今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 7

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第7回になります。

     

       

     

    前回はヨーロッパの都市圏について語りました。今回は歴史に戻って、古代ローマを取り上げます。

       

     

    ローマ帝国は地中海世界全域を支配し、世界をリードする覇権国家ですが、最初は都市国家でした。
    あまり知られていませんが、正式な国号は「元老院ならびにローマ市民(Senatus Populus que Romanus)」でした。この国号は共和政が成立してからで、世界帝国となり、東西分裂し、滅亡するまで維持された名です。体制が変わっても変えられませんでした。

       

     

    ローマの歴史は、都市国家から王政へと変わりました。王政ローマ(Regnum Romanum)は、ローマ最初期の政体になります。
    建国伝説があります。
    トロイア戦争で敗れたトロイア人のアイネイアースらは、ギリシアやカルタゴを転々とした後、イタリア半島のラティウムに上陸しました。ここで現地の王の娘を妻にし、ラウィニウムを築きました。アイネイアースの死去後、息子のアスカニオスが王位を継ぎました。しかし、その後、ラウィニウムを去り、アルバ・ロンガと名付けた新しい街を建設しました。
    時代が経過し、王の二人の息子による権力闘争があり、敗れた兄の娘が巫女となりました。シルウィアです。ある日彼女が眠ったときに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わいました。これでシルウィアは双子を産みました。これに怒った叔父の王は双子を川に流しました。双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロームルスとレムスと名づけられました。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父を王に復位するために協力しました。
    兄弟は自分たちが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとしました。しかしここでも兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺されてしまいました。
    この丘こそが、ローマだったという伝説です。

       

     

    この伝説により、ローマの初代の王はロームルスとなります。即位は紀元前753年4月21日だとされています。
    ただし、この頃は国家とはいえ、人口はわずかに数千人で。丘2つを巡る防塞を設けただけの小村だったようです。
    やがて争いが起きました。近隣の部族との間で、娘たちの扱いについてが原因でした。隣のサビニ人の娘たちを祭りに招待したものの、その娘たちを抱きかかえて自宅に連れていき、そのまま帰さなかったことに怒ったサビニ人の攻撃があったのです。
    しかし、娘たちはローマの男たちの妻となり、決して虐げられていないので、争いをやめて欲しいと懇願したのでした。
    この懇願をサビニ人のタティウス王は受け入れ、和平を承諾しました。しかも、ロームルスは、サビニ人に、部族をあげてローマに移住するように提案したのでした。そのため、ローマによるサビニ人の併合ではなく、融合だったといえます。サビニ人はローマ人と同じ市民権が与えられ、タティウス王はロームルスと共同して統治にあたるおうになりました。
    タティウス王はその後、長くは生きず、ローマの指揮はロームルスがとりました。

       

     

    しかし、ロームルスが死去した際には、暗殺という噂が飛び交いました。そのため次の王になることは、疑惑を解消するという状況でもありました。
    そんな疑心案義を払しょくするため、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことにしたのでした。そこで選ばれたのが、サビニ人のヌマ・ポンピリウスでした。当然、ローマの非居住者ということで、断りましたが、結局は引き受けることになりました。
    そしてヌマが王の時代には、戦争はなく、国内の改革を行っていきました。この改革は、ローマ暦の改革、農業推奨政策、職業別の組合の誕生、宗教改革など多岐にわたりました。
    特に宗教改革は、サビニ人の信仰が基になったといわれています。

       

     

    第3代の王になったのはトゥッルス・ホスティリウスでした。
    続きは次回にしましょう。

       

     

  • 英国ワイン 2

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は、英国ワインについて語る2回目です。前回は2018年09月07日 の投稿だったので、随分と時間が空きました。

     

     

    【関連記事】
    英国ワイン

     

    イギリスはワイン産地というより、ワインの一大消費地としての歴史が強いといえます。ヨーロッパだけでなく、世界各地のワイン産業を盛り立ててきたといえます。
    特にイギリスのワインといえば、フランスのボルドーとの関係が深いといえます。婚姻関係もあり、12世紀半ばにはボルドーのアキテーヌ公国のエレオノール女公が、イングランド王ヘンリー2世と結婚したことで、ボルドーはイギリス領となったこともあります。これにより、ボルドーからイギリスへのワインの供給が拡大しました。

     

    イギリス国内でワイン生産が少なかったのは、気候的な問題でした。ブドウが育つ環境ではなかったからです。それほど寒冷な気候だったからですが、現在は地球温暖化の影響のため、ポーランドと同じようにブドウ栽培に適するようになりつつあります。イギリスでは南部を中心にブドウ栽培が活発化しつつあります。
    この南部の地域は、イギリスでも比較的温暖で、20世紀後半からワイン生産をしていたところに、地球温暖化によりブドウ栽培が活性化したということです。

     

    地球温暖化前には、自国でワイン生産が少ないため、フランス産のワインがイギリスに大量に入り、ワイン文化が花開いたわけです。
    しかし、14世紀を過ぎると、百年戦争などの影響もあり、フランスとの対立が進みました。そこで、イギリスは、フランスに代わって、スペインやポルトガルなどからもワインを調達することにしました。それほどまえでにイギリスとワインは切り離せない関係になっていたわけです。
    ただこれによりポルトガルでは「ポートワイン」が発展しました。

     

    また、英国領は世界にあり、その中で例えばオーストラリアなどは、イギリス人のグレゴリー・ブラックスランド(Gregory Blaxland)によりブドウ栽培が持ち込まれました。彼はイギリスのケント州フォードウィッチの出身で、ケープタウンからブドウの木を持ち込みました。シドニー西方のパラマッタ・ヴァレーに植え、ボルドースタイルのワインを生産したのでした。

     

    そして現在、イギリスは過去のワイン産業の功労者だけでなく、新たなワイン産地としての歴史も歩み始めています。

     

  • ブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)について勝手に語ります。

     

     

    ザルツブルクから北へ60㎞、リンツの近郊に位置するブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)は、オーバーエスターライヒ州西北部の基礎自治体 (Gemeinde)です。ドイツとオーストリアの国境にある街ですが、オーストリアに属し、国内では最も古い都市の一つです。
    実はこの街こそアドルフ・ヒトラーの生地です。

     

    ヒトラーは、このブラウナウに1889年4月20日に生誕しました。
    生家は現在でも残り、1989年に戦争とファシズムに反対する石碑が建てられています。これは当時の市長だったゲアハルト・シーバによるもので、この石碑にはマウトハウゼン強制収容所から送られた石が使われています。

     

    実はヒトラーの出自については謎が多く、そもそも実父のアロイス・ヒトラーも謎多き人物でした。アロイスは、1837年に私生児として誕生し、彼を生んだマリアは父親が誰かを決して語らなかったといいます。
    そののち、アロイスは継父の弟である農夫のヨーハン・ネーポムク・ヒードラーに引き取られました。さらに1887年にアロイスは改姓し、「Hiedler」になりました。これが「ヒトラー」です。
    アロイスは学校を卒業すると、ウィーンへ出て、靴職人の修行に出向きました。しかし、独学で勉強し、税務署の採用試験に合格して公務員となりました。順調に出世し、補佐監督官、監督官を経て最終的には税関上級事務官にまでなりました。
    その一方でアロイスは女性関係が派手でした。多くの女性と関係を持ち、30歳の時には私生児の娘ができ、36歳のときは金目当てで50歳のアンナ・グラスルと結婚しました。このとき、召使の少女だったフランツィスカを愛人にしました。1883にアンナが死去後、フランツィスカと再婚しました。さらに、新しい召使のクララ・ペルツルを新しい愛人にしていました。
    1884年にフランツィスカが死去すると、翌年、アロイスは47歳で24歳のクララと三度目の結婚をしました。そして彼女との間で四男として生まれたのがアドルフ・ヒトラーだったのです。この誕生地こそが、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウで、ガストホーフ・ツー・ボンマーでした。

     

    ここでは、1998年から「ホロコースト記念施設での奉仕活動」の会合を行っています。
    しかし、市としては、「ヒトラー生誕の地」として観光地化することには反対し、石碑には「ヒトラーの生家」とは刻まれていません。さらに徹底していて、市内の地図にすら、生家は記載されていません。観光客がツアー客が来ないように、様々な工夫をしています。
    ヒトラーの生家は1972年にオーストリア政府が借り上げ、障害者施設として使用していましたが、所有者が改修を拒否し、買い取り交渉にも応じないため、空き家となってしまいました。ネオナチが集結する危険性もあり、また聖地となる懸念がありました。そこで、2016年にはヴォルフガング・ソボトカ内相が、ヒトラーの生家を取り壊す方針を決定しました。政府による強制収用でしたが、この建物がある旧市街中心部は遺産保護区域となっていることで、取り壊しに反対する意見や博物館などへの教育への活用を求める意見がありました。
    そして2019年11月、政府は元の持ち主に補償料を支払い、建物を警察署とすることにしました。

     

    ちなみにヒトラーは、3歳の時に引っ越しました。
    ブラウナウ・アム・インを離れ、バイエルン王国のパッサウへと引っ越したのです。
    ヒトラーのバイエルン訛りは、このような幼少期に関係しているようです。
    今宵、ワインでも飲みながら、ヒトラーを考えましょうか。

     

  • ヒッタイト帝国(Hittites)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヒッタイト帝国(Hittites)について勝手に語ります。

     

     

    以前に「ヒッタイト王国のワイン」を取り上げましたが、今回はヒッタイト帝国です。
    まだ、どの民族も青銅器しか作れなかった時代、高度な製鉄技術による最初の鉄器文化を築いたことで、メソポタミアを征服したのがヒッタイトです。
    シルクロードの西端に位置するアナトリア地方は、現在ではトルコのアジア側になります。古代よりブドウの名産地だったことから、アナトリア中央部で繁栄したヒッタイト帝国では、ワインが生産され、好まれていました。
    しかも、驚くべきことにワインは「vino」といい、この言葉は現在のイタリア語と同じなのです。ローマ帝国へと継承されたワイン文化の原点だったかもしれません。

     

    ヒッタイト帝国は、古代ギリシアや古代ペルシア帝国より古く、紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけてアナトリア地方にあった強大な国家でした。当時の覇権国家といわれたエジプトとはライバル関係でもありました。
    絶大な武力を誇る国でしたが、突然、滅亡し、その後は歴史の彼方に忘れ去られていました。

     

    そんな忘れ去られていた帝国が、19世紀に遺跡が発見されたことで注目されるようになりました。ボアズカレ近郊で遺跡が発見され、20世紀になってからドイツの考古学者による発掘調査が行われました。その結果、ヒッタイトの遺跡であることが分かったのです。
    大規模な遺跡で、聖所、神殿跡、城壁跡、貯蔵庫跡、王城跡、市街跡などが明らかになりました。
    この遺跡はボアズカレ近郊にあるヤズルカヤにあり、アンカラより東に145kmほどの距離にあります。トルコ語で「碑文の岩場」を意味する場所です。
    ヤズルカヤには、多くの神々が描かれていました。当時のエジプトと同じく多神教だったことが分かりました。またギリシア神話のように、神々には、主神テシュプ、配偶神ヘバト、息子のシャルマ神などの人格を持つ神がいて、さらに有翼の神、剣の神、太陽神、月の神、冥府の神などありました。
    もう一点、この遺跡の大きな特徴がありました。
    標高が1,000mを超える場所にあったのです。山岳地帯です。

     

    鉄器文明によってオリエント世界を制していたヒッタイトは、紀元前12世紀に滅亡しました。
    突然の滅亡でした。滅亡の原因には様々な説があります。中でもミケーネ文明の滅亡と同じように、「海の民」と呼ばれる異民族の侵入によるという説が有名です。具体的には、異民族の侵入者がヒッタイトのあらゆる建物に火を放ったことが滅亡の原因だとする説です。この異民族はフリュギア人やエーゲ海より侵入した人々といわれます。

     

    【参考ページ】
    ミケーネ文明とワイン

     

    さらに、アッシリアの攻撃により属国や同盟国が離反し、飢饉もあったことで崩壊したとする説もあります。実際にヒッタイト最後の王であるシュッピルリウマ2世は首都を捨てようとしていたようでした。これについて、旱魃と地震による飢餓が原因だと分析する学者もいます。
    確かにトルコのアナトリア地方が地震群発地帯であるのは事実で、当時の地層からは激震のあとがあるといわれます。
    これらは前1200年のカタストロフといわれ、地中海東部を席巻した大規模な社会変動のことです。この社会変動により、ヒッタイトだけが所有していた鉄器の生産技術が各地に広がりました。これで青銅器時代が終焉を迎えたのでした。

     

  • キリストの血入門 15

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第14回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はネストリウス派に関連する、ある種の「トンデモ説」をまじめに語りました。今回は東方諸教会についてです。

     

    公会議によって教義の確認が行われ、正統教義の確立へと進んでいたキリスト教ですが、前回までの話のようにネストリウス派をはじめ、異端とされた教派も多く、ローマ教会から分離する動きも多くありました。
    さすがに異端の烙印を押されたものは、その後の歴史の中で消滅したものが多くありました。それでも正統派といわれるキリスト教勢力が及んでいない地域では、そこに根をはり、独自進化をとげていくケースもありました。
    ネストリウス派と並ぶアリウス派などは、ゲルマニアで勢力が拡大した時期もあったほどです。

     

    その中で、現在まで継続している教派もあります。
    それが東方諸教会です。
    この「東方」というのは、西欧から見て「東」方向ということを意味し、ローマのカトリック教会にも、東ローマ帝国の正教会にも属さない教会の総称です。そのため、東方諸教会の中でも教派が異なります。
    厳密にいうと、カルケドン公会議で異端とされ、東ローマ帝国の教会(いわゆる正教会)から分離した教派のことで、単性論と看做された教派に、ネストリウス派を加えたものになります。

     

    ここで重要なのが「単性論(Monophysitism)」です。
    イエス・キリストが単一の性(natura)のみを有するという説です。カルケドン公会議では、イエス・キリストは神性と人性という二つの本性を持つという両性論が正しいとされ、単性論は否定されました。しかし、この単性論は皮肉なことに、同じく異端とされたネストリウス派に対抗するものでした。それがカルケドン公会議で退けられのです。
    ただし、「単性論派」とされた諸教会は、自らを「単性論」とはみなしていませんでした。むしろ単性論教会と分類されることを拒絶していました。
    また、「非カルケドン派」もありました。非カルケドン派教会の特徴は、聖母マリアの扱いです。マリアを神の母として崇敬していますので、ネストリウス派教会とは対立的思想といえます。修道院制度が確立され、聖職位階制度もありますが、修道会はありませんでした。

     

    では、東方諸教会にはそのような教派があるのでしょうか。
    代表的なものを紹介していきます。
    ます、コプト正教会です。「エジプトとワインとコプト」「アフリカ最古の独立国」でも紹介しています。
    アルメニア使徒教会、シリア正教会、エチオピア正教会なども東方諸教会で、トマス派のインド正教会や、ネストリウス派が起源のアッシリア東方教会も含まれます。

     

  • シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)について勝手に語ります。

     

     

    シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)は、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県北部にある都市です。県内では最大の人口がありますが、それでも4万6千人程度です。
    ここの周辺は、ブルゴーニュ・ワインの産地として知られるシャロネーズ地区です。

     

    シャロネーズ地区は、ソーヌ川に面した場所で、以前はワイン商の重要な活動拠点でした。当時は川の港から出荷していました。場所的に北方と地中海を結ぶ交易地で、ローマ時代から重要な港でした。
    しかし、現在は川での交易はなくなり、ワインと直接関係する産業は廃れ、一般的な産業都市へと変貌しています。
    ブドウ栽培は、平野部から丘陵地帯へと続いていますが、平野部のワインは特徴がなく、何の評価もありません。これが西の丘陵地帯のブドウとなると、良質のワインと評価されます。

     

    気候は場所によって変化があり、特に南側へと進むと地中海性気候の影響を受けてきます。土壌や地形にも変化があり、それによってブドウ品種も変わってきます。ピノ・ロワールやシャルドネだけでなく、ガメイとアリゴテのブドウなども栽培されています。そのため完成したワインも多種多様で、変化に富んだワインが楽しめる地域といえます。また、価格も比較的リーズナブルといえます。

     

    この丘陵地帯には、リュリ(Ruly)、メルキュレ(Mercurey)、ジブリ(Gvry)、ビュクシー(Buxy)など、ブルゴーニュ・ワインの有名産地の村々が点在しています。
    また、市内の旧市街地にはサン・ヴァンサン大聖堂(Cathédrale Saint-Vincent)があり、フランス文化省から「芸術・歴史都市」に指定されています。この大聖堂は8世紀に建てられたもので、シャロン司教が置かれていました。1801年には、政教条約によってオータンの司教区に統合されました。一部に8世紀の創建時の部分が残っていますが、現在の姿は19世紀の改築後のものが中心で、ファザードがネオ・クラッシック様式となっています。1903年には歴史記念物に指定されました。
    市庁舎(Hôtel de ville)はサン・ピエール広場(Place Saint-Pierre)にあり、元々は修道院でした。1845年に修道院跡に移転されました。

     

     

  • オカナガン渓谷(Okanagan Valley)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオカナガン渓谷(Okanagan Valley)について勝手に語ります。

     

     

    カナダのブリティッシュコロンビア州のオカナガン(Okanagan)は中心都市がケロウナで、アウトドアやリクレーションなどの産業が経済の中心になっています。その一方で、果樹栽培が盛んな地域で、カナダを代表するようなワイナリーも多くあります。
    オカナガンという名は、この地域の先住民族の名前だといわれます。
    また、カナダでは珍しく、国内唯一の砂漠がある地域でもあります。そのため乾燥した気候でもあります。

     

    ブリティッシュコロンビア州で最大の都市はバンクーバーですが、オカナガン渓谷へは車で4~5時間程度かかります。山を越えないと行けません。
    オカナガン南部の街はオリバーで、ここからアメリカ国境までの間は、ソノラ砂漠の北端に相当します。この砂漠はアメリカを超え、メキシコまで続くもので、カナダでは国内で唯一の砂漠地帯となっています。
    乾燥した気候というだけでなく、夏の日中の気温は高く、年間を通して降水量は少ない地方です。周囲には美しい山々が続き、近くにはオカナガン湖があり、その湖を見下ろす斜面には、ブドウ畑が広がっています。この風景は「世界でもっとも美しいワイン産地」としても知られています。

     

    オカナガン湖は、砂漠の中のオアシスのような存在です。南北約135km、幅5kmと南北に細長い湖です。ここを中心にして山に囲まれた渓谷があります。湖と山の間にはわずかな平野部があり、そこから山へと斜面が広がります。ブドウの産地も湖岸に沿うように広がり、南北に点在しています。
    気候は北部と南部では異なり、気温差も南北で夏の平均気温が4℃ほど異なるようです。
    また、南部は火山性土壌の沖積地で、ワインはフルボディの赤が中心ですが、北部は冷涼産となるので、白を中心としたワインになります。

     

    ワイン卸商品質同盟(VQA)による原産地呼称地域の一つになっていて、ブリティッシュコロンビアVQAのリージョナル・アペレーション(呼称地域)となっています。
    ただ、ワイン生産の歴史としてはそれほど古いわけではありません。それでも近年は数々の国際的コンテストで賞を受賞するワインが続出しています。そのため、北米では最も注目されるワイン産地ともいわれます。
    さらに湖を中心とした美しさとともに、観光客にも人気となっています。現在は、160を超えるワイナリーが点在しています。

     

     

    カナダのワインはアメリカのワインと異なり、日本では一般的ではありませんが、輸入を期待するより、やはりオカナガン渓谷は、現地まで行って飲むことがお勧めです。

     

  • ヴァヨッツゾール地方の発見

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァヨッツゾール地方の発見について勝手に語ります。

     

     

    ジョージアと並んでワイン発祥の地といわれるアルメニアですが、アレニ村で大きな発見がありました。2007年のことでした。
    アルメニアの首都はエレバンですが、アレニ村は、そこから南東へ約100kmほど進んだヴァヨッツゾール地方にあります。アレニ村にある洞窟で、6100年前のワイン醸造の遺跡が見つかったのです。そこからアンフォラと呼ばれる壺が発見されました。
    そして、2011年、アメリカのカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)の研究チームにより、アンフォラ内の成分分析を行い、そこにブドウの成分があり、ワインだったということが判明したのです。そのため「最古のワイン醸造所を見つけた」と発表されたのでした。この調査は土器や発酵槽などからワイン由来の成分が確認され、さらに放射線による年代分析を行いました。その結果、紀元前4100年と判明しのでした。

     

    この時代からワイン醸造が行われていたということは、世界四大古代文明より古い時代からワインが飲まれていたことになります。人類がまだ狩猟から農耕へと移る時代のことです。

     

    しかし、アルメニアは中世から近世にかけて、イスラム勢力の支配下となりました。キリスト教文化圏と異なり、飲酒を禁止するイスラム教文化ということもあり、ワイン生産は衰退しました。それでも小規模ながらも伝統的な醸造方法が受け継がれていました。
    さらに1920年代からは、ソ連の支配となりました。ソ連を構成する共和国ごとに農産加工品の分業制が進められ、アルメニアはブドウを使ったコニャック製造を担当させられたことで、やはりワイン生産は途絶える危険がありました。
    1991年、ソ連が崩壊し、アルメニアも独立を果たしました。これにより、かつてオスマン帝国の弾圧から難民として世界各地へ散らばっていた人々の子孫が故郷へと戻ってきました。ブドウ畑やワイン醸造所が民営化され、大規模な設備投資も行われました。
    荒地だった場所がブドウ畑になり、大規模なワイナリーも生まれました。さらに欧州各国から著名な醸造家などもやってきて、新しいワイン生産へと変貌していきました。

     

    では、西欧型の大規模ワイナリーのワイン醸造とは別に、アルメニアに古くから伝わる伝統的なワイン造りは何かというと、まず挙げられるのがカラス(KARAS)と呼ばれる土壺です。底がとがった形状のものです。これはジョージアにも似たものがあって、クヴェヴリと呼ばれているものです。
    このカラスを口の部分が地面より20cmほど下になるよう埋めます。そこへつぶしたブドウを投入し、蓋をします。次に埋められたカラスの周囲に地表の高さまで粘土を埋めて密封します。さらに、その上に砂を盛り、この状態で5〜6ヶ月ほど寝かせるのです。
    その後、カラスを取り出して、中のワインを別のカラスへと移します。これで自然濾過となり、さらに熟成させます。
    何とも手間と時間を要する醸造方法で、現在ではごく一部の生産者しか行っていません。

     

    日本人にはなじみの薄い国ですが、ワイン好きな人はジョージアと並んでチェックすべき国であることが良く分かったと思います。

     

  • グダニスク(Gdańsk)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はグダニスク(Gdańsk)について勝手に語ります。

     

     

    ワイン産地ではありませんが、ナイトライフでワインを楽しめ、特に夏がお勧めのポーランドの都市といえばグダニスク(Gdańsk)です。バルト海のリゾート地に近い港湾都市ですから、夏の夜は盛り上がります。
    ただし、ポーランド内陸部に比べるとグダニスクの夏はそれほど暑くありません。しかも夏は雷雨が起こりやすい地域です。それでもここ最近は、ヨーロッパの夏が暑くなり、グダニスクでも夏に30度を超えることは珍しくなくなりつつあるようです。一方、冬ですが、もともと海洋性の気候のため、比較的暖かいといえます。それでも冬には積雪もあります。

     

    このグダニスクはドイツ騎士団との関係が大きい都市です。
    ブランデンブルク辺境伯とドイツ騎士団による支配地でした。これは単なる植民地というわけではなく、ドイツ騎士団はグダニスクの賃料をポーランド王国に支払っていたのです。つまりポーランド公認の騎士団支配地だったわけです。
    そのため、グダニスクはドイツ騎士団によって近代化した都市となり、経済も成長していきました。他のポーランドの都市とは根本的に異なる発展でした。さらに、ドイツから移民が増加したことで、1361年にはハンザ同盟の正式な貿易加盟都市にまでなりました。

     

    しかし、肝心のグダニスク市民からすれば、ドイツ騎士団の支配に満足するわけではなく、ポーランドとドイツ騎士団の戦争では、グダニスク市民はポーランド側に味方しました。
    その結果、1410年にポーランド王国が勝利し、グダニスクはポーランド王国へ帰属することになりました。しかし、翌年の第一次トルンの和約により、グダニスクは再びドイツ騎士団に賃貸することになり、騎士団が支配するようになりました。
    その後の13年戦争でグダニスクはポーランド王国の自治都市になりました。これにより、グダニスクはポーランド国内の市場へも参加できるようになり、都市としての繁栄が加速し、貿易と文化の最盛期へと向かいました。
    それでも市民はドイツ人の比率が高く、他にはポーランド人、ユダヤ人、オランダ人、スコットランド人などで構成された都市でした。いわば多民族都市としての発展でした。

     

    再び支配者を迎えることになったのは、ロシアによる占領でした。さらに1793年の第2次ポーランド分割では、プロイセン王国に属するようになりました。ナポレオンにより一時的に自治都市になったこともありますが、ナポレオン戦争終結後に再びプロイセン王国の支配下となりました。
    第一次大戦後のヴェルサイユ条約では、国際連盟保護下となり、「自由都市」となりました。ただこれは平穏な時代に向かうことではなく、第二次大戦に向けたドイツとポーランドの火種をつくる結果となりました。そして1939年のポーランド侵攻です。ナチス支配です。

     

    ポーランドへ復帰したのは、1952年のポーランド独立のときでした。159年ぶりにポーランドへ復帰できました。
    ただし、このときのポーランドはマルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(PZPR)が寡頭政治を敷く社会主義体制時代でした。 ポーランド人民共和国で、ソ連にとっては、最大で、もっとも重要な衛星国となっていました。
    東西冷戦の終結とともに、第三共和国となり、2004年5には欧州連合(EU)に加盟しました。

     

    現在のグダニスクは、かつてのドイツ騎士団の支配、ソ連の衛星国としての主要都市という面影はなく、再建された中心街はとても賑やかです。様々な店やレストランが軒を連ね、広場には、17世紀のネプチューンの噴水が街の象徴的な存在となっています。
    そして夜の華やかがあります。ワインもその雰囲気の中で飲みたい街です。

     

  • サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)について勝手に語ります。

     

     

    スペインの最西端にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、世界遺産の巡礼地です。キリスト教にとっては、エルサレム、ローマに並ぶ三大聖地のひとつであり、この地への巡礼のため、古くから巡礼者が集まってきました。
    巡礼のスタート地点はいくつかあり、ポルトガルから経由する道、スペイン国内からスタートする道などがありますが、最も有名なのは、ヨーロッパ各地からフランスを経由し、ピレネー山脈からスペインに入るルートです。この巡礼路は、ワインとの関わりが深いことで知られています。

     

    このフランスからのルートは、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の4つの道がスペインに向かっています。スペインに入ってからは、ナバラ州からカスティーリャ・イ・レオン州の北部を西に横切り、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう「フランスの道」が主要になっています。
    サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、スペイン語では定冠詞をつけます。「El Camino」で、フランス語では「le chemin de Saint Jacques(サン・ジャックの道)」となります。

     

    この巡礼路は歴史が古く、1000年以上前から続いています。
    現在も年間で10万人近い巡礼者がやってきます。巡礼の拠点もあり、巡礼事務所では、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取ります。また、そこの周囲には無料の宿泊所もあります。巡礼者専用で、日本の四国霊場の「お接待」に近いものがあります。
    巡礼者はこの宿泊所で「洗足の儀式」を受け、足を水で清めます。

     

    この巡礼の道沿いには、リオハやビエルソ、リベラ・デル・デュエロなど多くのワイン銘醸地があり、巡礼中に訪れることができるようになっています。ここも巡礼者のための休憩場所となっています。

     

    目指す先は大聖堂ですが、ここでは聖ヤコブの遺骸が祀られています。
    以前に「サラゴサ(Zaragoza)」をご紹介したときにも登場した聖人です。新約聖書ではゼベダイの子のヤコブとして登場し、イエスの使徒の一人です。ヨハネの兄弟であり、アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われます。キリスト教各教派で、聖人として崇敬されています。
    このヤコブの遺体とされるものが、9世紀に現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で発見されたといわれます。その当時、スペインはレコンキスタの真っ最中で、イスラム勢力との闘争が繰り広げられていました。
    この奇跡的な発見により、イスラム勢力と対峙するキリスト教徒勢力にとっては、行動のシンボルとなり、熱狂的に崇められていきました。そしてスペインの守護聖人となったのです。

     

    巡礼者が大聖堂に到着すると、中に入るのは「栄光の門」と呼ばれる門で、そこから中へと入っていきます。その先には聖なる柱があり、巡礼者たちは祈りを捧げます。

     

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