今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • 韓国人女性とワインの関係

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は韓国人女性とワインの関係について勝手に語ります。

     

     

    韓国が輸入したワインの内訳は、赤ワインが55%、白ワインが18%、スパークリングワインが27%(2019年データより)でした。韓国は、一人当たりのアルコール摂取量が世界トップレベルといわれているほどですから、かなりワインも輸入されているのだろうと思うかもしれませんが、他の酒類との割合においては、決して高いとはいえません。

     

    それでもワイン需要は確実に伸びているようで、ワイン販売の年間成長率は5~6%はあるようです。特に若い年代がワインを好む傾向にあるようで、しかも赤ワインだけが突出して多かった市場にも変化が表れ始めています。赤ワインの比率が55%ですが、もともとは63%程度だったのです。白ワイン、スパークリングワインが赤ワイン以上の伸びを示していて、その結果として赤ワイン比率が下がったようです。特にスパークリングワインの人気が顕著に伸びているようです。この10年で3~4倍もの増加です。

     

    では、韓国が輸入しているワインの生産国ですが、もともとは日本と同じようにフランスやチリが多かったといえます。特にチリは市場占有率が高く、年々成長しているようです。やはりコストパフォーマンスの良さがチリワインの魅力であり、人気の秘訣といえます。日本でもチリワインが伸びた理由と同じといえるでしょう。同じく新世界ワインとしては、オーストラリアが伸びています。ニュージーランドも絶対数はともかく、同様に伸びています。南米では他にアルゼンチン、北米ではアメリカも増加しています。

     

    新世界だけでなく、ヨーロッパからも、フランスと並ぶくらいに増加したのがスペインとイタリアです。伸び率ではスペインが20%を超えるくらいで、イタリアの場合はそこまで成長していないものの、スパークリングワインの人気が高く、今後の重要が増えるといわれています。
    やはり韓国でも、新世界ワインより伝統を誇るヨーロッパのワインのほうが価値があると思われているようです。この点も日本と同じかもしれません。

     

    韓国ではワイン需要は女性に多いといわれています。韓国の酒というと、最も知られているのは日本でいう焼酎で、サツマイモやタピオカ、穀物などの蒸留酒であるソジュです。やはり女性には焼酎よりワイングラスを傾けるほうが似合うのかもしれません。韓国の20歳以上の成人が1年間に消費するソジュの量は、一人あたりの平均が90本だという調査結果もありますが、それでもワインは女性を中心に消費が伸びているようです。

     

  • エルバ島(Elba)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエルバ島(Elba)について勝手に語ります。

     

     

    ティレニア海から西に周囲12㎞の海岸を持つエルバ島ですが、ナポレオン・ボナパルトが追放された島であることで有名です。
    実は希少なワインの産地でもあります。海風が強く、比較的高地になっていて、土壌はミネラルが豊富なことから、ブドウ栽培に最適な土地です。そのため、かつてはエルバ島こそがイタリアで最もワイン作りが盛んだった時代にあるといわれています。しかし、ワイン生産よりリゾート開発が進行していき、ワイン用のブドウ畑が縮小していくことになりました。そでも伝統のワインを守るワイナリーがあり、今では希少なワインとなっています。

     

    エルバ島には、古代より印欧語族がいたといわれています。「先印欧語(Pre-Indo-European languages)」で取り上げた民族と異なり、最初からインド・ヨーロッパ語族が定住していたようです。そこで、鉄の精錬が行われていました。これは古代ギリシアでも知られていたようです。

     

    しかし、この民族はエトルリア人(Etrusci)によって侵略されてしまいました。エトルリア人は印欧語族に属さず、言語はエトルリア語で、エトルリア文化を築いたことで知られます。かれらはローマの文化に大きな影響を与え、やがてローマと同化していきました。その古代ローマは、紀元前480年以降にエルバ島を侵略しました。
    中世にはピサ共和国(Repubblica di Pisa)がピサを首都として、事実上の独立国として成立しました。エルバ島は11世紀に支配地となりました。このピサ共和国は1406年まで続きましたが、1398年にミラノのヴィスコンティ家へ売却されました。その後、ピオンビーノ(Piombino)の支配下となりました。このピオンビーノは、対岸のイタリア半島に位置しています。

     

    1544年になると海賊に襲われました。この海賊は北アフリカのバルバリア海賊(Barbary pirates)でした。北アフリカや中東のイスラム市場にキリスト教徒の奴隷送ることを目的にしつつ、海岸にある町や村を襲って略奪を行っていた海賊でした。エルバ島は荒廃していきました。
    新たな局面を迎えたのは、メディチ家による支配後でした。このときに要塞や軍港などが建設されました。1737年にはメディチ家が断絶し、ハプスブルク家による支配となりました。そして1802年にフランス領となり、1814年にナポレオンの追放です。ナポレオンはこの島で299日間を過ごしました。

     

     

    ここは絶海の孤島ではなく、イタリアのピオンビーノ港から、エルバ島のポルトフェライオ(Portoferraio)港まで、フェリーでわずかに1時間程度で行けます。

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 12

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第12回になります。

     

     

    前回の第11回は、古代ローマを取り上げ、ポエニ戦争によるローマの勝利により、古代の地中海文明が、ヨーロッパの文明へと移ったことまでを記しました。今回は第10回と関連して、鉄道の実践的な情報をご紹介します。

     

    ヨーロッパの主要都市には日本と同じように地下鉄が走っているので、都市部の移動には便利といえます。それだけでなく路面電車やバスと組み合わせることもできるので、ヨーロッパの大都市では、この組み合わせを攻略できれば、自由に都市内を移動できるともいえます。切符の買い方、乗車料金など、慣れないとよくわからないことも多くあるでしょう。そこで、ドイツを例にした電車での都市移動方法をまとめてみます。

     

    その前に日本を考えてみましょう。例えば東京では、都心部にJR、地下鉄のメトロと都営、郊外に向けては各私鉄が走っています。それぞれの路線によって切符の種類が異なります。JRの切符では地下鉄も私鉄も乗れません。東京在住者から見れば、当たり前の話で、特段、不便を感じることはないかもしれません。しかし、初めて東京を訪れる外国人からすれば、かなり厄介なものに感じるかもしれません。このようなことがドイツの都市にはありませんん。都市内の交通機関であれば、地下鉄だろうと、バスだろうと、同じ乗車券で利用することができるのです。これは結構便利です。

     

    では、ドイツの都市交通での乗車料金はどうなっているでしょうか。日本のように各運営会社で分かれていませんし、鉄道からバスへ乗り換えても新たに乗車料金が必要になりません。つまり行先の区間によって料金が分けられているのです。例えばベルリンならば、ABCの三つの区間があり、A区間からA区間へ行く料金、B区間、C区間へ行く料金などなどです。ベルリンの場合、廃止になるテーゲル空港はB区間、中央駅などの中心部はA区間になりますので、AB区間の乗車フリーの切符を購入すれば、かなり使い勝手が良いといえます。ポツダムまで行くのであればC区間が必要になります。新しいベルリンの空の玄関口となったベルリン・ブランデンブルク国際空港もC区間になります。

     

    次に切符の種類についてです。
    まず、最も一般的なのが、打刻から片道2時間有効な片道切符(Einzelfahrschein)です。自動券売機で購入して、打刻する機器がありますので、そこで打刻します。そうすると乗車駅名と打刻時間がスタンプされます。これを使うと2時間以内であれば途中下車して次の駅へ移動するなどができます。しかし、行先と反対方向へは行ってはいけません。
    次に1日切符(Tageskarte)です。旅行者にはこれが最も便利ですし、経済的です。これは打刻から24時間、指定した区間内であれば、どこでも、何回でも乗り降り自由な乗車券になります。ABCすべての区間の1日切符を購入すれば、空港からベルリン中心部、ポツダムまで自由に乗り降りできます。
    最後に回数券(4-Fahrten-Karte)があります。片道切符が4枚綴りとなっています。片道切符を4枚買うよりもこの回数券のほうが安くなりっています。

     

    改札はありません。そのため切符を購入しないで電車に乗ることも不可能ではないのですが、これはお勧めできません。犯罪であるのは事実ですし、私服の検札官による抜き打ちの車内検札があるからです。もし、このときに切符がなかった場合、罰金が40ユーロとなります。注意すべきは、切符を持っていても、打刻をしていなくても同じように罰金となります。

     

    ここまではドイツの例で、これがイギリス、例えばロンドンとなると、区間による料金制は同じですが、改札があるのが異なる点になります。日本人には、このほうが違和感ないでしょう。

     

  • ギャンジャ(Gəncə)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はギャンジャ(Gəncə)について勝手に語ります。

     

     

    アゼルバイジャン共和国で、首都バクーに次ぐ第2の都市がギャンジャ(Gəncə)です。人口は約30万人です。バクーについては以前に取り上げたことがあります。(「シルヴァンシャー宮殿と乙女の塔」)

     

    ギャンジャが都市として建設されたのは5世紀ごろといわれています。周辺地域の商業や文化の中心地として発展してきました。しかし1139年に地震の被害にあい、さらに1231年にはモンゴル軍の侵入により、都市としては衰退していきました。
    復興したのはイスラム王朝のサファヴィー朝の時代でした。アッバース大王と称される第5代のアッバース1世にちなんで、都市名がアッバサバード(Abbasabad)と改称されました。さらにその後はギャンジャ・ハン国の首都となりました。

     

    サファヴィー朝時代はオスマン帝国やロシア帝国の影響を多く受けていました。その後の19世紀になってからは、ペルシャ王のファトフ・アリー・シャーとロシア皇帝のアレクサンドル1世のそれぞれの思惑からロシア・ペルシャ戦争が勃発しました。この戦争でロシアが勝利し、 1813年にはゴレスターン条約によってギャンジャはロシア帝国に併合されました。今度はアレクサンドル1世の妻エリザベータにちなんでエリザヴェトポリ(Елизаветполь)という都市名に改称されました。

     

    ロシア統治下の時代が続きましたが、1918年になるとアゼリー人民族主義者たちにより、ロシアの十月革命後の混乱を縫ってアゼルバイジャン民主共和国を打ち立てました。しかし、イギリス軍が占領し、赤軍がバクーへと侵攻してきました。ソビエト政権の成立により、バクーが支配されたことで、アゼルバイジャン民主共和国の首都がエリザヴェトポリになりました。1918年になってバクーの奪還となり、1920年にソヴィエト支配とあんると、エリザヴェトポリはギャンジャに戻されました。そして1922年にはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の一部となり、さらに1936年からはアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国となりました。

     

    1935年になると、スターリンにより革命家のセルゲイ・キーロフにちなんで都市名をギャンジャからキロヴァバード(Кировабад)と改称しました。これも1991年のアゼルバイジャン独立によって、ギャンジャに戻されました。

     

     

    また、このギャンジャは、詩人のニザーミー・ギャンジャヴィー(Nizami Gəncəvi)が誕生した地です。彼は10世紀から15世紀末にかけての活躍した詩人です。ペルシア語文学古典時で最も有名な詩人のひとりといわれています。ペルシア語ロマンス叙事詩で、恋愛や悲恋を扱い、さらに神秘主義詩の要素を織込んでいました。まさに独自の境地を開拓した詩人でした。

     

  • ファドゥーツ(Vaduz)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はファドゥーツ(Vaduz)について勝手に語ります。

     

     

    以前にリヒテンシュタイン公国(Fürstentum Liechtenstein)を紹介した(リヒテンシュタイン公のワイン)ことがありましたが、今回はその首都であるファドゥーツ(Vaduz)へご案内します。コロナ禍の今、せめてこのブログの中でも知られざる都市へと向かいたいと思います。

     

    スイスとオーストリアに囲まれたミニ国家であるリヒテンシュタイン公国は、神聖ローマ帝国解体後に主権独立国家となりました。その首都がファドゥーツ(Vaduz)です。レティコン山塊の北西麓にあり、住民はドイツ系アレマン人が中心です。首都とはいっても人口はわずかに5千人程度です。飛び地も多く、日本人から見るとわかりにくい都市といえます。
    首都でありながら市域内に空港や鉄道の駅はありません。そのため主要交通機関はバスになります。実際にはシャーン・ファードゥツ駅(Bahnhof Schaan-Vaduz)というのがありますが、鉄道の駅で最も近いのはスイスのゼーフェレン駅で、停車列車も多くなっています。

     

    ファドゥーツといえば、何といってもファドゥーツ城(Schloß Vaduz)です。リヒテンシュタイン公の官邸となっています。そのため、城にはリヒテンシュタイン家が居住していて、観光目的のための一般公開はされていません。この城の創建は12世紀頃といわれています。建設したのはサルガンス伯爵といわれていますが、実は詳細がよくわかっていません。城には聖アンナ礼拝堂があり、後期ゴシック様式で、中世の建築と推定されています。
    リヒテンシュタイン家が所有するようになったのは、ファドゥーツの伯爵の地位を得た1712年です。このときに城も取得しました。
    20世紀になってからは、城は大規模な修復が2度行われました。また、フランツ・ヨーゼフ2世は城の拡張も行いました。

     

    リヒテンシュタイン家は、ファドゥーツ伯領を購入する前にも1699年にはシェレンベルク男爵領を得ています。これは神聖ローマ帝国議会の議席の条件となる所領を求めたことによります。これにおって、神聖ローマ皇帝のカール6世により領邦国家に公認されました。正式に首都となったのは1938年で、ヨーゼフ2世がファドゥーツの城に移ったことによりました。

     

     

    リヒテンシュタイン公国はミニ国家であり、首都のファドゥーツも小規模な都市です。しかし、リヒテンシュタイン家は国外に所有地を多く持っていて、公国の領土よりはるかに広い面積を有しています。そのため、国外の所有地の生む財力が背景にあります。しかも、リヒテンシュタイン家は公国からの歳費が支給されていないため、経済的な完全自立状態になっています。これは、もともとがリヒテンシュタイン家の財産は公国のものではなく、神聖ローマ帝国のハプスブルク家の重臣として蓄積されたものだからです。
    また、現在の君主はハンス・アダム2世ですが、オーストリアの国籍も有しています。これは日本人には理解できないことかもしれません。

     

  • ガルフ諸島(Gulf Islands)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はガルフ諸島(Gulf Islands)について勝手に語ります。

     

     

    カナダのガルフ諸島(Gulf Islands)は、カナダブリティッシュコロンビア州の太平洋沿岸地域とバンクーバー島の間にあります。ジョージア海峡に点在する島々です。ブリティッシュコロンビア州を代表する5つのワイン産地の一つです。
    ガルフ諸島は二つに分けられ。サザンガルフ諸島とノーザンガルフ諸島になります。2つの境界線は、バンクーバー島のナナイモと本土側のフレーザー川河口部を結ぶ線になっています。

     

    南側のサザンガルフ諸島の場合、アメリカとの国境に位置していて、アメリカのサンファン諸島と一つの群島を形成しています。 ジョージア海峡付近の気候は、ブドウだけでなく果樹栽培に適していて、1800年代後半から増加していき、ワイナリーもそれに伴って増えています。

     

     

    ガルフ諸島の中で最も面積が大きく、人口も多いのがソルトスプリング島(Saltspring Island)です。島の北端にある冷水の食塩泉が由来で命名されたようです。命名者はハドソン湾会社の社員だったそうです。ここではピノノワールやピノグリ、ゲヴェルツトラミネール、リースリング、シャルドネ等が栽培されています。
    同じようにガブリオラ島、ペンダー島、サトゥーナ島、クアドラ島、 ボウエン島などでもブドウ栽培が盛んです。
    この中のペンダー島(Pender Island)は、バンクーバーとビクトリアのほぼ中間に位置し、多くの洞窟があるので知られています。農地も広く、森は起伏に富んだ丘に続いています。湖も多く、海側にはきれいなビーチもあります。実はこの島は厳密には南北に分かれています。ノースペンダー島とサウスペンダー島です。これは自然に分かれたわけではなく、1903年に運河をつくったことで、二島に分断されたからです。1955年になって二島を結ぶ橋が建設され、かつてのように往来ができるようになりました。
    ボウエン島(District of Bowen Island)は、ヨットハーバーや別荘がある島です。そのため、夏になると多くの別荘利用者が訪れます。キャンプ場も多いのが特徴です。

     

    バンクーバーから近いこともあり、気軽に行ける島々です。
    新型コロナウイルスが収束し、バカンスでこんな島々を訪れ、ワインを飲める日は、いつ訪れるだろうか、と、思ってしまいます。

     

  • ニュルンベルク(Nürnberg)3

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニュルンベルク(Nürnberg)の思い出について勝手に語る第3回です。

     

     

    ニュルンベルク(Nürnberg)のブラートヴルストホイスレ(Bratwursthäusle)で見かけた彼女は、フォイヒトヴァンゲン(Feuchtwangen)で知り合ったときより、かなり地味な印象でした。たまたまビールのお代わりを頼もうと、店員の姿を確認していたときに、その姿が視界に入りました。思わず声をかけました。しかし、その一瞬後には後悔しました。一人で来ているとは限らす、むしろ誰かと来店している可能性が高いといえます。もしデート中だったら、とんでもない邪魔だと思ったわけです。

     

    彼女が視線をあわせ、一瞬だけ訝しい表情をしたあと、すぐに笑顔になりました。思い出すのに少し時間を要したようです。わざわざ席を立ち、こちらへと近づいてくれました。久しぶり、というありきたりな挨拶をしたものの、彼女はこちらの名前までは思い出せないようでした。日本人の名前など、なじみがないのが当然なので、別段、ショックではありませんでした。覚えていてくれただけでうれしいものです。
    聞けば、同僚と食事をしているようでした。一度、そのテーブルに戻り、二言三言声をかけたあと、ビールのジョッキを持って、こちらのテーブルに移ってきてくれました。

     

    3年近く前、しかも一度しか会っていない人ですが、お互いに強烈なイメージだったのか、純粋に再会を喜ぶことができました。ドイツの再統一直前に再び会えたことになりますが、お互いのフォイヒトヴァンゲン以降の話に花が咲きました。
    彼女はブレーメン芸術大学を出た後、ニュルンベルク美術館(Kunsthalle Nürnberg)に関連する職場で働いているとのことでした。この美術館は1967年に、市内中心部に設立された市立美術館です。行ったことはありませんが、芸術大学出身者が働くことは容易に想像できます。ここに通勤するなら、彼女の出身地のアンスバッハ(Ansbach)からでも無理のない距離といえます。しかし、彼女はニュルンベルクの隣町のフュルト(Fürth)で一人暮らしをしているとのことでした。フュルトはカイザーブルク城の北北西の位置にあり、ニュルンベルクと同一都市圏を形成しています。環状線の「4R」からフュルト通りの8号線に出れば、クルマでも数十分です。確か記憶によればモスクもある街だったはずです。後で調べてみると正しくて、1977年以降にできたモスクで、市内のシュヴァーバッハー通りにあります。トルコ協会による運営されているので、トルコ人の多いドイツならではといえます。

     

     

    今思い出しても、この日の再会は楽しいものでした。
    利害関係の全くなく、お互いの人脈も交差しない相手なので、異国の地で単純に楽しめる会話と、大好きなニュルンベルガー・ローストブラートヴルスト(Nürnberger Rostbratwurst)にビールです。

     

    この何でもない再会の場所がニュルンベルクだったことで、この街の思い出は、カイザーブルク城などの観光要素より強いものになりました。
    よくよく考えると、バイエルン生まれの彼女でしたが、訛りがあまりなく、特に「s」+「母音」の発音も濁っていました。これが心地よいドイツ語に聞こえたことで、より好印象を持ったかもしれません。日本語のように自由に使いこなせるレベルのドイツ語であれば、また違っていたかもしれませんが、その当時は、この地方でそのようなドイツ語を聞くだけでうれしかったきもします。何とも単純なものです。

     

  • ラ・パルマ(La Palma)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラ・パルマ(La Palma)について勝手に語ります。

     

     

    大西洋アフリカ沖にあるカナリア諸島の中で西北端に位置するのがラ・パルマ(La Palma)です。アフリカ沖ですが、スペイン領で、行政上はサンタ・クルス・デ・テネリフェ県に属しています。人口は約85,000人の火山島です。D.O.に認定されていて、ラ・パルマ島全体を包括して生産地としています。地域は「ホヨ・デ・マソ」・「フエンカリエンテ」・「ノルテ・デ・パルマ」の2つに分かれています。

     

    島の形はクサビ形で、その長さは47kmに及びます。火山が2つあり、北側のケンブレビエハ火山は標高2,426mで、火口壁が急になっています。南西側には崩壊した跡が残っています。ノルテ・デ・パルマは島の北部にあり、標高は100~1500mです。火山の影響はあるでしょうが、豊穣な土壌でブドウが生育しています。
    南側には標高1,949mの火山があり、実はこれがカナリア諸島でもっとも活発な火山の1つです。この南東部にあたるホヨ・デ・マソは、標高が200~700mの地域で、火山灰や火山岩性の土壌です。南西部のフエンカリエンテは、標高200~1400mで、急斜面は火山灰に覆われ、そこにブドウ畑が広がっています。

     

    まさに火山とともにある島ですが、この火山体は125,000年前ごろから活動を始めたといわれています。過去に多くの火山活動があり、溶岩流が急な斜面を海に向かって急激に流れ落ちてきました。文字として記録に残る噴火で最古のものは、15世紀でした。噴火と溶岩流により、多くの被害が出たとあります。

     

    ちなみにですが、この火山が噴火し、しかも山体崩壊を起こすような規模だった場合には、巨大な津波が発生すると予想されています。この津波はアフリカとは反対側のアメリカ東海岸にも及び、大西洋岸各地を襲うといわれています。

     

     

    ラ・パルマ島は、カナリア諸島の中で最も緑や水が豊かといわれ、火山による恩恵で肥沃な土壌を持っています。スペイン領とはいえ、アフリカ沖なので、気候は亜熱帯性ですが、比較的穏やかな気候であり、日照時間も十分にあることから、生産されるワインの品質は良質と評判です。

     

  • マリ(Mary)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマリ(Mary)について勝手に語ります。

     

     

    トルクメニスタンで4番目の規模を誇る都市がマリ(Mary)です。シルクロードのオアシス都市で、カラクム砂漠の中に位置します。ワインを飲みながら、知られざる歴史を垣間見るために、今回はこのマリを取り上げることにしました。

     

    実はあまり知られていないのですが、マリのある現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン北部のアムダリヤ川上流部などに、青銅器時代の紀元前2000年前後に栄えた文化がありました。時代的にインダス文明と時期を同じくしていて、この時代としては高度な都市文化であったとされています。そのため、四大古代文明と並ぶことから、「第五の古代文明」とも呼ばれ、これを「オクサス文明」ともすることがあるようです。
    他の文明と比べて発見されたのが遅く、そのためまだまだ研究途上です。ただ、交易が盛んだったようで、メソポタミア文明、エラム文明、インダス文明などの地域や文化との関係が注目されています。

     

    この先史文化の考古学用語としては「バクトリア・マルギアナ複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex)」といい、略称が「BMAC」になります。命名者はソ連の考古学者ヴィクトル・サリアニディで、1976年の発掘調査によるものでした。この時代は東西冷戦が激しかったこともあり、この発見は西側世界ではあまり知られませんでした。状況が変わったのがソ連崩壊後1990年代でした。そのため、どうしても知名度はまだ低いといえます。

     

    この文明は、独立した文明だとする説がある一方で、メソポタミア文明やエラム文明からの移住してきた人々により生まれたものとする説に分かれています。ただ、ガンダーラと関係するものもあったり、遊牧民のアンドロノヴォ文化との接触もあったようです。それほど交易により栄えた文化という可能性があり、その後のシルクロードを予感させる気もします。

     

    そのような古代文明の栄えていた地域から、紀元前6世紀になると、アケメネス朝ペルシャの支配下となり、すでにオアシス都市としての繁栄し始めました。メルブ遺跡がそれで、トルクメニスタン初の世界遺産に登録されました。当時、人口は100万人に達したともいわれていたほどで、仏教もで伝播したようです。

     

    これが近代になると、グレート・ゲーム(The Great Game)に巻き込まれました。これは、イギリスとロシアの中央アジアの覇権を巡る抗争です。中央アジアでの情報戦をチェスになぞらえてつけられたものです。
    1884年になると、ロシア帝国が侵攻したことでパンジェ紛争が起こりました。マルにはロシアからの入植者が入り、ロシアの軍事拠点となっていきました。これに対してイギリスとインドの軍が1918年にマリ周辺でボルシェビキ軍と対峙しました。

     

    古代文明とオアシス都市としての繁栄、ソ連とイギリスに翻弄された時代、様々な歴史の顔を持つマリは、あらためて注目すべき都市といえるでしょう。

     

  • チェリャビンスク(Челябинск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチェリャビンスク(Челябинск)について勝手に語ります。

     

     

    ウラル山脈はヨーロッパとアジアの境界となっていて、かつてはロシアの辺境の地でした。そのため、辺境の地に要塞を建設し、別民族への軍事拠点をつくることで、領土の安定を図っていました。その中の一つがチェリャビンスク(Челябинск)です。ただ、ここにシベリア鉄道を建設したことで、シベリアの開発とともに発展する都市となっていきました。その発展はすさまじく、20世紀初頭では人口がわずかに4万5千人程度でしたが、現在は113万人にまでなっています。

     

    チェリャビンスクの場合、テュルク系民族に対する軍事拠点として誕生しました。また、ピョートル3世を自称した偽皇帝でもあるエメリヤン・イヴァーノヴィチ・プガチョフ(Емелья́н Ива́нович Пугачёв)が、1774年には、ヴォルガ川とウラル山脈にまたがるほぼ全域を掌握し、政府軍との間に激しい戦闘を繰り広げました。チェリャビンスクもその一連の戦闘の舞台のひとつでもありました。

     

    ロシア革命以降は、ソ連による重工業の建設が相次ぎました。トラクター工場、冶金工場など、大工場が建ち並ぶ工業都市となり、それに伴って人口も急増していきました。それでも現在のような百万都市ほどの規模ではなく、そこまでの規模になる契機となったのが独ソ戦でした。ドイツ軍の攻撃により、ロシア西部のヨーロッパ側にあった工場が破壊されていきました。そこで、西部の大工場を疎開させるため、ウラル山脈以東で建設をすることにしたのでした。チェリャビンスクにも当然ながら大きな工場がつくられ、労働者も多数が移転してきました。さらに、強制収容所もあり、鉱山労働、道路や住宅の建設などの従事させていました。

     

    そのような発展を遂げた都市のため、20世紀より前の歴史的建造物はほぼなく、市街地の革命広場にある劇場が1903年に建設されたものとして、今でも残っています。この革命広場の近くには、古い河港もあり、繁華街もこの周辺になります。
    また、シベリア鉄道の関連で言えば、チェリャビンスクまで延伸されたのが、1892年10月25日でした。モスクワからはサマーラ経由で2,101km、ウリヤノフスク経由で1,984kmという距離があります。チェリャビンスク駅のホームは8面70線と巨大なもので、シベリア鉄道の正式な起点駅でもあります。

     

     

    空港は市街地から約18km北方にあり、市内は市電とトロリーバスが走っています。地下鉄は3路線が建設中です。ただ、建設を開始したのはソ連崩壊直後の1992年です。未だに未完成で、2025年以降の開業といわれています。この遅れは、ロシアの財政難が主な原因といわれています。
    個人的にはウラル山脈は思い出が多いといえますが、シベリア鉄道でウラル山脈を越えたときにはチェリャビンスクは知りませんでした。多くの日本人が知らない都市ともいえますが、それでも百万人以上の大都市ですから、少しは目を向けても良い気がします。

     

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