今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ヨーロッパ(Europa)の基礎知識 4

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    不定期連載のヨーロッパ(Europa)の基礎知識ですが、今回は第4回になります。

     

       

     

    前回は古代ヨーロッパのエーゲ海文明について触れました。今回は、古代ギリシアを話題にします。

       

     

    エーゲ海文明は青銅器時代で、その次に鉄器時代へと移っていきました。
    紀元前1200年にカタストロフの襲来によりミケーネ文明は崩壊し、ここで一旦、歴史は空白の時代となりました。考古学的にも史料的にも空白の時代です。
    紀元前8世紀になって、都市国家ポリスが誕生し、再び歴史の表舞台に立ちました。
    文字の資料がない時代から、文字が現れてきたのは、フェニキア人の影響によるものといわれています。これがアルファベットの成立です。
    アテネを中心とするポリスなどで、ギリシアは大いなる発展を遂げました。
    紀元前508年からアテネでの民主制の基盤が整えられていき、アテネはペルシア戦争に勝利し、デロス同盟の盟主となりました。エーゲ海世界の支配者であると同時に、民主化された国家として全盛期を迎えました。
    ライバルとして現れたのはスパルタでした。紀元前431年のペロポネソス戦争の影響で、紀元前403年にアテネはスパルタに破れてしまいました。これでアテネは凋落したのでした。
    アテネに代わったスパルタでしたが、覇権国はテーバイ、そしてマケドニアへと移っていきました。

       

     

    紀元前4世紀前半には、勢力争いが繰り広げられたものの、結局はどのポリスも覇権を握ることができず、各ポリスの力が弱まるだけの状況となりました。
    そこで登場したのが、マケドニアのフィリッポス2世でした。第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を握り、ギリシア本土へと迫っていきました。そしてアテネ・テーバイ連合軍破り、ギリシア征服に達しました。
    勢いに乗るピリッポス2世はコリントス同盟(ヘラス同盟)を結び、次にペルシア遠征へと向かう予定でした。しかし、紀元前336年、ピリッポス2世は志半ばの状態で暗殺されてしまいました。
    その次に登場したのが、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)でした。

       

     

    紀元前356年にペラで生まれたアレクサンドロス3世が、、父であるピリッポス2世の王位を継承したのは20歳のときでした。
    他に例をみない規模での東方遠征を行い、30歳になったときには、ギリシャからインド北西にまたがる大帝国にしていました。連戦連勝を誇るほどの、戦術・戦略の天才だったといわれ、しかも征服した異民族の統治でも独創的でした。
    史上初めての世界征服者であり、異文化の地との融合策まで行い、通貨のドラクマを全地域で流通させました。従って、彼の登場によって世界は一変したのです。

       

     

    紀元前326年、アレクサンドロス3世は、当時の「ヨーロッパ世界」では「世界の果て」だったインドまで侵攻していました。パウラヴァ族に勝利したものの、インド征服をすることなくマケドニアへと引き返しました。
    そして新たな首都を建設する予定地だったバビロンで、紀元前323年、熱病により死去しました。このときまだ32歳でした。
    その後、巨大な世界帝国は内戦により分裂し、アレクサドロス一代で築き上げた帝国は、彼の死により終焉を迎えました。

       

     

    アレクサンドロスにより、ギリシア文化を東方へと伝達し、古代ギリシアと古代オリエントの文明が融合しました。これはヘレニズムと呼ばれる新たな文明ともえいます。
    そして、ギリシアからローマの時代へと変遷していきますが、続きは次回にしましょう。

       

     

  • ボルツァーノ(Bolzano , Bozen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はボルツァーノ(Bolzano,Bozen)について勝手に語ります。

     

     

    以前に南チロル(アルト・アディジェ)を取り上げましたが、今回はその地域の中心都市ともいえるボルツァーノ(Bolzano)、ドイツ語ではボーツェン(Bozen)を紹介します。「イタリア屈指の白ワイン産地」であるボルツァーノ自治県の県都です。

     

    古代、この地にはラエティ人(Raeti)の一派であるイザルキ人(Isarci people)が居住していました。イタリアからガリア人の侵攻から逃れてきたエトルリア人の末裔といわれていました。
    ローマ帝国の時代には第10行政区ウェネティア・エト・イストリア(Regio X Venetia et Histria)の一部となりました。
    7世紀になるとローマの影響力が衰え、バイエルン人が移住してきました。これ以降、チロル地方はバイエルン人を中心とするドイツ系住民の居住地となりました。
    12世紀後半には市場ができ、さらに、ヴェネツィアからアルプス山脈、ブレンナー峠を経由してアウクスブルクを結ぶ交易路上に位置する交易所として重要な役割を担うようになりました。

     

    1363年にハプスブルク家の領地となり、オーストリアと神聖ローマ帝国の影響下になりました。
    1806年に神聖ローマ帝国が解体されると、ボルツァーノはイタリア王国の一部となり、アルト・アディジェ県になりました。しかし、ウィーン会議により、再びオーストリア帝国の一部としてチロル伯領に戻りました。この領土は、現代の南チロルだけでなく、オーストリアのチロルも含むものでした。
    そして第一次世界大戦、この地域ではロンドン条約によって戦闘が起きませんでした。ただ戦争の結果、ドイツとオーストリア・ハンガリーの敗戦により、南チロルがイタリアへと割譲されました。1919年でした。

     

    ドイツ語圏なのに、イタリアへと割譲されたことで、1920年代になるとイタリア化政策に晒されることになりました。それを先導したのがファシスト党のベニート・ムッソリーニでした。
    このイタリア化政策とは、イタリアの他の地域からイタリア語を話す人を移住させるというもので、ボルツァーノの人口を3倍にすることでした。これにより、もともとの住民であるドイツ語を話す人の人口よりイタリア語住民を上回らせるようにしたのです。
    ところがその後、ドイツでアドルフ・ヒトラー政権が誕生して、少し事情が変わりました。
    ヒトラーは、ドイツ民族をひとつのライヒのもとに束ねるというイデオロギーですから、イタリア側からすれば、ドイツがイタリアから南チロルを奪還するのではないかという懸念が起きたのです。
    ただこれは、1939年にムッソリーニとヒトラーとの間で、ドイツの「生存圏」に南チロルを含めることを取り下げたのでした。
    ただこれは、南チロルからドイツ第三帝国に移住することを拒否したドイツ系住民は、裏切り者とみなされることになったのです。

     

    そしてついに第二次世界大戦です。
    1943年にイタリアが連合国軍に降伏すると、ドイツ軍は北部イタリアを占領しました。アルペンフォーラント作戦地域(Operationszone Alpenvorland)とし、ボルツァーノにはその本部拠点となりました。これは事実上のドイツ編入でした。
    1944年には「ボルツァーノ通過収容所」が設立され、イタリア最大の収容所になりました。
    大戦後は南チロルのドイツ系住民の間で独立運動の機運が高まりました。これにより分離主義過激派「南チロル解放委員会」(South Tyrolean Liberation Committee)によるテロ攻撃などもありました。
    これに対して国際連合は、11年に渡って調停と交渉を繰り返し、南チロルに相当の自治権を付与することとなりました。
    それでも現在は、言語の構成として、イタリア語が74%、ドイツ語が26%となっていて、ドイツ語圏としては小さな地域となっています。

     

    さて、ボルツァーノでのワイン製造ですが、古い伝統が守られ、引き継がれています。
    ワインセラーは、現在30程度あり、協同組合によって生産されています。
    ブドウ畑は、郊外だけでなく、歴史地区にもあり、それだけで街の外観が彩られています。

     

  • 世界最大の島

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界最大の島について勝手に語ります。

     

     

    世界最大の島がどこかご存じでしょうか。日本の面積の5.73倍もある島です。
    それがグリーンランド(Kalaallit Nunaat)です。
    独立した国ではなく、デンマークの一部となっています。

     

    グリーンランドというと、白ワインベースのカクテルの名にもなっています。 白ワインにメロンリキュールとトニックウォーターを合せたものです。爽快感のある甘口なカクテルなせいか、ワインを飲まない人にも飲みやすいといえます。
    では、島としてのグリーンランドとは、どんな場所でしょか?

     

    巨大な島ではありますが、内陸部のほとんどは厚い氷で覆われているため、人間が居住できる面積は少ない島です。
    また、ヨーロッパに属しますが、北極海と北大西洋の間に位置するため、カナダの北東に島が広がっています。島の北西部では、ネアズ海峡をはさんでカナダのエルズミーア島に隣接していて、その距離はわずかに約30kmです。逆にデンマークには南東方向で約300km離れています。
    気候は、島の大半が北極圏になり、準北極圏もあります。ただし、最北部は氷に覆われていません。それは、空気が乾燥している地域のため、寒くても雪が降らないからです。

     

    デンマークの支配になる前はエスキモー系の先住民族カラーリット(Kalaallit)がいました。イヌイットと同一民族といわれます。
    ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに入植した人物とされるのが赤毛のエイリーク(Eiríkr hinn rauði)で、彼がグリーンランドと名付けました。その後もヴァイキングが入植していきましたが、15世紀にはいなくなり、カラーリットだけが残りました。そのため、ここから百年以上の期間は、ヨーロッパの歴史から完全に姿を消しました。
    再びグリーンランドが歴史に現れたのは、16世紀半ばで、18世紀初頭になると植民地が作られ、キリスト教の布教も始まりました。それ以降はデンマークによる植民地となりました。
    北極圏という厳しい気候だけでなく、資源もあるわけではないグリーンランドとしては、ヨーロッパの一員として自立するのは不可能でした。そのため、デンマークの植民地として、支援されることは必然的な流れともいえました。

     

    現在でもグリーンランドの90%近くはカラーリットが占め、その比率は大きく変化していません。大きく変化したのは、意識かもしれず、かつてのカラーリットは政治的勢力がありませんでしたが、現在は異なります。
    1953年にデンマーク本国の県と同様の自治権を得て、その後、1979年には自治政府が発足しました。これでグリーンランドはデンマークの自治領となったのです。
    それ以降は、カラーリットの人々は支持政党を持つようになり、地名についてもイヌイット語にするようになりました。自立の道を進んでいます。

     

    EUとの関係でいうと、1985年にグリーンランド自治政府は当時のECを離脱したことから、グリーンランド自体はEUに属さないことになっています。しかし、グリーンランドの人たちは、EUに加盟するデンマークの国籍を持っているため、EUの市民権を持っていることになります。 ただし、EUの欧州議会等の選挙権については、グリーンランドが選挙区外という扱いですから、選挙権を行使することはできません。

     

    白ワインベースのカクテルの名になっていますが、実物のグリーンランドは厳しい環境で、EUとも複雑な関係になっています。
    なかなか行く機会のない島でしょから、せめてカクテルでも飲みましょうか。

  • ラ・モッラ(La Morra)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はラ・モッラ(La Morra)について勝手に語ります。

     

     

    ラ・モッラ(La Morra)は、イタリア北部のピエモンテ州クーネオ県(Provincia di Cuneo)にあり、人口は約2,700人です。
    クーネオ県はピエモンテ州では南西部に位置していて、南はリグーリア州ですが、西はフランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 (PACA)になっています。イタリアの中では3番目に広い県です。
    ラ・モッラは、イタリアを代表する高級赤ワインであり「ワインの王様」と呼ばれるバローロ村(Barolo)の南側に位置し、丘陵の頂上近くに村があります。丘陵の裾野にブドウ畑があり、斜面に沿って広がっています。
    土壌はマンガンとマグネシウム、石灰質の含有量が多いようです。気候は温暖湿潤で、夏と冬の温度差が大きく、夏は雨が多いのが特徴です。

     

    ラ・モッラで生産されるブドウは、バローロワインの原料になるネッビオーロ種が中心になっています。
    バローロはDOCG(統制保証原産地呼称)に格付けされているため、バローロ村近辺の限定地域のみ生産されています。ラ・モッラはまさにその条件を満たした産地です。
    「バローロ5大産地」の中の一つに数えられ、他はセッラルンガ・ダルバやカスティリオーネ・ファッレットなどです。

     

    ラ・モッラは小さな村ですが、ワイン好きの人にはバローロの産地とし知られ、ワイン目当ての観光客が多いといえます。
    そのため、ワイン目当ての客に対応するためのワインバーやレストランもあります。村の規模からは考えられないほどです。もちろん、土産用のワインを販売しているワイン蔵も多くあります。
    バローロワインはかなり強い味なので、レストランでは肉料理を中心とした料理がメインです。

     

  • ヌーシャテル(Neuchâtel)・ノイエンブルク(Neuenburg )

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヌーシャテル(Neuchâtel)・ノイエンブルク(Neuenburg ) について勝手に語ります。

     

     

    スイス西部にあるヌーシャテル州はワイン産地として知られ、実は日本にもわずかですが輸出されています。
    州都はヌーシャテルでフランス語圏ですが、ドイツ語名ではノイエンブルク(Neuenburg )といいます。人口は3万4千人程度の小さな都市です。フランス国境に近く、ヌーシャテル湖の湖畔に位置しています。この湖岸でブドウが栽培され、伝統的にワインを醸造してきました。ベルンへは約40㎞の位置になります。

     

    ここはブルグント王国のルドルフ3世が居城を構えた場所です。
    ブルグント王国は、ローヌ川流域を領土としていて、現在のフランス、スイスにまたがっていました。このブログで以前にも述べていますが、「ブルグント」はフランス語で「ブルゴーニュ」です。
    14世紀半ばには、この地域もペストの感染拡大により大きな被害を受けました。人口が激減し、人口が回復するのは長い時間を要しました。
    1535年、カルヴァンのいとこオリヴェタンが、フランス語翻訳の聖書をこの地で発刊しました。

     

    フランスに隣接する場所だけあって、この地域は様々な支配を受けてきました。18世紀に本国からはるかに離れたプロイセンの飛び地にもなりました。もっとも、本国から距離が離れていたことが幸いして、プロイセンの支配力は強くなく、1815年からはスイス盟約者団にも加わりました。ただし、プロイセンの支配下であるのは変わりませんでした。
    プロイセン支配に反対する蜂起は、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命の影響によるものでした。これにより共和制へと移行しました。
    当然ながらプロイセン側は反発し、軍事介入へと進む勢いでした。ただこれはナポレオン3世が介入たことで、1857年にパリ条約が締結され、プロイセンとヌーシャテルの間で和解が成立しました。同時に、プロイセンの支配が終わりました。

     

    現在、日本で人気のヌーシャテルワインといえば、ブドウの品種は、シャスラ、ピノ・ノワール、ギャマレ、ピノ・グリ、シャルドネ、マスカットなどです。
    ウイユ・ドゥ・ペルドリ(ロゼワイン)、ピノ・ノワール(赤ワイン)、シャスラ(白ワイン)など、高品質なワインが生産されています。

     

  • 失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は失われたワイン産地コンジカラ (Konjikala) について勝手に語ります。

     

     

    紀元前2世紀まで、ワインで知られたコンジカラ (Konjikala) という町がありました。
    しかし、この地に大地震が起こり、ワインの町は廃墟となってしまいました。
    これがのちに新たな村となり、都市となり、そして現在のアシガバート(Aşgabat)となりました。トルクメニスタンの首都です、1919年から1927年の間はポルトラツク(Полторацк)という都市名でした。

     

    コンジカラは廃墟となり、失われた町でしたが、古代イランのパルティア王国(アルサケス朝)のミトラダテス1世によってニサが作られました。
    ニサはパルティアの初期の首都でした。旧ニサは城壁に囲まれた遺丘で、北部に王の宝物庫などがあったと推測されています。中央部には巨大建築物群の遺構が残っています。新ニサも城壁に囲まれた遺丘で、パルティアが滅亡した後も滅ぶことはありませんでした。最終的に廃れるようになったのは、13世紀にモンゴルの襲来で破壊されたことによりました。その後は小さな村のままでした。

     

    このパルティアですが、多様な異民族、異文化の地域を支配してきたことで、ペルシアやギリシアなど、当時の覇権的な役割だった地域の文化を取り入れていました。
    初期はセレウコス朝との対立関係がありましたが、セレウコス朝はローマによって滅ぼされたことで、パルティアとローマが西アジアを分けるほどの勢力となりました。こうなると、ローマとの衝突は避けられなくなりました。その戦いは一進一退を繰り返しました。
    西暦2世紀以降になると、メソポタミアやバビロニアにローマ軍が侵入することが多くなり、セレウキアとクテシフォンを占領されることがありました。さらにパルティア側では王位をめぐる内戦もおきたことから弱体化していきました。

     

    実はパルティアについては、未だ不明瞭な部分が多く、史料も圧倒的に乏しいといえます。
    しかもこの地では、後にイスラム世界となり、パルティアの歴史については記録も記憶もほとんど残らなくなってしまったのです。
    滅亡についても、ローマとの戦争により弱体化し、サーサーン朝の勃興によって滅亡しましたが、経緯については、よくわかっていません。パルティアの公式な歴史記録がないこともあり、他の国々の文書からはかり知ることが多いのです。

     

    さて、失われたワイン産地だったコンジカラですが、19世紀になるとロシアによってアシハバードという町が作られました。要塞も造られ、新しい街として発展が始まりました。1881年にはガージャール朝がアクハル条約でロシアに割譲したことで、ロシアはさらにこの町を開発していきました。
    20世紀になると、ロシアの赤軍によってアシハバートが掌握され、1918年にはイギリス軍と白軍の連合軍に奪われるものの、沿カスピ連合政府が設立されたことで内戦となりました。そして1919年に奪回したことで、町の名をポルトラツクとしました。
    ポルトラツクはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の主要都市となり、1925年にトルクメン・ソビエト社会主義共和国が誕生すると首都となりました。1927年にアシハバードの名になりました。

     

    1948年10月6日には、この地に大地震が派生しました。市の人口の3分の2が失われたようです。まさに、紀元前の時代にワインの町だったコンジカラが廃墟となったのと同じような規模だったのでしょう。
    そして、1991年、ソ連からの独立によりアシガバートという都市名になりました。

     

    【関連記事】
    謎の独裁国家トルクメニスタン

     

  • ワイン密輸事件

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワイン密輸事件について勝手に語ります。

     

     

    密輸というと、ワインのような合法的なものと結びつかない気がするかもしれませんが、実はワイン密輸事件は頻発しています。そもそも密輸とは、違法に輸出入することなので、輸入禁止の拳銃や麻薬などが代表的ですが、ワインの場合は関税や各種手続きから逃れるために違法に輸入することになります。
    そこでワイン密輸事件が多く発生しているのが中国となります。

     

    中国本土にワインを直接輸入する場合、加算されるのが、消費税・関税・付加価値税(VAT)などになります。ところが、中国でもで香港やマカオの場合は、ワインに関する全ての税金が撤廃されています。そのため、中国本土と香港・マカオの間では、税金等の関係で、50%程度の価格差が生じてしまったのです。
    この税制による価格差を利用した密輸事件が起こるようになったわけです。特に高級ワインであれば、税金等も高額になりますから、密輸するには最適なものとなりました。
    特に香港やマカオと接する広東省では日常的に密輸ワインが入ってくるようになり、人口1千万人を超える広東省の深圳市などでは、市場で流通する高級ワインのほとんどは密輸ワインではないかといわれるほどになりました。

     

    その結果、2017年6月12日には、中国の税関当局により密輸ワインの一斉摘発が実施されました。この摘発により29人の逮捕者が出て、押収されたワインは約4000本、総額にして230万人民元(約4000万円)となりました。
    2018年5月14日には、約2億人民元(約33億円)相当のワインを密輸したとして17人が逮捕されました。

     

    中国だけでなく、実はシンガポールにも密輸ワインの疑惑があります。
    東南アジアの物流のハブとして機能しているシンガポールですが、ワインの関税率はかなり高額です。1ℓ当たり約800円という税金になっています。当然ながら街中で販売されるワインは、関税にあわせて高額にあるはずですが、出回っているのワインにはかなり安価なものが多くあります。
    まともに輸入していたらあり得ない価格のワインは、マレーシアの闇ルートにより密輸されているのではないかといわれています。しかし、事実はわかりません。

     

    さすがに日本ではワインの密輸はないと思われます。
    そもそも日本の関税率は低く、2019年2月1日からはヨーロッパ産のワイン関税などは撤廃されています。密輸するメリットもありません。むしろ日本のワインの価格の場合、関税より運賃や資材のコストのほうが高いといえるでしょう。

     

  • 英雄都市ムルマンスク(Мурманск)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はムルマンスク(Мурманск)について勝手に語ります。

     

     

    世界中がコロナ禍の現在、日本はこれから暑くなる季節を迎えます。
    ワイン需要は気温の上昇とともに下がりますが、冷やしたスパークリングワインなどは暑い季節でも人気です。そこで、梅雨から夏へと向かう季節にあうワインを飲みながら、寒い都市をご紹介しようと思います。
    ムルマンスク(Мурманск)です。

     

    人口31万人弱の都市ですが、北極圏最大の都市です。ロシア連邦でも最大規模の港湾都市であり、ソ連時代には「英雄都市」の称号が授与されていました。
    ロシアの首都モスクワから北へ約2000kmも離れた場所にあり、コラ半島の北岸に位置し、コラ湾を50kmほど南に入った沿岸部になります。モスクワより北欧のノルウェーやフィンランドとの国境のほうがはるかに近い位置です。
    ここはまた世界最北の不凍港の一つです。北大西洋海流が暖流のため、その影響から海が凍結することがないようです。従って、港湾都市であるとともに軍港としても重要な場所となっています。
    7月の平均気温は15度に達しない程なので、東京の11月の平均気温並みといえます。それでも1月の平均気温は氷点下8~13度なので、夏の気温から考えるほど寒くはないことになります。

     

    この都市の成り立ちや歴史は、やはり不凍港と関係します。
    1870年代にロシア帝国は北極圏に港町を建設する計画をし、アレクサンドル3世の時期になると、当時の名称だったムルマンまで鉄道を敷設し、大洋艦隊の基地を建設する構想が提案されました。これはバルト海の軍港の代わりとなることを意味していました。
    ところが、この構想を現実化せず、1894年に皇帝がニコライ2世になると、この案は却下され、バルト海艦隊の母港は現在のラトビアのリエパーヤに建設することになりました。
    20世紀になってから、ようやくムルマンスク港が創設されることになりました。当時、ロシア帝国内で最も新しくつくられた町であったことから、「ロマノフ・ナ・ムールマネ」と呼びました。しかし、半年後には二月革命が起こり、現在の名称であるムルマンスクに変更されました。

     

    英雄都市の称号については、1985年にソ連政府によって与えられたもので、祖国防衛戦争時の功績を讃えたものでした。ソ連政府発行の勲章の中では最高章となるレーニン勲章と金星記章も授与されました。
    それ以前の1971年には、労働赤旗勲章が贈られました。1982年には第一級祖国戦争勲章が贈られました。

     

    ロシアの都市は、日本人にはなじみのない場所が多いでしょうが、実は興味深いところが多くあります。特に19世紀以降につくられた都市は、歴史は浅いものの、帝国から革命、社会主義と冷戦、その崩壊と、劇的な時代を経ています。
    ありきたりな観光に飽きた上級者向けの観光地かもしれません。

     

  • キリストの血入門 11

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第11回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回はアウグスティヌスのその後の影響について触れました。今回はキリスト教の歴史に戻ります。

     

    迫害が続いたキリスト教でしたが、西暦303年にはキリスト教を公認する国が現れました。アルメニア王国です。国王のティリダテス3世がキリスト教に改宗したことで、世界初のキリスト教公認国となったのです。
    さらに350年になると、現在のエチオピアにあったアクスム王国でも、キリスト教が国教となりました。
    では、この時代の覇権国であるローマ帝国ではどうなのかというと、313年に発布されたミラノ勅令(Edictum Mediolanense)により、信教の自由が保障され、キリスト教も他の宗教とともに公認されました。

     

    ミラノ勅令以前はキリスト教迫害の時代でしたが、この勅令の直前の311年に、ローマ皇帝ガレリウス(Gaius Valerius Maximianus Galerius)が弾圧をやめたことが大きな影響を与えました。
    ガレリウスは、303年の布告によりキリスト教徒の迫害を始めました。キリスト教の集会所が破壊されたりしたのです。ところが、311年になると、病気となり、リキニウスとコンスタンティヌスを加えた連盟で、迫害をやめるという布告を発したのでした。
    この布告を受け、コンスタンティヌス1世によりミラノ勅令が発布されたのでした。さらにユリアヌスは、この勅令を逆利用しました。キリスト教が他の宗教と横並びになったことから、キリスト教の優遇を排したのでした。
    これはユリアヌスが死去すると、すべて撤回されることになりました。これ以降、ローマ皇帝はキリスト教徒に特権を与え続けるようになりました。
    そしてついに380年、テオドシウス1世によりキリスト教はローマ帝国の国教とされたのでした。

     

    このミラノ勅令ですが、実在を疑問視する研究者もいます。
    また、ミラノという地名がついているものの、ミラノで勅令が発布されたとも限らないようです。あくまでミラノはコンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談場所であり、そこで発布されたという証拠がないのです。わかっている範囲では、このときの会談による合意内容をキニウスの親書として313年に初めて公開したのは、ミラノではなくニコメディアだったのです。

     

    さて、ローマ帝国の国教となったキリスト教ですが、392年になると、ローマ帝国唯一の国教にまでなりました。キリスト教を除く他の宗教と、キリスト教でも異端派について、信仰が禁止されました。
    これによって、迫害されてきたキリスト教が、帝国により保護される宗教という立場となり、大逆転となったのでした。
    この続きは次回で。

     

  • パルケント (Parkent)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はパルケント (Parkent)について勝手に語ります。

     

     

    過去にウズベキスタンは何度か取り上げたことがあります。
    タシュケント(Toshkent)
    世界遺産都市ブハラ(Buxoro)
    サマルカンドのワイナリー

     

    古代ローマの時代、シルクロードによってブドウ栽培が導入されたウズベキスタンは、現在はイスラム教の国になっていますが、飲酒を厳しく禁止されているわけではありません。ムスリムがさすがに公共の場では、堂々と飲酒することはないものの、比較的酒類は手に入りやすく、また、よく飲まれています。
    旧ソ連の時代には、ゴルバチョフ政権の反アルコールキャンペーンにより、国内のワイナリーは大打撃を受けましたが、現在はワイン産業が復活しています。ブドウの栽培面積も増加傾向で、ブドウ品種についても新種を扱ってみたり、ワイン醸造に関連する設備投資も行われ、活発化してきています。

     

    そこで今回は、以前に紹介したタシュケントにも程近いパルケント (Parkent)を取り上げます。
    タシュケント州(Toshkent viloyati)の都市で、織物産業、食品産業などが主要産業となっています。人口は4万人程度です。
    ここでは輸出用のヨーロッパ品種によるワインが多く生産されています。ただ輸出先の大部分を占めるのはロシア、中国、カザフスタンで、近隣の国々となっています。
    ヨーロッパ品種が中心なので、赤ワイン用品種では、ピノ・ノワール、カベルネ・ソーヴィニヨンなどで、白ワイン用品種では、リースリングなどが栽培されています。それでも固有品種のワインも生産されています。

     

    パルケントのワイナリーの中で、唯一「樽熟成」を行っているのは「Hamkor」です。
    ワイナリーを巡るツアーなどで訪れることもできるようで、試飲会もあるといいます。ここはウズベキスタンワイン特有の甘いものだけでなく、かなり高品質なワインも生産されているそうです。その分、大量生産には向いていないようで、生産本数は少なめといいます。

     

    バザールは中心部から少し東に位置するラバシュセンターの向かい側で行われます。大規模なものではなく、地元の市民向けのものです。
    ウズベキスタンのバザールらしく、食品から日用雑貨、文房具、衣料品、生花、電化製品、さらには建設用資材まで並べられています。
    素朴なバザールと輸出用のワインの組み合わせは、何ともおもしろいといえます。

     

     

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