今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • マラケシュ(marrākish)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマラケシュ(marrākish)について勝手に語ります。

     

     

    イスラム圏でありながらワインを生産する国はいくつかりますが、モロッコもその一つです。過去に2回登場しています。

     

    日の没する地・モロッコのワイン
    タンジェ(Tánger)

     

    今回はモロッコで「南の真珠」と呼ばれてきたマラケシュ(marrākish)です。
    モロッコ第4の都市で、人口は90万人です。マラケシュとは、ベルベル語で「神の国」 (murt ‘n akush)を意味します。
    アトラス山脈の中の大アトラス山脈の北側に位置しています。そのため山岳地帯に近く、南へ45kmの先には、北アフリカ最高峰のツブカル山 (4165m) が聳えています。イシル川が流れていて、周辺の砂漠地帯でもオアシスが点在しています。

     

    大都市だけあって、イスラム圏の都市であっても、ワインは比較的容易に飲めます。ただ、店の外、例えば公園や通りなどではアルコール類を飲むのはやめたほうが良いでしょう。寛容とはいえ、イスラム教の国であるのは事実ですので、その点は気を付ける必要があります。

     

    マラケシュが都市としてスタートしたのは、ムラービト朝の時代でした。
    ムラービト朝は、1056年に北アフリカのサハラ砂漠西部に興った王朝です。砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とする民族で、モロッコからイベリア半島南部のアンダルシアまでを支配しました。マラケシュについては、1071年から、都市としての本格的な整備を行ていきました。イスラム王朝なので、街にモスクを建設したり、灌漑路なども整備していきました。
    しかし、ムラービト朝時代に多くつくられた建設物は、ムワッヒド朝になって取り壊されてしまいました。
    ムワッヒド朝ではマラケシュが首都となりました。ベルベル人によるイスラム改革運動を基盤としたイスラム王朝で、ヨーロッパではアルモハード朝(Almohad Caliphate)という名前で知られていました。

     

    ムワッヒド朝時代には、クトゥビーヤ・モスクのミナレットが77mにまで達しました。マラケシュの旧市街の象徴的な建造物となりました。また、アグノー門やテンシフト橋などもこの時代に完成しました。
    16世紀になるとサアド朝の時代になりました。オスマン帝国の拡大を阻止したことで知られる王朝で、過去の王朝と異なり、もともとがシャリーフ(預言者の子孫)バヌー・サアド族として人望を集めたことが起源で、イスラムでもシャリーフ系王朝といえます。
    17世紀末からはアラウィー朝時代になり、この王朝の時代の歴史的建造物が残ったマラケシュ旧市街地が世界遺産に登録されました。

     

     

    マラケシュの旧市街地は東西2km、南北3kmで、城壁に囲まれています。その後に発展した新市街は旧市街の西に広がっています。鉄道の駅は新市街の西端にあります。
    王きゅや宮殿、庭園など、世界に誇る観光都市らしい姿があります。

     

  • ムルシア(Murcia)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はムルシア(Murcia)について勝手に語ります。

     

     

    「骨太なワインといえばムルシア」と言われるほど、ムルシアのワインは力強いのが特徴でしたが、最近では必ずしも力強いワインだけでなくなりました。比較的軽いワインの生産量も増加してきているのです。ただ、ムルシアといってもあまり知名度は高くないかもしれません。

     

    都市としてのムルシア(Murcia)は、スペインのムルシア州の州都で、人口は約42万人です。スペインで7番目に大きな都市で、都市圏人口は56万人に及んでいます。ワイン産地はムルシア州の中に散らばっていて、北東部でムルシア州の中では標高の高い場所にあるのがイエクラ、州の中央に位置するのがブージョス、州の北部にはフミージャなどがあります。

     

    ムルシアは、もともとスペインの都市というより、後ウマイヤ朝の都市といえます。つまりアラブ人が建設した都市となります。灌漑設備の優れた技術により、用水路の整備がされていました。この灌漑システムは、近代のシステムの先取りともいえるものでした。
    後ウマイヤ朝は継承争いで大きく衰退していきました。29年の間に10人のカリフが即位するという異常事態でした。ムルシアもコルドバのカリフが倒れると、支配者がアルメリア、トレド、セビリアと変化していきました。1172年にはムワッヒド朝の支配下なり、1223年からは独立王国となりました。
    しかし1243年になると、カスティーリャ(Reino de Castilla)によりムルシアが支配され、1296年にはアラゴン王国の支配下になりました。その後、1304年にトレラス条約によりカスティーリャに編入されました。

     

    カスティーリャといえば、レコンキスタ(国土回復運動)の中心的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった国です。その支配地域になったムルシアは、18世紀になって絹織物業によって繁栄しました。今に残る教会などもこの時期の建設でした。
    何度か洪水の被害を受けた経験もありますが、1829年には地震に襲われました。この地震で約6,000人もの死者が出たといわれています。

     

     

    ちなみにムルシア州で話されているスペイン語はムルシア方言で、標準スペイン語と比較すると、かなり特殊なアクセントに聞こえるようです。さらに独特のアクセントだけでなく、地元特有の表言方法もあり、スペイン語とは別言語のように聞こえます。
    その背景としては、かつて支配されていたアラゴン語と古アラビア語の影響があるともいわれています。

     

  • 飲酒戒

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は飲酒戒(おんじゅかい)について勝手に語ります。

     

     

    何気なく見ていた「WEB版新纂浄土宗大辞典」に、「飲酒戒(おんじゅかい)」が出ていました。まずは引用させて頂きましょう。

     

    『梵網経』に説かれる四十八軽戒のうちの第二戒で、酒を飲むことを禁止するもの。『梵網経』では、酒を飲むと酒による過失が様々に起きることから、仏の弟子たる者が自ら飲むこと、また他人に対して酒を勧めることを禁止しており、この戒に違反した場合は軽垢罪に当たる。同じく酒に関わる戒としては十重禁戒の第五に酤酒戒もある。また、五戒のひとつとして酒を飲むことを戒めるもの。
    【参考】恵谷隆戒『改訂円頓戒概論』(大東出版社、一九七八)
    【執筆者:山極伸之】

     

    要するに、仏教を信仰するものであれば、酒は飲むべきものではない、まして僧侶であれば、決して飲んではならないとしています。この経典の扱いが各宗派によって異なるかもしれませんが、『梵網経』という経典で説かれているのは事実なので、仏教もイスラム教と同じように酒を飲まないという文化が根付いてもおかしくなかったといえます。しかし、実際にはそうはなりませんでした。
    しかも僧侶であれば、より禁酒を厳守しなければならない筈なのに、酒を「般若湯(はんにゃとう)」と言って、ある種、公然と飲んできていました。ちなみに現代では、「麦般若(むぎはんにゃ)」も登場したといいます。これはビールの隠語です。大体において僧侶の仕事である葬儀や法事には、酒はいわばセットとなるといっても過言ではありません。これが日本の仏教界の真実ですから、イスラム教のような禁酒とは比較になりません。

     

    イスラム教の場合であれば、禁酒しなければならない理由が、仏教ほど不明瞭ではありません。実にシンプルで、飲酒をする人は、天国に行けないと考えているからです。従って、酒を禁止するのは現世の世界だけで、天国に行けば、そこには酒の流れる川があり、しかも飲むのは自由だというのです。さらにいえば、天国ではいくら酒を飲んでも悪酔いしないともいわれているのです。

     

    飲酒戒と対極の宗教もあります。
    身近なものでは日本の神道の御神酒、ゾロアスター教のハオマ、バラモン教のソーマなど、原始的な霊的体験を伴う宗教の場合は、酒をツールにして、「酔う」状態などを霊的なものと絡めている可能性もあります。

     

    何だかんだといっても、現在の日本ではワインを気軽に飲めるわけですが、飲みすぎたときには飲酒戒を思い出すのも良いのかもしれません。

  • ポンペイ(Pompeii)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はポンペイ(Pompeii)について勝手に語ります。

     

     

    ポンペイ(Pompeii)といえば、火山の噴火により、一夜にして消失した古代都市です。消失後1000年以上もの間、その地域は単に「町」という地名がつけられ、誰も住まないで不毛の地でした。それでも、時々、古代の遺物が発見されたことで、「町」の下に本当の「町」が埋まっているであろうということは、多くの人には知られていました。

     

    一瞬で消え去ったポンペイは港湾都市として繁栄していましたが、実はブドウの産地で、ワイン産業でも栄えていた都市だったのです。むしろ、主要産業こそワイン醸造だったともいえるほどでした。
    噴火により、地殻変動で陸地が上昇し、火山灰に埋もれたことで、今では港湾都市であり、ブドウ畑に囲まれた場所であったとは想像がつかないくらい変化しました。また、ワインを運搬するための壺も多く出土しています。

     

    もともとポンペイは、オスキ人やヒーコ人という先住民族の集落でした。紀元前526年からエトルリア人が侵入し、占領されることになりました。紀元前424年にはサムニウム人が支配しました。また、ローマとの戦争では反ローマ側になりました。
    しかし、最終的に紀元前89年にローマの支配下に入ることになりました。

     

    ヴェスビオ火山の噴火によって消失する直前のポンペイは、人口が20,000人を超えるほどの、当時としては大都市でした。
    運命の日は紀元79年8月24日でした。ヴェスビオ火山が噴火し、火砕流が都市を襲いました。ポンペイは一瞬にして地中へと埋まってしまったのでした。火山灰が降り注ぎ、もはやここに都市があったことなど、誰も分からないほどになりました。それだけ、都市としての痕跡を残さなかったのでした。
    発見されるまでには長い年月が必要でした。ようやく18世紀になって発掘が開始され、火山灰の下に踊ろくべき都市の姿が現れてきたのでした。
    発掘により、碁盤の目状に石畳の通りがあることがわかりました。いわば舗装されたヨーロッパ中世都市の道路と同じようなものです。都市の中心部に広場があるのも中世都市のようでした。さらに公共水道も整備され、入浴委施設もありました。かなり計画的に建設された都市であることが分かりました。

     

    特筆すべきは、娼婦の店舗など、まるで現代の繁華街のような施設が発掘された点です。そのためポンペイは「快楽の都市」ともいわれるほど、性産業も盛んだったことがわかりました。
    町の守護神は美と恋愛の女神ウェヌスで、興味深いのは、ギリシア神話やローマ神話だけでなく、エジプトの神なども取り入れていることです。そのような神殿も多く見つかりました。

     

     

  • ファンラン-タップチャム(Thành phố Phan Rang – Tháp Chàm)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はファンラン-タップチャム(Thành phố Phan Rang – Tháp Chàm)について勝手に語ります。

     

     

    以前に「ベトナム社会主義共和国のワイン」でも紹介したように、実はワインもつくられています。気候的にヨーロッパで栽培指されるブドウ品種には適していないものの、今では国際品種のブドウを使ったワインの生産も行うようになりました。
    そんな中でワイン生産地として、南部海岸平野のニントゥアン省ファンラン-タップチャム(Thành phố Phan Rang – Tháp Chàm)付近があります。

     

    ファンラン-タップチャムは、ニントゥアン省の省都でした。人口は21万人です。ベトナム戦争中には、米軍空軍の航空基地が有った場所でもあります。
    歴史的にはチャンパ王国(Chăm Pa)の首都でもありました。この国は、現在のベトナム中部南端に居住するチャム族(người Chăm)の直接的な祖先の古チャム人が主要民族でした。彼らは航海技術に優れていて、周辺国家との交易で繁栄していました。イスラムの商船も中国に行くまでの寄港地になっていて、日本への輸出でもチャンパ産の沈香は重要な交易品目でした。正倉院にある香木蘭奢待も、チャンパから9世紀頃に日本に持ち込まれたといわれています。

     

    チャンパはまた、かつて北インドにあった国家や都市の名前でもありました。中国史料では占城国で、日本の『続日本紀』に掲載される「崑崙国」もチャンパ王国だと考えられています。 中国の唐の時代までは、ベトナム北部までを支配していたことで、チャンパ王国は歴代の中国王朝に対して、略奪行為をしていました。そのため、逆に侵攻を受ける場合もありました。
    ファンラン-タップチャムが首都だったのは、1485年から1832まででした。王国の崩壊のときも首都でした。
    その後、ベトナム阮朝第12代の皇帝だった啓定帝により、ニントゥアン省の省都としました。1917年でした。しかし、時代は第二次世界大戦へと進み、日本により占領され、航空基地を設置しました。この基地は、終戦後にフランス、ベトナム戦争のときにアメリカがこの基地を使いました。
    一方、ニントゥアン省はビントゥアン省と合併してトゥアンハイ省となりました。これによりファンラン-タップチャムは省都ではなくなりました。

     

     

    ファンラン-タップチャムはチャム人の文化が残っています。
    特徴的なのはアニミズム信仰が挙げられるでしょう。イスラム教との交易や、中国とのかかわりが強かったり、仏教地域にも近いといえましたが、原始的なアニミズム信仰というのは、何とも魅力を感じます。

     

  • ドイツ語入門 3(Vergleiche mit Englisch)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドイツ語入門の3回目です。

     

     

    前回は「ドイツ語入門2(Deutsche Verbstellungen)」と、「ドイツ語入門 番外(Amerikanische Deutsch)」を述べました。どうしても日本人は外国語というと「英語」になってしまうため、今回はドイツ語と英語を少し比べてみます。

     

    多くの日本人は、英語というと、外国語の習得というより、主要教科の一つという認識が強いと思います。そのため、義務教育による英語の学習が、そのまま英語の難しさに繋がっているかもしれません。
    では、義務教育の教科となっていないドイツ語は、どうなのでしょうか。英語と比較して、より難しのでしょうか、それとも簡単なのでしょうか?

     

    まず発音については、第1回の「ドイツ語入門(Übersicht)」でも取り上げています。単語のスペルを見ただけで、知らない単語であっても正しい発音ができるかどうかという点で、明らかに英語よりドイツ語のほうが簡単だといえます。簡単に分ければ、ドイツ語は規則正しく、ルールに沿った発音が多いといえます。それに対して英語は例外的な発音が多いため、知らない単語は発音できないともいえます。つまり英単語の綴りと発音が乖離しているからです。
    もちろんドイツ語の場合、日本人には馴染にないもの、要するに慣れた英語では見慣れない音もあります。変音の「Ä、Ö、Ü」ですが、これは完全に慣れの問題です。慣れれば、単語を見ただけで発音がわかることには変わりません。

     

    問題になるのは文法でしょうか。これも第1回でも触れましたが、やはり格変化が日本人には難しく難じることになるかと思います。
    最初に学ぶ外国語が英語の場合、そもそも格変化にそれほど気を使うことがないので、どうしてもドイツ語のほうが難しいと感じてしまうでしょう。英語の場合、代名詞を除けば、格変化がほとんどありません。主語であろうが、目的語であろうが、単語も定冠詞も不定冠詞も、さらには形容詞も変化しません。さらに名詞に性もありませんから、格変化とは無縁といえます。ドイツ語は3つの名詞の性にあわせて、1格から4格まで、つまり「3×4=12」で、12種類に変化することになります。さらに、冠詞のない場合、定冠詞、不定冠詞の場合でさらに「×3」、形容詞の有無で「×2」となり、合計で72種類となります。
    最初にドイツ語を学んでいれば、フランス語だろうと、ロシア語だろうと、この変化については当たり前のことと認識しているでしょうが、最初に変化しない英語から入るので、これは実に厄介なことになるでしょう。

     

    ただ、これも考え方によるかもしれません。英語の変化がないというのは、いわば簡略化された結果ともいえるわけで、この弊害は、変化しないがゆえに文章の厳密さはなくなり、ある種のあいまいさが生まれていることになります。ドイツ語は厳格であるがゆえ、格変化を完全にマスターすれば、明確な表現ができることにもなります。そういう意味では、英語より簡単といえなくもありません。

     

    ところで、世界の言語の難易度ランキングというのがあります。国際機関のUNESCOが発表した、言語の難易度ランキングでは、以下のような順位になっています。

     

    1位:中国語
    2位:ギリシャ語
    3位:アラビア語
    4位:アイスランド語
    5位:日本語
    6位:フィンランド語
    7位:ドイツ語
    8位:ノルウェー語
    9位:デンマーク語
    10位:フランス語

     

    ロシア語が入っていないのが、果たしてどうなのか、という気がしないでもないのですが、それはともかく、ドイツ語は7位で日本語が5位です。ドイツ語は日本語より簡単ですが、英語より難しいということになります。
    結局このランキングは、欧米言語から見て、なじみのない文字を使っている言語が難易度が高いということになるのかもしれません。そう考えると、英語と同じアルファベットを基本的に使っているドイツ語が7位というのは、確かに難しいといえるのかもしれません。

     

  • イルクーツク(Иркутск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイルクーツク(Иркутск)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    以前にバイカル湖を取り上げたことがありました。(「シベリアの真珠・シベリアのパリ」)そのバイカル湖の西岸にある都市がイルクーツク(Иркутск)です。
    ここは滞在したことはしたのですが、ソ連時代のインツーリスト(ソ連国営旅行社)のミスで、夜中に到着して翌日の早朝出発のためにホテルに宿泊しただけでした。従って、イルクーツクの街については、駅からホテルまでの移動区間とホテルだけしか知りません。しかも深夜と早朝なので、街の様子も目に入ってしませんでした。

     

    シベリア鉄道での旅だったため、深夜に到着して、ホテルにチェックインし、翌日は1日市内観光をして、下車した同じ時刻のシベリア鉄道に乗車する予定でした。翌日の同じ時間の鉄道ですから、市内には24時間の滞在をする予定だったのです。それが深夜着で早朝出発になったわけですから、イルクーツクの滞在はほぼホテル内、その内訳は、ホテルのバーと宿泊した部屋だけでした。何とも悔しい思い出です。

     

    では、このイルクーツクという都市は、どんな都市だったのでしょうか。
    もともとは毛皮をとるための宿営地でした。そのため、毛皮の集積地として発展し、清や満州、朝鮮などとの交易が盛んになりました。その一方で囚人や政治犯の流刑地にもなっていました。流刑になった人の中には、1825年のデカブリストの乱(Восстание декабристов)で反乱を起こした貴族の将校たちも含まれていました。ロシアで初めて皇帝専制(ツァーリズム)を打破するための反乱でしたから、いわばその後のロシア革命にも繋がる部分があり、その役割を担った人たちがイルクーツクに流されてきたので、それも感慨深い場所といえます。流刑者はロシア人だけとは限らず、反ロシアのポーランド人なども含まれていました。

     

     

    日本との関係でいえば、1701年に伝兵衛が初めて滞在し、回船の船頭だった大黒屋光太夫も滞在しています。伝兵衛については、1753年にロシア最古の日本語学校で教鞭をとっていました。
    さらに第二次世界大戦後は、イルクーツクも日本人のシベリア抑留地のひとつとなっていました。

     

    日本からシベリア鉄道でヨーロッパに行くのには、丁度よいい中間地点に相当します。長く列車に揺られいた状態から離れ、途中下車して、シベリアの都市を1日散策するのは最適なプランと言えます。
    ここでの思い出はホテルしかないのが、今でも悔やまれます。

     

  • タリハ(Tarija)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はタリハ(Tarija)について勝手に語ります。

     

     

    ボリビア多民族国(Estado Plurinacional de Bolivia)は、南米の国家ですが、実はいくつかの都市を代表するビールの銘柄があります。それだけビールが身近なアルコール飲料となっているわけですが、それは第二次世界大戦前後にドイツから大量の人々が逃げ込んできたからです。戦前はユダヤ人が中心でしたが、戦後はナチスの残党が逃げてきました。彼らがビールの醸造から文化までを広めました。
    その一方で、ボリビアでもワインがつくられていて、その中でタリハ(Tarija)はボリビア屈指のワイン産地になっています。また、ワインと同じようにブドウが原材料の酒で、シンガニ (Singani)も生産されています。

     

    アンデス地域を中心に飲まれているシンガニは、ボリビアを代表する飲料ともいえます。主原料のブドウ品種はマスカット・オブ・アレキサンドリアです。もともとはスペイン人たちがワインをつくるために栽培したブドウでしたが、良質なワインができなかったため、出来上がったワインを蒸留したものです。
    飲み方としては、焼酎のように、水割りや湯割りもありますが、炭酸飲料で割ったり、オレンジジュースで割ったりするのことがあります。いわゆるカクテルです。

     

    では、都市としてのタリハですが、1574年に誕生しています。スペイン人によりつくられた都市です。インカの領域にスペイン人が入植し、全く新しく建設された都市だけあって、スペイン風建築物が多く残っています。その中でもサン・フランシスコ教会やメトロポリタナ大聖堂などは、古いスペイン建築のカトリック教会・聖堂なので、タリハを代表する観光スポットになっています。

     

    タリハの都市としての人口は13万5千人ですが、タリハ県全体では40万人弱になっています。気候的には恵まれていて、温暖で快適な地域となっています。
    豊富な天然ガス資源のある地域で、ボリビアガス紛争が2回起こりました。2003年の「第1次ボリビアガス紛争」と、2005年の「第2次ボリビアガス紛争」です。これはもともと天然ガスを輸出する計画に対して、反対派との間で起きた紛争でした。これがやがて、様々な国内問題まで包括された反対行動に発展していきました。
    2003年には、先住民や労働者団体によって、ストライキが起き、道路封鎖が頻発するようになりました。鎮圧行動には武装部隊が対応し、その結果、死者は70人にまで及びました。この紛争により、大統領が辞任に追い込まれることになり、国外逃亡することになりました。さらに、新大統領のもとで、この問題に関しての国民投票まで実施されました。
    しかし、この問題は簡単には解決できず、反政府勢力はさらに次の大統領をも辞任に追い込んだのでした。

     

    また、この地域はクエッカ(cueca)という、ボリビアだけでなく、チリやアルゼンチンでも盛んな舞曲があります。男女が1対1で向かい合い、右手に白いハンカチを持ち、円を描くようなステップで踊るものです。タリハのクエッカは、他の地域より明るく陽気です。使われる音楽も明るく、テンポの良い曲が多いようです。

     

     

  • セトゥーバル(Setúbal)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はセトゥーバル(Setúbal)について勝手に語ります。

     

     

    モスカテルというブドウ品種があります。フルーティーな香りが特徴で、アロマティックな部分を持ち合わせた品種です。もともとは中東地域の地中海沿岸が原産ですが、ローマ人によってイベリア半島に持ち込まれたと言われています。そのためか、モスカテルのブドウ畑はイベリア半島でも沿岸部の砂地にあります。
    色は栗色に近く、濃いマホガニー色で、香りが秀逸です。ワインになると、辛口、甘口、ともに軽い感じになり、夏向けといわれています。また、酒精強化ワイン「モスカテル・デ・セトゥーバル」にも使われています。
    このモスカテルのワイン産地がセトゥーバル(Setúbal)です。

     

    セトゥーバルは、ポルトガルにあり、首都のリスボンから約40km南に位置します。サド川の北岸に街が広がっています。
    歴史のある都市で、古代ローマの時代まで遡ることができます。ローマ支配の前からフェニキア人が訪れていた場所で、ここを交易拠点としていたようです。古代ローマ時代の地理学者だったったクラウディオス・プトレマイオスによると、サド川を挟んだ対岸に塩田があり、カイトブリガという町があったといいます。実はこのカイトブリガが、サド川の対岸に移転して現在のセトゥーバルのもとになったようです。
    ただし、街の名がセトゥーバルになったのは、イスラム帝国支配の時代でした。さらに時代が進み、大航海時代になると、セトゥーバルが大西洋に面していたことから、都市としての重要性が増していき、街としての繁栄にも繋がりました。

     

    この都市を襲った大きな悲劇は、1755年の大地震でした。このときに街の多くの建物が破壊され、都市機能は一時的に壊滅状態になりました。
    漁業関連の中心的な都市へと発展したのは19世紀後半からでした。ポルトガル初の缶詰工場ができたのでした。海から陸へと水揚げされた魚類を缶詰にし、それを開通したばかりの鉄道による輸送も始まりました。このときに水揚げされた魚類は、イワシが中心でした。
    さらに20世紀には、缶詰工場だけでなく、各種製造業の生産拠点となり、ポルトガルを代表する工業都市に変貌を遂げました。ただし、21世紀近くになると、製造業が衰退してしまいました。そのため、大量の失業者で溢れることになったのでした。

     

     

    現在は、製造業の業種が変化し、観光業にも力を入れています。特に隣接するアラビダ自然公園は観光拠点となっていて、貴重な手付かずの自然への入り口となっています。ポルトガル観光の穴場といえます。

     

  • フニペロ・セラ(Junípero Serra)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフニペロ・セラ(Junípero Serra)について勝手に語ります。

     

     

    アメリカ合衆国のワインの歴史は16世紀より始まりました。ヨーロッパからの入植と共に始まり、特にキリスト教の布教との関わりが大きくあります。
    カリフォルニアワインについては、1769年にフランシスコ会宣教師フニペロ・セラ(Junípero Serra)が最初にブドウ園とワイン醸造所を作ったことから始まりました。場所はサンディエゴの付近でした。1805年頃になると、ソノマにもブドウ園ができました。ただ、初期に宣教師たちが栽培していたブドウはスペイン系の品種でしたが、ワインの品質としてはそれほど良くありませんでした。品質が上昇したのは、1831年にフランスから入植したジャン=ルイ・ヴィーニ以降でした。彼らは良質なヴィニフェラ種を持ってきたのでした。
    そんなカリフォルニアにワインを導入したフニペロ・セラですが、彼こそは「カリフォルニアのアドルフ・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann)」とも呼ばれています。アイヒマンといえばナチスのゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、世界で一番ユダヤ人を殺したともいえる人物です。なぜ、フランシスコ会宣教師のフニペロ・セラが人道に対する罪等で絞首刑になったアイヒマンと並べられるのか、今回はその理由を語りましょう。

     

    フニペロ・セラは、サンカルロス・ボロメオ・デ・カルメロ伝道所を設立し、「ファーザー・プレジデンテ」となりました。次に移転してカルメル伝道所を本部とし、各地に伝道所を設立していきました。
    伝道の仕方については、イエズス会のやり方に倣い、かなり過激に行っていきました。異教徒に対する徹底した過激な対応は、まさにユダヤ人に対する残虐行為のアイヒマンと比較しても確かに遜色ないといえました。武装したスペイン軍隊を引き連れ、セラはインディアンたちを襲っていきました。キリスト教信者でないというだけで、平和でのどかに暮らしていた村の人々が次ぐ次に殺されていったのでした。しかも酋長や原始的な呪い師などを最初に捕らえ、「異端者」であることを理由として、改宗を迫ったり、拷問を加えたり、脅迫したりしたのでした。最後には火炙りにして殺していきました。酋長の次は、大人も子供も関係なく、インディアンの村人をまるで動物を狩るように捕まえていったのでした。まさに動物扱いで、柵の中に追い込んでいきました。
    捕らえられたインディアンたちに、キリスト教のカトリックへの入信を迫り、逆らう人たちを皆殺しにしていったのでした。

     

    アイヒマンはユダヤ人というだけの理由で、セラはカトリックから見て異端というだけで、大勢の罪のない人々を惨殺していきました。
    実際にどのくらいのインディアンが殺されたのかについては、正確な人数が分かっていませんが、あまりにも生き残った人数が少なすぎて報告書にまとめられなかったともいわれています。それほどまでに宣教という名の惨殺は激しかったようです。
    また、セラによるフランシスコ会支配のカリフォルニアでは、3年の間にインディアンの3分の1から4分の1が死んだともいわれています。イエズス会の記録についても、殺したインディアンの数は不必要なものと扱い、記録を残しませんでした。

     

    それでも、フランシスコ会によるインディアン殺戮の数は、最初の3年間が壊滅的な虐殺でしたが、その後も虐殺は続きました。伝道所に捕らえられたインディアンの数に比例して、殺された数が多くなっていました。この死亡率の傾向のまま推移すると、インディアンの完全絶滅となるものでした。
    改宗をし、洗礼を受けたインディアンたちについては、その場では命が守られました。しかし、彼らは伝道所へ拉致連行され、「ミッション・インディアン」として奴隷となったのでした。このようにして、インディアンの人口レベルを保つこともしていました。
    また、奴隷化したインディアンも、スペイン人が持ち込んだ疫病により多く亡くなっていきました。奴隷の生活環境は最悪で、栄養失調状態だったことから、疫病の犠牲となったインディアンの数も、全体の4分の1にまで及んだといわれています。

     

    カリフォルニアのワインの歴史では、輝かしく登場するフニペロ・セラですが、現代の目から見ると、悪魔的所業といわざるをえません。罪もなく、共同体で生活していたインディアン集落に、ある日突然宣教師軍団が現れ、カトリックへの改宗を迫り、応じなければ殺され、応じても奴隷となりました。まさにカトリックの黒歴史とともに、アメリカのワインは根付いたわけです。

     

1 2 3

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ