今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • 除夜の鐘

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は除夜の鐘について勝手に語ります。

     

     

    クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、初詣に行く、これが日本人の年末年始の風景といえるでしょうが、この一連の流れには、キリスト教、仏教、神道の3種類の宗教が混在したものになっています。キリスト教やイスラム教の国家では、絶対にありえない話です。日本人ならではの宗教の寛容さは、日本古来の神道がすべての宗教を受け入れてきたからともいえます。
    多くの日本人は、唯一神の宗教を信仰することに抵抗があるのか、それともすでに神道に包まれてしまったのが当然と思っているのか、そこまでは良くわかりません。ただ言えるのは、過激なイスラム教徒のテロについては、それだけの報道などでイスラム教を誤解する傾向があり、そもそも積極的に他宗教を知ろうとしていないともいえます。
    宗教は文化の一部でもありますが、島国の日本では異文化に触れる機会が少なく、自分たちの都合の良いように解釈し、それを内部へと包み込むことで安心する面があるのかもしれません。

     

    そんな日本の年末の風物詩である除夜の鐘ですが、実際に寺院で聞く人もいますが、大抵の人はテレビで中継されるのを聞きます。ワインでも飲みながら年末の気分を味わって、除夜の鐘を堪能する人もいることでしょう。
    その除夜の鐘ですが、一般的に撞かれる数は108回です。この数は煩悩の数といわれています。 108もの煩悩とは何だろうと不思議に思う人もいるでしょうが、基本となるのは六根(ṣaḍ-indriya)です。視覚能力もしくは視覚器官の「眼」・聴覚能力もしくは聴覚器官の「耳」、嗅覚能力もしくは嗅覚器官の「鼻」、味覚能力もしくは味覚器官の「舌」、触覚能力もしくは触覚器官の「身」、知覚能力もしくは知覚器官の「意」です。ようするに五感に知覚を加えたものです。
    この感覚機能には、それぞれに「好」、「悪」、「平」があり、6×3=18となります。さらにこの18種類に「浄」、「染」があるので、18×2=36となります。この36は、「前世」、「今世」、「来世」にそれぞれあるので、36×3=108となります。これが人間の煩悩の数となるわけです。

     

    また、108回には別の説もあります。12か月の12、二十四節気の24、七十二候の72を足すと108となります。つまり1年間を表すというものです。
    ちなみに韓国でも大晦日に鐘を撞く習慣がありますが、回数は33回です。108回ではありません。煩悩ではなく忉利天に由来するといわれています。これは欲界における六欲天の第2の天で、三十三天というものなので、この数だけ鐘を撞くわけです。

     

    2020年は新型コロナウイルスの拡大により、いつもの年とは異なる年末年始となりました。
    せめて除夜の鐘で煩悩を消し去るとともに、コロナ禍から脱することを願います。来年は感染対策を気にすることなく、自由にワインを楽しめるようになりたいものです。
    今年もお世話になりました。来年もプレゼント用ワインの専門店シエル・エ・ヴァンをよろしくお願い致します。

     

  • コルドバ(Córdoba)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコルドバ(Córdoba)について勝手に語ります。

     

     

    スペインのアンダルシア州(Andalucía)は南部に位置し、西はポルトガルに接しています。すぐ南側はジブラルタル海峡や地中海、大西洋です。スペインと言えばイメージされる、フラメンコや闘牛などもアンダルシア州が発祥地です。歴史的にも、キリスト教だけでなく、イスラム教、ユダヤ教の影響を受けてきた地域です。このアンダルシア州にあるコルドバ県のが県都がコルドバ(Córdoba)です。スペインを代表するワイン産地にある都市のひとつです。

     

    コルドバの歴史は古代ローマ時代にまで遡ります。ローマの属州でヒスパーニア・バエティカ(Hispania Baetica)の首都でした。ローマが侵出する以前まではケルト系の部族がいくつか居住する程度で、都市などは当然ありませんでした。ただ、地中海の沿岸部にはフェニキア人が進出していて、内陸部のコルドバは単なる集落でしかありませんでした。ただし、この時代から現在のアンダルシア州はワインやオリーブの生産地でもありました。
    第二次ポエニ戦争後にローマが属州としました。紀元前14年にアウグストゥスのローマ領再編により、イベリア半島の属州は3分割されることになり、ヒスパーニア・バエティカとなり、州都がコルドバになったのでした。

     

    帝政ローマの時代になると、ヒスパーニア・バエティカはローマの中でも裕福な属州のひとつとなりました。しかも安全性が高い地域だったことから、軍隊の駐留はありませんでした。「投票権なしのローマ市民権」まで与えられるようになりました。しかし、409年になると、ヴァンダル族に蹂躙されてしまい、ローマの属州ではなくなりました。

     

    ローマ帝国の属州以降は、西ゴート王国が支配し、6世紀には東ローマ帝国の領土となりました。しかし、何といっても711年にイスラム教徒に支配されたことが歴史的には大きなことでした。756年には後ウマイヤ朝となり、コルドバが首都となりました。市内にはモスクが建てられ、ヨーロッパのイスラム文化の中心的都市になっていきました。
    もともとこの後ウマイヤ朝とは、750年のアッバース革命でウマイヤ朝を滅亡したものの、ウマイヤ家の王族アブド・アッラフマーン1世がただ一人生き残ったことに始まります。彼はアフリカ大陸に逃れ、アフリカ西北部のベルベル人に保護されました。ここでウマイヤ朝再興の足がかりを築き、ジブラルタル海峡を越え、コルドバにウマイヤ朝を再興したのでした。イスラム文化によりコルドバは洗練した文化都市に発展していきました。また、コルドバはアラビア語でアル=アンダルスと呼ばれるようになりました。

     

    13世紀になると、レコンキスタが激しくなり、キリスト教の諸国が攻めてきました。コルドバもその波に飲まれました。イスラム王朝としては、グラナダを都とするナスル朝だけが残りましたが、1492年にはグラナダも陥落し、スペイン王国に統一されるようになりました。
    このレコンキスタは、大土地所有制が広がることに繋がりました。また、次の時代の新大陸発見以降では、アメリカにあるスペインの植民地への出発地となりました。そのため、中南米で話されているスペイン語は、アンダルシーア方言と共通の特徴が多くみられるといいます。

     

     

    コルドバには多くのワインがあります。
    イスラム教とキリスト教の闘争が激しかった地で生産される良質なワインです。ぜひとも、このような背景を知った上で味わって頂きたいものです。

     

  • ベルガマ(Bergama)・ペルガモン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はベルガマ(Bergama)・ペルガモンについて勝手に語ります。

     

     

    ベルリンにあるペルガモン博物館 (Pergamonmuseum) は、ベルリン市内を流れるシュプレー川の中洲になっている博物館島にあります。館名の由来になっているのは「ペルガモンの大祭壇」で、ギリシャ、ローマ、中近東のヘレニズム美術品、イスラム美術品などが展示されています。
    受付の人の不愛想な対応は、いかにも東側世界の印象を持ちましたが、考えてみれば再統一して30年が経過するので、おそらくたまたまだったのかもしれません。そんな思い出のあるペルガモン博物館ですが、考えてみるとペルガモンの正確な位置を知りませんでした。年の瀬ではありますが、翌年に持ち越したくない気がして調べてみました。もちろん、ワインを飲みながらです。

     

    現在はペルガモンではなく、ベルガマ(Bergama)という都市名になっていて、トルコ共和国のイズミル県(İzmir)の北部に位置しています。イズミルについては以前に取り上げたことがありました。「エーゲ海に浮かぶ真珠イズミル(İzmir)
    ペルガモンは、アナトリア西部に紀元前282年から紀元前133年まで存在したアッタロス朝(Attalid dynasty)の都で、ヘレニズム時代に繁栄した都市でした。公用語はギリシア語でした。

     

    アッタロス朝は紀元前263年にエウメネス1世が王になると、古代エジプトのプトレマイオス朝を後ろ盾にして、アンティオコスに進軍しました。その結果、セレウコス朝からの独立を実現できました。さらに紀元前241年にアッタロス1世が王位を継承すると、今度はガラティア人との戦争に勝利し、次にアンティオコス・ヒエラクス、セレウコス3世との戦争にも勝利しました、これにより小アジアでの領土が拡大しました。
    第二次マケドニア戦争の際には、共和政ローマとマケドニアのアンティゴノス朝で戦争が起きたわけですが、アッタロス朝はローマ側に加わりました。

     

    アッタロス朝はローマとの友好関係は続けられ、領土も小アジアの大部分が支配地域になりました。
    紀元前133年にはアッタロス朝のアッタロス3世が死去した際に、遺書が王国をローマに委ねるという内容でした。これに対して、アリストニコスが王位を求めて反乱を起こし、これをローマ軍が鎮圧たことで、アッタロス朝の領土はローマに帰属するようになり、アッタロス朝は終焉を迎えました。

     

    ペルガモンの外港にはエライアとエフェソスがあり、このエフェソスとともにペルガモンは、この地域に中心都市となっていました。今ではトルコの地方都市でしかありませんが、かつての栄華は確実にここにあったのです。

     

     

    ベルリンのペルガモン博物館には再度、訪れてみたいという気持ちはありますが、コロナ禍の現在、そういうわけにはいきません。早く自由に渡航できるようになって欲しいものです。

     

  • ポヤ・デー(Poya day)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はポヤ・デー(Poya day)について勝手に語ります。

     

     

    今年は新型コロナウイルスの影響を受けた年末年始になりますが、通常だとこの時期は1年で最も酒量が多くなります。そこで、あえてポヤ・デー(Poya day)を取り上げることにします。
    このポヤ・デーとは、スリランカで満月の日の祝日のことです。そのため毎月あります。この日は仏教寺院に行き、半日以上を過ごし、仏への信仰を新たにするというものです。そのためポヤ・デーの日は商業施設が休みになり、必然的に酒類の販売も禁止となり、飲めなくなることになります。

     

    日本も仏教国といえるかもしれませんが、このようなポヤ・デーはありません。スリランカの場合は、憲法の第9条に仏教に「第一の地位」を与えると明記されているほどですが、国教という扱いではありません。 また、日本の仏教とは異なり、いわゆる南伝仏教と呼ばれるものです。パーリ語経典を奉じる上座部仏教で、スリランカだけでなくミャンマーやタイなどの東南アジアに普及した仏教です。中国経由で伝来した日本の仏教とは大きく異なるわけです。

     

    この流れの仏教は、インドから直接スリランカへ伝来したといわれます。その時期は古く、紀元前3世紀頃のようです。インドのアショーカ王の王子のマヒンダから伝わったという伝説があり、その後に三派に分かれました。大寺派がもとで、は紀元前1世紀から4世紀にかけて二派が分派しました。無畏山寺派と祇多林寺派で、この三派鼎立の時代となりました。
    他の宗教と同じように宗教紛争もありました。4世紀に起きたのは、大寺派と無畏山寺派の間で起きました。この結果、大寺派が敗れました。しかし、無畏山寺派が勝利したともいえず、最終的に無畏山寺派の僧侶たちも追放されたといわれています。ただ、この真偽は分かりません。

     

    基本的に無畏山寺派と祇多林寺派は、中国へ渡った大乗仏教や密教をも受容していきましたが、大寺派ではあくまで本来の伝来の延長上にいました。5世紀にはインドからブッダゴーサ(仏音、覚音)が訪れ、パーリ語経典に注釈を加え、大乗仏教的な要素などは完全に排除されていました。
    スリランカの王だったパラッカマバーフ1世は、12世紀に入ると、大寺派を正統としました。三派鼎立の時代が終わり、二派については弾圧されていきまし。そこでスリランカの仏教は大寺派に統一されたのでした。この流れは現在まで続いていて、スリランカでは大乗仏教は途絶えています。唯一残るものは寺院の遺跡だけになっています。

     

    それだけ仏教と関係の深い国ですが、一時期、仏教が衰えた時期がありました。それが16世紀以降のヨーロッパ列強の進出時期でした。ポルトガル、オランダ、イギリスが植民地政策により進出し、この時期は仏教が衰えていきました。
    これが仏教復興へと動いたのは19世紀のイギリス植民地時代でした。スリランカでナショナリズムが興隆となり、シンハラ仏教ナショナリズムが誕生しました。ただこれは、後にタミル人と対立する構図を生むことになりましたが、仏教復興への足掛かりとしては大きなことでした。
    独立はセイロンという国名で実現し、その一方でタミル人との対立による政治的・武力的対立が内戦にまで発展しました。このスリランカ内戦については、宗教戦争という見方もあります。

     

    仏教の祝日であるポヤ・デーという習慣は、同じ仏教国でありながら日本では縁がありませんが、禁酒をする日だと思えば、それはそれで良い習慣かもしれません。

     

  • ザールブルク(Saarburg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はザールブルク(Saarburg)について勝手に語ります。

     

     

    ブドウのリースリング(Riesling)と言えば、ドイツを代表する白ワイン用品種で、世界では約5万ヘクタール程度の栽培面積をもっています。そのリースリングの栽培地といえばモーゼル川の流域です。そのモーゼル川とザール川が合流する地点の上流で、ザール川のほとりの丘陵地帯にあるのがザールブルク(Saarburg)です。人口は7千人程度の小さな町です。

     

    日本ではリースリングを品種とするモーゼルワインは多く輸入されていますが、このザールブルクについてはほとんど知る人はいないでしょう。ただここには先史時代から人が定住していたといわれています。ただ歴史学のみかたからすれば、ザールブルクはこの地に城が建設されたことから始まったといえます。それは964年のことで、アルデンヌ伯ジークフリート(Siegfried)がこの地の丘に城を建設することになったことでした。この城はドイツ西部では、最も古い丘の上の城の1つになっています。)を建設することでした。今では廃墟と化した城ですが、この城はトリアー大司教が優先的に居住する城であり、以降、長年にわたって構造が変更されたり、破壊されても繰り返し修理されてきたものでした。また、1291年には都市権を得ることができました。

     

    これが16世紀になると、カトリックとプロテスタントとの宗教戦争が繰り返されるようになり、ザールブルクは要塞としての戦略的重要性が高まりました。武力紛争の舞台となり、要塞化された城を囲む山の尾根には、多くの悲劇的な戦いがあり、犠牲者の数も多くいました。これが1756年以降になると、城の重要性が低下し、衰退するようになりました。

     

    ザールブルクは現在のルクセンブルクやフランスに近いことから、ライン川左岸の領有権の問題にも関係してきました。これは近代から現代にも大きく関係し、第二次世界大戦のときには、中心部の建物が壊滅的に破壊されました。1946年には、フランスの占領地域から分離していたザールランドに併合されました。しかし翌年、フランスの占領は自治体に撤回されました。これにより、ザールブルクは新たに形成されたラインランド-パラティナーテ州に入りました。
    それでもフランス軍の駐屯は続いていましたが、2010年にようやく終了しました。

     

    日本では観光ガイドに掲載されないでしょうが、ザールブルクには見どころが多くあります。
    まず旧市街全体が魅力的です。狭い範囲に集中した旧市街地は、それだけで興味深いといえます。城の複合施設としての市街地であり、廃墟と自然とかつての栄華とが混在しています。
    ザール川の対岸にあるビューリグ地区には、聖マリエンの教区と巡礼の教会があります。聖母マリア信仰を時間できる場所です。
    美術館も多くあり、そして何よりワイナリーです。毎年9月にはザールワインフェスティバルがあり、ザールブルクで最大のイベントになっています。

     

     

  • サンタマリア(Santa Maria)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンタマリア(Santa Maria)について勝手に語ります。

     

     

    サンタマリア(Santa Maria)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州中部サンタバーバラ郡にある都市です。人口は約10万人で、郡内では最大の都市です。隣接するロムポック、ロスアラモス、サンタイネス・バレーとともにアメリカでは最大級のワイン生産地帯となっています。サンタバーバラ・ワインカントリーです。サンタマリアのワイン生産地であるサンタマリア・バレーはサンタバーバラ郡の北端に位置し、アメリカワイン産地としては最初に認定されました。土壌も気候も複雑な地域で、太平洋の恩恵により高品質なワインを生産しています。特にブドウ品種ではシャルドネとピノ・ノワールが代表品種になっています。現在はサンタマリア・バレーの名称は、サンタバーバラだけでなく、かなり遠い醸造所のラベルでも使われるようになっています。そのため、サンタマリア・バレーという原産地の範囲は広くなり、サンラファエル山脈とロスパドレス国立の森、西のソロモン丘陵とサンタマリア市になっています。

     

    もともとサンタマリア・バレーはチュマシュ族インディアンの住む地域でした。居住地域は丘陵斜面と、サンタマリア川岸や海浜地域でした。そんな場所へヨーロッパから植民地化するために訪れました。1769年にはスペインのガスパル・デ・ポルトラの遠征隊が通過しました。このときの目的地はモントレー湾でした。その途中にサンタマリア・バレーを通過したのでした。伝道という意味では、北部には1772年のサンルイスオビスポ・デ・トロサ伝道所、南部には1787年にのラ・プリシマ・コンセプション伝道所が設立されました。しかし、1821年にメキシコ独立戦争(Independencia de México)が起き、その後にスペインはこの地を離れることになりました。そのため、サンタマリア・バレーの伝道所はメキシコの特許土地となりました。
    このメキシコ独立戦争ですが、これは最終的に意外な組み合わせで展開しました。政教分離、自由主義のリベラル派(liberales)と、カトリックや身分制・集権制の保守派(conservadores)が手を組んだのでした。歴史的にはかなり例外的な組み合わせといえます。これによりメキシコは独立へと至ることになりました。このような歴史的な戦争の裏側で、サンタマリアにも影響があったのは何とも興味深く思います。

     

    カリフォルニアが州としてアメリカ合衆国の一部となったのは1850年でした。それ以降、開拓者がサンタマリアへ集まりました。その理由には、サンタマリア・バレーが肥沃な土壌であったことが知られようになったからでした。これによりサンタマリア・バレーは州内最大規模の農業地帯になりました。これは現代まで続いていて、この地の農業は主要産業になっています。
    一方、都市としてのサンタマリアは、1869年からの開拓によるもので、1875年に町の地図ができました。このときはグランジャービルと呼ばれていました。次にセントラルシティと呼ばれ、サンタマリアには1885年に変更されました。この都市名は、開拓者のフアン・パシフィコ・オンティベロスが25年前に自分の資産に名付けたもので、それが由来となっています。

     

    また、ブドウをはじめとする農業とは全く別物としては、サンタマリア・バレーは石油が挙げられます。1888年に石油開発が始まりました。大規模な油田が発見されました。

     

     

  • ピノ・グリ(Pinot gris)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はピノ・グリ(Pinot gris)について勝手に語ります。

     

     

    ピノ・グリ(Pinot gris)は白ワイン用のブドウ品種ですが、ピノ・ノワール(Pinot noir)のクローン突然変異体だといわれます。世界各地で栽培されている品種で、有名なのはアルザスワイなどです。酸が少し強めのイタリア系ワインで、ニュージーランドの南島北東部に位置するマールボロ地方(Marlborough Region)、オーストラリアではタスマニア州(Tasmania)や南オーストラリア州(South Australia)など生産地です。アメリカではワシントン州(State of Washingto)、オレゴン州(State of Oregon)などで生産されています。そのため、ヨーロッパより新世界ワインで多いという傾向があります。旧世界ワインではドイツのルーレンダー (Ruländer) がこのピノ・グリになります。

     

    ピノ・グリのワインはアルコール度数は高めといえます。アロマについては幅広く、トロピカルフルーツから貴腐まであります。
    もともとはフランスのブルゴーニュ地方で知られていた品種で、中世の時代から知られていました。そのため、ピノ・ノワールとともにブルゴーニュから世界へと広まっていきました。
    まずは隣国のスイスには1300年までには伝わっていたと考えられます。この伝播には神聖ローマ帝国皇帝カール4世(Karl IV)が関係したようです。ルクセンブルク家の第2代皇帝で、モラヴィア辺境伯やルクセンブルク伯でもありました。生誕地はプラハ(Praha)だったことから、皇帝になってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれています。そんな彼がピノ・グリを気に入っていたことから、東欧への伝播に大きく関係したのです。ブルゴーニュのシトー会修道士たちを通じ、ピノ・グリの挿し木をハンガリーにもたらしました。1375年、中央ヨーロッパ最大の湖であり、「ハンガリーの海」とよばれるバラトン湖(Balaton)に隣接する地域にこのブドウの樹を植え付けさせたのでした。これが「灰色の修道士」という意味を持つスルケバラート (Szürkebarát) の名を冠するようになりました。
    このカール4世については、歴代の神聖ローマ帝国皇帝の中でも極めて冷徹な現実主義に立脚していました。そのため、神聖ローマ帝国の支配に法的根拠を基にするものにかえた人物です。これは神聖ローマ帝国内の治安体制に大きな影響を与えました。その一方で、都市の利益を図ることにより、諸侯の利益に反するとされました。諸侯に対抗する都市同盟は国内秩序を乱すものとして禁止されました。

     

    ドイツのルーレンダー (Ruländer) については、最初はピノ・グリであるとは知らず、1711年に発見されました。ヨハン・ゼーガー・ルーラントが畑に自生するブドウが新種だとして、それでワインを生産しました。そのワインの名がルーレンダーでした。ただ、この品種のブドウの収穫量は多くなく、収穫できる数も安定しないことから、やがて人気は下火になりました。これはブルゴーニュでも同様でした。
    これが大きく変化したのは20世紀になってからでした。育種家たちにより、クローン突然変異種の開発に成功し、収穫量の安定が実現できたのでした。これが新世界ワインにも影響を与えました。また新世界ワインが台頭したことも手伝って、ピノ・グリのワインは人気が出ました。特に2000年代から顕著でした。

     

    現在、ピノ・グリのワインは多種多様になっています。生産地だけでなく醸造スタイルによっても大きく異なります。有名なアルザスのピノ・グリは新世界ワインとは異なり、幾分スパイシーといえます。ミディアムボディからフルボディのワインです。一般的にピノ・グリは早い消費を意図したワインになりますが、アルザスだけは長期熟成をしたワインがあります。

     

  • キリストの血入門 27

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第27回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、クリスマスに関連した「キリストの血」を勝手に述べました。かつて「クリスマスを祝う」でもご紹介した内容の補足でした。今回もクリスマスに因んでイスラム教との関係を取り上げます。

     

    イスラム教の国では基本的にクリスマスはないといえます。しかし例外もあります。
    例えばアラブ首長国連邦のドバイです。もちろんこの国はイスラム教の国家です。それなのにクリスマスがあります。
    ドバイといえば中東屈指の世界都市であり、金融の世界的中心地です。ドバイの写真を見ると、超高層ビルが並び立ち、巨大ショッピングモールを始め、数々の大型建築物のある都市です。さらに世界的な観光都市でもあります。それだけ世界的都市ということで、イスラム教への信仰心が薄いということではありません。実はドバイはもともとのイスラム教信者である地元の人よりも、海外からの移住者のほうが圧倒的イ多くいるからなのです。その中でもキリスト教の人口は多く、次にヒンドゥー教となっています。従って、ドバイではクリスマスだけでなく、10月にはハロウィンもあります。ヒンドゥー教では11月にはDiwaliもあります。

     

    ドバイではクリスマスが近くなると、アメリカのようなクリスマスムードになり、子供たちもクリスマス関連の衣類や帽子をかぶって街に溢れ出します。現地のムスリム(イスラム教徒)が敵視するかというと、ここではそのような宗教対立ありません。かなり寛容に見守っているようです。この点が世界都市のドバイならではといえるのかもしれません。
    また、かつてはドバイはイギリス領だったこともあり、クリスマスに合わせた広告などはイギリス発祥のブランド勢力が目立つようです。

     

    ドバイはこのようにイスラム色が薄く、宗教的制約については極めて薄い都市で、当然ながら飲酒も可能です。気軽にワインが飲めます。イスラム教の規律からすれば当然ながら禁止になりますが、ドバイでは飲酒が許可されたホテルやレストランがあり、警察署の発行する許可証があれば酒類を市中で購入することもできます。国外から酒類を持ち込むこともできます。また、服装や娯楽なども寛容です。食事面では、イスラム教で不浄とされる豚肉の料理を出すレストランもあります。

     

    しかし、ドバイがすべてに寛容というわけではありません。
    実際には格差社会になっているといえます。特に国籍によって職業を分けたりするのは当たり前で、公共施設の利用についても格差があったりします。あくまで外国からの移住者との関係から宗教的な寛容さがあるだけなのです。特にビジネス的な側面が宗教に優先されていることは忘れてはいけないことです。

     

    もうひとつ、トルコのクリスマスも興味深いといえます。
    トルコもイスラム教の国ですが、クリスマスはあります。ただし宗教的な意味合いはありません。これは日本と同じといえるでしょう。トルコの場合、クリスマスはノエルといい、サンタクロースはノエルババといいます。さらにクリスマスツリーはノエルアーチです。しかし、クリスマスイブの日の特別感はないようです。むしろトルコのクリスマスは12月から新年の1月までのイベントという扱いのようです。イブの日に大騒ぎをしたり、恋人で過ごすという習慣がないようです。これは宗教的な意味のない日本のクリスマスと異なる点でしょう。

     

    今回はイスラム教圏での特殊なクリスマス事情をご紹介しました。

     

  • 濡れた魚(Der nasse Fisch. Gereon Raths erster Fall)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言が解除されて以降、冬を迎えてから新型コロナウイルスの患者が急増という事態になりました。2020年の年末から2021年の正月の期間は、再び外出自粛が叫ばれる事態となりました。そこで、久しぶりですが、ワインと一緒に自宅で読む文学作品をご紹介したいと思います。
    過去にご紹介してきたのは、このシリーズでは、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』『ペスト』『若きウェルテルの悩み』『僧正殺人事件』(The Bishop Murder Case)に続いて7作目にご紹介するのは『濡れた魚』(Der nasse Fisch. Gereon Raths erster Fall)です。

     

     

    ドイツのテレビドラマで『バビロン・ベルリン』(Babylon Berlin)が放映されました。2017年にシーズン1と2各全8話が、2020年にシーズン3全12話がそれぞれ放送され、日本ではBS12で、2019年にシーズン1とシーズン2の全16話が放送され、2020年12月の現在、シーズン3が放送されています。2019年の第32回ヨーロッパ映画賞でヨーロッパ・フィクションシリーズ賞を受賞した作品で、テレビドラマとは思えないほどの壮大なセットで、ドイツ史上最大の規模で制作された連続テレビドラマといえます。
    その原作がフォルカー・クッチャー(Volker Kutscher)の『濡れた魚』(Der nasse Fisch. Gereon Raths erster Fall)なのです。日本では創元推理文庫で翻訳本が刊行されています。

     

    1929年のワイマール共和国を舞台とした作品のため、いわば第一次世界大戦が終了し、ヒトラー政権が誕生する前の極めて特殊な時代を描いています。ドラマではベルリンを退廃した都市としてバビロンと一緒にしています。この時代背景を知らない人には、細かい点で意味不明な点が数多くあるかもしれません、特にナチスの台頭となる伏線的要素としてロシア革命後の共産党の活動や、ドイツ革命で皇帝のいなくなったドイツ政権と行政とのかかわりなど、ドイツの歴史を知らないとわからない部分はいくつもあります。
    しかし、ストーリーだけを追っていても面白く読める本ではあります。ドラマと原作はかなり内容が異なりますが、どちらのストーリーも楽しめる内容です。

     

    主人公はベルリン警視庁のゲレオン・ラート警部ですが、彼はケルンからベルリン警視庁へと移ってきました。ドラマでは第一世界大戦のトラウマを契機とした薬物中毒者になっていましたが、原作ではケルンで犯人を射殺した非難を浴びて、ベルリンに移ったことになっています。ラートは「赤い城」として知られるアレクサンダープラッツの警察本部に勤務し、最初の上司がブルーノ・ウォルター上級警部となりました。
    事件は過激なロシアの亡命グループが関係して起こり、その捜査過程でシャーロット・リッターに出会います。彼女との関係は、小説とドラマではかなり異なり、その違いも楽しめます。また共産党のデモに対する警察の発砲事件が、ドラマでは大きなカギになりますが、小説ではむしろ彼が違法なナイトクラブでコカインを使用したことが、次回作以降までの大きなカギに繋がります。原作では明確に一人の人間を殺す場面がありますが、ドラマでは微妙な表現方法になっていて、この差も興味深いといえます。日本人的な感覚からは、破天荒なラートへ感情移入するのが難しい面があるかもしれませんが、この時代の主役としてはかなり魅力的に感じます。個人の意見ですが。

     

    ところで「濡れた魚」とは何かというと、ベルリン警視庁の隠語で、迷宮入りした事件のことをいいます。この小説ではロシアのボリシェビキから隔離された金塊をめぐる事件とラートが犯した殺人事件などが該当します。小説でもドラマでも上司のブルーノ・ウォルター上級警部は重要な役割を担っています。小説では行政長官は重要ではありませんが、ドラマでは重要な役割になります。

     

    アメリカのハードボイルド小説に似た作風でありながら、部隊がベルリンの特殊な時代ということもあり、その時代、その街で咆哮する鮮やかなストーリー展開が特長の作品ですワイマール共和国も後期に入り、政治的状況や経済的な波乱は明確に提示されています。また、小説では架空の人物だけでなく、実在の人物の名が出てきたり、歴史的出来事が登場人物のそれぞれの視点で描かれています。
    ドイツに作家といえば、世界的な文豪のゲーテなどが有名ですが、このようなジャンルのフォルカー・クッチャーなども、もう少し日本で評価されても良いと思います。年末年始を外出自粛で過ごすなら、ぜひとも読んで頂きたい作品です。ただし、少しだけドイツ現代史を勉強してからの読むのがおすすめではありますが。もちろん、ワインを飲みながらで結構です。

     

  • ヘント(Gent)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヘント(Gent)について勝手に語ります。

     

     

    ブリュッセル、アントウェルペンに次ぐベルギー第3の都市がヘント(Gent)です。「花の都市」とわれる都市です。スペルが「Gent」なので、ドイツ語の「Gent」、フランス語も「Gand」から、「ガン」とも呼ばれています。 ただ、この由来はケルト語で、「合流する」という意味からきています。

     

    ケルト人が住んでいた地域に、ゲルマン民族が入り込んできました地域ですが、実はそのころからローマ帝国の影響から修道院がありました。それだけキリスト教が早くから根付いていたわけです。
    9世紀になるとフランドル伯(Comte de Flandre)が支配するようになりました。フランク王国の分割の際に中フランク王国だった地域が西フランク王国に併合され、フランドル伯は形式上は西フランク王の封建臣下となっていました。それでも独立性は高かったといえます。また、イングランド王家やフランス王家と繋がりを持っていました。いわゆる婚姻政策により、周辺の領域に勢力を広げてきたのでした。現在、ヘントにはそのフランドル伯の居城が残っています。

     

    中世後期になると、ヘントは織布業の中心都市にまで発展していました。人口も14世紀にはは6万人に達していました。今ではこの人口規模では大都市という印象はないでしょうが、当時のパリが20万人程度の都市でしたから、それに次ぐ大都市だったのです。しかも1302年の金拍車の戦いではフランス王国軍を撃破したこともありました。
    15世紀にはブルゴーニュ公国の主要都市となりました。また、フランドル伯であり、神聖ローマ帝国の皇帝であり、スペイン王でもあったカール5世がこのヘントで誕生しました。しかし、カール5世は、1539年の反乱で、自治だけでなく特権をも剥奪されてしまいました。

     

    都市としての意に繁栄に陰りが出てきたのは16世紀後半のオランダ独立戦争(八十年戦争・Tachtigjarige Oorlog)以降でした。ネーデルラントの諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争で、この結果、オランダが誕生したという戦争でした。1648年にヴェストファーレン条約によって正式にオランダは独立を承認されましたが、一方でヘントの都市基盤は弱体化してきました。
    それでも1753年に、ヘントと北海沿岸の港湾都市オステンドを結ぶ運河が開通しました。

     

    またガン条約(Treaty of Ghent)の舞台となったことでも知られます。これは1814年のことで、米英戦争の停戦講和条約がヘントで結ばれたからでした。
    現在は「花の都市」 といわれるだけあって、花卉栽培や園芸農業が盛んで、5年に1度、「ヘント・フロラリア」という花の祭典が行われてもいます。

     

     

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