今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ヨハネス22世(Ioannes XXII)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヨハネス22世(Ioannes XXII)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのAOCカオール(Cahors)といえば、「黒ワイン」とも表現されるほど濃い赤ワインで有名で、以前にカオール(Cahors)の「黒のワイン」でご紹介したことがありました。ロット県(Lot)内の45か所の地域で生産されていて、ブドウ品種はマルベック(Malbec)が70%以上使われていることが条件となっています。
    そのカオールで、1249年に靴屋の息子として誕生したローマ教皇がいます。その教皇がヨハネス22世(Ioannes XXII)です。裕福な中産階級出身でした。そしてアヴィニョン捕囚時代のローマ教皇でした。

     

    【参考ページ】
    アヴィニョン(Avignon)
    キリストの血入門 23

     

    クレメンス5世(Clemens V)が1314年に死去し、その後の約2年の間、教皇が不在となっていました。それが1316年、新しい教皇にジャック・ドゥーズ(Jacques Duèze)が選出されました。この当時72歳という高齢だった新教皇がヨハネス22世でした。ヨハネス22世は、過去のどの教皇も手を付けなかった財政再建を進めました。その行動は驚くべき根気強さでした。また、これに関係して行政改革も行いました。

     

    伝道する地域にちては、アジア方面を奨励しました。文化面ではアヴィニョンに図書館や故郷のカオールにカオールに大学を創設しました。その反面で魔女狩りの教皇としても知られています。

     

    神聖ローマ帝国のルートヴィヒ4世(Ludwig IV. der Bayer)との関係は最悪でした。これは、ヨハネス22世が皇帝のルートヴィヒ4世に帝冠を授けようとしなかったからでした。そのため、ルートヴィヒ4世は教皇を教会会議の開催を求め、その会議で教皇を廃位させようとしました。このルートヴィヒ4世側に味方したのは、ヨハネス22世に弾圧されていたフランシスコ会聖霊派でした。そこで1328年には、フランシスコ会のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇としてローマに擁立したのでした。ルートヴィヒ4世の戴冠については、アナーニ事件の首謀者のひとりだったシアッラ・コロンナからローマ市民を代表するかたちで受けたのでした。その上でヨハネス22世の教皇廃位を宣言しました。

     

    ところがルートヴィヒ4世の思惑通りには進まず、彼がローマを離れると、ピエトロ・ライナルドゥッキ(ニコラウス5世)はとらえられてしまったのでした。1330年、ニコラウス5世はヨハネス22世に屈してしまったのでした。

     

    そんなヨハネス22世でしたが、晩年には異端的教説との非難を浴びることとなり、最後は輝かしい教皇とは異質な生活でした。

     

     

  • クライペダ(Klaipėda)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクライペダ(Klaipėda)について勝手に語ります。

     

     

    リトアニア西部に位置し、リトアニア唯一の港湾都市がクライペダ(Klaipėda)です。ドイツ名はメーメル (Memel)またはメーメルブルク (Memelburg)、ポーランド名ではクワイペダ(Kłajpeda)になります。実は20世紀初頭までプロイセン領で、リトアニアとの国境線は、ヨーロッパで最も長く変更されなかった国境線のひとつといわれています。しかし、日本に住む現代人の感覚からすれば、ここがプロイセン領、すなわちドイツの一部だったというのは、不思議な感じを抱くかもしれません。

     

    もともとはバルト人(baltai)の集落でした。そこにドイツ騎士団がやってきて、港の整備から都市建設までを行いました。1252年のことでした。翌々年の1254年には、ハンザ自由都市になりました。宗教もバルト人の民族宗教からキリスト教へと改宗させられました。1422年にはメルノ海平和条約が締結され、正式にプロイセン公国の領土となり、同時にリトアニアとの国境が定められました。ハンザ同盟の重要な都市に発展し、交易上の要衝として繁栄することになりました。

     

    1525年になるとルター派は地域となり、港湾の事業がより活発化するようになりました。繁栄の最盛期は1629年から1635年まで続きましたが、スウェーデンが占領してきたことで、終焉を迎えました。さらにペストの被害も多くありました。そのような時代を経て、1720年に再びプロイセン王国の領土となりました。

     

    そして1871年です。ドイツ統一となりました。このときにプロイセン王国が中心的役割を担っていましたので、メーメルはドイツ帝国の東北部に位置する都市となりました。しかし、第一次世界大戦でドイツは敗戦し、連合国の保護下に置かれ、さらにヴェルサイユ条約によってドイツから割譲されることになりました。委任統治をしたのはフランスで、フランス軍が駐留することになりました。ところが、1923年にはリトアニア軍が侵攻してきました。そのままリトアニアに編入されたのでした。フランスとの間で緊張状態となりましたが、フランスは自治権の保持を条件に放棄することにしました。連合国としても、正式にリトアニアへの編入を追認し、国際承認されることになったのでした。

     

    ドイツの一部だった都市ということもあり、1938年の選挙ではナチ党が勝利しました。翌年、再びドイツに併合されるようになったのでした。この併合は武力によるものではなく、第二次世界大戦直前に、ドイツが血を流さずに併合した最後の地域となりました。ただ 第二次世界大戦ではドイツの敗戦が色濃くなり、ドイツ人の住民は引き揚げをすることになりました。そこへ1945年1月28日にソ連の赤軍がここを占拠したのでした。結局、リトアニア・ソビエト社会主義共和国に編入されることになり、まだ残っていたドイツ系住民は、シベリアに送られることになったのでした。一部はドイツへ追放されました。

     

    そのソ連も20世紀に崩壊し、1990年にはリトアニアがソ連から独立宣言しました。

     

     

  • アダムスタウン(Adamstown)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアダムスタウン(Adamstown)について勝手に語ります。

     

     

    南太平洋のピトケアン諸島(Pitcairn Islands)で唯一の有人島がピトケアン島で、その中心部がアダムスタウン(Adamstown)です。イギリスの海外領土で、ピトケアン諸島には5つの島があります。ただし、最も東のデュシー島から最も西のオエノ島までの距離は500km以上あるため、絶海の孤島という印象です。人口は60人に満たないといされています。今回は、ワインでも飲みながら、この絶海の孤島の物語を語ろうかと思います。

     

    このピトケアン島ですが、ヨーロッパの人たちが訪れる前は、すでに無人島だったようです。しかし、考古学では15世紀頃までポリネシア人が住んでいたことが判明しています。そのため、ポリネシア人が去ったあとの1606年にスペインのペドロ・フェルナンデス・デ・キロスがこの島を発見したことになります。
    ただし島の名のはロバート・ピトケアンというイギリス軍艦スワロー号の乗組員が由来です。彼は父親はアメリカ独立戦争で戦ったイギリス海兵隊ジョン・ピトケアン少佐でした。この島は、オーストラリアやニュージーランドから遠く離れていたことと、島も小規模なものだったことから、この後に入植とはなりませんでした。いわば無視された状態でした。

     

    この島の運命を変えたのが「バウンティ号の反乱(Mutiny on the Bounty)」でした。18世紀末に起きた反乱事件で、イギリス海軍の武装船バウンティで起きました。1789年4月4日、英国海軍が貨物船を買い上げて臨時の軍艦とした徴用船「バウンティ号」は、タヒチ島を出航しました。予定していた航路は、喜望峰を経由して西インド諸島を目指すというものでした。ところが4月28日、トンガのフレンドリー諸島を航行中に船内で反乱が起きたのでした。当時の乗組員が44人でしたが、反乱者は13人でした。彼らは船に残り、艦長たちは救命艇で追放させられました。非反乱者も一部、船内に残りました。反乱者が支配したバウンティ号は タヒチ島に戻り、一部の船員をタヒチ島に残し、代わりに反乱グループのリーダーであるクリスチャンと8人の仲間はタヒチで現地の男6人、女11人、赤子1人を乗船させました。再び出航し、1790年1月15日にピトケアン島にたどり着いたのでした。この頃は当然ながらイギリスの海図にはない島でした。クリスチャンたちは島への上陸後、バウンティ号を解体しました。その資材を島での生活のために使いました。

     

    この反乱はイギリス本国に報告されました。そこで、バウンティ号の捜索が始まりました。しかし、グレート・バリア・リーフの近くで沈没し、ピトケアン島に渡った反乱者を発見できませんでした。事実上、これでバウンティ号の反乱は終焉となりました。

     

    ピトケアン諸島に次にやってきたのは1808年1月でした。今度はにアメリカ船トパーズ号でした。このとき、バウンティ号の乗組員で生き残っていたのは水夫のジョン・アダムス(John Adams)だけでした。クリスチャンの息子であるサースディ・オクトバー・クリスチャンがトパーズ号の船長を案内し、クリスチャン、アダムスだけでなく、子供が20数人、ポリネシア人の女性が10人いるという事実でした。この島に来た船員とタヒチ人とが殺し合いになったり、自殺者もいたり、また病死もあり、生存者はそれだけだったのです。このときの生存者であるアダムスが由来となってアダムスタウンとなったのでした。

     

    そして1838年、ピトケアン諸島は正式にイギリス領となりました。これは現在まで続いています。この島で衝撃的だったのは、2004年9月でした。女児に対する性的虐待の容疑で7人の島民が起訴されたのでした。ピトケアン諸島少女性的暴行事件といわれるものですが、この島の成人男性はすべて、14歳以下の女性と性交渉をもっているとして注目されるニュースとなりました。

     

    反乱者の子孫と拉致されたタヒチの人の子孫で成り立つ島ですが、絶海の孤島の独特なコミュニティは、日本で生活する人には想像できない部分もあるのかもしれません。渡航が出来ない今、知らない世界の島の物語で想像をたくましくして、今宵もワインを飲みましょう。

     

     

  • サジー(saji)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサジー(saji)について勝手に語ります。

     

     

    サジー(saji)はモンゴルではチャチャルガン(Yashildoo Chatsargana)といい、これをドイツのワイン醸造技術によって、100%チャチャルガンのワインにしたものがあります。果実酒といったほうが良いのかもしれませんが、モンゴル産にも関わらずトロピカルな気分にさせてくれる不思議な飲み物です。色はグリーンに、やや濃いイエローで、南国フルーツをイメージさせます。三位は適度にあり、甘さもかすかにあります。全体的にはさわやかな印象を持つといえます。

     

    このサジーですが、グミ科ヒッポファエ属(Hippophae)の落葉低木の総称で、日本では自生していません。一般的には英語圏のシーベリー(Sea berry)が馴染み深い表現かもしれません。ちにみにフランスではアルゴーサー(Argousier)、オランダではオリベロスピノソ(Duindoorn)、ドイツではザンドーン(Sanddorn)、イタリアではオリベロスピノソ(Olivello Spinoso)、ロシアではオブレピカ(Oblepikha)と呼ばれています。化粧品や健康食品の原料にもなっています。

     

    原産はユーラシア大陸の、標高1200~2000mにある地域といわれ、緑豊かな地域ではなく、砂漠や鉱物資源のあるような寂寥な場所だといわれます。そのため、気候的に厳しい地域、特に寒暖差が激しいような場所でも自生できます。砂漠に自生することから、年間降雨量が少ない地域でも問題ありません。そのような過酷な環境で植物ということで、サジーには豊富な栄養素があります。ビタミン、ミネラル、アミノ酸、ポリフェノール、鉄分など、その栄養素の種類は約300種にも及ぶともいわれます。

     

    人類はサジーを古くから効率的に利用してきました。例えばインド大伝統的医学であるアーユルヴェーダですが、使われる薬は、天然に由来する動植鉱物からなる生薬で、この中にサジーが入っています。薬効をカルマといい、ドーシャやダートゥ、マラなどへの作用も決まっているといいます。同じようにチベットの伝統医学でも使われています。
    このように伝統的、歴史的なものでなくても、1960年代には当時のソ連がサジーを宇宙食として使ったとされています。1988年のソウル五輪、2008年の北京五輪では、サジーが中国代表団の公式飲料となっていました。

     

    栄養価の高いサジーを原料としたワインがモンゴルで生産されるというもの、ブドウ栽培に適さない大平原で、それに代わるアルコール飲料が求められたからかもしれません。

  • アルタシャト(Artashat)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルタシャト(Artashat)について勝手に語ります。

     

     

    アルタシャト(Artashat)は、アルメニア共和国のアララト地方の中心都市です。古代都市名はアルタクサタで、アルメニア王国の首都でした。アルメニアといえば、世界最古の醸造所跡が発見されたともいわれている地域で、古代からワインが日常的に飲まれていたことが想像できます。そんな古代国家にご案内したいと思います。

     

    古代のアルメニア王国は、紀元前190年から紀元前66年まで存在した国家でした。その後もローマやペルシア帝国という巨大な国家に従属しながら継承していきました。キリスト教も1世紀には入ってきて、301年には国教になりました。
    アルタシャトの古代都市だったアルタクサタは、紀元前176年に建設されました。これはアルタクシアス1世によるものでした。王が自らの名を付けた新都市で、その一は現在のホル・ヴィラップ修道院の近くでした。都市建設では、要塞や砦も含まれていました。さらにいえば、当時のヘレニズム文化に基づく都市計画が徹底されていました。

     

    政治的な中心都市だけでなく、宗教的にも重要な都市となり、アルタクシアス1世がここで指揮を執りました。また領土の拡大もこの時期におきました。商業的な面でも成功しました。黒海沿岸の港と、インドや中央アジア方面、さらにシルクロードを経由して中国までを結ぶ地点にあったことから、一大交易都市にまで発展していきました。文化面でも進んでいたようで、宮廷には劇場があり、アルメニアで初めて演劇が行われたといわれています。

     

    アルメニア王国で〝帝王”の名を冠されるのがティグラネス2世で、治世は紀元前95年から紀元前55年でした。この時代にアルメニア王国の領土が地中海にまで達しました。それにともなって首都をアルタクサタからティグラノセルタに遷都しました。ここも新しく建設された都市でした。
    しかし、紀元前69年にローマ軍の侵攻により、ティグラノセルタの戦いに破れ、首都が陥落してしまいました。それでもティグラネス2世が追撃し、ローマ軍との間で紀元前68年のアルタクサタの戦いが起こりました。最終的に紀元前66年のアルタクサタの和約が結ばれることになり、ローマはアルメニアを友好国とみなすことになったのでした。これは敵対するアルサケス朝パルティアの緩衝地帯にすることが目的でした。それでもこのローマと友好関係に導いたということは評価されました。そして紀元前60年、アルタクサタが再びアルメニア王国の首都に戻りましたが、紀元120年にヴァガルシャパトに遷都されました。

     

    アルメニアはキリスト教を国教としましたが、438年にサーサーン朝にヤズデギルド2世が即位し、彼によりゾロアスター教を強要するようになりました。当然ながらアルメニアは抵抗しました。そのため、451年にはサーサーン朝とアヴァライルの戦いが起こり、多くの犠牲者を出すことになりました。アルメニア軍も全滅しました。そのままゾロアスター教強要があるかと思われましたが、その後のサーサーン朝はアルメニアに対して信仰の自由を認めたのでした。

     

    古代都市としてアルタクサタがなくなってから、ようやくその正確な位置が1920年代に特定されました。さらに1945年に新都市のアルタシャトが建設されました。これはソ連政府によるもので、古代都市アルタクサタから8km程度の位置でした。古代都市の発掘調査についても1970年代から始まりました。

     

     

  • キリストの血入門 31

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第31回です。ワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は宗教改革(Protestant Reformation)の第一弾でした。今回はマルティン・ルター(Martin Luther)です。

     

    1517年にルターが「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルクの教会に掲出したことで、宗教改革が始まったと前回述べました。では、このルターとはどんな人物でしょうか。のちにニーチェが彼を田舎者扱いしましたが、実際に生誕地はザクセン地方のルターシュタット・アイスレーベン(Lutherstadt Eisleben)という当時は小さな村でした。現在は人口2万人をこえていて、マンスフェルト=ズュートハルツ郡では2番目の規模になっています。
    父親は農夫、あるいは鉱夫ともいわれています。教育熱心で上昇志向が強い父親だったそうです。そんな父親の影響を受けたルターは、エアフルト大学に入り、順調にエリート街道を走っていきました。

     

    しかし、ある日彼は激しい落雷にあい、そのあまりの恐怖に怯えました。そこで聖アンナに助けを求め、助けていただいたら修道士になると、叫んだといわれています。これはのちに神学者ルドルフ・オットー(Rudolf Otto)が提唱したヌミノーゼ(Numinose)とよべるものだったかもしれません。
    しかし、この決断に対して両親は大反対しました。それでもルターは大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入ったのでした。 その後、ヴィッテンベルク大学で哲学と神学の講座を教えるようになりました。この時代に、スコラ学的な手法の限界を感じました。さらに「神の義」の思想に触れ、最終的に行き着いたのが、人間は善行ではなく、信仰によってのみ義とされる、すべて神の恵みであるという理解に達しました。

     

    このような理解をしていたルターにとって、当時、贖宥状の問題は見逃せないものでした。そこで「95ヶ条の論題」に至ったわけです。しかも「95ヶ条の論題」は広範囲で出回り始めました。これはカトリック教会に対する不満を抱く人々の間に瞬く間に影響を与えました。
    その一方でカトリック側は、ルターがにローマ教皇へ挑戦を挑んだと捉えました。それでも最初は、ローマ教皇庁はルターを諭し、穏便に解決するように修道会に命じていた程度でした。

     

    1518年にはアウクスブルクでの審問が行われ、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿がルターの疑義の撤回を求めましたが、ルターは拒否しました。ルターは逮捕されることを恐れ、アウクスブルクから逃亡しました。そのうえで身の潔白を主張し、公会議の開催を求めました。これがトリエント公会議に繋がりました。

     

    ルターがカトリック教会と断絶するようになると、彼の賛同者たちが集まるようになりました。カトリックから破門されても賛同者の数は減らず、むしろ増えていったのでした。
    ここで登場するのがフリードリヒ3世(Friedrich III)でした。ザクセン選帝侯で、神聖ローマ帝国ではカール5世を皇帝にさせた人物でもあります。このフリードリヒ3世の登場によって、宗教改革が一過性で終わるものでないことが確定したようなものでした。

     

  • ミシュコルツ(Miskolc)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミシュコルツ(Miskolc)について勝手に語ります。

     

     

    ミシュコルツ(Miskolc)といっても知らない人が多いかもしれませんが、近郊にあるゼンプレーン山麓で生産されるトカイワインの都市といえば、イメージできるかもしれません。ただ都市としては、ハンガリー有数の工業都市でもあります。トカイワインの生産から輸出だけでなく、製鉄、重工業、皮革製品や磁器などの生産も活発にされています。

     

    ミシュコルツは最初から都市として建設されたわけではなく、古代はケルト人の集落で、中世にはマジャル人の集落でした。13世紀にはモンゴル軍に征服されましたが、14世紀になってハンガリー王のラヨシュ1世により市場特権が認められました。これいより交易拠点となり、都市として発展を遂げることになりました。さらに城塞もディオーシュジュールに築かれました。都市機能として十分に整うようになり、その城塞はその後も歴代の王たちが増築していきました。

     

    オスマン帝国に支配されるようになったのは17世紀でしたが、ハプスブルク家によりイスラム教世界からキリスト教世界への奪還が行われ、そのままハプスブルク家の支配下になりました。これは都市の発展という意味では大きく影響し、この時代になって市庁舎や学校、教会、さらにユダヤ人のシナゴーグなども相次いで建設されました。

     

    工業都市となる契機となったのは19世紀でした。豊富な地下資源があったことから、工業化が加速し、インフラ整備も進みました。しかしここで不幸が訪れました。1873年のコレラの大流行と、1878年の大洪水でした。これらによりミシュコルツは多数の死者が出ました。それでも、都市としての復興は早く、再び発展するようになりました。

     

    ハプスブルク家支配の流れで、オーストリア・ハンガリー帝国として第一次世界大戦を経ましたが、1920年にオーストリアから分離し、トリアノン条約を受け入れることになりました。ここでチェコスロヴァキアという新国家が誕生し、ハンガリー北東部のコシツェがハンガリー領土から外れました。そのため、ハンガリー北東部の中心都市をミシュコルツが担うことになりました。

     

     

    トカイワインの生産地ではあるものの、ロシア革命以降の共産党政権時代になっても、ハンガリー北東部の中心都市であり、工業都市としての顔はそのままでした。人口は17万人ほどですが、ブダペストを除くと巨大な都市のないハンガリーでは、かなりの大都市であり、重要都市であることに変わりありませんでした。

     

  • イズマイール(Ізмаїл)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイズマイール(Ізмаїл)について勝手に語ります。

     

     

    ヨーロッパ最大にして、開発はおろか、人の手がほとんど入っていないデルタ地域があります。それがドナウ川の三角州である「ドナウ・デルタ」です。面積は3,446平方キロメートルにまで及びます。このドナウ・デルタ最大のウクライナの港がイズマイール(Ізмаїл)です。オデッサ州にあり、この州都は以前にご紹介したオデッサです。(「オデッサ(Одеса)のワイン」)ウクライナのワインについてもご紹介したことがありました。(「ウクライナのワイン文化」)

     

    イズマイールは、ヨーロッパの都市らしく最初は要塞の建設から始まりました。ただし、国家が建設したのではなく、ジェノヴァ共和国の商人が中心になって建設されたものでした。つまりそれだけ交易で重要な場所だったわけです。14世紀にはワラキアに属したこともありましたが、その後はモルダヴィアが支配しました。ところが1484年にオスマン帝国が攻めてきました。オスマン帝国の軍事的な拠点の一つとなり、新たにオスマン帝国の要塞もできました。さらに、北カフカース出身のノガイ人を定住させるようになり、民族構造が変化していきました。

     

    オスマン帝国の最大の脅威であり、ライバルだったロシア帝国は、1770年にイズマイール要塞を攻略し、街は陥落しました。このときのロシア帝国の将軍がニコライ・レプニーンでした。これに対してオスマン帝国は、ロシア帝国軍対策として、さらに徹底した要塞をつくることにしたのでした。その執念はすさまじく、絶対に2度と陥落しないという目的で、再強化されたものでした。その結果、新しい要塞は難攻不落であると評判になりました。

     

    しかし、最終的この要塞は攻略され、オスマン帝国は歴史的な敗北をしたのでした。それが1787年から始まった露土戦争の最中でのできごとでした。1790年、ロシア帝国軍のアレクサンドル・スヴォーロフ司令官により、イズマイールを急襲し、見事にそれが成功したのでした。スヴォーロフはイズマイール陥落を女帝エカチェリーナ2世に報告しました。

     

    実はこの結果は、オスマン帝国にとっては、さらなる悲劇を生みました。イズマイールに居住するムスリムたちの大量殺戮に繋がったのです。このときの犠牲者は40,000人ともいわれています。捕虜の数も数百人といわれています。
    それでもイズマイールはオスマン帝国へ返還されたものの、1809年には再びロシアが奪還しました。さらに1812年のブカレスト条約により、完全にロシア帝国領となりました。そこから都市の再建が始まりました。ロシア正教の大聖堂を始め、教会が建設され、モスクも教会に変えられました。
    そんなロシア支配が続いたものの、クリミア戦争敗北により、イズマイールはモルダヴィア公国、ドナウ公国と支配が変遷しました。そして1877年からの露土戦争により、またロシアがイズマイールを取り戻したのでした。これもロシア革命によりロシア帝国崩壊により、ルーマニア軍が占領しました。

     

    第二次世界大戦では、ソ連赤軍がイズマイールを占領し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合しました。それでもルーマニア軍の攻勢もあり、この時代にロシア人、ウクライナ人などもイズマイールに移住してきました。このような特殊な地域となり、ソ連崩壊後の1991年からはウクライナでも独立した性格の地域となっています。

     

     

  • ハンブルク 2(Erinnerungen an Hamburg 2)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハンブルク (Hamburg)の思い出について勝手に語る第2回です。

     

     

    ハンブルク中央駅に降り立つと、とりあえず今日の宿に行くことにしました。チェックインには早い時間ですが、荷物は預かってくれるので、珍しく午前中から宿泊地へと向かうことになりました。ハンブルク在住の自称カメラマンがお勧めするユースホステルです。親切にも連れて行ってくれるとのことで、好意に甘えることにしました。ハンブルクの地下鉄で移動することになりましたが、ハンブルク中央駅の場合は、地下鉄の駅は中央駅の北口駅と南口駅があります。乗車するのはUバーン3号線なので、南口の駅になります。

     

    南口駅から5駅でランドゥングブリュッケン(Landungsbrücken)駅へ移動しました。ここはノイシュタット(Neustadt)地域で港にも近い場所です。埠頭だけでなくレストランやカフェもあります。ここから丘を登った先にユースホステルはあります。ユーゲントヘアベルゲ・ハンブルク・アウフ・デム・シュティントファンというホステルで、港を一望できます。港としては巨大なのがよくわかりますが、海ではなくエルベ川の港というのが驚きでした。日本では河川の巨大な港というのは想像できないものだったので、かなり感動しました。思えば、ここで見た光景こそがハンブルクに魅入られる契機だったかもしれません。

     

     

    ホステルはやはりチェックインできる時間には早かったため、荷物を預かってもらい、早速周辺の散策に出ました。カメラマンと一緒に食事をしてから別れ、一人で埠頭の周辺を歩きました。潮風のない港は穏やかでした。ただこのときはホステルの裏側には行かず、ただ緑が広がっているのを確認しただけでした。
    この樹木に囲まれた地域に足を踏み入れたのは夜になってからでした。木々が生い茂る場所は、外灯の光も届かず、森の中を歩いている気分でした。少し開けた場所に行くと、何者かの像があるのに気づきます。暗いのでよくわかりませんが、あとで調べるとビスマルクでした。彼はドイツ統一の中心人物で、「鉄血宰相(Eiserne Kanzler)」の異名を持っています。正式にはオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen)といい、彼がいなければ現在のドイツはなかったともいえます。

     

    このビスマルク記念碑を抜けると、「世界で一番罪深い1マイル」といわれるレーパーバーンに至りました。

     

     

  • セボルガ公国(Principato di Seborga)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はセボルガ公国(Principato di Seborga)について勝手に語ります。

     

     

    セボルガ公国(Principato di Seborga)といっても、おそらくほとんどの人が知らないかと思います。人口がわずかに約320人のミクロネーション(Micronation)です。要するに自称独立国です。場所はイタリア北西部で、サンレーモ(Sanremo)から約7km、モナコ公国(Principauté de Monaco)から約24kmの位置になります。山間部で、標高は約517mです。

     

    ただ、自称国家ではありますが、中世には公爵領であったことから、それゆえに公国だと名乗っているのが特徴ともいえます。現在は正式にはイタリア共和国の領土ですが、この編入過程に疑義があるとして、1963年にイタリアから「独立宣言」をしました。当然ながら諸外国から承認されず、イタリア政府との間でも問題になっていません。イタリア政府から見ればセボルガ村でしかないことになります。

     

    この地域はもともとヴェンティミーリア伯領地でした。しかし、ヴェンティミーリア伯は、この地域をレリノ修道院(Lérins Abbey)に寄進しました。このレリノ修道院というのは、現在のフランス領にあるレランス島に設立されたベネディクト会の修道院でした。そのため、セボルガ周辺地域は、領主がレリノ修道院長となったのでした。ところが、1079年に修道院長が神聖ローマ帝国から公爵 (Principe-abate) に叙せられたのでした。そのため、セボルガは修道院長領であると同時に公爵領でもあることになったわけです。独立の理由のひとつに、この歴史的な事実として公爵領、つまり公国であるということは、これに基づいています。

     

    これが変化したのはベネディクト会の改革運動でした。ベネディクト会からシトー会が結成され、セボルガを所有することになったのでした。これは約600年も続きました。1729年になると、サルデーニャ王のヴィットーリオ・アメデーオ2世がこの地域を購入しました。さらに1748年のアーヘンの和約では、セボルガはジェノヴァ共和国にへと譲渡されることになりました。このジェノヴァ共和国は1814年のウィーン会議によってサルデーニャ王国に併合されました。さらに1861年にはサルデーニャ王国からイタリア王国が建国されたのでした。

     

     

    公国という地位が未だ失われていないことが根拠となっているわけですが、一般的には1729年にサルデーニャ王のヴィットーリオ・アメデーオ2世が購入したことで失われたとされています。売買と公国の地位とは関係ないとの立場で、公国としての独立をしたわけです。実際、ウィーン会議でもイタリア建国時にもこの公国についての言及はなく、要するに決まっていないから未だ公国であるというわけです。

     

    山間部の農業主体の「村」でしたが、「独立宣言」以降、有名になったこともあり、観光の効果客も集まるようになりました。イタリア国内だけでなく、他のEU諸国からも来るようです。

     

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