今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キリストの血入門 21

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第21回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は十字軍についてでした。今回は正教会を単独で取り上げます。

     

    中世の東西教会分裂後の東ローマ帝国では、新たな修道精神の勃興が起きていました。東ローマ帝国の静寂主義が起こり、修道熱も高まりました。
    その前に、正教会について改めてまとめておきます。

     

    まず、名称ですが、「正教会」は一般的には「ギリシャ正教」や「東方正教会」ともいい、西ローマ帝国のカトリックと並ぶ伝統的なキリスト教の教派です。正教会の場合、国名や地域名を冠したローカルなキリスト教組織を形成しています。ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会などです。日本にも日本正教会があります。また古代総主教庁も地名を冠して、コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁などのようになっています。
    地名を冠しているだけで、それぞれが別の教派ではなく、あくまでローカルな組織の名にすぎません。従ってロシア正教からグルジア正教に「改宗」するというのはありえないわけです。

     

    東ローマ帝国の国教であり、地中海の沿岸の東側地域を中心に広がったことから、西ローマから見て「東方」ということになっていますが、現在では必ずしも東方だけの教会とはいえません。確かにギリシャを中心にして、東欧各国で多数の信徒を誇っていますが、移民などにより世界中に信徒が分布しています。
    あまり知られていませんが、今ではイスラム勢力の強い中東においても、初代教会から継承されるものがあります。
    また、東欧はソビエト連邦の影響下であった時期があるため、その時期は正教会は大きな被害を受けました。共産主義にとって宗教は麻薬であるとのことで、弾圧による被害がありました。しかしソ連崩壊後から再び正教会が復興しています。

     

    東欧各国が正教会の国となったのは、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルから、スラヴ地域へ宣教していったという歴史があるからです。
    まず最初に、9世紀に宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟により、スラヴ語のための文字を考案したのでした。なぜならスラヴの言語は話し言葉ではあっても文字がなかったからです。これをもとに聖書をスラヴ語に翻訳し、この翻訳が教会スラヴ語として現在でも礼拝で使われています。
    この文字がのちにキリル文字になり、スラヴ文化の新たな形成と発展に繋がっていきました。

     

    ブルガリアはトルコ系の遊牧民族のブルガール人の移住地でしたが、ブルガリア帝国でも870年に正教会が建立されました。言語は異なっていましたが、スラヴ語典礼が行われ、ブルガール人はスラヴ人と同化していきました。
    ルーマニアはそのブルガリアの支配地だったため、初期から正教会があり、しかもラテン語からスラヴ語典礼へと変えていきました。

     

    そして冒頭の新たな修道精神の勃興についてです。
    14世紀に、アトス山の修道院で「静寂主義」といわれるヘシュカスムが体系化されました。グレゴリオス・パラマス(日本ハリストス正教会ではグレゴリイ・パラマ)によるものです。正教会はカトリックより神秘思想的な傾向が強く、それを決定的にしたといえるものでした。
    カラブリアのバルラアムが唱えた「恩寵は神によって作られた」とする説に反論し、恩寵の非被造性を説いたのでした。非被造の恩寵が人間を照らし、神の働きを知ることへと導くとしました。さらに霊的な指導を徹底したのでした。
    このヘシュカスムとは、「祈らずして祈る」者だけが、神の作られざる恩寵の光に与り、恩寵によって神の性質と等しいものになるとし、この過程における絶対的な静寂(ヘシュキア)を体験するというものです。神秘的要素が多く、バルラアムはこの論争に敗れることになり、東ローマ帝国を追放されてしまいました。何と、彼を迎え入れたのはカトリック教会で、司教となりました。

     

  • キリストの血入門 20

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第20回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は修道院についてでした。今回は十字軍です。

     

    十字軍は、ヨーロッパのカトリック諸国が、聖地エルサレムをイスラム教勢力から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことで、時代は中世でした。
    このように、キリスト教勢力がイスラム勢力を駆逐するための遠征軍というのが一般的な十字軍ですが、必ずしもイスラム勢力を相手にしたわけではありませんでした。アルビジョア十字軍は、キリスト教でも異端に対する遠征軍でしたし、北方十字軍は、北欧など当時の非キリスト教圏に対する征服を目的としていました。
    しかも東西分裂以降の正教会も敵という扱いになっていきました。さらに、第4回十字軍以降になると、エルサレムの先のエジプトが目的地になったり、第8回十字軍ではチュニスが目的地になっていました。

     

    この背景には、東ローマ帝国のチカラが衰え、トルコのイスラム王朝であるセルジューク朝の台頭が大きく影響しています。
    このような中、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスは、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世に依頼したことが発端でした。教皇はイスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけました。これにより1096年にエルサレム遠征の軍が誕生しました。第1回十字軍です。
    このとき、十字軍参加者には免償が与えられるとまで、教皇が宣言していたのでした。
    エルサレムに至るまでの間、イスラム教が徒支配する地域を壊滅していきました。ただ、この制圧には、十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったといわれています。イスラム教の領主たちは、連合することができず、潰滅していったのでした。
    十字軍も一枚岩ではなく、分派や内部対立も目立ち始めていました。

     

    この十字軍の誕生については、教皇が、エルサレムの聖地巡礼に、イスラム教徒が阻害していると考えたことにありました。そこで十字軍への呼びかけになったわけですが、フランスも神聖ローマ帝国も聖地奪還という意味では、集結を可能にしたのでした。当時は神聖ローマ帝国と教皇との関係は、必ずしも良好とはいえなかったにも関わらずです。こうして第1回十字軍はフランスとドイツの諸侯が中心として編成されたのでした。

     

    最初は優勢だった十字軍でしたが、その後はイスラム教徒の巻き返しに会いました。その結果、14世紀初めまでに全てが滅ぼされてしまったのでした。
    壊滅した十字軍の兵士は、西アジアを追われることになりました。十字軍の本来の目的だった聖地エルサレムをキリスト教徒の元に奪還するということは達成されなかったわけです。
    ただ、この十字軍の一連の流れの中で、騎士修道会、托鉢修道会、救出修道会などが誕生することになりました。ドミニコ会もそのひとつで、アリストテレス哲学の再発見からスコラ学を開花させました。

     

    また、ヨーロッパでは十字軍への従軍による疲弊していきました。封建領主の力が弱まったことで、貨幣の使用が増加し、独立自営農民まで出現し、経済構造が大きく変化していきました。これは、中央集権化を有利に進めることにもつながり、ヨーロッパ絶対王政への序章となりました。

     

  • キリストの血入門 19

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第19回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はイスラム勢力の台頭後の東西教会についてでした。今回は少し時間を遡りつつ、修道院についてです。

     

    修道院は、修道士による修道生活、要するに共同生活を行う施設です。キリスト教の祈りや労働を行います。
    修道制度としては、古代に始まったものです。最初は洞窟や砂漠で1人で修行しました。隠者の生活といえるもので、この始祖は聖アントニウスだという伝承もあります。
    ただし、このような修道生活というのは、他人と最低限の接触しか持たないことで、多くの困難がありました。そこで、修道士たちが集まり、集団生活を行う制度として誕生したのが修道制度の起源といわれています。
    その一方で、ローマ帝国によるキリスト教迫害時代が終わると、虐げられて状況が解放された反動もあり、迫害時代のように、あるいはより禁欲的な生活を求める人々も現れました。やはり砂漠や人里はなれた場所での求道的な生活を行いました。このような流れも修道者として確立されていきました。

     

    修道院には、男子修道院と女子修道院とに分かれます。修道士と修道女です。どちらも一生独身で、結婚することはありません。
    修道院はすべての教派にあるわけではありません。あるのは、カトリック教会、東方諸教会、正教会、聖公会、ルーテル教会などです。この中でルーテル教会を完全なプロテスタントで、この例外を除けば、基本的にプロテスタントに修道院はありません。
    また、ローマ帝国の東西分裂も関係して、修道制度も東西で異なった展開となりました。
    特に東方では、前回にも述べた(キリストの血入門18)でも触れた聖像破壊運動に対する聖像擁護などのように、民衆の代弁者という機能もありました。

     

    カトリック教会の場合、修道会の制度というのがあります。
    中世の修道院運動の中から多くの修道院が誕生しました。しか修道院の創立者の霊性を保持することで、ある種の権威を保ちつつ、独自の会則や組織化を進めていきました。従って創立者のカリスマ性とそれぞれの使命により、それぞれの活動を行うようになりました。
    あくまで修道会は修道生活が中心ということもあり、祈祷が重視されていました。これが宣教を目的としていったのが近世のイエズス会でした。
    また、17世紀以降になると、領主から独立した社会福祉団体により、地元の司教のもとで女子修道会が誕生しました。代表的なのがサレジオ会でした。
    観想修道会の場合は、修道士は修道院の敷地内を出ない生活でした。自分の意思で修道院から出られませんでした。この代表的なものとしてはトラピスト会が挙げられます。

     

    ブルゴーニュのワインに関連するシトー会も修道院で、ベネディクト会から派生しました。
    ベネディクト会は、西ヨーロッパ的修道制度を代表するもので、ベネディクトゥスが創始しました。ここでの修道制度は、同一グループに属するすべての修道者たちが会憲・会則という形で同じ精神を共有するのが特徴でした。
    女子修道院は、ベネディクト会を見習い、同じ精神と生活スタイルを持った女性たちの集まりとなりました。
    また、ベネディクト会は、従来の祈祷中心の信仰生活だけでなく、労働を重視しました。土地の開墾、農業技術、ワインの醸造技術など、彼らが発展させたともいえます。

     

    修道院はまた、病院のルーツでもありました。ホスピス(hospice)の役目を担うこともありました。余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設です。
    巡礼者の宿泊施設という側面もありました。

     

  • キリストの血入門 18

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第18回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はフィリオクェ問題についてでした。今回は東西教会の分裂以降、イスラム勢力の台頭、その後の西ヨーロッパ独特の政治宗教体制についてです。キリスト教(聖)と政治権力(俗)が緊密な関係で統治を分かち合う特殊な関係が成立しました。

     

    7世紀になると、イスラム教が急速に拡大してきました。アラビア半島で誕生した新しい勢力は、イスラム帝国へと発展していきました。
    地理的に東方諸教会は大きな影響を受けました。イスラム帝国の勢いは早く、シリア、パレスチナ、エジプトが支配されるよになりました。実はこの地域こそ、キリスト教の単性論が主流で、東ローマ帝国の東方教会の正統派からは抑圧されていたのでした。そのため、皮肉なことに、イスラム帝国の侵攻は、東ローマからの解放者でもありました。そのため歓迎されたりもしたほどでした。
    イスラム帝国側も、統治した地域のキリスト教徒に対して、一定の人権を保障しました。そのせいで、東ローマ帝国からは異端派として危険視されていた状態よりも、イスラム帝国のほうがむしろ安全な生活と信仰が保障されたのでした。

     

    とはいえ、完全にイスラム教の影響下にあるわけで、全く差別がなかったわけではなく、改宗を迫られることもありました。そのせいか、この地域はイスラム化が徐々にではありますが進んでいったのでした。
    そしてイスラム勢力によりエルサレムの陥落です。638年でした。ウマル1世はエルサレムを征服後、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言しました。その後にキリスト教徒からすれば屈辱的なウマル憲章を発布しました。
    イスラム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われていて、キリスト教が聖像を使用していることに対しては猛烈な批判がありました。もともとキリスト教も偶像崇拝を否定する立場からの出発点だったこともあり、東ローマ帝国の一部の知識人は、これに大きく影響されました。これは8世紀の聖像破壊主義へと繋がり、さらには東方教会が偶像を否定しつつ、イコンを認めるような方向性にまで関係しました。
    これにより、東ローマ皇帝が聖像破壊主義を支持し、ローマ教皇とは相いれないほどの疎遠さに繋がっていきました。ただし、第3コンスタンティノポリス公会議では、聖像崇敬が教義として確立されるようになり、聖像破壊論争は終結することになりました。

     

    一方イスラム帝国は、東ローマ帝国の領土を飛び越え、西ヨーロッパにも侵攻していきました。アフリカ北部を経由してイベリア半島へと進んでいったのです。現在のスペイン国内を超え、さらにピレネー山脈まで越えていきました。
    この西ヨーロッパに迫ったイスラム帝国を撃破したのが、フランク王国のカール・マルテルでした。この当時、すでにフランク王国は西ヨーロッパの覇権を握る勢いだったのです。
    そして800年、ローマ教皇レオ3世は、カール・マルテルの孫・フランク王カール1世を「ローマ皇帝」として戴冠したのでした。その後、オットー1世の戴冠により、神聖ローマ帝国が成立しました。これにより政治的、軍事的な権力が、かつてのローマ帝国と同じように皇帝となり、キリスト教の権威の頂点にローマ教皇がいる、という聖俗が緊密な関係で統治を分かち合うスタイルが確立しました。これこそ西ヨーロッパ独特の政治宗教体制でした。

     

    その反対で、東ローマ帝国では皇帝が聖俗両方の支配というスタイルとなり、キリスト教会は皇帝の統治下での国家宗教という位置づけでした。
    西ヨーロッパのスタイルに比べて、東ローマ帝国は皇帝に権力が集中していたわけですが、キリスト教の教義については、皇帝でも絶対的な決定権があったわけではありませんでした。
    神聖ローマ帝国は中央集権化された帝国ではなく、ある意味で名目上の皇帝にまで落ち、首都も定まらず、これが独特な歴史を辿ることになりました。

     

  • キリストの血入門 17

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第17回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はローマ帝国の東西分裂についてでした。今回はフィリオクェ問題についてです。

     

    フィリオクェ問題は、キリスト教の神学上最大の論争といわれるものです。これによりローマのカトリック(西方教会)とビザンツ帝国(東ローマ帝国)の正教会(東方教会)とが完全に分離することになりました。東西分裂を決定的にしたものです。
    この問題は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の解釈・翻訳をめぐって対立したものでした。

     

    キリスト教に詳しくない人には、大きな問題だと感じないかもしれませんが、東西の意見対立は根深い物があります。
    論点となるのは「聖霊」あるいは「聖神」についてです。カトリックは「聖霊は父と子より発する」としていますが、正教会では「聖霊」が「聖神」となり、「聖神は父より発する」としています。どちらも父なる神、子にして神、さらに人でもあるのがイエス・キリストとする三位一体の構成なのは共通ですが、この相違点についてはお互いに相容れないものになっていました。

     

    東西対立は9世紀から顕著化していきました。
    しかし、古代から続くキリスト教文化の一体性が大きく分かれたとは、必ずしもいえないようです。
    そもそもが、この時代のキリスト教は、東地中海沿岸でギリシア語、西地中海沿岸でラテン語が主に用いられていたという背景もあります。従来のローマ帝国はラテン語ですが、キリスト教の教義については主に東地中海沿岸で理論的発展してきました。そのためラテン語とギリシア語のそれぞれの文化圏の違いがありながら、神学理論の著述がギリシア語が主だったことから、ローマ教会ではラテン語への翻訳を行っていたという関係がありました。
    言語の違いによる差はありながらも、キリスト教文化という面では一体性は十分に保たれていたとみられます。

     

    この言語の違い、翻訳がこの問題に関係してきました。
    ニカイア・コンスタンティノポリス信条の原文はギリシア語でした。その中で「父より出で」という部分を、カトリックがラテン語で「父と子から出て」というように付け加えて翻訳したことが問題となりました。
    実はこの問題はそれだけでなく、当時のコンスタンティノポリス総主教のフォティオス1世と前の総主教だったイグナティオスとの対立があり、いわばコンスタンティノポリス教会内部の政治的争いでしたが、これにローマ教皇が介入してきたのでした。しかも前の総主教だったイグナティオスを支持したのでした。これにより東西のキリスト教会が分裂するような対立へと進化してしまったのです。

     

    ローマ教会の介入によって、イグナティオスは勝利を収めるとともに、ローマとの関係も改善するように動き、東ローマ皇帝のバシレイオス1世をフォティオスを罷免することになりました。
    これにより東西教会の分裂は調停されるようになりましたが、第4コンスタンティノポリス公会議の正当性についての意見の相違は残り、両教会が完全にもとの状態に戻ることはありませんでした。しかも肝心なフィリオクェ問題では、東西教会で見解が一致することはありませんでした。その結果、1054年に大分裂となったのでした。

     

    この問題は1438年に東西合同で開催されたフィレンツェ公会議で再び採り上げられました。このときに、東方正教会の主教たちは「父と子から出て」を承認しました。これで東西での統一見解となるかと思えましたが、そのようにはなりませんでした。
    この公会議に出席していたキエフ主教を、ロシア正教会が破門し、決議の承認を撤回したのでした。これで東西教会の統一は夢となり、分裂はそのまま継続することになりました。

     

    正教会では、現在でも「聖神は父からのみ発出し、子を通して派遣される」としています。

     

  • キリストの血入門 16

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第16回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は東方諸教会についてでした。今回はローマ帝国の東西分裂についてです。キリスト教というよりローマ史になりますが、これは中世の東西分裂に関係する部分なので、あえて取り上げています。

     

    帝政ローマの初期に誕生したキリスト教は、2世紀末になると、ローマ帝国全土へと広がっていきました。313年にはミラノ勅令(キリストの血入門 11)によりキリスト教が公認されました。
    その一方で、ユリアヌス帝により異教復興もありましたが、その後のキリスト教は影響力が拡大していきました。そしてテオドシウス1世によりついにキリスト教はローマの国教になりました。

     

    ただローマ帝国の支配力は徐々に弱体化し、286年のディオクレティアヌス帝により東方正帝と西方正帝による分担統治が開始されました。これより事実上の東西ローマ帝国となりました。当初はあくまでも分割統治でしたが、帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者が現れなかったことで、このようになりました。
    もっとも、この当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなかったようです。

     

    このようなローマ帝国の分裂により、東西のローマ帝国領域内でキリスト教もそれぞれ異なった展開となっていくことになりました。
    帝国としての政治的側面の影響は大いにありますが、地理的要因も大きく関係したといえます。それは西ローマ帝国がラテン語圏、東ローマ帝国がギリシア語圏であることから、文化圏が根本的に異なっているからです。
    この二つのキリスト教の流れが決定的に分裂したのは中世になってからの1054年でした。

     

    ローマ帝国としても東西では、命運が大きく分かれました。
    西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に脅かされ、首都も移転し、イタリア半島の領土さえ支配するのが危ぶまれる状態でした。一方で東ローマ帝国は、首都がコンスタンティノポリスで、15世紀まで続きました。西ローマ帝国の滅亡が476年なのに対して、東ローマ帝国は1453年の滅亡ですから、その差は1,000年近くあります。
    また、中世の東ローマ帝国は、ビザンツ帝国やビザンティン帝国とも呼ばれるようになりました。古代末期のローマ帝国を受け継ぎ、キリスト教国家であり続けました。西ローマ帝国と違い、ゲルマン人の侵入については最小限に食い止めていました。
    その結果、西ローマ帝国滅亡により、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝となり、全ローマ帝国の統治権を持った皇帝という名目になりました。

     

    西ローマ帝国滅亡後に西ローマ帝国の領土を統治したのはゲルマン系諸王国でしたが、統治に際して、東ローマ帝国の皇帝よりローマ帝国の官僚に任命されるスタイルをとりました。あまり知られていませんが、ゲルマン系の人たちはローマ帝国の権威を利用していたのです。
    教科書的に見ていくと、西ローマ帝国滅亡後、ローマ帝国に代わって別のゲルマン系諸王国が誕生したとなりますが、実際には形式上は依然としてローマ帝国が継続していた演出のもとに生まれた支配だったのです。
    そのため、ゲルマン人に支配された地域の住民たちも、「ローマ人」であるとの認識だったようです。

     

    この構図が決定的に変化したのは、フランク王国のカール大帝(Karl der Große)の時代です。
    800年12月25日のミサで、カールにローマ教皇のレオ3世が「ローマ皇帝」としての帝冠を授けたのです。カールの戴冠です。これでローマ皇帝であることが宣言され、それを授けたローマ総大司教は管轄にあるキリスト教会ともども、東ローマ帝国の宗主権下から名実ともに離脱したことになりました。これが新たなローマ帝国の東西分裂であり、キリスト教会も分離を意味しました。
    このカールの戴冠の延長上に神聖ローマ帝国があり、新しいローマ皇帝とローマ教会との関係が新しく誕生したわけです。これは1806年のライン同盟結成まで継続しました。

     

    キリスト教とローマ帝国の関係はとても重要なので、今回はここまでにしておきます。
    【参考記事】
    フランク王国
    カールの戴冠
    フランス共和国( République française)1
    なぜフランスはワイン大国なのか?
    カール大帝とコルトン・シャルルマーニュ(Corton-Charlemagne)

     

  • キリストの血入門 15

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第14回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はネストリウス派に関連する、ある種の「トンデモ説」をまじめに語りました。今回は東方諸教会についてです。

     

    公会議によって教義の確認が行われ、正統教義の確立へと進んでいたキリスト教ですが、前回までの話のようにネストリウス派をはじめ、異端とされた教派も多く、ローマ教会から分離する動きも多くありました。
    さすがに異端の烙印を押されたものは、その後の歴史の中で消滅したものが多くありました。それでも正統派といわれるキリスト教勢力が及んでいない地域では、そこに根をはり、独自進化をとげていくケースもありました。
    ネストリウス派と並ぶアリウス派などは、ゲルマニアで勢力が拡大した時期もあったほどです。

     

    その中で、現在まで継続している教派もあります。
    それが東方諸教会です。
    この「東方」というのは、西欧から見て「東」方向ということを意味し、ローマのカトリック教会にも、東ローマ帝国の正教会にも属さない教会の総称です。そのため、東方諸教会の中でも教派が異なります。
    厳密にいうと、カルケドン公会議で異端とされ、東ローマ帝国の教会(いわゆる正教会)から分離した教派のことで、単性論と看做された教派に、ネストリウス派を加えたものになります。

     

    ここで重要なのが「単性論(Monophysitism)」です。
    イエス・キリストが単一の性(natura)のみを有するという説です。カルケドン公会議では、イエス・キリストは神性と人性という二つの本性を持つという両性論が正しいとされ、単性論は否定されました。しかし、この単性論は皮肉なことに、同じく異端とされたネストリウス派に対抗するものでした。それがカルケドン公会議で退けられのです。
    ただし、「単性論派」とされた諸教会は、自らを「単性論」とはみなしていませんでした。むしろ単性論教会と分類されることを拒絶していました。
    また、「非カルケドン派」もありました。非カルケドン派教会の特徴は、聖母マリアの扱いです。マリアを神の母として崇敬していますので、ネストリウス派教会とは対立的思想といえます。修道院制度が確立され、聖職位階制度もありますが、修道会はありませんでした。

     

    では、東方諸教会にはそのような教派があるのでしょうか。
    代表的なものを紹介していきます。
    ます、コプト正教会です。「エジプトとワインとコプト」「アフリカ最古の独立国」でも紹介しています。
    アルメニア使徒教会、シリア正教会、エチオピア正教会なども東方諸教会で、トマス派のインド正教会や、ネストリウス派が起源のアッシリア東方教会も含まれます。

     

  • サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)について勝手に語ります。

     

     

    スペインの最西端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、世界遺産の巡礼地です。キリスト教にとっては、エルサレム、ローマに並ぶ三大聖地のひとつであり、この地への巡礼のため、古くから巡礼者が集まってきました。
    巡礼のスタート地点はいくつかあり、ポルトガルから経由する道、スペイン国内からスタートする道などがありますが、最も有名なのは、ヨーロッパ各地からフランスを経由し、ピレネー山脈からスペインに入るルートです。この巡礼路は、ワインとの関わりが深いことで知られています。

     

    このフランスからのルートは、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の4つの道がスペインに向かっています。スペインに入ってからは、ナバラ州からカスティーリャ・イ・レオン州の北部を西に横切り、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう「フランスの道」が主要になっています。
    サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、スペイン語では定冠詞をつけます。「El Camino」で、フランス語では「le chemin de Saint Jacques(サン・ジャックの道)」となります。

     

    この巡礼路は歴史が古く、1000年以上前から続いています。
    現在も年間で10万人近い巡礼者がやってきます。巡礼の拠点もあり、巡礼事務所では、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取ります。また、そこの周囲には無料の宿泊所もあります。巡礼者専用で、日本の四国霊場の「お接待」に近いものがあります。
    巡礼者はこの宿泊所で「洗足の儀式」を受け、足を水で清めます。

     

    この巡礼の道沿いには、リオハやビエルソ、リベラ・デル・デュエロなど多くのワイン銘醸地があり、巡礼中に訪れることができるようになっています。ここも巡礼者のための休憩場所となっています。

     

    目指す先は大聖堂ですが、ここでは聖ヤコブの遺骸が祀られています。
    以前に「サラゴサ(Zaragoza)」をご紹介したときにも登場した聖人です。新約聖書ではゼベダイの子のヤコブとして登場し、イエスの使徒の一人です。ヨハネの兄弟であり、アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われます。キリスト教各教派で、聖人として崇敬されています。
    このヤコブの遺体とされるものが、9世紀に現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で発見されたといわれます。その当時、スペインはレコンキスタの真っ最中で、イスラム勢力との闘争が繰り広げられていました。
    この奇跡的な発見により、イスラム勢力と対峙するキリスト教徒勢力にとっては、行動のシンボルとなり、熱狂的に崇められていきました。そしてスペインの守護聖人となったのです。

     

    巡礼者が大聖堂に到着すると、中に入るのは「栄光の門」と呼ばれる門で、そこから中へと入っていきます。その先には聖なる柱があり、巡礼者たちは祈りを捧げます。

     

  • キリストの血入門 14

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第14回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はエフェソス公会議でネストリウス派が異端とされ、その後、中国や日本へと伝わったことについて述べました。今回はさらにネストリウス派に関連する、ある種の「トンデモ説」をまじめに語ります。

     

    まず、日本のネストリウス派を語る前に、日本史に登場する秦氏一族にふれたいと思います。
    秦氏は実は謎の一族で、応神14年(283年)に渡来したと言われていますが、詳細は分かっていません。一説には「秦」から、秦の始皇帝の末裔とも言われたりしました。もちろんこの説は根拠に乏しく、文字からのこじつけといえるかもしれません。結局、海外からやってきた渡来人であることは確かですが、どこの出身なのか、どの民族なのか、全くわかっていないのです。
    そのため、出自については多くの説があり、朝鮮半島から渡来した朝鮮人であるという説のほか、中国大陸から漢民族が渡来したという説、シルクロードを経由して渡来したとして、ウイグルなどの西域の民族説、さらに先に位置するトルコ系、そしてユダヤ人説などなどです。
    高度な文化と技術を持った一族で、日本に定着後は、養蚕、機織、治水など、朝廷には重宝される技術により、一大勢力にまで発展していきました。

     

    その秦氏は多くの神社とも関係しています。
    思いつくままに秦氏に関連する神社を挙げると、まずは日本最大の末社のある伏見稲荷大社、同じく京都では上賀茂神社、松尾大社、そして九州の宇佐八幡などです。これらの神社は秦氏が勧請したものなのです。

     

    まず、伏見稲荷大社ですが、空海との関係があります。
    空海開祖の教王護国寺(京都の東寺)の守護神が伏見稲荷なのです。それだけでなく、そもそも「稲荷」を現在の漢字に当てたのも空海なのです。もちろん高野山を開山するときも稲荷との関係があります。それほど真言密教と稲荷とは関係深いものなのです。
    では稲荷という神の正体とは何でしょうか?
    一般には文字通り「稲」から穀物の神とされています。しかし、この字を当てたのが空海であり、ある意味で日本古来のもののように演出する意図まで見えます。天才といわれた空海が、もともと「伊奈利」などいくつかの当て字で書かれたものを変えただけ、などと考えてはいけません。
    渡来人の勧請した神社の神である以上、「イナリ」は外来語であった可能性が高いわけです。それをあえて空海が「稲荷」にしたわけです。

     

    でも、稲荷社といえばキツネや油揚げのイメージが強く、五穀豊穣や商売繁盛の神様ではないか、と思われるかたは多いでしょう。確かに現在の見方からすればその通りです。
    しかし、これらはすべて後世に付け加えられてきたものなのです。特に商売繁盛など、江戸の商人によるもので、歴史的にはそれほど古くありません。

     

    さて、ここでネストリウス派です。
    イエスを描いた宗教画には、十字架に張り付けられたイエスの頭上に木札が打ちつけてあることが多くあります。そこに書かれた文字は「INRI」で、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」を略したものです。意味は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」です。
    これをネストリウス派では、「インリ」や「イナリ」と読んでいました。
    このことだけで、稲荷社をネストリウス派と結びつけるのは無理がありますが、稲荷が外来の神であることは間違いなく、秦氏がネストリウス派であり、日本の神道にあわせた宗教とした場合、ありえるのでは、という一種の可能性です。

     

    もう少し、補助する要素を加えるとすると、稲荷社には「稲荷大神秘文」があります。
    この最初の文章に注目です。
    「~夫神は唯一にして御形なし虚にして霊有」
    要するに神は唯一であり、形がなく、霊があるというのです。神はたった一つであり、いわばそれが稲荷ということになるのでしょう。多神教の日本の神道とは相いれないものなのが良く分かります。
    古来の日本の価値観では森、山、海、川など神羅万象あらゆるものが神であり、そればかりか怨霊という思想があって、恨んで死んだ人も神として祀り上げるものです。それなのに、稲荷神だけが全く異なる宗教観というのは、実に不思議なものです。
    これもネストリウス派と安易に結び付けて良いものではないでしょうが、かなり気になるものです。

     

    最後に付け加えるのは、再び空海に戻って密教です。
    真言密教の儀式の中には、密教法具を手にして十字を切る作法があります。明らかにキリスト教の作法に見えますが、この意味を知るもの誰もいません。おそらく空海も弟子たちに語らなかったのでしょう。
    前回にも述べましたがイギリスのエリザベス・アンナ・ゴルドンは、「大秦景教流行中国碑」のレプリカを高野山に建立しています。ネストリウス派がここまで行きついた記念碑ですが、高野山側もこのレプリカを受け入れています。
    このような話はいくらまじめに語っても、結局は「トンデモ説」で終わるので、今回はここまでにしましょう。

     

  • キリストの血入門 13

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第13回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はキリスト教神学の幅が広がり、エフェソス公会議でネストリウス派が異端とされた所まで述べました。今回はネストリウス派のその後についてです。

     

    まず最初にネストリウス(Nestorius)ですが、コンスタンティノープル大主教には428年から431年まで在位していました。シリアのアンティオキア学派に属していました。
    彼はアレクサンドリアの主教キュリロスと対立していました。それは、キュリロスたちの学派が神性に中心を置いたことで、キリストに対して非人格的な人間性以上の概念を認めなかったのに対し、ネストリウスはそこを批判していたからでした。
    ネストリウスはイエスの母であるマリヤについて、「神の母」という表現を否定していました。当時の民間信仰レベルになっていた聖母マリヤ信仰に警告を与え、マリヤを「キリストの母」として、イエス・キリストの人間的な面の延長に置いたのでした。つまり、イエス・キリストの人間性と神性を分離し、二つの自立存在として並存することを説きました。
    このことからキュリロス派と激しく対立し、431年のエフェソスで公会議で異端と宣告されたのでした。ネストリウスは主教職を罷免されてしまいました。

     

    いわば追放されたことになったネストリウスはエジプトに移り、隠遁生活を送ることになり、451年に亡くなりました。
    しかし、ネストリウスを支持する教徒は多く、ネストリウス派として各地で積極的な不況活動を展開していたのでした。

     

    498年には、ネストリウス派はチグリス川東岸のクテシフォン(Ctesiphon)やチグリス河畔に位置するセレウキア(Seleucia)に新しい総主教を立てました。
    ペルシア地域から東方へと活動の範囲を広げていきました。
    中国が唐の太宗の時代、7世紀には、「景教」という名で伝来していました。ペルシア人司祭「阿羅本」によるものと伝えられています。景教の教会を大秦寺といいました。しかし、唐の末期になると、弾圧されてしまい、景教は消滅してしまいました。
    それでも元の時代になると、モンゴル帝国の遊牧集団の中に景教徒がいたことから一時的に復活したものの、それも長続きせず、次第に衰えていきました。

     

    実は日本にも伝来していたとする説は根強くあります。
    高野山に景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカまで建立されています。高野山の開祖である空海も唐で景教を学んだとされているのです。
    フランシスコ・ザビエルよりはるか前に日本に伝来していたというのは、その流れが仏教諸派に取り入れられた状況を意味し、本来なら全く新しい宗教であるはずのキリスト教が、かなり馴染みやすいものだったことにもつながります。さらに空海より時代を遡り、第45代天皇・聖武天皇の皇后だった光明皇后との関係も考えられます。

     

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