今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • エスト! エスト!! エスト!!! ディ・モンテフィアスコーネ(Est! Est!! Est!!! di Montefiascone)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエスト! エスト!! エスト!!! ディ・モンテフィアスコーネ(Est! Est!! Est!!! di Montefiascone)について勝手に語ります。

     

     

    エスト! エスト!! エスト!!! ディ・モンテフィアスコーネ(Est! Est!! Est!!! di Montefiascone)とは、イタリア・ワインの銘柄の一つです。何とも奇妙な名称ですが、これは何世紀にも渡って語り継がれてきた伝説が由来となっています。
    12世紀に、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のドイツ人司教が、教皇に会うためにヴァチカンへと向かう旅に出ました。司教は部下の聖職者に命じていることがありました。それは、自分より先行してローマへの向かわせ、その経路沿いの村々で、最高のワインを探索させたのでした。
    そこで、聖職者がモンテフィアスコーネに滞在した際に、、この地のワインに感銘を受けました。後から来る司教が、素通りしないように、宿屋の入口に「エスト! エスト!! エスト!!!」と書き残したそうです。
    伝説ではありますが、このときのドイツ人司教はヨハンネス・フッガーで、ヴァチカンへと向かうというのは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の戴冠式に出席するためにローマへ向かったことを意味するようです。
    実はこの伝説にはいくつかのヴァリエーションもありますが、モンテフィアスコーネのワインに感銘を受けたのは共通する内容になっています。それほどこのワインは素晴らしかったということになります。

     

    現在、イタリアでは原産地統制呼称(DOC)の認定を受けているワインのため、生産地気が限られています。その生産地域は、イタリア中部のラツィオ州ヴィテルボ県モンテフィアスコーネを中心とする地域です。近くにはボルセーナ湖があります。
    ブドウ品種の限定されていて、白ブドウ品種のトレッビアーノとマルヴァジーアがベースになって生産されるワインになります。
    このワインは輸出されることあまりなく、基本的に現地で消費されています。しかし、地元の人だけに消費されるわけではなく、この地域はワインツーリズムにより、旅行客も多いため、観光客が多く飲んでいるようです。

     

     

    では、実際にこのエスト! エスト!! エスト!!! ディ・モンテフィアスコーネの味とはどんなものでしょうか?
    残念ながら近くを通ったことはあるものの、ここで試飲したことはないのでわかりません。ただ、ワイン評論家といわれる人たちには、結構酷評されているようです。少なくとも伝説にあるほどの感銘を受ける味ではないとの意見がほとんどです。でも、所詮は、味については個人の好みに左右されます。
    一度、現地で飲んでみて、自身で判断されるのが良いと思います。

     

  • ファッラ・ディゾンツォ(Farra d’Isonzo)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はファッラ・ディゾンツォ(Farra d’Isonzo)について勝手に語ります。

     

     

    スロベニアとの国境の都市であるゴリツィア(Gorizia)から西南西へ9kmという位置に、ファッラ・ディゾンツォ(Farra d’Isonzo)があります。人口はわずかに1,700人程度のコムーネです。イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にあり、イタリアでもワイン産地として知られています。
    首都のローマから離れた地域なので、標準イタリア語だけでない言語も使われています。すぐ隣のスロベニア語では「Fara ob Soči」、フリウリ語では「Fare」という名称になっています。この「Farra」はランゴバルド語に由来したものです。ランゴバルドといえば、6世紀後半にランゴバルド王国として、イタリア半島の大部分を支配したことがありました。ゲルマン系民族です。ランゴバルド王国は773年、フランク王国のカール大帝によって征服され、781年にカール大帝の息子のピピンがイタリア王国の王となりました。

     

    ランゴバルド語というのは、現在では死語ですが、一部の説ではキンブリ語とモケーニ語がランゴバルド語から派生した方言として生き残ったともいわれていますが、定かではありません。言語としては、ゲルマン民族なので、当然ながらゲルマン語派に属しています。すでに7世紀には衰退してきたようです。その後は極断片的にしか残らず、詳細は分かっていません、しかもランゴバルド語で書かれた文書がないのです。
    ただ、第二次子音推移があることから高地ドイツ語との共通点があり、エルベ・ドイツ語か上部ドイツ語の方言に分類するのが一般的なようです。また、単語は英語の単語と似ているようです。

     

    ランゴバルド王国以前のローマ帝国時代には、イゾンツォ川を渡る木造橋と statio(駅伝制の宿駅)が設けられていました。日本で言えば宿場みたいなものでした。
    村には、1728年に建てられたイル・パラッツォ・カリーチェ(Il palazzo Calice)があり、現在は村役場になっています。ここはヴィットーリオ・エマヌエーレ3世広場(piazza Vittorio Emanuele III)に面した場所で、小さな村の中心部になっています。
    そして何といってもファッラ・ディゾンツォ天文台(Osservatorio Astronomico di Farra d’Isonzo)が有名です。ファッラ・ディゾンツォ天文文化サークル(Circolo Culturale Astronomico di Farra d’Isonzo)が運営する非営利の民間天文台ですが、ここで多くの小惑星が発見されています。その数は220の発見と39の命名という実績だそうです。もともとは1975年にアマチュアの天文愛好家たちが集結し、1980年にこの天文台が開設されたものでした。

     

     

    最後にこの村の見どころをひとつ。
    ファッラ・ディゾンツォのマイニッツァ地区には、一般的に「フォード・グラットン博物館」(Museo Ford Gratton)と呼ばれる自動車・技術博物館(Museo dell’automobile e della tecnica)があります。パオロ・グラットン(Paolo Gratton)の個人コレクションを展示しているのですが、彼はイタリア最大のフォード・ディーラーのひとりでした。
    旧車で人気のT型フォードなど、さまざまな種類のクラシックカーからオートバイ、それ以外にもラジオなどが展示されています。

     

  • 長野県塩尻市

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は長野県塩尻市について勝手に語ります。

     

     

    1890年(明治23年)、長野県では塩尻で初めてブドウ栽培が始まりました。ワインの醸造はその7年後の1897年(明治30年)でした。
    これは、豊島理喜治という人物が、ブドウ栽培を始め、ワイン醸造会社を設立したことで始まったことでした。実はこのブドウ畑も、ほとんど原野だった地域を開拓し、ブドウの26品種、苗では約3000本を植えたことから始まりました。
    理喜治に続いたのは、21年後の1911年(明治44年)でした。五一わいんの創業者である林五一が、桔梗ヶ原でブドウ栽培を開始したのでした。実際に五一わいんが誕生するには少し時間を要しましたが、このように塩尻でワイン生産がされるように指導したのは、「日本ワインの父」と呼ばれた川上善兵衛でした。
    そして信濃ワインの塩原武雄が現在のサントリー、当時の寿屋の社長だった鳥井信治郎に、ブドウの取引を持ちかけました。それ以降、大手醸造会社の工場が誘致され、寿屋だけでなく、現在のシャトー・メルシャン、当時の大黒葡萄酒の工場が建設されるようになったのでした。

     

    その塩尻ですが、松本盆地の南端にある都市です。現在の人口は6万6000人程度で、長野県ではほぼ中央部分に位置することになります。
    諏訪盆地から塩尻市内に入るには、かつての中山道に塩尻峠があり、三州街道には中央分水嶺の峠の一つの善知鳥峠が、さらに木曽方面を隔てる鳥居峠もあります。このように街道の難所である峠にかこまれた場所ですが、長野県内では随一の交通の要衝でもあります。
    塩尻の名の由来は、塩の販売に関係しているといいます。海がなく、塩を生産できない信州は、日本海側から塩売りが各地を回って売り歩いてました。その塩売りが、ちょうどこの近辺で品切れになったことから、「塩尻」という名になったというものです。あるいは、日本海側、太平洋側のらそれぞれから塩が運ばれてくると、この地域で両者が合流することから、塩の道の終点という意味で「塩尻」になったという説もあります。
    交通の要衝であるのは、難所である峠をこえてきた中山道と北国西街道が交わる宿場町であるからです。そして、明治になってからは塩尻宿から約2km離れた地に塩尻駅が建設されました。この駅は、中央本線の東線と西線の分岐駅になり、松本・長野方面の篠ノ井線も集まり、3面6線の駅になりました。しかも、中央本線は東線については、みどり湖駅経由の本線と辰野駅経由の支線も分岐しています。
    中央本線には新幹線はないので、現在は、特急列車は東線で「あずさ」、西線で「しなの」が停車します。東線と西線を直通する定期列車は存在しないので、同じ中央本線なのにもかかわらず、運行系統が完全に分断しています。
    また、国道も19号線・20号線・153号線などが集まるようになりました。

     

    そんな塩尻市ですが、現在のワイン製造業社としては、アルプス、井筒ワイン、五一わいん、信濃ワイン、サントリー、メルシャン、JAなど多数のメーカーが存在しています。 ブドウ品種では、ナイヤガラやコンコードが主力品種ですが、最近ではメルロー、シャルドネなどのヨーロッパ系品種の生産も増加しています。
    このブログで紹介する海外のワイン産地も良いですが、国内の生産地も忘れてはいけません。

     

  • コインブラ(Coimbra)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコインブラ(Coimbra)について勝手に語ります。

     

     

    ポルトガルでは、リスボン大都市圏、ポルト大都市圏に次ぐ重要な都市圏がコインブラ(Coimbra)都市圏で、その中核のコインブラ市はセントロ地方(Região Centro)最大都市です。1139年から1255年までの期間はポルトガルの首都でもありました。

     

    コインブラは古代ローマ時代から続く都市で、最初はアエミニウム(Aeminium)と呼ばれていました。すぐ近くには、イベリア半島に残る最大規模の都市遺跡もあります。コニンブリガ考古遺跡です。
    もともとはケルト人集落で、都市建設は1世紀になってからでした。古代ローマの人々が建設しました。この周辺地域はローマの属州ルシタニアで、その中心都市として繁栄するようになりました。
    これが5世紀になると、西ゴート族が進入し、街は破壊されてしまい、西ゴート王国時の支配地となりました。その際に都市名はエミニオ(Emínio)と呼ばれるようになりました。

     

    その後のイベリア半島といえば、イスラム教勢力との戦いの歴史となります。
    711年には、ウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻してきました。イスラム教勢力はイベリア半島南部を占領し、キリスト教勢力は北部に残りました。コインブラは、イスラム教世界とキリスト教世界を結ぶ地点にあり、商業の中心地にまで発展しました。
    イスラム教勢力からコインブラが奪回したのは1064年で、レコンキスタによるフェルナンド1世でした。そこでコインブラ伯領が設置されることになり、統治はシスナンド・ダヴィーディスで、のちにポルトゥカーレ伯領に組み込まれました。
    また、カスティーリャ王国から独立したアフォンソ・エンリケスにより、コインブラを首都に定めました。つまりブルゴーニュ王朝ポルトガル王国の首都となったのでした。

     

    中世の時代には、コインブラの都市はアルタ・アルメディーナ地区とバイシャ地区の2つブロックに分けられました。アルタ・アルメディーナ地区は貴族や聖職者の居住地域で、バイシャ地区は川沿いのエリアで、主に商工業者が居住する地域でした。
    街は城壁で囲まれ、14世紀前半にはモンデーゴ川左岸に旧サンタ・クラーラ修道院が建てられました。しかし、モンデーゴ川は氾濫が頻発したことで、17世紀になって丘の上に新しいサンタ・クラーラ修道院が建設されました。旧修道院は放棄されました。これは最近発掘されました。

     

    このコインブラ近くにブサコ・パレス・ホテルがあります。もともとは国王マヌエル2世が狩猟用として建てた離宮でしたが、それをホテルに改装したものでした。このホテルは、宮殿のような内外装もさることながら、門外不出のオリジナルワインでも有名です。王室のたの高貴なワインです。このホテルでしか味わえない「幻のワイン」は、 謎に包まれています。ワイナリーがホテルの近くにあるため、そこで生産されているのは分かりますが、どのブドウ畑で栽培されたのか、どんなブドウ品種なのか、また醸造方法についても謎なのです。一度はぜひ味わいたいものです。

     

     

  • ヨーロッパの環状線(鉄道)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヨーロッパの環状線(鉄道)について勝手に語ります。

     

     

    大都市には鉄道の環状線がある場合があります。放射線で市街地に入ってきた路線が、環状線と交差したり、そこで終点となってターミナルを形成することがあります。
    コロナ禍が続く今年は、ワインでも飲みながら、ヨーロッパの都市鉄道でも研究してみるのも良いかと思います。そこで、まず東京では山手線でお馴染みの環状線を、他のヨーロッパ都市と比較してみます。

     

    まず、東京の山手線は、1周の長さが34.5 km、1周の所要時間は59分です。大阪環状線は全長21.7kmなので、山手線より13km近く短いことが分かります。
    ロンドンのサークル線(Circle Line)は、かつては日本の山手線のような環状線でしたが、現在はむしろ東京の大江戸線のような路線になりました。2009年にエッジウェア・ロード駅からハマースミス&シティ線に乗り入れたことが原因です。この路線はもともと世界で最初に開業したメトロポリタン鉄道の区間が含まれているため、地下を通るものの、比較的地表から浅い位置を走る区間が多いといえます。 路線の長さは27kmです。
    モスクワには2つの環状線があります。地下鉄5号線の環状線と地下鉄14号線の中央環状線です。5号線は19.4kmで、最初は環状線として建設されたものではありませんでした。放射線でモスクワ中心部を貫く路線を複数建設する計画の中で、それぞれ放射線路線を中心部で接続する予定だったからです。いわば都市の「中央駅」を設置し、そこに路線を集約する計画だったわけです。
    それが1938年に2号線と3号線が開通してみると、中心部の乗換駅に乗客が集中することになり、多くの弊害が生じてしまいました。そこで、放射線を結ぶ地下鉄環状線の建設が計画されたのでした。これにより、市内の主要駅が結ばれ、人と物の輸送が大幅に改善されたのでした。
    中央環状線は、関東でいえば武蔵野線と似た面があります。。もともとは貨物用の鉄道であった路線を整備してつくられたからです。この中央環状線は比較的新しく、2016年9月10日から旅客用として開始されました。環状線より外側を走るので、全長は54kmに及びますから、山手線よりはるかに長い路線です。

     

    イタリアのナポリでもナポリ地下鉄1号線と7号線が、まだどちらも未完成ではあるものの、完成後は環状線になる予定です。
    そしてベルリンです。ますはベルリン環状線 (Berliner Ringbahn)が山手線より少し長い全長約37kmの路線としてあります。環状線なので円を描いているものの、地図で見る路線の姿から犬の頭(Hundekopf)と呼ばれています。 環状線として運転されてましたが、1961年にベルリンの壁が建設され、分断されることになりました。4分の3の区間は西ベルリンで、それ以外が東ベルリンに属するようになりました。もともとベルリン近郊鉄道のSバーンは東ドイツ国鉄による運営であったため、壁による分断で西側市民のボイコット運動なども起こり、乗降客数は西ベルリンで激減し、ストライキもあって1980年で運行休止となりました。しかし、東ベルリン側は環状線の南北を結ぶ役割が残ったため、依然として重要路線でした。
    ドイツ再統一後、大規模な復旧を行い、2002年になって全区間が復旧しました。現在は一周の所要時間山手線と同じくらいの60分という所要時間となり、運行本数もラッシュ時は5分間隔、日中は10分間隔となっています。
    もうひとつベルリンにはベルリン外環状線(Berliner Außenring)があります。これは全長125kmにも及ぶ路線です。これはもともと貨物輸送と軍事的理由から誕生した路線で、最終的にナチス・ドイツ時代に貨物線として誕生しました。
    現在の外環状線としては、東西分断した時代に、東ドイツが西ベルリンを迂回するルートとして建設を始めたことによります。既存路線だった外環状貨物線やユータボーク-ナウエン線、ミッヒェンドルフ-グロースベーレン線を再利用して建設を続けました。そのためベルリン環状線とは全く性格を異にする路線となりました。
    現在は、全線を直通する、つまり環状する旅客運転はありませんが、ベルリンから郊外に出る際には、一部区間を経由することは多くあります。

     

    地下鉄かどうかは別にして、東京や大阪に近いイメージの役割を担う環状線はモスクワの5号線といえます。ベルリンの場合は、放射線が環状線と交差して、その先の中央駅などに集約されるため、環状線内に、東京でいう新宿や池袋、渋谷など、大阪では京橋や天王寺などのターミナルがありません。これだけでだいぶ印象が異なります。
    ワインを飲みつつ、そのような鉄道風景を思い浮かべるのも旅情があるかもしれません。

     

  • アレニ-1複合洞窟(Areni-1 cave)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアレニ-1複合洞窟(Areni-1 cave)について勝手に語ります。

     

     

    史上最も古いワイナリーが発見されたのは、アルメニアのヴァヨツ・ゾル地方(Վայոց Ձորի մարզ)にあるアレニ-1複合洞窟(Areni-1 cave)です。ヴァヨツ・ゾル地方はアルメニア南部に位置し、国内で最も人口密度の低い場所になります。この地方の面積は2,406km²なのに対して、人口はわずかに5万3,000人程度だからです。アゼルバイジャンと国境を接しています。

     

    2008年、アルメニアの考古学研究所のダイアナザルダリアンにより、この洞窟の遺跡を発見されました。2011年1月には、世界最古のワイナリーが洞窟で発見されたのでした。それは、紀元前4,100年の遺跡から、ワインプレス、発酵槽、瓶、カップの遺物が発見されたことで、世界が注目しました。さらに、種子やブドウ房も発見されました。このとき発見された種子は、現在でも使われているブドウのものでした。

     

     

    現在、この洞窟の近くには、アレニワインファクトリー(Areni Wine Factory)があります。
    世界最古のワイナリーの近くに、1994年に新たに設立されたワイナリーですが、それでもこの地域では最も古いワイン施設の1つになっています。ワイナリーは毎年約30,000人の訪問者があるといいます。ワイン見学ツアーが実施されていて、巨大なオーク樽で熟成されるワインなどを見学できます。さらにワイナリー厳選の伝統的なワインの試飲もできます。
    2階はダイニングエリアになっていて、コーヒーや紅茶を飲みながら、アルメニア・ワインの伝統や歴史などを映像見ることができます。小さな工芸品販売店もあります。
    ここで生産されるワインは、赤ワインが主流でアレニブドウでつくられた良質なものです。ぜひ、一度、試したいと思っています。

     

  • キリストの血入門 23

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第23回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はカトリックの異端審問でした。今回はカトリック教会の教皇権に関係した出来事を取り上げます。

     

    カトリック教会の教皇権が最大の権威となっていた時代がありました。王権をも超越するものとなり、聖と俗を支配したインノケンティウス3世(Innocentius III)などは、その代表的な人物でした。第176代ローマ教皇で、教皇権全盛期時代を築き、政治までに介入したことで知られています。
    彼はパリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学び、37歳で教皇に選出されました。1202年にアイユーブ朝でアル=アーディルが即位したことで、反撃の兆しが見えたことから第4回十字軍を提唱しました。しかし、この第4回十字軍はイスラム勢力ではなくキリスト教圏のザーラで、略奪を行なっていました。これに対してインノケンティウス3世教皇は激怒し、十字軍を全て破門しました。ただ、この十字軍は破門も関係なく、1204年に東ローマ帝国のコンスタンティノープルまで征服してしまいました。しかもラテン帝国まで建国してしまったのでした。
    東西教会分裂後に、このような事態になったことから、インノケンティウス3世はラテン帝国を承認する立場となったのでした。
    また、1208年には神聖ローマ皇帝フィリップの暗殺を行いました。これはバイエルン宮中伯オットー8世 と計って行いました。オットー4世に対しては、イタリア南部への勢力を拡大したことから1210年に破門し、自分が暗殺した前帝フィリップの甥のフリードリヒ2世を帝位に就けることで、オットー4世を廃帝に追い込んだのでした。
    イングランドでは1209年に国王のジョンを破門し、フランスではフィリップ2世の離婚問題を理由に、フランスを聖務停止にしました。
    このように西欧諸国に対して、教皇権が王権より優位である事を証明していったのでした。

     

    一方で1210年には、フランチェスコと会見し、フランシスコ会を承認しました。
    そして1215年、第4ラテラン公会議で「教皇は太陽。皇帝は月」と演説しました。

     

    このように教皇権が王権より優位であるというのも、フランスやイングランドなどで王権が再び伸張してくると、教皇庁との対立構造に繋がりました。教会財産の所有権、聖職者裁判権、司教任命権など、教皇庁の権力と王権が争われるようになったのでした。
    このときに枢機卿会は教皇の顧問団でありながら、出身国家の見方となり、混乱の末、教皇庁の権威が低下していくことになりました。その中でもフランスのフィリップ4世は枢機卿団によって教皇庁をコントロールすることに成功したのでした。これによりフランス出身の教皇クレメンス5世を出すことができました。
    これが「アヴィニョン捕囚」へと進むのでした。

     

    【参考ページ】
    アヴィニョン(Avignon)

     

    この「アヴィニョン捕囚」は、教皇庁のアヴィニョンにいる教皇と、ローマに残っていた枢機卿団による独自の教皇という、2人の「正統」教皇が現れる事態になったのでした。しかも、ピサの教会会議では、ローマとアヴィニョンの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇ヨハネス23世を選出したものの、2人の教皇が廃位を認めませんでした。そのため、教皇が同時に3人いるという異常事態にまでなってしまいました。
    このような混乱は、完全に教皇の権威を低下させただけでなく、教会の至上決定権は、教皇ではなく公会議こそがを持つべきであるという公会議主義が誕生しました。その中心人物がジャン・ジェルソン(Jean Gerson)でした。彼の最大の業績は、教会大分裂(シスマ)を克服させたことでした。実は同時期に起きたブルゴーニュ公ジャンの指示により、オルレアン公ルイの暗殺事件がありましたが、これを合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対し、パリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとした動きがありました。このようなことから、公会議の有用性を主張し、コンスタンツ公会議が開かれたのでした。
    最終的に会議は3人の教皇を廃位することになりました。これにより公会議の権威が教皇権に対して優越することになりました。これは神聖ローマ皇帝ジギスムントがジャン・ジェルソンの熱意に対応したものでしたが、実はこれも、フランス王が教会政治に強い影響力を持っていたことへのジギスムントの対抗心だったといわれます。

     

    そして新たなマルティヌス5世教皇が選出されました。
    これに付随して、教会の抜本的な改革を掲げ、教会改革の実施を宣言して閉会したのでした。ところが、コンスタンツ公会議で宣言した教会改革は、その後、行われることはありませんでした。公会議によって教会を変えていくという理想も失われていったのでした。
    まさにこれこそが、のちの宗教改革、さらには悲惨な三十年戦争の伏線だったのでした。

     

  • ラタキア(Latakia)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラタキア(Latakia)について勝手に語ります。

     

     

    シリア・アラブ共和国の第一の港湾都市がラタキア(Latakia)は、アル=ラーディキーヤやラオディケイアなどとも呼ばれ、古代ローマ時代には重要なワイン産地でした。
    現在はイスラム教のアラウィー派の多い都市になっています。このアラウィー派はシーア派の一派といわれますが、かなり独特といえます。それは輪廻転生説を取り入れているからです。東洋的思想とイスラム教が融合したもので、極めて異端的な教義を持つともいわれ、イスラム教の特殊な宗派であるのは間違いありません。そのため、イスラム教ではなく、異教である、あるいは異端との境界線上だということもあります。かなり閉鎖的な宗派で、差別も受けてきた歴史があります。ラタキアのあるシリア北部には10世紀に広まったといわれています。
    しかし、アサド政権との関係が深い宗派でもあり、現在は危険ではないものの、シリア内戦が続き、アサド政権が倒れた場合には迫害の対象となる恐れもあります。

     

    そんな特殊な宗教に包まれたラタキアですが、古代ローマ時代には興味深い記述があります。地理学者ストラボンの『地理誌』には、ラタキアの描写があり、良港であり、土地も豊かであり、ブドウが栽培されているとの内容でした。特にブドウは良質で、アレクサンドリアで消費されるワインは、ラタキアで生産されるものが最も多いとなっています。ブドウ畑は山の斜面に広がっていたといいます。

     

    ここに都市を建設したのはフェニキア人で、その際の都市名はラミタ(Ramitha)でした。それをセレウコス1世ニカトーが大規模に都市を再構成し、母の名を取ってラオディケイアと名付けたといわれます。
    2世紀末から3世紀にかけてローマ皇帝だったセプティミウス・セウェルスの時代には、凱旋門がつくられ、それは今も残っています。新約聖書にも記述されていて、1世紀には大きなユダヤ人社会があったとされています。
    中世になって東ローマ帝国が統治するようになっていましたが、その時代に2回の大地震が起こり、街は荒廃することになりました。さらに638年からはイスラム教勢力との戦いとなり、東ローマ帝国は何度も軍を送りましたが、最終的には、1084年、セルジューク朝によってラタキアは奪われました。
    これは次に十字軍との闘争にも繋がりましたが、これも16世紀になると、オスマン帝国支配となり、第一次世界大戦まで続きました。

     

    20世紀になって、独立国のラタキア国(Sanjak of Latakia)の首都となりましたが、これは実質的にはフランスが統治する国家で、名目上の独立でした。これが第二次世界大戦を経て、シリア独立の中でラタキアはラタキア県の県都となりました。
    2011年からは、シリア内戦が始まりました。ラタキアはアサド政権への支持率が高いとされています。そのため、反政府勢力との小規模な戦闘が起こっているようです。

     

     

  • モネンバシア(Μονεμβασία)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はモネンバシア(Μονεμβασία)について勝手に語ります。

     

     

    モネンバシア(Μονεμβασία)は、ギリシャ共和国のラコニア県にある島で、その島にある町の名前でもあります。小さな島で、ペロポネソス半島の沖合にありますが、本土とは土手で繋がっています。
    島の名はワイン原料のブドウのマルムジー(Malmsey) の元になっているといわれます。これはギリシャ語の「Μονεμβασία」ではなく、イタリア語の「Malvasia」でのことです。他にも「東のジブラルタル」や「ザ・ロック」などとも呼ばれています。

     

    もともとは無人島で、古代のミノア文明時代には、交易の拠点になっていたといいます。この島が大きく変わったのは、西暦583年のことでした。町がつくられ、要塞が築かれたのです。定住者はスラブ人やアヴァール人などでした、祖国からの避難先として、この小さな島に集まってきたのでした。
    やがて交易や海事の重要拠点となり、街も発展していきました。まだ要塞の内部に畑もつくられ、アラブ人などの侵攻にも耐えることができました。
    しかし、1248年にはギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンに占領されてしまいました。その後、モネンバシアは東ローマ帝国に帰属することになりました。この東ローマ帝国支配は1460年まで続き、議席も持っていました。

     

    ワインの生産は島が小さいこともあり、大量のブドウ栽培はできませんでしたが、周辺で生産されたワインの主要発送拠点となりました。またレバント海域の海賊の拠点にもなりました。東ローマ帝国支配の時代のあと、1419年にヴェネツィア共和国の支配下になりましたが、すぐに東ローマ帝国のモレアス専制公領 (Δεσποτάτο του Μορέως) に戻りました。
    そして1453年に首都のコンスタンティノープルがオスマン帝国により陥落すると、ペロポネソス半島も、ほぼ全域がオスマン帝国の支配下になりました。それでもモネンバシアだけはオスマン帝国の侵攻を阻止しました。ローマ教皇に専制公領を売ることで援軍を求めたのでした。しかし、ローマ教皇は援護ができないとして、ヴェネツィアの支配ということで落ち着きました。
    ようやく平和の時代に戻ったものの、農地や食料がなくなる問題が1502年におき、ワインの供給も不能となってしまいました。そのため、食料は本土から運ぶようになりました。オスマン帝国の支配地域からの運搬というこもあり、ワインの生産は減少していきました。また、ヴェネツィア支配も1540年で終了しました。その後はオスマン帝国の支配地域となりました。一時的にモレア王国としてヴェネツィアに復帰したこともありましたが、1821年まではオスマン帝国に支配されていました。

     

    オスマン帝国からの解放は1821年でした。ギリシャ独立戦争の際でした。
    現在は観光地となり、中世の遺跡を利用した宿泊施設などが人気になっています。

     

     

  • 内モンゴル自治区(内蒙古自治区)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は内モンゴル自治区(内蒙古自治区)について勝手に語ります。

     

     

    中国が1947年よりモンゴルの南部に設置した自治体が内モンゴル自治区ですが、民族的には、漢民族が人口の80%以上を占めていて、その他は他民族です。具体的には、モンゴル族、ダウール族、エヴェンキ族、オロチョン族、回族、満洲民族、朝鮮族などです。
    ニュースでも報道されるように、内モンゴルの独立運動に対して中国共産党は徹底した取り締まりをしています。
    その背景には、漢民族が圧倒的に多い地域とはいえ、実は内モンゴル自治区のモンゴル族の数は、モンゴル国より多いからです。モンゴル国のモンゴル民族の人口が300万人に満たないのに対して、内モンゴルでは400万人を超えているといわれています。

     

    内モンゴルの産業は、もともと農業や畜産業が中心でしたが、現在ではレアアースの生産量が多いことでも知られます。特にバヤン鉱区は世界最大のレアアース(希土類)元素鉱床があることで知られています。石炭の産出量も多く、年間5億トンにまで及びます。そのため、独立した国家であるモンゴルより、内モンゴル自治区のほうが経済的には発展を遂げているのです。
    もう一点、内モンゴルでは、中国でも有数のブドウ栽培地であり、ワイン製造地にもなっています。

     

    歴史の面から見れば、モンゴルと言えばチンギス・ハーンのモンゴル帝国です。内モンゴルはチンギス・ハーンの弟のジョチ・カサルの領地となりました。そのまま子孫により支配されていきました。
    しかし、モンゴル帝国の元は、1368年に明によって滅ぼされました。明は漢民族ということもあり、居住していたモンゴル人は、中央アジア方面、現在のモンゴル国、そして現在の内モンゴルというように大きく三つに分かれてしまい、しかも互いに権力争いを続けることになりました。
    その明を滅亡させたのは、1646年に内モンゴルと満州の女真族が手を結んだことによります。これが清です。

     

    20世紀になると辛亥革命が起こり、中華民国になりました。このときにモンゴルは独立宣言しました。内モンゴルも合併を申し出てことで、内モンゴル解放戦争となりました。中華民国の追放には成功しましたが、ロシア帝国が介入したことで、解放戦争は失敗に終わりました。これにより中華民国は内モンゴルと外モンゴルを自治区としました。
    次に満州事変が起こり、のちにソ連軍(赤軍)と手を組んだモンゴル軍は、内モンゴル人民共和国が成立しました。ソ連は中ソ友好同盟条約に基づいて中華民国にモンゴル独立を認めさせたわけですが、内外モンゴル統一については要求を取り下げました。

     

    1947年になって、事実上の中華民国からの独立となったわけですが、2年後には中華民国から中華人民共和国となり、再び内モンゴル自治区となりました。中華人民共和国の自治区としては最も早く成立した自治区でした。

     

    内モンゴルのワインというと、あまりなじみがないかもしれませんが、アムレンシスの熟成版のようなワインが評判です。
    アムレンシスは、ロシアのアムール川流域を中心にシベリアやアジアに自生する山ブドウで、耐寒性が強く、内モンゴルの気候に最適なのかもしれません。

     

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