今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • フローニンゲン(Groningen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフローニンゲン(Groningen)について勝手に語ります。

     

     

    オランダのワイン産地としては最北部の地域といえるフローニンゲン(Groningen)は、砂丘列(Hondsrug)の上に造られています。Hondsrugとは、氷河地形に由来する尾根と考えられていて、その尾根に沿って都市が形成されていて、フローニンゲンもそのひとつです。
    大規模なワイナリーはなく、オランダでもヨーロッパの寒冷期で衰退してから、復活をとげた20世紀末以降のものです。

     

    フローニンゲンの人の居住は古くからあったようで、考古学の世界では紀元前3950年から3720年の間の遺構から、この時代から人が居住していたと考えられています。集落の形成も行われ、発掘により、大規模だったのは、紀元前3世紀頃だと思われています。
    歴史の史料からは1040年の記述が最古のようで、13世紀には商業都市になっていました。ヨーロッパらしい城壁に囲まれた都市でした。
    フローニンゲンのシンボルともいえるマルティニ教会の塔が建てられたのは15世紀で、完成当時、高さ127mの塔はヨーロッパで最も高い塔でした。

     

    1568年から1648年までの、途中の休戦期間を含んで続いた80年戦争では、ネーデルラントの諸州がスペインに対して反乱を起こしたことで起こりました。この際に、フローニンゲンはネーデルラントにつきました。この戦争の結果、オランダが誕生したことから、別名でオランダ独立戦争とも呼ばれるようになりました。ネーデルラントの17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立し、フローニンゲンも含まれていたことで、独立都市からネーデルラントの主要都市と変貌しました。
    ネーデルラントがスペインから独立する背景には、カトリックとカルヴァン派を中心とするプロテスタントの対立も関係していました。
    その後、オランダの工業力はイギリスに対抗するだけのレベルとなり、熾烈な競争を展開していきました。加工貿易国として、オランダは世界をリードするほどまでになっていったのでした。

     

    文化面では1614年にはフローニンゲン大学が設立され、宗教教育が活発に行われるようになりました。新しい城壁も築かれ、これは第三次英蘭戦争で大きな抵抗力となりました。
    しかし、さすがに第二次世界大戦では被害が多く、1945年のフローニンゲンの戦いでは、旧市街のフローテ・マルクト広場周辺が大規模に破壊されてしまいました。

     

    また、フローニンゲンといえばフローニンゲン美術館です。
    1874年に開設された歴史がありますが、20世紀に大改築され、1994年にメンディーニのデザインによって再オープンしました。これはぜひ訪れたい美術館です。

     

     

  • ペトロパブロフスク・カムチャツキー(Петропавловск-Камчатский)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はペトロパブロフスク・カムチャツキー(Петропавловск-Камчатский)について勝手に語ります。

     

     

    暑くなると、涼しい場所でワインを飲みたくなります。
    そこで北にある都市を思い浮かべながらワイングラスを傾けたいと思います。その都市はロシアのカムチャツカ地方にあるペトロパブロフスク・カムチャツキー(Петропавловск-Камчатский)です。
    陸路ではロシアの他の都市と連絡していないため、ロシアでは貴重な不凍港を活かして、生活物資の輸送が海路に依存しています。
    モスクワからの距離は約6200kmもあり、北海道からの距離のほうが近く、約1500kmになっています。

     

    ロシア帝国がカムチャツカ半島の支配を宣言したのは1697年で、最初は調査でした。
    カムチャツカ半島の太平洋岸の調査は1740年で、このときにアバチャ湾を発見しました。さらに、カムチャツカ半島からチュコート半島、さらにアリューシャン列島からアラスカへと拡大していきました。
    そして千島列島の南下でした。
    ロシア帝国は極東部の軍事や毛皮の捕獲基地として、また行政の中心地としての役割をペトロパブロフスク・カムチャツキーにしました。天然の良港という点が最適でした。
    1812年には、日本では江戸時代でしが、交易商人だった高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられ、翌年までペトロパブロフスク・カムチャツキーで幽閉された事もありました。
    1854年のクリミア戦争では、イギリス・フランス連合軍によるペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦がありましたが、陥落することなく、防衛に成功しています。

     

    しかし、極東の中心地はウラジオストクへと移ることになりました。
    それは、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によるもので、このときにロシアは清からアムール川北岸や沿海州を獲得したからです。
    さらに、1867年にはアラスカのアリューシャン列島をアメリカへ売却したことと、毛皮交易の衰退などが重なり、ペトロパブロフスク・カムチャツキーの重要性は低下していきました。
    それでもソ連になってから、太平洋艦隊の軍港となり、不凍港のペトロパブロフスク・カムチャツキーは重要な都市となりました。そのため、ウラジオストクと同じように冷戦時代は外国人立ち入り禁止の都市となりました。
    これがソ連崩壊の1990年代なって都市が開放され、観光客も訪れることが可能になりました。

     

    位置的に日本との関係も深く、日露戦争終結後には日魯漁業の漁業基地が設置されました。ポーツマス条約で日本が北洋漁業の操業権を獲得したことで、日本人漁業労働者が移住し、水産工場で働くことになったのでした。
    ただkぉれも長くは続かず、日本は1930年代以降に北洋漁業から撤退しました。そのため日本人は去っていきました。第二次世界大戦後は日本との交流は完全に途絶えました。
    冷戦中はソ連の対日軍事拠点となっていました。

     

    注目すべきは、2018年9月1日から、日本人は簡易電子ビザ (E-Visa) で訪れることができるようになったことです。ソ連時代を知る人間には信じられないことです。

     

  • キリストの血入門 16

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第16回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は東方諸教会についてでした。今回はローマ帝国の東西分裂についてです。キリスト教というよりローマ史になりますが、これは中世の東西分裂に関係する部分なので、あえて取り上げています。

     

    帝政ローマの初期に誕生したキリスト教は、2世紀末になると、ローマ帝国全土へと広がっていきました。313年にはミラノ勅令(キリストの血入門 11)によりキリスト教が公認されました。
    その一方で、ユリアヌス帝により異教復興もありましたが、その後のキリスト教は影響力が拡大していきました。そしてテオドシウス1世によりついにキリスト教はローマの国教になりました。

     

    ただローマ帝国の支配力は徐々に弱体化し、286年のディオクレティアヌス帝により東方正帝と西方正帝による分担統治が開始されました。これより事実上の東西ローマ帝国となりました。当初はあくまでも分割統治でしたが、帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者が現れなかったことで、このようになりました。
    もっとも、この当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなかったようです。

     

    このようなローマ帝国の分裂により、東西のローマ帝国領域内でキリスト教もそれぞれ異なった展開となっていくことになりました。
    帝国としての政治的側面の影響は大いにありますが、地理的要因も大きく関係したといえます。それは西ローマ帝国がラテン語圏、東ローマ帝国がギリシア語圏であることから、文化圏が根本的に異なっているからです。
    この二つのキリスト教の流れが決定的に分裂したのは中世になってからの1054年でした。

     

    ローマ帝国としても東西では、命運が大きく分かれました。
    西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に脅かされ、首都も移転し、イタリア半島の領土さえ支配するのが危ぶまれる状態でした。一方で東ローマ帝国は、首都がコンスタンティノポリスで、15世紀まで続きました。西ローマ帝国の滅亡が476年なのに対して、東ローマ帝国は1453年の滅亡ですから、その差は1,000年近くあります。
    また、中世の東ローマ帝国は、ビザンツ帝国やビザンティン帝国とも呼ばれるようになりました。古代末期のローマ帝国を受け継ぎ、キリスト教国家であり続けました。西ローマ帝国と違い、ゲルマン人の侵入については最小限に食い止めていました。
    その結果、西ローマ帝国滅亡により、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝となり、全ローマ帝国の統治権を持った皇帝という名目になりました。

     

    西ローマ帝国滅亡後に西ローマ帝国の領土を統治したのはゲルマン系諸王国でしたが、統治に際して、東ローマ帝国の皇帝よりローマ帝国の官僚に任命されるスタイルをとりました。あまり知られていませんが、ゲルマン系の人たちはローマ帝国の権威を利用していたのです。
    教科書的に見ていくと、西ローマ帝国滅亡後、ローマ帝国に代わって別のゲルマン系諸王国が誕生したとなりますが、実際には形式上は依然としてローマ帝国が継続していた演出のもとに生まれた支配だったのです。
    そのため、ゲルマン人に支配された地域の住民たちも、「ローマ人」であるとの認識だったようです。

     

    この構図が決定的に変化したのは、フランク王国のカール大帝(Karl der Große)の時代です。
    800年12月25日のミサで、カールにローマ教皇のレオ3世が「ローマ皇帝」としての帝冠を授けたのです。カールの戴冠です。これでローマ皇帝であることが宣言され、それを授けたローマ総大司教は管轄にあるキリスト教会ともども、東ローマ帝国の宗主権下から名実ともに離脱したことになりました。これが新たなローマ帝国の東西分裂であり、キリスト教会も分離を意味しました。
    このカールの戴冠の延長上に神聖ローマ帝国があり、新しいローマ皇帝とローマ教会との関係が新しく誕生したわけです。これは1806年のライン同盟結成まで継続しました。

     

    キリスト教とローマ帝国の関係はとても重要なので、今回はここまでにしておきます。
    【参考記事】
    フランク王国
    カールの戴冠
    フランス共和国( République française)1
    なぜフランスはワイン大国なのか?
    カール大帝とコルトン・シャルルマーニュ(Corton-Charlemagne)

     

  • ケミ(Kemi)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケミ(Kemi)についての思い出を勝手に語ります。

     

     

    ケミ(Kemi)といっても、ほとんどの日本人は知らいなと思います。Wikipediaで調べてみても、日本語のサイトでは多くの情報は得られないでしょう。それほど知名度のないケミはフィンランドの都市です。ボスニア湾の港湾都市で、人口もわずかに2万人強という小さな都市です。
    ここにも思い出があります。21歳の夏でした。列車の乗り換えのために訪れました。

     

    シベリア鉄道を縦断してモスクワへ行き、そこから当時のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)へと北上しました。そこからヘルシンキを経て、ここへと来たわけです。実はこのルートを選択する人は珍しいといえます。シベリア鉄道でアジアからヨーロッパに来た人は、ヘルシンキから船でストックホルムへと行くのが王道といえます。わざわざ陸路で北極圏近くまで北上して、スウェーデン方面へ向かう人は物好きだけといえました。
    まさにその物好きだったわけです。

     

    ケミ周辺の大きな都市というとオウル(Oulu)ですが、鉄道では、そのオウルからケミへは支線という扱いになっています。その先にはロヴァニエミ (Rovaniemi) へと繋がります。ヘルシンキからは直通列車が走っているので、距離はともかく、不便という感じはしませんでした。そもそもシベリア鉄道での移動を経験した直後ということもあり、そのまま陸路を選びたかったという気持ちが強かったといえます。
    あまり刺激のなかったヘルシンキに別れを告げ、何も情報のないケミへと向かいましたが、この移動のことはあまり覚えていません。やはり刺激がなかったのかもしれません。

     

    この都市は中世にはすでに交易で栄えていました。主に毛皮や魚を中心とした交易の中心地でした。
    ロマノフ朝第12代ロシア皇帝だったアレクサンドル2世の時代だった1869年には、帝国令によって市の権利を与えられました。さらに工業化へと進み、この面からも重要な役割を果たしてきました。
    鉄道は1903年からでした。

     

     

    この街を訪れたのは7月の下旬でした。日本では梅雨が明けて、暑さが全開の時期です。
    ところが、駅に降り立つと、北風が強く、とんでもなく寒く感じました。それもそのはずで、日本では12月の気温だったのです。夏の恰好で来るべき場所ではありませんでした。ストーブに助けられ、身体を温めてから街を散策したのが印象的でした。そのせいか、街の印象より寒さの印象が強い場所でした。
    懐かしい思い出です。

     

  • エチェク(Etyek)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエチェク(Etyek)について勝手に語ります。

     

     

    ハンガリー国内で、最も新しいワイン産地がEtyek(エチェク)です。
    ワイン地域として登録されたのはソ連崩壊のあった1990年代です。ただし、この時代からブドウを栽培し始めたわけではなく、栽培は数百年の歴史があります。ブドウ栽培面積は年々広がっていて、現在は2,600ヘクタールほどになっています。ハンガリーのスパークリングワイン「Törley」のブドウ生産地でもあります。
    エチェクは、首都のブダペストから26km離れた地域で、ブダペストからも気軽に行くことができます。地下鉄4号線と19番、49番トラムの始発・終着駅です。また、Kelenföldi vasútállomás 駅からはバスの「Volánbusz」で1時間ほどになります。
    昨年、ブダペストを訪れましたが、残念ながら滞在日数が少なくて、ここまでは足を運べませんでした。

     

    【関連記事】
    ブダペスト紀行 1(Budapest Liszt Ferenc nemzetközi repülőtér )
    ブダペスト紀行 2(Kálvin tér )
    ブダペスト紀行 3(Gellért Gyógyfürdő és Uszoda)
    ブダペスト紀行 4(Budavári Palota)
    ブダペスト紀行 5(Mátyás-templom)
    ブダペスト紀行 6(Budavari labirintus)
    ブダペスト紀行 7(Szent István-bazilika)
    ブダペスト紀行 8(Budapest)

     

    スパークリングワイン「Törley」は、ここで栽培されたブドウを使いますが、ワインセラーがあるのはブダペスト郊外の22区Budafokにあります。創設者はトゥルレイ・ヨージェフ(Törley József)で、1882年に生産を開始しました。彼はフランスのランスの土壌と似ているBudafokで、本場での製造知識を活かしました。現在ではハンガリー国内のスパークリングワイン市場では約35%のシェアまで占めるようになりました。

     

    エチェクは、ハンガリーの他のワイン地域に比べて年間降水量が少ない地域です。北風とドナウ川から吹く南風が交差しています。太陽をたっぷり浴びた土壌は、黄土や粘土質の土地などもあって、ブドウにとって恵まれた環境となっています。
    個性的で酸味のあるワインのできる地域で、エチェク・ブダ地域の南部では赤ワイン用ブドウも栽培されています。しかし、基本的には白ワイン用ブドウ産地として知られています。主なブドウ品種は、シャルドネ、ソーヴィニョン・ブラン、スルケバラート、オラス・リースリングなどです。

     

     

  • ホジェンド(Khujand)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はホジェンド(Khujand)について勝手に語ります。

     

     

    ソ連時代は、レニナバード(Leninabad)と呼ばれたホジェンド(Khujand)は、ウズベキスタンとキルギスに国境に近いタジキスタン第二の都市です。ソグド州の州都です。
    古くは、アレクサンドリア・エスハテと呼ばれたこともあります。これは「最果てのアレクサンドリア」という意味で、シルクロードの重要な拠点でした。文字通り、紀元前329年にアレクサンドロス大王のマケドニアに侵攻されました。
    マケドニアの侵攻より前に古代ペルシア人によって城砦が築かれたことが、この街の第一歩でした。この頃から古代ギリシア人は古代ギリシア語で「果て」を意味する「キロポリ」あるいは「キレスハタ」と呼んでいたほどです。

     

    それほどまでに「最果て」の都市ですが、マケドニアだけでなく、様々な支配者によっていろいろな国に編入されていきました。
    古代ペルシアの一部となり、8世紀からアラブの領地となったことで、イスラム教が入ってきました。都市名がホジェンドなたのは、この頃だといわれます。10世紀になると、中央アジア有数の都市にまで発展していました。そして13世紀にはモンゴル軍との戦いがありました。将軍ティムール・メリクがホジェンドでモンゴル帝国を迎え撃ちました。その後、14世紀にティムール朝の支配となり、ブハラ・ハン国の時代を経て、19世紀にロシアに支配されました。ロシア革命後のソ連時代にレニナバードに改称され、ソ連崩壊後、タジキスタン共和国独立に伴いホジェンドに戻りました。1991年でした。

     

    また、ホジェンドはホージャ(Khoja)の領地です。
    ホージャはイスラム教圏で使われる称号の一つであり、イスラム神学のエリートです。

     

     

  • ティミショアラ(Timișoara)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はティミショアラ(Timișoara)について勝手に語ります。

     

     

    ルーマニアのワイン産地はいくつかりますが、トランシルヴァニア地方は高原地帯ということもあり、白ワインの生産が中心です。
    ティミショアラ(Timișoara)は西部トランシルヴァニア地方の都市ですが、実際にはバナト地方に属するため、トランシルヴァニアのワイン産地とはいえないと思います。それでも郊外にはワイナリーがあり、都市としても魅力的です。

     

    人口は30万人以上の都市ですが、ルーマニア第4の人口を誇ります。
    ティミシュ川に由来する都市の名で、古代ローマの時代から知られていました。また、多くの少数民族が集まっていて、多文化都市となっています。
    ハプスブルク帝国が統治していたのは、18世紀からで、この時代には経済の中心地として繁栄していました。しかも他民族都市ならではの複雑な文化と宗教的な多様性に、ハプスブルク帝国の支配が重なったことで、独自の経済的発展となったのです。
    ベガ運河も完成し、黒海を結ぶ新たな航路により、新たな世界へと繋がることになりました。さらに工業化も進み、トランシルヴァニアも含めた広大な地域の中で中心的役割を担うようになりました。

     

    1781年には王立自由都市となり、ティミショアラはドイツ語で「テメシュブルク(Temeschburg)」やハンガリー語の「テメシュヴァール(Temeschwar)」と呼ばれるようになりました。
    1884年に道路に電気照明が設置されたヨーロッパの最初の都市になりましたが、この年の革命によりはセルビア軍によって占領されてしまいました。
    第一次世界大戦が終わると、1918年にバナト共和国となりましたが、再びセルビア軍の侵入により、1919年にはルーマニア王国の一部となりました。この延長上で旧東側世界へと入っていきます。それでも東西冷戦が終結すると、ティミショアラでもチャウシェスクの共産党政権に対する蜂起が起こりました。1989年12月16日でした。ベルリンの壁が崩壊した翌月です。
    この蜂起はハンガリー改革派教会のラースロー・テーケーシュ牧師の解任に関係するもので、市民がテーケーシュを支援し、秘密警察に対する蜂起となったのでした。この蜂起こそが、1週間後にチャウシェスク政権の崩壊へと招き、ルーマニアの変革を迎えるものでした。そしてティミショアラはルーマニア最初の自由都市と宣言されました。このことから「ルーマニア革命始まりの地」とも呼ばれるようになったのです。
    ここ最近では、ハイテク分野での外国投資が増加した都市となりました。そのため、ルーマニアでブカレストに次ぐ2番目の繁栄都市となりました。この投資は、主にアメリカとEUからで、中でもドイツとイタリアの投資額が目を引きます。

     

    ティミショアラは花と緑に囲まれ、街並みも美しく、ハンガリー風の建築物を多く残っています。
    ぜひ、ここを起点としたワイナリー巡りをしたい都市です。

     

     

  • イスラム原理主義(Islamic Fundamentalism)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイスラム原理主義(Islamic Fundamentalism)について勝手に語ります。イスラム教の国でありながらワイン産地であり、飲酒に寛容な国もあれば、まさにイスラム原理主義により飲酒を厳禁にしている国もあります。そこで、今回取り上げてみることにしました。

     

     

    イスラム原理主義という勢力がある一方で、その勢力とは関係のない地域では、ムスリムでも公然とワインを飲む文化があったりします。代表的なのは、やはりヨーロッパとの関係の深い地域で、例えばトルコやアルバニア、ボスニア、それに中央アジアなどが該当します。
    その一方でイスラム原理主義の傾向が強いサウジアラビアでは、飲酒だけではなく、病院の消毒用アルコールですら使用禁止することもあるといいます。さらにアルコールを使用したバイオ燃料の使用は罪であるとまでいわれています。
    では、このイスラム原理主義とは何でしょうか?

     

    日本では英語の「Islamic fundamentalism」 を訳したもので、最初はジャーナリズムで使われていたものが一般化しました。
    この英語の原文では、イスラム教徒(Islamic)と原理主義者(Fundamentalist)という2つの単語で成り立っていますが、現在は一般的には広く解釈され、イスラム教の聖典であるコーランやイスラム法に基づく国家、あるいは社会を理想とし、そのように統制すべきだと主張している人々の総称となっています。
    有名なのはアフガニスタンのタリバンでしょうが、他にも、エジプトやヨルダンのムスリム同胞団、パレスチナのハマス、レバノン・シリアのヒズボッラーなども該当します。もちろんIS(イスラム国)もそうですし、アルカイダもそうです。
    過激な集団のイメージがあるかもしれませんが、中には穏健な集団もあります。

     

    もともとは、アメリカが、アメリカ合衆国に敵対する存在であると見なしたイスラム系の集団に対して敵対的、かつ侮辱的な意味で使用された言葉です。
    さらに遡ると、「Fundamentalism(原理主義)」という言葉自体が、批判的な意味合いが強いものでした。その対象はイスラム教ではなく一部のキリスト教徒に対してでした。1920年代でした。
    それは、一部のキリスト教徒が近代的な進化論までを否定し、学校教育にも圧力をかけていたことで、そのような人への批判的な言葉だったのです。
    ちなみに、このような人々は福音派のプロテスタントに多かったようです。彼らは進化論だけでなく、天地創造に基づかない天文学や科学全般を否定し、他にも妊娠中絶、同性愛なども禁止を主張していました。

     

    イスラム教に対する原理主義は、1979年のイラン革命ころから使われたようです。
    使い方として特徴的なのは、批判的立場でない場合は、イスラム主義者(Islamist)などといい、イスラム原理守護を使いません。
    そのためサウジアラビアのように、アメリカの同盟国や友好国に対しては、イスラム原理主義という表現は使用されません。

     

  • ジェルバ島(Djerba)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジェルバ島(Djerba)について勝手に語ります。

     

     

    イスラム教の国家でありながら、世俗的な国家であり、「国家フェミニズム」によって厳格なイスラムの戒律と縁のないチュニジアは、ワイン生産も盛んな国です。
    チュニジアと関係する話題も取り上げてきました。

     

    【関連記事】
    カルタゴからチュニジアワインへ
    ボン岬に残るカルタゴの面影

     

    今回はチュニジア南部でガベス湾内にあるジェルバ島(Djerba)です。
    この島は北アフリカ最大の島で、リビアとの国境近くにあります。人口は約12万人です。
    古代から伝説によって知られていた島です。ホメロスの『オデュッセイア』に記述されていて、この叙事詩の主人公であるオデュッセウスが上陸した島とされています。その『オデュッセイア』によると、この島にはロートファゴイというハス食い人がいたとされています。

     

    地理的に古代よりカルタゴ人が数度島を訪れていますが、特徴的なのはユダヤ人の来訪です。
    エルサレムの神殿が破壊された後、多くのユダヤ人がこの島へと避難してきたのです。そのためユダヤ人が多く住む島となり、その後、ローマによって都市が建設され、港も整備され、農業も発展させていきました。
    ただ地中海世界にある島というのは、様々な侵略の歴史にもなりました。
    キリスト教の勢力、ヴァンダル族、東ローマ帝国、そしてアラブ人などが次々と現れ、この島を征服していきました。
    第二次大戦後の1960年代を過ぎると、観光地として人気が出るようになりました。
    そして、ジェルバ島はイスラエル建国以後、チュニジア国内で最大のユダヤ教徒コミュニティとなっています。

     

    アフリカ大陸とはフェリーが往復していて、所要時間はわずかに約15分です。
    それほど近い距離にあり、島と本土との間で最も近い場所では、島の南東端で、ここは本土と7kmほどしか離れていません。古代ローマ時代には本土とつながっていたようです。
    また、現在は島南東のエル・カンタラと本土との間には橋が架かっています。

     

     

    ジェルバ島はチュニジア国内ではベルベル語が話される数少ない地域でもあります。
    ベルベル語派はアフロ・アジア語族に属する言語グループで、モロッコ、アルジェリア、リビアで話されている言語です。ただこれらの国ではアラビア語を重要視する政策があり、ベルベル語を話す人々は辺鄙な山間部の村などに多いといわれます。しかも家庭の中でしか話さないこともあるようです。
    そのような言語ではありますが、もともと北アフリカでは広い地域で多く話されていました。

     

    ユダヤ人に関係した伝説も残っています。
    紀元前586年の第一次ディアスポラによってジェルバ島にたどり着いたユダヤ教徒が、海岸にソロモン神殿の石材の一部が漂着しているのを発見しました。シナゴーグを建設する事になり、その建設場所をどこにするかで論争になり、なかなか結論が出ませんでした。そんなとき、過越の祭の二日目に空から聖石が降ってきたのです。その場所に石材を置いてみると、エルサレムへの道が見えたという伝説です。
    このシナゴーグはユダヤ教徒の巡礼地となっています。

     

  • エカテリンブルク(Екатеринбург)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエカテリンブルク(Екатеринбург)について勝手に語ります。

     

     

    ヨーロッパとアジアの境界線は、第1回目の「ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 1」 でご紹介していますが、その中でウラル山脈で分けた場合に、境界線近くにある都市があります。それがエカテリンブルク(Екатеринбург)です。
    厳密には市街地はウラル山脈の東側斜面に広がっているため、アジア側に位置し、西へ40㎞行った先がヨーロッパとアジアの境界線になっています。シベリア鉄道でここを通過したときは、意味もなく感激したものでした。

     

    エカテリンブルクの人口は145万人で、ロシアでは4番目に大きな都市です。
    ウラル山脈がある関係で、周囲は針葉樹林になっていて、大小の湖沼に囲まれています。ただウラル山脈は拍子抜けするくらい標高の低い山脈です。なぜかというと、地球に現存する最古の山脈の一つなため、長年の浸食によって低くなっているからです。その古さは2億5000万年から3億年前に形成されたといわれています。
    では、平均標高はどれくらいかというと、900mから1200mです。最高峰でも1,895mしかありません。ナロードナヤ山という峰です。

     

    そしてこの地はロシア革命により、皇帝ニコライ2世(Николай II)一家が処刑された地でもあります。
    ニコライ2世はロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝です。日本との関係でいえば、やはり「大津事件」でしょう。
    彼が皇太子だった1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問中に滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられた事件です。ニコライ2世が負傷しましたが、命に別状はなく、暗殺未遂事件で終わりました。
    その時代、ロシア帝国は列強国の一つであり、しかもこの事件が発生したときには、ロシア艦隊が神戸港にいました。日本はまだ発展途上の時代で、ロシア軍に武力報復されかねない緊迫した状況となりました。
    しかし、日本は司法の独立を維持し、行政の圧力に負けずに対処できたことで、三権分立確立へ向かうための意識が向上した重要な事件といえました。
    犯人の津田は無期徒刑となりましたが、収監の翌々月に死亡しました。また、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職しました。司法大臣・山田顕義は病気を理由に辞任しました。

     

    ロマノフ家の処刑(Расстрел царской семьи)は、1918年7月17日のことでした。
    エカテリンブルクのイパチェフ館で、ニコライ2世、妻のアレクサンドラ・フョードロヴナ、5人の子供(オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシア、アレクセイ)が、射殺・銃剣突き・銃床で殴るなどによって殺害されました。
    ロマノフ家の遺体はトラックに積み込まれ、森に向かって運ばれました。
    処刑の舞台となったイパチェフ館も解体されました。その跡地はロシア正教会の所有となり、2003年に「全ロシアに輝ける諸聖人の名による、血の上の教会」が建てられました。

     

    またソ連崩壊後のロシア連邦初代大統領であり初代首相を務めた。 ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン(Борис Николаевич Ельцин)の出身地でもあります。

     

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