。エルクラート (Erkrath)とメットマン (Mettmann)の間に位置しています。ネアンデルタール人の化石が発見されたのは、1856年でした。
    この谷は、今では考えられないほど風光明媚な場所だったといわれます。滝や洞窟などがある場所でした。それが19世紀になって、鉱業採掘を行い、谷の景観が全く異質なものに変化してしまったわけです。ネアンデルタール人の骨も、鉱業活動により偶々発見されたのでした。

     

    ラインラントはまた、古代ローマとも関係の深い地域でした。ドイツ最古の古代都市建設地域です。代表的なのはケルン(Köln)やマインツ(Mainz)などです。
    そしてフランク人(Franken)の発祥地といわれます。記録に最初に登場したのは、ローマ帝国後期の時代からでした。ローマ人の呼び方で、彼らはライン川中流域に居住するゲルマン人たちを「フランク人」と呼んでいました。ゲルマン人の部族で、フランク王国を建国した部族です。
    実はフランク人の起源については、歴史の史料にはほとんどありません。現在の定説では、フランク人はまとまりを持った性格を持つ部族ではなかったというものです。3世紀半ばにライン川右岸に居住していたイスタエウォーネス神を祖先と見なす複数の部族が結集したもので、成立したのは政治的同盟だったというものです。
    現在でもドイツ語方言の系統ではフランク語系に属しています。

     

    フランク王国から神聖ローマ帝国へと時代は変遷していきましたが、ラインラントの地域的重要性は一貫して高く、ルイ14世以来、フランスの侵攻がたびたび起こっていました。そしてフランス領になった時代もありました。ナポレオン戦争によるもので、ライン川の西岸一帯がフランスに占領されたのでした。
    しかし、1815年のウィーン議定書によりプロイセン王国に割譲されました。
    その後は、ドイツ有数の工業地域となり、それは1871年のドイツ帝国成立後も発展していきました。

     

    かつての西ドイツの首都だったボン(Bonn)もラインラントの都市です。ボンが首都だった期間は1949年から1990年までですが、実は再統一後の現在も首都機能を分担しています。ベルリンを補完する首都機能が残されているのです。
    日本企業の多いデュッセルドルフ(Düsseldorf)もあり、ワインだけでなくドイツにとっては極めて重要な地域です。

     

  • マイエンフェルト(Maienfeld)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマイエンフェルト(Maienfeld)について勝手に語ります。

     

     

    ヨハンナ・シュピリ(Johanna Spyri)の名作「アルプスの少女ハイジ(Heidis Lehr- und Wanderjahre・Heidi kann brauchen, was es gelernt hat)」の舞台となったことで有名なマイエンフェルト(Maienfeld)は、スイスのグラウビュンデン州にあります。
    物語ではデルフリ村になっていますが、これがマイエンフェルト付近の架空の村で、イェニンス村(Jenins)がモデルだといわれています。ドイツのフランクフルト(マイン)からデルフリ村に来たハイジが祖父と再開し、ハイジの説得で祖父が永年拒んできた日曜礼拝に参加するというストーリーですが、登場人物が、クララやペーター、ロッテンマイヤー、ゼーゼマンなど、日本人にもなじみが多いといえます。

     

    マイエンフェルトはスイス東部にあり、リヒテンシュタインとの国境も近くにあります。山岳地帯ですが、チューリッヒからは意外と近く、電車でわずか1時間ちょっとです。
    ハイジの村のモデルになったイェニンス村は、マイエンフェルト駅からさらに山へと向かわなければなりません。バスで行けますが、徒歩でも30分程度なので、村だけだったら徒歩もお勧めです。ですが、ハイジが祖父と一緒に過ごした家は、さらに山に入り、2時間近い登山が必要ですので、その点は注意しましょう。
    バスの場合、巡回バスになるので、ハイディドルフ(Heididorf)で下車するのが良いでしょう。
    ハイジの博物館や、ハイジが過ごした家を再現した建物もあります。

     

    そしてマイエンフェルトは、 美しいブドウ畑が広がっていますので、その景色にも感動しますし、そこで生産されるワインもお勧めです。
    ハイジの物語もキリスト教信仰に基づく描写が多く、キリストの血であるワインをここで飲むのは、まさに感動ものです。

     

     

  • リヴィウ(Львів)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はリヴィウ(Львів)について勝手に語ります。

     

     

    ウクライナのリヴィウ(Львів)は、ドイツ語ではレンベルク(Lemberg)、ポーランド語ではルヴフ(Lwów)、ロシア語でリヴォフ(Львов)、英語表記では「Lviv」となります。
    ウクライナ西部の都市で、ウクライナではウクライナ語とロシア語を併用するのが多いものの、このリヴィウでは住民のほとんどがウクライナ語のみを使っています。かなり珍しい都市で、ウクライナ語文化の首都といわれています。

     

    リヴィウの名物ワインといえば、チェリーワインといわれますが、これはワインではなく、梅酒の梅の代わりにチェリーを使ったようなものです。アルコール度数は24度近くあります。甘い酒です。
    他に「鉄ワイン」というのもあるそうです。これは日本の養命酒のようなもので、万病に効く薬用ワインだそうです。ただ、これもワインではなく滋養強壮剤というのが正しいのかもしれません。

     

    リヴィウは最初からウクライナとの関係が深かったわけではなく、ポーランドの支配を受けたり、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の首都になったりと、ヨーロッパらしく支配者が変遷していきました。ウクライナ・コサックやスウェーデン、オスマン帝国などにも襲撃を受けてきました。1704年にはスウェーデン軍に占領されました。
    1772年の第1回ポーランド分割では、リヴィウはオーストリア帝国領となり、ドイツ語が公用語となりました。しかし、1860年代になると自治が認められるようになり、リヴィウはポーランド文化の中心地になっていきました。その一方で、ウクライナ文化も華やかな面もありました。これは現在のウクライナ地域のほとんどがロシア帝国支配地となっていて、ウクライナ語が禁止されていた反動が、ロシアに支配されていないリヴィウに集約されたのかもしれません。

     

    それでも第一次世界大戦ではリヴィウもロシア軍に占領されました。しかし翌年にはオーストリア=ハンガリー帝国が奪還しました。これも長く続かず、1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が消滅し、西ウクライナ人民共和国として独立を宣言し、リヴィウは首都となりました。
    この独立はポーランド人住民の蜂起を生みました。ポーランド・ウクライナ戦争です。ポーランド軍の全面的支援を受けていたポーランド住民が圧勝し、ポーランド支配の復活となりました。

     

    1920年には、ポーランド・ソビエト戦争が勃発しました。リヴィウ市民は武装し、侵攻してきた赤軍を撃退していきました。一時は優勢になったものの、ポーランドはウクライナを裏切ったのでした。単独でソ連との講和に入り、1920年のリガ講和条約でソ連はリヴィウを含む一帯をポーランドに明け渡しました。
    そして第二次世界大戦です。ドイツ軍がポーランドに侵攻し、そのままリヴィウも包囲しました。
    その後、第二次大戦が終了し、ドイツ軍が敗退し、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土となりました。ポーランド人住民はそのほとんどがポーランドへと移りました。

     

     

  • クシノマヴロ(Xinomavro)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクシノマヴロ(Xinomavro)について勝手に語ります。

     

     

    クシノマヴロ(Xinomavro)は、赤ワイン用のブドウ品種です。
    ギリシャのイマティア県(Ημαθία)ナウサ、アミンタイオ周辺やマケドニア等で栽培されています。
    イマティア県(Ημαθία)はギリシャの中央マケドニア地方にあります。古代のマケドニア王国の支配地です。
    その後はローマ帝国、東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配となり、1400年代にはオスマン帝国が支配するようになりました。
    ギリシャ王国に編入されたのは、バルカン戦争後で、ブカレスト条約やロンドン条約によりました。ギリシャになってからは人口が増加し、農業も発展しつつ、一方で近代化も進められました。しかし、第二次世界大戦とギリシャ内戦によりイマティアは大きな被害を受けました。

     

    このイマティアのナウサでは、保護原産地呼称になっていて、クシノマヴロはギリシャで最もよく知られたワインの1つになっています。クシノマヴロを100%使うことが要件になっています。
    その品質はイタリアのでバローロに匹敵するといわれています。酸性度が高く、タンニン含量も多く、よく熟成されたものです。

     

    また、クシノマヴロは東方正教の一大中心地である「アトス山(Όρος Άθως)」でも栽培されています。
    エーゲ海に突き出たアトス半島の先端にアトス山はあり、標高は2,033mです。正教会の聖地であることから「聖山」(Άγιον Όρος)とも呼ばれています。それほどまでに修道院が集まった地域で、アトス山周辺で現在でも20の修道院があります。
    ギリシャ共和国の領内ですが、「聖山の修道院による自治国家」という扱いで、特別に自治が認められています。カトリックのバチカンと同じように「独立した宗教国家」に近いともいえます。また、1988年にはユネスコの世界遺産に登録されています。

     

    伝説も残っていて、それによると、生神女マリアが旅の途中で嵐に遭ってアトスの海岸に避難したとき、その美しさに心惹かれ、自らの土地としたとされています。
    実際には、862年にテッサロニキのエフスィミオスが、アトス山で活動する修道士のトップとなり、修道院設立の先鞭をつけたことから発展したようです。その結果、ヨアンニス・コロヴォスが最初の共同居住型の修道院が建設されました。
    961年には東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスから勅許を得て、アトス山の麓にメギスティ・ラヴラ修道院を建設され、アトス山はに道院の建設が続々と増えていきました。

     

    実はクシノマヴロは中国の甘粛省でも栽培されています。
    古くからモンゴル、西域に接する重要な地域です。イスラム教徒が多い地域で、中でも蘭州は完全なイスラム都市といった印象です。
    かつては全てギリシア国内で栽培されていましたが、世界に広がった品種なのです。

     

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