今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ハイリゲンシュタット (Heiligenstadt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)について勝手に語ります。

     

     

    日本では「楽聖」と呼ばれるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、20代後半頃から持病の難聴が悪化していきました。最終的には全聾になったといわれますが、この難聴が進行している時代の1802年4月から10月の期間、静養していたのがハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)でした。当時はここは温泉保養地だったのでした。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで滞在していたのは、プロプスガッセ(Probusgasse)のパン焼き小屋でした。ここは現在、ベートーヴェン記念館(Beethoven Museum)になっています。実はここで彼は遺書を書いていたのでした。ちなみに、この記念館の近くには小川沿いに「ベートーヴェンの小路」があります。
    また、ベートーヴェンといえば、生涯に60回以上も引越しをしたことでも知られます。当然のようにハイリゲンシュタットでも、このパン焼き小屋だけでなく、いくつかの場所に住んでいました。その中にホイリゲ(die Heurige)もありました。ホイリゲについては、過去にご紹介しています。

     

    【参考ページ】
    オーストリアのワイン
    ウィーン郊外のホイリゲ
    シュランメル音楽(Schrammelmusik)
    ウィーンのホイリゲ・ミニガイド

     

    そのホイリゲは、「マイヤー・アム・プファールプラッツ(Mayer am Pfarrplatz)」で、ベートーヴェンが滞在していたのは1817年の夏でした。
    このようなホイリゲがあるということで、ハイリゲンシュタット はウィーンの森のワイン生産地だったわけです。1892年までは独立した自治体でしたが、現在はウィーン19区のデープリング(Doebling)になっています。 ハイリゲンシュタットとは「聖なる街を」を意味します。実はキリスト教以前から、この地が聖なる場所だったからだといわれています。しかし、どの場所が聖なる場所だったのかはわかっていません。

     

    ワインも古くから生産されていて、900年頃から移住してきたフランク人によりワイン醸造をしていたようです。このような古いワインセラーの史跡も丘から発見されています。1250年頃にはクロスターノイブルク僧院により、ブドウ栽培がされていたという記録もあります。
    14世紀には繁栄した地域となっていましたが、15世紀以降になると戦火の影響を受けました。特に1484年のハンガリーのマーチャーシュ1世、1529年にはオスマン帝国の第一次ウィーン包囲は、ハイリゲンシュタットや教会に大きな影響を与えました。

     

    その一方で、宗教改革では大きな被害はありませんでした。次に大きな被害を受けたのは、1683年の第二次ウィーン包囲でした。このときハイリゲンシュタットの住民は虐殺されました。街は荒廃し、疲弊しました。ここから経済を回復させたのは18世紀後半になってからで、温泉施設が成功したからでした。入浴客が多く集まり、併設するレストランも潤いました。ベートーヴェンのこの時期の静養に来ていました。まるで温泉で町おこしをする日本の地方の自治体のようでした。

     

    ところが、この温泉施設は長く続きませんでした。1875年にドナウ川の河川工事が行われ、その影響なのか、ハイリゲンシュタットの温泉が涸れてしまったのでした。それでも、富裕層の人たちの避暑地、あるいは居住地として人気があり、1873年にはハイリゲンシュタット墓地が開かれましたが、これはブドウ畑を切り開いて作られました。その後も発展を続け、人口も増加しました。

     

    そして1892年、ハイリゲンシュタットはウィーンに併合されました。1930年には集合住宅のカール・マルクス・ホーフが建てられ、1934年のオーストリア内戦では、反政府の労働者たちが立て籠もったこともありました。今でもホイリゲは残りますが、ドナウ川から広がる丘陵地帯のブドウ畑は、19世紀以降に工場が多く建つようになりました。

     

     

  • シリフケ(Silifke)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシリフケ(Silifke)について勝手に語ります。

     

     

    シリフケ(Silifke)はトルコのメルスィン県の都市で、人口は約11万人です。海岸沿いの平地にあることから、果物や野菜などの生産が盛んで、その缶詰が生産されています。これだけの情報だと、特に魅力を感じない、地方の都市という印象になるでしょうが、古代にはセレウキア・アド・カリュカドヌム(Seleucia ad Calycadnum)と呼ばれ、キリスト教では重要な場所です。

     

    初期のキリスト教では、主教らによるセレウキア教会会議(Council of Seleucia)が開かれてきました。また、このセレウキアは「Acts of Paul and Thecla」という新約聖書の外典福音書の舞台でした。あまり馴染みのないものでしょうが、これは使徒パウロの最初の宣教の旅での逸話になっています。パウロは「禁欲と復活についての神の言葉」を宣言し、旅に出ました。パウロはオネシフォラスの家で説教をしたときに、隣の家の窓からテクラという女性が「処女についての談話」を聞いていました。彼女は何日もに耳を傾け、夢中になりました。テクラの母親のテオクレイアと彼女の婚約者のタミュリスは、テクラが「ただ一人の神を恐れ、純潔に生きなければならない」というパウロの要求に従うのではないかと心配しました。そこで、使徒パウロを投獄するようにしたのでした。
    投獄されたパウロに会うため、テクラは警備の人間に賄賂を贈り、パウロの教えを間近で聞くようになりました。一晩中パウロの足元に座り、聞いていたのでした。彼女の家族が彼女を見つけたときには、彼女とパウロは二人とも知事の前に連れて行かれるようになっていました。彼女の母親の要求で、パウロは罵倒され、追放を宣告されました。テクラは裸にされ、火にかけられました、ところは、ここで奇跡が起きました。神が炎を消すためも嵐にしたのでした。これで彼女は救われたのでした。パウロとテクラは再会しました。

     

    その後、アレクサンダーという名の貴族がテクラを無理矢理連れて行こうとしたことがありました。彼女は抵抗し、アレクサンダーは貴族を襲ったことを公言し、結果、テクラは雌ライオンに縛られた状態で街をパレードさせられたのでした。そのた、彼女の受難は様々ありましたが、奇跡により死を免れたのでした。
    そのテクラは居住していた場所こそが、セレウキアであり、テクラは聖人テクラ(Thecla of Iconium)なのでした。彼女の墓はキリスト教徒たちに崇められました。現在はその遺構と聖域はメリアムリク(Meriamlik)と呼ばれています。

     

    セレウキアとして、カトリック教会の教区(titular see)がトルコになった今でも設定されているのは、それだけ意味のある地域だといえます。しかし、1971年の主教の死去後は空位となっています。

     

     

  • レグニツァ(Legnica)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はレグニツァ(Legnica)について勝手に語ります。

     

     

    以前にポーランドのワインの話で、ジェロナ・グラ(Grünberg) をご紹介したことがあります。今回はジェロナ・グラから南南東に位置するレグニツァ(Legnica)です。

     

    【参考ページ】
    ジェロナ・グラ Grünberg

     

    レグニツァ周辺地域は、かつて民族の十字路でした。ケルト人と東ゲルマン人が交差する場所で、東ゲルマン族が移動したあとは、西スラヴ人が移りんできて、この地に定住したといわれています。しかし、実際にはよくわかっていなく、「ルーク人の町」ともいわれ、この場合のルーク族はプロト・スラヴ系民族になります。
    公式にこの街が表に出るのは、シレジア分家の公国の首座となってからです。このシレジア分家は ポーランドのピャスト朝(Dynastia Piastów)がもとです。そもそもポーランド王国はローマ皇帝オットー3世からの戴冠と、大司教座の設置が許可されたこと、また、ローマ教皇ヨハネス19世の許可が出たことの二つにより、ポーランドが国家として認められたとされています。その王朝の分家が、レグニツァを中心とした公国にしたというわけです。

     

    ワールシュタットの戦い(Schlacht bei Wahlstatt)では、レグニツァ近郊が戦場となりました。その後、最盛期を迎え、14世紀になるとボヘミア王国の配下となりました。ボヘミア王国は神聖ローマ帝国にありました。宗教改革では、多くの人々がルター派となりました。そして、ハプスブルク家の支配地となっていきました。しかもハプスブルク家の直接統治となったのでした。

     

    オーストリア継承戦争では、オーストリアはプロイセン敗北したことで、1742年にリーグニッツを含むシレジアの全土がプロイセン領となりました。再び大きな戦場となったのは、1760年の七年戦争でした。このときにリーグニッツの戦いがありました。プロイセンのフリードリヒ2世軍がオーストリア軍に勝利し、1813年のナポレオン戦争でもプロイセンはレグニツァ近郊のカッツバッハの戦いでも勝利しました。

     

    ウジーン会議以降、ドイツの統一があり、リーグニッツはドイツ帝国の一部となりました。ここで民族的にはドイツ人の多い都市になりました。ただ、このドイツ人というのは、ポーランド系やボヘミア系の家系が、歴史的にドイツ化した民族といえます。
    レグニツァが現在と同じように完全にポーランドの一部となったのは、第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗北してからでした。1945年のポツダム会談によるものでした。そのため、ドイツ人追放となり、そこへポーランド人が移り住んできまいた。まさに古代に、東ゲルマン族が移動したあとに西スラヴ人が移りんできたのと同じような状況でした。

     

    東西冷戦時代には、ソ連軍本部がレグニツァに置かれました。ここでも民族的な分断がありました。ポーランド人区とソビエト人区に分割されたのでした。しかも二つの地区の往来については制限されていたのでした。これは東西に分かれたベルリンと同様でした。しかも、中世のレグニツァ公国のレグニツァ城も、ソ連軍が入ってきたことで解体されたのでした。ここまでソ連軍が厳しくしたことは、西ヨーロッパを標的とする核兵器の基地だったkらでした。大量の核弾頭や中距離ミサイルが配備されたのでした。ソ連が崩壊し、ソビエト軍はロシア軍となり、ようやく1993年に軍はこの都市を出ていきました。

     

     

    現在の人口は10万人程度ですが、ここは歴史的に重要な都市です。
    なかなかポーランドへ機会はありませんが、ぜひともここには訪れてみたい街です。

     

  • ハンブルク 4(Erinnerungen an Hamburg 4)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第4回です。

     

     

    前回は「世界で一番罪深い1マイル」といわれる歓楽街のレーパーバーン(Reeperbahn)をご紹介しました。まだまだ言い足りないことがたくさんありますが、ワインブログの趣旨から大きく外れるので、今回は別の思い出です。

     

    ハンブルク在主のカメラマンたちと、夜に飲み歩くことが多々ありましたが、そんな中、ある3人組の女性たちと親しくなりました。今は名称が異なってしまいましたが、日本の某銀行のハンブルク支店に勤める人たちでした。現地スタッフで、上司が日本人です。ところが、日本語はほとんどできませんでした。それでも日本語を聞きなれているためか、珍しく、すぐに日本人であるこが分かったようです。普段の業務では、顧客対応はドイツ語と英語で、日本語で対応する案件は、日本人が担当していたようです。

     

    その中の一人、アンネマリー(Annemarie)という4つ年上の女性がいました。日系金融機関3人組の中で、もっとも酒に強く、陽気な、頼れる「お姉さん」という印象でした。当時はまだ携帯電話もメールもない時代で、自宅の固定電話の番号しか知らず、しかも一度も電話したことはありませんでした。それもそのはずで、まともにドイツ語で会話できなかったからです。それでも一番気が合ったので、みんなで食事をしたり、飲みに行ったりした際には、身振り手振りを交えて最も多く会話していました。特にそれ以上でもそれ以下でもない関係だったので、ハンブルクを去るときもあっさりとしたものでした。

     

    まさかこのハンブルクに長く滞在することになるとは、夢にも思えなかったものの、ゲーテ・インスティトゥート(Goethe-Institut)の試験を受ける場所を考えていたとき、ふとアンネマリーを思い出したことで、よく考えずにハンブルクへの再訪となったのでした。ハンブルクのゲーテ・インスティトゥートは市の中心部にあり、ホテルだけでなく、ガストホフ、ホストファミリーなどとの提携で、比較的交通至便なエリアを拠点にできるメリットがありました。ここは迷わず思い出のランドゥングブリュッケン(Landungsbrücken)周辺にしました。なんだか地元に戻ってきた感じです。インスティトゥートまでUバーン3号線で1本なので、これも気に入りました。試験に合格したうえで、そのまま次のレベルへと進むことにしたのでした。

     

    ある程度のドイツ語の会話力は身に着けた気になり、アンネマリーに電話してみようと思ったのは、1ヶ月くらい経過してからでした。ところが、電話番号を記入していたノートをなくしたようで、それはできませんでした。何とも情けない話です。
    そんなある日、内アルスター湖南岸のJungfernstiegを歩いていたときのことです。あ、そうそう、この「Jungfernstieg」ですが、「Jungfern」と「stieg」の二つの語句から成り立っています。「Jungfern」は「乙女たち」という意味です。この通りの由来は、18世紀頃に、乙女たち(未婚の女性たち)が男性を探すために散歩した通りだといわれています。本当かどうか知りませんが、現在では高級ブティックなどが立ち並ぶ、少しハイソな雰囲気のある場所です。自分にとっては場違いな場所ですが、内アルスター湖周辺は東京で言えば銀座のような場所でもあり、散策するには最適です。そこで偶然、メラニー(Melanie)と会いました。3人組のリーダー格の女性で、当時は30歳を過ぎていたと思います。

     

     

    自分がハンブルクを離れている間に、彼女は結婚し、ハンブルク近郊のエルムスホルン(Elmshorn)に住んでいるとのことでした。今でも日系金融機関に勤めているとのことでした。話はアンネマリーの近況になり、彼女は銀行を辞め、シャンツェン通り(Schanzenstraße)沿いの店舗で働いているとのことでした。会いにいってあげたら、喜ぶよ、という言葉を受けて、あまり縁のない街のシャンツェンに行ってみることにしました。

     

    シャンツェンといえば、ハンブルクで一番おしゃれに生まれ変わった街といえます。旧市街からは北西に位置し、最寄り駅はSバーン、Uバーンのシュテルンシャンツェ(Sternschanze)駅になります。かつて、この周辺は利便性が良い割に家賃が安かったことから、若い世代の人々やアーティストが多く住むようになりました。それは独自の発展を生み、旅行者にも人気のサブカルチャーの発信地となりました。店舗も多く、しかも大手資本のチェーン店はほとんどなく、個人運営の個性的なショップやカフェなどが点在する街になりました。
    そのまま向かうことにしました。

     

  • ギズボーン(Gisborne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はギズボーン(Gisborne)について勝手に語ります。

     

     

    ニュージーランドのワイン産地として知られるギズボーン(Gisborne)は、世界中で最も日付変更線に近い都市といわれています。そのため、朝日が昇るのも世界でもっともはやくなります。ニュージーランド北島の北東部にあり、人口は3万4,000人ほどですが、この周辺地域では中心都市になっています。オークランドからは距離があり、車で6時間、飛行機で1時間程度を要します。マオリ語では「Tūranga-nui-a-Kiwa」となり、意味としては「キワの停泊場所」になります。マオリ人が最初にニュージーランドにカヌーを接岸した場所だといわれますが、ヘイスティングズをご紹介したときにも、同じことをいわれているので、実際はどうなのか分かりません。

     

    【参考ページ】
    ネーピア(Napier)とヘイスティングズ(Hastings)

     

    ギズボーンは日照時間が長く、温暖な地域になっています。これは緯度が低いことが影響しているため、スコールもあります。これで気温の上昇を抑える働きもあり、さらに海風も気温を下げる効果があることで、ブドウ栽培にとっては良い影響になっています。周囲にはビーチがあり、サーフスポットとしても知られています。

     

    白ワインの産地で、中心となるブドウ品種はシャルドネです。ニュージーランドでは「シャルドネの首都」と呼ばれるほどです。シャルドネというと、比較的冷涼な気候の地で栽培されるイメージがありますが、ギズボーンの場合は気温より土壌が大きく関係しているよです。細かい粘土質で、これが高品質のワインに繋がっているようです。
    しかし、ギズボーンのワイン生産が本格的になった当初は、主力品種がミュラー・トゥルガウ(Müller-Thurgau)でした。1960年代でした。ニュージーランドの場合、現在はワイン生産が盛んなのは南島のマールボロ地方ですが、当時は南島はぐブドウ栽培に適していないと考えられていました。その分、北島のギズボーンでは、ワイン生産が活発化し、1970年代にはニュージーランド最大のワイン産地にまでなりました。

     

    では、なぜギズボーンがミュラー・トゥルガウを主力品種として国内最大のワイン生産地になったのでしょうか。それはこの品種が、スイスのトゥルガウ出身のヘルマン・ミュラーが交配したもので、この品種をガイゼンハイムブドウ育種研究所のヘルムートベッカー(Helmut Becker)が指導したことが関係しています。生育が早く、収穫量も豊富な品種で、ギズボーンの土壌に適していたことから、ワイン生産量が増加したようです。

     

    しかし1980年代以降となると、ミュラー・トゥルガウの特性上、収穫量の多さから、ワイン価格が安価になってきたのでした。この対策として、ニュージーランド政府は、他の品種への植え替えを進みました。その結果、現在ではほとんど栽培されなくなりました。
    結果的に植え替えられた品種としてシャルドネが主力となったのでした。

     

  • ディジョン(Dijon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はディジョン(Dijon)について勝手に語ります。

     

     

    フランスワインを代表する地域といえばブルゴーニュです。ブルゴーニュのブドウ畑のクリマの一部として世界遺産リストに含まれています。過去に関連する内容を投稿してきましたが、今回はその中でディジョン(Dijon)はご紹介します。かつてブルゴーニュ公国の首都でした。

     

    【関連ページ】
    世界で最も偉大な赤ワイン産地
    ブルゴーニュのクリマ(Climat)
    ヴォーヌ=ロマネ

     

    ディジョンは新石器時代から人が定住していた地域ですが、都市としてはローマによって建設されました。この冬至は「Castrum Divionense」でした。ローマ街道沿線の都市であり、2世紀にはすでに市街地が繁栄していました。しかし、ゲルマン人の大移動などの影響で、様々な民族が侵入するようになりました。キリスト教は、殉教者として知られる守護聖人ベニグナス(Benignus of Dijon)により伝えられました。5世紀になるとラングル司教座が置かれるようになり、、守護聖人ベニグナスを埋葬した修道院が崇敬を受けるようになりました。それほど当時は重要な巡礼地にまでなったのでした。

     

    1031年には、フランス王ロベール2世の息子で、アンリ1世の弟であるロベール1世(Robert I)により、ディジョンはブルゴーニュ公国(Duché de Bourgogne)の首都になりました。その約100年後には、大火が発生し、市内の中心部がと化す事態になりました。そこで、都市再建の際、城壁を従来よりさらに拡大するようにしました。この城壁は18世紀まで市街地を守る役割を担っていました。都市としてもっとも輝いていた時代は、カペー家の分家から始まったヴァロワ家がブルゴーニュ公だった時代といえます。1363年から1477年までの期間ですが、この時代に経済面でだけでなく、芸術や科学なども盛んとなりました。
    そしてブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)がフランス王との争いに敗れました。その結果、ブルゴーニュ公国は併合されることになりました。

     

    【参考ページ】
    ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne)
    ブルゴーニュとアキテーヌ公
    ブルゴーニュワイン発祥の修道院
    ブルゴーニュとブルグント王国
    ムロン・ド・ブルゴーニュ

     

    ディジョンの街が変化してきたのは、ブルゴーニュ議会がボーヌから移されてきたことに関係します。この移転により貴族たちがディジョンに邸宅を建てるようになったのでした。その後、新しい教会、礼拝堂、修道院などキリスト教関連施設が続々と建設されました。そして18世紀に再び繁栄期を迎えました。このときはブドウ栽培からワイン生産が活発化し、その経済的な繁栄を迎えたのでした。またブルゴーニュ運河が1832年に開通し、1851年にはパリと結ばれた鉄道も整備されました。このように交通も整備され、ディジョンの経済成長が急速に進みました。

     

     

    19世紀には普仏戦争のときにプロイセン軍に占領されました。このときにディジョンに限らずフランス国内の防衛設備が弱いことを痛感したフランス政府は、防衛設備の見直しを迫られることになりました。ディジョン市内各所に小要塞がつくられ、兵舎や武器庫が新たに造営されました。しかし第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領されてしまい、最終的にフランス・イギリス・アメリカの合同軍によって解放されました。

     

  • キリストの血入門 33

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第33回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は前々回に続いてマルティン・ルター(Martin Luther)を取り上げました。今回はルターの反ユダヤ主義についてです。

     

    学校の授業では、マルティン・ルターは1517年から宗教改革をはじめた人物として取り扱っていると思います。彼が反ユダヤ主義者だったことに言及することはあるでしょうか。少なくとも記憶にはありません。しかし、これは紛れもない事実です。

     

    当初、ルターはユダヤ教徒を敵視していませんでした。反教皇運動の援軍だとみなしていたようです。そのためローマ・カトリックの反ユダヤ主義に対し、ユダヤ人はイエスと同じ血統であると主張していたほどでした。1521年、神聖ローマ帝国のヴォルムス帝国議会では、ルターが異端として教会から破門されましたが、この国会期間中に、ユダヤ人と議論もしていました。 1523年には、「イエスはユダヤ人として生まれた」という小冊子を著し、ユダヤ人に対して改宗を勧めました。その内容は過激で、「愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ(※)」、「ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう(※)」に、ユダヤ教からキリスト教へ改宗することを勧めました。(※は「wikipedia」反ユダヤ主義より引用)

     

    ユダヤ人をキリスト教へ改宗させる言動とは別に、ルターはドイツ人の優位性をも主張していました。これはユダヤ人は神から選ばれたという信仰と同じような意味を持ち、極端にいえば後のヒトラーの思想にも通じる部分があるといえます。具体的には神聖ローマ帝国に関連したものでした。ローマ教皇がドイツ人を使って第二のローマ帝国、つまり神聖ローマ帝国を築き上げました。つまり、神がドイツ人のキリスト教徒の皇帝こそが統治すべきと望まれたとしたのです。これ以外にもドイツ人の選民意識に基づく発言をしていました。この点はあまり宗教改革者というイメージから遠いかもしれません。

     

    ユダヤ人に対して決定的に反旗を翻したのは、騎士戦争や、ミュンツァーによる農民戦争以降でした。ルターはこの反乱勢力を批判しましたが、それは自身の責任を痛感するようにもなった点もありました。政治的責任を強く感じ、神による秩序が人間の内的自由にる反乱により対置されることになったとしました。そこで、キリスト教徒は神に従順であり、忠実な臣下でなければならないと説くようになっていったのでした。その延長上で、この混乱はユダヤ人も大いに関係しているとしたのでした。なぜなら、あれだけルターがユダヤ人に改宗するように勧めたものの、実際に改宗した人は少なく、しかも改宗後に、すぐにユダヤ教に戻っていたのでした。これをルターはユダヤ人いからかわれたしたのでした。最終的にユダヤ人を改宗させることは不可能だとしました。イエス・キリストでさえできなかったことを理由にしていましたが、それは完全な反ユダヤへ向かうものでした。

     

    1543年、ついにルターは「ユダヤ人と彼らの嘘について」を発表しました。ユダヤ人批判とともに7つの提案を行いました。その内容は、ユダヤ人を隔離させたり、教育を受けさせない、書物を没収する、伝道の禁止から、当時ユダヤ人は金融分野で活躍していたことから、その金銀の没収、さらには奴隷のようにして働かせるというようなものでした。特にユダヤ人は財産は所有することを禁じ、その財産をドイツに返還させるということについては、激しく主張していたようでした。そのうえで、ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事だとしたのでした。まさにヒトラーと同じではないかと思えてきます。これほどまでにユダヤ人への憎悪は激しく、「敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である(※)」とし、そのユダヤ人を家に迎え入れる者は、悪魔の末裔に手を貸すことだとしたのでした。そのような者は、最後の審判の日に、キリストにより、業火にユダヤ人とともに焼かれると述べていました。

     

    そしてルターが死去する4日前に、最後の説教を行いました。この中で、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えたのでした。このように晩年のルターはユダヤ人に対する憎悪を口にしていましたが、彼の周囲の協力者からは逆に批判されたりもしていました。また、憎悪の矛先はユダヤ人だけでなく、教皇に対しても行われていました。
    そして、この反ユダヤに関するルターの文書は、のちのヒトラー時代になって再び脚光を浴びたのでした。こんな事実はあまり知られていないでしょうが、宗教改革というイメージのルターには、このような側面があったことは理解していて良いと思います。

     

  • ベエルシェバ(Be’er Sheva)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はベエルシェバ(Be’er Sheva)について勝手に語ります。

     

     

    イスラエルの事実上の首都テルアビブ(Tel Aviv)から車で南に約90分、ネゲヴ(Negev)砂漠の入り口に到着します。そこにベエルシェバ(Be’er Sheva)の都市が広がっています。人口は約18万5千人、イスラエル南部地域の行政中心地です。
    砂漠の入り口らしく、日差しが強く、空気も乾燥しています。まさに砂漠の都市ですが、サボテンやヤシの木などが植えられていて、中東らしい街の光景とは微妙に異なります。それはインドやモロッコ、ロシアという広範囲の地域からの入植者が多いことで、他民族都市ということも関係しているのかもしれません。

     

    ここは聖書に登場する場所です。
    まず、「創世記」ではここでアブラハム(Abraham)やアビメレクと誓いをかわし、その後にイサク(Isaac)が誕生した舞台です。これは、アブラハムが滞在中に、妻のサラを取られないようにするため、妹と偽ったことがあり、ゲラル地方の王であるアビメレクは夢でその事実を知ったことで、姦淫の罪を犯さずに済んだというものです。最終的にアビメレクはアブラハムを優遇するような契約をかわしました。ここに登場するアブラハムはヘブライ語で多数の父という意味です。「アブラハムの宗教」とも呼ばれるのは、ユダヤ教とキリスト教だけでなくイスラム教も含まれ、これらの宗教では、彼を唯一神が人類救済のために選んだ預言者としています。このアブラハムとサラの間に生まれたのがイサクです。アブラハムが100歳、サラが90歳のときに、神の導きによってイサクは誕生しました。その後、神はアブラハムの信仰を試そうとして、イサクを焼き尽くし、捧げるように彼に求めました。わが子を生贄にするわけですが、アブラハムはこれに従いました。イサクも直前になって自分が生贄であることを悟りましたが、それでも抗わなかったのでした。アブラハムがまさに息子を屠ろうとした時、神はアブラハムの信仰の確かさを知り、これを止めました。イサクの燔祭という試練の物語です。
    もう一点、イスラエルには12氏族がありましたが、彼らが居住する土地の南端がベエルシェバでした。そこで北端がダンなので、イスラエルの民の居住地域を「ダンからベエルシェバまで」という表現になりました。これは「サムエル記」の預言者サムエルです。

     

    【参考ページ】
    初詣と古代イスラエル
    秦氏を語る
    ユダヤの戒律とワイン
    イスラエルの失われた10支族

     

    現在のベエルシェバは、2万人の学生が在籍するベングリオン国立大学のある都市となっています。他に、ソロカ・メディカルセンター、イスラエル・シンフォニエッタ・ベエルシェバの本拠地になっています。ハイテク企業の誘致政策もあり、聖書の世界という伝統とともに、最先端の都市という顔を持つようになっています。

     

     

    ベエルシェバの旧市街は、メイン通りが並木道になっていて、毎週蚤の市が開催されています。メイン通りから路地に入れば、おしゃれな店舗も多くあります。景観の美化にも力を入れていて、砂漠の都市ですが、とても快適に過ごせます。ただ、そんな街ですが、1917年のベエルシェバの戦いの舞台でもありました。コード名はモーセ作戦でした。

     

  • スルプスカ共和国(Република Српска)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスルプスカ共和国(Република Српска)について勝手に語ります。

     

     

    スルプスカ共和国(Република Српска)と聞いて、どこにある国かわかる人は、よほどヨーロッパを知っている人といえるでしょう。おそらく、ほとんどの人は初耳になるのではないかと思います。ただ、この名称は正確とはいえず、そもそもスルプスカ (Српска) とは、セルビア語でセルビア (Србија) の形容詞形です。そのため素直に日本語の訳せば「セルビア人共和国」となります。しかし、セルビア共和国が実在しますので、紛らわしいことから、日本の外務省は「スルプスカ共和国」と表記するようにしたようです。ちなみに英語では「Serb Republic」ですが、やはりセルビア共和国の「Republic of Serbia」と紛らわしくなりますので、「Republika Srpska」が用いられることも多いそうです。

     

    では、このスルプスカ共和国ですが、これはるボスニア・ヘルツェゴビナ構成する国の1つとなります。ボスニア・ヘルツェゴビナが連邦国家なので、その中の1つであり、セルビア人を主体とする共和国になります。独自の大統領、政府、立法府を持っていて、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%までを占めています。

     

    ボスニア・ヘルツェゴビナについては、以前に国と首都をご紹介したことがあります。

     

    【参考ページ】
    ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosna i Hercegovina)
    サラエヴォ(Sarajevo)

     

    この国の成立には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が大きく関係しています。まずはその紛争前に背景を知らないと見えてきません。
    ソ連崩壊後、共産主義体制の国家が次々と変貌していきました。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国でも、スロベニアとクロアチアが分離することになり、連邦構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナでも深刻な政治危機に陥っていました。1991年10月24日、ボスニア・ヘルツェゴビナではセルビア人の代表機関が誕生しました。ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3者の意見があわず、すべての分野で政治的進捗が止まってしまったのでした。特に大きな違いは、ボシュニャク人とクロアチア人はユーゴスラビア連邦からの独立を求め、セルビア人は連邦に留まることを望んでいたのでした。そこで、ユーゴスラビア連邦残留を問う住民投票が行われました。しかし、ボシュニャク人とクロアチア人による多数派のボスニア・ヘルツェゴビナ議会はこの住民投票を違法と宣言しました。それに対し、セルビア人議会は投票結果を受け入れるとしたのでした。その結果、ユーゴスラビア連邦に留まることになると宣言しました。

     

    翌年、ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人議会は、ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国 (Republika srpskog naroda Bosne i Hercegovine) の成立を宣言しました。その上でこの共和国はユーゴスラビア連邦の一部であり、セルビア人自治州、自治体とその他のセルビア人自治組織をすべて含む領土としました。その領土にはセルビア人が少数派となった地域も含むとされました。
    一方で、ユーゴスラビア連邦からの独立を問う住民投票も行われました。今度はセルビア人が投票をボイコットしました。それでもEUは公式にボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認することになりました。スルプスカ共和国も独立を宣言しました。

     

    このような背景からついに紛争に至りました。開始直後はユーゴ政府の支援を受けていたセルビア人勢力が優勢でした。紛争相手のボシュニャク人とクロアチア人は一枚岩という状態ではなく、むしろ、この紛争を契機として両者の武力衝突まで勃発することになりました。セルビア人勢力は、最初にボスニア・ヘルツェゴビナの6割以上を制圧し、首都のサラエヴォも包囲しました。クロアチア人勢力は西部の領土(全土の1割)を確保し、ボシュニャク人勢力は残り3割弱を防衛する状況になrました。この勢力図に対し、国際社会はユーゴを制裁し、サラエヴォへの人道支援などを行いました。しかし、勢力図に変化はありませんでした。

     

    そして翌1993年、ボシュニャク人とクロアチア人の対立が強くなり、クロアチア人勢力はヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国を樹立を宣言し、セルビア人勢力と同盟を結びました。

     

    しかし翌年の1994年になると、アメリカが介入し、クロアチア人とボシュニャク人が再び同盟することになりました。これで、ボシュニャク人とクロアチア人の連邦国家が誕生することが決定されました。さらに北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆も実施されることになり、アメリカはボシュニャク人とクロアチア人の勢力へ軍事援助もするようになりました。これで戦局に変化が現れましたが、それでもセルビア人勢力の反撃は強く、NATOの空爆もまた実施されるようになりました。この空爆という攻撃に対し、セルビア人勢力は国連の保護軍兵士を人質とする対抗手段に出ました。これは、NATOに大きな影響を与えました。国連保護軍に兵士を派遣しているのはイギリスやフランスだったため、人質解放の立場に立ち、空爆を続けたいアメリカとの間では、意見が対立することになったのでした。まさに事態は混迷の度合いを増しました。

     

    このような中、元アメリカ大統領のジミー・カーターが仲介することにより、1995年1月1日から4ヶ月の停戦となりました。ただし、停戦の期限が切れるとともに、再び激しい戦闘が始まりました。ボシュニャク人勢力圏だったスレブレニツァやジェパが陥落しました。クロアチア人勢力には、クロアチア軍が連携したことで、ボスニア・ヘルツェゴビナだけでなく、クロアチア国内でも戦闘が行われることに繋がりました。NATOはセルビア人勢力の拠点を攻撃し、人質対策としては緊急対応部隊を設立しました。

     

    1995年8月28日、大きな悲劇がおこりました。サラエヴォ中央市場にセルビア人勢力が砲撃を行ったのでした。これにより市民が37人が死亡しました。ここは非戦闘地域に指定されていた場所でした。NATOはこれを受け、デリバリット・フォース作戦を発動しました。ついに大規模な空爆を行ったのでした。これにより、被害は拡大したものの、セルビア人勢力は和平交渉への本格的な参加を決定したのでした。

     

    1995年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平一般枠組み合意(通称:デイトン合意)により、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体の1つとしてスルプスカ共和国の存在が国際社会から公認されました。中央政府の議会では、下院にて定数42のうちスルプスカ共和国は14議席を有するようになっています。

     

     

    東西冷戦時代にヨーロッパにいたことから、共産圏でありながら独自路線だったユーゴスラビアは、個人的に特殊な国という認識が強くありました。それが冷戦構造崩壊後に起きた大きな紛争ということで、どうしても紹介したいと思っていました。今回、スルプスカ共和国を紹介することで、この悲惨な紛争に触れました。

     

  • コンヤ(Konya)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコンヤ(Konya)について勝手に語ります。

     

     

    トルコのアナトリア地方といえば、カッパドキアやヒッタイトの地域となります。この地方では紀元前4000年以前からワインが生産されていました。そのため、紀元前1600年頃のヒッタイト帝国の文献には「パン、ビール、ワイン」が神々に捧げる物とされていたほどでした。言語的にもヒッタイト語の「wiyana」は、ブドウとワイン両方を意味し、これが英語の「wine」、ドイツ語の「Wein」、フランス語の「vin」の起源だったともいわれます。そんなアナトリア地方関連の投稿は、過去にもしてきました。

     

    【参考ページ】
    カッパドキアとワイン
    ヒッタイト王国のワイン
    ヒッタイト帝国(Hittites)

     

    コンヤ(Konya)は、そんなアナトリア地方の主要都市のひとつです。人口は約122万人で、トルコ第6の都市でもあります。首都のアンカラからは高速鉄道の開通により、わずか1時間半で移動できるようになっています。それ以前の鉄道は10時間以上を要していたので、かなり利便性があがりました。
    また、コンヤといえば、初期キリスト教の使徒だったパウロの書簡にも登場します。「ガラテヤの信徒への手紙」は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説があります。実際に、パウロが布教に訪れたことは事実だったようで、その時代にはイコニウム (Iconium)で、これがのちのコンヤだといわれます。

     

    都市としての歴史は古く、パウロ以前では、紀元前12世紀頃アナトリアに入ったとみられるフリュギア、(Phrygia)、紀元前7世紀に最も優勢となり、世界で初めて硬貨を導入したことで知られるリディア(Lydia)の時代からこの都市は存在していました。その後は征服の歴史となり、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王、セレウコス朝シリアと支配者が代わり、都市名はギリシャ語でイコニオン (Iconion) と呼ばれました。その後、ペルガモン王国支配、ローマ帝国と支配者が変遷しました。このときに初期キリスト教の舞台のひとつになりました。

     

    ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国領として、キリスト教の宗教都市として栄えました。しかし、イスラム教のトルコ人の侵攻により、1076年にセルジューク朝に征服されました。これも十字軍による影響を大きく受けました。平穏な時代になったのは、13世紀に入ってからで、この頃にルーム・セルジューク朝は最盛期を迎えました。コンヤも中心都市として繁栄を極めました。

     

    モンゴル帝国の侵攻以降は衰退期に入り、ルーム・セルジューク朝が断絶し、カラマン君侯国はコンヤを支配し、首都となりました。次にオスマン帝国による征服となりました。
    また、キリスト教の宗教都市から、イスラム教の宗教都市へと変貌していきました。その証拠に、コンヤにはアラエッディン・モスクやセリミエ・モスクなどを含め、数多くのモスクがあります。

     

     

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