今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ハルキウ(Харків)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハルキウ(Харків)について勝手に語ります。

     

     

    ソ連時代、、モスクワ、レニングラードに次ぐ第3の工業都市だったのがハルキウ(Харків)でした。戦車などの兵器製造からトラクターなどまで、様々なものが製造されていました。今でも工業都市として機能しています。
    また、ウクライナでは首都のキエフに次ぐ大都市で、人口も約146万人です。日本人にはなじみが薄いかもしれませんが、重要な都市なのです。ワイン産地ではありませんが、この都市に滞在して、旧ソ連地域のワインを飲むのも悪くありません。

     

     

    ハルキウは三つの川の合流地点に開けた都市です。それぞれの川はドネツ川の支流で、ハルキウ川、ロパン川、ウドゥイ川になります。
    今世紀には、ハリコフ人民共和国(Kharkov People’s Republic)の事件の舞台となりました。2014年4月でした。親ロシア派勢力が州庁舎を占拠した事件でした。親ロシア派はロシアへの編入を問う住民投票の実施を求めていました。
    この州庁舎占拠は、ハルキウだけでなく、ドネツク州、ルハンスク州でも同時に行われました。親ロシア派勢力による分離独立を宣言に至りましたが、州庁舎の占拠は解除され、首謀者のユーリイ・アプーフチンは逮捕されました。
    ウクライナのクイフスキー地方裁判所で懲役6年を宣告されました。

     

    それだけロシアとの関係が深いのは、都市の成立ちからロシア帝国が関係していたこともあるのかもしれません。
    17世紀中ごろにハルキウはウクライナ・コサックによって建設されました。ロシア帝国の要塞であり、軍事的拠点となったのでした。
    ロシア人が大量に移住するようになったのは、19世紀以降でした。ハルキウは工業都市として急速に発展したことで、ロシアからの入植者が増加したのです。この際にユダヤ人も増加しました。
    一時期、首都だったこともあります。
    1917年1月6日から1934年6月24日まででした。ウクライナ人民共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都でした。キエフを避けたのは、ロシア革命によりウクライナの民族委主義が盛んになり、その中心地がキエフだったことによります。これに対してハルキウはロシア人やユダヤ人の労働者階級の人口が多く、都市としてもキエフに劣らない整備がされていたことが挙げられます。
    第二次大戦になると、一時期ナチス・ドイツに占領され、ユダヤ人が多い都市が災いしてか、大虐殺が行われました。

     

    市内の見どころとしては、まず挙げられるのが、ユネスコに登録されているミラーストリーム噴水でしょう。日本では有名ではありませんが、世界的な観光名所といえます。
    国立アカデミックオペラバレエ劇場の前の通りにあり、街のシンボルであり、市民の憩いの場でもあります。
    ミラーストリーム噴水はナチスの大虐殺という悲劇を乗り越え、第二次世界大戦の勝利を祝って1947年に建てられました。
    また、街の中心部にある広場として、ヨーロッパ第二の規模を誇るのはフリーダムスクエアです。世界では9番目の大きさです。19世紀に建設され、広場の総面積は11.9ヘクタール、長さは約900mあります。現在は、2つの地下鉄駅がスクエアの下にあります。文字通りの中心部といえます。

     

  • バローロ(Barolo)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はバローロ(Barolo)について勝手に語ります。

     

     

    最高級のイタリアワインとして知られるバローロは、イタリアのピエモンテ州クーネオ県にある小さな自治体です。人口はわずかに約700人の基礎自治体(コムーネ)です。以前に「ラ・モッラ(La Morra)」でも触れましたが、今回はその中心地です。

     

    ブドウ畑に囲まれた小さなバローロ村を中心とした指定地区で栽培されるネッピオーロ種で造った赤ワインが、「D.O.C.G」原産地統制保証名称ワインです。1981年に指定されました。
    長期熟成でも問題のないタンニンを多量に含まれ、色は濃いルビー色になっているワインです。重厚な味わいで、優雅さを醸し出すほどの高級感があります。指定エリアは狭いものの、年代や作り手による違いも明確に出るほどの繊細さもあります。まさにイタリアの珠玉ワインです。

     

    バローロがどのように成立したかはわかっていません。ただ、歴史の古い地域であるのは事実で、先史時代からケルト系のリグリア人が暮らしていたのではないかと考えられています。
    史料として確認できるのは中世からで、ランゴバルド王国(Regnum Langobardorum)やアルバ伯国に支配されていました。ランゴバルド王国はゲルマン系のランゴバルド族による王国で、イタリア語の音訳ではロンゴバルド王国ともいいます。774年にカール大帝によって滅ぼされました。その後にトリノ侯国(it:Marca di Torino)の領土となり、この時代にバローロ城の中心部が築かれました。
    1250年には、ファッレッティ家がアルバからバローロへと移り住んできました。その結果、1300年頃までにピエモンテ地方の多くの村を勢力下に置きました。
    しかし、1461年にモンフェッリーノ、1631年にサヴォイア家が領主となり、支配者の変遷がありました。そして1730年になると、バローロは侯爵領となりました。

     

    ワインについていうと、この地域一帯で生産されていたワインは、今と違って、甘いものでした。フルーティーなワインを中心に醸造されていたのでした。
    これが変化したのは19世紀中ごろでした。後のイタリア王国初代首相となるカブール伯爵カミッロ・ベンソがフランス人醸造家のルイ・ウダールの力を借りて、新しいスタイルのワイン生産を始めました。これが現在のバローロの原型でした。これから辛口のワインとなっていきました。
    貴族たちが所有していたブドウ畑は、没落によって分割されたり、譲渡されたりして、ブドウ畑は一般の人々に広がっていきました。1964年には「収穫共有法」が廃止され、この地域独特の稀有なワインが生産されるようになっていったのです。

     

     

    バローロのワイナリーを訪問しようとすると、実は結構不便だと感じるかもしれません。バローロを生産するワイナリーは、大規模なものではなく、家族経営の小さなところが多く、しかも点在しているため、公共交通機関では難しいといえます。レンタカーが最も適している気がします。自分で運転できない人はタクシーです。バスは極めて少ない本数なので、注意が必要です。
    電車だと最寄りはアルバになりますが、そこから15キロ程度は離れています。
    ワイナリーをめぐるツアーもあるそうなので、もしかしたそれが一番かもしれません。

     

  • プトゥイ(Ptuj)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はプトゥイ(Ptuj)について勝手に語ります。

     

     

    スロベニア最古の都市として知られるプトゥイ(Ptuj)は、スロベニア北東部、シュタイエルスカ地方にあります。人口はわずかに約23,000人です。
    スロベニア最古といわれるだけあって、歴史は石器時代にまで遡れます。ケルト人が定住したのは鉄器時代後期で、そのごは古代ローマが支配しました。
    ローマ皇帝トラヤヌスは、この地にコロニアの特権を与え、しかも自身の名にちなんでコロニア・ウルピア・トライアナ・ポエトヴィオと命名しました。103年のことです。実はこの時代のほうが現在より人口が多かったようで、7万人の居住者がいたようです。

     

    苦難の歴史は450年から始まりました。フン族によって略奪にあってしまったのです。さらに570年には、アヴァール族とスラヴ人に占領されました。
    8世紀終盤になってからはフランク王国に組み込まれ、840年から34年間は、スラヴ人国家のバラトン君主国に従属していました。その後、ザルツブルク大司教座の影響下に入り、1376年になって町としての特権が与えられました。
    1555年からはシュタイアーマルク公国に併合されました。このときは都市名がドイツ名となり、ペッタウ(Pettau)でした。ここへオスマン帝国が侵入し、戦場と化しました。街は大火に見舞われてしまいました。
    20世紀初頭は、旧市街の人口の86%がドイツ語の話者で、周辺村落はスロベニア語の話者という構造になっていました。
    これが第一次世界大戦の終結により、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、ドイツ=オーストリア共和国に含まれました。これをスロベニア人将軍ルドルフ・マイスターが軍事介入し、、ウンターシュタイヤーマルク地方全体がドイツから離れました。のちのユーゴスラビア王国に含まれることとなりました。居住者のドイツ人は残留しましたが、この後、急速に減少していきました。

     

    1941年にはナチス・ドイツのユーゴスラビア侵攻により、再びドイツの占領下となりました。またドイツ人の移住者が増えましたが、1945年にドイツ人追放となり、彼らはオーストリアのチロル方面へと逃げてきました。また、北米へと移住した人も多かったようです。
    これによりプトゥイはほぼ完全にスロベニア人の都市となりました。

     

    プトゥイには、首都のリュブリャナ(Ljubljana)から日帰り可能な距離にあります。2~3時間で移動できます。
    ワインセラーについてもスロベニア最古のものがあります。ヨーロッパでも評判の良い、優秀なワインといわれるスロベニア・ワインですが、かなり低価格です。最近ではかなり注目されています。
    5ユーロで信じられないくらいの上質なワインが手に入ります。ワインセラーではガイドツアーもあり、地下の貯蔵庫も見学できます。

     

    もう一点、プトゥイには「クレント祭り」があります。1960年から毎年開催されるスロベニア最大規模の冬のカーニバルです。
    実はこれ、秋田のナマハゲに似たクレントというお面を被ります。
    また、都市のランドマークは、プトゥイ城です。 12世紀にハンガリー人の侵入を防ぐため建てられた城で、丘の上にあります。

     

     

  • キリストの血入門 18

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第18回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はフィリオクェ問題についてでした。今回は東西教会の分裂以降、イスラム勢力の台頭、その後の西ヨーロッパ独特の政治宗教体制についてです。キリスト教(聖)と政治権力(俗)が緊密な関係で統治を分かち合う特殊な関係が成立しました。

     

    7世紀になると、イスラム教が急速に拡大してきました。アラビア半島で誕生した新しい勢力は、イスラム帝国へと発展していきました。
    地理的に東方諸教会は大きな影響を受けました。イスラム帝国の勢いは早く、シリア、パレスチナ、エジプトが支配されるよになりました。実はこの地域こそ、キリスト教の単性論が主流で、東ローマ帝国の東方教会の正統派からは抑圧されていたのでした。そのため、皮肉なことに、イスラム帝国の侵攻は、東ローマからの解放者でもありました。そのため歓迎されたりもしたほどでした。
    イスラム帝国側も、統治した地域のキリスト教徒に対して、一定の人権を保障しました。そのせいで、東ローマ帝国からは異端派として危険視されていた状態よりも、イスラム帝国のほうがむしろ安全な生活と信仰が保障されたのでした。

     

    とはいえ、完全にイスラム教の影響下にあるわけで、全く差別がなかったわけではなく、改宗を迫られることもありました。そのせいか、この地域はイスラム化が徐々にではありますが進んでいったのでした。
    そしてイスラム勢力によりエルサレムの陥落です。638年でした。ウマル1世はエルサレムを征服後、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言しました。その後にキリスト教徒からすれば屈辱的なウマル憲章を発布しました。
    イスラム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われていて、キリスト教が聖像を使用していることに対しては猛烈な批判がありました。もともとキリスト教も偶像崇拝を否定する立場からの出発点だったこともあり、東ローマ帝国の一部の知識人は、これに大きく影響されました。これは8世紀の聖像破壊主義へと繋がり、さらには東方教会が偶像を否定しつつ、イコンを認めるような方向性にまで関係しました。
    これにより、東ローマ皇帝が聖像破壊主義を支持し、ローマ教皇とは相いれないほどの疎遠さに繋がっていきました。ただし、第3コンスタンティノポリス公会議では、聖像崇敬が教義として確立されるようになり、聖像破壊論争は終結することになりました。

     

    一方イスラム帝国は、東ローマ帝国の領土を飛び越え、西ヨーロッパにも侵攻していきました。アフリカ北部を経由してイベリア半島へと進んでいったのです。現在のスペイン国内を超え、さらにピレネー山脈まで越えていきました。
    この西ヨーロッパに迫ったイスラム帝国を撃破したのが、フランク王国のカール・マルテルでした。この当時、すでにフランク王国は西ヨーロッパの覇権を握る勢いだったのです。
    そして800年、ローマ教皇レオ3世は、カール・マルテルの孫・フランク王カール1世を「ローマ皇帝」として戴冠したのでした。その後、オットー1世の戴冠により、神聖ローマ帝国が成立しました。これにより政治的、軍事的な権力が、かつてのローマ帝国と同じように皇帝となり、キリスト教の権威の頂点にローマ教皇がいる、という聖俗が緊密な関係で統治を分かち合うスタイルが確立しました。これこそ西ヨーロッパ独特の政治宗教体制でした。

     

    その反対で、東ローマ帝国では皇帝が聖俗両方の支配というスタイルとなり、キリスト教会は皇帝の統治下での国家宗教という位置づけでした。
    西ヨーロッパのスタイルに比べて、東ローマ帝国は皇帝に権力が集中していたわけですが、キリスト教の教義については、皇帝でも絶対的な決定権があったわけではありませんでした。
    神聖ローマ帝国は中央集権化された帝国ではなく、ある意味で名目上の皇帝にまで落ち、首都も定まらず、これが独特な歴史を辿ることになりました。

     

  • ナホトカ(Находка)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナホトカ(Находка)について勝手に語ります。

     

     

    2020年の夏は、コロナ禍の猛暑となりました。未だかつて経験したことのない夏になっています。海外旅行に行って、その土地のワインを飲むというのも、今年は無理があります。
    そこで、今回は過去に訪れたことのある思い出の地の現在を知り、快適な冷房の効いた部屋でワインを飲みたいと思います。舞台はナホトカ(Находка)です。

     

    日本から近いロシアの都市で、日本海の北西部にあります。ナホトカ湾に面していて、かつてはウラジオストクが外国人の立入禁止都市だったため、ここに横浜からの航路がありました。清朝時代には灠溝崴でした。 約16万人の人口です。

     

    この場所はロシア人ではなく、イギリス人がゴーネット湾と呼んでいました。
    ナホトカと命名したのはロシアの東シベリア提督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーでした。湾の名称についてのもので、ロシア語で「発見」・「掘り出し物」の意味でした。
    集落の始まりは1865年からで、サハリンで重労働を強いられたのちに釈放された人たちでした。まず、アレクサンドロフカ集落を設け、次にアムール川からナホトカへ農民の26人が移住し、ウラジミフカ集落を設けました。
    これがナホトカの都市の始まりでした。
    1868年にはフィンランドからの移住があったり、1977年にはウクライナのチェルニゴフ県から女性移住者たちが来たりしました。

     

    ソ連の時代になると、1950年にナホトカ労働集落が市に格上げになり、初めて大通りが作られるようになりました。これにより、ナホトカ大通り、中央通り(現在のガガーリン通り)、レールモントフ通り、そしてクリィロフ通りができ、その後モスクワ通りも作られましたが、この通りは現在のレーニン通りとなりました。
    1961年には京都府舞鶴市と姉妹都市関係を結びました。その後にも北海道小樽市、福井県敦賀市、アメリカのカリフォルニア州のオークランド、ワシントン州ベリンハムとも姉妹都市となりました。
    そして1965年が大きな変動がありました。ナホトカに輸出入事務所「ダリイントログ」が開設されたのです。これは、ソ連の極東と、日本・オーストラリア・北朝鮮との貿易管理を行うことから、ソ連極東貿易の拠点となったからです。
    本来であれば、この地位にふさわしい都市としてウラジオストクがありますが、太平洋艦隊の軍港都市になっていたため、外国人立入禁止にしたことで、その地位をナホトカが担ったことになりました。

     

    このような状況の中で、横浜から船に乗り、ナホトカへと向かったのでした。
    シベリア鉄道の起点はウラジオストクですが、外国人はいけないので、ナホトカから支線の特別列車でハバロフスクへ行き、そこで乗り換えてモスクワへ向かうしかなかったのです。
    ソ連時代のナホトカの港に降り立ち、そこからホテルで宿泊したのち、駅へと行きました。街の印象は、とても地味だったという感じです。社会主義国には商業用の看板はありません。ネオンもありませんでした。暗い街並みという印象が強く、それ以外の詳細な部分は思い出せないほどです。
    そして自分にとって、初めて訪れた外国こそがソ連のナホトカだったわけです。それにも関わらず印象が薄いのは、単に月日が経過したというだけの理由ではありません。

     

    ヨーロッパでは東西ドイツの統一がなされた1990年には、極東でも大きな変化がありました。
    ゴルバチョフ政権により、ウラジオストクを開放したのです。これで本来の都市の規模から、ウラジオストクは軍港だけでなく商港にもなり、ナホトカの商港としての重要性は低下することになりました。それでも、ナホトカは自由経済地域に指定されました。ただ、この政策は失敗続きで、2006年にはこの政令が失効し、自由経済地域は終焉を迎えました。

     

     

    日本からの観光という面でも、ウラジオストクには空港があり、ビザも緩和されていることから、あえてナホトカを選択する理由がないかもしれません。
    それでも思い出の都市なので、死ぬまでに一度は再び行きたい気もします。そんな思いを抱きながら今宵はワインで乾杯!

     

  • ランス(Reims)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はランス(Reims)について勝手に語ります。

     

     

    フランス北東部の旧シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏、現在のグラン・テスト地域圏マルヌ県にあるランス(Reims)は、シャンパーニュ地方の中でも特にワイン醸造で知られています。ランスを拠点として、多くの有名なシャンパン製造会社がテイスティングやセラーツアーを開催しています。また、それらのシャンパン製造会社は、ランスの地下に、総延長120キロに及ぶワイン貯蔵庫・カーヴが縦横に張り巡らされています。
    そのような都市ということもあり、郊外はブドウ畑が一面に広がっています。まさにブドウ畑の平原であり、シャンパーニュの語源も「平原」を意味するラテン語のカンパニアに由来すると言われています。
    パリからは、東北東に約130kmの場所に位置しています。

     

    かなり古くからの歴史のある都市で、古代ローマによる支配がはじまる以前から、この地に都市ができていたといわれます。当時はガリアで、居住していたのは、レミ族でした。彼らが築いた都市がドゥロコルトルム(Durocortorum)で、これがランスの前身でした。
    古代ローマが支配する時代になってからの遺構も残っています。その代表が、3~4世紀につくられたマルス門でしょう。
    また「戴冠の都市(la cité des sacres)」や「王たちの都市(la cité des rois)」とも呼ばれますが、これは498年にメロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世の戴冠式が関係しています。ここで聖別戴冠式が挙行されたのです。そのようなことから、フランス王家にとっては、聖なる都市ともなっています。歴代国王の戴冠式がここで行われてきたのです。

     

    そのフランス歴代国王の聖別戴冠式が行われたのが「ノートルダム大聖堂」です。これは隣接するトー宮殿、市内の聖レミ教会堂とともに1991年に、ユネスコ世界遺産に登録されました。フランス国内のゴシック様式の傑作の一つといわれています。
    816年にルイ1世がここで戴冠式を行い、その後、1825年のシャルル10世に至るまで、計32人が大聖堂で聖別を受けました。戴冠式では、15世紀、ジャンヌ・ダルクに連れられて聖別を受けたシャルル7世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ16世などがいます。
    しかし、ランス・ノートルダム大聖堂は、フランス革命の時の動乱では、彫像を中心に破壊されてしまいました。そこで1875年には、フランスの国会で修復が決議され、彫像の多くが修復されるようになりました。
    ところが次は第一次世界大戦でした。1914年から1918年までドイツ軍により彫像だけでなく、ステンドグラスも半数近くが被害にあいました。大聖堂は壊滅的な被害を受けたのでした。
    20世紀になって、ランス出身の建築家アンリ・ドゥヌの主導により再建が開始されました。現在でも一部はまだ修復作業が行われています。

     

     

    そして、このランスでは、1962年にフランス大統領のシャルル・ド・ゴールと西ドイツ首相のコンラート・アデナウアーがこの地で会見しました。フランスとドイツの歴史的な和解でした。

     

  • ワイン不凍液事件

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワイン不凍液事件について勝手に語ります。

     

     

    1985年のオーストリア産ワインジエチレングリコール混入事件が「ワイン不凍液事件」と呼ばれるものです。
    事件が起こる前まで、何年にもわたって、ドイツやオーストリアは、オーストリア産ワインの最大の輸出先でした。しかも輸出量は年々増加傾向にありました。ドイツもワイン生産量が多いのに、なぜ、と疑問に思うかもしれませんが、輸入していたオーストリアワインはドイツのワインと同じような甘口のもので、ドイツの低価格ワイン市場に多く流通するのに適していたわけです。リースリング種のワインのような高価なものはドイツ国産ですが、数種のブドウをブレンドしたオーストリアの輸入ワインは、とにかく安価だったのです。

     

    そのような背景の中、1985年、オーストリアから輸入したワインに重大な欠陥があることが判明しました。
    それがワインに不凍液をまぜていたというものだったのです。
    不凍液とは、主にクルマなどの内燃機関で、エンジンの冷却水の凍結を防ぐための液体です。ジエチルグリコール(DEG)でした。不凍液としてはエチルグリコールの方がより広く使われていますが、このジエチルグリコールも決して出回っていないものではありません。
    この不凍液混入のワインが最初に発見されたのは、シュトゥットガルトのスーパーでした。ワインの中身が分析され、摘発へと動きました。さらに広範囲な調査を続け、その結果、かなりの数のワインに不凍液を混入させる計画があったことが分かったのです。

     

    もしこの毒ワインを飲用してしまうと、中毒になり、最悪では死に至ることもあります。
    ただし、そのジエチルグリコールをわずかな量だけ混入した場合には、とろみと甘さが増すようです。この理由でオーストリアのワイン生産者が始めたようでした。
    これは、この年がオーストリアではドイツに売るだけのワインを作るための高品質なブドウの量が確保できなかったことに関係しているようでした。そこで、高品質ではない、いわば酸っぱい低品質のブドウからワインを醸造しても、完成品が甘くなるように、ジエチレングリコールを入れたようでした。

     

    日本でも少量ですが、この不凍液事件のワインが入ってきていました。
    具体的な被害についての報告はないようです。

     

  • ビュージンゲン(Büsingen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はビュージンゲン(Büsingen)について勝手に語ります。

     

     

    ドイツのボーデン湖からウンター湖の沿岸を西へ進んでいくと、国境のライン川を渡らなくともスイスへと入国することになります。具体的にはÖhningenのシュタイナー通りでZollamt Öhningenを右手に見てすぐにドイツからスイスへと入ります。日本人からすれば、市町村の境目くらいの感覚です。
    そのシュタイナー通りをさらに進むと、Öhninger通りとなり、さらに名称を変え、ガッサでライン川を渡る橋が現れます。この橋でライン川を渡ります。こここそが国境のようですが、同じスイス国内です。この通りは13号線に合流するので、それをさらに西へと向かいます。ライン川の対岸を、川に沿って進むことになります。この対岸は再びドイツです。
    しばらくしてディースゼンホーフェン(Diessenhofen)を過ぎると、ライン川の対岸が再びスイスになり、さらに進むとまたドイツになります。しかし、この対岸のドイツ領は周囲がすべてスイスです。
    つまりドイツの飛び地なのです。ビュージンゲン(Büsingen)という小さな村です。

     

    このルートの場合、飛び地のビュージンゲンに行くにはライン川を渡る橋がないため、遠回りしてシャフハウゼン(Schaffhausen)まで迂回しないといけません。
    この村は面積がわずかに7.62平方キロメートルで、人口も約1,450人しかいません。
    ドイツ領ですからドイツの法律が適用されますが、駐在している警察官はスイス人です。そのため、犯罪が発生した場合には、ドイツから警官がやってくるそうです。人口も少ないので、それほど犯罪の起こる可能性は少ないでしょうが、日本人には考えられない状態と言えるでしょう。
    通貨はユーロではなくスイス・フランですが、ユーロも使えるようです。シェンゲン協定でドイツ人が買い出しに出かけるポーランドの町のような感覚です。関税もスイスのものが適用です。

     

    完全な飛び地ですから。経済圏はスイスになります。スイスへの往来には全く制限がなく、シャフハウゼンなどで働いたり、買い物に出かけたりしています。
    基本的に政治や法律はドイツなのですが、経済と同じように、有事の際はスイスの法律が適用されます。
    現在の実情からだけでなく、歴史的にもビュージンゲンはシャフハウゼン郊外の村として同一経済圏を構成しています。しかも1918年の住民投票では、投票者の96%がスイスへの帰属を希望するという結果でした。これだけの民意がありながら実現できなかったのは、ドイツとの交渉で、スイスが飛地交換におる代替地をドイツにできなかったことによります。
    1956年には、まだ東西冷戦の時代だったため、西ドイツになりますが、その政府はビュージンゲンと西ドイツとの間の農地を買収することにしました。そのまま買い取っていき、ビュージンゲンまでの土地を西ドイツ領に編入しようとしたのです。これで飛地が解消できるわけですが、これは失敗に終わりました。なぜなら、西ドイツから続く土地をビュージンゲンまでつなげる場合、西ドイツ寄りにデルフリンゲン(Dörflingen)という町があるため、その北側の 農地や森林を買い取る必要があります。
    土地の費用に対して経済的なメリットがなく、効果のないものという判断があり、スイス側としてもその案を却下したからです。

     

    そのようなことがあって、結局飛び地として現在まで残っていることになりました。
    1967年にスイスとドイツは条約を締結し、ビュージンゲンはそのまま西ドイツ領であることが確認され、東西再統一後のドイツも基本は西ドイツ政府と同じですから、そのまま継続していることになります。
    意外に知らない飛び地の話でした。ありきたりのヨーロッパの旅行に飽きたら、このような飛び地を訪ねるのもいかがでしょうか。地元の人のワインで乾杯し、そこならではの話が聞けると思います。

     

  • スパルティ(Σπάρτη)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスパルティ(Σπάρτη)について勝手に語ります。

     

     

    スパルティ(Σπάρτη)と聞いても、どこのことだか分からないかもしれませんが、これを「スパルタ」と読むと、誰もが知る都市国家の名になります。
    スパルタの話題は「赤ちゃんの産湯はワイン」で述べました。これは、ワインのアルコールで痙攣を起こすようでは、スパルタの子供として不適格であるからというものでした。スパルタでは、虚弱児は生きていても何の役にも立たないという烙印を押され、捨てられたといわれます。

     

    このスパルティですが、古代ギリシャのスパルタの故地に位置しています。ところが、現在の都市は古代ギリシアから続く都市ではなく、19世紀に建設された比較的新しい都市です。
    古代ギリシャの時代に繁栄したスパルタは、古代ローマの時代を過ぎ、395年に西ゴート族のアラリックによって破壊されてしまいました。
    このスパルタと言えば、今でも「スパルタ教育」という名前があるように非常に厳しい軍事教育を徹底して行った都市国家でした。この体制を構築したのがリュクルゴスで、彼の改革を「リュクルゴスの改革」といい、その結果できあがった国家体制を「リュクルゴス制」といいます。軍国主義のイメージが強いですが、リュクルゴス制では、国家主権は民会にあり、2人の王を含む30人の長老による長老会が、主権である民会にかける提案を用意する体制でした。軍事面では重装歩兵ファランクスの陸軍があり、五つの部族に分けられていました。重装歩兵は厳格な共同生活をしていました。
    土地は平等に分割され、しかも売買や譲渡は禁止されていました。
    支配層のスパルタ市民は軍隊であり、その軍隊支配のもとに半自由民がいて、その下に奴隷がいる構造とはいえ、現代の軍事独裁政権と違って民会と長老会が機能している分だけまともかもしれません。

     

    最強の軍事力を誇ったスパルタも滅亡に近づいたのはレウクトラの戦いでした。この戦争では、戦力的にはスパルタ軍を中心とするペロポネス同盟側の方が圧倒的に有利でした。しかし相手側のテーベには、天才将軍エパメイノンダスがいて、スパルタ戦対策として斜線陣を考案しました。これによりスパルタを打ち破ったのでした。つまり正面攻撃では最強のスパルタ軍も、エパメイノンダス考案した斜線陣では弱さが出たのでした。
    また、このレウクトラの戦いでは、スパルタ王クレオンブレトス一世が討ち取られ、スパルタはこのときから滅亡へ向かっていく事になったのでした。
    このスパルタを破った斜線陣ですが、その後にマケドニアへと伝わりました。アレキサンダー大王により、さらに発展させた戦法になっていきました。

     

    スパルタ滅亡後、この跡地はキリスト教の都市として再建されることになりました。しかし、6世紀からスラヴ人が侵入してきたことで、再びスパルタは都市を放棄することになりました。一部の市民はシチリア島に移住したり、また別の市民は南東端の沿岸にモネンヴァシア市を新たに建設して移住することで、スラヴ人からの逃亡をはかりました。
    10世紀になると、スラヴ人のギリシア正教文化への同化が完了していたことで、東ローマ帝国のペロポニソス再建となり、スパルタまた再建されるようになりました。ようやく平穏な時代となりました。
    スパルティとして新都市が建設されたのは、1834年でした。ギリシャ独立戦争が原因で、ミストラスが破壊されたことで、スパルタの故地にスパルティが建設されたのでした。

     

     

  • エディルネ(Edirne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエディルネ(Edirne)について勝手に語ります。

     

     

    トルコの最西端で、ギリシアやブルガリアの国境に近い都市がエディルネ(Edirne)です。
    トルコのヨーロッパ側に位置し、東トラキア地方になります。人口は約12万人です。
    おそらくエディルネ(Edirne)という都市名では、あまり聞いたことがないという人が多いでしょうが、アドリアノープルという名なら、何となく耳にした人も多いのではないかと思います。ローマの五賢帝の一人ハドリアヌスの建設した都市ということで、ラテン語でハドリアノポリスとなり、ギリシア語でアドリアノープルになりました。ローマ帝国の東西分裂へ向かう時代では、重要な都市でした。
    324年には、西の皇帝・コンスタンティヌスがと東の皇帝・リキニウスとの最終決戦がこの地で行われました。コンスタンティヌスが勝利したことで、単独の皇帝としてローマ帝国を支配するようになりました。次に351年には、コンスタンティウス2世と、ガリアを拠点にしたマグネンティウスの戦いがあり、コンスタンティヌス2世の勝利に終わりました。
    そして378年、西ゴート人がドナウ川を越えました。ローマ領に入り、反乱を起こしたことに対し、皇帝・ヴァレンスが鎮圧に向かいました。しかし、この地の戦いで皇帝が戦死し、帝国の敗北という結果になりました。

     

    ローマ帝国の東西裂後は東ローマ帝国領となりました。バルカン半島に位置することから当然の流れでした。
    そしてオスマン帝国の侵攻です。14世紀にバルカン半島にまで進出してきました。1361年にはムラト1世はアドリアノープルを占領し、1366年にはオスマン帝国の新しい首都にしました。エディルネと改称されたのは、このオスマン帝国の首都になったときでした。オスマン帝国はその時代までの旧市街地が狭かったことから、市街地を拡張していきました。モスクやキャラバンサライなどイスラム都市としてのインフラ整備を行っていくとともに、イスラム教徒の移住を促進していきました。もともとブルガリア人の都市でしたが、この頃からトルコ人の人口が急増していきました。
    1453年にイスタンブールへ遷都されてからは、オスマン帝国の副都として栄えるようになりました。

     

    19世紀になると、バルカン情勢が大きく変化していきました。オスマン帝国とロシアとの戦争が繰り返され、露土戦争では直接の戦火にさらされるようになりました。1829年と1878年にはエディルネはロシア軍に占領されてしまいました。このとき、オスマン帝国の宮殿は荒廃することになりました。
    20世紀には、第一次バルカン戦争により、エディルネだけでなく東トラキア地方が占領され、ブルガリアの領土に割譲されることになりました。
    しかしこのブルガリアの動きに対して、周辺のギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア各国がブルガリアと敵対し、第二次バルカン戦争となりました。ここでオスマン帝国がエディルネの奪還に成功し、再びオスマン帝国領となりました。

     

    ところが、第一次世界大戦後の1920年、セーヴル条約によりエディルネを含む東トラキア地方はギリシャへの割譲となりました。ただギリシアはトルコ人の祖国解放戦争に敗北していたことからトラキアを放棄しました。これでトルコへの編入となり、ギリシア人は強制移住となり、エディルネは完全なトルコ人都市となりました。

     

    現在の国境線は1932年のローザンヌ条約により定められました。
    ギリシアとトルコの国境はメリチ川となりました。ただエディルネはメリチ川両岸が市街地なため、西岸の幅6㎞だけがトルコ領になりました。
    川の両岸の広がる市街地は、メリチ川の橋によって往来ができるものの、この国境によって鉄道が困ったことになりました。エディルネを通る主要鉄道はオリエント急行で、ヨーロッパ各都市とアテネやイスタンブールを結んでいます。ところがエディルネの駅は西岸にあったため、ヨーロッパ主要都市からエディルネへ向かう場合、ブルガリアからギリシアを通り、トルコのエディルネ駅に到着し、その後またギリシャに入り、またトルコに戻ることになりました。このように国境を何度も越えることは、現在のシェンゲン協定のあるヨーロッパでは問題ないですが、当時はギリシアとトルコの関係は悪く、一触即発の状態でした。決して良い状態ではなかったのです。
    そこでトルコがメリチ川の東岸に新しい路線を建設することにしました。これでギリシアを通らずにブルガリアとを直接つながるようになりました。これが1971年でした。

     

     

1 2 3 4

ワイン通販なら

想い出生まれ年ワイン、デザイン自由オリジナルワイン

スペシャルコンテンツ

オールドワインの魅力

最新のブログ記事

カテゴリー

タグクラウド

月別アーカイブ