今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • キリストの血入門 14

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第14回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はエフェソス公会議でネストリウス派が異端とされ、その後、中国や日本へと伝わったことについて述べました。今回はさらにネストリウス派に関連する、ある種の「トンデモ説」をまじめに語ります。

     

    まず、日本のネストリウス派を語る前に、日本史に登場する秦氏一族にふれたいと思います。
    秦氏は実は謎の一族で、応神14年(283年)に渡来したと言われていますが、詳細は分かっていません。一説には「秦」から、秦の始皇帝の末裔とも言われたりしました。もちろんこの説は根拠に乏しく、文字からのこじつけといえるかもしれません。結局、海外からやってきた渡来人であることは確かですが、どこの出身なのか、どの民族なのか、全くわかっていないのです。
    そのため、出自については多くの説があり、朝鮮半島から渡来した朝鮮人であるという説のほか、中国大陸から漢民族が渡来したという説、シルクロードを経由して渡来したとして、ウイグルなどの西域の民族説、さらに先に位置するトルコ系、そしてユダヤ人説などなどです。
    高度な文化と技術を持った一族で、日本に定着後は、養蚕、機織、治水など、朝廷には重宝される技術により、一大勢力にまで発展していきました。

     

    その秦氏は多くの神社とも関係しています。
    思いつくままに秦氏に関連する神社を挙げると、まずは日本最大の末社のある伏見稲荷大社、同じく京都では上賀茂神社、松尾大社、そして九州の宇佐八幡などです。これらの神社は秦氏が勧請したものなのです。

     

    まず、伏見稲荷大社ですが、空海との関係があります。
    空海開祖の教王護国寺(京都の東寺)の守護神が伏見稲荷なのです。それだけでなく、そもそも「稲荷」を現在の漢字に当てたのも空海なのです。もちろん高野山を開山するときも稲荷との関係があります。それほど真言密教と稲荷とは関係深いものなのです。
    では稲荷という神の正体とは何でしょうか?
    一般には文字通り「稲」から穀物の神とされています。しかし、この字を当てたのが空海であり、ある意味で日本古来のもののように演出する意図まで見えます。天才といわれた空海が、もともと「伊奈利」などいくつかの当て字で書かれたものを変えただけ、などと考えてはいけません。
    渡来人の勧請した神社の神である以上、「イナリ」は外来語であった可能性が高いわけです。それをあえて空海が「稲荷」にしたわけです。

     

    でも、稲荷社といえばキツネや油揚げのイメージが強く、五穀豊穣や商売繁盛の神様ではないか、と思われるかたは多いでしょう。確かに現在の見方からすればその通りです。
    しかし、これらはすべて後世に付け加えられてきたものなのです。特に商売繁盛など、江戸の商人によるもので、歴史的にはそれほど古くありません。

     

    さて、ここでネストリウス派です。
    イエスを描いた宗教画には、十字架に張り付けられたイエスの頭上に木札が打ちつけてあることが多くあります。そこに書かれた文字は「INRI」で、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」を略したものです。意味は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」です。
    これをネストリウス派では、「インリ」や「イナリ」と読んでいました。
    このことだけで、稲荷社をネストリウス派と結びつけるのは無理がありますが、稲荷が外来の神であることは間違いなく、秦氏がネストリウス派であり、日本の神道にあわせた宗教とした場合、ありえるのでは、という一種の可能性です。

     

    もう少し、補助する要素を加えるとすると、稲荷社には「稲荷大神秘文」があります。
    この最初の文章に注目です。
    「~夫神は唯一にして御形なし虚にして霊有」
    要するに神は唯一であり、形がなく、霊があるというのです。神はたった一つであり、いわばそれが稲荷ということになるのでしょう。多神教の日本の神道とは相いれないものなのが良く分かります。
    古来の日本の価値観では森、山、海、川など神羅万象あらゆるものが神であり、そればかりか怨霊という思想があって、恨んで死んだ人も神として祀り上げるものです。それなのに、稲荷神だけが全く異なる宗教観というのは、実に不思議なものです。
    これもネストリウス派と安易に結び付けて良いものではないでしょうが、かなり気になるものです。

     

    最後に付け加えるのは、再び空海に戻って密教です。
    真言密教の儀式の中には、密教法具を手にして十字を切る作法があります。明らかにキリスト教の作法に見えますが、この意味を知るもの誰もいません。おそらく空海も弟子たちに語らなかったのでしょう。
    前回にも述べましたがイギリスのエリザベス・アンナ・ゴルドンは、「大秦景教流行中国碑」のレプリカを高野山に建立しています。ネストリウス派がここまで行きついた記念碑ですが、高野山側もこのレプリカを受け入れています。
    このような話はいくらまじめに語っても、結局は「トンデモ説」で終わるので、今回はここまでにしましょう。

     

  • マリボル(Maribor)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマリボル(Maribor)について勝手に語ります。

     

     

    400年以上前からワイン用ブドウ・スタラ・トルタがある都市として知られるのがスロベニアのマリボル(Maribor)です。マリボルの中心部にあり、平屋のファサードの南側に沿ってブドウが生えています。2004年には、世界で最も古いブドウの木としてギネスブックに登録されました。
    この幹は直径25cmで、高さは2mあります。水平に芽が伸び、枝が分かれ、格子で支えられています。その長さは15mにも達しています。ブドウ品種はブルーフランコニア、あるいはブラックベルベットと呼ばれるもので、スロベニアで最も古い国産品種のブドウです。

     

    マリボルはドイツ語ではマールブルク(Marburg an der Drau)といい、長くドイツ語圏の人が支配した都市でした。
    もともとマルヒブルヒ(Marchburch)という城があり、近くに市場が発達し、1254年に町の特権を授けられました。その後、町は発展していきましたが、マティアス・コルヴィヌス軍やオスマン帝国軍に包囲されることにもなりました。
    そしてハプスブルク家の支配下になりました。

     

     

    第一次世界大戦中になって、ハプスブルク帝国のオーストリア人とスロベニア人との間の対立が引き起こされました。そしてオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、マリボルは1918年にドイツ=オーストリアに併合されました。
    これに対し、ドイツからの解放を勝ち取るためにマリボルでスロベニア人の軍事部隊が組織されました。さらにシュツヴァー(Schutzwehr)という軍の一部隊が組織されたりしました。
    その後、スロベニア軍によりマリボルが囲まれ、第一次世界大戦後にユーゴスラビア王国の一部とみなされるようになりました。
    それ以降、マリボルのドイツ人たちはオーストリアへと移住していきました。

     

    しかし、1941年にはナチスによりドイツに併合されてしまいました。
    アドルフ・ヒトラーは「再びドイツの手に」といい、マリボルを訪問しました。すぐにナチスはスロベニア人を大量追放することにしたのでした。スロベニア愛国者たちは人質にされ、刑務所で銃殺されていきました。
    第二次世界大戦末期になると、連合国による空襲が激しくなり、マリボルに居住するドイツ人たちはスロベニア人による犯罪に巻き込まれ、戦終後はドイツ人は追放されることになりました。

     

    そして1991年、スロベニアはユーゴスラビアから独立し、2004年にはEUに加入しました。さらに2007年にはシェンゲン条約を批准しました。これでオーストリアとの行き来が自由となりました。
    オーストリアのグラーツまでは約60km程度の距離であることから、二つの都市を巡る旅が容易になりました。

     

  • ヤシ(Iași)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヤシ(Iași)について勝手に語ります。

     

     

    ヤシ(Iași)は、ルーマニア第2の都市ですが、かつてはモルダヴィア公国の首都でした。
    モルダヴィア公国では、1500年頃からシュテファン大公によりブドウ畑を増やし、1800年代初頭になると土着品種のブドウ栽培も開始しました。ワイン生産そのものは紀元前30世紀頃から始まっていたほど、歴史が古く、その伝統を受けて、国際的にもワインの評価は高くなっています。
    事実、モルドバワインとして、ヨーロッパでは宮殿や王室でも愛飲されていました。
    しかし、19世紀後半にフィロキセラによって、ブドウ畑は壊滅状態になりました。それでも少しづつ接木を行い、見事に回復していきました。その際に、フランスのブドウ品種も輸入したことで、国際的になじみのある品種も栽培するようになりました。

     

    この地域の歴史は複雑で、モルダヴィアは現在、以前に取り上げたことのあるモルドバ共和国です。しかし、現在はルーマニア領、モルドバ共和国領、ウクライナ領の3か国に分割されてしまっています。

     

    ヤシは現在、ルーマニア領ですが、モルドバ共和国との国境プルート川まではわずかに8kmの位置です。
    モルダヴィア公国の首都となったのは1565年で、アレクサンドル・ラプシュネヤヌ公(Alexandru Lăpuşneanu)の時代にスチャヴァ(Suceava)から遷都されました。
    ヨーロッパの他の都市と同じように、ヤシは外敵の侵入度々受けてきました。その中で1538年には、オスマン帝国によって都市が破壊されてしまいました。
    侵略はオスマン帝国だけでなく、クリミア・ハン国、ポーランド、コサックなどもあり、そのたびに都市が破壊されていきました。
    1787年から始まった露土戦争(第二次露土戦争)では、ヤッシーの講和(ヤシ条約)が締結されました。しかし、その後もロシアとトルコとの争いは収まったわけではなく、ロシアが支配した地域での反発なども多くありました。ロシア軍はこの地域の占領も繰り返し、1854年にはオーストリア軍が占領してきました。

     

    実は19世紀後半のヤシには、多くのユダヤ人がいました。
    ユダヤ教のシナゴーグが58もあったようです。キリスト教の正教会が市内に43でしたから、いかにユダヤ人が多かったかが分かります。
    ユダヤ人は主にウクライナから移住してきた人たちでした。
    しかし20世紀になり、ナチスのユダヤ人迫害は全ヨーロッパに及び、ヤシのユダヤ人もアメリカへの移住が増えました。

     

    現在のヤシは人口が31.5万人ほどですが、大都市がブカレストしかないルーマニアにとっては、かなり規模の大きい都市といえます。
    隣のモルドバとあわせて旅したい都市です。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 6

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第6回になります。

     

       

     

    前回はヨーロッパ主要都市について触れてみました。今回はさらにヨーロッパの都市圏にフォーカスしてみます。

       

     

    都市圏の定義というと、実は色々とあって、何が正しいというものではないのですが、原則として400人/km2以上の人口密度を有し、建物が連続する地域のこととするのが無難な定義かもしれません。労働人口の自由な移動が前提ですが、国境を超えた場合には都市圏としないのが一般的です。しかし、これはEUは例外で国境を越えた都市圏が存在します。

       

     

    この都市圏の規模を大きい順からランキングしていくと、上位はアジア諸国が多く、ヨーロッパは少ないことが良く分かります。では、Demographiaによる順位からヨーロッパの都市圏を見ていきましょう。

       

     

    まず、1位は東京=横浜都市圏です。
    2位がジャカルタ、3位がデリー、4位がマニラ、5位がソウル=仁川、6位がムンバイ、7位が上海と、ここまですべてアジアです。8位にニューヨーク、9位にサンパウロで、10位がメキシコシティとなり、南北のアメリカ大陸の都市圏が占めます。
    11位からは再びアジアになり、11位が広州=仏山、12位が北京、13位がダッカ、そして14位に日本の 大阪=神戸=京都となります。
    15位はアフリカのカイロで、16位になって初めてヨーロッパのモスクワになります。以下、イスタンブールは純粋にヨーロッパではないですが23位に入り、33位にパリ、35位にロンドンとなります。
    Demographiaによる順位では、ロンドン都市圏よりパリ都市圏のほうが規模が大きいとしています。しかし、前回述べたように、都市の人口だけで見た場合、ロンドンは898.2万人なのに対して、パリはわずかに215万人で、名古屋市の232万人より少なくなります。

       

     

    オルデンブルク大学のトーマス・ブリンクホフ教授(Thomas Brinkhoff)による順位や、The World Gazetteer、リチャード・L・フォースタル氏 (Richard L. Forstall) などの順位ではパリ都市圏よりロンドン都市圏のほうが上になっています。
    いずれにしろ、日本人が思い浮かべるヨーロッパの主要都市であるロンドン、パリでもアジアの主要都市圏とはくらべものにならならいくらい小さいことが良く分かります。

       

     

    では、イギリス、フランスを除く他のヨーロッパの都市圏規模の順位はどうなっているでしょうか。
    ドイツではベルリンが85位、フランクフルトが170位、ケルンが194位、ハンブルクが200位、オランダではロッテルダムが187位、アムステルダムが354位、スペインではバルセロナが75位、イタリアではローマが128位、ギリシアではアテネが82位、ウクライナではキエフが141位、ポーランドではワルシャワが196位、デンマークではコペンハーゲンが261位などです。
    日本での知名度と都市圏の規模とは必ずしも一致しないといえるでしょう。

       

     

    ただ言えるのは、フランスはパリ都市圏への一極集中で、隣のドイツはかなり広範囲にそれぞれの都市圏が散らばっているのが分かると思います。ともにフランク王国を構成する国でしたが、見事に異なっています。
    アジアの都市圏のような規模はなくとも、成熟した中心都市と周辺の経済圏は、これもヨーロッパらしいといえるのかもしれません。

       

     

  • リヨン (Lyon)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はリヨン (Lyon) について勝手に語ります。

     

     

    ワインの本場であるフランスで、国内第二の規模を持つ都市圏の中心都市がリヨン (Lyon) です。
    リヨン近郊にもワイナリーは多くあり、ボジョレー地区やコート・デュ・ローヌ、マコネー地区などへもアクセスしやすい都市です。

     

    フランスでは、金融の中心地であり、フランスの銀行の本店が多くある都市です。これは中世の時代から、ヨーロッパ各地の手形交換所だったことの延長ともいえます。
    また、物資の集散地としても歴史があり、それはローマ帝国の時代にまで遡ります。当時はガリア属州の植民市で、ルークヌドゥムとして栄えていました。紀元前43年にルキウス・ムナティウス・プランクスによって建設されました。
    2世紀になると、皇帝属州ガリア・ルグドゥネンシスの中心都市となりました。その後はヨーロッパ有数の交易地にまで発展しました。
    カロリング朝の時代には司教座がおかれたことで、大司教による支配地にもなり、その関係で1245年の第1リヨン公会議、1274年の第2リヨン公会議がひらかれたこともありました。

     

    14世紀になってフランス王国に併合されました。
    フランス革命のときには、リヨンでは反革命派が反乱を起こしました。共和国軍が鎮圧のため、リヨンの大虐殺が起こりました。リヨンの反乱(Siège de Lyon)でした。
    この時代、リヨンは工業都市として繁栄していてたことで、ブルジョワジーと労働者との対立は激しいという背景がありました。フランス革命により、急進的な労働者階級のサン・キュロットと、反革命派や穏健派などの対立が深刻となったのです。そのような中で狂信的なジャコバン主義者ジョゼフ・シャリエ(Joseph Chalier)を支持するシャリエ派が台頭し、シャリエは王党派たちによって投獄されてしまい、処刑されてしまいました。これが混乱を引き起こしました。
    結局、革命政府は徹底的に弾圧し、リヨンの大虐殺へと繋がりました。

     

    リヨンの街は徹底的に破壊されてしまい、反乱関係者も処刑されました。
    リヨンの反革命分子は絶滅状態に近くなりました。そこで、リヨンの名はヴィル・アフランシ(”Ville-affranchie”)と呼ばれるようになりました。
    この大虐殺を指導したのはフーシェ、コロー・デルボワでしたが、彼に対してロベスピエールは怒ったといいます。虐殺の規模や内容に反対していたようです。派遣されていた議員たちは、これを理由に処刑されることを恐れ、フーシェの首謀する反ロベスピエールの陰謀に加担するようになりました。これがテルミドールのクーデターへとつながったようです。
    そしてこのクーデターがおきたあと、1794年10月7日に都市名はリヨンに戻されました。

     

    悲惨な歴史の舞台となったリヨンですが、今ではワイナリーツアーの拠点にもなっています。
    再び自由な海外旅行が復活したら、ワイン好きにはぜひ訪れてほしい都市といえます。

     

  • ソチ(Со́чи)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はソチ(Со́чи)について勝手に語ります。

     

     

    2014年の冬季オリンピックの会場だったソチ(Со́чи)はロシアの都市です。
    冬季五輪会場であり、ロシアにあるというだけで寒い場所だと想像しがちですが、実は全く違います。
    年間平均気温は14.2度もあります。ロンドンが11.3度ですから、ロンドンより高く、モスクワの5.8度比べると、まるで別世界という感じです。
    それほどまでにロシアというイメージにはそぐわないほど温暖な地域で、真冬でも気温が氷点下になる事は稀だといいます。それでもオリンピックの会場になれたのは、比較的近くに標高の高い山や高原地帯があり、ウインタースポーツに適した豪雪地帯があるからです。暖かい黒海沿岸と標高の高い山岳部が隣接する都市なのです。

     

    場所的にジョージアにも近いエリアなせいか、ソチ五輪の選手村や観客の土産物として、ワインは人気が高かったようです。ソチを起点にしたワイナリーツアーもあるようで、実はワインとも縁のある都市なのです。
    これは歴史的にもグルジア(現在のジョージア)との関係があります。
    6世紀にはアブハジア王国に属していました。この国はグルジアのコルキス王国やアブハジアのラジカ王国から独立した国でした。コルキスはグルジア民族の国で、ギリシア神話では、アイエーテースやメーデイアの母国であり、アルゴナウタイの目的地といわれています。
    キリスト教が入ってきていて、この時代には多くの教会が作られましたが、11世紀からグルジア王国に属していた時代になると、キリスト教徒はテュルク系遊牧民と対立関係になっていました。
    そして15世紀からはオスマン帝国に支配されました。

     

    ロシア領になったのは、カフカース戦争と露土戦争によりました。ただし海外線の地域だけでした。
    1838年にはアレキサンドリア要塞が建設され、さらに対オスマン帝国の駐屯地も作られました。結局、カフカース戦争はロシアの勝利となったものの、オスマン帝国領も残りました。
    そしてロシア革命により、白軍、ボリシェヴィキ、グルジアの三つ巴による争奪戦が起こりました。
    スターリンの時代には、ソ連最大のリゾート都市となり、豪華な建造物が建てられるようになりました。

     

    オリンピックの舞台となった都市というとだけでなく、ソチはワインも含めて魅力的な場所が多くあります。ただリゾート開発で発展したこともあり、物価は他のロシア諸都市より高いかもしれません。

     

     

  • ツィッタウ(Zittau)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はツィッタウ(Zittau)について勝手に語ります。

     

       

     

    島国の日本と違い、気軽に隣国に入国できるのがヨーロッパです。
    特にシェンゲン協定に加盟している国であれば、出入国検査がないので、より気軽に行き来できます。また場所によっては、三つの国と隣接する地域もあります。これを三国国境(tripoint)といいますが、世界には約176あるといわれています。
    ドイツのツィッタウ(Zittau)も三国国境(tripoint)の一つになっています。

       

     

    国境はポーランドとチェコが接していて、ポーランドの一部の領土がチェコ側に入り込んでいる部分にドイツ側のツィッタウが位置しています。
    そのツィッタウは、3万人程度の人口規模なので、小さな町といえるかもしれませんが、かつて市民が裕福なことで知られていました。

       

     

       

     

    ツィッタウは六都市同盟(Oberlausitzer Sechsstädtebund)の一つでした。ラウジッツ・シレジア地方にまたがって存在した都市同盟でした。そのため、この同盟都市の中には現在はポーランド領の都市も含まれていました。
    この都市同盟とは、古代ギリシアの時代からあるもので、広域を統治する統一国家が存在しない地域で、政治的に自立した都市同士が連合した同盟のことです。
    神聖ローマ帝国の時代には、領内であったとしても、皇帝の権力がそれほど及ばない地域があり、名目上だけ皇帝に直属する帝国都市であり、政治的自立性を保つ動きがありました。そのために都市が同盟を結び、諸侯の干渉から守るようにしていました。
    神聖ローマ帝国には大空位時代もあり、その後の13世紀には関税徴収に対抗するための都市同盟も現れ、さらに14世紀には最大の都市同盟であるハンザ同盟があらわれました。

       

     

    ツィッタウについては、都市同盟以降、宗教改革の時代を過ぎると、多くの難民がこの町にやってくるようになりました。特にボヘミアの難民が多く、ツィッタウからベルリンやドレスデンなどへと散っていきました。
    そして、1754年から1763年まで続いた七年戦争です。 この戦争はもともとハプスブルク家とプロイセンとの間の領土問題でしたが、そこだけに留まらず、英仏間の植民地競争まで加わったことで、世界規模の戦争となってしまったものです。この戦争の影響は大きく、ツィッタウの街は破壊されていきました。

       

     

    東西冷戦時代は東ドイツ側で、大規模な繊維工場などで賑わっていましたが、統一後はそれらの工場は閉鎖されてしまいました。西側との競争には勝てず、ツィッタウの経済は下降線をたどりました。かつて”Die Reiche”という特別な称号まであった裕福な町は見る影もなくなってしまいました。
    その代わり、ツィッタウ中心部はドイツ建築らしい美しさが維持され、歴史的、文化的に貴重な市街地が残っています。以前から気になっていた都市なので、今回取り上げましたが、ぜひとも訪れたいという思いが強くあります。

       

     

  • 世界で最も高い尖塔

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界で最も高い尖塔について、昔の紀行として勝手に語ります。

     

       

     

    以前に「バーデン=ヴュルテンベルク州のワイン」を取り上げましたが、その州の南部にあるウルム(Ulm)には、大昔に行ったときの思い出が強烈にあります。まだ20代前半の頃の思い出で、フォルクスワーゲンの当時日本には輸出していない1600ccのゴルフに乗って、世界で最も高い尖塔を見に行きました。ところが市内の地図を持っていなかったために迷子になりました。

       

     

    ウルムはシュトゥットガルトとミュンヘンを結ぶ斜め右下のライン上にあります。それほど大きな都市ではありませんが、ドナウ川沿いのためか、中世より交通の要所として栄えてきた都市です。
    ホーエンツォレルン城からテュービンゲン(Tübingen)へ北上し、そこからロイトリンゲン(Reutlingen)方向へ東に進み、ウルムへと向かいました。当時の西ドイツ全国版の一枚地図は持っていたため、ウルムへ向かうだけなら何の問題もありませんでした。
    アウトバーンの8号線からドルンシュタット(Dornstadt)で南下してウルム市内へと入りました。この周辺地域の道路は森と畑が多く、当時のSOHCエンジンでも十分に快適に走れました。

       

     

    ウルムの市街地は標高459mで比較的平坦な場所になっています。市で最も標高の高い場所は646mで、そこはクリンゲンシュタインの森になっています。市街地の中心部はブラウ川とドナウ川が合流するイラーから2kmほど東に行った場所です。ドナウ南岸はノイウルム(新ウルム)といってバイエルン州の都市になっています。
    ここで世界に誇るウルム大聖堂があります。ミュンスターと呼ばれていて、ゴシック建築の大聖堂です。尖塔の高さが161.53mあり、教会の塔では世界一の高さがあるとして知られます。
    そのため、ウルムの街のシルエットはミュンスターの尖塔を中心にして構成されています。街中のいたるところで塔を見上げることができます。
    市内の地図がなくとも、その塔を目印にすれば、ミュンスターには行けるだろうと、単純に考えたのが間違いでした。
    まずシラー通りから塔の見えるノイエ通りに左折しようしたら、5車線くらいある大きな道路なのに反対方向への一方通行でした。まだ若い時代ですから、慌ててしまって、軽いパニック。交差点を渡ってすぐに左折したのがエーヒンガー通り、ここはすぐにトラムに突き当り、あとで冷静に確認すると、L字型の右に曲がれば良かったものの、慌ててUターンをしてしまいました。
    仕方なくシラー通りに戻って、ノイエ通りを曲がりました。これが間違いのもと、前の車につられてビスマルクリングへ進んでしまい、そのままドナウ川を渡りバイエルン州へ入ってしまいました。

       

     

    何とも格好悪い間違い方で、ノイウルムを彷徨うことになり、再びウルムの旧市街地に入ったときは夕暮れ時期でした。ミュンスターの近くまでは行けたので、方向を確認するため路肩にクルマを停め、運転席から降りました。
    目の前の建物の先に、確かに高い尖塔があります。旧市街地だけあって一方通行が多いですが、何とか行けそうだと思っていたところに、駐車違反を取り締まる警察がやってきました。そういえばここは駐車禁止だ、と、ここでも慌てて、クルマに乗り込み、何も考えずに発車しました。これも間違いでした。
    せっかく方向を確認していたのに、慌てていて、またまた間違えたのでした。

       

     

    ウルムという都市は、第二次世界大戦まで帝国時代の建築が残った街でした。ゴシック様式、ルネサンス、バロック様式、古典主義様式など、歴史的な建築物が多いのが特徴でした。ウルムの旧市街は、南ドイツを代表する歴史的な場所だったのです。
    これが第二次世界大戦終盤の1944年12月17、ウルムは空襲によって旧市街地は崩壊しました。ミュンスターから中央駅までの西部の市内中心部は完全に破壊されたのです。
    その結果、現代のウルムの街並みは、かすかに残った街の遺産を保存し、戦後に再建された歴史的建造物、現代の建築物が混在することになりました。そのためか、ドイツらしい位街並みを期待するとがっかりするかもしれません。それでも、世界一の高さを誇るミュンスターは一見の価値はあるし、新旧あわせた都市建築物も、実はそれなりに調和がとれている気がします。
    だからこそ、わざわざウルムに来たのですが、迷っている時間があまりに多く、街の散策はろくにできず、何とも残念な訪問に終わりました。

       

     

    あれから35年近くが経過しています。
    今でもウルムの悔しい思い出は消えません。

       

     

  • 日本ワイン伝説

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は日本ワイン伝説について一部を翻訳し、勝手に語ります。

     

       

     

    ドイツの「GuteKueche.de」というサイトがあります。いわゆるグルメ系のポータル情報サイトで、料理のレシピや、カクテルのレシピ、レストラン情報、ドイツ各地のワインやワイン生産者に関する情報を提供しています。その中に「Weinland Japan – japanischer Wein」という記事がありました。
    日本のワインについて述べられているのですが、面白い表現が使われているので、今回紹介したいと思います。

       

     

    Wein aus Japan? Das klingt zugegeben, ein bisschen exotisch. Und das ist es auch, denn der japanische Wein spielt im weltweiten Weingeschäft keine gewichtige Rolle. Trotzdem versuchen die japanischen Winzer, mit neuesten Methoden und importierten Rebsorten, im internationalen Weinhandel mitzumachen.

     

    冒頭から、実にユニークな表現となっています。
    直訳するとそのニュアンスが伝わらないので、若干オーバーかもしれませんが、思い切った意訳にしてみたいと思います。

       

     

    日本のワインだって!
    確かにミステリアスな感じがするなあ!
    だって日本のワインなんて世界のワイン業界では流通していないし、誰も知らないからね。
    それでも、日本のワイン生産者は、最新の方法や輸入ブドウ品種で国際的なワイン取引に参加しようとしているようだね。

     

    この中で「ein bisschen exotisch」は、素直に訳せば「異国情緒漂う」か「エキゾチック」などとするでしょうが、かなり飛躍した表現に言い換えてしまいました。要するに、ここでは日本のワインの知名度がないために、ミステリアスな存在というニュアンスにしてみました。
    では、本文を抜粋させて頂きます。日本のワインの歴史についてです。これも面白い表現が使われています。

       

     

    In Japan geht kaum etwas ohne eine schöne Legende, auch wie der Wein nach Japan kam, wird in eine hübsche Geschichte verpackt.

     

    この文章がなかなか素晴らしい!
    これはGoogleの自動翻訳では、「日本では、美しい伝説がなければ何もできません。ワインが日本に来た経緯も、かなりの物語に詰まっています」となります。さすがにこれはどうかと思う訳なので、「eine hübsche Geschichte」を少し拡大させてみます。
    「日本ではすべて素敵な伝説が残っています。ワインがいかにして日本に来たのかも素敵な物語に包まれているのです」
    このように訳してみました。
    Googleの「何もできません」は、「ohne eine schöne Legende」の「ohne」を強調しすぎているので、意味や日本語として的確な気がしません。

     

    Dieser Legende nach kam ein Heiliger im 8. Jahrhundert auf der größten Insel Honshu an, im berühmten Daizenji-Tempel in Katsunuma. Und dieser Heilige soll dort die ersten Reben gepflanzt haben. Die Provinz Yamanashi auf Honshu, wo der Tempel des Heiligen steht, ist heute das größte Zentrum für den Weinanbau in Japan, mit über 30 hochmodernen Kellereibetrieben.

     

    ここで「auf der größten Insel Honshu」とあるので、「本州最大の島」となってしまい、勝沼の大善寺が島にあるような感じです。日本人は本州を島とは認識もしていないでしょうから、そこは意訳しないとならないでしょう。
    「この伝説によると、8世紀に勝沼の有名な大善寺に聖人がやってきました。そこで、聖人は最初のブドウの木を植えたと言われています。聖人の寺院のある山梨県は、現在では30を超える最先端のワイナリーがあり、日本最大のワイン生産地となっています」

     

    Im 15. Jahrhundert kamen die Portugiesen ins Land und brachten als Geschenk Rotwein mit. Anfang des 17. Jahrhunderts wurde zum ersten Mal das typisch japanische System des Reben Pflanzens erwähnt. Dabei werden die Reben auf eine Höhe von fast zwei Metern gezogen und die Triebe wie eine Art Dach von Drähten gestützt. Im Winter werden diese Reben mit dichten Strohmatten vor Kälte und Schnee optimal geschützt.

     

    「15世紀には、ポルトガル人が赤ワインを土産に日本に入ってきました。17世紀の初めになると、日本の典型的なブドウ栽培システムが初めて言及されるようになりました。ブドウのつるは2メートル近くの高さまで引っ張られ、苗条は屋根のようなワイヤーで支えられます。冬には、これらのブドウの木は、緻密な藁のマットで寒さと雪から最適に保護されます」

     

    1875 versuchten Winzer in Tokio zum ersten Mal, aus einheimischen Sorten Wein zu gewinnen, was allerdings gründlich misslang. Schließlich gestattete die Regierung auch den Import von Rebsorten aus Europa. Das war der Anfang des modernen japanischen Weinbaus.

     

    「1875年(明治8年)、東京のワイン生産者が初めて地元の品種を使ったワイン造りに挑戦しました。しかし大失敗でした。最終的に、政府はヨーロッパからのブドウ品種の輸入も許可しました。これが日本の近代的なブドウ栽培の始まりでした」

     

    日本のワインが海外でどう語られているかが分かりますが、別の国の記事ではまた違った捉え方かもしれません。

     

  • アグリジェント(Agrigento)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアグリジェント(Agrigento)について勝手に語ります。

     

       

     

    2017年にワインに関する歴史的発見がありました。
    イタリアのシチリア島南部にあるアグリジェント(Agrigento)近郊の洞窟で、約6000年前のワインが発見されたのです。
    その洞窟はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている「神殿の谷(Valle dei Templi)」の近くでした。神殿の谷には7つの神殿遺跡があり、古代ギリシアの時代の紀元前5世紀に建てられたものが中心になっています。

       

     

    さて、このワインの発見ですが、ワインの発祥地としては南コーカサス地方やアナトリア半島といわれていましたが、これでその説が覆すかもしれないほどの大発見でした。まだ断定するには至っておらず、さらなる研究の成果が期待されます。
    発見されたワインは、住民が飲むためというものではなく、おそらく神への供物ではないかと考えられているようです。のちに神殿がつくられたように、太古よりこの周辺地域は神域だったのかもしれません。

       

     

    このアグリジェントは、記録に残っている範囲からは、古代ギリシアの植民都市アクラガスを起源にします。マグナ・グラエキア(Magna Graecia)の一部でした。
    紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけての時代には、古代ギリシアの人口が急増していて人口過密状態となっていました。また、気候変動もあり、飢餓なども発生したことで、多くの人が生活難となっていました。そのために、ギリシアを離れ、新天地へ向かったりしていきました。これは単に避難的な側面だけでなく、輸出入による新市場開拓などの目的もありました。これによりギリシア人による地中海沿岸各地への植民が広がったのでした。ギリシアの西隣にあるイタリア半島やシチリア島には地理的な条件から多くのギリシア人が移住してきたのでした。
    移住に際して、古代ギリシア人は言語や、神話、宗教も持ち込んでいました。
    アグリジェントの神殿の谷も、まさにそのような中でつくられてものでした。

       

     

    紀元前262年から紀元前261年にかけては、第一次ポエニ戦争中でしたが、アグリジェントをめぐるアグリゲントゥムの戦いがありました。
    これは共和政ローマとカルタゴとの戦争で、大規模な戦いだったようです。この戦いに勝利したのは共和制ローマで、アグリジェントだけでなくシチリア島を支配することになりました。

       

     

       

     

    アグリジェントでの古代ワインの発見により、今後、歴史が塗り替えられるかもしれませんが、もともとシチリア島では、紀元前8世紀ごろからワイン生産がはじまったとされていました。もちろん生産方法からブドウまで、古代ギリシア人が持ちこみました。
    古代ローマ帝国の時代にはすでに有名なワインの産地として知られ、帝国内外への輸出が盛んになっていました。
    ワイン産業が停滞した時期は9世紀で、この時代にイスラム教のアラブ人支配がありました。復活できたのは1061年のノルマンシチリア王国が建国されてからで、神聖ローマ帝国による支配となってからは再びブドウ栽培が活発化していきました。さらにブルボン家がシチリアの領有権を手に入れてからは、ブドウの大量生産に至りました。

       

     

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