今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • グラーツ(Graz)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はグラーツ(Graz)について勝手に語ります。

     

     

    オーストリアの首都はウィーン(Wien)で、国内最大の都市です。
    日本人なら大抵は知っているかと思いますが、ではオーストリアの第2の規模を誇る都市となると、途端に知らないとなるのではないでしょうか。
    それがグラーツ(Graz)です。

     

    そのグラーツのあるのがシュタイアーマルク州(Steiermark)で、この地域は、ブドウの栽培に適した石灰質の土壌です。しかも内陸部ながら地中海性気候の影響を受けているようで、オーストリア国内でも有数のワイン産地になっています。ここで生産されるワインはドイツと同じで、辛口の白ワインが主流です。実は日本食にも合いそうな味ですが、流通しているのは主に国内だけです。
    最も多いのがリースリング(Riesling)で、価格もお手頃のものが多く、現地のスーパーなどではよく見かけます。

     

    グラーツは1999年に街の中心部が世界遺産に登録されました。さらに2010年には拡大登録されました。
    登録は「グラーツの市街-歴史地区とエッゲンベルク城」としてされました。時代ごとに異なる様々な建築様式の流入と調和をよく保存しているとして、グラーツの中心街が評価され、2010年の拡大登録では、その価値を補強するものとしてエッゲンベルク城が含まれるようになりました。
    ドイツ語圏ですが、もともとはスラブ系の人々の町として誕生し、丘の上に城砦を築いたことから、スラブ語で「小さな城」を意味するグラデツ (gradec) がグラーツの語源となりました。12世紀には丘の麓に市場が形成され、教会、庁舎なども建てられ、都市としての発展につながっていきました。

     

    13世紀になると都市特権を得ることとなり、14世紀にはハプスブルク家の分家に当たるレーオポルト家がグラーツを居住地としました。ハプスブルク家支配となったことで、15世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が輩出され、グラーツは神聖ローマ帝国の首都となりました。王宮と大聖堂も築かれました。
    ただ、ここでもオスマン帝国の脅威があり、砦を補強し、防衛機能も強化していきました。オスマン帝国の脅威はその後も17世紀後半まで続いものの、オーストリア大公カール2世の時代である1586年にはグラーツ大学が創設されました。さらにグラーツは文化的・芸術的な繁栄しました。
    しかし、皇帝がフェルディナント2世になると、首都をウィーンへと遷都したことにより、グラーツの華やかな文化は翳りを見せるようになりました。
    その一方で、世界遺産に登録されたエッゲンベルク城はこの時代に建設されました。

     

    オーストリア第二の都市ですが、グラーツの現在の人口はわずかに25万人程度です。それでも主要都市らしく、グラーツ空港もあり、グラーツ中央駅(Graz Hauptbahnhof)には、ウィーンへ直通する特急列車が2時間間隔で発着しています。また、ザルツブルクやインスブルックなどの国内主要都市を結ぶ特急列車だけでなく、スロヴェニア、クロアチア方面、チューリヒ、ブダペスト方面への国際特急列車も発着しています。
    市内には路面電車も走っていて、Sバーン(都市近郊鉄道網)もありますので、人口の規模の割には利便性の高い都市といえます。

     

    白ワインも安く、ヨーロッパらしい歴史空間が広がるグラーツは、おすすめの都市です。
    ウィーンやザルツブルクは日本人も多く訪れますが、ここは穴場といえるので、中欧方面への旅行の際は、ぜひ、グラーツ訪問もご検討ください。

     

  • ベオグラード(Београд)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はベオグラード(Београд)について勝手に語ります。

     

     

    セルビア共和国は、バルカン半島中西部の内陸に位置する国で、かつてのユーゴスラビアに属していました。ローマ帝国の時代からワイン生産が盛んな地域です。
    このセルビアの首都がベオグラード(Београд)です。ドナウ川とサヴァ川の合流地点にあり、人口は約175万人で、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都でもありました。
    現在はここからワイナリー巡りもできます。

     

    ヨーロッパでも最古の都市の1つといわれ、新石器時代のスタルチェヴォ文化やヴィンチャ文化は、ベオグラード付近で発達したといわれています。特にヴィンチャ文化の文字は、世界最古のアルファベットだという説もあるほどです。
    中世セルビア王国の時代は、12世紀後半に東ローマ帝国の衰退に乗じて誕生したものです。ステファン・ネマニャがセルビア侯となり、1171年には国王として即位しました。
    しかし、その後に内紛が続いたのちにステファン・ウロシュ2世ミルティンの時代になって安定しました。東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国と抗争を繰り返しつつ、領土が拡大していきました。
    ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの時代には、ブルガリアに代わってバルカン半島の盟主の座に就きました。さらに英主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはセルビア王国の最大領土を築きました。

     

    この中世セルビア王国の時代は、ブドウ栽培に力を入れていました。
    一方で首都のベオグラードは戦略的拠点となっていたため、戦場となる機会が多くある都市でした。その数は140回にも及ぶといわれます。
    そして1521年には、ついにベオグラードはオスマン帝国に征服されたことで、オスマン帝国領として、ヨーロッパの重要拠点という位置づけになりました。
    ベオグラードはオスマン帝国だけでなく、ハプスブルク帝国にも支配され、セルビアの首都に戻るまでには多くの時間を要しました。何とか1841年に独立したものの、ベオグラード北部はオーストリア・ハンガリー帝国の統治下となっていました。
    その後はユーゴスラビア王国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ユーゴスラビア連邦共和国、セルビア・モンテネグロの首都となり、ようやく2006年にセルビアが独立し、本来の姿に戻りました。
    その間、19世紀のオブレノビッチ王朝の時代にはブドウ栽培とワイン醸造は近代化し、次のカラジョルジェビッチ王朝の時代に引き継がれ、社会主義時代に停滞したものの、現代までワイン文化は残っています。

     

    現代のベオグラードはセルビアの中ではどの郡にも属さない独立した地域となっていて、独自の市政府を持っています。多種多様な人種がいて、セルビア人だけでなく、ユーゴスラビア人、モンテネグロ人、ロマ、クロアチア人、マケドニア人などが混合しています。ムスリム人もいます。
    夜間営業に対する規制が緩いことから、多様なナイトライフが楽しめることで知られています。もちろん上質なワインを提供する店もたくさんあります。
    ヨーロッパの大都市でありながら日本人にはなじみがないので、一度、ゆっくりと滞在したい都市でもあります。ただ、言語はセルビア語なので、現地語は諦めて会話するしかありませんが。

     

  • 煙台市(烟台市、Yantai)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は煙台市(烟台市、Yantai)について勝手に語ります。

     

     

    煙台市(烟台市、Yantai)は、中華人民共和国山東省にあり、山東半島東部の港湾都市であり、山東省最大の漁港です。人口は700万人を超える巨大な都市ですが、自然の景観が人気でもあります。
    山東省というと北京と上海の中間地点に位置していて、日本との貿易拠点を担っている面があります。ただ日本人が山東省で最もなじみ深い都市は青島(チンタオ)でしょう。
    ちなみに煙台市には、コロナウイルス拡大前まで、日本からの直行便がありました。

     

    実は中国国内で市場に出回る国産ワインでは、煙台産のワインの比率が過半数を超え、約60%にまでなるといわれています。青島はビールで有名ですが、煙台はワインなのです。
    山東省がフランスのボルドーと同緯度に位置することも関係するでしょうが、ブドウだけでなく他の果実も多く栽培され、ワイナリーも数多くあります。

     

    その背景として、煙台はヨーロッパとのつながりが強い都市だったことも関係するかもしれません。
    第2次アヘン戦争の際にイギリス・フランス連合艦隊に占領されました。
    そして1861年に外国商人に対して開港し、国際貿易港になりました。領事館も17カ国が設置することになりました。急速に都市化し、発展していき、20世紀に入るとドイツ帝国に支配されるようになりました。
    第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、煙台はアメリカ海軍のアジア艦隊の夏の駐留港となりました。
    そして辛亥革命です。

     

    1911年、煙台で中国革命同盟会の山東支部が決起しました。辛亥革命に合流したことで、山東軍政府が創設されました。1914年に膠東道が設置、1925年に東海道と改称となり、1934年には煙台特別行政区が発足しました。これで山東省の直轄地となりました。
    中華人民共和国が建国され、1983年には地級市となり、翌年には対外開放されました。

     

    中国の都市ですが、列強国との関係で発展してきたことから、19世紀にはワイナリーもありました。
    張裕葡萄醸酒公司は1892年に設立されました。現在は博物館も併設しています。
    また、最近つくられたワイナリーなどもあり、煙台のワインは注目に値します。コロナ終息後には、一度ワインを飲みに行きたい場所です。

     

  • チャコリ(Txakoli)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はチャコリ(Txakoli)について勝手に語ります。

     

     

    ピレネー山脈の両麓に位置し、ビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがった地域がバスク地方(Euskal Herria)ですが、スペイン側のバスク州にチャコリ(Txakoli)があります。 微発泡性でごく辛口、酸味が強く、アルコール度数が低いワインです。

     

    バスク語で「チャコリン」(txakolin)、定冠詞を付けて「チャコリナ」(txakolina)になります。
    スペイン語で「チャコリ」(chacolí)です。
    丘陵地帯にテラス状になったブドウ畑があります。スペインは乾燥している地域が多いですが、バスク地方は比較的雨も多く、夏もそれほど暑くありません。そのため緑豊かな地域となっていて、その環境でブドウが育ちます。
    もともとバスク地方は、スペインでもフランスでもないというスタンスの人が多いといわれます。独自文化だけでなく、言語もバスク語が公用語とされています。
    そのせいか、チャコリもバスク固有のワインという誇りがあるといえるかもしれません。

     

    バスク地方のワイン生産はは中世から始まったといわれます。
    しかし、ワイン生産は徐々に衰退し、ブドウ畑から牧草地への転換が進んでいきました。さらに19世紀には、害虫の被害により、チャコリは消滅の危機にまで瀕していたのでした。
    20世紀後半になって、生産農家の一部がチャコリを後世に残すよう努力し、チャコリのブドウの固有種を復活させ、1989年以降にはスペイン・バスクのチャコリの3種類がスペイン国内のワイン法でDO(原産地呼称)認定を受けるようになりました。
    品質は向上し、しかも生産地域は広がっていきました。

     

    それでも日本人にはなじみのないワインといえるかもしれません。
    実際、チャコリを飲むのは地元の人とアメリカ人だともいわれます。なぜかというと、チャコリはアメリカ人のソムリエたちの間で評判になり、その結果、アメリカへの輸出が多いからです。

     

    バスク地方にはバスク・ナショナリズム(Eusko abertzaletasun)もあり、今でも急進派は独立主権国家を建設することを目指しています。
    バルセロナのあるカタルーニャ州では、カタルーニャ共和国(República Catalana)の独立の話もありますし、実はスペインは単一文化の国ではありません。
    そのことも加味しながらチャコリを飲む機会をつくりたいと思っています。

     

  • キリストの血入門 8

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第8回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、キリスト教の礼拝や福音書などについて述べました。
    今回はローマ帝国後期の「3世紀の危機」時代のキリスト教について語っていきます。

     

    当時の覇権国だったローマ帝国ですが、帝政中期、西暦では96年から192年の間に、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス、ルキウス・ウェルス、コンモドゥスという7人の皇帝を輩出したのがネルウァ=アントニヌス朝でした。古代ローマ最盛期を築いた「五賢帝」も含まれています。
    しかし、ネルウァ=アントニヌス朝最後の皇帝・コンモドゥスが暗殺され、諸侯の抗争が起こるようになりました。この結果、193年に皇帝になったのがセプティミウス・セウェルスで、史上初のアフリカ属州出身の皇帝でした。
    ここからセウェルス朝となりましたが、ここからの時代は権力闘争が繰り広げられることになり、また軍事独裁国家となっていきました。
    最終的に、セウェルス朝最後の皇帝・セウェルス・アレクサンデルも暗殺され、断絶することになりました。このセウェルス・アレクサンデルは、キリスト教を崇敬していたといわれます。ただし、イエス・キリスト像だけでなく、ギリシア神話やローマ神話の神像も飾っていたといわれます。

     

    セウェルス・アレクサンデルが暗殺された後は、軍人皇帝時代となりました。
    一方、キリスト教徒はローマ帝国内で数を増やし、3万人にまでなっていました。三位一体の議論も起こりました。
    199年からローマ司教となったゼフィリヌスの時代に、サベリウスとクレメネスらが父・子・聖霊という三位一体論に対し、様態変化したものとする様態論を主張しました。父なる神と子なる神は互いに独立したものでなく、どちらも唯一の神の顕現する様態の違いであるというものです。
    サベリウスはキレナイカ(現在のリビア東部)の出身で、ローマでこの説を主張し、ローマ司教ゼフィリヌスやカリストゥスの支持を受けました。
    しかし、ヒッポリュトスによってサベリウスの思想の問題点が指摘され、さらにカリストゥスに破門されることになりました。異端として締め出されたのです。
    サベリウスはローマから締め出されたことで、故郷のキレナイカに戻りました。そこで自説を唱え、新たな支持者を集めました。このことでキレナカのキリスト教会の分裂につながっていきました。
    この事態を重く見たアレクサンドリア司教がローマ司教のディオニシウスに、事態解決を依頼することになりました。その結果、ディオニシウスが地方教会会議を召集し、改めてサベリウスの主張が異端であることとしました。

     

    ローマ皇帝については、権力争いが内戦状態ともなり、ゲルマン人の侵入も相次ぎ、治安も悪化していきました。「3世紀の危機」といわれる時代でした。
    244年に皇帝となったピリップス・アラブスなどは、キリスト教ではなく、ローマ伝統の宗教を帝国統一に利用していました。とはいえ、この時代にはキリスト迫害が激しかったわけではなかったようです。
    そして3世紀も半ばになると、ローマ教会は40程度にまで増え、聖職者の数も150人を超える規模となりました。これに対して250年に皇帝デキウスが大規模なキリスト教迫害を行いました。
    ただ翌年。デキウスはにゴート軍との戦いで戦死し、迫害は一段落しました。

     

    これ以降も3世紀には、司教の処刑などがありましたが、260年にシャープール1世がエデッサの戦いでキリスト教迫害を命令したウァレリアヌスを虜囚とし、迫害は終息しました。
    翌年にはウァレリアヌス帝の息子であるガッリエヌスが皇帝に即位し、キリスト教に対しては寛容策をとりました。このことから、キリスト教は実質的に公認されるようになりました。
    軍人皇帝時代が終わると、ドミナートゥス(専制君主制)となっていきました。

     

    4世紀になるとコンスタンティヌス1世によるキリスト教公認化と、アウグスティヌスの教父哲学が現れます。これは次回にしましょう。

     

  • モルドバ共和国(Republica Moldova)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はモルドバ共和国(Republica Moldova)について勝手に語ります。

     

     

    以前にモルドバ共和国(Republica Moldova)関連や周辺のことは取り上げたことがあります。
    世界最大のワインセラー(ミレシティ・ミチ)
    沿ドニエストル共和国
    モルダヴィア

     

    それなのに肝心なモルドバ共和国には焦点をあてていませんでした。
    改めて述べると、モルドバワインの歴史はとても古く、紀元前3000年まで遡れるほどです。ギリシャの植民都市からワイン生産が広がり、ローマ帝国の時代になると生産技術も向上していきました。
    ただ古代からここに居住していたのはダキア人で、ローマ人との融合により独自の文化が形成されていった地域です。
    しかし、271年にローマ軍が撤退したことで、様々な民族の侵略を受けることになりました。地理的にヨーロッパとアジアの境目に近いことから、どうしても侵略の歴史となってしまいました。

     

    しかし、バルカン諸国がオスマン帝国に支配された時代では、モルダビアは全域を支配されることは免れていました。それでも1806年から1812年まで続いた第三次露土戦争でロシアが勝利すると、ブカレスト条約によりロシア帝国に併合されてしまいました。
    このとき、ベッサラビア(Basarabia)となりました。これはロシア帝国時代の中央ヨーロッパ領土の一部を指す名称で、現在のモルドバのほぼ全域に現在のウクライナの一部が加わった地域となります。
    そして迎えたのが第一次世界大戦でした。モルダビアは戦乱に巻き込まれていきました。
    大戦中にモルダヴィア民主共和国として独立宣言を行ないましたが、国民の中にはルーマニア王国との連合を望む声が強く、ルーマニア王国軍のキシナウへの侵攻などから、結局ルーマニア王国との連合が決定しました。

     

    ここでロシア革命が起こり、ソ連が誕生すると、ルーマニア王国内でも共産主義勢力が台頭してきました。この不安定な状況で第二次大戦へと進みました。
    独ソ不可侵条約の裏で、ソ連の秘密議定書により、ルーマニア王国の割譲要求があり、ベッサラビアがソ連に占領されました。これがモルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)の建国となり、ソ連の構成国家となりました。

     

    ソ連からの独立は、1980年代後半から続いた東欧の一連の流れに沿っています。ただ、モルドバでは沿ドニエストルが関係したことで、他の東欧革命より複雑な部分がありました。
    独立当初はルーマニアへの再統合を望む声もありましたが、1994年の選挙で独立国家としての歩む方向が示されました。
    現在はEU加盟を目指しているようですが、「EUとの連合協定の破棄」を訴える人が多くいるのも事実です。

     

    モルドバは丘陵地帯が続く国土で、山岳地帯もほとんどなく、海岸線もありません。平野部分でほぼ占められているため、農業には最適な地域です。
    それでもて気候変動の影響があり、夏に雹が降ることがあるといいます。ワイン用のブドウも被害を受けていて、人間の握り拳程度の大きさの雹が降ることもあるといいます。
    かなりの被害額に及ぶといわれます。

     

    高品質なモルドバのワインを提供してくれる国ではありますが、最後に一点、国際的に問題視されていることを挙げます。
    モルドバは「児童買春天国」といわれたりしています。また、労働者や売春婦として国外で働くための人身売買が行われているともいわれます。
    このような状況ではEU加盟は、まだまだ難しいといえるのかもしれません。

     

  • 悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    緊急事態宣言の外出自粛中に、ワインと一緒に読む文学作品として、今回は『悲しみよこんにちは』(Bonjour Tristesse)を取り上げて、勝手に語ることにします。外出自粛中の読書としては、『罪と罰』『ハーメルンの笛吹き男』に続いて3作目です。

     

     

    1954年に発表された『悲しみよこんにちは』という小説は、フランスの作家フランソワーズ・サガンの処女作です。世界22か国で翻訳され、世界的なベストセラーとなったことで知られています。
    作者のサガンは、このときまだ18歳の若さでした。
    自宅でフランスワインを飲みながら読書するには最適な一冊です。

     

    サガンは恵まれたブルジョワ家庭で育ちました。
    学校生活には馴染めなかったようで、ルイーズ=ド=ベティニ校(Cours Louise-de-Bettignies)に入学したものの3か月で追放され、次にクヴァン・デ・ゾワゾー女子寄宿学校に入れられ、さらに三つのカトリック系学校を転々としていました。
    1952年にソルボンヌ大学への入学が許可され、この頃から『悲しみよこんにちは』を書き始めたようです。
    処女作は、サガンの親友の母親が作家のクララ・マルローで、彼女を経由して出版社に原稿が渡されました。しかし、ここですんなりと出版には至らず、作家で映画脚本家のコレット・オドリーが結末の改訂を提案した上で出版社を紹介され、ジュリアール社から出版されることになりました。

     

    この題名はポール・エリュアールの詩「直接の生命」の一節から採られたもので、主人公は18歳の少女セシルです。コート・ダジュールの別荘で、セシルと父親のレエモン、彼の愛人のエルザが過ごす一夏を描いた作品です。ただし、セシルの父とエルザは物語の前半で別れ、その後にまた重要な役割となります。

     

    セシルは近くの別荘に滞在しているシリルに好意を抱きます。彼は大学生でした。
    セシルの母親は他界していますが、ある日、別荘に母の友人のアンヌがやってきます。アンヌは知性的な女性で、しかも美しく、セシルはアンヌを慕っています。
    しかし、アンヌが父と再婚するような気配が見えてきます。するとアンヌは母親のような振る舞いをはじめました。セシルには勉強についてや、恋人となったシリルのことについて厳しい態度をとるようになりました。父との気楽な生活に変化が訪れ、また何よりアンヌに父が奪われてしまうという懸念に駆られました。必然的にアンヌに対しては反感を抱くようになります。

     

    セシルは様々な葛藤を経て、父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつきました。
    そのために、恋人のシリルと父の愛人だったエルザを巻き込んで実行に移すのでした。何と、アンヌは自殺とも事故とも取れる死に方をするのです。

     

    サガンはジャン=ポール・サルトルと交流が深かったことから、実存主義の影響が見られるといわれます。しかし、この『悲しみよこんにちは』は学生時代の作品ということもあり、若々しい視点が際立つ作品になっています。
    サルトルの死後に発表された作品の中には、ナチス政権やレジスタンス運動を題材としたものもあり、作風の変遷を追うのも興味深い作家といえます。

     

    それほど長い小説ではないので、フランスワインを味わいながら一気に読むのも良いかもしれません。

     

  • ピコ・ワイン (Vinho do Pico)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はピコ・ワイン (Vinho do Pico)について勝手に語ります。

     

     

    ポルトガルの最高峰を誇る山がピコで、そのまま島の名にもなっています。
    アゾレス諸島の島で、ヨーロッパ大陸からはるかに離れた大西洋上にあります。アゾレス諸島の中では2番目に広い面積をもっていますが、面積はわずかに446km2で、人口も約1万5千人程度です。リスボンから飛行機で約2時間半かかります。
    ちなみにピコという山は火山で、標高は2351m、日本の富士山に似ているともいわれています。

     

    ピコ島で生産されるワインが、ピコ・ワイン (Vinho do Pico) です。
    これはポルトガル政府の原産地統制 (VLQPRD) の対象となっています。優れた品質として知られています。
    このワインを生み出すブドウですが、「ピコ島のブドウ畑文化の景観」としてユネスコの世界遺産に登録されています。 溶岩を積み上げた古くから続く伝統的石垣「クラウ」を使い、風除けにし、溶岩の割れ目にブドウの苗木を植えて地面にはわせています。そのような地形のため、収穫は手作業でしかできず、しかも果汁の絞り出しは足踏みによるものです。この石垣の石は大量で、これらをつなぎあわせると地球2周分もの長さになるといわれています。

     

    近くに大陸のない大西洋上で、夏の日差しが強く、溶岩台地で水はけの良いことから、ブドウの糖度は高いといえます。火山岩に含まれるミネラル分も豊富で、これがワインの味に反映されています。
    ローマ皇帝も愛したというピコ島を代表する酒精強化ワインは、グレープスピリッツを添加(酒精強化)し、アメリカンオークで3年間熟成されたものです。

     

    もともと流れ出た溶岩で覆われた島だった場所が、このように変貌したのは、ポルトガル人カトリックの修道士たちによる努力が大きく関係しています。彼らの開拓には500年もの歳月がかかったともいわれるほどです。
    それだけの歳月を費やして、ようやく島の土壌を変えることができて、農村地帯へと変貌させたようです。

     

     

  • ナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)について勝手に語ります。

     

     

    「旧約聖書」の「ノアの箱舟」でお馴染みのストーリーの中で、主人公のノアが降りた場所(Nakshijahan、Nuhchikhan)としている国があります。
    それがナヒチェヴァン自治共和国(Naxçıvan Muxtar Respublikası)です。
    アゼルバイジャンの飛地になっている自治共和国のため、アルメニアの国の中にある地域でもあり、他にトルコやイランに接しています。

     

    ナヒチェヴァンで作られるワインは昔ながらの伝統的手法で作られていて、知る人ぞ知るワインの名産地でもあります。
    ナヒチェヴァンの気候は夏から秋にかけて温暖な時期が続くため、ブドウは長い期間をかけて育っていきます。そのためとても甘くなるといいます。人気のワインは、ナヒチェヴァン、シャブズ、アラクニス、アズナブルクなどです。

     

    この地域は他国の支配を多く経験してきました。
    紀元前6世紀にはアケメネス朝の支配下にあり、その後は大アルメニア王国、5世紀になるとサーサーン朝ペルシア、そして東ローマ帝国へと変遷していきました。
    そして7世紀半ばからはアラブ人が入ってきて征服されました。
    11世紀にセルジューク朝、13世紀からはモンゴル帝国、続いてティムールによる支配、15世紀に黒羊朝や白羊朝の一部となっていきました。
    14世紀からはペルシアとオスマン帝国の戦火に脅かされました。これは多分に地理的な理由によります。オスマン帝国(トルコ)とペルシア(イラン)に隣接することで、激しい衝突を繰り返す両国に巻き込まれたのです。

     

    ナヒチェヴァン・ハン国となったのは、ペルシアのナーディル・シャーが死去した1747年以降ですが、短命に終わることになりました。それは、二度にわたるロシア・ペルシア戦争により、ロシア領となったからです。1828年のトルコマンチャーイ条約 (Turkmanchai Treaty) によるものでした。
    ロシアではロマノフ朝による帝政が崩壊し、二月革命以降はロシア臨時政府のザカフカース特別委員会の支配下となり、翌年、アゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言しました。これも長く続かず、1918年にはイギリスに占領され、2年後にはソ連の赤軍に占領され、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の支配下となりました。
    東欧革命によるソ連弱体化と崩壊への流れの中で、1991年8月30日にアゼルバイジャン共和国が成立し、飛び地としてナヒチェヴァン自治共和国となりました。

     

    現在、ナヒチェヴァン自治共和国のほとんどはアゼルバイジャン人が占め、わずかにロシア人がいる程度となっています。地理的にはアルメニアの中にあるといえますが、アルメニア人はこの地域から追放されています。 それはナゴルノ・カラバフ戦争によるもので、この戦争はアルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る戦争でした。
    日本人から見ればアルメニア人とアゼルバイジャン人の違いはよくわからないかもしれませんが、古くから両者は領土紛争を繰り返してきたのです。強大なソ連という錘がなくなったことで、再び紛争が表面化しました。

     

    よほどのワイン好きでない限り、ナヒチェヴァン自治共和国のワインを知る日本人はいないでしょうが、このような占領の歴史の中でも生き続けたワインの味は、ぜひとも味わってみる価値があるのではないでしょうか。

     

  • ロードス島(Ρόδος)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はロードス島(Ρόδος)について勝手に語ります。

     

     

    紀元前2000年頃からフェニキア人により古代ギリシア世界へワインは伝播してきました。
    古代ギリシアの世界ではワイン醸造が活発に行われ、さらにそのギリシャ人によって地中海世界に広まっていきました。それだけ歴史のあるギリシアのワインですが、生産地の中にはエーゲ海諸島も含まれます。
    その中でロードス島(Ρόδος)はドデカニサ諸島の東で、アナトリア半島の沿岸部に位置しています。エーゲ海の中では最も南側になり、ギリシャ共和国の島の中では最も東側になります。
    面積は約1,400km²で、北に約18kmという位置にはトルコのアナトリア半島になっています。

     

    ワイン以上にこの島を有名にしたものは「ロードス島の巨像」です。世界の七不思議の一つになっています。
    文字通り巨大な像で、全長は34メートル、台座からだと約50メートルという大きさは、ニューヨークの自由の女神像に匹敵します。
    ロドスの港の入り口付近に大理石製の台座を設置し、その上に鉄製の骨組みを作り、薄い青銅板で外装を覆ったといいます。武器などを鋳潰したものを使い、巨像の完成には着工から12年間を要したといわれています。時に紀元前284年でした。
    これだけの巨像がつくられたのは、マケドニアのアレクサンドロス大王急逝後の後継者戦争(ディアドコイ戦争)で、ロードス島はエジプトのプトレマイオス1世側について、アンティゴノス1世との戦いに勝利したことによります。アンティゴノス1世軍がロードス島に攻め込んできましたが、島の防御は固く、紀元前304年にプトレマイオスの派遣した軍隊がロードス島に到着したことで、勝利することとなりました。
    巨像はこの勝利を祝い、太陽神ヘーリオスへの感謝の証として作ることとしたのです。

     

    巨像は58年間しか、その偉大な姿を見せてくれませんでした。紀元前226年にロードス島で地震が発生し、巨像は倒壊してしまったのでした。エジプトのプトレマイオス3世は再建するための資金提供をするとしましたが、島の人たちは再建することをやめました。
    これは、神に似せた彫像を作ったことで、神の怒りに触れた結果だと考えていたのです。そのまま巨像は廃墟のままの状態で置かれていたそうです。

     

    中世には東ローマ帝国領となり、次にオスマン帝国に征服されました。
    ギリシア領になったのは1947年で、その前に一時期はイタリアの占領もありました。
    現在はトルコに近いエーゲ海のギリシア領の島として、ワインではギリシャの原産地名称保護制度によって、「ロドスワイン」(赤ワイン・白ワイン)は最上級のO.P.A.P.になっています。甘口ワインの「マスカット・オブ・ロドス」はO.P.E.に指定されています。

     

     

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