今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • ザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)の少女

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ここで取り上げる都市や地域は比較的マイナーなところが多いですが、今回もザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)という地味な都市をご案内します。
    勝手に語るのはいつもと一緒ですが、今回は過去の思い出です。

     

     

    東西ドイツの通貨統合が行われ、いよいよ念願の再統一を迎えようとしているとき、フランクフルトからウィーンへ向かってアウトバーンを疾走していました。
    オーストリアに入ってからも快調に飛ばし、メルクでドナウ川から離れると、少し疲労を感じてきました。このままのペースだと夕方の6時前にはウィーンに到着できそうです。ただ、約束している相手と会うのは翌日の昼なので、急ぐ必要もありません。このままアウトバーンを走る意味はないといえます。
    そこで適当な場所で宿泊しようかと思い、ザンクト・ペルテンの南インターでオーストリア国道20号線に出て、北上しました。この周辺は日本でも高速道路のインター近くの光景と同じような雰囲気です。いわゆる都市の郊外らしい景色です。
    ザンクト・ペルテンはかつて城壁で囲まれていたであろう場所が環状線のような道路となっていて、ザンクト・ペルテン=ラント郡の郡庁所在地らしい町並みを誇っていました。ただし、オーストリアはウィーンを除けば大都市といえるものはないので、ここも人口5万人程度しかありません。

     

    東に約56km進めばウィーンという場所です。
    明日、ゆっくりとウィーンに向かうには最適な位置ともいえます。
    宿泊先はどこでも良かったのですが、探すのが面倒だったので、ユースホステルにしました。駐車場もあったので、ここで十分です。
    夏らしく、世界各国から集まった旅行者が宿泊しているようです。それでもベッドに空きはあったので、問題なくチェックインしました。
    夏のヨーロッパのユースホステルでは、バックパッカーなどが多く、馴染みのない国の人々もいるので結構面白いので好きです。
    特にアメリカ人はよく見かけ、どこに行っても英語でしか話さないので、よく分かります。他のヨーロッパ諸国の旅行者は多言語を話すので、アメリカ人とは対照的です。
    ちなみに自分はドイツ語だけを使います。

     

    チェックイン後は、街中を散策しました。
    大聖堂はバロック風で、実は初期ゴシック様式を改装したもののようでした。それ以外にも街はバロック建築が多く、小さな街は落ち着いた印象があります。
    ザンクト・ペルテンの駅は思ったより立派で、駅前から南へ向かう通りは歩行者天国のクレムサー・ガッセ(Kremser Gasse)が延びています。
    リンツァー通り(Linzerstr.)にはピンク色の教会がありました。英国婦人教会(Institut der Englischen Fräulein)だそうです。リンツァー通りを北側に曲がっていった先はプランタウアー通り(Prandtauerstr.)で、市立博物館(Stadtmuseun St. Pölten)がありました。カルメル会修道院の建物を改装した施設だそうです。
    市庁舎(Stadtgemeinde St. Pölten – Rathaus)と市庁舎広場(Rathausplatz)などは賑わいがありましたが、夕方になると観光客らしい姿もなくなり、酒場も地元の人で賑わっているようでした。
    そんな場所で食事をし、ビールを飲み、ほろ酔い加減で宿に戻りました。シャワーを浴び、ロビーに戻ると、世界各国の人種で賑わっていました。夜に出歩くところのない小さな都市のユースホステルでは、よく見かける光景です。
    空いた椅子があったので、そこに腰掛けました。
    すると、

     

    女性棟の方向から、親子連れがやって来ました。
    母親らしき女性と、その娘らしい少女です。
    別に気にするような光景ではありませんでしたが、その少女は見事な赤毛で、目鼻立ちがフランス人形の印象でした。思わず凝視してしまいました。
    見慣れた親子連れではあるものの、その少女の人間離れした姿が、かなりのインパクトがありました。表情筋の動きが乏しいのか、人間らしさより人形のような雰囲気が目立っていました。
    人形のように美しい、という表現は褒め言葉になるかもしれませんが、表情が乏しいことで、人間らしさがないことで、人形のようとなると、明らかに褒め言葉ではなくなります。でもまさにその少女は、そのような雰囲気を持っていたのです。
    年齢はおそらく日本の小学校高学年に相当するかもしれませんが、見た感じは年齢不詳でした。ロリコンではないので、単純に驚いただけでしたが、人形が表情を変えずに、それでいて無邪気に喋っているかのように見えました。何とも不思議な光景です。
    その親子が他の人と話しているのを見ていると、どうやらフランス語のようでした。フランス人形の印象の少女にはこれ以上にふさわしい言語はありません。
    周囲の人たちの視線も少女に注がれている気もしました。

     

    実は30年たった今でも、この少女の印象は強烈に残っています。
    会話したわけでもなく、たまたま宿泊することになったザンクト・ペルテンのユースホステルで見かけただけの思い出ですが、ここまで強烈に焼き付いている少女の姿はありません。
    あまりフランス人とは交流もないし、フランスに思い入れもありません。このときの少女の姿だけが思い出にあるのも意味がありません。だからどうした、という話です。
    ただ、ザンクト・ペルテンの思い出には、街中のバロック様式の建物より、あの少女が表情を変化させずに美しい顔のまま行動している姿が最も記憶に残っています。

     

  • ミケーネ文明とワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミケーネ文明とワインについて勝手に語ります。

     

     

    ワインがギリシアに伝わったのは、紀元前2000年頃といわれています。
    紀元前1500年頃になると、エーゲ海の島々にまで広まり、ギリシア世界で一般化していきました。
    ブドウ栽培やワイン醸造の技術についても、ギリシアで確立されていきました。
    紀元前1400年頃に栄えたミケーネ文明では、アガメムノン王が統治した場所から、黄金のマスクとともに金製のワインカップが出土しています。

     

    このミケーネ文明は、最盛期はエーゲ海周辺の地域に大きな影響を与えるものでした。
    アカイア人がギリシア本土に形成した文明で、クレタ文明を滅ぼしました。その一方で、建築や芸術、宗教など、文化的な部分をクレタ文明から受け継いでいきました。
    地中海交易によって発展していき、ワインも貴重な輸出品だったようです。

     

    20世紀に、ミケーネ遺跡から大量の線文字B(ミケーネ文字)資料が発見されました。イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズによる発掘でした。
    ここで発見された線文字Bは現代のギリシアでは忘れ去られていたもので、最初はクレタ文明発祥のものと考えられていましたが、のちにピュロス王宮で線文字Bの刻まれた粘土版が発見されたここで、ミケーネ文明で使われたものであることが判明しました。
    1953年には、イギリスのヴェントリスによって解読に成功し、その結果、ミケーネ文明時代の社会生活がかなり明らかになってきました。ミケーネの王の権力は専制的で、税を納める貢納王政だっったことが分かりました。

     

    ミケーネ文明の建築は特徴的で、巨石を用いたものがありました。円頂墓もつくられました。
    また、堅牢な城壁などがつくられ、外敵に対する備えも行っていました。
    またメガロンと呼ばれる室内空間がつくられ、特権的な空間を構成する建築物もありました。この場合は中庭は単なる付属物という扱いとなり、ミノア文明が中庭を動線の基軸としたのとは対照的でした。

     

    実はミケーネ文明の最大の謎は、滅亡した理由です。
    紀元前1150年頃に終焉を迎えました。東地中海世界全体で民族移動が起こり、「海の民」と呼ばれる人々がミケーネに侵攻しました。しかし、これで文明そのものが大量に消失してしまうほどだったとは考えづらく、イメージ的には突如として文明が消えたという表現がしっくりきます。
    ミケーネ文字(線文字B)も消え去りました。
    紀元前1200年頃から紀元前800年頃の時期は、青銅器文明から鉄器文明への移行期といわれ、ギリシア地域の文明の転換期であったともいわれます。青銅器文明だったミケーネ文明はその過渡期の影響を受け、徐々に衰退する背景があったともいわれています。しかし、突如として消え去った印象とは異なることから、やはり謎なのです。

     

  • ケーニヒスベルク(Königsberg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はケーニヒスベルク(Königsberg)について勝手に語ります。

     

     

    かつて東プロイセン(Ostpreußen)の首都だったケーニヒスベルクは、現在ロシアの飛地になっていて、都市名もカリーニングラード(Калининград)です。
    ドイツ語で「王の山」という意味をもつケーニヒスベルクは、中世後期にドイツ騎士団によって建設された都市で、のちにプロイセン(Preußen)最大の都市となり、なおかつ最大の港にまで発展しました。
    このプロイセンこそ、ドイツを統一し、ドイツ帝国の中核となったプロイセン王国(Königreich Preußen)の名称です。そのため、ケーニヒスベルクがロシアの飛び地となっているのは、ドイツ人からすれば何とも複雑な気持ちになるかもしれません。
    ただ、プロイセンという地域は、ポーランドとリトアニアに隣接した場所で、ヴァイクセル川で東プロイセンと西プロイセンに分けられていて、ケーニヒスベルクは東プロイセンの中心都市でした。
    1772年のポーランド分割によりプロイセン王国の領土となりましたが、第一次大戦後のヴェルサイユ条約により西プロイセンのほとんどはポーランド領になってしまいました。そのため、東プロイセンはドイツの飛地になってしまったのです。
    再び全地域がドイツ領となったのが第二次世界大戦のポーランド侵攻によるものでした。しかし、これもドイツの敗戦により西プロイセンがポーランド領に、東プロイセンがソ連領になりました。

     

    ソ連のカリーニングラードになってからは軍事都市となり、外国人の立ち入りが規制されるようになりました。それはソ連にとって重要な不凍港だったことが関係します。
    冷戦が終わり、ソ連崩壊によりリトアニアが独立することになると、ロシア領土の間にリトアニアが挟まれることになり、カリーニングラードがロシアの飛地となってしまいました。
    ちなみにウラジーミル・プーチン大統領と離婚した元夫人のリュドミラはカリーニングラード出身でした。

     

    ドイツの飛地からロシアの飛地となり、ケーニヒスベルクからカリーニングラードとなったこの都市は、文化的には様々な著名人も関係してきました。
    例えば哲学者のカントはケーニヒスベルク大学に学んでいました。1770年には形而上学の教授となり、『純粋理性批判』や『人倫の形而上学』を発表しました。
    18世紀の数学者・天文学者だったレオンハルト・オイラー(Leonhard Euler)は、ケーニヒスベルクの七つの橋問題などでも知られます。
    これは一筆書きの問題です。

     

    「東プロイセンの首都ケーニヒスベルクの中心部には、プレーゲル川という大きな川が流れていて、七つの橋が架けられています。プレーゲル川に架かっている7つの橋を2度通らずに、全て渡って、元の所に帰ってくることができるでしょうか。ただし、どこから出発してもよい。果たして、これは可能であろうか? 」

     

    1736年にレオンハルト・オイラーによって、ケーニヒスベルクの橋を全て1度ずつ通って戻ってくるルートが存在するとしました。ただし、オイラーは、これは一筆書きできないことを証明し、ケーニヒスベルクの問題を否定的に解決したことになりました。
    このような問題は、ワインでも飲みながらじっくりと考察してみたいものです。飛地という運命を背負った都市にある一筆書きという問題には、ワインが似合います。

     

  • 八塩折之酒

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は八塩折之酒について勝手に語ります。

     

     

    「日本書紀」や「古事記」に登場する酒に「八塩折之酒」があります。
    須佐之男命が八岐大蛇を退治する際に、この八塩折之酒を飲ませ、酔い潰れたところで斬りかかるという有名なストーリーです。八岐大蛇は文字通り八つの頭があっため、八塩折之酒も八つに分けて置きました。

     

    この酒ですが、どうやら日本酒ではないようです。
    と、いうのも、「日本書紀」には「衆菓釀酒八甕」という一文があり、「衆菓」、つまり多くの果実を、「釀酒」、醸造した酒ということですから、果実がブドウならワインであっても不思議ではないことになります。
    ただし、ブドウは「古事記」で登場したときには、「蒲子(えびかずらのみ、えびかずら)」と表現されて登場していますが、山ブドウだったかもしれません。
    これは伊邪那岐命が黄泉の国から逃げるときに投げつけたシーンで登場しています。

     

    「古事記」には当然ながらワインは登場しませんが、古代イスラエルとの関係について多くの人が指摘していますので、もしかしたら八塩折之酒がワインだったかもしれません。
    もちろん、歴史学的には荒唐無稽な話かもしれませんが、古代ユダヤと日本の関係を「古事記」の面から見ていくのもおもしろい気がします。
    たとえば、紀元前8世紀頃のイスラエルの預言者であるイザヤがいます。「古事記」では日本の生みの親であるイザナギ、イザナミがいて、これは古代ヘブライではイザヤの子と言う意味だそうです。ギは「男」、ミは「女」を意味するそうです。
    また初代天皇の神武天皇は、「古事記」では「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ミコト」で、ヘブライ語で翻訳すると「カム」は「人の上に立つ」、「ヤマト」は「ヤハウエの神の子」、「イワレ」はユダヤ人、「ビコ」は「最初の子」、「ミコ」は「高貴な人」となるそうです。

     

    眉唾な説の気もしますが、実は古代とはいえ、東西の文化は現代の我々が想像する以上にあらゆる地域に伝播していたようです。
    日本の創生神話でも、古代イスラエルというよりシュメール文明の創世神話との関連性がつよく、というより酷似している部分があったります。
    そういう意味で、「古事記」も「日本書紀」も東西を問わず、太古の伝説を取り入れた力作ということになるのかもしれません。

     

    ちなみにですが、「古事記」の編纂人は太安万侶です。生誕不詳で、官位は従四位下・民部卿、贈従三位です。
    かつては太安万侶は架空の人物ではないかとも言われていました。それが1979年(昭和54年)1月18日、当時61才の男性が茶畑で鍬に何かが当たりました。そこを掘ってみると、そこが太安万侶の墓だったのです。その墓からは火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土しました。世紀の大発見といわれたのはいうまでもありません。
    現在でもその地は茶畑や田に囲まれたのどかな場所で、大発見の場所のわりには有名とはいえません。
    でもそれこそが古代ロマンにつながるのかもしれません。

     

    今宵は「古事記」を読みながらワインを飲みましょうか。

     

  • なぜフランスはワイン大国なのか?

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はなぜフランスはワイン大国なのかについて勝手に語ります。

     

     

    やはりフランスの酒と言えばワインのイメージが強いでしょう。
    お隣のドイツだとビールというイメージになるかと思います。
    実際に一人当たりのワインとビールの消費量を調べてみると、ドイツ、日本、アメリカはビールが圧倒的に消費量が多く、フランスはビールよりワインが消費量が多いということが分かりました。
    でも、フランスの母体となったのは、ゲルマン系のフランク族によるフランク王国なのです。つまりドイツと同じで、特に8世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)により、現在のフランス、ドイツ、イタリアまで及ぶ巨大な国ができあがったのです。そのカール大帝といえばビール好きで知られています。
    ビールが好きなゲルマン人の国にあって、カール大帝こそがビールを振興していきました。必然的に現在のフランスでもワインよりビールが好まれて当然の状況でした。

     

    ただ、現在のフランスがある地域をフランク王国より前まで遡ると、ガリアと呼ばれていた時代には、ガリア人やケルト人の居住地域でした。そこへローマ帝国が侵入し、属州となりました。
    すでにキリスト教が国教となっていたローマでは、ワインは「キリストの血」として重要なものとなり、ガリアでもキリスト教とともにワイン文化が浸透していきました。
    ブドウ栽培も始まり、フランスでワイン生産をするのは当然のことになっていました。
    もし、このままガリア人によって独立した国家が形成されれば、ビール好きのゲルマン人とは異なる文化圏として、現在のようにワイン大国となったとしても不思議ではありませんでした。

     

    ところがビールを好むゲルマン系によってフランク王国が成立したことで、状況が一転してしまったわけです。必然的にワインの生産量が激減し、ワイン文化も廃れていくかのように思えました。
    ただ、フランク王国とはゲルマン人の国であることは間違いないものの、ガリア地域に入植してきたゲルマン人の数は少なかったといいます。いわば統治を行うのがゲルマン人で、実際に居住する一般の人々はガリア人だったのです。そのためガリア地域でのゲルマン人の人口比率としては、わずか5%程度だったのではないかとも言われています。
    つまりゲルマン系の国家とはいっても、ガリア地域、現在のフランスでは、ラテン系でワイン好きなガリア人が居住する地域であることには変わりなく、支配者層にビール好きなゲルマン人がごくわずかにいるという構造だったのです。

     

    そこでカール大帝です。
    実はカール大帝は、ビールを振興していくことを進めていく一方で、荒廃したブドウ園も立て直し、ワインの醸造についても奨励していたのです。これはゲルマン人の文化としてのビール振興とともに、現地のガリア人に対してはワイン復興も進めていたのです。人心掌握術的政策の一つかもしれませんが、これによりフランク王国は最盛期を築いたのです。
    このカール大帝により、ガリア地域ではワイン文化が復活しました。のちにフランク王国が分裂し、フランスとなっても、そのワイン文化は続きました。ローマ帝国以来のワイン文化がそのまま継続した国である以上、フランスはワイン大国であり続けることが当然の帰結なのかもしれません。
    一方で、同じフランク王国でも、居住者もゲルマン人が中心だった現在のドイツなどでは、そのままビール文化が継続しているといえるわけです。
    カール大帝はまた、国内の諸民族の独自性とは反対に、キリスト教による共通の世界観を構成しました。例えワインとビールという文化的な差異があろうとも、酒類の文化としては共有し、各民族に共属意識をもたらすことにしました。ただ、これは、カール大帝というカリスマ性や政治力によるものであって、個々民族に一体的な法規や制度にまでは至りませんでした。

     

    カール大帝の死去後、ヴェルダン条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国に分かれました。この中で西フランク王国が現在のフランスとなり、東フランク王国が現在のドイツとなりました。
    これでワイン文化とビール文化の国が分かれ、わかりやすくなったともいえます。

     

    このような視点で歴史を見ていくのも楽しいかもしれません。

  • ハルシュタット文化とワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はハルシュタット文化について勝手に語ります。

     

     

    ルートヴィヒ・マクシミリアン大学(Ludwig-Maximilians-Universitaet )とテュービンゲン大学(University of Tübingen)の合同研究により、古代ケルト人がワインやビールを祝祭日に飲んでいたことを明らかにしました。
    時期的にはハルシュタット文化の時代です。
    これは紀元前12世紀以降の青銅器時代後期から紀元前6世紀の鉄器時代初期までの時代で、中央ヨーロッパにあった文化です。
    古代ケルト人によるものですが、実はケルト人というのは単一民族ではありません。インド・ヨーロッパ語族で、ケルト語系の言語の人々を総称したものです。しかも「ケルト」は古代ギリシャ語の「Keltoi」に由来するもので、意味としては「異邦人」という意味ですが、実は「野蛮人」の意味もあるようです。
    現在はケルト語系の言語は、アイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズなどの英国周辺とフランスのブルターニュなどに現存していますが、日常的に使用している人はほとんどいないといわれます。

     

    「ハルシュタット文化」というのは、19世紀にヨハン・ゲオルク・ラムザウアーによって、オーストリアのハルシュタット近郊で、先史時代の地下墓地から多くの副葬品を発掘したことに由来しています。
    ハルシュタットでは共同体として生活し、この地域にある岩塩鉱山から岩塩を採掘していたようでした。ケルト語の「halen」や「hall」「halle」は塩を意味する言葉で、塩は調味料だけでなく、保存料でもあり、また重要な交易品でもありました。
    ハルシュタット文化はハルシュタットのあるオーストリアだけでなく、ドイツ南部、スイス、イタリア北部、フランス東部などまで広がる西文化圏と、スロヴァキア、ハンガリー西部、ルーマニア西部、クロアチア、スロヴェニア、チェコなどに広がる東文化圏に分かれていました。
    交易は地中海世界と行い、特に塩や農産物が数多く輸出され、ワインなどが輸入されました。

     

    そんなハルシュタット文化を代表する遺跡がフランスにあります。
    「ヴィクスの女王」の墓です。ブルゴーニュ地方コート・ドール県のセーヌ川流域ラソワ山の麓の町にあるヴィクスにあった遺跡です。
    紀元前600年頃の墓で、安置されていたのは推定年齢が30代半ばから40歳前後の女性でした。「女王」といわれているのは、黄金の冠をかぶり、首飾りや腕輪などを身につけていたからです。
    副葬品も多く、その中にワイン壺などが含まれていました。

     

    ルートヴィヒ・マクシミリアン大学とテュービンゲン大学の合同研究チームは、この「ヴィクスの女王」遺跡で発掘されたものを分析しました。分析したのは、ギリシアから輸入された陶器や青銅製の容器、陶製の飲用容器、さらには貯蔵や輸送のために使われた瓶などでした。
    その結果、オリーブオイル、牛乳、ワインや、地元生産と思われるアルコール飲料の成分などとともに、キビと蜂蜜の痕跡を見つけました。これにより、ワインだけでなく、キビや大麦から醸造されたビールが飲まれていたことが分かったとしています。特に祝祭日に消費されていたといいます。
    さらに輸入したワインを飲んでいたのは社会的上層部に限られていたわけではなく、職人たちもワインを飲んでいた可能性が高いことが示唆されました。

     

    現在ではフランスといえばワインの生産が切り離せないものになっています。
    しかし古代ケルト人のハルシュタット文化では、自ら生産するわけではなく、地中海世界との交易で、塩の代わりに輸入されたワインが中心だったということになります。
    興味深い話に感じました。

     

  • ブダペスト紀行 5(Mátyás-templom)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行5回目です。
    王宮の丘のマーチャーシュ聖堂(Mátyás-templom)へと向かいました。

     

     

    昼食後、マーチャーシュ聖堂の前に立ちました。平日にも関わらず、かなり多い観光客で賑わっていました。
    ここは独特な色彩を帯びた屋根に二つの塔を備えた教会で、まさにブダのシンボル的な教会です。
    二つの塔には名前があり、正面から見て左が「ベーラの塔」で、高さが約36メートル、右が「マーチャーシュの塔」で高さは約80メートルあります。
    屋根は、ハンガリー三大陶磁器とされているジョルナイのタイルが使われています。ウィーンのシュテファン寺院にも使われているものです。

     

    マーチャーシュとはマーチャーシュ1世の名前が由来で、ハンガリー帝国が繁栄した時代を齎した人物です。この聖堂で戴冠式を行い、結婚式もここで2回行いました。さらにマーチャーシュ1世により大々的に改修されました。
    最初に建設されたのは13世紀半ばのことで、ベーラ4世によるものでした。ゴシック様式の教会で、ブダ城内に建てられました。このときに「聖母マリア聖堂」と名付けられました。
    15世紀のマーチャーシュ1世による改修では、南の塔が加えられたり、大きな増築を行いました。

     

    そんなハンガリー帝国の城内にある聖堂ですが、1541年からオスマン帝国に支配されてしまいました。
    それは145年間にも及びました。
    聖堂内の宝物がオスマン帝国に奪われることを恐れ、多くの宝物はブラチスラヴァへと移されました。現在はスロバキアの首都ですが、1536年から1784年まではハンガリー王国の首都でもあったからです。
    そしてオスマン帝国による占領となり、聖堂はイスラムのモスクとなってしまったのです。豪華な天井のフレスコ画は塗りつぶさてしまいました。

     

    オスマン帝国からの奪還は、「聖母マリアの奇跡」により成し遂げられました。
    オスマン帝国に対して神聖同盟のポーランド・リトアニア共和国とハプスブルク帝国がブダを包囲し、大トルコ戦争(Great Turkish War)によって、聖堂が攻撃されました。
    このとき、モスクではイスラムの祈りが行われていましたが、破壊されたモスクの壁から古いマリア像が現れました。突如、出現したマリア像に驚愕し、オスマン帝国の駐屯軍の士気が落ち、神聖同盟側の攻撃に抵抗できなかったというものです。

     

    ようやくオスマン帝国支配から脱したことで、モスクと化した聖堂を復旧させることとしました。
    これには長い時間を要し、現在の聖堂は19世紀になってからで、建築家のフリジェシュ・シュレクにより改修が行われました。壮麗な姿を取り戻そうという動きに呼応して、13世紀の設計図を基にして、新たな要素も加えつつゴシック様式になりました。

     

    復活したマーチャーシュ聖堂に一歩中に入ると、そこはもう異質な空間となっています。
    数多くのヨーロッパの教会を見てきましたが、ここの美しさは圧倒される規模です。荘厳なカトリック教会の静謐さとは明らかに異なり、色彩豊かな文様が広がり、柱、壁、天井など、聖堂内のすべてに装飾が施されている感じです。まさに圧巻です。
    鐘楼にあったものを移動し、周囲をフレスコ画で飾ったマーチャーシュ王の紋章には、王冠の下の盾に二重十字があります。これに3つのライオンの首、1頭のライオンがあり、指輪を加えたカラスなどが描かれています。これは、アルパード朝、ダルマティア、ボヘミア、フニャディ家を表現しているそうです。

     

    この聖堂見学の一番の欠点は観光客の多さでした。
    とにかく人が多い。
    日本人にはメジャーではないかもしれませんが、世界的には人気の観光地だということがよく分かりました。

     

     

  • ストラスブール病院のワイン(Cave des Hospices Strasbourg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はストラスブール病院のワイン(Cave des Hospices Strasbourg)について勝手に語ります。

     

     

    フランス北東部にあり、ライン川の左岸に広がる人口28万人のストラスブールは、かつては神聖ローマ帝国の都市でした。そのため、都市名の語源もドイツ語で「Straßen」と「Burg」で、いわば街道の城塞都市という意味になります。
    ドイツとフランス双方がこの地域の領有権を争った歴史があり、現在は政治的にはフランスであるものの、言語や文化はドイツ系という入り組んだ都市でもあります。
    従ってストラスブールの歴史は、フランスとドイツというふたつの国の歴史と大きく関係しています。

     

    フランスとドイツが混濁したアルザス

     

    最初に歴史に登場するのはローマ帝国の時代でした。
    ローマ帝国とゲルマニア(Germania)との国境がライン川だったことから、ローマ人によって、ここにアルゲントラトゥム(Argentoratum)とよばれる都市が築かれました。キリスト教も入ってきて、4世紀には司教座がおかれました。
    しかし、 東ヨーロッパの遊牧民だったフン族(Hun)により、都市が破壊されてしまいました。455年でした。
    のちにゲルマン人の部族であるフランク族(Franken)が入ってきて、都市を再建していき、そのままフランク王国の領土となりました。
    神聖ローマ帝国となってからは、カトリック教会がシュトラースブルク(ストラスブール)司教座を新たに設置しました。ローマ帝国時代と同じように設置されたことで、カトリック教会の教区の中心となる都市になりました。商業的には毛織物業が発展しました。
    また、地理的に交通の要衝でもあったことから、シュトラースブルクは都市として発展していきました。さらに1262年には自由都市になりました。

     

    1523年には市内にプロテスタントの教会もできて、カトリックとプロテスタントが並立する都市となりました。
    しかしヨーロッパを悲劇に陥れた三十年戦争に巻き込まれ、単なるカトリックとプロテスタントの宗教戦争ではなく、フランス王ルイ14世の膨張政策により、アルザス=ロレーヌ地方がフランス領土となりました。1697年のレイスウェイク条約により正式にフランス領となり、都市の読み方もシュトラースブルクをフランス語風にして、ストラスブールとなりました。

     

    このままフランス領として現在まで続いていたわけではなく、1871年には普仏戦争でプロイセンが勝利したことで、アルザス=ロレーヌ地方はプロイセン(ドイツ帝国)の領土に戻りました。
    これが再びフランス領になったのは、1919年に第一次世界大戦でフランスが勝利したことによります。
    次にドイツ領になったのは、第二次世界大戦中で1940年でした。
    しかしフランスを含めた連合国が1944年に奪還し、その後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、ヨーロッパの多くの国際機関が置かれる都市となりました。

     

    ドイツとフランスというふたつの異なる歴史が交差した都市らしく、例えばパンでもフランス風やドイツ風などが日常的に食べられ、ドイツのワイン文化に近いアルザスワインがフランス風に飲まれたりしています。
    そんなストラスブールの町中にある病院にワイナリーがあります。
    Cave des Hospices Strasbourg」です。
    なんと病院の地下にワインが置かれ、販売もされているのです。街中の病院の地下にワインがあるなど、想像しにくいことかもしれませんが、500年以上の歴史があるそうです。
    戦火の激しかった街にある病院らしく、かつて兵隊が通った地下道や、学生が研究することを目的として使われていた解剖室などもあります。

     

     

    ヨーロッパの歴史を象徴する都市として、ドイツとフランスに翻弄された歴史を持つストラスブールは、観光都市としも魅力があります。
    ドイツ側からならライン川を渡った先、フランス側からならドイツへ入国する手前の都市ですが、ワインを目的に行くのも良いかもしれません。

     

  • エリトリア (Eritrea)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエリトリア (Eritrea)について勝手に語ります。

     

     

    スーダン、エチオピア、ジブチと国境を接するエリトリアですが、北側は紅海に面していて、海岸線の長さは1350km以上にまで及んでいます。対岸にはサウジアラビアとイエメンがあります。
    アフリカの小さな国で、日本人では知らない人のほうが多いと思います。まして、ワインなど生産されているのか、全く想像もできないかもしれません。
    しかし、農業国のエリトリアは、食文化も華やかで、ビールやワインを楽しむ文化があります。

     

    その一方で、「アフリカの北朝鮮」と揶揄されることも多く、国際的な難民問題も引き起こしています。
    Wikipediaで調べてみると、2014年までに約35万人以上が国外へ脱出したとなっています。しかも、現在でも毎月5000人近くの国民が脱出しているそうです。
    政府としては北朝鮮ではなく、「アフリカのシンガポール」というスローガンを掲げているものの、現実とのギャップが激しいようです。
    イサイアス・アフェウェルキ大統領は中国に留学したことで、毛沢東の思想に影響を受け、軍事関連の知識も学んできました。当然のように一党独裁制になっています。

     

    首都はアスマラ(Asmara)で、標高2350mという高地にあります。そのため、アフリカとはいえ年間平均気温が17℃と快適で、1年を通して穏やかで快適な気候です。
    もともと商業・交易で栄えていましたが、首都となったのは1897年で、その後イタリア領となりました。
    イタリアのアフリカ大陸進出の要として、イタリア首相だったムッソリーニにより「第二のローマ」として開発されてきました。そんな影響もあって、イタリア・アールデコ建築や未来派建築が世界有数の規模で残されています。年代的には1920~1930年代の建築物です。現在では「アスマラ :アフリカのモダニズム都市」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。
    またこの時代はイタリア人移民が人口の60%を占めていたといいます。
    そのようなイタリアの遺産とアフリカの風土が溶け合った都市で、他のアフリカ諸国の都市とは異なる独特の雰囲気と魅力が醸し出されているようです。

     

    宗教は紅海沿岸の国ということもあり、イスラム教の人口は多くいます。しかし、古来より様々な宗教が共存してきたこともあり、イスラム教だけでなく、コプト教、キリスト教カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、土着信仰のアンナ教などが共存し、宗教については寛容的な文化が根付いています。
    アスマラ市内にもカトリック大聖堂、モスク、テワフド教会、シナゴーグなどが立ち並んでいることから、異文化を排除しない都市の風景が見られます。
    日本と似た文化としては、日本の「茶道」に対してエリトリアでは、「コーヒー・セレモニー」というのがあります。
    茶道と同じように、コーヒーを飲む行為に儀式化した作法があり、教養なども含んだ文化的な習慣になっています。感謝やもてなしの精神を表すことでも茶道と共通します。

     

    また、アスマラという都市名ですが、エリトリア大使館の観光情報によると、奴隷制時代につけられた名前だそうです。
    ティグリーニャ語で「女たちが男たちを団結させた(Women united men)」というもので、当時の(奴隷制時代の)女(母)たちが、奴隷商人から自らの娘や息子を守るために、男たちを団結させたという逸話からきているそうです。

     

    日本からエリトリアに行こうとしたら、直行便はありませんので、第3国経由となります。一般的なのはヨーロッパ経由と中東経由になるでしょう。ドイツのフランクフルト(マイン)からは週4便あるそうです。
    アスマラ市内のみの旅行の場合は旅行許可証(Travel Permit)を取得する必要はありません。他の地方へ行く場合には必要となります。
    でも、一生涯、行くことはないと思います。

     

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