今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キリストの血入門 29

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第29回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、イスラム教の分派を紹介しました。今回はルネサンス(Renaissance)です。

     

    ルネサンスというと、学校の教科書では「文芸復興」と表記されていたのを思い出しますが、現在ではこの訳語は使われていないようです。確かに「文芸」に限定した「復興」というわけではないので、このほうが正しいといえるでしょう。ただ、古代ギリシアや古代ローマの古典や文化を復興するという「文化運動」であったのは事実で、これはイイタリアから始まり、西欧各国へと拡大していきました。

     

    古代ギリシアなどの古典的な文化は、そのまま知の遺産であり、当時の地中海世界に拡大していきました。ちょうどイスラム教に支配された地域であったことから、8世紀から9世紀にはアラビア語に翻訳されていきました。これが初期イスラム文化に大きな影響を与え、その発展に貢献していきました。有名なものとしては、バグダードの「知恵の館」でした。これはアッバース朝の第7代カリフだったマームーンによって設立されたもので、古代ギリシアの知識の継承を行っていたのでした。
    古代の古典的文献を翻訳するだけでなく、それに対してのイスラム教哲学、あるいは科学に基づく注釈などが加わるようになりました。しかも、それをラテン語へと翻訳したのでした。

     

    ラテン語翻訳されたことにより、古代ギリシアをはじめとする古典的な文献に、イスラム世界の注釈を加えたものが、ヨーロッパに伝わったわけです。当時、イベリア半島はイスラム圏でしたから、スペインからローマへと、さらにフランス、神聖ローマ帝国へと伝播したことになります。
    つまり、ルネサンスの流れには、イスラム世界のフィルターがあったことを意味し、中世のキリスト教支配という絶対的な権威によって破壊された古典を、イスラム世界を仲介することで復活させたものといえるのでした。その一方で、この初期イスラム文化が花開いた要素が、のちに衰退へと向かっていたことから、それをキリスト教世界が引き継いだというのも、興味深いことといえます。

     

    また、1453年のコンスタンティノープルの陥落も大きく影響しました。東ローマ帝国が滅亡したことで、東ローマ帝国からギリシア人が多くイタリアへと逃げていきました。その中に知識層が大勢いて、彼らにより、古代ギリシアや古代ローマの研究がイタリアへと移ったことになりました。

     

    ルネサンスはフィレンツェを中心に展開され、思想では、新プラトン主義がキリスト教や他の宗教、哲学との融合を図っていきました。キリスト教という枠だけで収まらない新しい思想が、これにより誕生する土台となっていきました。
    このように従来のキリスト教という権威に、外部からの刺激が加わり、中世から近世へと時代が移り変わっていくのでした。そのため、キリスト教にとっても、ルネサンスは大きな転換点といえるものだったのです。

     

  • キリストの血入門 28

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第28回です。今年も昨年同様にワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、クリスマスに因んだ、イスラム教との関係を取り上げました。クリスマス関連の話題の前は、キリスト教の西方教会と東方教会の分裂、あるいはカトリックとプロテスタントの分裂とは異なる、イスラム教の大分裂を取り上げました。今回はそこに戻って、イスラム教の分派を紹介していきます。

     

    イスラム教はスンナ派とソーア派に別れましたが、さらに分派していきました。
    スンナ派には四大法学派があります。まずハンバル学派です。アフマド・イブン・ハンバルを起源とする学派ですが、実際には彼の弟子たちによって創始されたちうのが正確かもしれません。主にサウジアラビアで多く、英語圏の人々に教える授業や教科書にも関係しているといえます。聖地であるマッカとマディーナでも中心的な法学派です。次にシャーフィイー学派ですが、始祖は法学者のアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・シャーフィイーです。セルジューク朝の庇護を受けたことにより、イラン高原全域から、イラク、アナトリア、シリア、エジプトにまで勢力を拡大した時期がありました。マーリク学派は、4大法学派のうちで二番目に大きい学派です。北アフリカ、西アフリカ、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力となっています。最後のハナフィー学派は四大法学派最大で、全ムスリムの約30パーセントが属するといわれています。もっとも寛容で近代的な学派であるとされています。

     

    一方、シーア派は大きく分けると3つに別れます。
    ジャアファル法学派がシーア派の多数派を占め、ジャアファル・サーディクに由来する名称となっています。イランの国境でもある十二イマーム派がジャアファル法学派を信奉していることで知られます。イスマーイール派は、グノーシス的な神秘主義的教説が特徴です。前イスラーム的信仰体系の影響を受けている学派です。ザイド派は他のシーアと異なり、イマームの血統よりも勇気と行動力を重視するのが特徴です。そのため、アリーの子孫ならば誰にでもイマームたる資格があるとしています。この点で明らかに他のシーアと異なります。また、ムスタアリー派やその派生のハーフィズィー派などもあります。

     

    イスラム教でありながら、独立した別の宗教になった例もあります。
    ハーブ教はその代表例といえるでしょう。1840年代のイランで、バーブ(ミールザー・アリー・モハンマド)により、十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったものです。これがシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言したことで、イスラームの枠外とされました。1850年代末には徹底的な弾圧を受けました。全滅寸前ではありましたが、なんとか逃れた教徒の一部によりバハーイー教となり、そのままイランに残ったのがバーブ教です。しかしイランでは、バーブ教の存在、信仰は、違法としていますバハーイー教はバーブ教から分離し、現在はイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部があります。

     

    イスラム神秘主義では、スーフィズム(Sufism)も挙げられます。ただしこれは、9世紀以降に生まれた改革運動でもあり、イスラム教の世俗化・形式化を批判するものでした。そのため、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を究極的な目標としています。学派として分派したというより、一種の内面化運動ともいえるものでした。しかし、その後、独自の教団となっていき、代表的なものとしては、中央アジアのナクシュバンディー教団、バングラデシュのマイズバンダル教団など、トルコやアルバニア、モロッコ、イエメン、リビアなどの各地に教団があります。

     

    イスラム教といっても、各派によって異なる部分があり、日本人にはよくわからない部分も多くあると思います。しかしこれも、ムスリムから見れば、日本仏教の各宗派の違いがわからないのと同じと言えるかもしれません。
    相互理解するには、お互いに正しい知識が必要ということです。

     

  • キリストの血入門 27

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第27回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、クリスマスに関連した「キリストの血」を勝手に述べました。かつて「クリスマスを祝う」でもご紹介した内容の補足でした。今回もクリスマスに因んでイスラム教との関係を取り上げます。

     

    イスラム教の国では基本的にクリスマスはないといえます。しかし例外もあります。
    例えばアラブ首長国連邦のドバイです。もちろんこの国はイスラム教の国家です。それなのにクリスマスがあります。
    ドバイといえば中東屈指の世界都市であり、金融の世界的中心地です。ドバイの写真を見ると、超高層ビルが並び立ち、巨大ショッピングモールを始め、数々の大型建築物のある都市です。さらに世界的な観光都市でもあります。それだけ世界的都市ということで、イスラム教への信仰心が薄いということではありません。実はドバイはもともとのイスラム教信者である地元の人よりも、海外からの移住者のほうが圧倒的イ多くいるからなのです。その中でもキリスト教の人口は多く、次にヒンドゥー教となっています。従って、ドバイではクリスマスだけでなく、10月にはハロウィンもあります。ヒンドゥー教では11月にはDiwaliもあります。

     

    ドバイではクリスマスが近くなると、アメリカのようなクリスマスムードになり、子供たちもクリスマス関連の衣類や帽子をかぶって街に溢れ出します。現地のムスリム(イスラム教徒)が敵視するかというと、ここではそのような宗教対立ありません。かなり寛容に見守っているようです。この点が世界都市のドバイならではといえるのかもしれません。
    また、かつてはドバイはイギリス領だったこともあり、クリスマスに合わせた広告などはイギリス発祥のブランド勢力が目立つようです。

     

    ドバイはこのようにイスラム色が薄く、宗教的制約については極めて薄い都市で、当然ながら飲酒も可能です。気軽にワインが飲めます。イスラム教の規律からすれば当然ながら禁止になりますが、ドバイでは飲酒が許可されたホテルやレストランがあり、警察署の発行する許可証があれば酒類を市中で購入することもできます。国外から酒類を持ち込むこともできます。また、服装や娯楽なども寛容です。食事面では、イスラム教で不浄とされる豚肉の料理を出すレストランもあります。

     

    しかし、ドバイがすべてに寛容というわけではありません。
    実際には格差社会になっているといえます。特に国籍によって職業を分けたりするのは当たり前で、公共施設の利用についても格差があったりします。あくまで外国からの移住者との関係から宗教的な寛容さがあるだけなのです。特にビジネス的な側面が宗教に優先されていることは忘れてはいけないことです。

     

    もうひとつ、トルコのクリスマスも興味深いといえます。
    トルコもイスラム教の国ですが、クリスマスはあります。ただし宗教的な意味合いはありません。これは日本と同じといえるでしょう。トルコの場合、クリスマスはノエルといい、サンタクロースはノエルババといいます。さらにクリスマスツリーはノエルアーチです。しかし、クリスマスイブの日の特別感はないようです。むしろトルコのクリスマスは12月から新年の1月までのイベントという扱いのようです。イブの日に大騒ぎをしたり、恋人で過ごすという習慣がないようです。これは宗教的な意味のない日本のクリスマスと異なる点でしょう。

     

    今回はイスラム教圏での特殊なクリスマス事情をご紹介しました。

     

  • キリストの血入門 26

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第26回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、ワイン文化とは対極の宗教であるイスラム教のスンナ派とシーア派の分裂を取り上げました。この分裂は、キリスト教の西方教会と東方教会の分裂、あるいはカトリックとプロテスタントの分裂とは異なものでした。今回は12月ということありますので、イスラム教から離れ、早めにクリスマスに関連した「キリストの血」を勝手に述べていきます。かつて「クリスマスを祝う」でもご紹介しましたが、今回も再び取り上げます。

     

    クリスマスがキリスト教にとって大切な日であることは常識ですが、聖書にはイエスが生まれた日の記述がありません。それなのに12月25日に祝う訳ですから、生誕日を祝うのではなく、生誕そのものを祝うという日になる訳です。そのため、カトリックでは、イエスの誕生をみんなで祝うようになったこと、つまり生誕祭こどが現在のクリスマスの始まりだとしています。そのためのミサがあり、そのミサを「キリストのミサ」といい、これが「クリスマス」になったともいわれます。
    真偽のほどはともかく、カトリックにとってはイエス・キリストの生誕を祝福する荘厳なミサが行われるのhが事実です。まさに聖夜にふさわしい日です。

     

    では、なぜキリストの生誕祭が12月25日なのかというと、以前の「クリスマスを祝う」でも述べたように、これはナタリス・インウィクティと呼ばれる祭典が関係していると考えられています。これはミトラス教の太陽神の誕生を祝う祭りです。古代ローマでは、太陽を祈りの対象とするミトラス教信仰があり、これがそのままキリスト教に吸収されたというものです。
    また、クリスマスは「ユール(jul)」が起源だとも考えられています。北欧では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶほどで、英語の古語でもユールタイド(yuletide)という呼び方があり、これもクリスマスの祝祭を指す言葉です。このユールとは、北欧やゲルマン民族の祭りでした。そのためキリスト教以前の冬至祭のことです。この意味ではミトラス教と同じです。ただ、この祝祭には酒や獣を捧げるという風習がありました。いわゆる生贄の風習です。この名残として、今でも北欧やドイツのクリスマス料理は、肉料理が中心になっています。
    また、ユールはゲルマンだけでなく、古代ローマの冬至祭サトゥルナリアにも関係深いという見方もあります。この冬至祭は、ローマ神話の農業の神サートゥルヌス(ギリシャ神話ではクロノス)を祝う祭りであり、12月17日に行われていました。これが1世紀ごろに12月23日に行われるようになりました。さらに、この日は完全な安息日となりました。クリスマスの12月25日と近いことから、このような説もあるのかもしれません。

     

    では、肝心なイエス・キリストの生誕についてですが、聖書の記述はどのようになっているのでしょうか。福音書に記されていますが、当然ながらクリスマスと直結するような内容はありません。
    イエスの母はマリアですが、まだ未婚で、婚約者にヨセフがいました。このような状態のときに、マリアは受胎告知を受け、イエスを身ごもったのでした。当時のユダヤでは、結婚前に妊娠する、しかも婚約者の子ではないというのは、とんでもないこととされていました。周囲の声は、現在の日本でも同じようなものかもしれません。ヨセフの両親、周囲の村人たちは、マリアの不貞を疑い、激しくののしりました。それだけでなく、マリアを不潔なものとして、罰を与えることにし、捕まえようとしました。これに対して、ヨセフが立ちはだかりました。彼はマリアを信じていて、絶対に不貞はしていないというマリアの言葉に疑いを抱いていなかったのです。ヨセフはマリアの手をとり、追手から逃れるために馬小屋に身を隠しました。そこでマリアに陣痛が始まり、男の子を出産しました。この子こそがイエスでした。

     

    マリアは神の子イエスの母ということで、聖母信仰にも繋がりました。これもキリスト教本来のものではありません。
    ところで、クリスマスといえばケーキを連想する方も多いかもしれません。日本ではクリスマスケーキとして、街中で売られている光景をよく目にします。フランスなどでは「ブッシュ・ド・ノエル(bûche de Noël)」が一般的でしょうか。木の切り株に見立てたロール状のケーキです。ドイツでは「シュトーレン(Stollen)」です。クリスマス用のシュトレン(Christstollen)があり、ドライフルーツを混ぜ堅く焼いたお菓子になります。個人的にはすごく懐かしい気がします。

     

    今回はイスラム教から離れましたが、時期的にこのような寄り道は許されるでしょう、と、勝手に思っています。

     

  • キリストの血入門 25

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第25回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回から、キリスト教やユダヤ教と関係する宗教でありながら、ワイン文化とは対極の宗教であるイスラム教を取り上げています。前回はムハンマドから正統カリフ時代まででした。今回はスンナ派とシーア派の分裂から、その後の歴史を取り上げます。キリスト教の西方教会と東方教会の分裂、あるいはカトリックとプロテスタントの分裂とは異なる、イスラム教の大分裂です。

     

    正統カリフ時代は四人のカリフでしたが、この4人の中で3人が暗殺で亡くなりました。
    最後の正統カリフは、ムハンマドの甥のアリーでした。これに対してウマイヤ家のムアーウィアが反発したことで、対立関係ができてしまいました。この対立は実際の戦闘にまで発展するほどでした。最終的にアリーだけでなく、息子のフセインまで殺害されたことで、ムアーウィアが自らカリフとなったのでした。ここに正統カリフ時代が終焉を迎え、ウマイヤ朝の誕生となりました。当然ながら以降はウマイヤ家によるカリフの世襲となりました。
    これに対してアリーの支持勢力は、ムハンマドの血統であるアリーやその子孫のみがイスラム指導者であるべきと主張していました。彼らは「アリーの党派(シーア・アリー)」、つまりシーア派という急進派として活動をしました。シーア派に対するのは「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」というスンナ派となり、イスラム教は共同体が大きく2つに分裂したのでした。
    ただ政権はウマイヤ朝の時代となり、シーア派は少数派だったこともあり、次第に分派を繰り返すようになっていきました。

     

    イスラム共同体の指導者が誰かで分派したわけで、教義の解釈の違いで分かれたわけではありません。そのため、キリスト教や仏教の分派とは様子が違います。むしろ信仰は同一ながら、組織体制の違いにより分離したわけで、俗世間レベルの出来事ともいえますが、そのように見るのは正しいとはいえません。なぜならイスラム社会は政教一致だからです。ローマ皇帝とローマ教皇で、権力と権威が最初から分離していたキリスト教とは根本的に異なるわけです。
    また、日本語では「派」としていますが、これは宗派を意味しません。特にスンナ派から見れば、シーア派は単なる少数派としての「派」であり、その意味でスンナ派は多数派の「派」という程度のものです。基本的に宗派として分離していないので、キリスト教や仏教の視点で見てはいけないわけです。

     

    ムアーウィアから始まるウマイヤ朝は、その後約100年間続きました。ダマスカスに遷都し、メッカ・マディーナの有力者に対しては賄賂を与えることで、反対勢力をを孤立させたといわれています。そして680年にムアーウィアが死ぬと、息子のヤジードが即位しました。しかし、カリフの世襲というのは、今まで前例がなかったことから、シーア派からの反対の声もあがりました。しかし、反乱勢力はすべてウマイヤ朝の軍に撃破されました。壮絶な戦闘が続き、これにより681年にはメッカのカーバ神殿は焼かれてしまいました。マディーナは陥落し、大混乱の末に「ハルラの子」とよばれる父親不明の子どもたちが生まれました。
    ただ、ウマイヤ朝も絶対的な基盤があったわけではなく、ヤジードの次のムアーウィア2世がはカリフの在位期間がわずか3か月で死去し、反乱が再び活発化しました。
    この混乱は、マルワーンが収めたこことで、684年にカリフに即位しました。しかし、これも在位1年で暗殺されてしまいました。ようやく小康状態になったのは、次のカリフのアブドゥル・マリクでした。さらに次にカリフのワリードの時代になり、東ローマ帝国へ攻め入るようになりました。

     

    ヨーロッパへ迫ったのは、708年に北アフリカを征服したあとの711年でした。ついにイベリア半島に至り、キリスト教勢力だった西ゴート王国を滅ぼしたのでした。さらに現在のスペインからピレネー山脈を越え、フランスにまで侵入していきました。しかし、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ、フランスへの進撃は終わりました。
    この時代からキリスト虚とイスラム教の両勢力の対立続き、8紀半ばからは、イベリア半島だけがイスラム教勢力という図式となりました。これはヨーロッパ方面だけでなく、中央アジア方面への侵攻もあり、イスラム帝国の領土拡張は続きました。

     

    今回は主にウマイヤ朝について述べました。まだ次回へ続きます。

     

  • キリストの血入門 24

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第24回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はカトリック教会の教皇権に関係した出来事を取り上げました。「アヴィニョン捕囚」などがありました。今回は、少し時代を遡り、十字軍や東西教会分裂に関係した、イスラム教に焦点を絞ります。キリスト教やユダヤ教と関係する宗教でありながら、ワイン文化とは対極の宗教です。しかも、キリスト教圏であるヨーロッパに多大な影響を与えた宗教であり、政教一致の国家ですので、ここを避けるわけにはいきません。

     

    イスラム教は、キリスト教に次ぐ世界第2位の信者数を誇る宗教です。信者の広がりは、ほぼ世界中に及び、その中で西アジア・北アフリカ・中央アジア・南アジア・東南アジアに信者が集中しています。しかも、キリスト教や仏教と異なり、イスラム教を国教と定める国家も数多くあります。政教分離の日本では想像できない世界宗教といえるかもしれません。

     

    ユダヤ教から派生したのがキリスト教であることは、この「キリストの血入門」で再三にわたって述べてきましたが、イスラム教もユダヤ教やキリスト教から派生した宗教です。いわばこの3つの宗教は客観的には兄弟関係ともいえなくないのです。
    では、歴史を紐解いていきましょう。
    イエスと同じ位置にいるのはムハンマドで、彼は西暦610年頃、メッカ郊外で天使より唯一神の啓示を受けたことから始まりました。これは、ユダヤ教のモーセ、キリスト教のイエスと同じです。つまり、ムハンマドは彼らと同じように神と交信できる預言者(prophet)ということになります。そのためイエスの扱いも、イスラム教では偉大な預言者の一人であるという扱いになります。キリスト教の場合は、預言者の枠に収まらず、神の子という扱いですから、この差が大きといえます。

     

    さて、ムハンマドが神から啓示を受けた教えですが、最初は信者の数も少なく、しかもメッカで迫害を受けるようになりました。そこで、622年にメッカを脱出し、拠点をマディーナ(ヤスリブ)へ移すことにしました。ここで宗教的共同体ができました。ここでも、イエスを支持する共同体と異なるのは、単に宗教的なだけでなく、同時に政治的、商業的な性格をも併せ持っていた点です。
    また、イエスと異なり、妻がいました。最初の妻はマディーナで死に別れ、次にアーイシャという後妻を迎えました。何と、このときの年齢がまだ9歳だったというから驚きです。その後も8人の妻を娶りました。
    もうひとつ、初期のキリスト教、というよりユダヤ教のイエス派と決定的に性格を異にしたのは、戦闘的であるという点も挙げられます。例えば、メッカの大規模な隊商を襲う計画を立て、実際にメッカ側と激突して勝利したり、ユダヤ人との攻防線があったりしていました。このような戦闘の結果、ムハンマドは周辺の人々を支配し、630年になると、ついにメッカを占領したのでした。
    ここで、メッカのカーバ神殿に向かい、多神教の多くの偶像を破壊し、逆にそこを聖地としたのでした。しかも軍が整備され、アラビア半島で万単位の軍による戦闘が行われるようになったのでした。キリスト教が迫害に耐えた初期の時代とは明らかに対照的です。

     

    このように宗教的共同体でありながら戦闘集団でもあるということで、イスラム共同体はそのまま国家となっていきました。ムハンマド死後、イスラム共同体の後継指導者はムハンマドの代理人という扱いの国家が誕生しました。預言者ムハンマド亡き後のイスラム国家指導者であり最高権威者の称号がカリフ(Caliph)で、この流れは4人まで続きました。正統カリフ時代です。
    首都はそのままマディーナでした。
    この帝国は正統カリフ時代に順調に支配地を拡大していきました。初代カリフのアブー・バクルは、アラビア半島を統一し、第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブはシリア、エジプト、イラク、イランに兵を派遣しました。しかし第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーン、第4代アリー・イブン・アビー・ターリブは、反対派により暗殺されました。また、第4代カリフのときに首都をイラクのクーファに移しました。この頃になると、反乱が続発する時代になっていました。

     

    アリーの暗殺後、ウマイヤ朝の誕生となり、イスラム帝国最初の世襲王朝となりました。
    しかし750年にアッバース革命が起こり、預言者ムハンマドの叔父、アッバースの子孫により、ウマイヤ朝を打倒したことで、アッバース朝が誕生しました。ウマイヤ朝の残党による後ウマイヤ朝もできましたが、イスラム帝国のほとんどを継承したのはアッバース朝でした。
    アッバース朝の成立は、ペルシア人の影響力を強くすることになりました。ウマイヤ朝時代は、アラブ人の従属民という扱いでしたが、アッバース朝になると、ペルシア人官僚が多く誕生しました。そのため、アラブで誕生したイスラム帝国が、ペルシア人との連合により強化された政権になったともいえるわけです。
    そして、1258年、アッバース朝はモンゴル帝国によって完全に滅ぼされました。

     

    キリスト教と同じように、神の預言から出発したイスラム教ですが、国家や軍事、さらには商業とも最初から直接的に結びついたことで、キリスト教の教皇と皇帝のように、権威と権力、聖と俗のような分離がありませんでした。
    次回に続きます。

     

  • キリストの血入門 23

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第23回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はカトリックの異端審問でした。今回はカトリック教会の教皇権に関係した出来事を取り上げます。

     

    カトリック教会の教皇権が最大の権威となっていた時代がありました。王権をも超越するものとなり、聖と俗を支配したインノケンティウス3世(Innocentius III)などは、その代表的な人物でした。第176代ローマ教皇で、教皇権全盛期時代を築き、政治までに介入したことで知られています。
    彼はパリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学び、37歳で教皇に選出されました。1202年にアイユーブ朝でアル=アーディルが即位したことで、反撃の兆しが見えたことから第4回十字軍を提唱しました。しかし、この第4回十字軍はイスラム勢力ではなくキリスト教圏のザーラで、略奪を行なっていました。これに対してインノケンティウス3世教皇は激怒し、十字軍を全て破門しました。ただ、この十字軍は破門も関係なく、1204年に東ローマ帝国のコンスタンティノープルまで征服してしまいました。しかもラテン帝国まで建国してしまったのでした。
    東西教会分裂後に、このような事態になったことから、インノケンティウス3世はラテン帝国を承認する立場となったのでした。
    また、1208年には神聖ローマ皇帝フィリップの暗殺を行いました。これはバイエルン宮中伯オットー8世 と計って行いました。オットー4世に対しては、イタリア南部への勢力を拡大したことから1210年に破門し、自分が暗殺した前帝フィリップの甥のフリードリヒ2世を帝位に就けることで、オットー4世を廃帝に追い込んだのでした。
    イングランドでは1209年に国王のジョンを破門し、フランスではフィリップ2世の離婚問題を理由に、フランスを聖務停止にしました。
    このように西欧諸国に対して、教皇権が王権より優位である事を証明していったのでした。

     

    一方で1210年には、フランチェスコと会見し、フランシスコ会を承認しました。
    そして1215年、第4ラテラン公会議で「教皇は太陽。皇帝は月」と演説しました。

     

    このように教皇権が王権より優位であるというのも、フランスやイングランドなどで王権が再び伸張してくると、教皇庁との対立構造に繋がりました。教会財産の所有権、聖職者裁判権、司教任命権など、教皇庁の権力と王権が争われるようになったのでした。
    このときに枢機卿会は教皇の顧問団でありながら、出身国家の見方となり、混乱の末、教皇庁の権威が低下していくことになりました。その中でもフランスのフィリップ4世は枢機卿団によって教皇庁をコントロールすることに成功したのでした。これによりフランス出身の教皇クレメンス5世を出すことができました。
    これが「アヴィニョン捕囚」へと進むのでした。

     

    【参考ページ】
    アヴィニョン(Avignon)

     

    この「アヴィニョン捕囚」は、教皇庁のアヴィニョンにいる教皇と、ローマに残っていた枢機卿団による独自の教皇という、2人の「正統」教皇が現れる事態になったのでした。しかも、ピサの教会会議では、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇ヨハネス23世を選出したものの、2人の教皇が廃位を認めませんでした。そのため、教皇が同時に3人いるという異常事態にまでなってしまいました。
    このような混乱は、完全に教皇の権威を低下させただけでなく、教会の至上決定権は、教皇ではなく公会議こそがを持つべきであるという公会議主義が誕生しました。その中心人物がジャン・ジェルソン(Jean Gerson)でした。彼の最大の業績は、教会大分裂(シスマ)を克服させたことでした。実は同時期に起きたブルゴーニュ公ジャンの指示により、オルレアン公ルイの暗殺事件がありましたが、これを合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対し、パリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとした動きがありました。このようなことから、公会議の有用性を主張し、コンスタンツ公会議が開かれたのでした。
    最終的に会議は3人の教皇を廃位することになりました。これにより公会議の権威が教皇権に対して優越することになりました。これは神聖ローマ皇帝ジギスムントがジャン・ジェルソンの熱意に対応したものでしたが、実はこれも、フランス王が教会政治に強い影響力を持っていたことへのジギスムントの対抗心だったといわれます。

     

    そして新たなマルティヌス5世教皇が選出されました。
    これに付随して、教会の抜本的な改革を掲げ、教会改革の実施を宣言して閉会したのでした。ところが、コンスタンツ公会議で宣言した教会改革は、その後、行われることはありませんでした。公会議によって教会を変えていくという理想も失われていったのでした。
    まさにこれこそが、のちの宗教改革、さらには悲惨な三十年戦争の伏線だったのでした。

     

  • キリストの血入門 22

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第22回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は正教会についてでした。今回はをカトリックの異端審問を取り上げます。

     

    カトリック教会では中世以降において、異端審問というシステムがありました。正統的なキリスト教信仰に反するもの、つまり異端である可能性のある人を審問するものです。10世紀以降からカトリック教会内に誕生した信徒活動の一部で、最初は地域内の信仰を同じくする人々の集会のようなものでしたが、それが周辺地域にまで及び、大規模な運動に進展していきました。
    異端審問が飛躍的に広がった契機としては、1022年の処刑事件だと考えられいます。フランスのオルレアンで起きた事件です。10数人の異端者を処刑した事件で、フランス王ロベール2世は火刑を命じたというものでした。このときにオルレアンの会議に集まっていた司教たちが異端発覚について話をしていたようです。そして、このオルレアンでの事件によって、異端の発覚を本格的に広がっていったといわれます。

     

    異端とは、あくまでカトリックの信仰に反するということで、初期キリスト教の時代では、異端論争というより神学論争数多く行われいて、中世の異端とは異質なものでした。大きく変化したのは、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝によるキリスト教公認以降の統治システムとの融合でした。ローマ帝国の統治システムの中に、キリスト教も組み込むことで、教義内容は異なる宗派の容認は危険視されたのでした。
    そのために、現状の教義に反する意見、学派などは異端として退けることにしたのでした。これはキリスト教神学の理論化に繋がったとともに、宗教的な問題の裏に為政者の統治のシステムが隠されていたともいえるものでした。
    異端審問は西ローマ帝国が滅亡し、その後に混乱期があったことで、その期間は特に動きはありませんでした。それが中世になって、各地の諸勢力分布が確定しつつ、キリスト教の権威を集中化させることで機能していきました。その背景の一つとして、信徒活動が活発化したことも関係しているわけです。

     

    異端審問に関連して、魔女狩りというものもありました。これは異端審問の形式がありますが、必ずしも同じものではありません。
    そもそも異端審問とはキリスト教信仰という点では同じでありながら、異端の信仰を持つ人が対象であるのに対し、魔女狩りは、キリスト教信仰すらない人が対象でした。この魔女狩りについては、改めて取り上げたいと思っています。

     

    異端審問が本格化したのは12世紀に入ってからでした。直接の影響はカタリ派でした。カタリ派を異端とし、その地域の領主たちが個別にカタリ派を捕縛し、裁判を行っていましたが、1184年のルキウス3世による教皇勅書『アド・アボレンダム』により、教会での公式な異端審問の方法が示されることになりました。ただ教会には司法権や処罰権がありませんので、この勅令による教会での異端審問システムは、それほど機能していなかったともいわれます。むしろ、その後に領主たちによって、教会の異端審問を補助するスタイルをとることで、異端審問の結果、有罪判決を受けたのち、領主が処罰するという流れになっていきました。このようなスタイルになると、様相が一変しました。
    この異端審問システムを積極的に取り入れたのが神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世で、法制化し、皇帝のという権限によって死刑までできるようにしたのでした。
    この審問は現在の裁判だけでなく、当時の一般的な訴訟とも異なっていました。異端審問の場合は、異端審問官によって、自らが起訴することができ、しかも自らの裁量で裁くことができたのです。そのため、証拠もうわさ話が採用されたり、密告者の証言だけで逮捕することができたのです。しかも証言者の名は被告には告げられませんでしたから、偽証があっても判断不能だったのです。

     

    異端審問という制度は、フランスや神聖ローマ帝国だけでなく、さらに北方のスカンジナビア諸国などにも拡大していきました。しかし、すべての地域で定着したわけではなく、地域による差異は大きく、穏健な形式のものへと変容していきました。イングランドの場合は、異端審問という制度は伝わったと思われますが、はほとんど行われなかったといわれます。
    中世の異端審問とは、西ヨーロッパ地域を中心に一般化したものの、実際にはそれほど多くの人々が処刑されたものではないようです。カタリ派のような、カトリックから見て明確な異端派が多くなかったことも関係するといえます。

     

  • キリストの血入門 21

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第21回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は十字軍についてでした。今回は正教会を単独で取り上げます。

     

    中世の東西教会分裂後の東ローマ帝国では、新たな修道精神の勃興が起きていました。東ローマ帝国の静寂主義が起こり、修道熱も高まりました。
    その前に、正教会について改めてまとめておきます。

     

    まず、名称ですが、「正教会」は一般的には「ギリシャ正教」や「東方正教会」ともいい、西ローマ帝国のカトリックと並ぶ伝統的なキリスト教の教派です。正教会の場合、国名や地域名を冠したローカルなキリスト教組織を形成しています。ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会などです。日本にも日本正教会があります。また古代総主教庁も地名を冠して、コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁などのようになっています。
    地名を冠しているだけで、それぞれが別の教派ではなく、あくまでローカルな組織の名にすぎません。従ってロシア正教からグルジア正教に「改宗」するというのはありえないわけです。

     

    東ローマ帝国の国教であり、地中海の沿岸の東側地域を中心に広がったことから、西ローマから見て「東方」ということになっていますが、現在では必ずしも東方だけの教会とはいえません。確かにギリシャを中心にして、東欧各国で多数の信徒を誇っていますが、移民などにより世界中に信徒が分布しています。
    あまり知られていませんが、今ではイスラム勢力の強い中東においても、初代教会から継承されるものがあります。
    また、東欧はソビエト連邦の影響下であった時期があるため、その時期は正教会は大きな被害を受けました。共産主義にとって宗教は麻薬であるとのことで、弾圧による被害がありました。しかしソ連崩壊後から再び正教会が復興しています。

     

    東欧各国が正教会の国となったのは、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルから、スラヴ地域へ宣教していったという歴史があるからです。
    まず最初に、9世紀に宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟により、スラヴ語のための文字を考案したのでした。なぜならスラヴの言語は話し言葉ではあっても文字がなかったからです。これをもとに聖書をスラヴ語に翻訳し、この翻訳が教会スラヴ語として現在でも礼拝で使われています。
    この文字がのちにキリル文字になり、スラヴ文化の新たな形成と発展に繋がっていきました。

     

    ブルガリアはトルコ系の遊牧民族のブルガール人の移住地でしたが、ブルガリア帝国でも870年に正教会が建立されました。言語は異なっていましたが、スラヴ語典礼が行われ、ブルガール人はスラヴ人と同化していきました。
    ルーマニアはそのブルガリアの支配地だったため、初期から正教会があり、しかもラテン語からスラヴ語典礼へと変えていきました。

     

    そして冒頭の新たな修道精神の勃興についてです。
    14世紀に、アトス山の修道院で「静寂主義」といわれるヘシュカスムが体系化されました。グレゴリオス・パラマス(日本ハリストス正教会ではグレゴリイ・パラマ)によるものです。正教会はカトリックより神秘思想的な傾向が強く、それを決定的にしたといえるものでした。
    カラブリアのバルラアムが唱えた「恩寵は神によって作られた」とする説に反論し、恩寵の非被造性を説いたのでした。非被造の恩寵が人間を照らし、神の働きを知ることへと導くとしました。さらに霊的な指導を徹底したのでした。
    このヘシュカスムとは、「祈らずして祈る」者だけが、神の作られざる恩寵の光に与り、恩寵によって神の性質と等しいものになるとし、この過程における絶対的な静寂(ヘシュキア)を体験するというものです。神秘的要素が多く、バルラアムはこの論争に敗れることになり、東ローマ帝国を追放されてしまいました。何と、彼を迎え入れたのはカトリック教会で、司教となりました。

     

  • キリストの血入門 20

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第20回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は修道院についてでした。今回は十字軍です。

     

    十字軍は、ヨーロッパのカトリック諸国が、聖地エルサレムをイスラム教勢力から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことで、時代は中世でした。
    このように、キリスト教勢力がイスラム勢力を駆逐するための遠征軍というのが一般的な十字軍ですが、必ずしもイスラム勢力を相手にしたわけではありませんでした。アルビジョア十字軍は、キリスト教でも異端に対する遠征軍でしたし、北方十字軍は、北欧など当時の非キリスト教圏に対する征服を目的としていました。
    しかも東西分裂以降の正教会も敵という扱いになっていきました。さらに、第4回十字軍以降になると、エルサレムの先のエジプトが目的地になったり、第8回十字軍ではチュニスが目的地になっていました。

     

    この背景には、東ローマ帝国のチカラが衰え、トルコのイスラム王朝であるセルジューク朝の台頭が大きく影響しています。
    このような中、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスは、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世に依頼したことが発端でした。教皇はイスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけました。これにより1096年にエルサレム遠征の軍が誕生しました。第1回十字軍です。
    このとき、十字軍参加者には免償が与えられるとまで、教皇が宣言していたのでした。
    エルサレムに至るまでの間、イスラム教が徒支配する地域を壊滅していきました。ただ、この制圧には、十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったといわれています。イスラム教の領主たちは、連合することができず、潰滅していったのでした。
    十字軍も一枚岩ではなく、分派や内部対立も目立ち始めていました。

     

    この十字軍の誕生については、教皇が、エルサレムの聖地巡礼に、イスラム教徒が阻害していると考えたことにありました。そこで十字軍への呼びかけになったわけですが、フランスも神聖ローマ帝国も聖地奪還という意味では、集結を可能にしたのでした。当時は神聖ローマ帝国と教皇との関係は、必ずしも良好とはいえなかったにも関わらずです。こうして第1回十字軍はフランスとドイツの諸侯が中心として編成されたのでした。

     

    最初は優勢だった十字軍でしたが、その後はイスラム教徒の巻き返しに会いました。その結果、14世紀初めまでに全てが滅ぼされてしまったのでした。
    壊滅した十字軍の兵士は、西アジアを追われることになりました。十字軍の本来の目的だった聖地エルサレムをキリスト教徒の元に奪還するということは達成されなかったわけです。
    ただ、この十字軍の一連の流れの中で、騎士修道会、托鉢修道会、救出修道会などが誕生することになりました。ドミニコ会もそのひとつで、アリストテレス哲学の再発見からスコラ学を開花させました。

     

    また、ヨーロッパでは十字軍への従軍による疲弊していきました。封建領主の力が弱まったことで、貨幣の使用が増加し、独立自営農民まで出現し、経済構造が大きく変化していきました。これは、中央集権化を有利に進めることにもつながり、ヨーロッパ絶対王政への序章となりました。

     

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