今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • アナパ(Ана́па)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアナパ(Ана́па)について勝手に語ります。

     

     

    1991年にソ連が崩壊しましたが、それ以前は、グルジア(現在のジョージア)、モルドバはソ連の一部ということで、世界的なワイン生産国が内部にありました。そのためワイン生産国としても、世界で五指に入るほどでした。
    もちろん、グルジア、モルドバだけでなく、黒海沿岸でもワインは生産されていましたが、ソ連が健在だった時代には話題にされることもなければ、ワインが生産されていること自体、知らない人がほとんどでした。その時代は現地に訪れた人が飲んだり、安いお土産用のワインでしかなかったのです。

     

    ソ連が崩壊し、グルジア、モルドバも独立したあとは、今度は「輸入」という扱いでロシアに大量に入ってきて、見た目上はワインの流通に変化はないような状況となりました。これが激変したのが、2006年でした。この年、グルジア、モルドバのワインが輸入禁止となったのです。この突然の輸入禁止は、輸入したワインから有毒物質が発見されたためであるとされました。しかしロシアの市民は、ロシア当局のその理由について、誰も信じる人はいなかったといわれます。
    この2年後には南オセチア紛争(South Ossetia War)、別名ロシア・グルジア戦争(Russian-Georgian War)が勃発しています。21世紀最初のヨーロッパの戦争でした。
    これはグルジア領内にある南オセチア自治州、アブハジア自治共和国の2つの地域の分離独立政策をロシアが支援していましたが、グルジア側はと領土を保全し、実効支配を確立していたことで対立関係となっていました。
    またグルジアがNATOへの加盟が検討され、これに対してロシアはもし加盟するなら軍事的手段もとるという脅しまでしています。そのため、この対立関係が解消されない限り、ジョージアのワインがロシアに輸入されることはないと考えられます。
    ちなみに、モルドバのワインはその後に輸入が再開されました。

     

    このようなロシアのワイン事情を背景として、自国内でのワインに注目せざるを得ないことになったのです。その注目先の一つが黒海沿岸のアナパ(Ана́па)でした。
    アナパはクラスノダール地方にある黒海北岸の都市で、アゾフ海の入口近くにあります。ロシアを代表するリゾート都市です。
    この周辺地域は歴史が古く、港のあったこの地に、紀元前6世紀から古代ギリシア人が移り住み、ゴルギッピアという名で繁栄しました。しかし、3世紀頃になると、遊牧民族の侵略により崩壊していきました。
    近代では、オスマン帝国支配をロシア帝国が奪うという攻防が繰り広げられました1828年から開始された露土戦争では、開始翌年にロシア軍がアナパ攻囲戦を行い、結局、アドリアノープル条約によりロシア帝国領となりました。
    リゾート地となっていったのは19世紀後半からで、それまでは漁業や交易に携わる人々だけの町でした。それを、温暖な気候を生かした保養地として開発をしていったのです。1866年にはスパ、20世紀初頭にはサナトリウム、さらに新たな都市計画をもとにした開発が進みました。ロシア革命があっても、その後の開発は続きました。
    第二次世界大戦ではドイツに占領され、市街地も破壊されましたが、現在では黒海のリゾート都市として見事に再建されています。

     

     

    現在のアナパのワイナリーでは、フランスから技術者を招聘しつつ、ワインの味としてはあくまで「ロシアの味」を追究するスタイルになっています。

  • 日本の「隠れた兄弟国」

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は日本の「隠れた兄弟国」について勝手に語ります。

     

     

    中央アジアといえばイスラム教の国が多くありますが、中東と違ってビールやワインを飲むことができます。その中でキルギスはワインの評判も良く、ビールやコニャックも有名です。
    旧国名はキルギスタンで、今でも別称として認められています。
    旧ソ連の共和制国家で、首都はビシュケクです。

     

    ヨーロッパに負けないワインを生産するキルギスですが、実は日本と兄弟の関係の国だという説があります。より正確にいえば、キルギスで人口の70%以上を占めるキルギス族と日本民族が兄弟の関係だという説です。
    キルギス人は、祖先がエニセイ川(Енисе́й)上流に定住していたと考えられています。この川はロシアのシベリアを南北に流れ、北極海に流れ込む最大の水系です。世界第5位の長を誇り、流域面積はユーラシア大陸最大です。
    この流域にモンゴル系やテュルク系民族が住んでいたといわれ、その中でキルギス族が移動して現在の地に移住したと考えられています。そこで、伝説が残っています。(出典:日本の中のユダヤ文化・学研出版)
    その伝説は、「昔むかし、2人の兄弟がいて、1人は山へ向かってキルギス人の祖先となり、もう1人は海へ向かって日本人となった」というものです。さらに別パターンもあります。バイカル湖の近くにある兄弟が住んでいて、魚が好きな兄は東へと向かって日本人の祖となり、肉が好きな弟は西へと行ってキルギス族の祖となった、というものです。

     

    これと一部似た日本神話があります。
    「古事記」に登場する話ですが、兄が火照命は漁師として魚をとり、火遠理命は猟師として獣をとっていました。火遠理命は兄の火照命に互いの道具の交換を提案しましたが、火照命は三度断ったものの、結局、少しの間だけ交換することにしました。火遠理命は兄の釣針で魚を釣ろうとしたものの1匹も釣れず、さらにその釣針を海の中になくしてしまいました。一方、兄の火照命も獲物をとることができませんでした。
    それで、お互いに自分の道具でなくては無理だということに気づき、自分の道具を返してもらうことにしました。しかし、火遠理命が兄に釣針をなくしたと告げると、火照命は火遠理命を責めました。そこで火遠理命は自分の十拳劔から1000の釣針を作りましたが、火照命は元の釣針が欲しいと言って受け取りませんでした。
    火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神やって来て、小船を作り、火遠理命を乗せて綿津見神の宮殿へ行くように言いました。
    こうして綿津見神の宮殿に行き、豊玉毘売命と火遠理命の物語へと移ります。ここまで来るとキルギス族・日本人祖先の話とは離れていきます。

     

    同じ祖先をもって、それぞれの地に定着してそれぞれの国の祖先となったという伝説ですが、これとは別にもう一点、キルギスと日本との関係を語るものがあります。それが「古代イスラエルの失われた10支族」です。

     

    イスラエルの失われた10支族

     

    紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされたユダヤの北王国を構成する10支族ですが、この行方が歴史から忽然と消えてしまいました。アッシリア捕囚を経たことから、そのままシルクロードを経て東へ逃れたのではないかともいわれています。
    その中に日ユ同祖論があり、日本人が「古代イスラエルの失われた10支族」の末裔だとする説があります。
    一方、キルギスでも、「マナス (Manas)」という民族叙事詩から同じように「古代イスラエルの失われた10支族」の末裔とする説があります。この「マナス」は、口承による数十万行にも及ぶもので、世界で最も長い詩とギネス認定されているほどです。ここに登場するのがマナスで、その子のセメテイ、孫のセイテクと続いていき、合計で8代の事跡がうたわれています。そのマナスですが、「旧約聖書」のマナセ族の父祖・マナセとの共通点から、キルギス族は「古代イスラエルの失われた10支族」の末裔だと考える説があるのです。

     

    あくまで伝説をベースにしたものでしかなく、キルギス人と日本人が兄弟なのかどうかはわかりません。
    それでも、遠く離れた国で、このような伝説があるのは興味深い気がします。
    それに何よりキルギスといえばシルクロードです。ここで栽培されたブドウからワインがつくられ、シルクロードで各地に運ばれ、そのワインを飲んだ人たちを幸せにしていくのが、何ともすごい気がします。

     

  • ガヤック(Gaillac)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はガヤック(Gaillac)について勝手に語ります。

     

     

    ガヤック(Gaillac)は、フランス南部にあるミディ・ピレネー地方タルヌ県にある都市です。人口は1万人程度の小さな町です。トゥールーズ(Toulouse)からは北東の位置になります。
    ローマ時代からワインの醸造が行われていて、タルヌ県内で生産されるAOCワイン「ガヤック」の生産・流通拠点になっています。

     

    ここでのワインの歴史は古く、プロヴァンスやラングドック・ルシヨン地方に次いで古いと言われています。もともとはローマ人がタルヌ川を下り、地中海沿岸で生産されたワインを大西洋側や、ヨーロッパ北部へ運搬していました。その中でブドウの苗もここへ持ち込まれたことから、次第にこの地方でも栽培されるようになりました。そのようにローマとの関係が強いせいか、ローマ時代の土器なども発掘されています。
    また、気候も大西洋と地中海の間になり、温暖で乾燥しています。

     

    紀元前7世紀にはブドウは栽培されるようになり、その後、サンミッシェル修道院を中心に発展していきました。ここでも「キリストの血」であるワインを聖餐式などの儀式に使用する目的で、修道士たちがブドウ栽培に励みました。

     

    ガヤックでは、白ワイン、赤ワイン、ロゼワイン、スパークリングワインと、様々なワインが生産されています。この中で生産量としては赤ワインが全体の6割程度を占めています。
    しかし、品質的に評価されているのは、むしろ白ワインやスパークリングワインかもしれません。
    また、ブドウ品種に特徴があります。あまり他の場所で栽培されていない品種が多く、国際品種より伝統を重視しています。

     

     

    スパークリングワインでは、ガイヤコワーズという伝統的な製法でつくられます。これは、発酵中のワインを途中で瓶詰めにします。残りの発酵は瓶内で二次発酵となります。
    かなり上品な味でシャンパーニュと比較しても見劣りしません。

     

  • イエス・キリスト生誕地のワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイエス・キリスト生誕地・ベツレヘムのワインについて勝手に語ります。

     

     

    「旧約聖書」では「ダビデの町」、「新約聖書」ではイエス・キリスト生誕地とされている町がベツレヘムです。
    聖地であるエルサレムとはわずか10kmしか離れていませんが、東西冷戦時代のベルリンの壁と同じように、イスラエルとパレスチナに分かれているため、ここでも壁によって隔てられています。
    「新約聖書」の「ルカによる福音書」では、イエスの両親はナザレからベツレヘムに移り、ここでイエスが誕生し、その後にナザレに戻ったとなっています。「マタイによる福音書」ではイエス誕生前に両親がナザレにいたという記述はなく、誕生後にナザレに行ったのは迫害を逃れるためとしています。
    この福音書の記述から、イエスの生誕地はベツレヘムであると信じられてきました。しかし、現代の学者の中には、このことを疑問視している人も大勢います。ベツレヘムに誕生したことにすることで、ダビデ王の系譜と結びつけることを目的としたのではないかという見方です。そのため、ベツレヘムでの生誕は歴史的な事実を記述したものではないというのです。
    考古学的にも、歴史学的にも証明することは難しいでしょう。

     

    キリスト教にとっては重要な町であるのは事実でしょうが、現在はキリスト教徒よりムスリムの人口が多く、アラブ化した町といえます。
    それでもベツレヘムには修道院もあり、サレジオ修道会・クレミザン修道院ではワイナリーがあってワインを醸造しています。しかも、ハムダニ、ジャンダリなどの土着のブドウ品種を半分使ったワインがつくられているのです。この土着品種の果皮はやや黄色がかっている緑で、ベツレヘムで栽培されています。
    また、ベツレヘム近郊のクレミザンの丘で栽培されているのが、バラディという土着品種です。これはアラビア語で「我が国」、「その土地の固有」を意味しているそうです。ベツレヘムの街中より標高が高く、その分、昼夜の寒暖差が大きいことから、酸味が強いブドウになっています。

     

    ベツレヘムはイエス生誕よりはるか前から歴史に登場してきています。
    文書で登場する最古のものは、紀元前1400年ごろアマルナ文書(Amarna letters)でした。この文書は、エジプト第18王朝のアメンヘテプ4世時代の外交政策と国際関係を示した史料です。年代としては、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃と推測されます。ナイル川東岸アマルナで発見されたことからこのように呼ばれ、楔形文字による粘土板文書です。この文書からベツレヘムがカナン人の集落だったと考えられています。
    このカナンこそ、「旧約聖書」で「乳と蜜の流れる場所」と描写された地であり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地です。

     

    古代ローマの時代になると、ローマに占領され、イエス生誕地にギリシャ神話のアドーニスの神殿まで建てられてしまいました。
    しかし、のちにローマ帝国の東西分裂にともなって、東ローマ帝国の初代皇帝となったコンスタンティヌス1世の母親・聖ヘレナにより、ベツレヘムに聖誕教会が建立されました。
    そしてイスラム教勢力と十字軍の時代となり、オスマン帝国による支配となりました。
    カトリックと正教会、それにイスラム教という複雑な勢力分布のもとで、パレスチナは不安定な時代を継続してきました。
    現在でもイスラエルとパレスチナの対立構造が続き、ベツレヘムがエルサレムから隔絶された状態というのは、何とも悲しい気分になります。

     

    それでも修道院で醸造されるワインがあるので、一度は味わってみたいと思っています。

     

  • クルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はクルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)について勝手に語ります。

     

     

    あまり知られていないでしょうが、ルーマニアのブドウ栽培面積は世界10位であり、ヨーロッパでは第5位の広さを誇っています。ワイン醸造の歴史も古く、伝統を持ちながら、魅力溢れるワインが生産されています。
    緯度が南フランスや北イタリアと同じ44°〜48°Nにあり、気候についても「温帯大陸性気候」ということで、四季があり、昼夜の気温差もあり、冬と夏の寒暖差も大きい国です。
    そんなルーマニアのワイン産地の中に、トランシルヴァニア地方があります。ここは高原地帯で、比較的白ワインの生産が中心といえます。

     

    トランシルヴァニア

     

    そのトランシルヴァニア地方の中心地ともいえるのがクルジュ・ナポカ(Cluj-Napoca)です。
    ソメシュル・ミク川の渓谷に位置しています。首都のブカレストから約480km離れています。ルーマニア第3の人口を誇り、ハンガリー語ではコロジュヴァール(Kolozsvár)、ドイツ語ではクラウゼンブルク(Klausenburg)という名前になっています。
    このドイツ語名は、ハンガリー王ラースロー4世によって、1275年にトランシルヴァニアにいたザクセン人を、この地に入植するように勧めたことで、ドイツ語名のクラウゼンブルクとなったものです。
    さらにここに居住したハンガリー人はコロジュヴァールと呼びました。

     

    その後は都市として発展し、15世紀にはザクセン人とハンガリー人の住民の数が等しくなりました。そして1541年にトランシルヴァニア公国の一部となりました。しかもトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心都市となりました。一方で、オスマン帝国とハンガリー王国の戦争により、ザクセン人が減少し、ハンガリー人の人口が増えていきました。
    1861年から1867年のわずか6年の期間は、トランシルヴァニア大公国の首都となりました。これはオーストリア・ハンガリー帝国が建国されたことで、ハンガリー王国に編入されたことから首都でなくなりました。それでもブダペストに次ぐ王国第2の都市となっていました。
    ルーマニア王国の一部となったのは第一次世界大戦後のことでした。そのためか、20世紀半ばまで住民の最大人数を占めていたのはハンガリー人でした。
    徐々にルーマニア人が増加し、1966年の国勢調査では逆転していたようです。

     

     

    実はこの都市は、ハンガリーのブダペストとルーマニアのブカレストとの中間距離に近い場所にあります。
    東欧を堪能する旅であれば、ここを経由するプランもありだと思います。

     

  • 法定飲酒年齢

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は法定飲酒年齢について勝手に語ります。

     

     

    プレゼント専門ワインのシエル・エ・ヴァンでは、日本の法律を遵守して営業をしています。そのため未成年者飲酒禁止法は特に注意しています。具体的には、満20歳未満の未成年者の飲酒を禁止する法律で、それだけでなく親権者や、酒を販売した側にも罰則が定められています。

     

    では、日本を除く世界各国の法律はどうなっているでしょうか?
    飲酒可能年齢は、国によって異なります。しかも酒類によって分けられている国もあります。
    具体的に見ていきましょう。

     

    まず、アメリカです。
    実は日本より厳しくて21歳です。以前(1970~75年)に飲酒可能年齢を18歳に引き下げた時期もありましたが、現在は21歳に戻っています。
    ただ、アメリカの飲酒については州法となりますので、年齢を引き下げたのも全米で29州でした。引き下げの幅は州によって異なり、その中で最も多い州が「21歳から18歳へ」でした。
    ところが、この引き下げ期間に、飲酒運転による事故、死亡者、大幅に増加したそうです。もちろん引き下げた年齢層の人々による飲酒量が増加していました。
    この結果、1970年代後半からそれぞれの州で飲酒可能年齢を21歳に戻してきたのでした。
    では、21歳への引き上げで飲酒運転の事故などが減ったかというと、まさにその通りだったようです。そして1988年までには、全米すべての州で飲酒可能年齢が21歳に戻ったのでした。

     

    これに対して、ヨーロッパでは比較的飲酒年齢が低いといえます。
    ここも具体的な国で見てみましょう。
    まず、最も年齢が低いのが、オーストリアとスペインです。何と16歳です。ドイツとオランダの場合も、ビールとワインなら16歳ですが、蒸留酒は18歳になっています。
    18歳というのは、ヨーロッパでは他にイタリア、フランスもそうです。オセアニアのオーストラリア、ニュージーランドも同じく18歳です。南米ではブラジルも同様です。
    ノルウェーもビールとワインは18歳ですが、蒸留酒は20歳になってます。
    ワインと蒸留酒が21歳になっているエジプトでは、ビールに関してだけ18歳となっています。
    アジアではどうかというと、韓国が19歳、台湾、モンゴルが18歳、マレーシアは21歳です。

     

    世界各国、微妙に年齢が異なりますが、あくまで法律は守りましょう。

     

  • ヴァラジュディン(Varaždin)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァラジュディン(Varaždin)について勝手に語ります。

     

     

    クロアチアの首都ザグレブから北へ81kmの位置にヴァラジュディン(Varaždin)はあります。
    クロアチアは沿岸部は急峻な山が多く、ワイナリーは小規模なものが集まっていますが、ヴァラジュディンは大陸側にあり、比較的平坦な地形となっていることから大規模なワイナリーも多くあります。
    クロアチアのワインの飲み方は多様で、そのまま飲む人だけでなく、白ワインのスパークリングウォーター割り「ゲミシュト(gemišt)」、赤ワインの水割り「べヴァンダ(bevanda)」などもあります。
    ザグレブからはヴァラジュディン方向にワインロードなどがあり、見学できるワイナリーも多くあります。クロアチア人だけでなく、ヨーロッパから大勢の人がやってきます。

     

    さて、ヴァラジュディンですが、ここはクロアチア有数の都市史跡が残る町です。1991年のクロアチア紛争でも直接的な被害がありませんでした。
    歴史的には温泉地として知られ、1181年にハンガリー王ベーラ3世により温泉地として公式に記録した場所です。その後、1209年には自由王立都市となり、経済・軍事で発展していきました。
    要塞都市としても守勢の構造となり、聖ヨハネ騎士団による修道院なども建てられました。その後、支配者は転々と変わり、1756年にクロアチアの首都となりました。
    しかし、1776年に大火があり、このとき町の大半が焼けてしまいました。このことから、行政機能がザグレブへと戻ることになりました。
    都市として再建されたのは19世紀で、完全に再建されただけでなく、都市としても拡張し、それ以降、クロアチア北西部の産業中心地にまで成長しました。

     

    大火を経たとはいえ、史跡としては保存状態が良く、旧市街の要塞などは中世そのもの状態となっています。
    さらに、クロアチアならではの典型的なゴシック様式の円形塔などもあります。
    街中には、バロック、ロココの邸宅などがあり、また、クロアチア国立劇場はウィーンのヘルマン・ヘルマー、フェルディナント・フェルナーによって設計されました。

     

     

    20世紀にユーゴスラヴィアが崩壊し、クロアチア独立戦争は熾烈を極めました。
    農地は荒廃、都市部は破壊され、ワイン生産には大打撃となりました。しかし、ここヴァラジュディンは被害がほとんどなく、貴重な都市となっています。
    もし機会があれば、ぜひ訪問したい街です。

     

  • キリストの血入門 12

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第12回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はミラノ勅令によりキリスト教がローマ帝国で認められ、テオドシウス1世により国教となった点について述べました。今回はその後の歴史についてです。

     

    キリスト教の公認にともなって、キリスト教内部でも神学が様々に発展していきました。各地で構築された神学が独自の教理となり、キリスト教内での論争が激しくなっていきました。
    迫害されていた時代から、キリスト教の拠点が各地にあったことで、教会内での意見の統一は難しい状況でしたが、その中で神学の中心としては、ローマではなくギリシア教父でした。アレクサンドリアのオリゲネス(Origenes Adamantius)、カイサリアのバシレイオス(Βασίλειος Καισαρείας)、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスなどでした。

     

    オリゲネスは、新プラトン主義の影響を受けていました。
    それが最も現れているのが、プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の『創世記』を融合しようとした点にあります。二つの世界創造についての記述を融合させ、創造について、「神が無に自分の存在を分かち与えたこと」としました。このような融合とともに、聖書の記述をそのまま信じるのではなく、何かの比喩として解釈する手法をとりました。
    しかし、彼の死後300年経過した西暦553年には、異端とされてしまいました。

     

    カイサリアのバシレイオスは、全ての教派で聖人として崇敬されているほどの神学者でした。特に正教会で顕著です。
    救貧施設を建設した人物で、らい病を含む病人の収容保護、貧民収容所、孤児病者収容所、嬰児収容所など、、福祉事業に貢献する一方で、三位一体論の形成などに影響を与えました。また、正教会の聖体礼儀の奉神礼文を整備した人物でもありました。

     

    ナジアンゾスのグレゴリオスは、テオーシス(人間の神化)思想の理論化、神の本質の不可知性と神の業において顕現する神の光の可知性の二重構造を、初めて神学理論として体系化した人物です。
    ナジアンゾスのグレゴリオスも正教会では特に崇敬されました。

     

    ニュッサのグレゴリオスは、第1回コンスタンティノポリス公会議でアリウス派を反駁した人物です。
    このアリウス派への反駁は、同時に三位一体論の確立に繋がりました。そして神の無限性についての神学を確立しました。
    正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人になっています。

     

    キリスト教も内包したマニ教、モンタノス派、アリウス派など、様々な視点によるキリスト教観により、4世紀以降では、神学論争によって教会の分裂にまで至る事態となりました。
    特にアリウス派とアタナシウス派の論争は、キリストの位置付けに対して反発し、暴力的な争いにまで発展してしまいました。
    そこで、このような過激な教派間の抗争を止めることを目的として、西暦352年にニカイア公会議が開かれることになりました。ローマ皇帝コンスタンティヌスによるものでした。
    ここで初めて、ローマ帝国の皇帝がキリスト教に介入したことになります。彼は、キリスト教というよりもローマ帝国内の問題として、この解決を図ることにしたようです。

     

    その結果、アリウス派は異端とされました。
    西暦431年にはテオドシウス2世によりエフェソス公会議が行われ、このときはネストリウス派が異端とされました。
    これによりアリウス派もネストリウス派も追放されました。

     

    ここでネストリウス派が追放されたことで、のちの東方世界、シルクロード経由での中国など、歴史を大きく変えることになりました。その話はまた機会を改めましょう。

     

  • ジャムシード (Jamshīd‎)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はジャムシード (Jamshīd‎)について勝手に語ります。

     

     

    ツァラトゥストラ(ザラスシュトラ)が、ゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダー (Ahura Mazdā) に「最初に語りかけた人間は誰なのか」と尋ねると、アスラ・マズダーはイマ(Yima)だと答えました。
    このイマはアヴェスター語で、ペルシア語ではジャムシード (Jamshīd‎)です。イラン最古の王朝ベーシュダード王朝の王の一人です。インド神話ではヤマ(閻魔)に相当しています。
    このジャムシードですが、最高神から「教えを広めよ」と言われたものの、それを拒否しました。ジャムシードが神より創造されたのは、布教活動をする目的ではないとしたのです。
    最高神アスラ・マズダーは、では、この世の世界を繁栄させるように指示しました。彼はこの言葉には従うこととしました。そこで、神からは王権を象徴する黄金の矢と黄金で飾られた鞭が与えられたのでした。

     

    そしてジャムシードに関してはワインに関する伝説が残っています。
    ある時、ジャムシードは、ハーレムの一人の女性を追放してしまいました。しかも追放した彼女に対し、絶望させ、自殺させるような仕打ちをしたのでした。
    思惑通り、彼女は落胆し、毒を飲んで自殺することにしました。そこで王の倉庫に行き、「毒」と書かれた瓶を見付けました。この瓶の中は腐ったブドウでした。ブドウを保管していたものの、身が腐ってしまい、もう飲めないと思われ、「毒」という扱いだったのです。
    当然ながらブドウの残骸は発酵していて、ワインとなっていました。
    彼女はその「ワイン」を飲みました。もちろん「毒」ではなく、逆に気分が高揚していきました。
    彼女は驚き、自殺をやめ、この発見を王に伝えることにしました。王は彼女の話を聞くと、この新しい飲み物を飲み、しかも夢中になりました。
    自殺させようとした女性も再びハーレムに戻しました。さらに、ペルセポリスで栽培されていたすべてのブドウを「ワイン」にするために醸造するように命じたといいます。

     

    これはあくまで伝説であり、ジャムシードですらゾロアスター教神話の登場人物です。
    それでも酒を禁じないゾロアスター教神話に登場するだけあって、いかにもそれらしい話に感じます。

     

  • オレンジワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオレンジワインについて勝手に語ります。

     

     

    以前にスロベニアのゴリシュカ・ブルダ(Goriška Brda)でご紹介しました。
    今回は、醸造法をご紹介いたします。

     

    オレンジワインは、基本的に赤ワインと同じプロセスで造られています。ただし原料が赤ブドウではなく、白ブドウになります。
    赤ワインの場合であれば、破砕した黒ブドウの果皮を果汁と一緒に発酵し醸すことになります。この際に果皮に含まれる青や赤色の色素(アントシアニン)が溶出して、赤ワインになるわけです。これが、オレンジワインの場合は、白ブドウを使いますので、果皮中にアントシアニンが含まれていないため、赤色にはなりません。代わりに黄色系色素が溶出することで、オレンジに近い色調になるわけです。
    オレンジワインは、いわばロゼワインと対極に位置するといえます。
    ロゼワインは黒ブドウを圧搾する際に、果皮から色素が移ります。これでピンク色になった果汁を、白ワインと同様に醸造する製法です。従って、オレンジワインは「白ブドウで造る赤ワイン」で、ロゼワインは「黒ブドウで造る白ワイン」となるわけです。

     

    タンニンについても言及しないとなりません。
    白ワインは酸化防止剤の役割をするタンニンがありません。そのため、タンニンが豊富な赤ワインに比べると酸化防止剤としての亜硫酸を多く使うことになります。
    そこで、オレンジワインですが、タンニンは赤ワインと同じように豊富であるため、亜硫酸の添加は少なくてすみます。
    実はナチュラルワインで扱う白ワインは、このオレンジワインによって添加物を抑えている傾向があるようです。

     

    では、料理との相性はどうでしょうか?
    実は世界のソムリエたちが、オレンジワインと合わせる料理について、従来では考えられないような料理まであわせてきて、実際に様々な提供をしているそうです。
    特に香辛料を多く使うアジア系の料理などでは、赤ワインでは渋味と辛味が合わされて、料理もワインも味を台無しにしてしまいます。白ワインでは弱すぎて、料理の味にワインが負けてしまいます。そんな香辛料系の料理にも、オレンジワインは合わせられるようです。

     

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