プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
今回はブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)について勝手に語ります。
フランスを代表するワイン産地のブルゴーニュは、以前にも関連する話題を多く取り上げてきました。
【参考ページ】
ブルゴーニュとアキテーヌ公
ブルゴーニュワイン発祥の修道院
ブルゴーニュとブルグント王国
ムロン・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュのクリマ(Climat)
今回はブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)をご紹介します。ブルゴーニュ公国は彼の死とともに崩壊したといわれる人物です。
ライバルともいえるのがヴァロワ朝のルイ11世(Louis XI)で、フランス王国の統一を進めていたルイ11世にまともに対抗できる数少ない人物でした。シャルルはルイ11世に対抗するため、独立した貴族たちまとめ、公益同盟を結成しました。その上でフランス軍と戦っていました。その数は3回でした。フランス王軍を圧倒する勢いで、1473年にはロレーヌ・ピカルディの攻略に成功し、自由通行を勝ち取りましたが。1476年にはフランス軍のスイス傭兵にグランソン、ムルテンで敗退しました。結局、最期はナンシーの戦いでの戦死でした。
当時のブルゴーニュ公国は、現代のフランスのブルゴーニュ地方やロレーヌ地方だけでなく、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクにまで及ぶ広大な支配地域でした。また。北方ルネッサンス文化の中心地でもありました。そのような背景の中、シャルルは拡大路線を目指していたのでした。公爵からの昇格も目指していたようでした。そんな彼の唯一の娘がマリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)で、ブルゴーニュ公国の相続人でした。そのためマリーには、数多くの縁談の申し込みがありました。シャルルは数多い縁談相手からマクシミリアン1世(Maximilian I)に注目しました。彼は神聖ローマ帝国の皇帝、ローマ王、オーストリア大公になった人物でした。
1473年には、神聖ローマ帝国の当時の皇帝だったフリードリヒ3世と組み、フランスへの対抗策やオスマン帝国を議論することにしました。このとき皇帝はまだ14歳だったマクシミリアンを伴い、1000人の従者を引き連れてきました。シャルル側も1万人以上の兵たちを集め、贅を尽くした歓待を皇帝一行に施しました。シャルルは、マクシミリアンを気に入り、娘のマリーとの縁談を進めようとしました。これは自身のローマ王の指名を目論むものでもありました。
一方、神聖ローマ帝国のフリードリヒ3世は、この縁談によって、フランス王国の反発があり、しかもそれは帝国内の諸侯も同調する恐れがあると考えました。そのためこの縁談には慎重になりました。そこで、皇帝はマクシミリアンや宰相などをその場からこっそりと脱出させたのでした。
これを知ったシャルルは激怒し、ブルゴーニュ戦争で神聖ローマ帝国に報復しました。しかし、この戦いが膠着状態となると、ローマ王指名の要望も諦め、マリーとマクシミリアンの婚約を再度申し込んだのでした。皇帝側も承諾し、ようやくこの縁談はまとまりました。ちなみにこの婚約時にマクシミリアンがダイヤモンドの指輪をマリーに贈り、マリーもマクシミリアンに指輪を贈ったことから、これが婚約指輪の起源とする説となっています。
ブルゴーニュ公シャルルは、綿密に計算された現実路線には見向きもせず、己の情熱と使命感により、赴くままに破滅へと突き進んだ人生でした。「無謀な君主」といわれたのも頷けるし、彼の死が公国そのものの終焉を迎えたのも納得いくことといえます。