今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • スコーネ(Skåne)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はスコーネ(Skåne)について勝手に語ります。

     

     

    スコーネ(Skåne)と聞いても、おそらく多くの人が知らないのではないかと思います。
    ここはスウェーデン南部の地方で、中心都市はマルメ(Malmö)です。話されている言語はスコーネ語(skånska)ですが、これはスウェーデン語の方言のひとつだそうです。
    ただ、もともとはデンマーク領であったことから、言語はデンマークの影響を強く受けているようで、文化全般についても同様のようです。そのためか。スコーネでは、スウェーデン国旗ではなく、デンマーク国旗に似た旗を掲げる人も多いといいます。

     

    北方戦争の最中だった1658年に、ロスキレ条約は締結され、スコーネはデンマークからスウェーデンへ割譲されました。この際に、スコーネ住民の特権、古い法律と慣習の継続は保証されました。
    しかし、スコーネの分離独立主義者が活発化し、ゲリラ活動が行われるようになりました。そのため、不穏な危険地域にもなってしまいましたが、徐々にスウェーデンの同化政策を続け、18世紀には完全なスウェーデン領となりました。
    この地域こそが、ワインベルトの北限を超えるスウェーデンのワイン産地です。
    ブドウ栽培に適さないといわれた地域でしたから、ワイン生産の歴史は浅く、15年ほど前にブドウ栽培が始まったほどでした。それでも、現在ではブドウ農園は6万㎡に達しました。
    これは、スウェーデンの平均気温の上昇も関係しています。過去150年の間に世界平均の倍の速度で気温が上昇しているのです。冬の平均気温では2度近くまで上がりました。夏は北欧とは思えないほどの暑さを感じるようになりました。この温暖化によって、ワイン生産が産業として成り立つようになってっきたのです。

     

    スコーネ(Skåne)とデンマークの間には海がありますが、オーレスン・リンク(Öresund Bridge)が開通したことで、かつての割譲前以上に経済的繋がりが強くなりました。
    オーレスン・リンクとは、デンマークのアマー島 (Amager) とスカンディナヴィア半島のスウェーデンとの間にあるエーレスンド海峡が結ばれたものです。鉄道と道路を併用した橋に、海底トンネルまであります。デンマーク側のアマー島は、コペンハーゲンがあるシェラン島に隣接しているので、この橋の効果は絶大なものがありました。
    これにより北欧最大の広域都市圏の通路という役割を担うことになっているのです。

     

    ちなみにオーレスン・リンクは、日本の瀬戸大橋と姉妹橋提携となっています。

     

  • ドイツ・プレディカーツワイン生産者協会(VDP)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドイツ・プレディカーツワイン生産者協会(VDP)について勝手に語ります。

     

     

    ドイツでは、各地で若手のワイン生産者団体があります。特に再統一を果たした1990年代以降に、その数は増加しているようです。団体の規模は大小様々で、活動内容も様々、存続した年数を様々です。
    その中で、最も知名度があり、規模が大きな団体といえば、ドイツ・プレディカーツワイン生産者協会(VDP)といえるでしょう。歴史も100年を超えていて、現役の生産者団体としてはドイツ最古だそうです。13生産地域に約200醸造所の会員数が」あり、ドイツワインのイメージアップに貢献してきました。鷲とブドウの房のシンボルマークは、日本でも見かけることもあり、それはそのままドイツを代表する高品質ワインを意味しています。

     

    VDPの前身はVDNV(ドイツ・ナチュラルワイン競売者連盟 Verband Deutscher Naturweinversteigerer)で、1910年の発足でした。自然な味を追求した高品質なワイン生産をする組織で、二度の世界大戦を経ても存続してきました。
    戦後の1955年にドイツ最高級のワイン競売会を実施し、その後は徹底した品質管理を行ってきました。ブドウ品種、畑のコンディション、醸造設備なども調査し、高品質を維持するための管理を続けてきました。
    このように順調に発展して生きたVDNVでしたが、1967年に大きな転機が訪れました。
    別団体のDWV(ドイツワイン醸造連盟 Deutscher Weinbauverband)が「ナチュラルワイン」という概念の使用禁止を通達していきたのです。そのため、VDNVは最も訴求してきたものを表現できず、解散の危機に瀕することになったのです。
    しかし、最終的に1972年に名称を現在のVDPとし、組織変更で一新し、再出発することになったのです。

     

    そんなVDPですが、会員のブドウ畑はドイツ全体の約5%程度にすぎません。収量についてはわずかに3%程度です。それでもワイン売上高としては収量と比較すると2倍をはるかに超える約7.5%にまで相当します。それだけ高級で高品質なワインを生産していることがよくわかります。
    リースリングの比率が高く、ドイツではリースリングの栽培割合はブドウ畑に占める比率は23%ですが、VDPの会員では55%になります。当然ながらオーガニックワインの栽培面積もVDP会員の比率が高くなっています。

     

    フランスだけでなく、ドイツワインを好む日本人も多くいます。
    ぜひ、VDPについても知って頂きたいと思っています。

     

  • カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)について勝手に語ります。

     

     

    スペインのワインを代表するブドウ品種として、最も有名なのはテンプラニーニョといえるでしょう。これを、カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)ではティンタ・デル・パイースや、ティント・フィノや、ティンタ・デ・トロとも呼ばれることもあるそうです。
    テンプラニーニョはスペイン最高の赤ワイン用品種であり、スペイン国内では黒ブドウ品種としては最大の栽培面積を誇ります。繊細な味で、香りも良いのが特徴です。タンニンや酸度が豊かであり、長期熟成でも味わいのあるワインになります。

     

    カスティーリャ・イ・レオン州は、西側がポルトガルに隣接した地域で、自治州の法によると、州都が定められていません。それでも州都としての役割はバリャドリッド(Valladolid IPA)が担っています。
    中世には、レオン王国(Reino de León)の中心地でした。これはワインの生産にも大きな影響がありました。それは711年に西ゴート王国が滅亡した後、イスラム教徒の侵入により、支配されることになったからです。
    ワインをキリストの血とするキリスト教に対し、禁酒のイスラム教徒の支配では、ワイン生産が発展することはありません。
    そんな中で北部山岳地帯のキリスト教信徒たちがイスラム勢力の諸国に対抗していきました。そして722年には、西ゴート王国の貴族だったペラーヨによりイスラム軍を破りました。西ゴートのキリスト教儀式を採用しつつ、西ゴート王に連なる家系図を作らせたアストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるとしていきました。

     

    910年には、ガルシア1世が首都をレオンへ遷都し、レオン王国と呼ばれるようになりました。
    1037年にはカスティーリャ王国のフェルナンド1世がレオン王国の継承権を持ち、カスティーリャ王国に併合されました。
    19世紀にはレオン地方と旧カスティーリャ地方に分かれました。

     

    スペインの歴史は、イスラム勢力との対立もさることながら、とても分かりにくいといえます。その理由として、イベリア半島はそれぞれの歴史の流れの中で、多くの変容がありました。まさに試練ともいうべきもので、日本人にはなじみのない部分もあるせいか、直感的に理解できないといえます。
    そんな歴史を持つスペインのテンプラニーニョからつくられるワインは、それだけで貴重な気もします。

     

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 3

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第3回になります。

     

       

     

    前回はEU(European Union)に触れました。今回からは歴史に入っていこうと思います。いわゆる「西洋史」です。

       

     

    まず最初に、ヨーロッパの歴史を語る際には、ヨーロッパならではの時代区分があります。
    それが、古代、中世、近代という3区分法です。日本史などは、これに近世などを加えてアレンジしていますし、最近の西洋史にも使われたりするようになりました。
    この3区分法ですが、これはいかにもヨーロッパらしい区分で、主にルネサンスの人文主義者たちによるものです。ルネサンスが中心にありますので、古代ギリシア・ローマ時代が理想の時代で、ルネサンスはその時代の再生という扱いになります。そのため、古代とルネサンスの間にある中世は、古代のギリシア・ローマの文明が中断され、暗黒の時代であるとしています。

       

     

    では、近世まで含めた各時代区分の境界は何かというと、これも様々な説があります。それでも一般的なものとしては、古代から中世に入るのは西ローマ帝国の滅亡になります。東ローマ帝国は滅亡していないので、どうなんだ、となりますが、東ローマ帝国滅亡は中世から近世の境界となります。またルネサンスから宗教改革までの時代となります。
    近世から近代は、フランス革命以降となり、その後の産業革命から第一次大戦までの時代という考え方が一般的でしたが、これも最近では第二次大戦、冷戦も含めるようになってきています。
    そうなると現代はベルリンの壁崩壊以降となります。

       

     

    それでは、古代ヨーロッパに遡ってみます。
    このシリーズの第1回で述べたヨーロッパに相当する地域ですが、ここに人が移住してきた時期は分かっていません。
    現生人類として、はじめてヨーロッパに居住していたことが分かっているのは旧石器時代後半といわれます。その当時の人々は狩猟を中心とする採集民でした。フランスのラスコー洞窟や、スペインのアルタミラ洞窟で発見された壁画でもおなじみの時代です。年代でいえば、おそよ25,000年から10,000年くらい前になります。
    まだこの時代は氷河期ですが、温暖化してきたのは約10,000年前で、新石器時代の紀元前5,000年くらいになると農耕文化がヨーロッパにも入ってきました。現在のトルコのアナトリアで始まったもので、家畜の飼育も伝わってきました。この流れはアナトリアからヨーロッパの広範囲へと伝播し、バルカン半島からブリテン島にまで及びました。

       

     

    そして古代文明の時代です。
    エジプトやメソポタミアの文明とは別に、ヨーロッパでは紀元前3000年から紀元前1200年くらいまで続いたエーゲ海文明が登場しました。
    この文明は、ミノア(ミノス、クレタ)文明、ミケーネ文明、トロイア文明、キクラデス文明などがあり、前期の時代には、戦争がほとんどなく、比較的平和な時代だったようです。
    古代オリエントとの交流もあり、エジプト文明やメソポタミア文明の影響は大きかったようです。文字も使われていて、メソポタミアと同じように粘土板に記述されていました。そこに記述された絵文字は、エジプトの象形文字と似ていました。

       

     

    ミノア(ミノス、クレタ)文明の没落は、ミケーネによる征服が関係して、次のミケーネ文明へと繋がりますが、実は火山の噴火も要因だったといわれます。
    サントリニ島のアクロテリで噴火の遺跡があるからです。さらにいえば、この周辺地域では、旧約聖書のモーセの「出エジプト記」、ギリシャに残る洪水伝説、古代ギリシャの哲学者プラトンによる「アトランティス伝説」など、古代から現代にまで残る様々な伝説が古代の地中海周辺には散らばっています。

       

     

    エーゲ海文明については、遺跡の発掘で判明してきたことが多いですが、記述された記録としては、紀元前8世紀のホメロスによる「イーリアス」があります。長編叙事詩で、最古期の古代ギリシア詩作品です。
    ギリシア神話を題材としたもので、元来は口承によって伝えられてきたものです。
    しかし、ホメロスには実在した人物なのか、彼の作品といわれる「イーリアス」と「オデュッセイア」は、同一人物の作品ではないのではないか、等々、議論にもなっています。

       

     

    そんなこともあり、古代のトロイア戦争も史実なのかを疑問視する人までいました。
    ところが19世紀にハインリヒ・シュリーマン(Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann)が小アジアで発掘調査をしました。その動機となったのが、叙事詩に描かれた場所を再発見するためでした。その結果として、シュリーマンはトロイアという都市を発見し、次にケーネ文明の諸都市まで発見していったのです。
    これでホメロスの作品に描かれたことが、真実であると証明されていったのです。

       

     

    では、この続きは次回にしましょう。

       

     

  • アメリン&ウィンクラーの気候区分

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアメリン&ウィンクラーの気候区分について勝手に語ります。

     

     

    アメリカのアメリン博士とウインクラー博士が世界のワイン産地の気候区分を定めているのをご存じでしょうか。
    あまり一般的なものとはいえず、彼ら独自の計算方式によって決められたものです。しかし、ソムリエ試験にはおなじみのものなので、今回はワイン屋の店長らしく、ご紹介したいと思います。

     

    では、その独自の計算方式とは何かですが、それは「度日」という単位を使うものです、これは、ブドウの生育期に相当する4月1日から10月31日までの1日ごとの気温を測定し、華氏50℃(摂氏10℃)を上回った日について、その温度差を合計したものです。これによって、その土地の気候を区分しています。
    この説明だとよくわからないでしょうから、具体的にします。
    例えば、4月1日の気温は華氏48℃だとします。この日は50度を下回りますので、数字は0。翌日の4月2日の気温が華氏54℃だとします。すると50℃を4℃上回っているので、+4となります。さらに4月3日の気温が華氏51℃だとすると、+1となり、これを前日までの数値である⁺4に加えます。
    このように計算をしていき、最終日の10月31日までの数値を出すわけです。

     

    この数値から、アメリン博士とウインクラー博士は、気候区分をREGIONⅠからREGIONⅤまでに分類しました。
    では、ソムリエ試験の過去問も取り上げてみましょう。

     

    アメリン&ウィンクラー博士によるワイン産地の気候区分によれば、日本の山形県は次のどれになるか?
    1:Region Ⅰ
    2:Region Ⅱ
    3:Region Ⅲ
    4:Region Ⅳ
    5:Region Ⅴ

     

    答えは3のRegion Ⅲです。
    Region Ⅰはドイツやフランスのブルゴーニュ北部などになり、Region Ⅱ は、フランスのボルドーや、イタリア北部などです。
    山形県のRegion Ⅲ は、フランス南部、イタリア中部、アメリカ中部などになります。Region Ⅳ は、イタリア南部、スペイン、ポルトガル、アルゼンチン、南オーストラリア州 アデレードなどで、日本の甲府もここの区分に入ります。
    Region Ⅴ は、シチリアや南アフリカなどです。

     

    実際の度日とブドウの適合品種は以下のようになります。

     

    Region Ⅰ
    度日:0~2500F日
    シャルドネ、リースリング、ピノ・ノワール

     

    Region Ⅱ
    度日:2501~3000F日
    カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、ネッビオーロ

     

    Region Ⅲ
    度日:3001~3500F日
    シラー、サンジョヴェーゼ

     

    Region Ⅳ
    度日:3501~4000F日
    カリニャン、グルナッシュ

     

    Region Ⅴ
    度日:4001~
    カリニャン、グルナッシュ

     

    こう見ると、ソムリエ試験で覚えるのは、かなり大変だな、と改めて思う次第です。

     

  • 若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen Werthers)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』『ペスト』に続いて5作目です。

     

     

    『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen Werthers)は、1774年に刊行されたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の作品ですが、「ウェルテル」としているのは、おそらく日本だけなのではないかと思われます。
    ドイツ語で「we」は「ウェ」ではなく、「ヴェ」です。語末で二格の「s」を除いた「ter」は、今どき「テル」と発音せず、「アー」に近くなりますので、「ヴェルター」か、もしくは最初の「er」部分を現代の発音にして、「ヴェアター」としたほうが正解といえます。明治時代の名残がそのまま残っているので仕方がないのですが、違和感あるタイトルです。
    それはさておき、ゲーテについては、以前に「メフィストフェレスとワイン酒場」 で登場しています。そのゲーテのベストセラー作品で、刊行後には、主人公を真似た自殺者が急増するという社会現象まで巻き起こしたほどでした。

     

    この作品はゲーテの実体験がもとになっているといわれています。
    主人公が婚約者のいるシャルロッテに恋愛感情を抱く小説ですが、彼女のモデルとなった女性もシャルロッテ・ブッフです。ストラスブール大学から、ヴェッツラーに移ったときに舞踏会で知り合った女性です。
    彼女はゲーテの友人のヨハン・クリスティアン・ケストナー(Johann Christian Kestner)と婚約中でした。
    その後、ゲーテは誰にも告げずに故郷のフランクフルトに帰ってしまいました。それでもシャルロッテが忘れられず、彼女の結婚の日が近づくと、激しく苦悩することになりました。自殺すら考えたようです。
    そんなとき、友人のイェルーザレムの訃報が届きました。1772年10月、彼は人妻への失恋により自殺したというものでした。
    ゲーテは、この友人の自殺と、シャルロッテへの思いを重ね、この小説を執筆しました。この作品によって、失恋自殺の危機から免れたといえます。

     

    実際の作品では、書簡体小説となっていて、二部構成になっています。
    主人公が友人のヴィルヘルムに宛てた書簡によってストーリーが進んでいきます。第二部の途中から、編集者の開設が加わり、書簡と平行してシャルロッテや周辺人物の状況が説明されていきます。

     

    ちなみにですが、ゲーテが愛したシャルロッテ・ブッフですが、1816年にゲーテと再会しています。その当時60歳でした。

     

    Der Deutsche soll alle Sprachen lernen, damit ihm zu Hause kein Fremder unbequem, er aber in der Fremde überall zu Hause ist.

     

    最後に、あえて最初にウェルテルの表記にケチをつけたのは、上記のゲーテの言葉を思い出したからです。
    どんな意味かを知りたい人は、自動翻訳でも使ってください。支離滅裂な日本語にはならないと思います。

     

  • マーガレット・リバー(Margaret River)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はマーガレット・リバー(Margaret River)について勝手に語ります。

     

     

    マーガレット・リバーは、西オーストラリア州の南西部にある町です。州都であるパースから南へ277㎞、クルマで車で約3時間の距離にあります。
    マーガレット・リバー地域は、オーストラリアを代表する高品質のワイン産地でも知られます。ただし、この地域のワイン生産量は、オーストラリア全体の3%以下しかありません。それにもかかわらず、最高級ワインの5分の1以上がここで生産されているのです。
    世界レベルのワイナリーとしては、ヴァス・フェリックス(Vasse Felix)、ルーウィン(Leeuwin)、ボエジャー・エステート(Voyager Estate)などがり、その数は120以上を誇ります。

     

    町の名は、1831年に西オーストラリアの初期開拓者だったジョン・バッセルのいとこの名前が由来です。マーガレット・ホワーという名で、彼女の名を川に名付け、その上で、この町の名になりました。
    もともとはこの地域にはヌーンガー族が住んでいたそうです。最初の開拓者はイギリス人で、1850年に到着後、1870年頃頃から材木を伐採していき、1910年までに、町として機能するようになったようです。

     

    第一次世界大戦後には、西オーストラリア州への移住を誘致し、新しい開拓者が集まってきました。1922年には移住者が100人を超え、入植者による地区ができたそうです。
    鉄道は1920年代初頭にバッセルトン-マーガレットリバー鉄道が建設され、1925年にマーガレットリバー-フリンダースベイ線が開通しました。

     

    南北に約100㎞、部分的に幅約27㎞というこの地域は、東側にリーウウィン自然史リッジが囲み、西側にはインド洋があります。気候は地中海性で、ブドウ栽培には理想的な条件です。
    しかも、この気候はフランスのボルドーと似ているともいわれます。
    湿度も理想的で、気候、土壌、ブドウ栽培の実践の組み合わせにより、一貫して高品質の強い風味の果実が生まれます。

     

    また、マーガレット・リバーの見どころとしては、レイク・ケーブ(Lake Cave)の鍾乳洞にある「suspended table」と呼ばれる造形物です。
    この鍾乳洞は石灰岩の結晶で、重さは数トンに及びます。洞窟の天井から地底湖の水面すれすれまで吊り下がっているのは圧巻です。このような岩層は、世界でここにしかないと言われていますので、これは必見です。

     

  • キリストの血入門 10

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第10回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の国教化後の教父哲学について語りました。アウグスティヌスでした。今回はアウグスティヌスのその後の影響について触れていきます。

     

    アウグスティヌスの思想は、キリスト教共同体としての「教会」と世俗国家を弁別することで、キリスト教の優位性を示しました。このことからローマ教会の権威が確立されていくことに繋がり、普遍性の有力な根拠でもありました。
    また、個人的な部分を題材にした『告白』により、個人主義的な信仰とは、『神の国』による共同体としての教会でさえ世俗的であるとしました。これらの影響は後世に大きな影響を与えました。

     

    宗教改革への影響にも大きく与えましたが、その点は後に譲るとして、今回は自由意志(freier Wille)に関して絞ってみます。
    自分の意志が自分の自由になるという仮説ですが、人間が自己の判断に対してコントロールすることができるかどうかが問題になります。
    自身の意志によって、行為が発生し、最後に結果が生まれる、という一連の流れです。思ったとおりに行動していることは、自身意志から行動に移ることであり、これだけで論争をするものではありません。
    どのような意志か、それが自由か否かについて、直接的に問うことで、意志の成立過程が重要となります。自由意志の問題とは、自由と因果との関係であって、ここに宗教的、哲学的、倫理的、さらに科学的原理が絡み合っています。
    このようなアウグスティヌスの自由意志と信仰との問題が、後のアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)やフリードリヒ・ニーチェ( Friedrich Wilhelm Nietzsche)にまで影響を与えているのです。
    アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなしています。そのため、善を成すには、神の恩寵なしにはできないとしました。これこそ、若き日の非合法な結婚に関連する性的に放縦な生活を送ったことへの悔悟が背景になっているといえます。

     

    ショーペンハウアーは、カント哲学を受け継いでいるとしながらも、世界を表象とみなし、その根底にあるものを「盲目的な生存意志」としました。
    この「意志」があるゆえ、経験的な事象はすべて非合理であることになります。人間が生活していくには、意志は絶えず他の意志によって阻まれてしまい、生きることは同時に苦を意味することになります。この苦から脱出するためには、意志を諦観するか、絶滅させることしかないと説きました。
    いわゆる厭世観的思想です。
    アウグスティヌスの自由意志という捉え方との比較が興味深い内容です。
    これは19世紀後半に流行したもので、それを広めたのがニーチェです。
    ニーチェの『悲劇の誕生(Die Geburt der Tragödie)』は、ショーペンハウアーの意志と表象から成る世界観が大前提になっています。彼は、古代ギリシアのアポロンに理性を象徴させ、ディオニュソスに情動を象徴させ、その上で、ディオニュソス的根底には、ルター、カント、バッハ、ベートーベン、ドイツ精神がつながるとしました。
    さらに『悲劇の誕生』第16節では、ショーペンハウアーの音楽観を引用し、全面的帰依を表明していたのです。

     

    自由意志とは別に、意外なことにフランク王国のカール大帝も、アウグスティヌスの著作を好んでいたようです。
    さらに中世には、カトリックを代表する神学者のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)もアウグスティヌスから大きな影響を受けていました。彼の代表作といえば『神学大全』で、スコラ学の代表的神学者であり、カトリック教会と聖公会では聖人になっています。
    トマスは、キリスト教思想に古代ギリシア哲学を統合し、総合的な体系を構築しました。その古代ギリシア哲学がアリストテレスで、この統合に目を見張るものがありました。
    アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しながら、哲学ではプラトンからアリストテレスに変え、神学と哲学の関係を整理しました。これにより、神を中心とすることと、人間を中心とすることの、相対立する概念について、統合を図ったことになります。
    このトマスの思想は、トマス主義として受け継がれていきました。その原点こそがアウグスティヌスといえなくもありません。

     

    アウグスティヌスはカトリック教会で最も重要視されてきた人物です。
    その反面で、ルターやカルヴァンなどによれば、アウグスティヌスに対する誤謬を誤って利用してきたという態度もあり、アウグスティヌスの論説については、プロテスタントとの各派に温度差もあります。この点は宗教改革のときに改めたいと思います。

     

  • オラル(Орал)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はオラル(Орал)について勝手に語ります。

     

     

    カザフスタンという国がヨーロッパに位置するというイメージはないかもしれませんが、ウラル川の西側部分は地理的にはヨーロッパに区分されるため、一部地域はヨーロッパになります。
    そのヨーロッパにある都市としてオラル(Орал)があります。
    ウラル川とチャガン川(Chagan)の合流点にあるため、アジアにも近い位置となります。

     

    ウラル川(Урал)は全長2,428kmの河川で、プガチョフの乱以前はロシア語名もヤイク川(Яик)でした。1775年にロシア語名だけがウラル川に変更されました。これは、ヤイツクのコサックが、ステンカ・ラージンやエメリヤン・プガチョフの反乱に加担したことから、エカチェリーナ2世によって川の名を「ウラル川」と変えられたことによります。このとき町の名も「ウラリスク」に変えました。
    プガチョフの乱では、包囲されていた期間は半年間にも及びました。
    エカチェリーナ2世の軍はオレンブルクを奪還し、その後にウラリスクを奪回しました。

     

    ウラル川はヨーロッパとアジアの境界の一部を形成する川で、ウラル山脈の東部に源流となるマグニトゴルスクを経て南に向かって流れています。オリ川(Орь)と合流すると西に流れを変え、サクマラ川と合流してカザフスタンに入ります。
    そしてここオラルでまた流れを南に変えます。

     

    オラルは、ウラル山脈とカスピ海の間に位置することから、交易の中心地として発展してきました。
    しかし、ロシア革命のときにはコサックに包囲されました。それでもミハイル・フルンゼの防衛軍が街を死守したという歴史があります。
    オラルという都市名になったのは、1991年にカザフスタンが独立したときです。
    また、ロシア文学の『大尉の娘』で知られるレクサンドル・プーシキンは1833年、まさにその小説を執筆するための調査でここをを訪れています。

     

    地理的にヨーロッパに位置するせいか、ロシアとの関りが強いですが、現在の住民は、およそ72%がカザフ人だそうです。
    人口は21万人程度の都市ですが、ロシア料理だけでなく、イタリアや和食のレストランなどもあり、実は国際的です。その際にワインを飲むこともできます。
    イスラム教徒の多い国ですが、戒律は緩く、飲酒が公然と行われているカザフスタンならではといえます。

     

  • ペスト(La Peste)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『ペスト』(La Peste)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』『悲しみよこんにちは』に続いて4作目です。
    そして、この作品こそ現在のコロナウイルス蔓延状態の現在をいち早く予想していたかのような文学作品です。

     

     

    作者はフランスのアルベール・カミュで、ノーベル文学賞の受賞者です。『ペスト』は1947年に出版されました。
    フランツ・カフカの『変身』と並んで不条理文学の代表作として知られています。カフカの『変身』については、以前に取り上げたことがあります。

     

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    この小説の舞台はフランス領アルジェリアのオランという港町です。
    始まりは4月16日の朝でした。医師のリウーは、診療室から出ようとして階段の途中のネズミの死骸につまずいてしまいました。
    これが、その後にオランの町を襲う恐ろしい病の前触れだったのです。
    町には死者が増加し、リウーはこれはペストが原因であると気づきます。新聞やラジオでも報じられ、オランはパニック状態になっていきました。死者数は増加し、当初は楽観的だった町の当局も慌てて対応するようになりました。
    そしてついに、町は外部と完全に遮断されてしまいました。

     

    新聞記者のレイモン・ランベールは、パリに妻がいるため、オランからの脱出を考えます。そこで犯罪者のコタールに密輸業者を紹介してもらいました。コタールは逃亡してきた人なので、この町を出る気はありませんでした。
    一方、イエズス会のパヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいであるとし、悔い改めよと説教していました。医師のリウーたちは、必死に患者の治療を続けていました。
    ランベールは脱出計画をリウーたちに打ち明けますが、彼らは医師として町に残る義務があるという態度でした。
    そんなリウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中でした。
    ランベールはそれを知り、脱出計画をやめ、リウーたちを手伝うことにしました。

     

    ペストで少年が苦しみながら死んだことに対して、パヌルー神父は罪が原因であるといいました。これにリウーは抗議しました。
    やはて、パヌルー神父もペストに感染し、死んでしまいました。
    その後、ペストの感染は突然、潮が退いたように終息していき、オランの人々は元の生活に戻ってゆきました。
    ランベールは妻と再会し、コタールは逮捕、リウーの妻は死んでいました。

     

    このストーリーだけを見れば、ペストの感染拡大から終息までの期間、登場人物のそれぞれの行動が描かれているだけに思えます。
    しかし、カミュはペストに襲われる人々を単に描いたわけではなく、人間を取り巻く哀しい不条理を表現していました。カミュは、人間は世界の偶然性を超えることができないとして、この「人生と世界の無根拠性」が不条理としたのです。

     

    オランの町ではペスト蔓延が終わり、喜悦の叫びがあちこちで上がりました。
    しかし、この小説を語る人物は、最後に述べています。その内容はネタバレになるので、ここでは語らないことにしましょう。

     

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