今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キリストの血入門 34

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第34回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回まで、宗教改革のマルティン・ルター(Martin Luther)を取り上げてきました。今回はその後の流れです。

     

    まず、ルターのところでも触れた農民戦争(Deutscher Bauernkrieg)です。
    1524年に起きた農民たちの大規模な反乱です。ルターが唱えた「12ヶ条の要求」はシュヴァーベン地方にある修道院の農民たちに大きな影響を与えました。農民たちは、賦役や貢納を軽減すること、十分の一税や農奴制の廃止などを掲げたのでした。この反乱を指導したのはトマス・ミュンツァー(Thomas Müntzer)でした。彼は、ルターが穏健派なのに対して、宗教改革では最左翼の過激派という人物でした。神学者で、聖書に記述されている言葉を、階級闘争に翻訳していました。これは農民に限らず、一般の大衆を理想社会へと導こうとしていたのでした。

     

    ルターも最初の頃が、農民側を支持していたものの、ますます過激化した反乱の様相を呈して以降、逆に農民側を非難するようになりました。さらには領主に対し、農民の反乱を弾圧するように呼びかけたのでした。その結果、農民戦争は領主側の勝利に終わり、ミュンツァーも処刑されました。これは領主側にとっても、新たな構図を生むことになりました。それは、ルターが意外にも保守的であることから、神聖ローマ帝国のカール5世がカトリックによる支配強化策をしていることへの対抗手段として、ルター派を支持す、皇帝とルター派の都市諸侯という対立構造ができたのでした。

     

    そのカール5世との戦いに発展したのが、ミュールベルクの戦い(Schlacht bei Mühlberg)でした。
    神聖ローマ帝国内に生まれたルター派の領邦君主と、ローマ教会を奉ずる神聖ローマ帝国の皇帝とカトリック勢力との対立が激化していきました。しかし、時代は新教と旧教の対立構造だけでなく、東ヨーロッパではオスマン帝国が着実にヨーロッパを侵略していきました。1526年にはハンガリー王国がオスマン帝国により事実上の滅亡させました。その先にあるハプスブルク家の本領であるウィーンへと迫るほどでした。このような背景から、内部分裂を大きくすると、帝国そのものの存亡に関わると判断したカール5世は、ルター派諸侯に対し、譲歩する姿勢を見せるようになりました。ついにルター派の禁止を一時的とはいえ凍結することにしたのでした。

     

    これはルター派にとっては、好機到来となり、広い範囲にルター派化が進んでいきました。さすがにこれは危惧する事態となり、カトリック派の諸侯は1529年に再びルター派を禁止しました。ルター派はこの決定に対して抗議しました。この抗議が「プロテスト」で、新教を「プロテスタント」という由来となりました。そしてプロテスタント諸侯たちは、1531年にシュマルカルデン同盟(Schmalkaldischer Bund)を結びました。これはプロテスタント諸侯と諸都市によって結成された反皇帝同盟でした。

     

    神聖ローマ帝国としては、1532年にニュルンベルク休戦を結ぶことで一時休戦としましたが、ついに両者の戦いが始まりました。それが1547年のミュールベルクの戦いでした。プロテスタント軍はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒが指揮する約7,000の兵士でした。ヴィッテンベルクへ向かう行軍の途中、ミュールベルクの軍営で奇襲を受けてしまいました。皇帝側のカトリック軍は、17,000の歩兵と10,000の騎兵という規模で、プロテスタント軍はまとも応戦できる状況にありませんでした。退却を指示したものの、その場で壊滅的な打撃を受けたのでした。これでカール5世の勝利が確定しました。そこで、カトリック側に優位となるアウクスブルク仮信条協定が締結され、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれました。これにより、諸侯はカトリックとプロテスタントを選択する権利だけは認められました。しかし、このプロテスタントはあくまでルター派を意味し、カルヴァン派は認められませんでした。

     

    また、アウクスブルクの和議とは、個人の信仰の自由を認めたわけではなく、領邦や都市によるカトリック、プロテスタントの選択権を認めただけでした。両派間の対立が完全に解消したとは言い難いもので、これは悲惨な三十年戦争へと繋がるのでした。

     

  • キリストの血入門 33

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第33回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は前々回に続いてマルティン・ルター(Martin Luther)を取り上げました。今回はルターの反ユダヤ主義についてです。

     

    学校の授業では、マルティン・ルターは1517年から宗教改革をはじめた人物として取り扱っていると思います。彼が反ユダヤ主義者だったことに言及することはあるでしょうか。少なくとも記憶にはありません。しかし、これは紛れもない事実です。

     

    当初、ルターはユダヤ教徒を敵視していませんでした。反教皇運動の援軍だとみなしていたようです。そのためローマ・カトリックの反ユダヤ主義に対し、ユダヤ人はイエスと同じ血統であると主張していたほどでした。1521年、神聖ローマ帝国のヴォルムス帝国議会では、ルターが異端として教会から破門されましたが、この国会期間中に、ユダヤ人と議論もしていました。 1523年には、「イエスはユダヤ人として生まれた」という小冊子を著し、ユダヤ人に対して改宗を勧めました。その内容は過激で、「愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ(※)」、「ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう(※)」に、ユダヤ教からキリスト教へ改宗することを勧めました。(※は「wikipedia」反ユダヤ主義より引用)

     

    ユダヤ人をキリスト教へ改宗させる言動とは別に、ルターはドイツ人の優位性をも主張していました。これはユダヤ人は神から選ばれたという信仰と同じような意味を持ち、極端にいえば後のヒトラーの思想にも通じる部分があるといえます。具体的には神聖ローマ帝国に関連したものでした。ローマ教皇がドイツ人を使って第二のローマ帝国、つまり神聖ローマ帝国を築き上げました。つまり、神がドイツ人のキリスト教徒の皇帝こそが統治すべきと望まれたとしたのです。これ以外にもドイツ人の選民意識に基づく発言をしていました。この点はあまり宗教改革者というイメージから遠いかもしれません。

     

    ユダヤ人に対して決定的に反旗を翻したのは、騎士戦争や、ミュンツァーによる農民戦争以降でした。ルターはこの反乱勢力を批判しましたが、それは自身の責任を痛感するようにもなった点もありました。政治的責任を強く感じ、神による秩序が人間の内的自由にる反乱により対置されることになったとしました。そこで、キリスト教徒は神に従順であり、忠実な臣下でなければならないと説くようになっていったのでした。その延長上で、この混乱はユダヤ人も大いに関係しているとしたのでした。なぜなら、あれだけルターがユダヤ人に改宗するように勧めたものの、実際に改宗した人は少なく、しかも改宗後に、すぐにユダヤ教に戻っていたのでした。これをルターはユダヤ人いからかわれたしたのでした。最終的にユダヤ人を改宗させることは不可能だとしました。イエス・キリストでさえできなかったことを理由にしていましたが、それは完全な反ユダヤへ向かうものでした。

     

    1543年、ついにルターは「ユダヤ人と彼らの嘘について」を発表しました。ユダヤ人批判とともに7つの提案を行いました。その内容は、ユダヤ人を隔離させたり、教育を受けさせない、書物を没収する、伝道の禁止から、当時ユダヤ人は金融分野で活躍していたことから、その金銀の没収、さらには奴隷のようにして働かせるというようなものでした。特にユダヤ人は財産は所有することを禁じ、その財産をドイツに返還させるということについては、激しく主張していたようでした。そのうえで、ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事だとしたのでした。まさにヒトラーと同じではないかと思えてきます。これほどまでにユダヤ人への憎悪は激しく、「敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である(※)」とし、そのユダヤ人を家に迎え入れる者は、悪魔の末裔に手を貸すことだとしたのでした。そのような者は、最後の審判の日に、キリストにより、業火にユダヤ人とともに焼かれると述べていました。

     

    そしてルターが死去する4日前に、最後の説教を行いました。この中で、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えたのでした。このように晩年のルターはユダヤ人に対する憎悪を口にしていましたが、彼の周囲の協力者からは逆に批判されたりもしていました。また、憎悪の矛先はユダヤ人だけでなく、教皇に対しても行われていました。
    そして、この反ユダヤに関するルターの文書は、のちのヒトラー時代になって再び脚光を浴びたのでした。こんな事実はあまり知られていないでしょうが、宗教改革というイメージのルターには、このような側面があったことは理解していて良いと思います。

     

  • キリストの血入門 32

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第32回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はマルティン・ルター(Martin Luther)の登場でした。今回も引き続きルターとそこから派生したことを取り上げます。

     

    1521年、ルターはヴォルムス帝国議会へ召喚されました。そこで彼は「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と述べたとされています。これに対して議会がルターを処分する流れとなり、ルターその処分決定前にフリードリヒ3の元に逃げ込みました。そして、ヴォルムス勅令となりました。ルターを帝国追放し、ルターの著作を異端としての所持することを禁止したのでした。

     

    ルターは、まるで逃亡者のように、偽名でその後の1年を過ごしました。この1年で新約聖書をドイツ語に訳しました。このときに使われた聖書はエラスムスのギリシア語テキストで、このときにドイツ語訳したことは、ドイツ語そのものにも大きな影響を与えるようになりました。それほそ広く読まれることになったのでした。その一方で、ルターが不在という状況になったことで、ルターを支持するグループが過激になっていきました。カトリック教会の破壊だけでなく、市内まで荒らすようになり、無法状態にまでなっていったのでした。

     

    ようやく1年間の沈黙を破り、1522年、ついにルターがヴィッテンベルクに現れました。そこで説教を行い、過激派を糾弾しました。改革に暴力を伴うことを真っ向から否定したのでした。

     

    またルターは司祭が独身を貫くことも疑問視するようになりました。ルターは肉体的欲望そのものは罪であると考えていました。従って肉体的欲望は悪であるとしていたのですが、結婚することによって肉体的欲望は正当化されるとしでした。この結婚によって肉体的欲望は罪ではなく、悪ではないとしたのでした。これは神のために結婚しないというのは確かによいこととしながらも、それによって常に肉体的欲望に悩まされる状態であるのなから、むしろ積極的に結婚してその欲望を解消するえきとの考えになったのでした。これが現在までカトリックの神父は独身、プロテスタントの牧師は妻帯者という構図になったのでした。ルター自身も41歳の時にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で当時26歳だった女性と結婚しました。その妻との間に三男三女をもうけました。

     

    ルターの影響は農民暴動にも及びました。ルターの登場以前から頻発していましたが、ルターの「聖書に書かれていないことは認めることができない」という言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民たちに活気を与えたのでした。領主への暴力行為が過激になっていきました。ルターは非暴力を唱えていたため、農民たちを批判したものの、暴動はさらに悪化していきました。結局、1524年から1525年にかけてドイツ農民戦争となったのでした。ルターは最終的に反乱側ではなく、貴族や諸侯の側から農民の暴徒鎮圧を求めるようになりました。ルターも過激になっていき、暴徒化した農民の殺害を煽動するほどでした。結局、ルターにとって宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だったということでした。
    これにより、反乱者の多かった南ドイツでは、ルター派は支持を失いました。今でも南ドイツにプロテスタントが少ないのは、このような歴史的背景があるわけです。

     

    ルターについては、もう一点、反ユダヤ主義も重要ですが、それは次回にしましょう。

     

  • キリストの血入門 31

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第31回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は宗教改革(Protestant Reformation)の第一弾でした。今回はマルティン・ルター(Martin Luther)です。

     

    1517年にルターが「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルクの教会に掲出したことで、宗教改革が始まったと前回述べました。では、このルターとはどんな人物でしょうか。のちにニーチェが彼を田舎者扱いしましたが、実際に生誕地はザクセン地方のルターシュタット・アイスレーベン(Lutherstadt Eisleben)という当時は小さな村でした。現在は人口2万人をこえていて、マンスフェルト=ズュートハルツ郡では2番目の規模になっています。
    父親は農夫、あるいは鉱夫ともいわれています。教育熱心で上昇志向が強い父親だったそうです。そんな父親の影響を受けたルターは、エアフルト大学に入り、順調にエリート街道を走っていきました。

     

    しかし、ある日彼は激しい落雷にあい、そのあまりの恐怖に怯えました。そこで聖アンナに助けを求め、助けていただいたら修道士になると、叫んだといわれています。これはのちに神学者ルドルフ・オットー(Rudolf Otto)が提唱したヌミノーゼ(Numinose)とよべるものだったかもしれません。
    しかし、この決断に対して両親は大反対しました。それでもルターは大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入ったのでした。 その後、ヴィッテンベルク大学で哲学と神学の講座を教えるようになりました。この時代に、スコラ学的な手法の限界を感じました。さらに「神の義」の思想に触れ、最終的に行き着いたのが、人間は善行ではなく、信仰によってのみ義とされる、すべて神の恵みであるという理解に達しました。

     

    このような理解をしていたルターにとって、当時、贖宥状の問題は見逃せないものでした。そこで「95ヶ条の論題」に至ったわけです。しかも「95ヶ条の論題」は広範囲で出回り始めました。これはカトリック教会に対する不満を抱く人々の間に瞬く間に影響を与えました。
    その一方でカトリック側は、ルターがにローマ教皇へ挑戦を挑んだと捉えました。それでも最初は、ローマ教皇庁はルターを諭し、穏便に解決するように修道会に命じていた程度でした。

     

    1518年にはアウクスブルクでの審問が行われ、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿がルターの疑義の撤回を求めましたが、ルターは拒否しました。ルターは逮捕されることを恐れ、アウクスブルクから逃亡しました。そのうえで身の潔白を主張し、公会議の開催を求めました。これがトリエント公会議に繋がりました。

     

    ルターがカトリック教会と断絶するようになると、彼の賛同者たちが集まるようになりました。カトリックから破門されても賛同者の数は減らず、むしろ増えていったのでした。
    ここで登場するのがフリードリヒ3世(Friedrich III)でした。ザクセン選帝侯で、神聖ローマ帝国ではカール5世を皇帝にさせた人物でもあります。このフリードリヒ3世の登場によって、宗教改革が一過性で終わるものでないことが確定したようなものでした。

     

  • キリストの血入門 30

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第30回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。それにしても、30回まで続くとは思ってもみませんでした。

     

     

    前回はルネサンス(Renaissance)でした。今回は、いよいよ宗教改革(Protestant Reformation)の第一弾です。

     

    ルネサンスの流れは、各国で様々な影響を与えました。古代ギリシアや古代ローマの古典文化への復帰という動きは主にイタリアで活発化し、アルプス山脈の北側では人文主義の研究が活発化しました。その人文主義はキリスト教では、聖書への復帰とも結びつくものでした。したがって人文主義から聖書への回帰、つまり宗教改革という流れが生まれたともいえます。ただし、宗教改革と人文主義はその後は歩調をあわせたわけではありませんでした。

     

    西洋史では、ルネサンスと宗教改革以降を近世としています。中世から近世に移るわけですが、その転換点では、中世の封建主義的国家から近代国家へ向かう萌芽の時代となりました。経済的な面で、ローマ教皇の収益源は各地域からの教会税を吸い上げるものでしたが、各国家が自国の富を確保し、一方的にローマ教会へ流れることを見直すことになりました。したがって、各地域の教会がローマとの絶縁関係に向かっていたことになります。
    また、この時代に、グーテンベルクの印刷技術が広まり、宗教改革の理念、主張が、広く行き渡ることになりました。

     

    宗教改革が起こったのは、1515年にローマ教皇レオ10世が贖宥状(indulgentia)を発売したことへの批判からでした。免罪符とも呼ばれるものです。贖宥状は、一般の人に対するものではなく、もともとは十字軍従軍者に対する贖宥を行ったもので、従軍できない者がその代わりに寄進を行うことで、従軍者と同じ贖宥状は手にいれることができたるというものでした。これがエスカレートし、ボニファティウス8世が教皇だった時代には、ローマ巡礼が贖宥がされるとなりました。贖宥状としては、ボニファティウス9世の時代で、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして出されることになりました。そしてレオ10世によって、サン・ピエトロ大聖堂の建築のために、贖宥状購入者を募り、購入者に全免償を与えると布告したのでした。実は中世にでは、このような教会や修道院などの建設のために贖宥状が販売されることは珍しくはなかったのですが、ルネサンスを経た時代では、この贖宥状が宗教改革へと進むことになったのでした。

     

    神聖ローマ帝国支では、ドミニコ会の修道士だったヨハン・テッツェル(Johann Tetzel、Johann Tezel)などが盛んに贖宥状を販売していました。彼の売り口上は有名です、韻を踏んだ対句になっています。引用させて頂きましょう。

     

    So bald der Gülden im Becken klingt,
    Im huy die Seel im Himmel springt.

     

    日本語訳は、「グルデン金貨が、お棺でチリンと鳴れば、魂は地獄から(天国へ)、ポチンと飛び上がる」となります。しかもヨハン・テッツェルは、贖宥状の価格を分けていたようです。富裕な市民は6グルデン、一般市民は1グルデン、村に住む人は1/2グルデンから1/4グルデンだったといわれています。完全に金銭で贖宥状の購入することだけが、償いが行えるということになっていたのでした。

     

    当然ながら、この贖宥状販売に批判的だった人物が多くいました。その代表的人物がヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルティン・ルター(Martin Luther)でした。彼は1517年、ローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会、ヴィッテンベルクの城内に95ヶ条の論題を打ちつけました。これが、宗教改革の始まりとされているものです。

     

  • ナザレ(Natzrat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナザレ(Natzrat)について勝手に語ります。

     

     

    イスラエルのナザレ(Natzrat)といえば、キリスト教にとっても大切な場所です。イエス・キリストが幼少期を過ごし、本格的に主教活動に入るまでの時期を過ごした場所だからです。新約聖書の福音書でも、イエスのことを「ナザレのイエス」と呼んでいた記述があるほどですから、きわめて重要な場所なのです。

     

    イエスが幼少期を過ごしたということは、聖母マリアの実家があったことでもあり、その跡地に教会が建っています。それが受胎告知教会(Basilica of the Annunciation)で、ローマ帝国のコンスタンティヌスにより326年に建てられたといわれています。マリアが精霊により受胎したことを、天使が知らせたことを記念した教会です。マリアの家で受胎告知が行われた家だったことになっていますが、正教会の場合、受胎告知が行われたのはマリアが水汲みに行った井戸(Mary’s Well)だったともいわれています。そのため、受胎告知教会より少し離れた井戸の跡地に正教受胎告知教会(Greek Orthodox Church of the Annunciation)も建てられています。つまり、カトリックと正教で、ともにナザレに受胎告知に関する記念の教会が別々に存在しているわけです。

     

    この地域はキリスト教徒だけでなく、イスラム教勢力が侵入した場所でもあることから、637年にイスラム教徒の制服が始まりました。受胎告知教会もこの時代にイスラム教勢力により破壊されました。十字軍の時代には、新しく二代目教会として建設されましたが、完全な修復までには至りませんでした。これも1260年にマムルーク朝により再び破壊されました。1620年になって、小規模な教会が再建され、1730年には正式な教会の建築許可が出たことから本格的な建設が始まりました。そして1954年には建て替えが行われました。完成は1969年でした。

     

    ナザレはイスラム教世界になり、住人もイスラム教信者が中心となっていきました。それでもアラブ人のキリスト教徒も少数派ながら残っていきました。支配者も十字軍以降は度々変わることになりました。その中で1099年には、十字軍がガリラヤを占領したことで、ナザレが首都になったこともありました。しかし、1187年に再びイスラムの支配下となり、十字軍やキリスト教の聖職者はナザレから追放されました。そのため、キリスト教関連の建築物も破壊され、キリスト教徒の住民は激減することになりました。

     

    フランシスコ会修道士の聖堂跡地への居住が認められたり、立ち退かされたりしたこともありましたが、1799年にはナポレオン・ボナパルトによって占領されました。それでもオスマン帝国の支配が繰り返されたりして、支配者は安定しない時代が続きました。これはイスラエルが建国された後でも、政府と対決姿勢のイスラエル共産党の勢力地だったことで、相変わらずの不安定要素が続きました。

     

     

    【参考ページ】
    イエス・キリスト生誕地のワイン
    パレスチナ(State of Palestine)
    キリストの血入門 2
    キリストの血入門 20

     

  • キリストの血入門 29

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第29回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、イスラム教の分派を紹介しました。今回はルネサンス(Renaissance)です。

     

    ルネサンスというと、学校の教科書では「文芸復興」と表記されていたのを思い出しますが、現在ではこの訳語は使われていないようです。確かに「文芸」に限定した「復興」というわけではないので、このほうが正しいといえるでしょう。ただ、古代ギリシアや古代ローマの古典や文化を復興するという「文化運動」であったのは事実で、これはイイタリアから始まり、西欧各国へと拡大していきました。

     

    古代ギリシアなどの古典的な文化は、そのまま知の遺産であり、当時の地中海世界に拡大していきました。ちょうどイスラム教に支配された地域であったことから、8世紀から9世紀にはアラビア語に翻訳されていきました。これが初期イスラム文化に大きな影響を与え、その発展に貢献していきました。有名なものとしては、バグダードの「知恵の館」でした。これはアッバース朝の第7代カリフだったマームーンによって設立されたもので、古代ギリシアの知識の継承を行っていたのでした。
    古代の古典的文献を翻訳するだけでなく、それに対してのイスラム教哲学、あるいは科学に基づく注釈などが加わるようになりました。しかも、それをラテン語へと翻訳したのでした。

     

    ラテン語翻訳されたことにより、古代ギリシアをはじめとする古典的な文献に、イスラム世界の注釈を加えたものが、ヨーロッパに伝わったわけです。当時、イベリア半島はイスラム圏でしたから、スペインからローマへと、さらにフランス、神聖ローマ帝国へと伝播したことになります。
    つまり、ルネサンスの流れには、イスラム世界のフィルターがあったことを意味し、中世のキリスト教支配という絶対的な権威によって破壊された古典を、イスラム世界を仲介することで復活させたものといえるのでした。その一方で、この初期イスラム文化が花開いた要素が、のちに衰退へと向かっていたことから、それをキリスト教世界が引き継いだというのも、興味深いことといえます。

     

    また、1453年のコンスタンティノープルの陥落も大きく影響しました。東ローマ帝国が滅亡したことで、東ローマ帝国からギリシア人が多くイタリアへと逃げていきました。その中に知識層が大勢いて、彼らにより、古代ギリシアや古代ローマの研究がイタリアへと移ったことになりました。

     

    ルネサンスはフィレンツェを中心に展開され、思想では、新プラトン主義がキリスト教や他の宗教、哲学との融合を図っていきました。キリスト教という枠だけで収まらない新しい思想が、これにより誕生する土台となっていきました。
    このように従来のキリスト教という権威に、外部からの刺激が加わり、中世から近世へと時代が移り変わっていくのでした。そのため、キリスト教にとっても、ルネサンスは大きな転換点といえるものだったのです。

     

  • キリストの血入門 28

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第28回です。今年も昨年同様にワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、クリスマスに因んだ、イスラム教との関係を取り上げました。クリスマス関連の話題の前は、キリスト教の西方教会と東方教会の分裂、あるいはカトリックとプロテスタントの分裂とは異なる、イスラム教の大分裂を取り上げました。今回はそこに戻って、イスラム教の分派を紹介していきます。

     

    イスラム教はスンナ派とソーア派に別れましたが、さらに分派していきました。
    スンナ派には四大法学派があります。まずハンバル学派です。アフマド・イブン・ハンバルを起源とする学派ですが、実際には彼の弟子たちによって創始されたちうのが正確かもしれません。主にサウジアラビアで多く、英語圏の人々に教える授業や教科書にも関係しているといえます。聖地であるマッカとマディーナでも中心的な法学派です。次にシャーフィイー学派ですが、始祖は法学者のアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・シャーフィイーです。セルジューク朝の庇護を受けたことにより、イラン高原全域から、イラク、アナトリア、シリア、エジプトにまで勢力を拡大した時期がありました。マーリク学派は、4大法学派のうちで二番目に大きい学派です。北アフリカ、西アフリカ、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力となっています。最後のハナフィー学派は四大法学派最大で、全ムスリムの約30パーセントが属するといわれています。もっとも寛容で近代的な学派であるとされています。

     

    一方、シーア派は大きく分けると3つに別れます。
    ジャアファル法学派がシーア派の多数派を占め、ジャアファル・サーディクに由来する名称となっています。イランの国境でもある十二イマーム派がジャアファル法学派を信奉していることで知られます。イスマーイール派は、グノーシス的な神秘主義的教説が特徴です。前イスラーム的信仰体系の影響を受けている学派です。ザイド派は他のシーアと異なり、イマームの血統よりも勇気と行動力を重視するのが特徴です。そのため、アリーの子孫ならば誰にでもイマームたる資格があるとしています。この点で明らかに他のシーアと異なります。また、ムスタアリー派やその派生のハーフィズィー派などもあります。

     

    イスラム教でありながら、独立した別の宗教になった例もあります。
    ハーブ教はその代表例といえるでしょう。1840年代のイランで、バーブ(ミールザー・アリー・モハンマド)により、十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったものです。これがシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言したことで、イスラームの枠外とされました。1850年代末には徹底的な弾圧を受けました。全滅寸前ではありましたが、なんとか逃れた教徒の一部によりバハーイー教となり、そのままイランに残ったのがバーブ教です。しかしイランでは、バーブ教の存在、信仰は、違法としていますバハーイー教はバーブ教から分離し、現在はイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部があります。

     

    イスラム神秘主義では、スーフィズム(Sufism)も挙げられます。ただしこれは、9世紀以降に生まれた改革運動でもあり、イスラム教の世俗化・形式化を批判するものでした。そのため、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を究極的な目標としています。学派として分派したというより、一種の内面化運動ともいえるものでした。しかし、その後、独自の教団となっていき、代表的なものとしては、中央アジアのナクシュバンディー教団、バングラデシュのマイズバンダル教団など、トルコやアルバニア、モロッコ、イエメン、リビアなどの各地に教団があります。

     

    イスラム教といっても、各派によって異なる部分があり、日本人にはよくわからない部分も多くあると思います。しかしこれも、ムスリムから見れば、日本仏教の各宗派の違いがわからないのと同じと言えるかもしれません。
    相互理解するには、お互いに正しい知識が必要ということです。

     

  • キリストの血入門 27

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第27回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、クリスマスに関連した「キリストの血」を勝手に述べました。かつて「クリスマスを祝う」でもご紹介した内容の補足でした。今回もクリスマスに因んでイスラム教との関係を取り上げます。

     

    イスラム教の国では基本的にクリスマスはないといえます。しかし例外もあります。
    例えばアラブ首長国連邦のドバイです。もちろんこの国はイスラム教の国家です。それなのにクリスマスがあります。
    ドバイといえば中東屈指の世界都市であり、金融の世界的中心地です。ドバイの写真を見ると、超高層ビルが並び立ち、巨大ショッピングモールを始め、数々の大型建築物のある都市です。さらに世界的な観光都市でもあります。それだけ世界的都市ということで、イスラム教への信仰心が薄いということではありません。実はドバイはもともとのイスラム教信者である地元の人よりも、海外からの移住者のほうが圧倒的イ多くいるからなのです。その中でもキリスト教の人口は多く、次にヒンドゥー教となっています。従って、ドバイではクリスマスだけでなく、10月にはハロウィンもあります。ヒンドゥー教では11月にはDiwaliもあります。

     

    ドバイではクリスマスが近くなると、アメリカのようなクリスマスムードになり、子供たちもクリスマス関連の衣類や帽子をかぶって街に溢れ出します。現地のムスリム(イスラム教徒)が敵視するかというと、ここではそのような宗教対立ありません。かなり寛容に見守っているようです。この点が世界都市のドバイならではといえるのかもしれません。
    また、かつてはドバイはイギリス領だったこともあり、クリスマスに合わせた広告などはイギリス発祥のブランド勢力が目立つようです。

     

    ドバイはこのようにイスラム色が薄く、宗教的制約については極めて薄い都市で、当然ながら飲酒も可能です。気軽にワインが飲めます。イスラム教の規律からすれば当然ながら禁止になりますが、ドバイでは飲酒が許可されたホテルやレストランがあり、警察署の発行する許可証があれば酒類を市中で購入することもできます。国外から酒類を持ち込むこともできます。また、服装や娯楽なども寛容です。食事面では、イスラム教で不浄とされる豚肉の料理を出すレストランもあります。

     

    しかし、ドバイがすべてに寛容というわけではありません。
    実際には格差社会になっているといえます。特に国籍によって職業を分けたりするのは当たり前で、公共施設の利用についても格差があったりします。あくまで外国からの移住者との関係から宗教的な寛容さがあるだけなのです。特にビジネス的な側面が宗教に優先されていることは忘れてはいけないことです。

     

    もうひとつ、トルコのクリスマスも興味深いといえます。
    トルコもイスラム教の国ですが、クリスマスはあります。ただし宗教的な意味合いはありません。これは日本と同じといえるでしょう。トルコの場合、クリスマスはノエルといい、サンタクロースはノエルババといいます。さらにクリスマスツリーはノエルアーチです。しかし、クリスマスイブの日の特別感はないようです。むしろトルコのクリスマスは12月から新年の1月までのイベントという扱いのようです。イブの日に大騒ぎをしたり、恋人で過ごすという習慣がないようです。これは宗教的な意味のない日本のクリスマスと異なる点でしょう。

     

    今回はイスラム教圏での特殊なクリスマス事情をご紹介しました。

     

  • キリストの血入門 26

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第26回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、ワイン文化とは対極の宗教であるイスラム教のスンナ派とシーア派の分裂を取り上げました。この分裂は、キリスト教の西方教会と東方教会の分裂、あるいはカトリックとプロテスタントの分裂とは異なものでした。今回は12月ということありますので、イスラム教から離れ、早めにクリスマスに関連した「キリストの血」を勝手に述べていきます。かつて「クリスマスを祝う」でもご紹介しましたが、今回も再び取り上げます。

     

    クリスマスがキリスト教にとって大切な日であることは常識ですが、聖書にはイエスが生まれた日の記述がありません。それなのに12月25日に祝う訳ですから、生誕日を祝うのではなく、生誕そのものを祝うという日になる訳です。そのため、カトリックでは、イエスの誕生をみんなで祝うようになったこと、つまり生誕祭こどが現在のクリスマスの始まりだとしています。そのためのミサがあり、そのミサを「キリストのミサ」といい、これが「クリスマス」になったともいわれます。
    真偽のほどはともかく、カトリックにとってはイエス・キリストの生誕を祝福する荘厳なミサが行われるのhが事実です。まさに聖夜にふさわしい日です。

     

    では、なぜキリストの生誕祭が12月25日なのかというと、以前の「クリスマスを祝う」でも述べたように、これはナタリス・インウィクティと呼ばれる祭典が関係していると考えられています。これはミトラス教の太陽神の誕生を祝う祭りです。古代ローマでは、太陽を祈りの対象とするミトラス教信仰があり、これがそのままキリスト教に吸収されたというものです。
    また、クリスマスは「ユール(jul)」が起源だとも考えられています。北欧では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶほどで、英語の古語でもユールタイド(yuletide)という呼び方があり、これもクリスマスの祝祭を指す言葉です。このユールとは、北欧やゲルマン民族の祭りでした。そのためキリスト教以前の冬至祭のことです。この意味ではミトラス教と同じです。ただ、この祝祭には酒や獣を捧げるという風習がありました。いわゆる生贄の風習です。この名残として、今でも北欧やドイツのクリスマス料理は、肉料理が中心になっています。
    また、ユールはゲルマンだけでなく、古代ローマの冬至祭サトゥルナリアにも関係深いという見方もあります。この冬至祭は、ローマ神話の農業の神サートゥルヌス(ギリシャ神話ではクロノス)を祝う祭りであり、12月17日に行われていました。これが1世紀ごろに12月23日に行われるようになりました。さらに、この日は完全な安息日となりました。クリスマスの12月25日と近いことから、このような説もあるのかもしれません。

     

    では、肝心なイエス・キリストの生誕についてですが、聖書の記述はどのようになっているのでしょうか。福音書に記されていますが、当然ながらクリスマスと直結するような内容はありません。
    イエスの母はマリアですが、まだ未婚で、婚約者にヨセフがいました。このような状態のときに、マリアは受胎告知を受け、イエスを身ごもったのでした。当時のユダヤでは、結婚前に妊娠する、しかも婚約者の子ではないというのは、とんでもないこととされていました。周囲の声は、現在の日本でも同じようなものかもしれません。ヨセフの両親、周囲の村人たちは、マリアの不貞を疑い、激しくののしりました。それだけでなく、マリアを不潔なものとして、罰を与えることにし、捕まえようとしました。これに対して、ヨセフが立ちはだかりました。彼はマリアを信じていて、絶対に不貞はしていないというマリアの言葉に疑いを抱いていなかったのです。ヨセフはマリアの手をとり、追手から逃れるために馬小屋に身を隠しました。そこでマリアに陣痛が始まり、男の子を出産しました。この子こそがイエスでした。

     

    マリアは神の子イエスの母ということで、聖母信仰にも繋がりました。これもキリスト教本来のものではありません。
    ところで、クリスマスといえばケーキを連想する方も多いかもしれません。日本ではクリスマスケーキとして、街中で売られている光景をよく目にします。フランスなどでは「ブッシュ・ド・ノエル(bûche de Noël)」が一般的でしょうか。木の切り株に見立てたロール状のケーキです。ドイツでは「シュトーレン(Stollen)」です。クリスマス用のシュトレン(Christstollen)があり、ドライフルーツを混ぜ堅く焼いたお菓子になります。個人的にはすごく懐かしい気がします。

     

    今回はイスラム教から離れましたが、時期的にこのような寄り道は許されるでしょう、と、勝手に思っています。

     

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