今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • オラン(Oran)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオラン(Oran)について勝手に語ります。

     

     

    イスラム教の国家でありながら、ワイン生産をするアルジェリアは、以前に「古代カルタゴから続くアルジェリアワイン」で取り上げました。今回はノーベル文学賞受賞者のアルベール・カミュの「ペスト(La Peste)」の舞台となったオラン(Oran)に焦点をあててみます。

     

    オランはアルジェリア第2の都市で、人口は116万人を超える大都市です。
    アルジェリアを代表する港町ということもあり、イスラム教の国でありながら夜の賑わいも華やかです。飲酒できるバーが建ち並び、様々なショーが催される店舗もたくさんあります。港町特有の開放的な歓楽街がある一方で、大学都市でもあり、旧市街地には歴史的な遺産も多く残っています。

     

    もともとはイスラム教勢力が地中海を超え、イベリア半島にまで達したことにより、そこへ向かう拠点であり商業地として都市がつくらえました。小麦粉などはイベリア半島への供給地にもなっていました。
    しかし、イスラム教世界としての繁栄は、1509年にスペインのフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス(Francisco Jiménez de Cisneros)により占領されたことで止まりました。彼はカトリックの異端審問所長官としての情熱にあふれ、スペイン王のフェルナンド2世の野心が合致したもので、オラン攻略を進めたのでした。
    1708年にはオスマン帝国に征服され、1732年になると再びスペインが奪回するというように、オランを巡っての攻防戦は続きましたが、スペイン王カルロス4世はオランの重要度が低くなったとして、オスマン帝国に売却し、1791年からオスマン帝国に編入されました。
    このオスマン帝国の支配は1830年まで続き、次にフランスにより占領されました。これはフランスがアフリカの植民地の拠点とするためでした。さらに1831年にはフランスに併合され、ヨーロッパからの入植者が増加しました。そのためヨーロッパ的な近代的都市へと変貌していきました。

     

    フランスに併合されてからのオランはヨーロッパ系の入植者が多く居住し、まさにカミュの「ペスト」の舞台にふさわしい都市として繁栄していました。
    そして第二次世界大戦では、事実上のドイツ占領下になり、1942年に連合国軍が奪還し、再びフランスが占領されるようになりました。
    そしてアルジェリア独立戦争です。オランはフランス領であり、フランス人だけでなく他のヨーロッパ系の移民が多く居住する都市でした。これがアルジェリア独立戦争により、ヨーロッパ系住民やユダヤはがフランスなどへと脱失していきました。これは、1962年7月5日に、オランではヨーロッパ人大虐殺ということがあったことも関係します。ただこれはオランはの人口を大幅に減少することにも繋がり、半分にまでなったといわれています。

     

     

    それでもアルジェリアとフランスの関係は、現在でもワインではまだまだ強く、アルジェリアのワインの大部分はフランスに輸出されています。

     

  • ニクシッチ(Никшић )

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はニクシッチ(Никшић )について勝手に語ります。

     

     

    モンテネグロは2000年以上の歴史を持つワインの特産地ということもあり、以前に「モンテネグロの歴史とワイン」で取り上げ、その首都の「ポドゴリツァ(Podgorica)」も紹介しました。日本ではなじみのないモンテネグロですが、フランスやイタリアよりも歴史が長いので、今回は第二の都市を紹介したいと思います。ニクシッチ(Никшић )です。

     

    実は首都のポドゴリツァは、2つの自治体によって構成されているため、単独の都市の規模としては、ニクシッチがモンテネグロ最大です。と、いっても人口はわずかに7万5千人程度で、市街地に限れば5万8千人ほどです。モンテネグロ人が9割近くを占め。残りがセルビア人とムスリム人で、ごくわずかにロマもいます。ムスリム人はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代に少数民族と規定されていました。
    都市としてのニクシッチの歴史は、4世紀にまで遡れます。その時代にゴート族によって築かれました。その当時の都市名はアナガストゥム(Anagastum)で、ゴート語でした。ゴート族は古代ゲルマン系の民族で、世界史の教科書でおなじみの「ゲルマン民族の大移動」によって南下してきました。ローマ帝国と戦った民族として知られますが、一方でローマ帝国の文化を取り入れつつ、ローマ軍の傭兵になったりもしました。西ローマ帝国末期には重要な役割を担っていました。

     

    しかしゴート族以前のバルカン半島の西部には、イリュリア王国がありました。イリュリア人による国家ですが、実はイリュリアについては現在でもよくわからない部分が多くあります。特にイリュリアの国境線があいまいで、イリュリア人の勢力範囲とイリュリア王国の支配地が一致していないようなのです。
    民族も非インド・ヨーロッパ語族の祖先と混合したと考えられていて、信仰も人身を生贄とする宗教だったようです。アレクサンドロス大王との戦いでは、三人の少年と三人の少女、三匹の子羊を生贄にささげているといわれています。
    ニクシッチにはこのイリュリア時代だけでなく、古代ローマ時代の歴史的遺産が多く残されています。

     

    現在のニクシッチは、首都のポドゴリツァと鉄道で結ばれています。
    ニクシッチ=ポドゴリツァ鉄道(Nikšić-Podgorica railway)ですが、もともとは旅客用ではなくニクシッチのボーキサイト鉱山の鉱石をポドゴリツァのアルミニウム工場(Podgorica Aluminium Plant)へ輸送することを目的としたものです。慢性的な資金不足、さらに保守点検が不十分という状況が続き、旅客運転をとりやめたり、運転速度を30km/hにまで落としたりしていました。
    不完全な貨物専用鉄道となったわけですが、首都と第二の都市を結ぶ鉄道が、このような状態を打破するため、再建計画だけでなく、完全電化をするための計画が遂行されました。請負はチェコの合弁企業でした。しかし、完成予定の2009年になっても未完成で、しかも資金的な問題が出ていました。
    この区間が電化で完成した場合、ポドゴリツァとニクシッチの間はわずか40分程度になります。残念ながら完成したのかどうかは知りません。

     

     

  • トロイ(Troy)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はトロイ(Troy)について勝手に語ります。

     

     

    トロイ(Troy)の木馬、あるいはトロイアの木馬といえば、もともとはギリシア神話に登場するものです。ところが現代では、有用なプログラムやデータファイルのように思われたものが、実は内部にマルウェアとして機能する部分が隠されていて、何らかのトリガによりそれが活動するように仕組まれているファイル等を指すものになっています。
    ギリシア神話では、トロイア戦争でトロイアを陥落させるための秘密兵器みたいなもので、これが内通者や巧妙に相手を陥れる罠のことを「トロイの木馬」と呼ぶようになったことから、現代の厄介なコンピューターウイルスの一種の名になったわけです。
    では、トロイとはどこにあったかご存じでしょうか。これだけ有名で、しかもヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann)による発掘でも知られていますが、その場所についてはあまり知られていないかもしれません。

     

    トロイは英語表記で、古代ギリシア語ではイリオスといいます。
    肝心な場所はというと、現在のトルコ北西部でダーダネルス海峡の東側、つまりアジア側で、南の方向です。

     

     

    そしてトロイア戦争ですが、神話とは別に歴史的、考古学的な視点でいうと、いくつかの説に分かれます。紀元前1250年頃に起きたという説、紀元前1700年から紀元前1200年頃の説などがあり、架空の戦争だったという説まであります。
    もともとは伝説上の都市だったというのが一般的で、それを覆したのが19世紀末のシュリーマンだったという逸話は有名です。彼によって遺跡が発掘され、発掘した複数の時代の遺跡の中から、第2層のものがトロイア戦争の遺跡と推測しました。しかし、後に判明したことですが、第2層は紀元前2000年よりも前の地層であることが分かったため、これはトロイア戦争以前のものであることが分かりました。
    ヴィルヘルム・デルプフェルトは第6層がトロイア戦争時代と推測しましたが、1930年代の再調査により、地震の可能性が強いと推測されました。
    結局、今では、第7層が戦争による人為的な破壊であり、トロイア戦争の時代であると考えられています。
    しかし、トロイア戦争が古代ギリシアの叙事詩による架空のものではない可能性は高いというものの、それが実際に侵略戦争によるものかどうかは確定しているわけではありません。

     

    他の国の史料でトロイ関連のことを見ていくと、紀元前13世紀中ごろのヒッタイトの史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサというのがあります。これはがトロイアに相当するといわれています。この史料はヒッタイトのトゥトゥハリヤ4世の治世で、この時代のヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しています。パリスの別名がアレクサンドロスであったことから、この史料の記録は少なくともトロイア戦争と関係性が皆無ではないと推測されています。

     

  • ルクセンブルク語入門(Lëtzebuergesch)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はルクセンブルク語入門について勝手に語ります。

     

     

    フランス語、イタリア語、ドイツ語に続いて、今回はルクセンブルク語です。
    国名としてはともかく、言語としては聞きなれないかと思います。それもそのはずで、もともとはドイツ語で、その中の高地ドイツ語の中部ドイツ語に属する方言(モーゼル・フランケン方言)なのです。 ところがフランスとドイツに挟まれた小さな国だけあって、公文書はフランス語、日常使うのはドイツ語方言となっています。では、ルクセンブルク語とは何かといえば、ルクセンブルクで使われるドイツ語の方言を、「国語」としたもので、1984年に正式にルクセンブルクの公用語という扱いになりました。

     

    したがってルクセンブルク国内の公用語がルクセンブルク語となるわけですが、もともとがドイツ語の方言なので、国外にも使用する地域があります。具体的には、ベルギーでは、リュクサンブール州アルロン行政区、リエージュ州ブルク=ロイラントとザンクト・フィート周辺地域、フランスではロレーヌ地域圏モゼル県北西部、ドイツではラインラント=プファルツ州西部のビットブルク、トリーア周辺地域です。また移民がそのまま使用する地域もあります。
    しかし、それらを合計してもルクセンブルク語の話者は全世界で30万人程度です。これでは日本で学習者がほとんどいないのも頷けます。

     

    ドイツの方言ということで、ドイツ語を話す人にとっては容易な言語な気もしますが、実は必ずしもそうではないのが困ったものです。やはりフランス語の影響が強く、語彙がドイツ語由来だけでなくフランス語由来のものがかなり多くあります。フランス語を少しでも理解していて、なおかつドイツ語を話す人であれば、聞きとりに関してはそれほど難しくないかもしれませんが、ルクセンブルク語を話すというのは相当に難しいといえます。
    いわば、ドイツ語とフランス語が入り乱れた言語なので、そういう意味でおもしろいともいえます。

     

    では、具体的にドイツ語とフランス語との比較でルクセンブルク語を見ていきましょう。
    まず、あいさつ言葉で、フランス語では有名な「bonjour」です。ルクセンブルク語では「moien」。ドイツ語だと「Hallo」なので、どこにも似ていない印象を持つでしょうが、ドイツ語のハンブルク方言では「Moin」ですから、ルクセンブルク語と似ています。ただし、日本のドイツ語の教科書には出てこないものなので、北ドイツ居住者でないとこの似た感じは分からないかもしれません。
    今度はお礼の言葉です。フランス語では「merci」、ルクセンブルク語では「merci」なので同じスペルです。ドイツ語だと「danke」なので、似ているとはいえません。
    肯定と否定、ようするに「はい」と「いいえ」は、フランス語で「oui」と「non」、ルクセンブルク語では「jo」と「neen」、ドイツ語は「ja」と「nein」。フランス語の「oui」だけが外れている感じです。
    子どもの複数形、通りなどはドイツ語の方言だというのが良く分かります。フランス語の影響は低い単語です。子どもたちは、フランス語で「enfants」なのに対して、ルクセンブルク語では「Kanner」、ドイツ語で「Kinder」。通りはフランス語で「rue」ですが、ルクセンブルク語では「Strooss」、ドイツ語では「Straße」です。

     

    このように比較していくと、ルクセンブルク語はおもしろいことがわかります。
    標準ドイツ語を話せれば、ルクセンブルクでの会話は困らないといわれていますが、残念ながら入国したことがありません。ぜひ、一度訪れてみたくなりました。

     

  • 先印欧語(Pre-Indo-European languages)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は先印欧語(Pre-Indo-European languages)について勝手に語ります。

     

     

    先印欧語(Pre-Indo-European languages)とは聞きなれない単語かもしれませんが、日本語を母語とするわれわれには興味深いことかもしれません。要するにインド・ヨーロッパ語族が占めている地域にありながら、それ以前から存在していた言語のことです。
    アジアの一部にもありますが、コーカサスやヨーロッパでは、そのままワイン産地でもあります。現在、多くは死語になってしまいましたが、フランスとスペインにまたがる地域には、現在でも生き残っている先印欧語があります。

     

    それがバスク語(euskara)です。
    バスク地方固有の言語で、話者はバスク人です。スペインでは、バスク州全域とナバーラ州の一部でスペイン語とともに公用語になっています。現在のバスク人は、スペイン居住者はスペイン語とバスク語、フランス居住者はフランス語とバスク語を話します。
    この言語は、現在使われているどの言語とも系統関係が立証されていません。フランス語圏とスペイン語圏に位置していても、それらの言語とも一切関係ありません。まさに孤立した言語です。

     

    唯一、バスク語と系統関係のある言語とされているのは、アクイタニア語(Aquitanian language)だけだといわれます。ただし、この古代言語は中世初期には消えてしまいました。
    紀元前58年のガリア戦争以前からバスク地方に居住していた人々がアクイタニア人で、話されていた言語がアクイタニア語でした。これがバスク語の祖先、あるいは近縁言語だとされています。他の地域ではバスク語に近い言語はありませんでした。
    バスク語については、文献や碑文などで残っています。特に10世紀以降になると、バスク語の人名、地名などが記された文献が増加しています。

     

    非インド・ヨーロッパ語ということで、具体的にどのような言語なのか、想像するのが難しいのですが、文法的には能格言語(Ergative language)だといいます。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じように扱われる言語で、他動詞の主語だけが能格性といって、別扱いを受けるというものです。
    これに対して日本語の場合は対格言語になります。自動詞の主語も他動詞の主語も助詞が付き、他動詞の目的語にも助詞が付きます。自動詞の主語と他動詞の主語が同じ標識で示される場合が主格となります。他動詞の目的語の格が対格となります。そのため能格性ではなく対格性となるわけです。

     

    バスク語の発音は、母音、二重母音、中母音、子音・半母音に子音と3種類の無声摩擦音が存在します。また語幹末の低母音の削除と交替などがあります。
    文字はラテン文字を使っています。スペイン語のアルファベットと同じです。そのため、基本の26文字に変音の「Ñ」が加わります。ただし、「C, Q, V, W, Y」は外来語専用表記です。

     

    日本語も独自性の強い言語で、孤立した言語(language isolate、isolated language)でもありますから、先印欧語にも親近感がわいてきます。

     

  • die Taverne

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドイツ語の「Taverne」、フランス語の「taverne」について勝手に語ります。

     

     

    ドイツ語でもフランス語でも同じスペルの「taverne」ですが、日本では「酒場」と訳すのが良いか、日本風に「居酒屋」とでもすればよいのか、何ともいえません。
    ヨーロッパの場合、庶民が料理とともに酒を楽しむ店舗の誕生は、11世紀頃からだったといわれます。一般の農民が土地を所有できるようになり、十字軍の時代でもあったことから、圧倒的に都市や村々の交流が増加したことも背景にあります。もともとは、ドイツではビール、フランスではワインが規制対象だったことから、権力を持つ諸侯たちの利権でした。それが、権力者による酒場の認可権が手放されたことにより、様々な「taverne」が誕生することになりました。
    地方の村では、純粋に地元住民のコミュニケーションの場になっていきましたが、都市部では、上流階級の社交場と、下層階級の娯楽の提供場所と分かれました。娯楽には賭博や売春なども含まれていました。
    また、教会や修道院なども酒場を経営するようになりました。

     

    その教会や修道院が経営する酒場というのは、巡礼者のためのものでした。そこで提供される酒の主役はやはりワインでした。
    単に酒場だけでなく、宿泊できる施設と一緒になったものとしては、オーベルジュ(Auberge)ですが、現在ではレストラン主体のホテルのような印象になっているかもしれません。大衆的な酒場としては「キャバレー」、「タヴェルン」、「ガルゴット」、「ギャンゲット」などがあります。
    ただワインが大衆的な飲み物になったのは18世紀からで、呼び名も様々になっていきました。

     

    ドイツでもフランスと同じように教会や修道院経営の酒場があり、巡礼者のためだけでなく地元の人々が集まる場所になっていました。
    現在ではドイツと言えばビールでしょうが、この頃は酒類としてはワインが主体でした。ビール主体になったのは18世紀頃だったようです。
    ドイツで特筆すべき点は、農民戦争と30年戦争です。この悲惨な戦争では、それぞれの村の酒場が蜂起した農民たちの集会所となっていました。しかし、フランス革命後、教会や修道院の領地が没収されたことで、修道院経営の酒場がなくなってしまいました。そこで酒場もフランスと同じように多彩な施設が増加するようになりました。
    また、現在のドイツはガストホフ(Gasthof)などが各地にあり、これは家庭料理と酒類を提供する店舗と宿泊施設が一緒になったものです。フランスのオーベルジュより庶民的なイメージかもしれません。

     

    酒場というと個人的に思い出すのはホフブロイハウス(Hofbräuhaus am Platzl)です。ミュンヘン(München)にあります。
    もともとビールの醸造所を改造した巨大な店舗ですが、第一次大戦、ドイツ革命を経たワイマール共和国時代には、このようなスタイルの店舗がベルリン市内で1万6000軒以上あったといわれます。その中で1928年に開業した「ハウス・ファターランド」は2500人も収容可能な店舗でした。ベルリン最大でした。
    さらにこの時代のベルリンは、世界各国、様々な文化圏の酒場やカフェが誕生し、日本でも放映されたドイツのテレビドラマ「バビロン・ベルリン(Babylon Berlin)」の夜の風景がそのままあったようです。

     

    ワインやビールを気軽に飲む場所は、現在のヨーロッパにはたくさんあります。
    新型コロナウイルスの世界的蔓延により、海外への渡航が制限されていますが、このような酒場を知ることで、今後またコロナ収束後の旅行の際の参考になればと思っています。

  • ネルトリンゲン(Nördlingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はネルトリンゲン(Nördlingen)の思い出について勝手に語ります。

     

     

    ロマンティック街道といえば、ワイン産地として知られるフランケンからアルプスのぶもとまで伸びる街道で、ほぼ南北に走っています。具体的にはヴュルツブルクからフュッセンまでの約400㎞に及びます。
    しかし、街道として1本の道路が走ってるわけではなく、観光名所を地図の上でつなげたものです。観光順路のような役割で、「観光街道」「休暇街道」(Ferienstraße)となっています。
    この街道沿いにあるネルトリンゲン(Nördlingen)には、ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)方面から南下して訪れた思い出があります。

     

    今ではロマンティック街道沿いに観光都市として知られますが、歴史的には三十年戦争の影響が大きいものでした。それがネルトリンゲン包囲戦であり、ネルトリンゲンの戦いでした。これでスウェーデン・プロテスタント軍はハプスブルク軍に敗れたのでした。
    ネルトリンゲンは高額の賠償金を支払うことになりました。ただこの支払いをすることで、略奪行為からは免れることにも繋がりました。その一方で二度の戦闘により、住民は大きく減少することにもなりました。飢餓や病気が原因でした。
    その後にヘーヒシュタットの戦いが起こりました。これはスペイン継承戦争でしたが、これでも都市としては打撃を受けました。
    最終的に、ネルトリンゲンは戦争による交易の停滞期間が続くことになりました。その代わりに中世の風景がそのまま現代まで残ることにもなりました。

     

    まだアウトバーン7号線が途切れている時期で、25号線に沿っての移動となりましたが、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)から南側へと向かうルートは、なかなか快適だったことを覚えています。
    ネルトリンゲン中心部へは、25号線から29号線に入って南下し、東南方面にのびるロマンティック通りへと入ります。エーガー川の手前で、右折し、その先を左折してインネラーリングに入りました。ここは完全ではないもののネルトリンゲンを半分以上周回できる通りになります。その内側が中世からの市壁です。1327年当時の姿を残す市壁は、5つの楼門、11の塔、2つの堡塁があり、しかも市壁の内側の通路も完全に保存されています。

     

    西のバルディンガー門から市壁の内側へと入りました。途端にタイムスリップしたかのように中世の街並みが広がります。
    街の中心部にあるマルクト広場は、中世には毎年見本市が開催されたようです。マルクト広場とセットになっているのは、市庁舎と聖ゲオルク教会です。この教会は、1427年から1505年に建造されたもので、ゴシック教会です。

     

    初めて訪れた頃は、まだドイツ語も十分に活用できていなかったので、この地域の言語についてはよくわかりませんでした。しかし2度目の際は、ここまでシュヴァーベン語(Schwäbisch)が使われていることに驚きました。アレマン語に属するもので、バイエルン州やオーストリアのチロルの言葉にイメージが強かったので、おそらく北限地域なのだろうと思った次第です。
    ちなみにこのシュヴァーベン語ですが、現在完了形の過去分詞が標準ドイツ語と異なります。

     

    Er hat am Fenster gesessen. → Er ist am Fenschter gesesse.
    ※ 参照:Wikipedia

     

    まず、ドイツ語の現在完了形は基本的にはhaben支配ですが、標準ドイツ語でも、いくつかは sein支配になります。4格をとる他動詞は全てhaben支配ですが、自動詞の一部がsein支配となります。
    それが上記の場合ですが、gesessen が gesesse となるのはともかく、この不定形が「sitzen」です。「座っている」という動詞ですが、使い方はいろいろあって、例えば「am/hinter dem Steuer sitzen」などは「運転する」となったり、「tief sitzend」は「根絶できない」や、「特有な」などとなります。
    標準ドイツ語ではhaben支配ですが、シュヴァーベン語ではsein支配となります。

     

     

    滞在時間の短い街でしたが、中世の面影を残すネルトリンゲンは、お勧めの場所と言えます。

  • シャバツ(Šabac)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシャバツ(Šabac)について勝手に語ります。

     

     

    昭和57年10月23日に埼玉県富士見市と友好姉妹都市を締結したシャバツ(Šabac)は、セルビア西部の都市です。令和元年7月9日には、富士見市長とシャバツ市長とで「姉妹都市記念日に関する確認書」の署名も行いました。
    長年に及ぶ友好関係を気づいてきた両市ですが、富士見市民を除く日本人には、シャバツという都市はなじみがないといえるでしょう。

     

    このシャバツですが、ヨーロッパの都市ということで、支配者が度々入れ替わってきました。もともとのセルビア人統治から、オスマン帝国、それにハンガリー王国、オーストリア帝国などの支配を経験しています。
    そのような状況の中、1806年に第一次セルビア蜂起が起きました。セルビア人のカラジョルジェ・ペトロヴィチ(Karađorđe Petrović)が率いる反乱軍が、オスマン軍に対して初めて勝利を収めたのでした。その後、第二次セルビア蜂起があり、1820年からは、シャバツに病院や薬局などの医療施設や教育関連施設、文化施設などの設置が行われてきました。
    1867年には、オスマン軍は撤退することになりました。ようやくセルビア人の都市となりましたが、第一次世界大戦では戦火により、都市の大部分が破壊されてしまいました。人口も半減してしまいました。

     

    そして第二次世界大戦です。ナチス・ドイツにより支配され、強制収容所がつくられ、2万人が収容されたといわれます。死者数も7千人を超えたようです。
    パルチザンにより都市が解放されたのは、1944年になってからでした。
    その後は社会主義体制のユーゴスラビア連邦人民共和国の都市として、近代的な工業都市へと発展していきました。ナチス時代に減少した人口も増加していきました。

     

     

    セルビアというと、どうしてもユーゴスラビア連邦解体にともなう内戦の影響をイメージしてしまいます。
    今でもセルビアはコソボの独立を認めていないため、政治的にも民族的にも対立構造が続いている地域があります。 悲惨なボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は和平合意に達し、独立性を持つ国家体制を形成できましたが、われわれ日本人には理解できない状況だといえます。
    そのようなセルビアにあって、富士見市が長い期間、シャバツとの友好関係を築いているというのは特筆ものといえます。

     

  • アストラハン(Астрахань)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアストラハン(Астрахань)について勝手に語ります。

     

     

    キャビアにあうワインというと、白ワインと考えるかもしれません。キャビアは魚卵ですから、赤より白で、しかも辛口のシャンパーニュなどが最適ではないかと想像できます。
    しかし、実は実験してみればわかりますが、必ずしも赤があわないわけではありません。全く私的意見ですが、キャビアの塩味はかなり強烈に感じることがあるので、赤ワインで、和ませられる気がするのです。

     

    そんなキャビアですが、カスピ海で獲れるチョウザメからとれるものです。そのキャビア加工地で有名な都市がロシアのアストラハン(Астрахань)です。カスピ海岸から約90kmと離れていますが、ヴォルガ川下流域デルタに位置していて、11の島に市街が広がっています。人口は50万人をこえる規模です。

     

    アストラハンのあるカスピ海の北側から、コーカサス、黒海沿いにまで及ぶ地域は、7世紀から10世紀の間に栄えた国がありました。遊牧民族の国で、それがハザールです。
    実はこのハザールは、謎の遊牧民ともいわれています。起源も系統も不明で、テュルク系民族と推測されていますが、はっきりしていません。
    中国の『旧唐書』や『新唐書』に書かれている「突厥可薩部」がハザールと考えられています。
    ハザールで特筆することは、ユダヤ教の受容についてです。9世紀頃にユダヤ教に改宗したといわれますが、これについての史料が少なく、実態については謎に包まれています。
    なぜ、これが有名なのかというと、ドルトマルが864年に書いたマタイ伝の注釈が原因です、この中の記述に、ハザールのユダヤ教改宗があるのです。ユダヤ教に改宗したことで、東ローマ帝国やイスラム教諸国から迫害されてきたユダヤ人を、ハザール国が受け入れたといわれます。民族宗教であるユダヤ教が全く異なる民族の支配層に受け入れらるのは、世界史上、極めて珍しいことなのです。

     

    アストラハンはヴォルガ川右岸に開けていて、ハザール時代には主要都市であったことは間違いないようです。しかもハザールの首都は、アストラハンの南南西40kmにイティルという都市があったと推定されています。さらにアストラハンの北120kmには、やはり首都のサライがありました。しかし、ここは1395年にはティムールにより破壊され、その後にアストラハンが15世紀後半からアストラハン・ハン国の首都になりました。
    その後はオスマン帝国、ロシア帝国に支配され、国際的な交易都市となっていきました。第二次大戦では、ドイツ空軍による空襲も受けました。

     

     

    ヨーロッパで最も乾燥している地域のため、降水量が少ないのが特徴です。ただ、雨が全然降らないわけではなく、少ないながら安定した降水量を保っています、
    平均気温は乾燥地域にしては低く、砂漠気候ではありません。それでも夏は暑く、ロシアでは温暖な都市といえます。
    寒冷なロシアのイメージには合わないと都市です。

     

  • シラー(Syrah)とシーラーズ

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシラー(Syrah)とシラーズについて勝手に語ります。

     

     

    シラー(Syrah)といえば、フランスのワインの中で、コート・デュ・ローヌ地方原産の赤ワイン用ブドウ品種として有名です。オーストラリアではシラーズ(Shiraz)と呼び方が変わりますが、これも有名です。
    フランスのローヌ地方は、ボルドーやブルゴーニュと並ぶほどのワイン産地です。しかもシラーはローヌ地方の高級なワイン品種になっています。少しアルコール度数が高く、色は濃赤色、甘く香ばしい香りが特徴です。
    また、シラーはフランスでは他にラングドック=ルシヨン地域圏でも生産されています。フランス以外の国のヨーロッパでも産地はありますし、ヨーロッパ以外でも南米、北米、オーストラリアにあります。特にオーストラリアでは、シラーズ種のセパージュワインやカベルネ・ソーヴィニョン種とブレンドされたりしています。

     

    このシラーですが、もともとの原産地はイランだったという説があります。しかもイランのシーラーズという都市でも、シラーのワインが生産されているのです。
    このシラーズという都市は、1750年から1794年までザンド朝ペルシアの首都で、現在ではイラン南西部のファールス州の州都になっています。人口も100万人を超えます。

     

    都市創建伝説では、ペルシアの叙事詩『シャー・ナーメ』に登場し、古代イランの第3代目の王であるタフムーラスによる、というものがあります。タフムーラスそのものが伝説的人物で、悪魔の束縛者であり、世界中を駆け巡ったともいわれる伝説の王です。
    それくらい歴史が古いのを裏付けるように、この地域は紀元前700年ごろから最盛期を迎えたアケメネス朝ペルシア帝国の中心地でした。ペルセポリスの遺跡も、シーラーズから60km程度の場所に残っています。
    7世紀ごろからアラブ人勢力が拡大し、ブワイフ朝となりました。このときに都となり、都市としては城壁が整備され、モスクがつくられました。ホラズム・シャー朝、セルジューク朝と推移し、チンギス・カンに侵攻されました。

     

    1382年、1393年と2回はティムールに占領され、1630年、1668年には洪水により、都市が壊滅するほどの被害を受けました
    サファヴィー朝時代になると、エスファハーン同様にシーラーズが都市として整備されていきました。しかし、サファヴィー朝の衰退時期になると、1724年にはアフガニスタン人による征服され、都市の発展が止まることになりました。
    1750年にはザンド朝となり、シーラーズは首都となりました。このときに要塞、城壁、バザールなど、大規模な改修や再建がされました。再びシーラーズは繁栄することになりました。しかも過去洪水を教訓にして、灌漑施設も整備されました。

     

    ところが首都の輝きは長く続きませんでした。
    ガージャール朝にあると、テヘランが首都になり、シーラーズは要塞などが取り壊されてしまいました。さらに1824年には地震に襲われ、多くの建物が破壊されてしまいました。この地震は1853年にも起こり、被害が拡大しました。
    ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)をポグロム(погром )といいますが、シーラーズでも1910年に起きました。ユダヤ人がイスラム教徒の少女を殺害したという噂が原因でした。このポグロムがにより、多くのユダヤ人が犠牲になりました。
    パフラヴィー朝の時代になると、シーラーズに変化が現れました。この都市を「イランのパリ」にしようとして、イランの都市のなかで際立つほどの近代的な都市へと変貌していきました。

     

    これがイラン革命後には、政府はシーラーズはパフラヴィー時代の退廃の象徴と見なされるようになったのでした。これにより都市は衰退していきました。
    イラン革命のよる革命政府にとって、近代的な都市は嫌われ、伝統的なイスラム文化の都市を尊重したようでした。そのため革命後30年以上が経過しますが、未だシーラーズはパフラヴィー時代の退廃の象徴となっています。

     

     

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