今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • イエス・キリスト生誕地のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイエス・キリスト生誕地・ベツレヘムのワインについて勝手に語ります。

     

     

    「旧約聖書」では「ダビデの町」、「新約聖書」ではイエス・キリスト生誕地とされている町がベツレヘムです。
    聖地であるエルサレムとはわずか10kmしか離れていませんが、東西冷戦時代のベルリンの壁と同じように、イスラエルとパレスチナに分かれているため、ここでも壁によって隔てられています。
    「新約聖書」の「ルカによる福音書」では、イエスの両親はナザレからベツレヘムに移り、ここでイエスが誕生し、その後にナザレに戻ったとなっています。「マタイによる福音書」ではイエス誕生前に両親がナザレにいたという記述はなく、誕生後にナザレに行ったのは迫害を逃れるためとしています。
    この福音書の記述から、イエスの生誕地はベツレヘムであると信じられてきました。しかし、現代の学者の中には、このことを疑問視している人も大勢います。ベツレヘムに誕生したことにすることで、ダビデ王の系譜と結びつけることを目的としたのではないかという見方です。そのため、ベツレヘムでの生誕は歴史的な事実を記述したものではないというのです。
    考古学的にも、歴史学的にも証明することは難しいでしょう。

     

    キリスト教にとっては重要な町であるのは事実でしょうが、現在はキリスト教徒よりムスリムの人口が多く、アラブ化した町といえます。
    それでもベツレヘムには修道院もあり、サレジオ修道会・クレミザン修道院ではワイナリーがあってワインを醸造しています。しかも、ハムダニ、ジャンダリなどの土着のブドウ品種を半分使ったワインがつくられているのです。この土着品種の果皮はやや黄色がかっている緑で、ベツレヘムで栽培されています。
    また、ベツレヘム近郊のクレミザンの丘で栽培されているのが、バラディという土着品種です。これはアラビア語で「我が国」、「その土地の固有」を意味しているそうです。ベツレヘムの街中より標高が高く、その分、昼夜の寒暖差が大きいことから、酸味が強いブドウになっています。

     

    ベツレヘムはイエス生誕よりはるか前から歴史に登場してきています。
    文書で登場する最古のものは、紀元前1400年ごろアマルナ文書(Amarna letters)でした。この文書は、エジプト第18王朝のアメンヘテプ4世時代の外交政策と国際関係を示した史料です。年代としては、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃と推測されます。ナイル川東岸アマルナで発見されたことからこのように呼ばれ、楔形文字による粘土板文書です。この文書からベツレヘムがカナン人の集落だったと考えられています。
    このカナンこそ、「旧約聖書」で「乳と蜜の流れる場所」と描写された地であり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地です。

     

    古代ローマの時代になると、ローマに占領され、イエス生誕地にギリシャ神話のアドーニスの神殿まで建てられてしまいました。
    しかし、のちにローマ帝国の東西分裂にともなって、東ローマ帝国の初代皇帝となったコンスタンティヌス1世の母親・聖ヘレナにより、ベツレヘムに聖誕教会が建立されました。
    そしてイスラム教勢力と十字軍の時代となり、オスマン帝国による支配となりました。
    カトリックと正教会、それにイスラム教という複雑な勢力分布のもとで、パレスチナは不安定な時代を継続してきました。
    現在でもイスラエルとパレスチナの対立構造が続き、ベツレヘムがエルサレムから隔絶された状態というのは、何とも悲しい気分になります。

     

    それでも修道院で醸造されるワインがあるので、一度は味わってみたいと思っています。

     

  • キリストの血入門 12

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第12回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はミラノ勅令によりキリスト教がローマ帝国で認められ、テオドシウス1世により国教となった点について述べました。今回はその後の歴史についてです。

     

    キリスト教の公認にともなって、キリスト教内部でも神学が様々に発展していきました。各地で構築された神学が独自の教理となり、キリスト教内での論争が激しくなっていきました。
    迫害されていた時代から、キリスト教の拠点が各地にあったことで、教会内での意見の統一は難しい状況でしたが、その中で神学の中心としては、ローマではなくギリシア教父でした。アレクサンドリアのオリゲネス(Origenes Adamantius)、カイサリアのバシレイオス(Βασίλειος Καισαρείας)、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスなどでした。

     

    オリゲネスは、新プラトン主義の影響を受けていました。
    それが最も現れているのが、プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の『創世記』を融合しようとした点にあります。二つの世界創造についての記述を融合させ、創造について、「神が無に自分の存在を分かち与えたこと」としました。このような融合とともに、聖書の記述をそのまま信じるのではなく、何かの比喩として解釈する手法をとりました。
    しかし、彼の死後300年経過した西暦553年には、異端とされてしまいました。

     

    カイサリアのバシレイオスは、全ての教派で聖人として崇敬されているほどの神学者でした。特に正教会で顕著です。
    救貧施設を建設した人物で、らい病を含む病人の収容保護、貧民収容所、孤児病者収容所、嬰児収容所など、、福祉事業に貢献する一方で、三位一体論の形成などに影響を与えました。また、正教会の聖体礼儀の奉神礼文を整備した人物でもありました。

     

    ナジアンゾスのグレゴリオスは、テオーシス(人間の神化)思想の理論化、神の本質の不可知性と神の業において顕現する神の光の可知性の二重構造を、初めて神学理論として体系化した人物です。
    ナジアンゾスのグレゴリオスも正教会では特に崇敬されました。

     

    ニュッサのグレゴリオスは、第1回コンスタンティノポリス公会議でアリウス派を反駁した人物です。
    このアリウス派への反駁は、同時に三位一体論の確立に繋がりました。そして神の無限性についての神学を確立しました。
    正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人になっています。

     

    キリスト教も内包したマニ教、モンタノス派、アリウス派など、様々な視点によるキリスト教観により、4世紀以降では、神学論争によって教会の分裂にまで至る事態となりました。
    特にアリウス派とアタナシウス派の論争は、キリストの位置付けに対して反発し、暴力的な争いにまで発展してしまいました。
    そこで、このような過激な教派間の抗争を止めることを目的として、西暦352年にニカイア公会議が開かれることになりました。ローマ皇帝コンスタンティヌスによるものでした。
    ここで初めて、ローマ帝国の皇帝がキリスト教に介入したことになります。彼は、キリスト教というよりもローマ帝国内の問題として、この解決を図ることにしたようです。

     

    その結果、アリウス派は異端とされました。
    西暦431年にはテオドシウス2世によりエフェソス公会議が行われ、このときはネストリウス派が異端とされました。
    これによりアリウス派もネストリウス派も追放されました。

     

    ここでネストリウス派が追放されたことで、のちの東方世界、シルクロード経由での中国など、歴史を大きく変えることになりました。その話はまた機会を改めましょう。

     

  • キリストの血入門 11

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第11回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はアウグスティヌスのその後の影響について触れました。今回はキリスト教の歴史に戻ります。

     

    迫害が続いたキリスト教でしたが、西暦303年にはキリスト教を公認する国が現れました。アルメニア王国です。国王のティリダテス3世がキリスト教に改宗したことで、世界初のキリスト教公認国となったのです。
    さらに350年になると、現在のエチオピアにあったアクスム王国でも、キリスト教が国教となりました。
    では、この時代の覇権国であるローマ帝国ではどうなのかというと、313年に発布されたミラノ勅令(Edictum Mediolanense)により、信教の自由が保障され、キリスト教も他の宗教とともに公認されました。

     

    ミラノ勅令以前はキリスト教迫害の時代でしたが、この勅令の直前の311年に、ローマ皇帝ガレリウス(Gaius Valerius Maximianus Galerius)が弾圧をやめたことが大きな影響を与えました。
    ガレリウスは、303年の布告によりキリスト教徒の迫害を始めました。キリスト教の集会所が破壊されたりしたのです。ところが、311年になると、病気となり、リキニウスとコンスタンティヌスを加えた連盟で、迫害をやめるという布告を発したのでした。
    この布告を受け、コンスタンティヌス1世によりミラノ勅令が発布されたのでした。さらにユリアヌスは、この勅令を逆利用しました。キリスト教が他の宗教と横並びになったことから、キリスト教の優遇を排したのでした。
    これはユリアヌスが死去すると、すべて撤回されることになりました。これ以降、ローマ皇帝はキリスト教徒に特権を与え続けるようになりました。
    そしてついに380年、テオドシウス1世によりキリスト教はローマ帝国の国教とされたのでした。

     

    このミラノ勅令ですが、実在を疑問視する研究者もいます。
    また、ミラノという地名がついているものの、ミラノで勅令が発布されたとも限らないようです。あくまでミラノはコンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談場所であり、そこで発布されたという証拠がないのです。わかっている範囲では、このときの会談による合意内容をキニウスの親書として313年に初めて公開したのは、ミラノではなくニコメディアだったのです。

     

    さて、ローマ帝国の国教となったキリスト教ですが、392年になると、ローマ帝国唯一の国教にまでなりました。キリスト教を除く他の宗教と、キリスト教でも異端派について、信仰が禁止されました。
    これによって、迫害されてきたキリスト教が、帝国により保護される宗教という立場となり、大逆転となったのでした。
    この続きは次回で。

     

  • キリストの血入門 10

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第10回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の国教化後の教父哲学について語りました。アウグスティヌスでした。今回はアウグスティヌスのその後の影響について触れていきます。

     

    アウグスティヌスの思想は、キリスト教共同体としての「教会」と世俗国家を弁別することで、キリスト教の優位性を示しました。このことからローマ教会の権威が確立されていくことに繋がり、普遍性の有力な根拠でもありました。
    また、個人的な部分を題材にした『告白』により、個人主義的な信仰とは、『神の国』による共同体としての教会でさえ世俗的であるとしました。これらの影響は後世に大きな影響を与えました。

     

    宗教改革への影響にも大きく与えましたが、その点は後に譲るとして、今回は自由意志(freier Wille)に関して絞ってみます。
    自分の意志が自分の自由になるという仮説ですが、人間が自己の判断に対してコントロールすることができるかどうかが問題になります。
    自身の意志によって、行為が発生し、最後に結果が生まれる、という一連の流れです。思ったとおりに行動していることは、自身意志から行動に移ることであり、これだけで論争をするものではありません。
    どのような意志か、それが自由か否かについて、直接的に問うことで、意志の成立過程が重要となります。自由意志の問題とは、自由と因果との関係であって、ここに宗教的、哲学的、倫理的、さらに科学的原理が絡み合っています。
    このようなアウグスティヌスの自由意志と信仰との問題が、後のアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)やフリードリヒ・ニーチェ( Friedrich Wilhelm Nietzsche)にまで影響を与えているのです。
    アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなしています。そのため、善を成すには、神の恩寵なしにはできないとしました。これこそ、若き日の非合法な結婚に関連する性的に放縦な生活を送ったことへの悔悟が背景になっているといえます。

     

    ショーペンハウアーは、カント哲学を受け継いでいるとしながらも、世界を表象とみなし、その根底にあるものを「盲目的な生存意志」としました。
    この「意志」があるゆえ、経験的な事象はすべて非合理であることになります。人間が生活していくには、意志は絶えず他の意志によって阻まれてしまい、生きることは同時に苦を意味することになります。この苦から脱出するためには、意志を諦観するか、絶滅させることしかないと説きました。
    いわゆる厭世観的思想です。
    アウグスティヌスの自由意志という捉え方との比較が興味深い内容です。
    これは19世紀後半に流行したもので、それを広めたのがニーチェです。
    ニーチェの『悲劇の誕生(Die Geburt der Tragödie)』は、ショーペンハウアーの意志と表象から成る世界観が大前提になっています。彼は、古代ギリシアのアポロンに理性を象徴させ、ディオニュソスに情動を象徴させ、その上で、ディオニュソス的根底には、ルター、カント、バッハ、ベートーベン、ドイツ精神がつながるとしました。
    さらに『悲劇の誕生』第16節では、ショーペンハウアーの音楽観を引用し、全面的帰依を表明していたのです。

     

    自由意志とは別に、意外なことにフランク王国のカール大帝も、アウグスティヌスの著作を好んでいたようです。
    さらに中世には、カトリックを代表する神学者のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)もアウグスティヌスから大きな影響を受けていました。彼の代表作といえば『神学大全』で、スコラ学の代表的神学者であり、カトリック教会と聖公会では聖人になっています。
    トマスは、キリスト教思想に古代ギリシア哲学を統合し、総合的な体系を構築しました。その古代ギリシア哲学がアリストテレスで、この統合に目を見張るものがありました。
    アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しながら、哲学ではプラトンからアリストテレスに変え、神学と哲学の関係を整理しました。これにより、神を中心とすることと、人間を中心とすることの、相対立する概念について、統合を図ったことになります。
    このトマスの思想は、トマス主義として受け継がれていきました。その原点こそがアウグスティヌスといえなくもありません。

     

    アウグスティヌスはカトリック教会で最も重要視されてきた人物です。
    その反面で、ルターやカルヴァンなどによれば、アウグスティヌスに対する誤謬を誤って利用してきたという態度もあり、アウグスティヌスの論説については、プロテスタントとの各派に温度差もあります。この点は宗教改革のときに改めたいと思います。

     

  • キリストの血入門 9

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第9回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、ローマ帝国後期の「3世紀の危機」時代のキリスト教について述べました。
    今回はキリスト教の国教化後の教父哲学について語っていきます。アウグスティヌスの登場です。

     

    ローマ帝国の「3世紀の危機」を経て、いよいよキリスト教が国教化され、アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)が活躍します。古代キリスト教世界において、絶大な影響力をもった神学者であり、カトリック教会だけでなくのちのプロテスタントや正教会、非カルケドン派でも聖人になっています。

     

    生まれた場所はローマではなく、ローマ帝国の属州だった北アフリカのタガステでした。ここは現在のアルジェリアにある町です。父は異教徒でしたが、母のモニカは熱心なキリスト教徒で、のちに聖人とされた人物でした。
    カルタゴで学び、当時同棲していた女性との間にアデオダトゥス(Adeodatus›という息子が生まれました。実はこの女性の名は分かっていなく、「不義の女性を囲い」、「不義の子をもうけた」とされていますが、アウグスティヌスは結婚していたわけではないので、愛人というわけではありません。当時のローマ帝国では、法律で身分が異なる人との結婚は非合法だったことから、このような表現になったようです。
    また、この頃のアウグスティヌスはマニ教を信奉していました。マニ教はイラン人の教祖マニにより、ゾロアスター教をベースにした宗教です。キリスト教や仏教、さらにグノーシス派の要素も取り入れたものでした。ゾロアスター教がベースですから善悪二元論で、これはアウグスティヌスがのちに新プラトン主義(Neoplatonism)に傾斜したりして、この宗教から離れていくことになりました。

     

    383年にアウグスティヌスは事実上の妻と子供を連れてローマに行き、翌年には宮廷所在地のミラノに移りました。
    ここで息子のアデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となりました。
    ただ、母親のモニカは、アウグスティヌスの非合法な結婚を許せませんでした。ミラノまで押しかけ、アウグスティヌスに対し、大学教授となるためには非合法な結婚は直ちに解消し、合法的な結婚をしなければならないと諭したのです。
    このとき、アウグスティヌスは大学教授へ出世することが見えていたため、母親の言葉に従い、事実婚の彼女と別れ、母の勧める若い女と婚約することにしました。
    ところが婚約した女性は若すぎて、すぐに結婚というわけにもいかず、少し待つ期間が必要となりました。そこで彼は別の女性とも婚約したともいわれていますが、最終的に誰とも結婚しなかたともいわれています。

     

    アフリカに戻ると、ヒッポの司教となり、異端論争を行うようになりました。異端の中にはキリスト教の異端派だけでなく、かつて自身が信奉したマニ教も含まれていました。
    そして、カトリック教会としてのキリスト教理論が構築されていったのです。
    彼の代表作には400年頃の著作として『告白』がありますが、これはカルタゴでの青年時代の素行、身分違いの女性と息子とのこと、そしてマニ教への信奉などを告白し、キリスト教への回心の経緯が記されています。古代キリスト教文学の最高傑作と評されました。
    もうひとつ、426年の著作『神の国』では、西ローマ帝国の衰退時期にカトリック教会の存在意義を明確化し、古代から中世へと続くキリスト教思想の基盤を作り上げました。

     

    キリスト教の発展の中で、アウグスティヌスの果たした枠割は大きいものでした。キリスト教の正しさの論理を組み立て、それを説く教父だったからです。
    まず、神の存在についても証明しました。それは、「神は存在する。神の存在を問いかけているが、なんで見たことも触ったこともないのに神を知っているのか。それは神という存在を認識しているからだ」というもので、科学的な証明ではなく、当時の人々に「神」という概念が根付いていることを証明したようなものでした。
    これは次の問いに繋がります。では、「神という完璧なものが存在するならば、どうして悪を働く人がいるのか? 神が完璧な存在ではないがゆえに悪があるのではないか?」という疑問です。
    これに対してアウグスティヌスは、神は人間に自由意志を与えている、善か悪か、それは人間の自由意志であって、神の意志ではないとしました。この自由意志は、のちの哲学に大きな影響を与えました。
    このアウグスティヌスの理論によれば、悪という行為は、自由意志によって選択されたものにすぎず、いわば、目の前にある誘惑で選択することが社会的な罪になるだけだとなります。では神の真理とはというと、そのようなレベルではなく、より善であるもの、最も善なるものだとしています。
    つまり単純な「Yes」「No」という絶対的基準ではなく、相対的な善悪の判断という考え方をしたわけです。仮に社会的に賞賛されたことであっても、それが正しい行為だったか否かは別の問題であり、常に正しいのは神だけとなります。

     

    最後に重要な点は、キリスト教の三位一体説を信仰し、集結した信徒たちは「教会」という「神の国」で永遠の安らぎを得られると説いたことです。精神的なキリスト教共同体としての「教会」と世俗国家を弁別しました。キリスト教の教会こそ、世俗的な国家より優位であるとしたのです。
    ローマ帝国という「現世の国」「世俗的な国家」がなくなったとしても、教会には「神の国」という拠り所があるとしたことで、ローマ教皇を頂点としたカトリック教会の大きな基盤ができました。

     

    アウグスティヌスの思想は後世に多大なる影響を与えました。その影響については次回にしましょう。

     

  • キリストの血入門 8

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第8回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の礼拝や福音書などについて述べました。
    今回はローマ帝国後期の「3世紀の危機」時代のキリスト教について語っていきます。

     

    当時の覇権国だったローマ帝国ですが、帝政中期、西暦では96年から192年の間に、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス、ルキウス・ウェルス、コンモドゥスという7人の皇帝を輩出したのがネルウァ=アントニヌス朝でした。古代ローマ最盛期を築いた「五賢帝」も含まれています。
    しかし、ネルウァ=アントニヌス朝最後の皇帝・コンモドゥスが暗殺され、諸侯の抗争が起こるようになりました。この結果、193年に皇帝になったのがセプティミウス・セウェルスで、史上初のアフリカ属州出身の皇帝でした。
    ここからセウェルス朝となりましたが、ここからの時代は権力闘争が繰り広げられることになり、また軍事独裁国家となっていきました。
    最終的に、セウェルス朝最後の皇帝・セウェルス・アレクサンデルも暗殺され、断絶することになりました。このセウェルス・アレクサンデルは、キリスト教を崇敬していたといわれます。ただし、イエス・キリスト像だけでなく、ギリシア神話やローマ神話の神像も飾っていたといわれます。

     

    セウェルス・アレクサンデルが暗殺された後は、軍人皇帝時代となりました。
    一方、キリスト教徒はローマ帝国内で数を増やし、3万人にまでなっていました。三位一体の議論も起こりました。
    199年からローマ司教となったゼフィリヌスの時代に、サベリウスとクレメネスらが父・子・聖霊という三位一体論に対し、様態変化したものとする様態論を主張しました。父なる神と子なる神は互いに独立したものでなく、どちらも唯一の神の顕現する様態の違いであるというものです。
    サベリウスはキレナイカ(現在のリビア東部)の出身で、ローマでこの説を主張し、ローマ司教ゼフィリヌスやカリストゥスの支持を受けました。
    しかし、ヒッポリュトスによってサベリウスの思想の問題点が指摘され、さらにカリストゥスに破門されることになりました。異端として締め出されたのです。
    サベリウスはローマから締め出されたことで、故郷のキレナイカに戻りました。そこで自説を唱え、新たな支持者を集めました。このことでキレナカのキリスト教会の分裂につながっていきました。
    この事態を重く見たアレクサンドリア司教がローマ司教のディオニシウスに、事態解決を依頼することになりました。その結果、ディオニシウスが地方教会会議を召集し、改めてサベリウスの主張が異端であることとしました。

     

    ローマ皇帝については、権力争いが内戦状態ともなり、ゲルマン人の侵入も相次ぎ、治安も悪化していきました。「3世紀の危機」といわれる時代でした。
    244年に皇帝となったピリップス・アラブスなどは、キリスト教ではなく、ローマ伝統の宗教を帝国統一に利用していました。とはいえ、この時代にはキリスト迫害が激しかったわけではなかったようです。
    そして3世紀も半ばになると、ローマ教会は40程度にまで増え、聖職者の数も150人を超える規模となりました。これに対して250年に皇帝デキウスが大規模なキリスト教迫害を行いました。
    ただ翌年。デキウスはにゴート軍との戦いで戦死し、迫害は一段落しました。

     

    これ以降も3世紀には、司教の処刑などがありましたが、260年にシャープール1世がエデッサの戦いでキリスト教迫害を命令したウァレリアヌスを虜囚とし、迫害は終息しました。
    翌年にはウァレリアヌス帝の息子であるガッリエヌスが皇帝に即位し、キリスト教に対しては寛容策をとりました。このことから、キリスト教は実質的に公認されるようになりました。
    軍人皇帝時代が終わると、ドミナートゥス(専制君主制)となっていきました。

     

    4世紀になるとコンスタンティヌス1世によるキリスト教公認化と、アウグスティヌスの教父哲学が現れます。これは次回にしましょう。

     

  • キリストの血入門 7

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第7回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、ローマ教皇の誕生について述べました。
    今回はキリスト教初期の側面について勝手に語っていきます。

     

    キリスト教は当時の覇権国であるローマ帝国でも信徒を増やしていきましたが、ローマ帝国側としては皇帝礼拝(Emperor Worship)を否定する宗教とは相容れない部分がありました。そのため迫害の原因にもなっていました。
    古代ローマでは、この皇帝礼拝によって皇帝の神格化を行っていたわけです。これは元来、ヘレニズム世界にみられた君主崇拝に由来するといわれています。そのためローマ本国より、東方属州から広まり、帝政が確立するとともに強要されるようになったものと考えられています。つまり、かつての日本の天皇と同じように、皇帝が現人神 (あらひとがみ)という扱いになったものといえます。
    しかし、皇帝礼拝の範囲は政治的な意味と宗教的な意味に近い部分を併せ持つもので、実態は曖昧ともいえました。これは、ディオクレティアヌスによる迫害のときなど、皇帝とローマの神々への礼拝が義務づけられていたものの、この解釈の中には、ローマの神々を礼拝すればキリスト教を信仰しても良いというものでした。

     

    では、この時代のキリスト教の礼拝とはどうだったのでしょうか。
    皇帝礼拝を否定するのには、当然ながら「神」に対する奉仕行為であり、のちにカトリックでは「ミサ」と呼ばれるようになります。ただ、何度も繰り返しますがイエスはキリスト教を創始したわけではなく、当初はあくまでユダヤ教の一派でした。そのためイエスは、ユダヤ教の神殿での礼拝を否定しいたわけではありません。自ら神殿へ赴いていたほどでした。
    ただ、旧来のユダヤ教の祭祀をすべて肯定していたわけではなく、より内面を重視した新しい礼拝観を示したともいえます。使徒のステファノもイエス流の礼拝を主張したことで、旧来のユダヤ教から敵視されてしまいました。
    キリスト教が様々な地域へと拡大していくと、集会場が教会となり、典礼の中心となっていきました。これは共同体の延長に位置するもので、ここでもユダヤ教のエッセネ派の影響を見ることができます。

     

    そして次に「新約聖書」に繋がる共観福音書の成立です。
    4つの福音書の成立時期は、はっきりとした年代は特定できていません。説はたくさんあるものの、どれも決定的な確証がないためです。かつては1世紀の半ばから後半という説が一般的でしたが、現代はそれぞれの福音書の年代に幅をもたせつつ、それぞれの年代について、以下のように推測しています。

     

    マタイによる福音書:70年~100年ごろ
    マルコによる福音書:68年~73年ごろ
    ルカによる福音書:80年~100年ごろ
    ヨハネによる福音書:90年~110年ごろ

     

    この中でマタイ、マルコ、ルカは共通する記述が多いのが特徴です。
    しかし、ヨハネによる福音の場合は明らかに他の福音書とは異なります。他の3つがストーリー主体で語られているのに対して、ヨハネの福音書の場合は思想的な表現やキリスト教神学の基礎的な要素が強く、しかもイエスを直接的に神として扱っています。
    また福音書は4つだけでなく、「新約聖書」に入れられなかったものもあります。例えば「ペトロによる福音書」や「トマスによる福音書」、そして「ユダの福音書」などもあります。
    特に「ユダの福音書」は以前に述べたグノーシス主義と関連したものです。共観福音書と異なり、イエスを裏切ったイスカリオテのユダこそが、イエスの弟子の中で、誰よりも真理を授かっていたという内容です。一般にいわれるユダの「裏切り」という行為についても、イエスがユダへ指示したものであるとしています。
    聖書に採用された4つの福音書はギリシア語で書かれていました。マタイによる福音書にはアラム語による原版があるともいわれ、ギリシア語へ翻訳したという説もあります。しかし、これも断定はできないようです。

     

    20世紀になって発見されたナグ・ハマディ写本など、正典と外典との関係など、この部分は興味がつきませんが、今回はここまでにしましょう。

     

  • キリストの血入門 6

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第6回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、初期キリスト教で誕生した異端に関連した話でした。
    今回はユダヤ教からキリスト教の初期段階に入り、司教制度などが確立し、ローマ教皇の誕生について触れていきます。

     

    初代ローマ教皇とされるのが、イエスの最初の弟子であるペテロです。以降のローマ司教は使徒ペテロの後継者とされています。
    共観福音書の中の「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」によると、ペトロはガリラヤ湖で弟のアンデレと一緒にに漁をしていたところを、イエスが声をかけ、彼の最初の弟子になったとされています。
    ところが「ルカによる福音書」では、イエスがゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうときに、ペトロの船を使った時に出会ったとなっています。
    イエスの弟子の中でもペトロはかなりの年長者であったともいわれ、また結婚していたともいわれます。そして「使徒言行録」の記述では、イエスの弟子の中で、リーダー的人物だったようです。
    ところが、ヤコブがエルサレムで、いわゆるユダヤ教イエス派のリーダーとして活動を始めました。そこでペトロはエルサレムを離れることにしました。
    各地に布教に出かけ、イエスと同じように奇跡まで行うようになったといいます。その奇跡には、亡くなった少女を生き返らせることもありました。

     

    ペテロについては「新約聖書」の記述だけでなく「ペテロ外伝」もあります。
    これによると、ローマへ宣教していた時代に、ローマ皇帝のネロによる迫害があり、逆さ十字架で殉教したとされています。また伝承では、ネロの迫害が激化したことで、ローマから離れるためにアッピア街道を歩いていると、反対側からイエスとすれ違うことになり、会話したとなっています。このとき、ペテロはイエスにどこへ行かれるのかと問うと、イエスはペテロがローマの信徒を見捨てるのなら、イエスはローマでもう一度、十字架にかけられるために行くと答えたといいます。
    ペテロはイエスの言葉で目を覚まし、迫害による殉教までを覚悟してローマへ戻ったといいます。

     

    結局ペテロは、カトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権を持つ教皇の初代ということになりました。さらにカトリックだけでなく、正教会や非カルケドン派では、初代アンティオキア総主教で、ローマで殉教したとしています。そのため、カトリックによる世界的権威という扱いには至っていません。
    では宗教改革後のプロテスタントの場合は、ペテロの権威は否定しないものの、継承されるものではないという解釈になっています。

     

    このように聖人であり、初代ローマ教皇という権威を持つペテロですが、福音書では「ペトロの否認」という場面があります。
    これは、最後の晩餐のときの有名なシーンです。イエスはペトロに「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言しました。ペトロはそんなことは絶対にありえないと否定しました。しかし、翌日になってイエスが連行されると、ペテロも仲間だろうと聞かれ、イエスの予言通り「違う」と否認してしまったのです。何度も問い詰められ、3度目に否認した直後、鶏が雄たけびを上げました。
    その鶏が鳴く声を耳にして、ペトロはイエスの予言を思い出しました。

     

    さて、使徒であるペトロの継承として、霊的権威を持つ指導者が教皇となり、教会としての組織についてもが徐々に形成されていきました。2世紀半ば以降には一人司教による教会組織が確立し、その後、ローマ教皇が全司教の一番目の地位となり、教皇権や教皇の首位権(Primatus Romani Pontifıcis)を持つようになっていきました。

     

    次回は礼拝観など、初期キリスト教の側面につて語りたいと思います。

     

  • キリストの血入門 5

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第5回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の誕生といえるのではないかという場面まででした。
    今回は初期キリスト教とその異端について言及していきます。
    2世紀になると、キリスト教は各地に広がっていきました。小アジアでも拡大し、その一方でユダヤ教との軋轢、迫害などもありました。
    そんな中、早くもキリスト教の異端も現れるようになりました。完全な分派による異端とは断定できないのは、現在では、キリスト教とは異質の宗教思想とするのが主流となっているからです。それがグノーシス主義(Gnostizismus)です。

     

    グノーシス主義は、キリスト教初期の時代にいた秘教信奉者と、そこを原点として中世に異端とされた思想を指していました。
    初期のキリスト教の文献では、様々な異端反駁文書の中でグノーシス主義はキリスト教内部の異端思想として扱われていました。時期的にはパウロ後の2〜4世紀の頃でした。ただ3世紀くらいから衰微したともいわれます。実はこれを異端とすることで、キリスト教側としても初期の聖書解釈が進み、神学も確立していったという側面もあります。

     

    グノーシスはギリシア語で、「知識」や「認識」などを意味します。
    グノーシス主義は、グノーシスを「霊知」として扱い、これを持つことによって救済されるとし、その「霊知」こそがキリストだとしました。
    特徴的なのは二元論で、「善」と「悪」の対立というのはゾロアスター教と共通する部分があります。しかし、グノーシス主義では、霊は純粋なものであり、神秘性を伴うものなのに対して、物質は罪悪性を持ち、物質で成り立つ肉体も同様の悪であり、堕落したものであるとしました。
    ゾロアスター教では、善神であるアフラ=マズダを最高神とし、悪神のアーリマンとの対立構造という二元論になりますので、根本的に異なっているのが分かります。
    グノーシス主義では、二元論が「反宇宙論」とも合わさることで、「反宇宙的二元論」という思想になります。

     

    また、グノーシス主義はキリスト教やユダヤ教での創造論とも相容れない立場に立っていました。
    グノーシス主義では、世界を創造したのは絶対者である神ではなく、物質を創造した下級の造物者であり、物質はそれだけで罪悪性を持っていることになります。原罪も、人間が肉体を持っているから罪であるという考えになります。
    これだけ異なるということは、聖書に記述されていることも否定につながり、イエスが神の子であるということも否定することになります。
    このようにグノーシス主義は、肉体を罪悪視したことで、禁欲的、戒律的になると同時に、霊の神秘性が強調されることになりました。その結果、密儀宗教の性格が強くなったといえます。

     

    また、2世紀の同じ頃、異端といわれたキリスト教一派でモンタノス派も誕生しています。
    小アジアのフリュギアで誕生したもので、創始者がモンタノスです。グノーシス主義と比べて、極めて分かりやすく、モンタノス自身に聖霊が働きかけてきて、キリストの再臨が近いと説きました。この再臨は新しいエルサレムとフリュギアによるものだとしていました。プリスカとマキシミラという二人の女預言者も加わったことで、活動が活発化しました。
    モンタノスは禁欲的な生活を行うことを説き、独身であることを尊びました。断食を強化し、苦行を積極的に行っていきました。
    完全に異端とされたのは、主教会議においてでした。このとき、モンタノスたちはキリスト教の位階制に対して批判的だったことから、異端であるとされたのです。
    それでもモンタノス派は継続し、中世まで存続したようです。

     

    2世紀末には、エジプトでは正統教理学校ができて、アレクサンドリア教会はキリスト教にとって古代5主教座のひとつとなりました。
    このアレクサンドリア教会はオリゲネスやアタナシウスなどの多くの哲学者・神学者を輩出していきました。古代キリスト教の神学の中心地となり、アレクサンドリア学派とよばれるようになりました。

     

    イエスの死後、わずかな期間で信者の広がりを見せ、しかも異端派まで派生させたことは、キリスト教のパワーはかなり強かったことが分かると思います。

     

  • キリストの血入門 4

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第4回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、パウロの伝道までの話でした。まだキリスト教なのかユダヤ教なのか、どちらとも言えない状況でした。
    ただ、このパウロは伝道だけでなく、多くの書簡が新約聖書に入っています。『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』です。『ヘブライ人への手紙』もパウロのものとされていた時期もありましたが、現代は別の人物のものとされています。

     

    これらの書簡の中で最も重要で、なおかつ最も影響力あるのが『ローマの信徒への手紙』です。
    書簡が書かれた時期については、確定的な証拠はないものの、パウロがエルサレム教会のための募金を行っていた西暦58年頃だろうといわています。場所はギリシアではないかと思われています。『ローマの信徒への手紙』というだけあって、ギリシアからローマへ向かう途中に、ローマの信徒に向けて書かれたようです。
    この時期、すでにローマではイエス派の共同体ができていて、多数のユダヤ人も居住していました。ユダヤ教のシナゴーグもありました。
    ユダヤ教徒とローマ市民の交流もあり、イエス・キリストのことも徐々に知れ渡るようになってきました。その結果、ユダヤ人のための宗教を超越していたことから、ユダヤ人だけでなく、ローマ市民も加わった共同体が生まれたものと考えられます。
    実際、パウロがローマに来た際には、集会の場所は多く、信徒の数も多かったと思われています。

     

    このようにローマ帝国内でパウロの伝道は続き、イエスをキリストとする新しい宗教は、ローマだけでなく、地中海世界に広がっていきました。その一方で、エルサレムでは他のユダヤ教徒による迫害が強まりました。そのため、パウロはエルサレムへと戻りました。
    エルサレムに戻ったパウロは逮捕され、裁判となりました。ただ幸運なことに、パウロにはローマの市民権があったため、ローマに護送されることになりました。すぐにローマへ戻されたことになり、裁判を受ける傍らで、さらに伝道活動をしたといわれます。
    ローマ帝国内にこの宗教の共同体やコミュニティが複数、誕生したことで、ユダヤ教とは異なる宗教として認知されたともいえる状況になりました。そういう意味で、当時の覇権国で広がったことでユダヤ教のイエス派から、キリスト教になってきたといえるのかもしれません。
    さらに、コミュニティー間の交流や教会の増加により、組織的なものも構築され、さらに礼拝形式や説教などの基本的なモデルが出来上がりました。何より、新興勢力となったこの宗教が均質化されたことが大きかったといえるかもしれません。

     

    そして西暦66年から73年の間、第1次ユダヤ戦争が起こりました。
    ローマ帝国のユダヤ属州総督フロルスがユダヤの神殿の宝物を持ち出したことで、エルサレムの過激派が暴動を起こしました。この暴動の首謀者たちはユダヤ教の原理主義者であり強硬派でした。
    ローマ帝国側は、過激派の首謀者たちを逮捕し、処刑することで事態収拾するつもりでした。ところが、これが逆に作用してしまいます。過激派内でも主導権争いが行われていたものが、ローマ帝国の対応により反ローマで結束してしまったのです。
    さらに注目すべき点がありました。おそらくイエスが所属していたであろうエッセネ派まで、反ローマの反乱に加わったのです。
    この反乱の鎮圧は簡単には進まず、ローマ皇帝のネロは鎮圧のための軍団まで派遣することになりました。
    ところが、ローマでも反乱があり、ネロは自殺することになりました。次々と皇帝に即位する「4皇帝の年」もあり、反ローマの反乱とともに大混乱となったため、ユダヤ戦争はローマ軍の司令官不在にまでなりました。
    ようやく70年になり、ローマ軍によりエルサレム神殿が炎上し、エルサレムが陥落しました。このときに、サドカイ派とエッセネ派のクムラン教団が消滅したか、四散した状態になりました。これによりイエスの母体集団がなくなり、逆にイエス派は反乱に加わらなかったことから、ここでユダヤ教イエス派とキリスト教が明確に分かれたといえるかもしれません。残ったファリサイ派はキリスト教を敵視し、キリスト教徒はユダヤ教から離れ、完全に独立した宗教へとなっていきました。
    これがキリスト教の誕生といえるのかもしれません。

     

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