今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • カーネーション革命(Revolução dos Cravos)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はカーネーション革命(Revolução dos Cravos)について勝手に語ります。

     

     

    ポルトガルワインといえば、甘い「ポートワイン」を思い浮かべる方が多いかもしれません。あるいは酒精強化ワインかもしれません。このブログでは、以前にどちらも取り上げています。

     

    ヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)

     

    世界三大酒精強化ワイン・マディラワイン

     

    ただ、ポルトガルはワインについて世界で初めて原産地呼称管理法を制定した国だということはあまり知られていないかもしれません。
    同様に1974年にポルトガルで発生したカーネーション革命(Revolução dos Cravos)についても、ご存じないかたも多いかもしれません。ただ、これは革命とはいうものの、実際には軍事クーデターで、無血で終わりました。カーネーションが革命のシンボルとなっていたことからカーネーション革命と呼ばれています。

     

    そもそも、1933年に成立したアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(António de Oliveira Salazar)による政権が独裁体制となり、しかも40年以上続いていたことが背景としてあります。
    サラザールは、エスタド・ノヴォ(Estado Novo)と呼ばれる保守権威主義的な長期独裁政権を築きました。ヨーロッパ最長の独裁体制といわれています。エスタド・ノヴォとはポルトガル語で「新しい国家」を意味し、要するに新国家体制です。ファシズム指向を併せ持ちつつ、父権的干渉主義政権ということから、暴力的な支配を前面に出していたスペインのフランコや、文字通りのファシズム政権であるイタリアのムッソリーニと異なり、支配方法としては緩やかなものを目標としていました。
    また、サラザール政権はナショナリズムだけでなく、カトリックを強要していました。それはサラザール自身が熱心なカトリック教徒であったことに関係します。
    政権の基礎部分としては、社会の安定が財政の安定であり、成長をもたらすとしていました。支持率も高く、「サラザールの教訓」という政府方針も示されていました。

     

    エスタド・ノヴォ体制下では「人民独裁を基礎とする新国家」を標榜していたことで、議会制民主主義は敵視されました。
    1936年には、サラザールは首相と財相だけでなく、外相、陸軍相、海軍相をも兼任することになり、より体制を強固にしていきました。
    スペイン内戦では、フランシスコ・フランコ将軍の反乱軍へ武器を援助したことで、1939年にはフランコ体制下になっていたスペインとの友好不可侵条約を締結することになりました。
    このような独裁政権でありながら、第二次世界大戦では中立の立場をとり、後になって連合国側の外交政策をすることで、大きな混乱を招くことを排除できました。しかも第二次世界大戦から復興しようとするヨーロッパ諸国に対し、資材を大量に販売することで、高度経済成長まで成し遂げたのです。
    しかし、1960年代に入ると、ヨーロッパの復興も一段落したことで、第二次大戦復興特需は終焉しました。
    ポルトガルは一転して、経済の遅れから回復する必要に迫られました。さらに1961年以来、植民地でも問題が発生していました。アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウではソ連やキューバが支援する独立革命軍との戦争が続き、戦費が財政を圧迫していたのです。経済状況はますます悪化し、徴兵制や低水準の賃金から逃れるため、フランスや旧西ドイツへ移民する人も多くなり、ポルトガルは西ヨーロッパ最貧国にまで転落してしまいました。

     

    エスタド・ノヴォ体制は第二次大戦後も継続したものの、西ヨーロッパ最貧国にまで転落し、1968年にはサラザールは椅子が壊れて頭部を強打したことで意識不明の重体となってしまいました。2ヶ月後に意識を取り戻しましたが、既に政権はマルセロ・ジョゼ・ダス・ネヴェス・アルヴェス・カエターノ(Marcelo José das Neves Alves Caetano)首相になっていました。
    結局、サラザールは1970年7月27日にポルトガルが政治的にも経済的にも混乱状態にあることを知らないまま息を引き取りました。
    サラザールの死後でもエスタド・ノヴォ体制は維持され、ポルトガル植民地帝国も維持していたものの、ついに1974年4月25日、カーネーション革命によって打倒されました。

     

    1974年4月25日早朝、ポルトガル軍のオテロ・デ・カルヴァーリョ大尉の指揮によりリスボンで決起し、市内の要所を占拠していきました。カエターノ首相は投降し、スピノラ大将に権力を委譲しました。
    流血のない無血革命でした。
    革命の成功を知ったリスボン市民は、カーネーションを手に兵士たちと交歓しました。この4月25日は「自由の日」としてポルトガル国民の祝日となりました。
    ただ、スピノラ大将が権力を握っただけで革命は終わらず、すぐにコスタ・ゴメス将軍に移譲、さらにスピノラのクーデター、そして失敗などもあり、最終的に穏健派のアントニオ・エアネス(António dos Santos Ramalho Eanes)大将が大統領になったことで革命は終結しました。

     

    その後はポルトガルのEU加盟により、EU支援による最新のワイン製造技術も取り入れることになり、ポルトガルワインの生産にも大きな影響が与えられました。
    ポルトガルのワインを飲む際は、エスタド・ノヴォ体制の独裁政権とその後のカーネーション革命のことも思いつつ味わって頂きたいものです。

     

  • ドゥシャンベ(Душанбе)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はドゥシャンベ(Душанбе)について勝手に語ります。

     

     

    タジキスタンについて、正式国名をキリル文字やアラビア文字で表記した読み方として、以前に「ジュムフーリーイ・トージーキストーン」という投稿をしました。
    今回はジュムフーリーイ・トージーキストーンの首都であるドゥシャンベ(Душанбе)を取り上げます。

     

    この都市も旧ソ連からの独立国ということで、1961年までは「スターリンの町」を意味するスターリナバード(Stalinabad)という名の都市でした。 現在はタジク語で「月曜日」に由来する都市名になっています。この「月曜日」とは、元来はペルシア語で「土曜日の2日後」の意味だそうで、その日、要するに月曜日に、市場が開かれた都市だったことを意味するそうです。
    現在の人口は68万人程度ですが、19世紀までは小さな村だったようです。それでも古い遺跡もあり、太古より人々が居住する地域だったことは間違いないようです。
    そんな小さなドゥシャンベに人口が集中してきたのはロシア革命により、、レーニンが率いた左派のボリシェヴィキが中央アジアにまで影響してきたことに関係します。ボリシェヴィキに対抗するタジク人・ウズベク人の反革命軍の拠点として、ドゥシャンベに人が集まったのです。
    テュルク系イスラム王朝のブハラ・アミール国の最後のアミール、アーリム・ハーンもドゥシャンベに逃げ込み、その後、カーブルに亡命して死去しました。
    結局、1922年にドゥシャンベは赤軍の手により陥落しました。その後はタジク自治ソビエト社会主義共和国の行政府が置かれた町となりました。

     

    このタジク自治ソビエト社会主義共和国とは、1924年10月14日に中央アジアの3つの国を分割し、5つの民族により区分けされた地域を設置し、この中でタジクASSRがブハラ東部と、トルキスタン南部を領域として成立した国です。このときに分割した国は、トルキスタンASSR、ブハラ社会主義ソビエト共和国、ホラズム社会主義ソビエト共和国でした。
    1929年になると、北部タジキスタンのホジェンド地方(現在のソグド州)を吸収したことで、タジク・ソビエト社会主義共和国へと昇格することになりました。
    ドゥシャンベが首都に指定されたことで、1929年、スターリンにちなんだ「スターリナバード」となりました。
    ところが1961年になると、フルシチョフのスターリン批判の延長上で、都市名がドゥシャンベに戻されることになりました。
    タジキスタン共産党を構成するのは、南部人、カラテギン、パミール及びクリャーブの一部の代表者でしたが、1937年に最初にタジク革命政府を樹立したのは南部人でした。しかし、南部人は完全に粛清され、第二次世界大戦後はホジェンド出身者が権力を握ることとなりました。彼らの権力は、1980年代に至るまで維持しました。

     

    ソ連の時代では、あらゆる地域からドゥシャンベへの移住が促進させられました。
    ロシア人の人口比率も上昇しましたが、タジク人も地方から流入してくるようになったことで、首都らしい人口規模へと膨れ上がっていきました。
    またソ連は大量に流入する人々のために、産業としても綿花や絹の大生産地にしていったのです。
    最盛期にはロシア人の比率は半分近くまで及んでいたようですが、現在はわずかに2~3%程度ともいわれます。必然的にロシア語も共通語ではなくなり、現在はタジク語となっています。

     

    ソ連晩年はゴルバチョフのペレストロイカの時代となりましたが、タジキスタンではドゥシャンベ暴動が起きた時期と重なっていました。これは、アゼルバイジャンで起きた反アルメニア暴動の影響で、亡命アルメニア人がタジキスタンに移住してくるという噂が拡散し、住宅難だったタジク人の間で暴動が起こった事件でした。
    折しも中央アジアでの民族主義運動が拡大し、ついに1992年にタジキスタン内戦が勃発しました。大統領選挙の結に対して、ラフモン・ナビエフ大統領への抗議行動が激しくなり、政府側と反政府勢力の間で戦闘が勃発したのでした。
    ナビエフ大統領は辞任となりましたが、ドゥシャンベでは市街戦では既に市街戦が繰り広げられる事態にまでなっていました。
    ようやく、1997年に国連主導の停戦協議が始まり、ついに和平協定が調印されました。
    この内戦によりタジキスタンは内戦で荒廃し、120万人が難民となりました。ドゥシャンベも甚大な被害を受けました。

     

    イスラム圏でも比較的アルコール類を飲める国ですが、タジキスタンでは現地でワインを飲むより、復興しているドゥシャンベを思いながら日本で飲むほうが良い気もします。

  • ブダペスト紀行 7(Szent István-bazilika)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行7回目です。
    王宮の丘から離れペスト側の聖イシュトヴァーン大聖堂(Szent István-bazilika)へと行きました。

     

     

    王宮の丘から再び鎖橋の近くまで降り、そこからトラムに乗車し、北上しました。
    地下鉄の2号線に乗り換えると、ドナウ川は地下で渡ることとなりました。Deák Ferenc térで下車し、バイチジリンスキ通りに沿って北上し、目指す聖イシュトヴァーン大聖堂へと向かいました。
    実はこの周辺はブダペストの中心部になり、王宮の丘から鎖橋を渡って東側に直進した位置になります。トラムと地下鉄を乗り継ぐと大回りになりますが、実は徒歩ならそれほどの距離があるわけではありません。

     

    聖イシュトヴァーン大聖堂は、ブダペストで最も高い建造物といわれます。東京のように高層ビルがあるわけではないので、このような歴史的建物が高い建造物というのはうれしくなります。
    その高さは、96mで、幅は55m、奥行が87.4mです。歴史的建造物とはいっても着工したのは1851年で、完成したのは1905年です。この建設中の1868年にはドームが倒壊し、新たに作り直す必要があったことから、これだけの期間を要したといわれています。
    カトリック教会のバシリカで、バシリカとはローマ時代からの伝統的礼拝堂建築ではなく、礼拝に集まる人々が一箇所に集合できるような一定の平面形式を指すものです。ただし、この語源はギリシア語に由来するもので、一説には「王の列柱廊」を意味するバシリケーだといわれています。
    聖イシュトヴァーン大聖堂の建築様式は新古典主義様式で、正面には2つの大きな鐘楼があります。かなりのインパクトのある鐘楼で、南の鐘楼では、鐘の重量が9トン以上もあるそうです。ハンガリー最大の鐘ですが、実はこれは2代目です。初代の鐘は第二次世界大戦のときに、軍用に使われてしまいました。

     

    この大聖堂は最初に関わった建築家はヨーゼフ・ヒルド(Jozsef Hild)で、19世紀前半のハンガリー最大の建築家でした。しかし、1867年に彼が死去し、その後をミクローシュ・イブル(Miklis Ybl)が継ぎました。
    このイブルがヒルドの設計ミスを発見したのですが、修正が間に合わず、中央ドームが崩壊してしまったといわれます。そしてイブル死去後の最後の14年間はヨーゼフ・カウザー(Jozsef Kauser)が担当しました。

     

    聖堂の中に入ってみました。
    すぐにドームに登ることができるエレベーターを待つ列がありましたが、それをスルーして中に入っていくと、カトリック教会らしい荘厳な空間が待っていました。
    正面の祭壇には聖イシュトヴァーンの像がありました。その手には、ハンガリーのシンボルである二重の十字架があり、背後にはイシュトヴァーンの生涯を描いたレリーフがあります。
    祭壇の左側から裏手に行く通路があり、奥に聖イシュトヴァーンの「聖なる右手」のミイラが奉られています。
    イシュトヴァーン1世(I. István)は、ハンガリー王国の初代国王であり、カトリック教会では聖人として列聖されている人物です。記念日として8月20日がハンガリーの祝日に定められているほどです。

     

     

    このような大聖堂に入ると、ヨーロッパにいる気分が満たされます。
    ただ、観光客が多いので、その点は興ざめする部分もあります。こんなにブダペストが観光客に人気であることに、ここでも改めて思う次第です。でも日本人の姿は見かけませんでした。

     

  • アウクスブルク(Augsburg)と宗教

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアウクスブルク(Augsburg)と宗教について勝手に語ります。

     

     

    アウグスブルクというと、世界史の授業で「アウグスブルクの和議」として習ったことを思い出す人もいるでしょう。
    当時、神聖ローマ帝国の都市だったアウクスブルクにおいて、て1555年9月25日に開催された帝国議会の中で、ルター派を容認した決議のことです。これはプロテスタントを容認したわけではなく、プロテスタントでもカルヴァン派については認めませんでした。しかも、カトリックかプロテスタントを個人意思にて選択できるものではなく、あくまで信仰の選択は、都市や領主により決定することになっていました。そのため、都市単位や領主の支配地域によりカトリックであったりプロテスタントであったりするということは、三十年戦争にもつながるものでもありました。
    その一方で、カトリックによる支配を進めていたハプスブルク家は、思わぬ結果となっていました。

     

    現在のアウグスブルクは、ドイツのバイエルン州でミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐ第3の都市で、人口は約26万人です。
    都市名はローマ皇帝アウグストゥスが由来ですから、ドイツでは最も古い都市の一つといえます。ただローマの時代にはそれほどの規模の都市ではなく、それ以降もしばらくは人口増加も都市の規模も大きくなりませんでしたが、1500年頃には神聖ローマ帝国最大規模の都市の一つにまで成長し、ケルンやプラハに次ぐ規模になったようです。

    アウグスブルクの和議の舞台らしく、4世紀から5世紀頃にはローマ・カトリックの司教座都市となっていてるとともに、ルター派福音主義教会のアウクスブルク教会管区本部の所在地でもあります。実はそれだけでなく、アウクスブルクには正教会もあります。特にシリア正教会が顕著で、これはトルコからの避難民です。またギリシア正教会ではゴスペル教会を購入しています。

    キリスト教系の宗教組織としては、古カトリック教会、新使徒派教会、エホバの証人などもあるそうです。

    実はイスラム教徒やユダヤ教徒、さらに仏教徒もいます。
    そのためか、アウクスブルクでは「宗教円卓会議」が定期的に開催されています。
    それぞれの異なる宗教信者が、互いに宗教、霊性、儀典、宗教実践について語り合うものです。
    無宗教社会論組織である「Bund für Geistesfreiheit」もあります。

     

    またアウグスブルクは、帝国自由都市の時代に三十年戦争に巻き込まれましたが、その戦争期間はスウェーデン軍に占領されていたことがあります。続いてスペイン継承戦争の時代の1703年には、バイエルン軍によって占領されました。
    結局、1805年12月28日のプレスブルクの和約により帝国自由都市の地位を失ってしまい、バイエルン領となりました。今ではバイエルン州を代表する都市ですが、自由都市からの転落の結果という見方もできます。

     

    このアウグスブルクは、個人的にはあまり記憶に残らない都市でした。
    滞在期間が短かったこともありますが、駐車場を探すのに苦労して、クルマを駐車したときには疲れ切っていたのを思い出します。それでもカトリック、プロテスタント両方の教会を訪れ、わずかな時間でしたが街を散策しました。
    思ったより地味な印象を持ちました。と、いっても当時はハンブルクを基点にしていたので、無意識にハンブルクと比較していたのかもしれません。また、バイエルンの文化や言語も、決して嫌いでないものの、何となく田舎くさい感じを持っていたのかもしれません。
    今では考えられない感覚です。
    さらにいえば、宿泊する時間的余裕もなく、短時間の市内散策だけだったことが、何とも勿体ないことに思えます。これも当時の状況を考えれば仕方ないのですが、今ならもう少し余裕のある旅をしただろうと思います。

     

  • 新日国家・パラオ共和国(Beluu ęr a Belau)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はパラオ共和国(Beluu ęr a Belau)について勝手に語ります。

     

     

    日本に好感をもっている国、つまり親日国ですが、世界にはいくつかあり、その中でもパラオ共和国(Beluu ęr a Belau)には日本・パラオ友好の橋(Japan-Palau Friendship Bridge)まであります。
    そのパラオを取り上げるのですが、その前にこの「親日」という単語について、日本人は何も不思議に思わないと思います。実はこれ、よく考えると日本独特な感覚なのかもしれません。
    というのも、外国人が日本に好感を持つのを「親日」であれば、日本人がアメリカに好感を持つのは「親米」、フランスらなら「親仏」、ドイツなら「親独」となります。では、フランス人はドイツに好感を持つのも「親独」となるのでしょうか。少なくともドイツ語で「deutschfreundliche Person」や「Deutschlandfreund」という語はありえますが、普通、そんなことを言う人はいません。要するにドイツ人は外国人がドイツに好感を持っている人なのかどうなのか、あまり気にしませんし、話題にもしません。だから、「親独」に相当する言葉を使う機会がないのです。もしかしたら「国」という概念で「好き」「嫌い」を判断しないのかもしれません。
    時代によって領土の主権国家が変遷するヨーロッパの中で、ドイツは特に統一が遅れました。その一方で、ヒトラー政権時代にゲルマン民族としてのアイデンティティで鼓舞されたことで、その反省もあるのかもしれません。
    日本は鎖国をやめてから劇的な近代化へと進み、欧米列国と肩を並べようとしたことで、海外の国に対して絶えず、日本に対する態度を気にしていいた名残があるのかもしれません。そのため、今でも海外の有名人が「親日家」だ、というだけで、親近感を持ち、安心して応援できるのかもしれません。
    あくまで私見ですが、

     

    さて、本題です。
    パラオは、太平洋上にあるミクロネシア地域の島々からなる国家です。
    ワインベルトから外れた熱帯雨林気候の地域です。平均気温は27℃ですから、ブドウ栽培に適していません。
    それにも関わらず、パラオ土産でワインがあるというのです。よく見てみると、ラベルだけパラオのもので、生産国はフランスになっています。なるほど、プレゼントワイン専門店のシエル・エ・ヴァンと同じではないですか。ラベルをオリジナルでつくり、それをプレゼントにするか、土産にするかの違いです。

     

    親日国であるパラオですが、以前は日本が統治していた時代がありました。その前はドイツの植民地で、さらに前はスペインの植民地でした。
    日本統治時代には、多くの日本人が移住しました。そのため移住者が多くなったことで、ドイツ統治時代と異なって、インフラの整備から学校教育、医療機関の充実などが進みました。しかも、移住してきた日本人は、パラオ人に対する差別がほとんどなかったといいます。
    スペインやドイツによる支配が苛烈だったのに対し、日本統治時代はインフラ整備からパラオの産業振興にも貢献してきたと思われていました。
    今でも独立記念日のパレードには日本の神輿が登場するほどだといいます。

     

    日本・パラオ友好の橋については、韓国とも関係した話になります。
    最初の橋は、1977年に韓国のSOCIOにより建設されました。コロール島とバベルダオブ島を結ぶコンクリート製の橋で、設計上は風速67mの暴風や激震に耐えられるとされていました。
    しかし、建設直後から橋の中央部がへこみ、4フィートもの陥没までしました。さらに1996年9月26日17時35分、ついに橋は中央部から真っ二つに折れて崩落してしまったのです。この事故で2名が死亡、4名以上が負傷しました。
    実は、この橋については、建設当初から手抜き工事の疑惑が指摘されていました。
    そこで紆余曲折があり、2002年に日本の政府開発援助 (ODA) によって再建されました。設計上の耐用年数は50年でした。
    この橋については、パラオ政府は自国の資金による建設を断念していたため、1997年に日本の無償援助による再建を決定していたのでした。建設は鹿島建設が担当しました。
    橋のたもとの記念碑には、友好の象徴として両国の国旗が描かれています。

     

    このような統治時代や橋の建設などもあり、パラオは親日国となっています。土産のワインがフランス産でも、日本でパラオを思いながら飲むのも悪くない気がします。

     

  • ネパールとネワール族

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はネパールとネワール族について勝手に語ります。

     

     

    意外と知られていないでしょうが、ネパールには国産のワインがあるそうです。
    とはいえ、街中の酒屋でワインは影が薄い存在のようです。原料もブドウではなく、バーベリーとラズベリーだったりします。一般的なワインを期待するとがっかりするでしょうが、旅の思い出には飲んでみても良いかもしれません。
    そんなネパールには、ネワール族という民族がいます。カトマンズ盆地一帯に居住する民族で、5.48%の人口比率だそうです。

     

    ネワール族は高度な都市文明を形成した民族として知られています。
    しかも神話も独特で、かなり興味深いものがあります。
    その神話によると、カトマンズ盆地はかつて大きな湖でした。
    そこへスワヤンブー寺院を参詣に来た文殊菩薩が訪れ、聖なる剣で周囲の山地を切り開きました。これにより湖の水が切り開いた場所から外へと流れだしました。湖は消え、この地にネワール族が居住するようになったということです。
    この神話を裏付けるように、カトマンズ周辺で湖床跡が発見されました。さらに、カトマンズ盆地の肥沃な状況などから、この神話の湖だったという部分については、地学的にも十分に事実である可能性が示唆されました。
    ネワール族での歴史的記録では、3世紀から4世紀頃に居住していたことは分かっています。

     

    最古の記録ではリッチャヴィ朝になります。
    この王朝については、この時代の碑文によるもので確認されています。サンスクリットの碑文では、建国年代までは確認できないものの、おそらく4世紀だろうと考えられています。
    最初の王の名はヴリシャ・デーヴァとなっていて、おそらく彼が建国者だと考えられています。ただ、強大な国家というわけではなく、小王国の一つで弱小国家だったと思われています。

     

    9世紀にはデーヴァ朝、12世紀からはマッラ朝で、この頃からカトマンズ盆地にネワール文化が開花しました。
    マッラ朝はアリ・マッラ1世が初代になります。1200年です。
    ティルフット王国、ベンガル・スルターン朝などの侵略がありましたが、1428年からのヤクシャ・マッラの時代になると、王朝は最盛期を迎えることになりました。
    しかし、ヤクシャ・マッラの死後に呆気なくマッラ朝は崩壊してしまいました。カトマンズ・マッラ朝が分裂し、さらにそこからパタン・マッラ朝が分裂することで、統一王朝崩壊後は3つに分裂してしまったのです。
    1768年にカトマンズ・マッラ朝、パタン・マッラ朝が、1769年にはバクタプル・マッラ朝が滅亡し、隣国のゴルカ朝(シャハ朝)のプリトビ・ナラヤン・シャハ(Prithivi Narayana Shah)の支配となり、ネワール族のこの地の支配が終わりました。

     

    ネワール族は高度な文字を持ち、文化水準も高く、その後も、あらゆる分野で活躍していきました。
    宗教は仏教とヒンドゥー教です。ネパールが多民族・多言語国家であり、カーストとも複雑に関係し合っていることから、ネワール族だけの宗教というわけではなく、他の民族と同じように混在しているといえます。

     

    わざわざネパールにワインを飲みに行くことはないでしょうが、ワインを飲みながらこの国について考えるのは悪くない気がします。

     

  • シュランメル音楽(Schrammelmusik)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はシュランメル音楽(Schrammelmusik)について勝手に語ります。

     

     

    昨年、29年ぶりにヨーロッパへ行ったことで、オーストリアのホイリゲ(die Heurige)を思い出すことが増えました。

     

    ウィーン郊外のホイリゲ

     

    ホイリゲでは、少人数で演奏する音楽を聴きながらワインを飲むことも多くあります。バイオリン主体のオーストリアの郷土音楽です。
    この音楽は、19世紀後半にウィーンで活躍していたシュランメル兄弟の音楽で、シュランメル音楽(Schrammelmusik)とよばれています。彼らの演奏するオーストリアの民俗音楽が、ホイリゲで盛んに聴かれるようになり、現在まで続いているのですから凄いものです。
    基本的にヴァイオリンが2つかフィドル、それにダブルネックのコントラギターとG管の小クラリネットを用いて演奏されます。アコーディオンを加える場合もあります。
    これは、1878年にシュランメル兄弟がヴァイオリン2本にコントラギターを加えたトリオ”ヌスドルファー”を結成したことから始まり、1884年になってG管の小クラリネットを加えて、”シュランメル・カルテット”と名前を変えたことによります。ボタン式アコーディオンは1891年に加えました。

     

    オーストリア皇太子だったルドルフや、貴族たちが自宅のサロンに招いて演奏会を開いたほどの人気にまでなったそうです。
    曲調はメランコリックで、胸に染みるような美しいメロディーです。上品さだけでなく、思わず踊りだしたくなるような曲、自然と笑みが出てくるようなユーモアがあふれる曲など、シュランメル音楽には幅がありました。
    共通するのは、どれもウィーンの音楽であることで、オーストリアだけでなく、ハンガリー、スロベニア、モラヴィア、バイエルンの民俗音楽の影響も受けたものです。

     

    この兄弟は、兄がヴヨハン・シュランメル(Johann Schrammel, 1850-1893)で、弟がヨーゼフ・シュランメル(Josef Schrammel, 1852-1895)です。
    父はクラリネット奏者、母は歌手だったことで、音楽一家としての家に生まれ、両親の影響を大きく受けて育ちました。そのため、すでに11歳ごろから料理店などの演奏に、両親とともに出演していたといいます。
    コントラギター奏者のアントン・シュトロマイヤー(Anton Strohmayer, 1848-1937)とアンサンブルを結成して以降は、ウィーンのホイリゲを中心にして演奏するようになりました。これで人気に火が付きました。

     

    シュランメル兄弟の演奏は、ヨハネス・ブラームスやヨハン・シュトラウス2世をも夢中にさせました。
    ウィーンだけでなく、ヨーロッパの至るところにまでで人気が拡散し、1893年にはシカゴ万国博覧会に招待されたほどでした。
    結局、シュランメル兄弟の作品は200曲以上まで増加し、かれら兄弟が演奏する音楽の系譜を「シュランメル音楽」と呼ばれるようになりました。
    今でもホイリゲで演奏される音楽は、まさにシュランメル音楽なのです。

     

    ホイリゲは個人的に多くの思い出があり、またぜひ訪れてみたいと思っています。おそらくワインの味だけでなく、シュランメル音楽を含めた雰囲気がすきなのだと思います。

  • アルハンブラ宮殿(la Alhambra)ワイン門

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はアルハンブラ宮殿(la Alhambra)について勝手に語ります。

     

     

    スペイン屈指の世界遺産といえば何を差し置いても「アルハンブラ宮殿(la Alhambra)」といえるでしょう。
    その宮殿に「ワイン門」があるのをご存知でしょうか?
    アルハンブラ宮殿の中で最も古い建物の一つといわれています。
    1556年より、アルハンブラに住んでいた人々がこの門に免税ワイン市場を開いたことからつけられた名称だといわれます。それだけワイン生産とともに、日常生活にワインが必要不可欠だったことになるでしょう。
    ただ別の説もあって、本来の名前が「Bib al-hamra’」で、これは「赤の門」というものでしたが、これを「Bib al-jamra」(ブドウ酒の門)と混同したため、現在のように「ワイン門」になったというものです。
    現在、この門はアルヒベの広場の隅に位置しています。かつては、この門だけでなく、他の建造物があったと考えられています。

     

    アルハンブラ宮殿は、単なる宮殿ではなく、城塞都市として機能していました。宮殿の敷地内には、王宮だけでなく、官庁の機能を持つ建物、軍隊、厩舎、モスクから学校、住宅、墓地など、一つの街としての機能を持つレベルの様々な施設がありました。
    ヨーロッパにありながらイスラム王朝の建築物として、歴史的にも価値あるものです。しかし、最初から現在のような城塞都市を築いたわけではなく、それぞれの時代の建築物が複合的にあって、最終的に完成したものといえます。
    もともとは西ゴート王国だった地域が、ウマイヤ朝が占領し、イベリア半島はイスラム教の地域となりました。
    最初は宮殿ではなく、グラナダの丘の上に築かれた軍事要塞施設でした。

     

     

    後ウマイヤ朝が滅亡すると、レコンキスタが激しくなりました。
    キリスト教の国土回復運動ですが、イスラム側から見れば、キリスト教圏の国家による侵略行為です。
    イベリア半島中央部にあったカスティーリャ王国のアルフォンソ6世がトレドを降伏させ、にフェルナンド3世はコルドバやセビリアを陥れました。
    このレコンキスタにより、イスラム勢力はアンダルシア南部だけになっていきました。
    ナスル朝になってからは、ムハンマド1世とその子のムハンマド2世がアルハンブラ宮殿に水道を設置しました。
    そしてユースフ1世の時代になると、様々な建築物が増えていきました。その子のムハンマド5世の時代では、城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾があるワイン門が造られたのでした。

     

    ワイン門の正面はカルロス5世宮殿側の後側より古く、馬蹄形のアーチが付いています。上部にはひもの付いた鍵が刻まれています。
    後面はレンガ製の多彩色装飾のアーチがあって、窓が付いています。窓の真ん中にはナスル朝の盾が刻まれています。

     

    重厚な砦に囲まれたアルハンブラ宮殿は、敷地内だけでなく街中から見るのも価値あります。特にサン・ニコラス展望台からの眺めは圧巻です。壮大な城塞都市を見渡せる絶景は、かつて難攻不落を誇ったイスラム時代の誇りが誇示されているようです。
    こんな絶景を見ながらスペインのワインを飲みたいものです。

     

  • パールシー(Parsi)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はパールシー(Parsi)について勝手に語ります。

     

     

    ワインに関連するブログということもあって、宗教で登場するのはキリスト教が圧倒的に多くなっている気もします。ワインは「キリストの血」なので、当然といえば当然なのですが、イスラム教のように飲酒を禁止していない宗教は、当然ながらワインをむこともあります。
    そこで思い出したのが、日本でも大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」です。
    主人公はフレディ・マーキュリーですが、彼は少年時代をインドのムンバイで過ごし、しかもゾロアスター教の家庭に生まれたのです。インドはヒンドゥー教のイメージが強いかもしれませんが、ゾロアスター教信者の数も多く、実は全世界のゾロアスター教信者の半数近い人々がいるともいわれています。事実、ムンバイにはゾロアスター教の世界最大のコミュニティーもあります。
    インドに住むゾロアスター教信者のことを「パールシー(Parsi)」といいますが、ムンバイはパールシーの中心地であり、開祖であるザラスシュトラ(ゾロアスター/ツァラトゥストラ)が点火したと伝えられる炎が今でも燃え続けています。また、パールシーはインドでも比較的裕福な層で、教育や文化度が高いといわれています。

     

    インドの場合、カースト制度という、ヒンドゥー教による身分制度がありますが、パールシーもそのカースト制度の中に組み込まれています。そのためパールシーはある意味で「身分」のようなもので、パールシーというコミュニティ内でしか婚姻ができないことになっています。これは、ヒンドゥー教のカースト制度という社会にあっても、パールシーが族内婚によって独自に継続できているという点もありつつ、族内婚により純血性が重んじられることから、信者数は減少傾向になってしまっていることも意味します。
    ユネスコからは絶滅危惧の少数民族にも指定されていて、かなりの金額が支援されているとも聞きます。それでも族内婚では限界があり、パールシーの3割は65歳以上を占めるため、少子高齢化が進んでいます。

     

    フレディ・マーキュリー以外で、パールシーとして有名なのは、インド最大財閥タタの創業者一族が挙げられます。創業者はジャムシェトジー・ヌッセルヴァーンジー・タタ(Jamshetji Nusserwanji Tata)で、「インド産業の父」とも呼ばれた人物でした。現在のタタ・グループの会長であるラタン・タタは、ジャムシェトジーの曾孫です。また、世界的指揮者のズービン・メータもパールシーです。
    パールシーは、もともとはイランから移住した人たちで、ヒンドゥー教のジャーディ・ラーナー王が保護したことで、インド西部の地域に定住していきました。
    イランのサーサーン朝滅亡により、イスラム勢力から逃れるためにインドへ退避してきた集団もありました。
    神智学の影響を受けたのは19世紀になってからで、それはロシアのヘレナ・P・ブラヴァツキーとアメリカのヘンリー・スティール・オルコットが設立した神智学協会によります。神智学協会がインドに進出した際には、会員の半分がパールシーだったといわれています。パールシーは、神智学協会の反物質主義的な思想を歓迎したようです。

     

    日本ではゾロアスター教を「拝火教」と表現することもありますが、パールシーを含めゾロアスター教信者としては、「拝火教」という呼称を歓迎していないようです。火を神格化するという側面から「拝火教」となり、イスラム教からは「火」を偶像崇拝していると揶揄されたりしていますが、ゾロアスター教からすれば、もともとは自然崇拝であり、火を神格化するものではないということかもしれません。
    確かに善悪の二元論であり、火・水・木・土などに対する自然崇拝があり、その中で白檀で火を燃やすのは、密教にも似た側面もあります。光が善であり、その象徴として純粋な「火」を尊ぶことで、偶像ではなく、その炎に向かって礼拝します。普段は種火の状態で、儀礼の時に点火します。善の象徴としての火であり炎であるので、火そのものが神格化されるわけではないということでしょうか。難しい。

     

    ソロアスター教は「食」についてのタブーはありませんし、アルコールを禁止しているわけではありません。
    また反対に、キリスト教のようにワインなどを特別視するものもありません。だから何でも食べ、何でも飲みます。もしムンバイがワイン産地であるなら、パールシーにとってワインは日常の飲み物になっていたかもしれません。
    ただ、パールシーのごくごく少数派にベジタリアンの一派もあるといいます。ただしこれは例外の一派のようで、イギリスの植民地時代に誕生した特殊なグループのようです。
    ゾロアスター教については、これからも取り上げていきたいと思いっています。

     

  • ブダペスト紀行 6(Budavari labirintus)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行6回目です。
    王宮の丘の地下にある迷宮へと行きました。異世界が待っていました。

     

     

    マーチャーシュ聖堂を離れると、王宮の丘でありながら、何でもない住宅街のような路地に入り、地下迷宮(Budavari labirintus)へと行きました。
    地下への入口は普通の家の玄関のような雰囲気です。そこから地下へと続く階段を下ると、途中から地下の洞窟になっています。まるで怪奇幻想小説のような感じなので、なかなかおもしろい。

     

     

    ここは元々、ブダ城の地下に張り巡らされていた洞窟で、これを地下迷宮として観光客向けに公開している場所です。ただし、それほどメジャーな施設ではないため、地下はかなり空いています。マーチャーシュ聖堂の雑踏とは比べ物にならないほどです。
    王宮の丘は石灰岩で構成された台地のため、雨水や地下水に浸食されたことで、自然にできた地下の洞穴が出来上がったようです。
    深さはかなりあり、数十メートルの地下空間が2層や3層にもなっているようです。
    見学というより、ほとんど探検気分で洞窟をめぐることになりますが、その距離は1km以上あります。ただ単に自然の洞窟を歩くのではなく、洞窟内には所々で展示しているものがあります。ベーラ4世の胸像やオペラを再現した蝋人形の部屋もあったりします。
    また、他の国の洞窟も紹介している部屋もありました。映画を上映している部屋へは、階段を少し上がった後方に投影しているので、最初に音声とかすかな光だけがある場所に入り込むことになります。何とも幻想的でした。

     

    ここは意外な穴場といえますが、一点だけ注意が必要です。
    入場料はハンガリー通貨のフォリントでしか支払いができませんでした。クレジットカードは不可でしたので、現金を用意していかないといけません。1フォリントは0.36円程度で、ユーロに慣れている人には分かりにくい通貨かもしれません。

     

    地下迷宮から出ると、王宮の丘をブラブラと歩きました。快適な地下の気温から、一気に真夏の暑さが蘇ります。
    ブダタワーまで歩きましたが、階段で上まで登っていく気にはなれず、すぐ近くに来たバスに乗車してみました。どこ行きなのかもわからず乗ってみたら、王宮へと戻る路線でした。ここまで歩いてきたのに、意味がありません。
    これも自由な旅なので、ドナウ川方向へと王宮の丘を降りることにしました。

     

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