今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • フィンガーレイクス(Finger Lakes)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はフィンガーレイクス(Finger Lakes)について勝手に語ります。

     

     

    新型コロナウイルスが蔓延し、日常の光景が一変してしまったアメリカのニューヨーク州ですが、実はアメリカで4番目の規模を誇るワインの産地でもあるのです。
    ニューヨーク州の北西部にあるフィンガーレイクス(Finger Lakes)こそが、ニューヨーク最大のワイン生産地す。ワイナリーの数は120あり、この地域のワイン生産量は州全体の90%を占めるほどです。
    ここは冷涼な気候で、冬はかなり厳しい寒さです。それでも湖の水温によって気温の低下が抑えられことで、ブドウは霜の被害にあうことはありません。夏は湖からの涼しい風が吹き込むことで気温も上昇しません。

     

    このように湖と密接に関係しているのは、フィンガーレイクスは、この地域にある11の湖の総称だからです。11の湖とは、オティスコ湖、スカネアトレス湖、オワスコ湖、カユガ湖、セネカ湖、キューカ湖、カナデーグア湖、ハニーオイ湖、カナダイス湖、ヘムロック湖、コニーシャス湖です。
    この中でワイン生産が多いのが、カユガ湖、セネカ湖、キューカ湖、カナデーグア湖、ヘムロック湖、コニーシャス湖の周辺です。これらの湖が比較的水深が深く、気候に影響を与え、前述のように霜の被害を防いでくれます。
    ブドウが多彩で、ヨーロッパ産だけではなく、野生種も栽培しています。

     

    また、この地域の近くにはイロコイ連邦(Iroquois)もあります。ニューヨーク州のオンタリオ湖からカナダにまたがった地域にあります。
    6つのインディアン部族により構成される部族国家集団です。
    フィンガーレイクス周辺では、イロコイ族の居住地があり、セネカ湖の名前に由来するSeneca nation(セネカ族)と、カユガ湖の由来となるCayuga nation(カユガ族)がいました。
    イロコイ連邦は欧州から人々が渡ってくる以前より成立していたようで、欧州から見て「新大陸発見」以前から連邦として機能していたといわれてます。
    イロコイ族は先住民の中でも強く、ヨーロッパの侵略者との戦いでもかなりの抵抗をしていました。侵略開始から約200年近くも守り抜いたほどでした。
    しかし、部族内の内部抗争などもあり、18世紀後半には勢力が衰え、しかもアメリカ独立戦争では、イギリス側とアメリカ側双方に味方することで事実上の分裂と内紛となってしまいました。
    独立戦争が終結すると、このフィンガーレイクス周辺に、イロコイ族などの先住民の特別保留地が数多く作られ、その限られた地域に追いやられことになりました。
    最終的には、19世紀にニューイングランド(New England)やペンシルベニア(Pennsylvania)からの移住者が、この地域を支配することになりました。

     

    アメリカのワインというと、日本ではカリフォルニア産が中心になっていますが、イロコイ族の歴史に関係するニューヨークのワインにも注目したいと思います。
    ちなみに、フィンガー・レイクスの代表的なワインは、フォックス・ラン、ドライ・リースリング、ハーマン・J・ウィーマー、ドライ・リースリング、ハート・アンド・ハンズ、ピノ・ノワール、レヴィーンズ ドライ・リースリングなどです。

     

  • テューリンゲン紀行5(Mühlhausen)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の最終回です。現在の州都エアフルトから離れて、暗い村と森の中を疾走します。

     

     

    エアフルトの街が暗闇に包まれ、西側世界のようなネオンも輝いていない街は、思った以上に暗い印象をもちました。
    今夜はこの街に宿泊しようかとも思いましたが、セヴェリ教会を離れてから再び迷子状態になってしまったので、とりあえず市街地を脱出することにしました。郊外のガストホフ(Gasthof)が東ドイツにあるかどうかわかりませんが、何の情報も持たない日本人が、暗い街中で宿探しをするのは辛いことだと感じていました。クルマで郊外で出れば、最悪、車中泊も可能となります。
    取り合えず、ライプツィヒ(Leipzig)方面へ行こうかと思い、北東方向への道路を探しました。ところが、ここでも案内表示板が暗く、一瞬で確認することに失敗しました。暗いだけでなく、見慣れない地名が多かったことが原因です。

     

    アウトバーンには宿泊施設がないので、国道などの幹線に行こうとしていたのもありますが、それ以上にアウトバーンの表示そのものについても見かけることがなく、結局どこをどう走っているのか分からないままでした。
    計画性もなく、慣れない東ドイツに入国したので、開き直って走りやすい道路を走ることにしました。その結果、どうやらノルドパーク方面の北側へと進んでいるようで、行きたい方向とはズレていることに気づきました。しかし、修正するのも大変なので、そのまま北へ行き、4号線へと合流しました。ガソリンもどこかで入れようかと思いましたが、東ドイツにまともなガソリンスタンドはなく、あっても、いわゆる「ハイオク」に相当するオクタン価のものもなさそうでした。
    一度、西側に戻らないとならないかもと考えるようになり、国境をさがすことにしました。

     

    東西を自由に行き来できるようになったのは、つい最近のことで、東西冷戦時代には厳しい監視状態だった国境は、当然ながら案内表示はありません。
    仕方なく西方向の国道でカッセル(Kassel)方面へと行こうと考えました。
    小さな集落に入るとアスファルトから石畳になり、しかもかなり狭い道路になります。周囲は暗い森が続き、アップダウンも随所にあります。寂しい道です。もし、こんな場所でガス欠になってしまったらシャレになりません。
    小さな村に宿泊施設も見つけましたが、宿の人に話をきくと営業していない、という答えでした。実際には営業していないのではなく、客がいないので、夜になってから新たな客を迎えるのが面倒という印象でした。いかにも共産圏らしい反応で、見かけない日本人についても興味はないようでした。

     

    空腹も感じてきたものの、国道に沿って現れる村や町には、食事を提供してくれそうな店も見かけません。明るい時間帯であれば、あるいは探し当てることができるのかもしれませんが、西側のような商業的な意識のないレストランは、存在そのものが消失しているようです。何も知らない西の旅人が、消え去った空間から見つけるのは難易度が高すぎました。
    パン屋や軽食を扱う店舗もありません。当然ながらコンビニもありません。
    ここにきて、何ともいえない寂寥感だけでなく、ある種の危機感も感じてきました。ただ、この途方にくれた状態は、決して不快なものではありませんでした。

     

    30年も前のことなので、記憶が定かではないものの、おそらくミュールハウゼン(Mühlhausen)という町だと思いますが、ここで国道を左折することになりました。
    少し走ると、路上に屋台が出ていました。ヴルストやパンの屋台です。街灯もないような寂しい国道に屋台があることが奇跡に感じました。
    慌ててクルマを停め、近くの空き地に駐車してから屋台へ向かいました。
    先客は父と小さな娘の親子が一組だけでした。小さな女の子は、謎の東洋人が現れたことに少し驚いたようでしたが、父親は特に反応はありませんでした。
    屋台の親父さんは気さくな人で、西ドイツの人でした。どうやら通貨統合されたことで、ここまで来て営業しているようでした。ただ、物価が東側は安いので、半分はボランティアみたいなものだと言っていました。ついでに国境の位置も教えてもらいました。
    クルマに持ち帰り、ようやく空腹を満たし、少しだけですが仮眠もしました。ガソリンは残り少ないものの、屋台の親父さんの話を信じれば、カッセルまでは持たないとしても、西側のガソリンスタンドまでは問題ないと判断しました。

     

    夜明け前に再び出発しました。
    屋台はいつの間にか姿を消しています。
    ミュールハウゼンから西に向かうと、そこは山岳部でした。道路は何とか舗装されていますが、真っ暗な山の中を走るのでスリルはあります。しかも国境の表示がなく、本当にこの道で正しいのかどうかが分かりません。
    ようやく、怪しく輝く光が何もない山間部に突然現れました。ダムを照らしているような光景でしたが、近づくと国境の検問所でした。無人でした。何とも奇妙な印象を持ちます。
    こうしてテューリンゲンから離れ、西ドイツ国内に入ったわけですが、景色が変わるわけもなく、相変わらず山の中でした。

     

  • キズリャル(Кизля́р)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はキズリャル(Кизля́р)について勝手に語ります。

     

     

    ダゲスタン共和国といっても、おそらく日本人ですぐにわかる人は少ないのではないかと思います。
    どの大陸にある国かも想像できないかもしれません。
    場所はコーカサス地方で、コーカサス山脈北側の北カフカース地方とカスピ海の間にあります。そのため、地理的にはヨーロッパといえる場所です。ロシア連邦を構成する共和国で、首都はマハチカラです。
    国名はトルコ語由来で「山が多い場所」という意味だそうです。それだけ山岳地帯が中心となる国で、民族の交流が少ない地域だったことから、現在でも多様な民族が混在しているようです。

     

    キズリャル(Кизля́р)は、マハチカラから北西方面に221km離れた都市です。チェチェン共和国と隣接しています。人口は5万人程度なので小さな都市です。
    あまり知られていないでしょうが、19世紀には、キズリャルはワイン生産の中心地でした。
    ただワインより生産が活発なのがコニャックで、ロシアで販売されています。また「キズリャルカ(Кизлярка)」はブドウを使ったウォッカです。

     

    現在分かっているキズリャルの歴史は、15~16世紀までしか遡れません。
    テレク川の渡し場だった地域にペルシャの商人たちが居住し、交易路として重要視されてからはロシア軍がやってきたようです。さらに、その後はアルメニアやグルジアから、またカフカス人、チェチェン人、タタール人、チェルケス人などが加わり、8つの民族による街となっていきました。これだけ異なる民族が集まったことで、日常の習慣は異なる部分があったものの、8つの民族に共通する点は、酒好きだったことでした。しかもイスラム教徒でもワイン醸造には寛容だったようです。
    1735年にはロシア帝国政府によって要塞が築かれ、18世紀以降、ロシアと中東や中央アジアとの間の交易都市として発展していきました。
    19世紀になってワイン生産が活発化すると、ワイン醸造後の搾りかすを使って、蒸留酒も大量に作られるようになりました。これがキズリャルのウォッカです。

     

    もう一点、この地域に関係することとしてチェチェン紛争に触れないわけにはいかないでしょう。
    ソ連崩壊直前の1991年、チェチェン・イチケリア共和国が一方的に独立を宣言し、チェチェンはロシア正教を放棄、さらにキリル文字からラテン文字に変更することにしました。完全な「脱ロシア」という動きでした。
    そこで、ロシアの大統領だったエリツィンは、維持部隊を派遣したものの、チェチェン軍に負け、撤退を余儀なくされました。 そこで1994年には、ロシア連邦軍はチェチェンに本格的な軍事侵攻することになりました。圧倒的な軍事力を誇るロシア軍でしたが、ソ連崩壊直後ということで、軍はかなり弱体化していました。
    一方、チェチェンはアル・カーイダのオマル・ハッダード司令官が中心になって反撃してきました。
    激しい戦闘の末、ロシアは翌年になって軍隊を撤退させました。
    ところが1996年1月、キズリャルの航空基地がチェチェン共和国の独立勢力により襲撃を受けたのです。
    このチェチェン紛争は第二次となり、2002年のモスクワ劇場占拠事件、2004年のベスラン学校占拠事件など、ゲリラ戦や自爆テロなどに繋がっていきました。

     

    ここにも東西冷戦が終焉してからの激しい歴史があります。
    ワインやコニャックに直接関係することではありませんが、その生産地に起きた激動はぜひとも知って頂きたいことです。

  • コンスタンティノープル(Constantinopolis)陥落

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はコンスタンティノープル(Constantinopolis)陥落について勝手に語ります。

     

     

    ヨーロッパのワイン産地やワイン文化を歴史の面で語る場合、ヨーロッパの人を震撼させた巨大帝国の影が関係するケースが多々あります。モンゴル帝国の脅威も凄まじいものでしたが、長くは続きませんでした。もうひとつ、600年も続いた帝国により、常に脅威にさらされていたことがあります。それがオスマン帝国です。
    史上最強国の一つに数えられる帝国です。最初はアナトリア地方のトルコ系の小さな集団にすぎなかったものが、北はウィーン、東はペルシャ湾、西はアフリカ北西部のアルジェリア、南はアラビア半島南部のイエメン、まさに怒涛の勢いで勢力を拡大していったのです。その領土は交易路の支配であり、それは国に富みをもたらすことに繋がり、軍隊も強靭化することになりました。
    600年も続き、終えんは第一次世界大戦でした。

     

    オスマン帝国を語るには、多くのページが必要になりますので、今回は、その中からコンスタンティノープル(Constantinopolis)陥落に焦点を当てたいと思います。
    東西に分裂後、すぐに崩壊してしまった西ローマ帝国と違い、東ローマ帝国はその後も1,000年近く存続しました。その首都がコンスタンティノープルでした。都市として建設されたのは330年で、強固な城壁に守られた都市は、1453年の陥落まで難攻不落でした。しかも東西交易路の要衝であり、良港もあり、キリスト教では正教会の中心地でもありました。そのため、キリスト教圏最大の都市であり、「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれるほどの大都市だったのです。
    しかし、11世紀後半に遊牧集団(トゥルクマーン)により建国されたセルジューク朝から攻撃を受けたことで、弱体化していきました。12世紀になって、何とか繁栄を取り戻しましたが、十字軍による侵攻にも悩まされるようになりました。実は1204年の第4回十字軍のときには、コンスタンティノープルは一度陥落しています。このときはすぐに取り戻したものの、国力は格段に弱くなり、コンスタンティノープルは荒廃していました。キリスト教圏最大の都市だった面影もなく、人口も7万人以下に減少し、さらに交易による富も、ヴェネツィアなどに集まるようになっていました。

     

    そして14世紀からは、オスマン帝国軍による包囲です。
    オスマン帝国の第7代スルタンのメフメト2世によるコンスタンティノープル包囲は、バヤズィト1世、ムラト2世に続く3度目でした。
    和平交渉も形式的とはいえ行わていました。メフメト2世は降伏し、開城を呼びかけていましたが、コンスタンティノス11世は拒絶しました。その結果、最終的にメフメト2世は総攻撃を開始しました。1453年5月29日の未明のことでした。
    そしてついにコンスタンティノポリスは陥落しました。皇帝のコンスタンティノス11世はオスマン軍に突撃し、行方不明となってしまいました。この時点で東ローマ帝国の滅亡となりました。
    伝統あるローマ帝国は、古代より続いてきた系統が途絶えることになりました。時代も東ローマ帝国の滅亡により中世が終わってことを意味しました。

     

    コンスタンティノープルはオスマン帝国の新しい首都となり、正教会の聖堂はモスクに改造されていきました。
    その一方で、メフメト2世や、スレイマン1世などは、オスマン帝国のスルタンであるとともに、「ルーム・カイセリ」つまりローマ皇帝も名乗り、さらには1467年にはイヴァン3世によりローマ帝国の継承者、つまり「第3のローマ」だと宣言するに至りました。これは主に東ヨーロッパ諸国に対しての権威を示すことが目的だったといえます。この影響は歴代のロシア皇帝がローマ帝国の継承性を主張することにも繋がりました。

     

    キリスト教にとって大切な「キリストの血」であるワインも、正教会の中心都市がイスラム勢力に陥落したことで、生産に変化をもたらしたといえるでしょう。しかし、現在のトルコはイスラム圏であるものの、飲酒に対する規制がありません。
    イスラム教よりはるか昔からビールやラク、さらにワインの醸造も行っていましたので、その伝統はキリスト教徒が受け継いだのでした。

     

  • キリストの血入門 4

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ワインが「キリストの血」であることから、キリスト教について勝手に語っていく第4回です。今回もワイン屋の店長が宗教学者になって語りますので、誤りがあっても許してください。

     

     

    前回は、パウロの伝道までの話でした。まだキリスト教なのかユダヤ教なのか、どちらとも言えない状況でした。
    ただ、このパウロは伝道だけでなく、多くの書簡が新約聖書に入っています。『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』です。『ヘブライ人への手紙』もパウロのものとされていた時期もありましたが、現代は別の人物のものとされています。

     

    これらの書簡の中で最も重要で、なおかつ最も影響力あるのが『ローマの信徒への手紙』です。
    書簡が書かれた時期については、確定的な証拠はないものの、パウロがエルサレム教会のための募金を行っていた西暦58年頃だろうといわています。場所はギリシアではないかと思われています。『ローマの信徒への手紙』というだけあって、ギリシアからローマへ向かう途中に、ローマの信徒に向けて書かれたようです。
    この時期、すでにローマではイエス派の共同体ができていて、多数のユダヤ人も居住していました。ユダヤ教のシナゴーグもありました。
    ユダヤ教徒とローマ市民の交流もあり、イエス・キリストのことも徐々に知れ渡るようになってきました。その結果、ユダヤ人のための宗教を超越していたことから、ユダヤ人だけでなく、ローマ市民も加わった共同体が生まれたものと考えられます。
    実際、パウロがローマに来た際には、集会の場所は多く、信徒の数も多かったと思われています。

     

    このようにローマ帝国内でパウロの伝道は続き、イエスをキリストとする新しい宗教は、ローマだけでなく、地中海世界に広がっていきました。その一方で、エルサレムでは他のユダヤ教徒による迫害が強まりました。そのため、パウロはエルサレムへと戻りました。
    エルサレムに戻ったパウロは逮捕され、裁判となりました。ただ幸運なことに、パウロにはローマの市民権があったため、ローマに護送されることになりました。すぐにローマへ戻されたことになり、裁判を受ける傍らで、さらに伝道活動をしたといわれます。
    ローマ帝国内にこの宗教の共同体やコミュニティが複数、誕生したことで、ユダヤ教とは異なる宗教として認知されたともいえる状況になりました。そういう意味で、当時の覇権国で広がったことでユダヤ教のイエス派から、キリスト教になってきたといえるのかもしれません。
    さらに、コミュニティー間の交流や教会の増加により、組織的なものも構築され、さらに礼拝形式や説教などの基本的なモデルが出来上がりました。何より、新興勢力となったこの宗教が均質化されたことが大きかったといえるかもしれません。

     

    そして西暦66年から73年の間、第1次ユダヤ戦争が起こりました。
    ローマ帝国のユダヤ属州総督フロルスがユダヤの神殿の宝物を持ち出したことで、エルサレムの過激派が暴動を起こしました。この暴動の首謀者たちはユダヤ教の原理主義者であり強硬派でした。
    ローマ帝国側は、過激派の首謀者たちを逮捕し、処刑することで事態収拾するつもりでした。ところが、これが逆に作用してしまいます。過激派内でも主導権争いが行われていたものが、ローマ帝国の対応により反ローマで結束してしまったのです。
    さらに注目すべき点がありました。おそらくイエスが所属していたであろうエッセネ派まで、反ローマの反乱に加わったのです。
    この反乱の鎮圧は簡単には進まず、ローマ皇帝のネロは鎮圧のための軍団まで派遣することになりました。
    ところが、ローマでも反乱があり、ネロは自殺することになりました。次々と皇帝に即位する「4皇帝の年」もあり、反ローマの反乱とともに大混乱となったため、ユダヤ戦争はローマ軍の司令官不在にまでなりました。
    ようやく70年になり、ローマ軍によりエルサレム神殿が炎上し、エルサレムが陥落しました。このときに、サドカイ派とエッセネ派のクムラン教団が消滅したか、四散した状態になりました。これによりイエスの母体集団がなくなり、逆にイエス派は反乱に加わらなかったことから、ここでユダヤ教イエス派とキリスト教が明確に分かれたといえるかもしれません。残ったファリサイ派はキリスト教を敵視し、キリスト教徒はユダヤ教から離れ、完全に独立した宗教へとなっていきました。
    これがキリスト教の誕生といえるのかもしれません。

     

  • ナント(Nantes)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はナント(Nantes)について勝手に語ります。

     

     

    フランスのロワールワインといえば、赤・白・スパークリング・ロゼなど、すべてのワイン種類が生産されていることで知られています。
    その中でフランス最多の生産量を誇るのが白ワインです。ミュスカデからつくられるワインが最も有名です。
    ロワール地方はロワール河に沿ったワイン産地のため、東西に長く、主に4つの地区に分けられています。ナント、アンジュー&ソーミュール、トゥーレーヌ、中央フランスです。
    この中でとナント(Nantes)といえば、歴史の教科書でお馴染みの「ナントの勅令」でも知られた都市です。

     

    人口は30万人弱ですが、フランスでは第6位の都市です。
    ここもケルト人が最初の定住者であり、ガリア人により都市形成の基礎ができ、ローマの支配下に入りました。
    3世紀にはサクソン人、フランク人、ブリトン人などの襲来があり、かなり荒廃していきました。それでもキリスト教が浸透し、ブルターニュ公国の建国に至りました。

     

    フランスに併合されたのは1532年で、ナントの勅令(Édit de Nantes)は1598年4月13日でした。フランス王アンリ4世がナントで発布した勅令のことです。これによりユグノー戦争が終結しました。
    ユグノー、つまりプロテスタント信者に対して、カトリック信者とほぼ同じ権利を与えるという勅令だったためです。これはヨーロッパ初の信仰の自由を認めたものではありましたが、一方でプロテスタント側はカトリック教会にも十分の一税を納めなければならないというもので、必ずしもプロテスタントとカトリックが対等になったわけではなく、いわば条件付きのものでした。
    これで、フランスは建国以来初めて一国二宗教となりましたが、プロテスタント側はナントの勅令以降も抵抗を続ける人々もいました。中には武装してカトリック側と対立する地域もありました。
    さらに勅令を出したアンリ4世も、条件付きで信仰の自由を与えることで、プロテスタント、カトリック双方を王権に従わせる狙いとともに、ある意味でユグノー戦争の休戦状態にしたという面もあったといえます。

     

    ブルボン朝としては、休戦状態にしたとはいえ、プロテスタント勢力への弾圧を止めたわけではありませんでした。
    ルイ13世は、ラ=ロシェルを攻撃したことで、プロテスタント勢の抵抗を終わらせ、さらに「太陽王」ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令により、ナントの勅令を廃止しました。
    これにより、プロテスタント信者は多くが、オランダ、ドイツ、スイスなどの国外へと逃れていきました。
    商工業の中核を担っていたプロテスタント信者を失ったことになり、フランスは財政悪化から衰退を招くことになりました。そのために増税政策を行い、これに反発した市民などの不満が、のちのフランス革命にもつながっていくことになりました。

     

    フランスの歴史の転換点に関係したナントの勅令ですが、ワインについてはミュスカデの誕生の伝説も残っています。
    1709年に、大寒波がナントを襲いました。ロワール河が凍結するほどのもので、ナントのブドウも全滅してしまいました。
    ブドウを生産している人たちは、この大打撃に悲しみ、途方にくれつつも、大寒波にも耐えうるブドウ栽培に切り替えようと考えました。そこで目を付けたのが寒冷地のブルゴーニュで栽培されるブドウでした。最終的に選んだのが「ムロン・ド・ブルゴーニュ」でした。これはブルゴーニュのメロンの香りのするブドウという意味です。
    この品種がナントに適していたことで、生産が続けられ、「ムロン」が、「ムスク」となり、さらに変化して「ミュスカデ」の語源になったと言われます。

     

    フランスワインといえばブルゴーニュとボルドーだけだと思っている方がいれば、ぜひナントの「ミュスカデ」も味わって頂きたいと思います。

  • メンドーサ(Mendoza)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はメンドーサ(Mendoza)について勝手に語ります。

     

     

    中南米最大のワイン祭りがアルゼンチンで行われました。
    新型コロナウイルスが世界各国で蔓延していることから、ウイルスの影響が懸念されていたようですが、観光客の数は昨年を上回る約15万人で、大いににぎわったようです。
    アルゼンチンでも新型コロナウイルスの感染者が確認されていましたが、100年以上続く伝統の祭りが実施できたことは幸運だったといえるでしょう。

     

    この中南米最大のワイン祭りが開催されたのは、アルゼンチンのメンドーサ(Mendoza)です。アルゼンチンのワイン生産量の約80%を占めるほどの規模を持つ都市ですから、世界有数のワインの産地といえます。
    この祭りはブドウの豊作を願って毎年3月に開かれているもので、収穫されたブドウを観客に向けて投げながらパレードしたりします。このときにブドウが受け取れた場合、翌年に幸せが訪れると言われています。

     

    このメンドーサですが、アンデス山脈の高原地帯にある人口12万人弱の都市で、温暖少雨の地中海性気候です。そのため、ブドウ栽培には好適地で、必然的にワイン生産が多くなっています。
    メンドーサの標高は800mですが、ここから望めるアンデス最高峰のアコンカグア(Aconcagua)は標高が6,960.8mもあります。この高さはアジア以外での最高峰になっています。
    初登頂は1897年で、日本人初登頂は1953年でした。植村直己も登頂しています。また、彼は下山した際に、隣の処女峰(5,700 m)にも登頂し、これが「明治峰」と命名されました。

     

    首都のブエノスアイレスからは直線距離でも1100kmほど離れたメンドーサは、飛行機でも約2時間かかります。それほど首都から遠く、メンドーサのワイン生産地も、北部、南部、東部、バジェ・デ・ウコの4つの地域に分かれています。
    日本では想像できないほどのブドウ畑が広がっているそうです。
    アルゼンチンでは、温暖化の影響のためか、ブドウの収穫量は減少傾向といわれています。それでもワイン生産国としては、世界上位の生産量を誇っています。

     

    この地域は1861年に大きな地震被害があり、犠牲者の数も5000人以上ではないかといわれています。
    これが教訓となって、都市の復旧には地震対策がされました。耐震性だけでなく、広場を拡大したり、道路を広げ、歩道も充実したといいます。他のアルゼンチンの諸都市とは明らかに異なる様相だそうです。
    この街がワイン祭りで熱気に包まれたかと思うと、何ともうらやましい気がします。

     

  • ブルージュ(Brugge)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はブルージュ(Brugge)について勝手に語ります。

     

     

    ベルギーを代表する観光都市といえば、真っ先にブルージュ(Brugge)を挙げたいと思います。
    個人的な話ですが、この都市は、80年代の年末年始にモスクワからロンドン、そしてドーヴァー海峡を越えて向かう予定でした。そのルートにあわせて航空券を手配していました。成田-モスクワ、モスクワ-ロンドン、フランクフルト(マイン)-成田の3種類の航空券で、この中でモスクワ-ロンドンだけがキャンセル待ちとなってしまいました。そのため、最終的に行くのを断念しました。
    以来、一度もブルージュに行く機会がなく、世界の中で最も思い入れのある都市のひとつになってしまいました。

     

    ブルージュは「北のヴェネツィア(Venezia)」と呼ばれるほど運河が巡っています。ハンブルクも運河の街ですが、街中の水路に船が多く行きかうのは、やはりヴェネツィアとブルージュならではといえるかもしれません。
    物価はフランスより安く、洗練された料理も多いといいます。それにあわせるワインもフランス産やドイツ産だけでなく、地元ベルギーワインもあります。
    もともとこの都市は、初代フランドル伯(Comte de Flandre)のボードゥアン1世による城塞建築から始まったといわれます。
    現在のベルギー北部やフランス北部のフランドル地方は、843年のヴェルダン条約によりフランク王国分裂後の中フランク王国に属していました。しかし870年のメルセン条約では西フランク王国の領土となりました。ただこれは、東西フランク王国の緩衝地帯という役割を担うことにもなったのです。
    フランドル伯の3代目はアルヌルフ1世で、この時代にブルージュは城塞を強化し、聖ドナティアン教会や聖サルヴァトール教会も建てられました。

     

    運河の街となったのは12世紀の津波の影響でした。
    ブルージュは海辺の街でなく、海からは10km以上も離れていたにも関わらず、津波が街を襲ったのでした。
    都市の復興に際し、洪水で水のたまった溝を運河として、都市の再構築をしたのです。ズウィン湾と続く水路を整備し、さらに町中へと水路を張り巡らせたました。北海に出るのも船でそのまま行けるようになり、交易に最適な都市となっていきました。
    運河の都市となってからは交易が盛んになり、街は大きく発展していきました。13世紀にはハンザ同盟の在外商館が設置され、貿易だけでなく金融でも拠点都市として繁栄しました。
    この繁栄は、教会や貴族などの権威に支配されていた時代にあって、市民による鐘楼を建てたことが注目すべきことでした。支配される側が、自身の力で市場の開始の時刻を告げることから、その後の資本主義への移行に関係するという見方ができたのです。

     

    そして何よりブルージュは、『死都ブリュージュ』です。
    ジョルジュ・ローデンバックによる小説で、港湾施設の機能が失われ、衰退期にあったブリュージュが舞台となっています。
    この小説では、ユーグ・ヴィアーヌが妻を失い、死の雰囲気を湛えたブルージュに移り住んで来ました。そんな彼が、ブルージュの街で妻と瓜二つのジャーヌという女性を見つけました。ユーグはジャーヌに夢中になり、交際するようになりました。
    しかし、妻とは異なるジャーヌの醜い性格、さらに情欲に溺れて行く自分、そんな苦悩をするようになりました。そんなある日、ユーグはジャーヌを自宅に招き入れることになりました。ところが、彼女は彼の大切な妻の遺品をもてあそんだり、妻を冒涜までしました。
    ユーグは激昂し、ジャーヌが首に巻き付けていた遺髪を取り返そうとして、誤ってジャーヌを絞め殺してしまったのです。
    主人公は過失致死を犯したユーグ・ヴィアーヌではありますが、実はブリュージュという都市そのものが主人公というものでした。
    この作品はオペラにもなりました。

     

    港湾施設が機能しなくなり、衰退期になったのは15世紀以降のことでしたが、この「死都」を経験したことから、のちに運河を再生したときに中世の面影を残した町並みが残されていたともいえます。
    今、改めてこのブログでブルージュを取り上げ、やはり一度は行きたいと思ってしまいました。

     

  • テューリンゲン紀行4(Erfurt)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今はなきドイツ民主共和国のテューリンゲンを横断した思い出の4回めです。大学都市のイルメナウ (Ilmenau)から、いよいよエアフルトへと行きます。

     

     

    イルメナウ (Ilmenau)からは一直線にエアフルト(Erfurt)へと向かいました。
    現在のテューリンゲン州の州都ですが、この時代、つまり東ドイツ時代はエアフルト県の県都でした。
    ドイツらしい平野が広がった先、南側のテューリンゲンの森に入る場所になだらかな丘陵地帯があります。エアフルトはその丘陵地帯に開けた都市です。
    小さな都市から来ると、市域が広い場所に来た感じがしますが、西側と違って街が暗く、都市の華やかさとは無縁な感じがします。道路の案内表示も暗くて、少し陽が傾いたときに市街地に入ったことで、迷子になりました。
    アウトバーンからアイゼナッハ通りに入り、東に進んでゴータアー通り、突き当りでフリーデンス通りに行けなくて、ハインリヒ通りに行ったのは良かったものの、そこから市街地中心部にどのように走ったのか分からなくなりました。トラバントやトラックの中に、時々、メルセデスやアウディ、VW、BMWも見かけるものの、やはり地元のクルマが多いようでした。

     

    エアフルトというとクレーマー橋(Krämerbrücke)が有名ですが、どこをどう行けば近づけるのかがわかりませんでした。
    この橋はフィレンツェのヴェッキオ橋と並ぶ欧州を代表する歩行者用の橋で、橋梁の両側に多数の店舗が並んでいるものです。東側のヴェーニガーマルクト (Wenigemarkt) と西側のベネディクト広場 (Benediktsplatz) を結んだ橋です。1100年頃には木造で建造されたようで、1325年になって現在の原型の橋になったといいます。
    そんなクレーマー橋に行こうという気持ちはすぐに失せ、東ドイツの暗い街は、観光に適していないのがよくわかったので、適当にクルマを停めて、適当な場所を散策するしかないと気持ちを切り替えました。

     

    宗教改革で知られるマルティン・ルターゆかりの都市ということもあり、とりあえずルターがかつて過ごした街の空気を吸うことだけで満足することにしました。迷子のまま走り続けます。
    宗教都市という側面でいえば、エアフルトには教会と修道院礼拝堂が70以上もあるそうです。その中で代表的なのが大聖堂(Erfurter Domberg)といえるでしょう。他のドイツの都市のように平らなマルクト広場に市庁舎と並んで建つわけではなく、小高い丘の上に建っているので、より巨大に見えます。しかもドイツ・ゴシック建築の傑作ともいわれるだけあって、圧倒的な存在感があります。
    現在は夜にはライトアップされるようですが、このときは偶々なのか、それとも東ドイツの時代だったからなのか、薄暮の状態で暗いままでした。
    あとで聞いたところによると、内観も圧倒されるほど見ごたえがあるとのことでした。ステンドグラス、等身大の十二使徒像、祭壇など、キリスト教の荘厳さが際立ているとのことでした。
    迷子で走り回りながら、比較的近くに行くことができましたが、駐車場が見つからなかったので、クルマから見るだけだったのは何とも残念でした。

     

    大聖堂前のドーム通りからペーター通りに進むと、大聖堂の裏側に佇むセヴェリ教会があります。3本の尖塔が印象的な教会で、屋根も何とも特徴的です。大聖堂と並んでいるので、一体化しているようでもあり、それぞれの個性を主張しているようでもあります。
    大聖堂とセヴェリ教会が織りなす光景については、マルティン・ルターが「塔多きエアフルト」と称えたといいます。それだけこの都市のシンボルとなっているようです。
    ただし、まともに観光したら、さらに実感したかと思うと、何とも残念です。

     

    ちなみに行けませんでしたが、エアフルトには中央ヨーロッパ最古のシナゴーグがあります。
    ナチスによるユダヤ人迫害を経て、ユダヤ教の施設であるシナゴーグが残っているのは、何とも感慨深いものがあります。エアフルトのシナゴーグはかつての姿をそのまま維持しているようなので、歴史的に貴重といえます。今では観光客にも人気のスポットだといいます。

     

    とにかく、初めてのエアフルト訪問は、観光に来たのに観光できず、道は暗くて迷子になり、ろくな思い出がありません。
    再訪してリベンジしたい都市、ナンバーワンです。

  • イタリア・ワインへの影響は?

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はイタリア・ワインと新型コロナウイルスの影響について勝手に語ります。

     

     

    新型コロナウイルスの感染拡大は、わが国のワイン業界にも影響を及ぼしています。
    プレゼント専門ワインのシエル・エ・ヴァンは、贈答用ワインということで大きな影響はないものの、ワインの卸販売業では、ウイルス拡大以降、外食の急速な冷え込みに伴って、業務用のワイン販売が鈍っているようです。イベント自粛だけでなく、外食についても控える傾向が加速したことで、大きな打撃となっています。
    その一方で、外食ではなく、ワインを家で飲むという需要は高まり、こちらはプラスの影響も出ているようです。
    ただし、どちらにも今後大きく影響する可能性が高いのは、ヨーロッパからのワインの輸入です。
    特に世界最大のワイン生産を誇るイタリアでは、感染拡大が深刻化していることで、ワインの輸入停滞が懸念されます。

     

    パルマ市で開催されるイタリア最大の国際総合食品展示会CIBUSも、延期となりました。5月の予定が9月に延期されたのです。
    ヴェローナ市のイタリア最大のワイン見本市Vinitaly展、同時開催のSol&Agrifood展、Enolitech展も4月開催が6月に延期されました。
    日欧EPA発効で関税が撤廃されたワインだけでなく、他のイタリア食品も増加傾向だったため、日本の食品関係者にとっては、展示会延期により大事な商談機会がずれ込んだことになりました。
    しかもイタリアでは、全土で個人の移動制限まで発動されていることで、イタリアのワインも日本に輸出する数が少なくなるのは目に見えています。

     

    日本でも外務省は、コロナウイルスの感染が広がる地域における感染症危険情報を出していて、イタリアにもレベル3(渡航は止めてくださ:渡航中止勧告)や、レベル2(不要不急の渡航は止めてください)に指定している地域があります。
    今後の動向に注目し、注意していくことが重要です。

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