今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • フヴァル島 (Hvar)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフヴァル島 (Hvar)について勝手に語ります。

     

       

     

    ユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した国の中で、飛び地がある国といえばクロアチアです。本土とは陸続きではないドゥブロヴニク(Dubrovnik)が飛び地になっていますが、今回はそこではなくフヴァル島 (Hvar)です。
    その前にクロアチアですが、日本の約15%程度の国土しかありません。そしてクロアチアは世界でも高く評価されるワイン生産地です。日本人にはまだ認知度が低いかもしれませんが、旅行先としても魅力ある国です。

       

     

    そのクロアチア最古のワイン生産地がフヴァル島です。
    アドリア海に浮かぶ風光明媚な島で、東西の長さは約80キロメートルあり、映画「マンマ・ミーア 2」の撮影地にもなりました。
    ワインの歴史は古代ギリシャにまで遡ります。ギリシア人が島に入植し、ブドウとオリーブの栽培を始めたのが 2400年も前です。ユネスコの世界遺産にもなっている地域で栽培されるブドウが、伝統的なワイン生産をしているので、それだけでも魅力的に感じます。

       

     

    古代ギリシア人の入植前にも文化があったようで、新石器時代にフヴァル文化として紀元前3500年から紀元前2500年まで続いたといわれます。
    中世になると、スラヴ人が島を占領しました。その一方でパガニア人海賊の拠点でもありました。
    12世紀にはワインやワイン用のブドウを求めてヴェネツィア商人が買い付けにやってきました。その結果、ヴェネツィアが島を占領することになりました。しかし、その後はすぐに東ローマ帝国の支配下となりました。
    さらに、その次は1358年のザダル条約によるハンガリー王国の領土となりました。
    島の支配者は次々と変遷し、1390年夏はボスニア王トヴルトコ1世が支配し、1396年12月はハンガリーとクロアチア王ジギスムンド(神聖ローマ皇帝ジギスムント)からゼタ公国バルシッチ朝の王ジュラジ2世への贈与、さらにハンガリー王への返還、1409年にはヴェネツィアの襲撃などと続きました。
    1797年のカンポ・フォルミオ条約によりヴェネツィア共和国からハプスブルク家直轄地になり、ナポレオン戦争中にはフランス帝国軍が占領しました。

       

     

    1815年のウィーン会議では、オーストラリが支配権を持ち、20世紀に入ってからはフヴァル島はクロアチア全土とともにユーゴスラビア王国に加わりました。しかし第二次大戦中はイタリアの占領下となり、その後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となりました。
    1992年にクロアチアが独立することになり、その領土にフヴァル島も含まれました。

       

     

       

     

    目まぐるしく支配者が代わっていったフヴァル島ですが、現在はヨーロッパでは観光地として有名です。
    さすがに日本や中国からの旅行者はまだ少ないようですから、リゾート気分を壊すことはありません。かなりお勧めの島です。

       

     

  • キリストの血入門 13

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第13回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はキリスト教神学の幅が広がり、エフェソス公会議でネストリウス派が異端とされた所まで述べました。今回はネストリウス派のその後についてです。

     

    まず最初にネストリウス(Nestorius)ですが、コンスタンティノープル大主教には428年から431年まで在位していました。シリアのアンティオキア学派に属していました。
    彼はアレクサンドリアの主教キュリロスと対立していました。それは、キュリロスたちの学派が神性に中心を置いたことで、キリストに対して非人格的な人間性以上の概念を認めなかったのに対し、ネストリウスはそこを批判していたからでした。
    ネストリウスはイエスの母であるマリヤについて、「神の母」という表現を否定していました。当時の民間信仰レベルになっていた聖母マリヤ信仰に警告を与え、マリヤを「キリストの母」として、イエス・キリストの人間的な面の延長に置いたのでした。つまり、イエス・キリストの人間性と神性を分離し、二つの自立存在として並存することを説きました。
    このことからキュリロス派と激しく対立し、431年のエフェソスで公会議で異端と宣告されたのでした。ネストリウスは主教職を罷免されてしまいました。

     

    いわば追放されたことになったネストリウスはエジプトに移り、隠遁生活を送ることになり、451年に亡くなりました。
    しかし、ネストリウスを支持する教徒は多く、ネストリウス派として各地で積極的な不況活動を展開していたのでした。

     

    498年には、ネストリウス派はチグリス川東岸のクテシフォン(Ctesiphon)やチグリス河畔に位置するセレウキア(Seleucia)に新しい総主教を立てました。
    ペルシア地域から東方へと活動の範囲を広げていきました。
    中国が唐の太宗の時代、7世紀には、「景教」という名で伝来していました。ペルシア人司祭「阿羅本」によるものと伝えられています。景教の教会を大秦寺といいました。しかし、唐の末期になると、弾圧されてしまい、景教は消滅してしまいました。
    それでも元の時代になると、モンゴル帝国の遊牧集団の中に景教徒がいたことから一時的に復活したものの、それも長続きせず、次第に衰えていきました。

     

    実は日本にも伝来していたとする説は根強くあります。
    高野山に景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカまで建立されています。高野山の開祖である空海も唐で景教を学んだとされているのです。
    フランシスコ・ザビエルよりはるか前に日本に伝来していたというのは、その流れが仏教諸派に取り入れられた状況を意味し、本来なら全く新しい宗教であるはずのキリスト教が、かなり馴染みやすいものだったことにもつながります。さらに空海より時代を遡り、第45代天皇・聖武天皇の皇后だった光明皇后との関係も考えられます。

     

  • 欧州ワイン市場観測所によるコロナの影響

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は欧州ワイン市場観測所(das European Wine Market Observatory)の新聞記事について一部を翻訳し、勝手に語ります。

     

       

     

    Am 6. Mai tagte zum zweiten Mal das European Wine Market Observatory. Ähnlich zu anderen Agrarsektoren hat die Europäische Kommission dieses Expertengremium für den Weinmarkt eingerichtet, um direkt aus den Anbauländern Informationen zu sammeln und zeitnah reagieren zu können. Der Deutsche Weinbauverband hat im letzten Herbst Prof. Dr. Simone Loose als Expertin für Deutschland bestellt.

     

    欧州ワイン市場観測所は5月6日に2回目の会合を開催した。欧州委員会は、他の農業分野と同様に、ワイン生産国から直接情報を収集し、迅速な対応ができるよう、ワイン市場のための専門機関を設置した。昨秋、ドイツワイン生産者協会は、ドイツの専門家としてシモーネ・ルース教授を任命した。

     

    Online boomt

    Hauptthema der virtuellen Sitzung waren die Auswirkungen von Corona in den Anbauländern. Auf der Konsumseite sind diese vergleichbar mit Deutschland: Gastronomie ist total weggebrochen, Online boomt ausgehend von einer sehr kleinen Basis, Nahversorger haben an Bedeutung zugenommen und große Verbrauchermärkte (Hypermarkets) verlieren.

     

    オンラインブーム

    リモート会議による主な議題では、成長途上国におけるコロナの影響であった。消費の面では、美食文化は完全に崩壊し、オンラインでは非常に小さな拠点から発信し、地元のサプライヤーの重要性が増してきたことで、大規模な消費者市場(ハイパーマーケット)は衰退している。

     

    Starke Umsatzeinbußen in mediterranen Ländern

    Das absolute Ausmaß der Absatzrückgänge der Weingüter ist jedoch aus zwei Gründen deutlich höher als in Deutschland. Zum einen spielt die Gastronomie in den mediterraneren Ländern vor allem durch Tourismus eine wesentlich stärkere Rolle (Anteil am inländischen Absatzvolumen 30%, am Umsatz 50%) und zum anderen sind die Exportanteile von Frankreich, Spanien und Italien um ein Vielfaches höher. Der Export ist schon Ende letzten Jahres (außer für Italien) durch die amerikanischen Strafzölle stark eingebrochen und jetzt durch das globale Ausmaß der Krise über alle Märkte noch einmal deutlich reduziert. Französische unabhängige Winzer (CEEV) geben im Vergleich zum Vorjahr für März einen Umsatzrückgang von 51% und für April einen Rückgang von 71% an. Auch spanische Weingüter (Quelle: CEEV) gehen durch die Schließung von HORECA von einem Umsatzverlust von 50% aus, während ihr Absatzvolumen im Inland um 30% gesunken ist.

     

    地中海諸国での販売が急減

    しかし、ワイナリーの売上減少の絶対的な大きさは、2つの理由でドイツよりも著しく大きい。地中海諸国の美食文化の役割は、主に観光を通じて(国内販売量30%、売上高50%のシェア)強力な役割を果たしいる。一方でフランス、スペイン、イタリアの場合は、輸出シェアのほうが数倍高い。昨年末にはすでにアメリカの懲罰的関税の影響で輸出が激減しており(イタリアを除く)、世界的な危機の規模が大きく、すべての市場で再び大幅に減少している。フランスの独立系ワインメーカー(CEEV)は、3月の売上高が前年比51%減、4月は71%減と報告している。スペインのワイナリー(出典:CEEV)もHORECAの閉鎖により50%の減収を見込んでいるが、国内の販売量は30%減少している。

     

    Destillation gefordert

    Die Experten zeichneten ein dramatisches Bild einer bisher nicht gesehenen Krise. Die Keller sind in vielen Regionen durch die große 2018 Ernte noch mit Wein aus dem Vorjahr voll und nur wenige Betriebe erwarten ausreichend Absatz, um Platz für die 2020er Ernte zu schaffen. Es werden deshalb von den Branchenverbänden Maßnahmen zur Krisendestillation von beträchtlichen Mengen und zur Ertragsregulierung (grüne Ernte) gefordert, für die jedoch nationale Budgets genutzt werden müssen. Der globale Preisdruck auf den Fassweinmärkten steigt zusätzlich durch bisher in China abgesetzte Mengen aus Australien und Chile. Die Runde war sich darin einig, dass der Weinabsatz über HORECA durch die Distanzmaßnahmen nur spät wieder an Fahrt aufnehmen wird. Viele befürchten eine langfristige deutliche strukturelle Verringerung des Weinabsatzes, deren sich die Produktionsseite anpassen muss.

     

    蒸留が必要

    専門家は、前例のない機器をドラマチックに描いた。多くの産地では、2018年の収穫量が多かったためセラーには依然として前年のワインが残っていて、2020年収穫分のスペースを確保するのに十分な売上を期待している企業は少ない。そこで業界団体は、かなりの量の危機的蒸留と収量規制(グリーンハーベスト)のための対策を求めている。ただそのためには国の予算を使わなければならない。世界的なカスクワイン市場の価格圧力は、これまで中国で販売されてきたオーストラリアとチリの数量が大量であったことから、樽ワイン市場に対する世界的な価格圧力も高まっている。 HORECAを介したワインの販売は距離的な対策であるため、さらに遅くなるだけであることに同意した。多くの人が、ワインの販売が長期的に構造的に大幅に減少することを懸念していて、生産側はそれに適応しなければならない。

     

    Die Stärke der Deutschen Winzer

    Innerhalb von Europa schlagen Vertreter aus Spanien, Italien und Frankreich auch die Freigabe des Onlineverkaufs über europäische Ländergrenzen hinaus vor, um ihre Direktkunden erreichen zu können, die bei geschlossenen Grenzen nicht zum Einkaufen kommen können. Hier liegt noch die Stärke der deutschen Winzer, die ihre Direktkunden vor der Haustür haben und nicht durch ähnlich starken Konsumrückgänge im Inland alle Karten auf den Export setzen mussten. Wer hätte gedacht, dass die deutsche Exportschwäche uns einmal zum relativen Vorteil gereicht.

     

    ドイツのワイン生産者の強み

    欧州内では、スペイン、イタリア、フランスの代表者が、国境が閉ざされていると買い物ができない直接の顧客にリーチするために、欧州の国境を越えてオンライン販売をオープンにすることを提案している。これはドイツのワイン生産者の強みであり、直接の顧客を目の前に置き、同様に国内消費の落ち込みが激しいために輸出市場にすべてのカードを出す必要がなかったことに変わりはない。ドイツの輸出の弱さが一度は相対的に有利になるとは誰が想像しただろうか。

     

    「ddw」
    Corona-Auswirkungen auf Europa
    Mittwoch, 20. Mai 2020 – 10:00

     

    考えてみれば、シエル・エ・ヴァンはコロナ以前からオンライン販売をしていました。
    伝統的なワイナリーとの対比という意味でも、新型コロナウイルスの影響を考える契機となったのかもしれません。
    今回は少し古い記事でしたが、時には欧州のワイン関連のニュースも取り上げても良い気がしました。

  • ロシア最古・最南端の都市デルベント(Derbent)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はデルベント(Derbent)について勝手に語ります。

     

       

     

    人類史上最古のワインといえばジョージアとなりますが、ここはコーカサス地方となります。
    そのジョージアに近いデルベント(Derbent)という都市は、ロシア最古の都市であり、最南端の都市でもあります。2003年には、UNESCOの世界遺産に「デルベントのシタデル、古代城壁、要塞建築物群」の名前で登録されました。

       

     

       

     

    特徴的なのはカスピ海とコーカサスの山との距離です。何とその幅がわずか3キロメートルしかないのです。 タバサラン山頂から急傾斜でデルペントの街になっていますが、その割に交通の便はよく、カスピ海の港湾施設だけでなく、アゼルバイジャンのバクーと鉄道や道路で結ばれています。
    カスピ海を挟んで現在のカザフスタン、トルクメニスタン、その先のウズベキスタンなどの広大なユーラシア草原地域が東側に広がり、南側にはイランやイラクなどの中東地域が広がっています。その両者を結ぶ交通の要衝だったことから、デルベントには多種多様な民族が入り、衝突する舞台でもありました。

       

     

    都市名の由来はペルシャ語の「閉じられた門」だそうで、都市名としては5世紀末から6世紀初頭頃から使われていたそうです。この時代は、サーサーン朝支配でした。
    この時代に城壁が建設され、デルベントは強固な要塞となり、カスピ海の重要な港にもなりました。
    そして何より、この時代にキリスト教布教の拠点となり、その流れで「キリストの血」であるワイン文化も根付いたものと思われます。
    第三次ペルソ・テュルク戦争では、一時期サーサーン朝から西突厥による支配という時期もありましたが、その後は再び戻り、次に654年には、アラブ人による支配となりました。これにより、キリスト教布教の拠点からイスラム教が浸透する街へと変貌していきました。
    アッバース朝の時代には発展が続き、キリスト教国家との争いもありましたが、1239年にモンゴル帝国に侵攻され、繁栄が止まりました。

       

     

    シルヴァンシャー朝、サファヴィー朝などの支配下に入ったのち、1722年に第1次ロシア・ペルシャ戦争が勃発しました。この結果、デルベント藩王国が創設され、その首都となりましたが、第2次ロシア・ペルシャ戦争により、ロシア軍の砲撃を受け、ゴレスターン条約の結果、ロシア帝国に所属することとなりました。

       

     

    ブドウ栽培の行われる地域ですが、実をいうとデルベントはワインよりブランデー生産の中心地です。
    また、アレクサンドロスの門伝説が残る都市であることから、古代ギリシア時代から続く都市ということもあり、デルベントはロシア最古の都市と言われています。
    現在の人口は10万人程度なので、決して大きな都市ではありませんが、ロシア中心部からというよりアゼルバイジャンなどとあわせて旅したい街です。

       

     

  • ノヴォシビルスク(Новосибирск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はノヴォシビルスク(Новосибирск)について勝手に語ります。

     

       

     

    ロシアで第3位の人口規模を誇り、シベリアで最大の都市といえばノヴォシビルスク(Новосибирск)です。
    都市としては新しく、街がつくられたのは19世紀末です。シベリア鉄道建設中に都市が建設され、1893年に誕生したときにはノヴォニコラエフスクという名でした。ロシア皇帝のニコライ2世に因む名だったことから、ソ連の時代に現在のノヴォシビルスクとなりました。これは「新しいシベリアの街」を意味します。

       

     

    シベリア鉄道によってできた都市らしく、ノヴォシビルスクには鉄道技術博物館があります。
    ソ連時代の古いディーゼル機関車や冷蔵車、除雪車などがありますが、その中にワイン輸送用冷蔵貨車もあります。1956年に製造されたもので、電動で冷やすのではなく、氷で冷蔵します。
    長大なシベリア鉄道を、氷で冷やしたワインが運ばれていくというのは、何ともロマンがあります。

       

     

    そもそもシベリア鉄道の建設中にこの都市がつくられたのは、シベリア随一の大河であるオビ川が関係していました。この大河を渡るために、鉄道橋を建設しなければならず、その建設予定地の基地として町が形成されたのでした。
    そしてオビ川の大鉄橋は1897年に完成しました。これによりロシア中央部から走る列車とオビ川を航行する船が交差する町にもなりました。
    鉄橋開通後、順調に町は発展し、ロシア革命直前には80,000人の都市にまで成長したことで、シベリア有数の都市となりました。宗教施設も、ロシア正教会の聖堂7か所、ローマ・カトリックの教会が1つできました。その他、学校や文化施設もできていました。
    スターリンの時代には、ノヴォシビルスクはシベリア最大の産業の中心地の一つとなりました。しかし、その一方で、ソビエト大飢饉により多くの国内難民が流入し、スラム街が形成されることにもなりました。「シベリアのシカゴ」と言われる所以でした。
    文字通りシベリア最大の都市となったのは、第二次世界大戦後で、このときの人口は287,000人でした。

       

     

    1950年代になると、ノヴォシビルスク郊外の森の中に科学研究の拠点が築かれることになりました。
    ソ連科学アカデミー・シベリア支部だけでなく、多くの研究機関た大学がこの場所に集積するとともに、計画都市としてのアカデムゴロドクが誕生しました。行政的にはノヴォシビルスクの一部です。
    そして人口100万人を超えたのは1962年でした。
    世界の百万都市の中で、最も若い都市、言い換えれば最も歴史のない都市です。実際に町が誕生してから、70年弱という短い期間で百万都市となったわけです。

       

     

    日本で姉妹都市となっているのは札幌市で、ノヴォシビルスクの市内には「シベリア-北海道センター(Сибирь-Хоккайдо)」 も設置されています。 

       

     

       

     

  • 僧正殺人事件(The Bishop Murder Case)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言が解除されましたが、まだまだ首都圏では外出自粛が叫ばれています。そこで、ワインと一緒に自宅で読む文学作品として、今回は『僧正殺人事件』(The Bishop Murder Case)を取り上げて、勝手に語ることにします。このシリーズでは、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』『ペスト』『若きウェルテルの悩み』に続いて6作目です。

     

     

    この小説は、1929年に発表されたもので、作者はS・S・ヴァン・ダインです。
    S・S・ヴァン・ダインはハーバード大学卒業後、美術評論家として活躍していました。しかし、神経衰弱となり長期療養となってしまい、仕事はドクターストップとなりました。最初は書物を読むことも禁じられましたが、軽い小説なら許可され、英国ミステリーを読むことになりました。そこで2000冊ものミステリー小説を読破し、さらに体系化し、研究を重ねることにしました。
    その結果、「この程度の作家がこれだけ成功するのなら自分にもできないことはない」と確信し、ミステリー作家となったといわれます。

     

    退院後の1926年、『ベンスン殺人事件』を上梓すると、たちまち評判となりました。以降、12作の長編を発表し、それらの作品にファイロ・ヴァンスが名探偵として活躍するスタイルとなっていました。
    しかし、ヴァン・ダインは傑作を書けるのは、一作家6作が限度だろうとしていました。ところが、その二倍の量を発表することとなりました。ただ、彼の言葉通り、前期6作が評判が高く、後期6作の評価は芳しいものではありませんでした。
    その中で最も評価が高いのが、前期の『グリーン家殺人事件』と『僧正殺人事件』です。

     

    この『僧正殺人事件』は第4作目で、マザー・グースの詩になぞらえた事件になっています。
    まず最初の被害物はアーチェリー選手のジョーゼフ・コクレーン・ロビンで、矢が突き刺さって殺されていました。そして、彼の恋敵であり死の直前まで一緒だったスパーリング(雀)という男が姿を消しました。マザーグースの「誰がコック・ロビンを殺した」と符合しています。
    第2の殺人は大学生のジョン・E・スプリッグが射殺されました。これはマザーグースの「小さな男がいた 小さな鉄砲持っていた」に符合しました。
    さらに第3.第4の事件が起こり、マザーグースに見立てた不気味な殺人事件となっていました。
    これに対して名探偵ファイロ・ヴァンスは、独自の心理分析によって犯人像を絞り込んでいきます。

     

    物理学者ディラード教授とワインが関係するシーンも登場します。
    ただ、このシーンはワインを飲むのを一度やめたほうが良いかもしれません。

     

  • ウィーンのホイリゲ・ミニガイド

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ウィーンの芸術と文化イベントなどを掲載する「stasd-WIEN.at」というサイトがあります。オーストリアのサイトですが、この中にホイリゲのガイド(die Heurige)がありましたので、紹介しようと思います。勝手に翻訳して勝手に語ります。

     

       

     

    ホイリゲに関連することは、過去に何度か掲載したことがあります。

       

     

    シュランメル音楽(Schrammelmusik)
    オーストリアのワイン
    ウィーン郊外のホイリゲ

     

    Die Heurigenorte liegen zwar innerhalb der Stadtgrenzen, haben aber meistens einen ländlichen Charakter. Freunde idyllischer Kellergassen werden in jedem der Heurigenorte Entdeckungen machen: in den malerischen alten Winzerorten Grinzing, Heiligenstadt oder Nussdorf, die reizvoll zwischen Donau, Nussberg und Kahlenberg liegen. Oder in Sievering, der als einer der romantischsten Orte unter den Wiener Weinbaudörfern gilt. Aber auch in Neustift oder Salmannsdorf trifft man auf die gute alte Wiener Gemütlichkeit.
    Stammersdorf, der größte Heurigenort der Stadt, und das benachbarte Strebersdorf liegen malerisch am Fuße des Bisambergs. Im nahe gelegenen Jedlersdorf findet man kleine, gediegene Betriebe mit oft schlichtem Buffet. Jeder Heurigenort hat auf seine Weise etwas Einzigartiges und Spezielles.

     

    ホイリゲの場所はウィーン市内にありますが、ほとんどが田舎の雰囲気があります。グリンツィング、ハイリゲンシュタット、ヌースドルフなど、ドナウ川、ヌースベルク、カーレンベルクの間に位置し、絵のように美しく古いワイン生産地では、牧歌的なセラー・レーンの友人たちが、それぞれのホイリゲの場所を見出します。ウィーンのワイン生産地の中で最もロマンチックな場所の一つとされるシーヴェリングもそうです。ノイシュティフトやサルマンスドルフでは、古き良きウィーンの居心地の良さを味わうことができます。
    ウィーン最大のホイリゲである「Stammersdorf」と、隣接する「Strebersdorf」は、絵のように美しいビシャンベルクの麓に位置しています。近くのジェドラーズドルフでは、シンプルなビュッフェスタイルの小さな重厚なレストランを見つけることができます。どのホイリゲでも、独自の方法とユニークなものがあります。

       

     

    Die Grundlage für die heutige Heurigenkultur geht auf eine Verordnung des damaligen Kaisers Josef II. aus dem Jahr 1784 zurück, in der er den Winzern erlaubte, Wein aus eigener Erzeugung auszuschenken. Erkennbar ist der echte Wiener Heurige an der „Ausg’steckt“-Tafel und am Föhrenbuschen, der gleichzeitig anzeigt, wann das Lokal geöffnet ist. Diese beiden Symbole garantieren auch, dass hier ausschließlich Eigenbauweine aus Wiener Weinrieden ausgeschenkt werden. Die ungezwungene Atmosphäre, die Gärten am Rande der Stadt, der gute Wein und die feinen Schmankerln machen den Heurigen zu einem beliebten Ausflugsziel für ein bunt gemischtes Publikum. Doch das Wort „Heuriger“ hat noch eine zweite Bedeutung: Es steht für den Wein vom aktuellen Jahrgang, der pünktlich zu Martini (11. November) zum „Altwein“ wird.

     

    今日のホイリゲ文化の基礎は、1784年に当時の皇帝ヨーゼフ2世が発布した法令にまでさかのぼります。これによりワイン生産者が、自分で生産したワインを提供することが許可されたのです。本物のウィーン・ホイリゲは、「Ausg’steckt」のボードと松の木の茂みにより確認できます。これは営業時間内に表示されます。この2つのシンボルは、ウィーン産の自家製ワインのみが提供されることを保証しています。カジュアルなな雰囲気、郊外の庭園、上質なワインと美味しい料理で、ホイリゲは様々な人々に人気があります。「ホイリゲ」という言葉には2番目という意味があり、それは現在のヴィンテージワインを表しているのです。マティーニ(11月11日)に合わせて「アルトヴァイン(古いワイン」になるのです。

       

     

    Heuriger in Wien: Ein kleiner Führer durch die Heurigenorte

       

     

    個人的に懐かしいホイリゲなので、今回も取り上げてしまいました。

      

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 5

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第5回になります。

     

       

     

    前回は古代ギリシアについて触れました。今回は歴史から離れ、ヨーロッパ主要都市について触れてみます。

       

     

    1815年には、ロンドンは世界で最も巨大な都市でした。
    ところが現在では、世界最大でもなければヨーロッパ最大でもありません。それでもEU離脱の原因ともなったロンドン市域への移民の増加や、英国民でも大都市への人口集中があり、人口増加傾向があるといえます。
    現在の人口は898.2万人なので、世界最大でなくなったとはいえ、巨大な都市であることに変わりはありません。
    では、ヨーロッパ最大の都市は、というと、1250万人を誇るモスクワです。 世界第15位です。
    モスクワも移民が多く、特に中央アジアから100万人以上が移り住んでいるとされていますが、彼らの数は入っていません。またモスクワ都市圏の総生産は7944億ドルで、世界10位の経済規模となっています。人口ではロンドン都市圏のほうが少ないですが、総生産はロンドンが上回っています。

       

     

    実はモスクワだけでなく、1000万人を超える都市がヨーロッパにはあります。
    ただ、純粋にヨーロッパに入れていいかどうかは別問題になります。それがイスタンブールです。13世紀には世界最大の人口を抱えていました。現在の人口は1350万人というデータもあります。しかし、イスタンブールはヨーロッパとアジアの両方の地域にまたがっています。ビジネスの中心はヨーロッパ側で、住宅街が多いのはアジア側です。
    なので、イスタンブールは参考値とするのが良いかもしれません。

       

     

    都市の規模をはかるものとして人口がありますが、ヨーロッパではむしろ「都市圏」で考えたほうが良いといえます。同一経済圏を構成するのは、中心都市とその周辺都市となり、これは日本でも同様といえます。
    そこでパリの場合ですが、単独のパリ市だけだと人口はわずかに215万人程度になります。名古屋市が232万人ですから、それより少なくなります。
    しかしパリ都市圏となると1253万人となり、ロンドン都市圏の1501万人と引けを取らない規模になります。
    反対にベルリンの場合は単独で364万人の巨大都市ですが、経済圏は狭く602万人しかいません。

       

     

    実はヨーロッパには300万人を超える都市は多くありません。
    モスクワ、ロンドン、ベルリンの他には、マドリッドが316万人、サンクトペテルブルクが535万人だけです。
    200万人を超える都市も、他ではローマが287万人、キエフが280万人です。これに続く都市を思いつくままに列挙すると、ミンクスが195万人、ウィーンが184万人となります。
    ヨーロッパにはアジアのようなメガトン級の都市はなく、高層ビルが林立する都市も少ないといえます。むしろ伝統的な都市景観を維持している都市が多いといえます。
    このような視点からもヨーロッパと日本の違いが分かってくるかもしれません。

       

     

  • ピエモンテ(Piemonte)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はピエモンテ(Piemonte)について勝手に語ります。

     

     

    ピエモンテ(Piemonte)といえば、イタリアでトスカーナと並ぶワイン生産地として知られています。
    州都はイタリア第四の都市トリノで、イタリア北部ということもあって、イタリア語以外の言語での表記もあります。ドイツ語・スイスドイツ語・ピエモンテ語では「Piemont」、フランス語では「Piémont」、 英語では「Piedmont」 です。
    ピエモンテには「山の麓」という意味があり、これは文字通りアルプス山脈の麓にある地域となっています。そのためか、気候は大陸性気候で、温帯・亜寒帯に属することから季節の寒暖差は大きくなっています。夏は暑く、冬は寒い、というメリハリがあります。
    ここで栽培されるブドウはネッビオーロ種で、イタリアで一番高貴な黒ブドウと言われています。タンニンが凝縮されていて、重厚な味わいです。

     

    イタリアワインの格付けで、1963年制定のDOC法では、D.O.C.G.、D.O.C.、I.G.T.、Vinoという4段階に分かれていました。
    2008年にはEUワイン法に合わせることとなり、改正されて、D.O.P.、I.G.P.、Vinoの3段階になりました。
    では、ピエモンテのワインはどのように選定されてるかというと、D.O.C.G.に9銘柄、D.O.C.に42銘柄選定されています。

     

    この地は古代ローマ以前より都市があったようですが、結局はローマに支配されることとなりました。紀元前1世紀には古代ローマ領の一部として繁栄することになりました。この時代にローマからワイン文化が入ってきたようです。
    西ローマ帝国が滅亡すると、5世紀にはブルグント族、ゴート族の侵攻がありました。さらに6世紀になると、今度は東ローマ帝国、ランゴバルドの侵攻もあり、773年にフランク人によって占領されました。
    この流れから神聖ローマ帝国内のイタリア王国の版図でもありましたが、統一国家ではなく、小さな侯国などに分かれていました。
    11世紀以降はサヴォイア家が勢力を拡大し、18世紀にはピエモンテを統治することになりました。一方でイタリア統一の機運が高まっていて、サヴォイア家はその運動の中心となっていました。
    そして1861年、イタリア王国が成立しました。首都はピエモンテのトリノでした。
    このようにサヴォイア家の影響が大きく、フランスの慣習や食文化、さらにワインなどもこの地に入ってきました。

     

    イタリア統一以後、トリノから首都がフィレンツェ、ローマへと移転したことでピエモンテの政治的役割は低下していきました。
    それでも歴史的経緯を踏まえ、イタリア王国の王太子は「ピエモンテ公(Principe di Piemonte)」の称号を名乗っていました。 ウンベルト・ディ・サヴォイア、ヴィットーリオ・エマヌーレ・ディ・サヴォイア、 ウンベルト・ディ・サヴォイア、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアなどです。

  • サラゴサ(Zaragoza)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサラゴサ(Zaragoza)について勝手に語ります。

     

     

    スペイン・アラゴン州サラゴサ県にあるサラゴサ(Zaragoza)は、アラゴン州の州都であり、サラゴサ県の県都です。 人口約67万人の都市で、アラゴン州の人口の約半分、サラゴサ県の人口の約4分の3が集中しています。
    スペイン北部の内陸にある地域で、サラゴサは周囲を完全に山に囲まれています。広い盆地になっていて、気候はステップ気候になっています。そのため夏は灼熱の地域ともいえ、その中で自然派ワイナリーもあります。それがボデガス・テンポーレ(Bodegas Tempore)で、標高550mにブドウ畑が広がっています。乾燥した大地で、土壌はミネラルに富む石灰質だそうです。ヤゴ・アスナーの一家が4世代に渡って培ってきました。特徴的なのは、ここのワインは酵母を添加せずに醗酵されている点です。

     

    サラゴサでの歴史は紀元前7世紀にまで遡ることができます。その時代からここに定住者がいたようです。
    紀元前3世紀頃になるとサルドゥイエ族が暮らし、第二次ポエニ戦争の際には共和政ローマ側に協力していました。
    ローマ帝国の時代になると、アウグストゥスによって植民市が建設され、最盛期は紀元2世紀頃だったようです。
    西ローマ帝国が滅亡する直前頃から、ゲルマン人が侵入するようになり、472年に西ゴートにより町が陥落しました。それでも西ゴート族を退けたものの、次にフランク王国によりサラゴサは包囲されてしまいました。
    これは最終的にフランク王国の王は聖ビセンテの肩掛けをもらう交換条件として、サラサゴの包囲を解いたといわれています。
    7世紀になると、セビリア、トレドと並ぶ西ゴート王国の文化の中心地にまでなりました。

     

    そしてイスラム教勢力です。
    スペインの歴史には、必ずこの時代が大きく影響してきます。
    714年にイスラム勢力のウマイヤ朝、756年に後ウマイヤ朝に支配されました。1031年に後ウマイヤ朝が崩壊すると、サラゴサ王国が成立しました。11世紀後半には西ヨーロッパ有数の都市にまで発展し、アルハフェリア宮殿が建てられました。
    1110年にはムラービト朝に、1118年にアラゴン王国に征服されました。これ以降、アラゴン王国の首都となりました。その一方で、イスラム教徒の多くが立ち去り、人口が減少していくことになりました。
    1591年にはアラゴン騒乱が起き、フェリペ2世が派遣した軍隊によって鎮圧されました。

     

    そしてスペイン独立戦争です。
    ナポレオン軍の侵入に抵抗したものの、2度にわたってサラゴサ包囲が行われました。サラゴサを包囲したフランスに対し、サラサゴ住民は激しい抵抗戦を繰り広げ、フランスはついに断念しました。
    しかし、このことで、5万人以上の人口がわずか1万人程度にまでにまで減少したのでした。
    20世紀のスペイン内戦では、グアルディア・シビル(Guardia Civil)という治安警察の本部が設置されました。

     

     

    サラゴサという街は、聖母マリアの教会と元モスクの大聖堂が並んでいます。
    キリスト12使徒のひとりである聖ヤコブがサラゴサの街中を流れるエブロ川の岸辺で祈っていました。すると、聖母マリアが目の前に現れ、ヤコブに柱を与え、これを使って教会を建てるように命じました。それが大河に荘厳な姿を映しているピラール教会の元々の教会といわれています。
    この教会は焼失と再建を繰り返し、17世紀にはバロック様式の巨大なピラール教会となりました。正式名称は「ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール教会」です。「柱の聖母」という意味で、スペイン有数の聖地です。
    サラゴサ最大のモスクだったのは、ラ・セオ(大聖堂)です。ユネスコの世界遺産「アラゴンのムデハル様式の建築物」のひとつに登録されています。ここは外観はイスラム建築ですが、内装はゴシック建築なので、何とも不思議な感じがします。

     

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