今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • チャールズ・バレンタイン・ライリー(Charles Valentine Riley)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフィロキセラ(Phylloxera)とチャールズ・バレンタイン・ライリー(Charles Valentine Riley)について勝手に語ります。

     

     

    フィロキセラ(Phylloxera)、あるいはブドウネアブラムシ(葡萄根油虫)という昆虫は、ワイン生産者に多大な被害を与えました。ブドウ樹の葉や根にコブを生成し、ブドウの樹の生育を阻害してしまう昆虫だからです。フィロキセラの被害にあったブドウの樹は、やがて枯死に至ってしまうます。

     

    この被害は、1862年に始まりました。南フランスのガール県でワインを醸造していたジョセフ=アントワーヌ・ボルティが、アメリカからブドウの苗木を購入したことが契機でした。
    苗木を畑に植え、生育していたものの、2年後にはブドウがしおれ始めたのでした。そしてついに枯死してしまったのでした。
    この得体のしれないブドウの病気は、ジョセフ=アントワーヌ・ボルティのブドウ畑だけに終わらず、周辺地域にも被害が拡大されていきました。結局、その後の10年間で、フランス全土に蔓延してしまったのです。
    さらに国境を越え、ポルトガル、スペイン、ドイツ、オーストリア、イタリアにまで被害が拡大していきました。

     

    これに対し、フランス政府は調査委員会を設置しました。
    さらに、フランス政府は30万フランの賞金を出し、解決策を広く求めていきました。

     

    イギリス生まれでアメリカで昆虫学を学んだチャールズ・バレンタイン・ライリー(Charles Valentine Riley)は、アメリカのブドウにフィロキセラへの耐性があることと判断しました。そこで、アメリカブドウの根にフランスブドウを接ぎ木して育てることを提案しました。
    これこそがフランスのワイン産業にとって、救世主となりました。彼の提案方法は大成功を収めました。そしてライリーはレジオンドヌール勲章を授けられたのでした。
    彼は上司や部下の感情を気にかけないほど、自身の研究には精力的な人物だったようです。上司を無視して議会に直訴したりするのも珍しくなく、予算の要求も過大だったといいます。さらには、部下の成果を自分のものにしたなどと言ったこともあるようで、周囲との調和をとることができませんでした。
    そのような人物だったこともあり、昆虫学長官の辞任騒ぎもありました。
    しかし、彼がいたからこそ、フランスをはじめとする世界のワイン産業は継続を可能にしたことは事実です。

     

    ちなみにフィロキセラに全く関係なく生き続けたブドウの樹は、交通の便の悪い地域、特に隔離された地域のものだけといわれます。具体的にはギリシャのサントリーニ島、イタリアのアマルフィ、フランスのピレネーなどです。

     

  • 誉田八幡宮

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は誉田八幡宮について勝手に語ります。

     

     

    日本の神社で飲むアルコール飲料といえば神酒が一般的ですが、元日の歳旦祭を含め正月三が日に無料で授与される神酒が赤ワインという神社があります。地元産の赤ワインで、注がれるのは白い盃なため、赤と白のコントラストから「日の丸神酒」と呼ばれています。
    その神社が誉田八幡宮で、鎮座する地羽曳野市や隣接する柏原市は、大阪府ではありますが、ブドウの主産地です。ワインの醸造も早くから行われてきています。

     

    旧社格は府社で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南隣に鎮座しています。
    歴史ある神社で、社伝によれば、559年に欽明天皇により、応神天皇陵前に神廟が設置されたことが創建だとされています。そのため最古の八幡宮であるともいわれます。それほど応神天皇陵との関係が深く、実際に現在の境内も隣接しているわけですが、この地こそが応神天皇が居住していた場所だともいわれます。また、この地を治めていたのは誉田真若王で、彼の娘が応神天皇の皇后だった仲津姫だともいわれます。
    しかし、誉田御廟山古墳が応神天皇陵であるという証拠は皆無で、堺市の北区百舌鳥本町にある「御廟山古墳」が宮内庁によって百舌鳥陵墓参考地に治定されていて、被葬候補者には応神天皇が想定されているのです。
    実在したか否かも議論がありますが、一般的には4世紀後半から5世紀初頭に実在した可能性は高いといわれています。実在といえる最初の天皇とまでいわれています。仁徳天皇と同一人物だとする説もあります。

     

    現在地に遷座したのは、永承6年(1051年)の頃で、後冷泉天皇行幸の際に移ったといわれます。
    八幡神は源氏とのかんけいが深く、建久7年(1196年)には源頼朝が国宝の神輿などを寄進し、室町幕府第6代将の軍足利義教は、重要文化財の「誉田宗廟縁起」と「神功皇后縁起」を奉納しています。
    戦国時代には戦火により社殿や伽藍を焼失しています。特に享徳3年(1454年)からの畠山氏の内紛が大きく影響しました。さらに河内を支配することになった織田信長により、社領は全て没収されました。社殿を再建したのは豊臣秀吉で、社領として200石も寄進しました。拝殿の再建については、その途中に大坂の陣があり、豊臣氏滅亡となりました。そのため、建物の内部は未完成のままでした。
    江戸時代になってからは、幕府により社殿の修復を数回行ってきました。
    明治の時代になると廃仏毀釈になり、奈良時代に行基によって創建された神宮寺の長野山護国寺は、本堂が取り壊されてしまいました。現在は南大門のみが残っています。

     

    ちなみに祭神の応神天皇は、譽田天皇、誉田別尊、胎中天皇、品陀和氣命、大鞆和気命、品太天皇、凡牟都和希王などの名があります。
    111歳、または130歳で、崩御したとされています。

     

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 8

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第8回になります。

     

     

    前回は古代ローマを取り上げました。途中で終わっていますが、今回はUSニューズ&ワールドレポートが毎年発表している「The most powerful countries on earth in 2020, ranked(ベストカントリー・最高の国ランキング)」の2020年版を元にした話にします。

     

    まず23位にランクインしたのがノルウェーでした。2019年の27位から5ランクもアップしました。22位はシンガポールなので、次に21位ですが、オランダが入りました。何と、オランダも2019年の26位から5ランクアップでした。
    20位はスウェーデンで、2019年は21位でしたから1ランクアップでした。北欧が強い印象を持つかもしれませんが、実はスウェーデンはEU内でも国土面積が広い国で、狭い国々が集まるヨーロッパでは特殊な扱いともいえます。
    19位はスペイン、こちらも2019年の23位から4ランクアップでした。何といっても世界にはスペイン語圏が形成されています。USニューズ&ワールドレポートでも、その点の影響力に触れています。
    18位はカタール、そして17位にイタリアが入りました。2019年は18位なので1ランクアップでした。今年は新型コロナウイルスの影響がありますが、もともとは観光客に人気の国で、その数は年間約4000万人といいます。16位はトルコ、2019年と同じ順位でした。トルコはヨーロッパとアジアにまたがる国ですが、USニューズ&ワールドレポートでは、「アジアとヨーロッパをつなぐ」として、他に例のない文化の交流地としています。ただし、政治的な安定性に問題があるとの指摘もあります。軍部を味方につけた現在の政権や、クルド人問題や宗教的な権力闘争などもあります。

     

    15位がオーストラリア、14位がインドで、13位にスイスが入りました。2019年は14位だったので、1ランクアップしました。永世中立国であり、裕福な国であるのは事実ですが、物価の高さも際立っています。
    12位がカナダ、11位がアラブ首長国連邦(UAE)、10位がサウジアラビア、9位が韓国、8位がイスラエルと、ヨーロッパの国から離れてしまい、7位が日本です。2019年と同じ順位でした。

     

    ここからが日本より上位の国となります。
    6位がフランスで、2019年と順位に変動がありませんでした。イタリアと同じように新型コロナウイルスの影響が大きいのは、観光客の数の多さに関係しています。また観光だけでなく、フランスは各分野で世界に大きな影響を与えてきています。世界で最も早く個人の権利を擁護した国の1つと評されています。
    5位はイギリスで、やはり順位変動ありませんでした。19世紀には世界の覇権国であり、産業革命が最も早くおき、あらゆる産業で発展を遂げた国といえます。単に経済だけでなく、議会制民主主義、科学、文化まで含めた様々な分野で世界への影響力が発揮されてきました。しかし、EUからの離脱が決まり、この決断をした国民投票結果には、疑問があるといえます。イギリスがかつてのように世界で輝く国になるのか、またそのような役割を果たせるか、不安要素は多いといえます。

     

    4位はドイツで、やはり順位に変動ありませんでした。EU最強の経済力であり、東ドイツを吸収したことで経済的な大打撃も乗り越えてきました。移民も多く受け入れ、国際社会の連帯という面でも、ドイツの役割は巨大になっているといえます。
    3位は中国、2位はロシア、1位はアメリカと、上位はすべて2019年と順位変動はありませんでした。このベスト3の中でヨーロッパに該当するのはロシアです。国土面積は世界最大で、ヨーロッパでは東欧や北欧と接し、かつてのソ連に属していた中央アジア北部、中国、北朝鮮、日本、さらに領海ではアメリカとも隣接しています。世界第2位の国土面積であるカナダに比べ、2倍近い広さがあります。

     

    ヨーロッパだけの地域を限定して、ベスト10位を出すと、以下のようになります。
    第1位:ロシア
    第2位:ドイツ
    第3位:イギリス
    第4位:フランス
    第5位:スイス
    第7位:イタリア
    第8位:スペイン
    第9位:スウェーデン
    第10位:オランダ

     

    何となく想像した通りの結果といえます。
    ただ、日本が7位というのは、何とも複雑な気になります。

     

  • イルビド(Irbid)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイルビド(Irbid) について勝手に語ります。

     

     

    ヨルダンの首都アンマンから北へ約70㎞の場所にイルビド(Irbid)があります。イルビド県の県都で、ヨルダン川東岸のギレアド(Gilead)台地の北の縁に位置しています。シリアとの国境にも近い位置です。人口は20万人以上で、ヨルダンでは第3の規模の都市です。パレスチナ人難民も多くいます。

     

    かなり古い時代から人が居住していたようで、青銅器時代にまで遡れるほどです。そして古代シリアでは有数のワイン産地だったといわれます。ブドウ栽培にとって最適な土壌は、肥沃な大地であり、気候も優れていたようです。

     

    イスラム教支配になる前の古代都市時代では、アラベラと呼ばれていました。また、イルビドの北30kmの場所にはヤルムーク川が流れ、そこではヤルムークの戦いが行われました。この戦いは、東ローマ帝国と正統カリフ軍の決戦でした。この結果、東ローマ帝国はシリア地方からの撤退をすることになり、イスラム帝国支配となりました。その際に都市名が、アラビア語でイルビドというようになりました。ワイン生産だけでなく、オリーブ・オイルなども生産されていました。

     

    またイルビドは、古代イスラエルの宗教指導者ズーゴートのアルベラのニッタイ(Nittai of Arbela)の出身地です。ズーゴートとはハラーハーというユダヤ法の指導者のことです。、トーラー・シェベアル=ペという口伝での律法を伝承する人物で、これはモーセがシナイ山で預かった律法と同じ扱われ方をするものです。実はユダヤ教は文字による聖書の成立だけでなく、このような口伝による伝統もあったのでした。これはタルムードというもので、神はモーセに対し、書かれたトーラーとは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされています。モーセが伝えたもう一つの律法というわけですが、今では「口伝律法」も文書化されています。6部構成、63編です。
    これも聖書と同じうように聖典として認められていますが、ヘブライ語で記述されたものだけがそうだといいます。他言語へ翻訳されたものは、聖典にはなっていません。

     

    現在のイルビドは、いかにも中東らしい都市としての顔もありますが、学園都市としての顔も併せ持っています。ヨルダン科学技術大学やヤルムーク大学の学生の数も多く、街中は喧騒であふれています。
    また、古代遺跡めぐりの拠点でもあり、ペラ、ウム・カイス、ベイト・ラス、アジュルンなどの、ヨルダン渓谷北部にある古代遺跡に行く際には、ここでの宿泊者が多くいます。

     

     

  • キリストの血入門 22

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第22回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は正教会についてでした。今回はをカトリックの異端審問を取り上げます。

     

    カトリック教会では中世以降において、異端審問というシステムがありました。正統的なキリスト教信仰に反するもの、つまり異端である可能性のある人を審問するものです。10世紀以降からカトリック教会内に誕生した信徒活動の一部で、最初は地域内の信仰を同じくする人々の集会のようなものでしたが、それが周辺地域にまで及び、大規模な運動に進展していきました。
    異端審問が飛躍的に広がった契機としては、1022年の処刑事件だと考えられいます。フランスのオルレアンで起きた事件です。10数人の異端者を処刑した事件で、フランス王ロベール2世は火刑を命じたというものでした。このときにオルレアンの会議に集まっていた司教たちが異端発覚について話をしていたようです。そして、このオルレアンでの事件によって、異端の発覚を本格的に広がっていったといわれます。

     

    異端とは、あくまでカトリックの信仰に反するということで、初期キリスト教の時代では、異端論争というより神学論争数多く行われいて、中世の異端とは異質なものでした。大きく変化したのは、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝によるキリスト教公認以降の統治システムとの融合でした。ローマ帝国の統治システムの中に、キリスト教も組み込むことで、教義内容は異なる宗派の容認は危険視されたのでした。
    そのために、現状の教義に反する意見、学派などは異端として退けることにしたのでした。これはキリスト教神学の理論化に繋がったとともに、宗教的な問題の裏に為政者の統治のシステムが隠されていたともいえるものでした。
    異端審問は西ローマ帝国が滅亡し、その後に混乱期があったことで、その期間は特に動きはありませんでした。それが中世になって、各地の諸勢力分布が確定しつつ、キリスト教の権威を集中化させることで機能していきました。その背景の一つとして、信徒活動が活発化したことも関係しているわけです。

     

    異端審問に関連して、魔女狩りというものもありました。これは異端審問の形式がありますが、必ずしも同じものではありません。
    そもそも異端審問とはキリスト教信仰という点では同じでありながら、異端の信仰を持つ人が対象であるのに対し、魔女狩りは、キリスト教信仰すらない人が対象でした。この魔女狩りについては、改めて取り上げたいと思っています。

     

    異端審問が本格化したのは12世紀に入ってからでした。直接の影響はカタリ派でした。カタリ派を異端とし、その地域の領主たちが個別にカタリ派を捕縛し、裁判を行っていましたが、1184年のルキウス3世による教皇勅書『アド・アボレンダム』により、教会での公式な異端審問の方法が示されることになりました。ただ教会には司法権や処罰権がありませんので、この勅令による教会での異端審問システムは、それほど機能していなかったともいわれます。むしろ、その後に領主たちによって、教会の異端審問を補助するスタイルをとることで、異端審問の結果、有罪判決を受けたのち、領主が処罰するという流れになっていきました。このようなスタイルになると、様相が一変しました。
    この異端審問システムを積極的に取り入れたのが神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世で、法制化し、皇帝のという権限によって死刑までできるようにしたのでした。
    この審問は現在の裁判だけでなく、当時の一般的な訴訟とも異なっていました。異端審問の場合は、異端審問官によって、自らが起訴することができ、しかも自らの裁量で裁くことができたのです。そのため、証拠もうわさ話が採用されたり、密告者の証言だけで逮捕することができたのです。しかも証言者の名は被告には告げられませんでしたから、偽証があっても判断不能だったのです。

     

    異端審問という制度は、フランスや神聖ローマ帝国だけでなく、さらに北方のスカンジナビア諸国などにも拡大していきました。しかし、すべての地域で定着したわけではなく、地域による差異は大きく、穏健な形式のものへと変容していきました。イングランドの場合は、異端審問という制度は伝わったと思われますが、はほとんど行われなかったといわれます。
    中世の異端審問とは、西ヨーロッパ地域を中心に一般化したものの、実際にはそれほど多くの人々が処刑されたものではないようです。カタリ派のような、カトリックから見て明確な異端派が多くなかったことも関係するといえます。

     

  • リオハ(Rioja)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はリオハ(Rioja) について勝手に語ります。

     

     

    リオハ(Rioja)は、スペインのラ・リオハ州を中心として、バスク州アラバ県とナバーラ州にまたがったワイン産地です。スペインワインのデノミナシオン・デ・オリヘン(DO)、いわゆる原産地呼称では、「特選原産地呼称」(DOCa)という最上級に認定されています。
    この地域でブドウの栽培がされているのはするエブロ川(Ebro)流域で、カタルーニャ語ではエブラ川(Ebre)です。この川は紀元前264年から紀元前241年の第一次ポエニ戦争後には、北岸のローマ人領域と南岸のカルタゴ人領域というように、自然の境界という役割を担っていましたことで知られます。またスペイン内戦の際には、もっとも激しかった戦場でもありました。
    ワイン産地としては、リオハ・アルタ、リオハ・アラベサ、リオハ・バハの3地区に分けられています。リオハで生産されるワインの特徴は、樽熟成を経て出荷されることで、このような産地は世界的に多くありません。

     

    リオハ地方でのワイン生産は歴史が古く、古代フェニキア人の時代にまで遡ります。出土品としては、古代ローマ時代のワインの発酵に使われた容器などがあります。
    リオハでのブドウ栽培に関する初の記録は、1063年の「ロンガレスの入植者に宛てた手紙(arta de población de Longares)」に残されています。さらに驚きなのは、1205年の食糧配給です、フアン・ド・プレハノ司教がリオハ地方のアルベルダ修道院に住む労働者のために食料配給をしていましたが、何と、一日三食すべてでワインを提供していたそうです。
    ワイン製法としては、フランスのボルドー製法とテンプラニーリョ種を組み合わせたもので、それがリオハのワイン産業として継続されるようになりました。19世紀からはスペイン北西部での高品質ワイン生産は、リオハだけとなったほどでした。

     

    リオハでブドウ栽培をしているのは約18,000人で、ワイン醸造をしているのは約2,500人だそうです。ブドウ栽培面積はラ・マンチャに次いでスペインで2番目に大きな面積を持ち、ワイン生産量は2億6,506万5,000リットルです。内訳は、赤ワインが2億3,925万4000リットル、白ワインが1,507万9000リットル、ロゼワインが1,073万2000リットルです。一部にスパークリングワインもあります。(Wikipedia参照)国内出荷量のほうが多いですが、国外出荷量も8,364万2,000リットルあります。
    テンプラニーリョ種の栽培比率はリオハ全体で約80%を占めています。その他の品種では、ガルナッチャ種、グラシアーノ種、マスエロ種などです。独特のブレンド比率もあり、高品質なワインを生産しています。

     

     

  • ウンコヴィツェ (Unkovice)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はウンコヴィツェ (Unkovice) について勝手に語ります。

     

     

    ウンコヴィツェ (Unkovice) と聞いて、すぐに分かるという日本人はほとんどいないでしょう。チェコの南モラヴィア州(Jihomoravský kraj)ブルノ・ヴェンコフ郡に属している村で、人口は1000人に届きません。ディイェ・スヴラトカ谷のスヴラトカ川沿いに位置し、チェコでは貴重なワイン産地です。ヴェルコパヴロヴィツカー・ワイン産地に属しています。
    この周辺地域は歴史的にモラヴィア地方の中心地でもあり、南モラヴィア州は現代でもチェコ南部の重要地域になっています。

     

    ウンコヴィツェは小さな村のため、残念ながら鉄道の便はよいとはいえません。村の最寄駅はジャブチツェ駅で、この路線はチェコ鉄道ハヴリーチクーフ・ブロド – クーティ線になります。この路線は3区間になっていて、最も古い1839年に運行開始されたのがハヴリーチクーフ・ブロド – クーティ線、次に1900年のブラチスラヴァ – ブルジェツラフ線です。ただこの路線は、1848年にウィーンからブラチスラヴァの路線の一部として開業したものを延長したもので、1891年にデヴィーンスカー・ノヴァー・ヴェスからクーティ間が開通し、そして1900年にクーティからブルジェツラフ間が開業して全線開通したのでした。
    この路線はドイツとチェコからスロヴァキアやハンガリーを結ぶ国際幹線になっています。そのため、普通列車だけでなく、快速「レギオナルエクスプレス(REX)」、超特急「ユーロシティ(EC)」 「レイルジェット(railjet)」「レギオジェット(RJ)」、それに寝台特急「ユーロナイト(EN)」などが運行しています。
    最も新しく1953年運航開始したのがブルノ – ハヴリーチクーフ・ブロド線で、この路線でも快速「スピェシニー(Sp)」や特急「リフリーク(R)」などが運行しています。
    さて、ウンコヴィツェへの駅からの行き方ですが、ジャブチツェ駅の東側出口が出発点になります。駅からウンコヴィツカー通りまでは750mほどの距離があります。さらに村役場まではさらに2㎞弱の距離があります。
    ジャブチツェ駅は特急も快速も停車しませんので、プラハ方面から特急に乗車した場合はブルノ本駅で各駅停車の普通電車に乗り換えが必要になります。

     

    距離的にブルノ(Brno)kら、それほど離れていませんので、ブルノ観光とあわせて日帰りもできます。のどかなワイン産地で、しかも日本人にはほとんど知られていない場所を尋ねるのは魅力的です。早くコロナが収束しないかと願う限りです。

     

     

  • ストルマ川(Струма)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はストルマ川(Струма)について勝手に語ります。

     

     

    ブルガリアの南西部にワイン産地があります。
    ストルマ川(Струма)の谷の地域で、マケドニアの歴史的地域んも一部になっています。それほどブドウ栽培の面積は広くないものの、気候的に恵まれていることで、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどが栽培されています。

     

    ストルマ川は、古代ギリシャの時代から知られていて、ヘシオドスの『神統記』では、河神の1人で登場しています。
    紀元前437年には、河口近くにギリシャの植民市が建設されています。エネア・オドイ(9人の道)という地名で、これは、期限前480年にアケメネス朝のクセルクセス1世がストルマ川を渡る際に、生きた9人の少年と9人の処女を川の神への生贄として捧げたということに由来します。
    さらに川の名の由来としては、トラキア語のストリュモン (Strymón) で、「流れ」を意味します。トラキアの王が川で溺死したという伝承もあり、ギリシア神話で「ストリュモン」とは河の神であり、溺死したトラキア王の名を意味しました。

     

    ストルマ川沿岸にはサンダンスキ(Сандански)という都市もあり、この地名は、内部マケドニア革命組織(Вътрешна македонска революционна организация, ВМРО)の指導者のヤネ・サンダンスキにちなんで命名されました。
    この組織は、1893年が起源で、当時オスマン帝国支配下だったテッサロニキで発足しました。差塩は小規模な反オスマンのマケドニア・スラヴ人革命組織でした。ブルガリア人が支配するようになり、秘密革命組織として19世紀末から20世紀はじめにかけて活動していました。目的はマケドニアに自治国家を打ち立てることでした。
    オスマン帝国に対する武装組織から、第一次世界大戦や第二位世界大戦での活動、そして戦後の共産主義体制の支配下での崩壊がありましたが、チトーが1980年に死去し、ユーゴスラビアの解体が進んだことで、再び内部マケドニア革命組織が復活しました。1990年7月17日にスコピエで結成されました。しかし、この新しい内部マケドニア革命組織は、かつての内部マケドニア革命組織とは、直接つながるものではありません。
    ブルガリアでは1996年に、内部マケドニア革命組織の指導者たちによる政治政党が誕生しました。名称は「内部マケドニア革命組織・ブルガリア国民運動」(ВМРО – Българско национално движение、Balgarsko Nacionalno Dvizhenie、en)、略称ВМРО-БНД(VMRO-BND)になりました。政党としては小さいままでしたが、ブルガリアでは貴重な右翼政党なのは間違いありませんでした。

     

    なお、サンダンスキですが、ローマ帝国の奴隷スパルタクスの出身地です。
    このスパルタクスの乱は第三次奴隷戦争(Tertium Bellum Servile)で、紀元前73年から紀元前71年にかけて起きたものでした。共和政ローマ期の戦争で、イタリア半島でローマ軍と剣闘士・奴隷が戦いました。3回の奴隷戦争の中で、最後のものであり、しかもて最大規模のものでした。この剣闘士・奴隷側の指導者がスパルタクスでした。
    20世紀のロシア革命があり、ユーゴスラヴィアも共産化への道を歩みましたが、その原点であるカール・マルクス(Karl Marx)は、この戦争を評価していました。彼は最も尊敬する歴史上の人物としてスパルタクスの名を挙げていました。さらには、スパルタクスの名は解放を求める労働者階級の象徴となりました。社会主義者・共産主義者の偶像的存在にまでなったのでした。
    ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин)が始動するロシア革命では、「階級闘争」という歴史観が一般的で、スパルタクスの乱も当然のように組み込んでいました。さらにレーニンは、被抑圧者が解放を求める最大の内乱であったと評価していました。
    時代を超えた不思議な縁を感じます。

     

  • 10月3日(Deutsche Wiedervereinigung)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    2020年10月3日の今日は、ちょうど30年前に東西ドイツ統一(Deutsche Wiedervereinigung)がなされた記念の日です。
    今回はその記念すべき日について勝手に語ります。

     

     

    この統一は、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が壊され、東欧革命を経て念願の統一を果たしたわけです。
    東西ドイツは対等の関係で合併したわけではなく、西ドイツが東ドイツを吸収した形になりました。さらにいうと、西ドイツは、第二次大戦後の建国以来、「憲法(Verfassung)」がありませんでした。その理由が、統一をするときに憲法を持つという方針があったからです。それまでは「基本法(Grundgesetz)」が憲法の代わりを担っていました。その基本法第146条にその旨が明記されていたのでした。
    ところが実際には、1989年のベルリンの壁の崩壊以降、統一という動きではなく、基本法第23条の手続きをしたのでした。これは西ドイツが新たな州の「加盟」を認めるというもので、東ドイツ内の5つの州、都市州の東ベルリンを西ドイツの連邦に新たに「加盟」するというものだったのです。これで事実上の国家統一を成し遂げました。つまり、厳密にいうと東西統一ではなく、東ドイツのすべての州を西ドイツに組み込んだというものでした。
    国土をなくした東ドイツは必然的に消滅することになりました。

     

    また、この東西ドイツ統一については、「ドイツ統一」と呼んだりしますが、厳密には「再統一」が正しいといえます。
    ドイツの歴史用語、あるいは政治用語では、ドイツ統一とは1871年1月18日のドイツ帝国の成立を指すもので、1990年の統一は、「再統一」という扱いであり、明確に区別されています。

     

    この統一の前に、通貨統合が先になされました。
    ドイツ・マルクを東西で1:1という通貨交換をしたのでした。東西格差が激しい状況で、この条件というのは西ドイツにとって大きな被害が出ました。その額が5000億マルクで、これが一瞬でなくなってしまったのと同じことでした。これは当時の日本円では約3兆5000億円に相当する額でした。まさに赤字転落でした。さらに、旧東ドイツでは、国営企業しかなかったものが、国家がなくなり、民営化されたことで、西側の競争に勝てるわけはなく、倒産が相次ぐことになりました。その結果、東ドイツでは失業者数が激増することになりました。
    このことは、のちにネオナチにも関係していきました。東西分断時代には封印されていた思想です。
    同じドイツ民族なのに、旧東ドイツ側は旧西ドイツ側の移民より貧しい生活を強いられる状況から、極右政党により移民排斥が主張されました。旧東ドイツ側の失業者が共感し、格差社会の問題を露呈させました。
    それでも旧西ドイツは統一後も旧東ドイツ側への援助コストを続け、その結果、旧西ドイツ経済は圧迫を強いられることになりました。

     

    さて、10月3日ですが、ドイツにでは祝日と定められています。ドイツ再統一の記念日(Tag der Deutschen Einheit)であり、ドイツ連邦共和国の建国記念日になっています。
    当初はベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日に基づいて、11月9日が国民の祝日に指定されていました。これを再統一成立の10月3日に変更しました。実は、11月9日は、1923年にはミュンヘン一揆(München Putsch)、1938年には水晶の夜(Kristallnacht)がそれぞれ起こった日でした。国民の祝日とするのは不適切であるとなったのでした。
    今年は再統一30周年の大々的なイベントも企画されていたようですが、コロナウイルスの影響で、残念ながら大きなイベントは中止になりました。それでもイベントが皆無になったわけではなく、ブランデンブルク州では、30周年記念のフェスティバルをポツダムで行います。ベルリンでは統一30周年記念としてダニエル・バレンボイムの指揮によるベートーベン第7番交響曲の演奏があります。コロナ対策のため、当初の人数では開催できないようですが、それでも注目の演奏です。

     

    個人的な話でいうと、統一の10月3日は、ドイツの田舎町で過ごしました。10月なのに暑い日でした。
    地元の老人たちと芝生の上でビールを飲み、穏やかな一日を過ごしました、テレビではベルリンの光景も放映されていましたが、とてもそこまで行く気にならず、ネッカー川の流れを見ながら感慨深さを堪能していました。懐かしい思い出です。
    あれから30年。歳をとったものです。

     

  • ボルドー(Bordeaux)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は都市としてのボルドー(Bordeaux)について勝手に語ります。

     

     

    ボルドー(Bordeaux)については、「ボルドー・アキテーヌ公国の首府」として紹介したり、「ボルドーとブルゴーニュの違い」など、このワイン・ブログでは数多く取り上げてきました。
    今回はワイン産地としてのボルドーではなく、都市としてのボルドーという視点で取り上げてみます。

     

    ボルドーの市街地は、2007年に世界遺産に登録されました。その登録された市街地は1810ヘクタールに及び、18〜19世紀の都市計画による街並み、それに歴史的な再開発などが評価されたものでした。 この都市計画により、中心部から北側へは大通りが貫き、南側は旧市街地らしい狭い道路が、まがりくねった欧州らしい一画になっています。
    都市としてのボルドーが、もっとも特徴的な面といえば、市街地の形はガロンヌ川の湾曲部にそっている点といえます。その形が三日月形のため、月の港とも呼ばれます。ドイツのハンブルクと同じように河口を使った港町でもあります。
    中心市街地のメリアデック(Mériadeck)では、1960〜1970年代に大規模な再開発が行われました。人と自動車の通行を分離することを目的に、道路上に歩道が建設されたのでした。ただ、おの開発についての成果には賛否両論あるようです。また、2000年代に入ってからも新たな再開発が始まりました。このときに路面電車の復活などがありました。
    位置的には、首都のパリからは直線距離でパリから約500km離れています。スペインのサン・セバスティアンのほうが近く、約200kmという距離です。

     

    ボルドーが町として創設されたのは、紀元前300年にまで遡ります。町の建設はケルト系ガリア人によるものでした。当時はブルティガラと呼ばれていました。
    その後、ローマの占領地となり、交易港、ワイン生産により発展していきました。大司教座がおかれたのは4世紀で、西ローマ帝国が崩壊後にはゴート人に支配されました。また、一時期はイスラム軍に占領された時代にありました。そしてアキテーヌ公国の首府です。イングランドが撤退し、フランス王の支配になってから、黄金時代を迎えることになりました。17世紀半ばからフランス革命期までは、まさにボルドーの絶頂期で、この時期に近代的な港も整備されました。ワインだけでなく、植民地で生産された砂糖やコーヒー、さらには奴隷なども商品として取り扱い、ドイツやオランダなどの販売する中継貿易が繁栄したのでした。
    その貿易額ですが、フランス革命前年のには1億1000万リーヴルを超えていたました。この額は貿易都市のマルセイユより2倍以上も多いものだったのです。
    それだけ裕福となった都市ということもあり、大司教や地方長官などは、都市の整備を徹底していきました。城壁の整備だけでなく、郊外の沼地まで干拓し、都市開発を行ったのが、現在の世界遺産に繋がったわけです。オスマンのパリ改造より100年も前に行った都市改造だったのでした。

     

    フランス革命が起こると、ボルドーは穏健共和派のジロンド派が本拠地としました。そのためジャコバン派による報復もありました。
    さらに1871年の普仏戦争の敗勢状況は、ボルドーで国民議会が開催されました。ボルドーにフランス政府が置かれることになりました。このように臨時の首都となったのは、第一次世界大戦、第二次世界大戦でもありました。

     

     

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