今日もワインを飲んでます そして思いついたことを書きつづる

  • 万里の長城とゴビ砂漠とワイン

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は万里の長城とワインについて勝手に語ります。

     

     

    中国の甘粛省の嘉峪関市は、シルクロードと万里の長城が交差している場所です。
    市の名になっている嘉峪関は、万里の長城で最西部に位置する関のことです。周囲733m、高さ11mの城壁に囲まれています。万里の長城につながる関としては、唯一建設当時のままの姿を保っています。西の防衛の要であった場所ですが、同時にシルクロードとしても重要な場所でもありました。また、嘉峪関は「天下第一雄関」といわれていました。
    荒涼としたゴビ砂漠が広がる世界を背景として、突如現れる嘉峪関は悠然と構えた巨大な城といった印象を持ちます。
    そんな嘉峪関市の郊外には、アジア最大の貯蔵能力を持つワインセラーがあります。紫軒酒業の施設で、周囲一帯に広大なブドウ畑が広がっています。
    北緯38度から42度のワインベルトに相当する地域ということもあり、砂漠という環境ではありながらもブドウ栽培を進めた結果です。実際、年間日射量が多く、寒暖の差が大きい気候であり、ゴビ砂漠の砂や周辺の土壌はカリウムやカルシウムなどに富むアルカリ性だったことからみ、ワイン生産に向いていたわけです。

     

    ゴビ砂漠は、内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる広大な砂漠で、世界で4番目の大きさを誇っています。
    その大きさは、東西で約1,600km、南北約970kmもあり、この砂漠の中にシルクロードの重要な拠点都市が幾つもありました。ちなみに日本にも多く飛来する黄砂は、このゴビ砂漠から巻き上げられた砂が、気流に乗って運ばれてくるものです。

     

    2億年前のジュラ紀には、ここは大きな湖だったといわれます。1億4000年前の白亜期初期になると、火山活動の影響により湖はさらに巨大化しました。
    しかし、1億年前~6500年前の白亜期後期になると、周囲の山が隆起し、今度は湖が小さくなっていきました。
    この時代には、ここには多くの恐竜が生活していたようで、オビラプトルや、プロトケラトプスとヴェロキラプトルなど、ゴビ砂漠からは多くの恐竜化石が見つかっています。ほとんどは白亜期後期の砂層から見つかっています。
    恐竜の時代がすぎると徐々に砂漠化していったようです。

     

    ワイン産地の嘉峪関市と関係なくゴビ砂漠へ行こうとしたら、中国から行くのではなく、モンゴルのウランバートルを経由するほうが楽だと言えます。
    成田や関空からなら直行便があり、約5時間程度でウランバートルへ行くことができます。ここで乗り継ぎですが、ウランバートルから南へ540kmのダランザドガドへ行くのが一般的です。飛行時間は約1時間半です。
    ただし、ここからの移動は簡単ではありません。ゴビ砂漠はすぐ近くですが、広大な砂漠なので、行きたい場所までどのように移動するかは考えないといけません。
    また、勘違いしてはいけないのは、ゴビ砂漠は確かに砂漠ですが、草原や森もあります。そのため植物だけでなく野生の動物も生息しています。イメージしていた砂漠ではないからといって、レンタカーなどで行くのは無謀な気がします。

     

  • 砂の壁

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は砂の壁について勝手に語ります。

     

     

    以前にモロッコを取り上げたことがありました。アフリカでイスラムの国でありながらワイナリーのある国として、勝手に語りました。

     

    日の没する地・モロッコのワイン

     

    そのモロッコがポリサリオ戦線と対立していて、ゲリラ攻撃から沿岸主要都市を防衛する名目で建設したのが「砂の壁」です。
    これはあくまで俗称ですが、文字通り砂を使って高さ数メートルにまで積み上げた壁で、鉄条網と地雷で防御しているものです。ベルリンの壁と同様に、対立する勢力が分断されている象徴的なものでもあります。

     

    そもそもアフリカ大陸北西部の大西洋岸にある地域、通称「西サハラ」の領有問題が大きく関係しています。
    亡命政権であるサハラ・アラブ民主共和国とモロッコ王国がこの西サハラの領有を主張しているのです。そのため1960年代から「非自治地域リスト」に掲載されています。
    実際の実行支配地域は、面積の上ではモロッコが多いものの、この領有権の主張については大多数の国で認めていません。そのため国際的には不法占拠とう扱いになっています。
    一方でサハラ・アラブ民主共和国は「砂の壁」の東側の地域を実効支配しています。こちらはアフリカ諸国だけでなく中南米諸国も承認しています。
    ただ、日本を始め多くの先進諸国はサハラ・アラブ民主共和国を国家として承認していません。当然ながら国際連合にも加盟できません。これは特に欧米がモロッコとの関係から行っていることで、日本も追随しています。

     

    この地域はもともと周囲をフランス領に囲まれたスペイン領でした。
    1912年にイフニとモロッコ南部保護領と合併し、スペイン領西アフリカを形成したものの、1958年になるとモロッコ南部保護領、1969年にイフニを、それぞれモロッコに返還しました。さらに1975年には、スペインはマドリード協定によってり領有権を放棄しました。これによって翌年よりモーリタニア とモロッコ が分割統治を開始しました。
    これに反発したのが、西サハラの独立を目指すサギアエルハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)でした。アルジェリアの支援を得ることで、武力闘争にまで発展し、1976年にアルジェで亡命政権サハラ・アラブ民主共和国 (SADR) を樹立しました。
    ポリサリオ戦線はモーリタニアを攻撃し、戦闘が有利に進めることに成功しました。モーリタニア政府は戦費がかさんだことで、国家財政が圧迫する事態にまでなりました。最終的に1979年にモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定を締結するまでになりました。
    これでモーリタニアが領有権を持つ西サハラの地域を放棄しました。
    ところが、ここでモロッコがモーリタニアが放棄した領域を占拠したのです。そのため、ポリサリオ戦線とモロッコとの激しい戦いが起こり、1991年に国際連合の仲介で停戦となりました。

     

    砂の壁については、総延長が約2000kmにも及んでいます。
    この西サハラ領域内を南北に縦断するもので、現在は停戦中とはいえ、壁の西側はモロッコ軍が監視し、東側はポリサリオ戦線が監視しています。

     

  • 世界最古の共和国、世界で5番目に小さな国

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサンマリノ共和国(Repubblica di San Marino)について勝手に語ります。

     

     

    国土面積が十和田湖とほぼ同じというサンマリノ共和国(Repubblica di San Marino)は、君主のいない共和国として世界最古の国です。

    具体的な面積は約61平方キロメートルで、十和田湖以外だと、ニューヨークのマンハッタン島や東京の世田谷区ほどの広さになります。

    世界で5番目に小さな独立国であり、建国以来1度も戦争をしたことのない平和の国であるのも特徴です。

    しかもサンマリノ共和国で初代執政が就任したのは、アメリカ大陸発見よりも前の時代なのです。

     

    小さな国土ではありますが、温暖な気候の地域で、恵まれた豊かな土壌もあり、ワインの生産には確かな技術が受け継がれています。

    場所はイタリア半島の中東部にあるため、全てイタリアに囲まれています。と、いうよりも、イタリアの中にサンマリノという国が同居しているような印象です。ローマの中にバチカン市国があるのと似た感じです。

     

    建国は西暦301年といわれています。

    イタリア半島の対岸でクロアチアのアドリア海沿岸地域にあるダルマツィア出身のマリヌス、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害から逃れてきました。このときにチタン山(現在のティターノ山)に立てこもり、そのまま建国したといわれています。

    ただし、文献上に初めてサンマリノの存在が記述されたのは951年でした。
    1463年には、アドリア海沿岸のリミニが侵略してきましたが、他に助けを求めることなく撃退に成功し、さらに追撃までして領土拡大に至りました。
    正式にローマ教皇から独立を承認されたのは1631年で、そのときの教皇はウルバヌス8世でした。

    1739年にはアルベロニ枢機卿が占領しますが、ローマ教皇クレメンス12世の勧告により独立を維持することができました。

    その後、1815年には、ナポレオン戦争後のウィーン会議でサンマリノの独立が再確認されました。

    19世紀のイタリア独立運動(リソルジメント)では、義勇軍を派遣したりしました。その後、1862年にイタリアとのあいだに友好善隣条約、1897年に友好条約を締結しました。

     

    第二次世界大戦中にはサンマリノは武装中立を宣言しました。

    そのためか、イタリア戦線による約10万人もの難民が国内に流入してきました。しかも1944年6月26日にはイギリス空軍により69名の民間人が死亡しました。これは誤爆でした。

    同年9月17日にはドイツ軍が占領し、その3日後までにサンマリノの戦いが起こり、連合軍がドイツを撃退しました。そのため、連合軍によってサンマリノは約2ヶ月間占領された状態となりました。

     

    イタリアの中にある独立国ということもあり、戦火に巻き込まれただけでなく、1943年以来、独自の紙幣を発行していません。イタリア通貨が流通していました。

    現在では、EU加盟国ではないものの、ユーロが流通することが認められています。

    重要な基幹産業としては、観光業とコインや切手の発行になっています。ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産もあります。

     

    サンマリノのワインを飲む機会はなかなかないでしょうが、イタリア旅行の際にはここまで足を運ぶのも良い選択かもしれません。

     

  • サルグミーヌ(Sarreguemines)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はサルグミーヌ(Sarreguemines)について勝手に語ります。

     

     

    フランスの歴史的なロレーヌの一部であるサルグミーヌ(Sarreguemines)は、ドイツ国境に沿って広がっている都市です。
    しかも現在ではトラムでドイツのザールブリュッケンまで結ばれているので、国境をトラムで超えることのできる珍しい場所です。

    フランク王国のピピン3世やカール大帝の顧問的な立場にあったフルラートが、のちに歴代フランス君主の埋葬地となったサン=ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)に、この地にあった財産を寄付したといわれています。おそらくこれが歴史上でサルグミーヌが登場する最古のものと思われます。
    まだこの時代は小さな集落程度の規模だったようで、10世紀を過ぎてから城の建設によって成長していきました。この城は、ザール川とブリー川の合流地点を監視するためのものでした。
    1297年にはツヴァイブリュッケン公国からロレーヌ公国(Duché de Lorraine)の支配下に変わりました。
    しかし、その後のウィーン条約によって1766年にフランス王国に併合され、再びフランス領となりました。

     

    ロレーヌ公国とは、現在のロレーヌ地方北東部とルクセンブルク、それにドイツの一部を支配していた歴史的公国です。
    この公国以前はロタリンギア(Lotharingia)という短期間存在した王国で、ロタール2世(855年–869年)の時代にはフランク帝国内部での独立王国でした。しかしその後に分割され、ロタール1世死去後のロタール2世が北部地域を支配し、その地域をフランスではロレーヌ(Lorraine)、ドイツではロートリンゲン(Lothringen)と呼ばれるようになりました。
    ロタール2世死去後に東フランク王国と西フランク王国に分割されました。この時点で現在のフランスとドイツに分割されたことになり、880年のリブモント条約で全域が東フランク王国、つまり現在のドイツの支配下になりました。
    これも長く続かず、東フランク王国のカロリング朝断絶により西フランク王国に吸収され、925年に東フランク王ハインリヒ1世によって征服されました。
    ここだけを見てもフランスとドイツの支配が交互に変わる、複雑な地域であることが分かると思います。

     

    1698年になるとドイツの代官区の中心地となっていました。このことから1748年までは、公文書はドイツ語になっていました。しかし住民たちの使う言語はロートリンゲン・フランケン語というゲルマン語方言でした。
    島国の日本人にはなかなか想像できない歴史を経験してきた都市だということが、いろいろな場面で分かります。

     

    このサルグミーヌに人が集まるのは、2月に行われるカーニバルです。
    このカーニバルは日本のハロウィンのように、マスクや変装した人々が集まって盛り上がります。数万人がこの街に集結するといわれます。なんと18世紀から始まったカーニバルだといいます。

     

    国境の街の住民は、自由にふたつの国を行き来しています。国境を越えて、ドイツ側のスーパーマーケットに行くのは日常茶飯事です。ヨーロッパならではの光景です。
    しかも通貨はユーロで統一されているので便利です。フランスとドイツという2つの国の支配に翻弄されてきたサルグミーヌも、現在は、実質的に国境のない生活になっています。
    日本人には異次元の体験ができる場所です。ぜひおすすめします。

     

  • ヴァナゾル(Vanadzor)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はヴァナゾル(Vanadzor)について勝手に語ります。

     

     

    アルメニア共和国は、トルコの東、イランの北西にあり、南コーカサスに位置する内陸の小さな国です。ジョージアと並んで世界最古のワイン生産地といわれています。
    以前にこの国の首都であるエレバンについては取り上げたことがあります。

     

    現存する世界最古の都市・エレバン

     

    ワインの歴史が古いのは、6100年前の醸造所跡が発見されたことでも知られていますが、同様にキリスト教を国教に定めたという点でも最古の歴史を誇ります。
    そのアルメニア第三の規模を誇る都市がヴァナゾル(Vanadzor)です。
    エレバンからは北に128kmほど離れた位置にあります。標高は1425mと高く、さらに都市の周囲にはバズム山地やパンバク山地などの標高2500m級の山々に囲まれています。

     

    この都市の歴史は古いのですが、最初にここが集落となった時代のことは分かっていません。ただ、青銅器時代の遺物が発掘されていることから、その時代までは遡れるのかもしれません。
    紀元前190年から紀元前66年まで続いていたアルメニア王国の末期の時代にはグガルク地方の町として記録されています。
    第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア帝国領となりましたが、ヴァナゾルは1801年にはロシア帝国領になっていたことで、対ペルシャのロシア防衛軍の前線となっていました。
    その結果、ロシア・ペルシャ戦争の最中だった1826年には都市が破壊されつくされてしまいました。

     

    19世紀後半には、オスマン帝国支配下のアルメニア人とトルコ人民族主義者との対立が激化する時代になりましたが、ヴァナゾルでは1899年にトビリシへの鉄道が開通したことで、交通の要衝となりました。
    第一次世界大戦中にはトルコ陸軍の侵略を阻止することができました。
    そのためか、エレバンからヴァナゾルへ移り住んだ人も多く、他の移民も多くなったといわれています。

     

    また、ヴァナゾルはアルメニア使徒教会のグガルク教区の拠点になっています。
    アルメニア使徒教会キリスト教の非カルケドン派の教会で、この名称の由来は使徒がアルメニアにキリスト教を伝えたという伝承によります。
    この伝承に登場する使徒とは、タダイとバルトロマイの二人ですが、実際に記録が残っているわけではないようです。実際、新約聖書ではタダイに関する記述は少なく、ほとんどが伝承によるものです。バルトロマイについても同様で、福音書の弟子として登場するだけで、他には記述されていません。

     

    ワインの歴史から見れば、アルメニアはジョージアと並んで大切な国となるでしょうが、日本人には馴染みがないといえます。
    だからこそ、あまり知られていない都市を垣間見るのは、これからも続けていきたいと思っています。

     

  • ブダペスト紀行 8(Budapest)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    ハンガリーのブダペスト紀行8回目で、最終回です。

     

     

    今回のブダペスト滞在は1日と少ししかなく、十分に堪能できるほどの余裕はありませんでした。
    ベルリンから慌ただしく移動したこともあり、あまり予備知識もないままの滞在でしたが、王宮の丘や聖イシュトヴァーン大聖堂など、ブダペストの定番観光地だけは巡ることができました。
    ワインのブログに投稿するのなら、ハンガリーらしくトカイワインなどを取り上げたりするのが良いのでしょうが、残念ながらトカイワインを味わう機会はありませんでした。

     

    今回、ほとんど取り上げなかった場所に中央市場があります。
    ここは、観光客向けの市場という印象を持つものの、それでも昔ながらのローカルな市場の雰囲気も残っています。海外の市場では、その国の本当の姿が垣間見えることが多いのですが、ここもまさにそうでした。
    日本でいう1階部分は、まさに市場らしい活気がありました。魚、肉などの定番の店舗が並び、階段を上がったフロアでは、民芸品などが売られていたり、フードコートもありました。
    物価的に安いという印象はあまりありませんでしたが、結構楽しく市場内を散策できました。

     

    街中では英語もドイツ語も通じない場面はありました。
    地下鉄のチケットで誤って打刻した際には、その誤りの理由がわからず、職員と話し込んだものの、全く何を言っているのか分かりませんでした。仕方なく、こちらは日本語を使うことになり、ますます分からなくなりました。
    もう少し滞在すればハンガリー語も少しは覚えようかという気になったかもしれませんが、この期間ではドイツ語が通じなければ諦めて日本語を使い、ますますわからなくなって混乱するという次第です。

     

    今回の旅では、ごく数時間だけポーランドにも滞在しましたが、その際には、ポーランド語は必要なく、ドイツと同じようにドイツ語が通じる場所にしか行きませんでした。
    ハンガリーのブダペストでもホテルではドイツ語が通じるものの、街中ではあまり通じませんでした。他のホテル宿泊者は意外にもイタリア人が多く、次にフランス人でした。彼らはホテルの人とは英語で会話していたようです。ちなみにアジア系は我々だけで、他にはいませんでした。これは市内の観光地でも同じような傾向があった気がします。ドイツ系の人は少なく、イタリア系の人が多い印象でした。中国人は時々見かけましたが、訪日中国人より少ない感じがしました。日本人は誰とも会いませんでした。
    このように日本人と離れた場所で、日本語もドイツ語も通じないというのは、旧ソ連やイタリアに旅行して以来になるので、自分にとってはあまりに懐かしく感じました。大学時代にシベリア鉄道でヨーロッパへ行ったとにきに会話が満足に成立しないという感覚です。それでも何とかなるという結果こそ、癖になりそうです。
    また、機会があれば、言葉の通じない国へ行ってみよう、と思いました。

     

  • ミクロフ(Mikulov)・ニコルスブルク(Nikolsburg)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はミクロフ(Mikulov)について勝手に語ります。

     

     

    ウィーン北部のフロリッツドルフ(Floridsdorf)から国道7号線を北上していくと、ツォルアムト=ドラーゼンホーフェン(Zollamt-Drasenhofen) でブリュンナー通りとなり、さらに国境を超えるとチェコのミクロフ(Mikulov)に入ります。ドイツ語ではニコルスブルク(Nikolsburg)です。
    チェコといえばビールですが(ビール大国のワイン)、この国境の地域であるモラヴィア地方は、「モラヴィアワイン」として国際的なワインコンペティションで他の欧州各国のワインと賞を競い合っているレベルの品質を誇ります。
    ミクロフはそのモラヴィアワインの中心的な生産地なのです。
    ただし、モラヴィアワインは生産量が少ないため、輸出用のものは少なく、ほとんどを周辺地域や国内で消費されています。日本でも滅多に見かけないと思います。

     

    街の中心部にはミクロフ城が聳えています。
    バロック様式の重厚な印象を持つ城で、城の内部には博物館や、ディートリヒシュタイン家の絵画コレクションなどが展示されています。
    さらに、城の地下にワインセラーがあります。かなりの規模で、巨大なワイン樽が展示されています。この樽は4~5メートルもの直径があります。それもそのはずで、チェコ最大の樽であり、ヨーロッパ全体でも巨大なことで知られるものです。
    ビール大国のチェコでもここだけは、ビールよりワインが日常的に飲まれているといわれるだけあって、街中にはワインの飲める店もたくさんあります。

     

    歴史的な出来事では、ニコルスブルク仮条約(Vorfrieden von Nikolsburg)が結ばれた街です。
    これは1866年7月26日に結ばれた普墺戦争の仮講和条約で、普墺戦争開始早々にプロイセン軍は優勢で、逆にオーストリアは敗勢濃厚となっていたのを、ナポレオン3世が休戦交渉を提案したものです。
    勢いのあるプロイセンとしては、ウィーン陥落まで主張する人も多かったものの、ビスマルクはこの休戦提案を受け入れました。
    その休戦交渉がここミクロフで行われ、仮講和条約が成立したわけです。

     

    また、ミクロフではかつて、大規模なユダヤ人コミュニティがありました。
    モラヴィア地方のユダヤ人中心地だったのです。現在でもわずかに一つだけシナゴーグが残っています。
    17世紀に建てられたもので、現在は博物館となってます。ユダヤ教らしいステンドグラスの装飾などはそのまま残されています。
    この地域では第二次世界大戦のナチスによる迫害を受けたこともあり、壊滅的な打撃を受け、当時のユダヤ人社会はありません。

     

    街中からは、あらゆる場所で目にするのが「聖なる丘」と呼ばれる小さな丘です。
    標高はわずかに363メートルなので、登山をするほどではないので、登ってみるのがおすすめです。眺望はが良いので、小さなミクロフの町並みを一望できます。赤い屋根が並ぶ町並みが魅力的です。
    頂上には聖セバスチャン礼拝堂もあります。1600年代に建てられ礼拝堂ですが、現在は夏だけ中に入れます。白い礼拝堂で、かなりきれいではありますが、以前は廃墟だったといいます。

     

    第二次大戦後、この地域はドイツ系の人々が追放されましたが、物価がオーストリアより安いことから、ドイツ語圏の人向けのショッピングモールも郊外にあります。そこでは普通のドイツ語が話されています。

     

  • エトルリア(Etruria)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はエトルリア(Etruria)について勝手に語ります。

     

     

    イタリアといえば世界最大のワイン生産量ということで、以前にピサの斜塔やドゥオモ広場を取り上げたことがありました。そこで個人的にも思い出のあるフィレンツェを話題にしようと思いましたが、せっかくなのでエトルリアにまで遡ろうと思いました。

     

    ピサのドゥオモ広場

     

    フィレンツェといえばトスカーナ州ですが、ここはエトルリア文明の地でした。
    のちに強大な帝国となったローマがまだまだ小さな都市国家だった時代、具体的には紀元前8世紀から3世紀頃、イタリアはここが中心部であり、それがエトルリア人の高度な文明による連邦都市国家でした。統一国家ではなかったものの、各都市国家は宗教や言語などが共通で、12都市連盟というゆるやかな連合体でした。
    最盛期は紀元前750〜500年頃で、北はポー平原、南はナポリの先まで広がっていました。そのため、ローマはエトルリア文明の一都市でしかなかったわけです。
    ヘロドトスは、エトルリア人は小アジアのリュディアからこの地にやってきたといっていましたが、ハリカルナッソスのディオニュシオスはイタリア古来の民族だとしています。しかし、現在でもエトルリア人の出自については判明していなく、インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用することから、謎の民族ともいえます。
    ただ古代地中海世界の複数の地域でその存在が記録されていることから、一説ではエトルリア人は古代エジプト第20王朝の記録にある「海の民」だともいわれます。

     

    古くからエトルリア人は高度な文字を持っていたといわれます。
    ただし、文献として残っていません。これも一説には、のちのローマがエトルリアを吸収した際に、エトルリアの文字を意図的に隠滅したともいわれます。インド・ヨーロッパ語族に属さないことは、わずかに残された石碑や墳墓に刻まれた文字からわかったことです。ちなみにエトルリア語はアルファベットで記述されていることから、文字を読むことだけはできるものの、意味については全部が解読されていません。このアルファベットは、エトルリアの商人がギリシア人との交易からマスターしたもののようです。
    紀元前4世紀になると、ローマの勢力が強くなり、少しずつイタリアの諸都市はローマに併合されていきました。最終的にローマに同化し、共和制ローマ以前の王政ローマの時代では、7人の王のうち3人はエトルリア人でした。
    ローマはエトルリア人の都市を破壊して支配地域にしたわけではなく、同化というかたちで支配下に収めたことから、エトルリア人はその後も子孫が繋いでいたといえます。

     

    では、エトルリアの国家統治はどのようなものだったのでしょうか?
    一言で表現すれば神権政治だったといえます。政治権力を持つ者が支配者層としての権威を持ち、部族や氏族の組織の上部に位置します。支配者層のいわゆる政府こそが、非支配者層の生死を決めるだけの権限を持ち、この権威による都市国家が連携しています。
    都市国家の連携は共通の信仰を持っていることになり、宗教的には多神教でした。
    この多神教は、現実世界の目に見える現象はすべて神の力の顕現だというものです。神にもランクがあり、上位の神が下位の神々へと細分化していき、最終的に人間へと作用を及ぼすというものです。

     

    また、プラトンを始めとするギリシャ思想家やローマの著述家たちなどは、エトルリア人に対して侮辱的な表現もしていました。
    それは、エトルリア人の習慣として、妻を共有することがあるからです。従ってエトルリア人の子供は、父親が誰であるかを知らず、母親は産まれたすべての子供に分け隔てなく接して育てます。
    飲酒パーティーがあり、男性はそこで様々な女性と関係を持ち、その行為について、誰も文句をいいません。
    その一方で、エトルリア社会は一夫一婦制です。

     

    本当に謎の多い文明で、どこまでが真実だったのか、歴史の闇もまだまだ解明されていない部分も多くあります。
    イタリアワインでも飲んで、静かにエトルリアを思い浮かべるのはどうでしょうか。

     

  • ワラキア(Valahia)

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回はワラキア(Valahia)について勝手に語ります。

     

     

    ルーマニアはヨーロッパ有数のワイン生産地ですが、そのワイン生産地の中でワラキア(Valahia)は赤ワインが多いので知られています。
    ルーマニアの南東部でブルガリアとの国境に近いムンテニアでは、甘口の赤ワインの生産地となっていましたが、これはソ連の影響でのことで、現在は必ずしも甘口だけではないといいます。
    このムンテニアはワラキアの東部に位置し、西部はオルテニアです。間にオルト川が流れ、ムンテニアの南と東はドナウ川、北はトランシルヴァニアのアルプス山脈があります。

     

    また、ワラキアはルーマニアの首都ブカレストがある地域であり、かつてはワラキア公国でした。
    ワラキアとは「ヴラフ人(Vlach)の国」という意味で、ヴラフ人は複数のラテン系の民族を指します。言語は、東ロマンス諸語(Eastern Romance languages)で、古ルーマニア語(Proto-Romanian language)から分化したものです。さらに、スラヴ人、ギリシャ人、アルバニア人、クマン人などの周辺の民族と混交していきました。

     

    古代の世界では、ヨーロパらしく、ローマ帝国との関係が大きいといえます。
    地理的に西ローマではなく東ローマの影響が大きかったといえます。
    ワラキアが国として成立したのは、バサラブ1世が豪族をまとめたことによります。彼は1330年のポサダの戦いに勝利したことでワラキア公国の独立が達成されました。
    しかし、この地域はオスマン帝国の脅威が訪れます。
    さらに大トルコ戦争が終盤になると、ハプスブルク帝国の標的となったり、ロシアの影響が出てきたりすることになっていきます。

     

    オスマン帝国の宗主下に置かれていた時代が長かったものの、ワラキアとモルダヴィアの連合公国からルーマニア公国へと発展し、1877年5月にオスマン帝国宗主権下からの独立が宣言されました。

     

    ワラキアはヨーロッパでは珍しく、奴隷制度が長期間に渡って存在していました。
    奴隷になっていたのはロマ人でした。現在でも、ルーマニアでのロマ人に対する差別は根深いようで、結婚や就職だけでなく、学校や転居地域などでも影響が残っているといいます。
    この奴隷制度は19世紀半ばまでの約600年間にも及んだことから、その影響が続いているのではといわれています。一説では1800年代の法典にロマを「生まれながらの奴隷」と規定していたとされ、ロマ人は都市の周辺部に居住させられ、閉鎖的な社会となっていました。しかしこの法典については、ロマ支援組織が差別の根拠として捏造したものという説もあります。
    ルーマニア政府はこれらの差別的状況について、「国内にロマはいない」と否定し、従って差別問題は存在しないという見解を出しています。ロマ差別は架空の話としているのです。
    そのため、国内だけでなく国外からもロマ対策についての要求があっても、全く反応することはありません。
    そのため21世紀になっても、ロマ人問題はルーマニアで尾を引いているのです。

     

    赤ワイン産地のワラキアには、ロマ人の問題が残っています。
    そこまで考えながら今宵もワインを飲みます。

     

  • 世界言語で「ワイン」は?

    プレゼント専門シエル・エ・ヴァンの店長・ハヤシです。
    今回は世界言語について勝手に語ります。

     

     

    日本語の「ワイン」は当然ながら外来語で、本場のフランスでは「vin」、イタリア語では「vino」、スペイン語では「Vino」になります。
    これらはかなり近い印象を持つ単語ですが、英語の「wine」とは大分印象が異なります。英語に近いのはドイツ語の「Wein」といえるでしょう。しかし、ドイツ語の「Wein」は男性名詞で「der Wein」、英語は名詞に性がないのでそのままになります。ちなみにオランダ語では「wijn」です。
    赤ワイン、白ワインは、それぞれ色をあらわす語がつくわけですが、フランス語、イタリア語、スペイン語は「ワイン」の後ろにつきます。具体的には、赤ワインをフランス語では「vin rouge」、イタリア語では「vino rosso」、スペイン語では「vino rosé」になります。英語とドイツ語は前につきます。「red wine」と「Rotwein」です。
    中国語も前です。「红葡萄酒」

     

    では、そもそも世界で最も使われている言語とは何でしょうか?
    実はこれ、単純な話ではなくて、母国語として使われているだけでなく、第二言語として日常でも使われる言語もあるからです。日本人は第二外国語を大学で学習しても、全く役に立っていないでしょうが、世界に目を向けると、かなり事情が違います。例えば植民地を支配した国が、現地の人に公用語として押し付けた例もあります。そのため大英帝国の植民地から派生した国々は英語が第二言語となり、第一言語では中国語よりはるかに少ない英語が、合算すると中国語に迫る人数になったりします。
    また、植民地という理由だけでなく、言語習得をして自由に使っている人々も多くいます。特にヨーロッパでは複数言語を自在に使う文化もありますから、これらも加味しないと世界言語としては不適当といえるかもしれません。

     

    そこでネットで色々と調べてみると、「These are the most powerful languages in the world」というページをみつけました。
    これは結構おもしろくて、単に言語を使う人数という視点だけでなく、複数の視点から言語をランキングしたものです。具体的には、旅行先でどの程度の範囲で言語が通じるか、その言語圏でのGDPや総輸出額、コミュニケーション力、その言語での情報量やアカデミック論文など、国際関係での外交的な力などをまとめた視点です。

     

    それによると、言語圏人口では中国語が世界最多ですが、この順位では2位に後退し、1位は英語になっています。以下、フランス語、スペイン語と続き、5位にアラビア語、6位がロシア語で、7位にドイツ語となっています。日本語は次の8位です。9位がポルトガル語、10位がヒンドゥー語です。

     

    この順位を見ると、日本語はトップ10に入っていますから、英語が話せないコンプレックスなど、どうでも良い気にもなります。ただ、そのコンプレックスがないと英会話スクールが成り立たないですし、「国際的」=「英語」という幻想で商売している市場も巨大なので、それはそれ、ということでしょうか。
    ところで、この順位には登場しませんが話者の数としては3億人弱を誇る言語があります。
    それがベンガル語です。
    バングラデシュと隣接するインドの西ベンガル州や、その周辺地域で話されている言語ですが、とにかくこの地域は人口が多いため、総数でもベスト10に入ってもおかしくないのです。
    ヒンドゥー語の話者も5億人弱と多いですから、インド周辺地域の言語と13億人以上の中国語をあわせると、それだけで世界言語の大部分を抑えることになるのかもしれません。

     

    それぞれの言語で「ワイン」をどのようにいうのか調べてみるのも大変ですし、そもそもワインを飲む習慣がなかったりする地域もあります。それでもワイン文化が根付いている地域の「ワイン」をどのように表現するのかは、ワイン好きなら知っていても良い気がします。

     

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